森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

エルトン・ジョン「君の歌は僕の歌(Your Song)」の昭和・平成・令和のカバー10曲を聴き比べてみた!〜映画『ロケットマン』公開記念

エルトン・ジョン本人が監修した伝記映画『ロケットマン』が大ヒットしてますね。

 

 

エルトン・ジョンといえば、1970年から現在に至るまで、数々の名曲と数々の奇行でイギリスをはじめ全世界をの注目を集めてきたスーパースター。

 

この映画『ロケットマン』は、そんな数々の名曲と数々の奇行の影にあったエルトン・ジョンの成長や苦悩、家族や友人との関係をミュージカル仕立てで描いている。

 

数々の名曲のなかでも特にずば抜けて有名なのが「Your Song」。

映画でも描かれているように、この曲は作詞担当の盟友バーニーから歌詞をもらったエルトンが、その場で一気に書き上げたらしい。

 

日本でも、「君の歌は僕の歌」という邦題で昔から好まれてきた曲。

特に、歌いこなすためにはそれなりの技量が求められるこの曲は、歌唱力に自信のある歌手にたびたび取り上げられてきた。

そしてまた映画『ロケットマン』をきっかけに、新たなファンがこの曲を知ることに。

 

そこで今日は、昭和〜平成〜令和を股にかけて、日本人による「君の歌は僕の歌(Your Song)」のカバー10曲を聴き比べてみます。

あえて時系列はバラバラにしたよ。

 

山崎まさよし

山崎まさよしについて好き嫌いは否めないという人でも、「Your Song」を嫌いという人はあまりいないかも。 

2007年リリースのカバーアルバムで「イングリッシュマン・イン・ニューヨーク」「デイ・ドリーム・ビリーバー」などのド定番と一緒に取り上げられている。

ご本人いわく「素材の美味しさをそのままに」ということで、あのズルい声とアコギ、ストリングスという編成でしっとりカバー。

COVER ALL-YO!

COVER ALL-YO!

 

 

BENI

2004年、安良城紅としてデビューしその後BENIに改名。

2008年に童子Tの「もう一度… feat.BENI」で着うたダウンロードナンバー1になったり、サッカーの国際試合の試合開始前に「君が代」を歌ったりと、歌唱力に定評のあるR&Bディーヴァ。

 

この方が2013年のソニー生命のTVCMで「Your Song」をカバーしてる。

保険のCMってだいたい、結局はお金の話っていう世界を極限まで「きれいごと」のオブラートでくるんで作られてるわけで、「Your Song」の誠実そうなたたずまいは最高のオブラートとして機能していてすばらしい。

帰国子女なので歌詞はもちろん原曲どおり。

 

 

 

藤田恵美

藤田恵美と言われてもピンとこないかもですが、「ひだまりの詩」で1997年の紅白歌合戦にも出場した夫婦デュオ、ル・クプルの方です。

ル・クプルを解散し離婚もされた後の2010年にリリースしたカバーアルバムで、「Your Song」を取り上げてる。

このアルバムがきっかけでアジア圏でブレイクしたらしい。

老人と子供のポルカ」の子供コーラスとして歌手デビューし、最初は演歌歌手、そしてル・クプルを経てソロにという数奇な運命はまだ継続中。

 

ジローズ

1971年の「戦争を知らない子供たち」でおなじみのフォーク・グループ。

高石ともや岡林信康フォーク・クルセダーズなどを中心に独特のシーンを形成していたいわゆる関西フォークのシーンから登場したジローズが、1972年の解散コンサートで「Your Song」をカバー。表記は「君の唄は僕の唄」となっている。  歌詞は原曲どおり。

ギター2本のシンプルな編成ながらわりとテクい演奏で、当時の京都の大学生あがりのミュージシャンのレベルの高さがうかがえる。

 

 

 

ABC Project feat. 巡音ルカ

2010年前後、ニコニコ動画を中心に隆盛を誇ったヴォーカロイド。

その中でも英語の発音がよいと定評があった巡音ルカを使って、2011年に洋楽カバーアルバムがリリースされた。

「見つめていたい」「タイム・アフター・タイム」「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」などド定番のトラックリストに、「君の歌は僕の歌」の名前も。

今となっては懐かしさすら感じさせるヴォーカロイドの質感。

 

 

 

みやぞん

映画『ロケットマン』の流れで発表された、レディー・ガガエド・シーランやコールドプレイなど豪華メンツが参加のエルトン・ジョンのカバーアルバム。

そのアルバムの宣伝のため、なぜか芸人みやぞんがピアノでこの曲をカバーした動画が作成された。

レディー・ガガの「Your Song」をそのまま使えばいいように思うんだけど、最近の映画の宣伝と同じ感じで、洋楽に興味がない層にアピールするための仕掛けだったりするんだろうか。

おかげで日本語カバーのコレクションがひとつ増えたので、どこか知らないけど代理店には個人的にお礼を言いたい。

www.youtube.com

 

NICOTINE

日本を代表するメロディック・パンクバンドのひとつ。

このジャンルにおいては、伝統的に過去のポップソングをパンクアレンジでカバーする風習がある。

ハイ・スタンダードがベイ・シティ・ローラーズエルビス・プレスリーをカバーした頃までは、おっさん世代の曲をハックする感覚というか批評精神みたいなものがあった気がする。

それ以降はどうなってるかよくわかりませんが、2004年リリースの全曲カバーというこのアルバムには、「Your Song」のどパンクなカバーが収録されてる。

DISCOVERED

DISCOVERED

 

 

ガガガSP

日本のパンクバンドによるカバーもう1曲。

神戸出身のガガガSPは、2000年頃のいわゆる「青春パンク」のブームで人気を博したバンドのひとつだが、当時流行ったフォークソングのカバーの中でも他のバンドが割と上っ面な選曲なのに対して、高田渡自衛隊に入ろう」を取り上げるなど一味違う感じがした。アルバムタイトルも岡林信康オマージュだったし。

で、2002年のアルバムで「君の歌は僕の歌なのさ」というタイトルで日本語カバー。青春パンクの面目躍如といった甘酸っぱい歌詞が印象的。

 

 

五輪真弓

1980年の「恋人よ」のメガヒットで有名なシンガー・ソングライター

しかしそれ以前は「和製キャロル・キング」とでもいうべき作風で、かっこいい曲多数。機会があればぜひチェックしてほしい。

2003年にリリースされたカバーアルバムで「Your Song」をカバー。本人による日本語の歌詞は、原曲のメッセージを活かしつつ直訳ではない独自の内容に。

 

動画は、歌番組(詳細不明)での清水ミチコとの共演。

 

 

 

田中星児

「ビューティフル・サンデー」の日本語カバーの大ヒットで有名な田中星児は、現在も続くNHKおかあさんといっしょ」の初代うたのお兄さんでもある。

また1970年からNHKで放送されていた「ステージ101」という音楽番組のレギュラー出演者でもあり、 その番組で洋楽の日本語カバーをたくさん歌っていた。

その中の1曲として「君の歌は僕の歌」をしっとりと歌い上げている。

岡田冨美子による日本語詞は、「もしも僕が○○だったら〜でも僕にできるのはこの歌を作ることだけ」という原曲の骨子を残しつつ想像力をさらに展開させてる内容。

後にソフトロック文脈で再評価されたステージ101の編曲がまたいい感じ。

 

 

まとめ

いかがだったでしょうか。

時代を超えて愛される名曲だなってことと、だいたいみんな余計なことはせず素材の味をそのまま活かしてカバーしてるんだなって思いました。

上記以外にも西野カナミスチルもカバーしたという情報もあるし、まだまだありそう。

 

書評:『80年代音楽解体新書』スージー鈴木

音楽は魔法というより科学に近い

最近読んだ本のなかでかなり刺激を受けたのが、「80年代音楽解体新書」という、音楽評論家のスージー鈴木さんがウェブで連載していたものを一冊にまとめたもの。

 

80年代音楽解体新書 (フィギュール彩 ? 1)

80年代音楽解体新書 (フィギュール彩 Ⅱ 1)

 

 

この本の魅力をひとことでいうと、音楽は魔法というより科学に近いんだってことを教えてくれるところです。

 

これまでの音楽評論は、音楽が魔法であるかのように語ってきすぎたんだと思う。

悩み多き環境で育って常人とは違う感性をもった天才が、「降りてきた」メロディを紡いで、常人には理解の及ばない工程を経てレコードになっている、かのような。

 

それに対して、この本の著者であるスージー鈴木さんは、音楽というのは実はいくつかの要素の組み合わせであり、その要素は再現可能だったりするということを説こうとしている。

再現可能っていうのはつまり、数百万円するビンテージもののレスポールであろうが音楽室のボロボロのガットギターであろうが、sus4のコードを弾けば同じ響きが得られるということ。ティン・パン・アレイを従えた荒井由実であろうが駅前のビッグエコーにたむろする女子高生であろうが、歌の途中で半音上に転調したときの高揚感は同じだということ。

 

科学の世界においても、論文に書かれた実験結果は、誰がやっても同じ結果になるからこそエビデンスとして採用してもらえる(STAP細胞には再現性がなかった)わけで。

それに対して、魔法っていうのは工程がブラックボックスだし再現性がなく、属人的。

 

長らく音楽というのはそういう魔法っぽいものだとして語られてきたんだけど、ではなぜスージーさんは音楽評論を科学として語ることができているのか。

他の人はそれをやらない(やれない)のか。

 

ミュージシャン同士はどんな言葉で話しているか 

思えば自分が中高生の頃はインターネットもなく、おもにラジオや音楽雑誌で情報を仕入れていたもんだった。

音楽雑誌では、「ジェネレーションX世代のアイデンティティのゆらぎを象徴するかのようなダウナーな音像」みたいな言葉で新譜が紹介されていて、よくわからないなりにそういうもんかと思って聴いていた。

 

だけど、やがて自分で楽器を手にして、またバンドを組んで活動してくようになると、それまではひとつの音の塊としてしか聴こえていなかった楽曲が、ひとつひとつの楽器がどんなフレーズを弾いているのかバラバラに聴こえるようになり、リズムに対する解像度が上がり、コード進行に仕掛けられた工夫がわかるようになり、プレイヤーの技術でどれぐらい違いが出るのかがわかるようになってくる。

 

そうやって音楽の作り手としての言葉をどんどん獲得していったことで、ミュージシャン同士で音楽について話すときもそういうボキャブラリーが主になってくる。

「あの曲じつは間奏で転調してる」「上のコードが変わっててもベースだけずっと同じフレーズ弾いてる」「あのベーシストの前のめりなリズム感いいね」みたいな。

 

機材、コード進行、リズムのとり方など、それぞれに興味のある範囲は違っていても、音楽雑誌に書かれているような話よりも断然具体的だし客観的だしロジカル。

つまり科学。

 

ごく一部の詩人タイプのヴォーカリストとかを除けば、ほとんどのミュージシャンはどちらかというと自分を魔法使いだと思っておらず、作品に込めた思いとかよりも、レコーディングの機材のことや作曲やアレンジで工夫したことを話すほうが楽しい科学者タイプだったりする。

 

既存の音楽評論が音楽を魔法扱いしてきたわけ

音楽を構成するいろんなパーツは、それぞれ個々に見ていくと純然たる科学の領域なんだけど、これまで音楽評論ってそういうところをあまり語ってこなかった。

 

もちろん、アーティストのパーソナルな部分を掘り下げて記事にすることも大事だと思うし、そういうの読むのも好きなんだけど、それだけだと伝わるのは音楽の楽しさの半分かそれ以下じゃないかと思う。

 

ではなぜ、今までの日本の(もしかしたら世界の)音楽評論はそうなのか。

ミュージシャン同士が話すときのボキャブラリーと、雑誌に書かれているボキャブラリーが全然違うのか。

 

ものすごく意地悪な言い方をすれば、ミュージシャンに憧れたけどギターに挫折してライターになった人たちが中心になって雑誌を作ってきたからではないか。

 

「俺はギターは弾けないけど、言葉の力でこの音楽の魅力を伝えてみせる!」みたいなモチベーションでやってるんだとしたら、その心意気はすばらしいとしても、ギタリストなら当然わかることがわかっていないままにギターのことを語っているってことになる。厨房に立ったことがない料理評論家みたいな状態。

 

いや、さすがにそんなことはなくて、音楽評論家たちだって専門的な話も理解できているんだけど、ただ読者はそんな難しい話についてこれないからあえて、っていうことかもしれない。

コードの話は楽器やってないとわからないけど、歌詞の話は日本語話者ならみんなわかるから。

 

しかし、もしそうだとしても、もう少し努力はしてきてもよかったのではないかと思う。楽器を弾かない読者にも、この曲がなんで新鮮な響きになっているのか伝える方法はあるんじゃないかって。ちょっと既存の音楽評論はそこの努力を怠りすぎではないか。

 

その点スージーさんは、楽器をやったことがない多くの読者にどうすれば伝わるか、たとえば音階の説明はすべてコードをCに置き換えてドレミファソで書くとか、「後ろ髪進行」みたいな感じでそのコード進行が生む効果をキャッチーに命名するとか、可能な限り平易にする工夫がなされている。

 

その結果、「80年代音楽解体新書」はコードやメロディの話をいっぱいしてるけど、楽器の経験がなくても、ギターを挫折した人でも、だいたい理解できるレベルになってるんじゃないでしょうか。

 

個別には再現可能な要素たちの再現不可能な組み合わせ

音楽を構成するいろんなパーツの多くは科学の領域。

 

ただ、各要素を最終的にどんなブレンドにするかは作り手のさじ加減であり、たとえばどこまでやんちゃなギターを弾くかとか、どこまでナンセンスな言葉を連ねるかとか、あえて引っかかるコードを配置するかとか、そういう細かい判断の積み重ねの上に楽曲が成り立っている。

 

さらに、本人の意図しないところで、1986年ならアリだけど1990年にはもう古臭いとかいった事情だとか、震災以降のムードに合致してるだとか、誰がプロデュースしたかとか、そういった事柄も多分に影響する。

 

そういった、個別には再現可能な要素たちの再現不可能な組み合わせ。そして本人にコントロールできない追い風(または向かい風)が複雑に影響しあって、ある曲が売れたり売れなかったりするわけ。

 

あの売れた曲の感じでもう一曲たのみますとか言われても、あの曲を作っていた当時の謎のテンションが再現できないので、同じような要素を組み合わせてるつもりでもどうにも勢いが出ない、みたいなことはよくある。何も考えないで書きなぐった歌詞や、よく考えたら不自然で不必要なコード進行、実はコードからはみ出してるメロディ、みたいなことは再現できない。

多くのアーティストがデビュー・アルバムを超えられないっていうのも、一発屋一発屋であるゆえんも、まさにそういうことだとも思う。

 

自分なんかはむしろそういう文脈だとか背景をとっかかりにして音楽を味わうのが好きなタイプ。個別には再現可能な要素たちの再現不可能な組み合わせにものすごくロマンを感じちゃう。

 

この「80年代音楽解体新書」でいうと、松田聖子の声のピーク、阿久悠が時代とズレてきたこと、若き山下達郎の生意気さ、大村雅朗が無敵だった瞬間、佐野元春に刺激された沢田研二など。

そういった再現不可能な要素が楽曲にどのように影響を及ぼしたのか、みたいなあたりも、たっぷり描写されている。

 

 

つまりこの「80年代音楽解体新書」は、音楽を一旦バラバラに解体して、再現性のある科学にした後、それらのいわば誰にでも使えるパーツを天才たちが扱うととんでもない作品が生まれるんだということを、わかりやすく教えてくれる。

そしていかに天才であっても、本人にコントロールできない要素が奇跡的に組み合わさることではじめて、後世に語り継がれる名曲を残すことができたんだということも。

 

帯でマキタスポーツさんも書いてるとおり、音楽評論はスージー鈴木以前以降で分けられると思う。

 

書評:『メタル脳 天才は残酷な音楽を好む』中野信子

科学ネタとして消費されるヘヴィメタル

Twitterとかでよく流れてくる、好きな音楽ジャンルによって性格がわかるとか、音楽を聴かせるとワインがおいしくなったとか、そういうアカデミックな装いをした記事あるでしょ。

だいたいそういう記事においては、メタルとクラシックとヒップホップとEDMなんかを比較した感じになっていて、「メタルのような音楽を好むタイプはこんな傾向が…」または「パブリックイメージとは違って案外メタル好きは‥」みたいな語り口になってるじゃないですか。

 

そういう記事を掲載するウェブメディアにとって、粗野で過激で頭悪そうなヘヴィメタルのパブリックイメージと、それを裏付ける or 覆すような意外な研究報告って、まあPV稼ぐのにもってこいのネタなんでしょうね。

 

ヘヴィ・メタル、自動車の運転に悪影響を及ぼすという新たな研究結果が明らかに | NME Japan

 

「ヘヴィメタルは死と向き合う助けになる」という研究結果 | ギズモード・ジャパン

 

【研究報告】男性ホルモンの多い男はソフトロックやヘビーメタルがお好き | BUZZAP!(バザップ!)

 

ヘビメタファンの性格を英大学が調査「彼らは権威を嫌い、自尊心が低い」 - ライブドアニュース

 

タイトルに興味をひかれて思わずタップして読みにいった経験は誰でもあるはず。

それがもし「R&Bのファンは…」っていう記事だったら果たしてどれほどの人が読もうとするかと考えると、まあキャッチーでおいしい路線を見つけたなって思うよ。

 

ただそこに愛を感じることはほぼなく、まあお手軽に消費されてるなって感じしかないけど。

 

 

「メタル脳 天才は残酷な音楽を好む」

そんな風潮にあやかったのかどうか、こんな本が出版された。

メタル脳 天才は残酷な音楽を好む

メタル脳 天才は残酷な音楽を好む

近年いろんなメディアでひっぱりだこの脳科学者、中野信子さんの著書ですね。

 

さっき挙げたような一連の記事で、科学ネタとしてのメタルのキャッチーさは認識されているし、そこそこ売れる確信があって世に出されたんだろうなという気はする。

 

個人的にはどうしても嫌な予感があったけどね。

どうせまたあの雑な感じで消費するんでしょって。

 

せいぜい揚げ足とってやろうかというぐらいの気持ちで手に取ったのだった。

 

そしたらですね、パラパラとめくったら章の終わりごとに著者が好きなメタルバンドを写真つきで紹介するページがあって、しかもカーカスみたいなエクストリームな音のバンドまで登場してるじゃないか。

 

さらにプロローグを読んでみたら、中野さんかなりのメタル好きとのこと。思春期の不安定で鬱々としたメンタルをメタルによってだいぶ救われたみたいなことを仰ってる。

 

これは失礼しましたって話で、さっきの先入観を捨ててかからないとダメだなと思った。

本当にメタルが好きな人が書いてるのであり、そして脳科学者の看板を掲げて堂々と書いてると。
そこらの出どころの怪しい3流ウェブメディアの飛ばし記事とは違って、適当なことはしていないであろうと。

これはってことで、さっそく腰を据えて本編を読み始めたのだった。

 

威勢のいい看板と慎重な書きぶりのギャップ

「メタル脳」は、帯に「モーツァルトよりメタリカを聴け」と書かれているとおり、メタルを聴くことが他のジャンルと比べてどれだけ脳に良いかを専門家として語っている本。

 

見出しのタイトルを読むだけで、「メタルを聴くと頭が良くなる」「メタルは反社会的ではなく非社会的」「内向性が高い人はメタル好き」などとあって興味深い。
「メタルは世界の欺瞞を見抜く」とまで言われたらそりゃ気になりますわな。

 

メタルに支えられて10代を過ごした人なんだし、よもや雑に扱ったり貶めたりしていないだろうという信頼感もあるしね。

 

ところが、いざ読んでみると「可能性があると言えます」とか「メタルである必要性は〜必ずしもありませんが」みたいな慎重な書きぶりがやけに目立つ。
「メタルを聴くと頭が良くなる」っていう大上段にかまえた章でも、結局「これはあくまでわたしの推論ですが」かよっていう。
なんていうか、慎重っていうかむしろ腰が引けてるような。

 

メタルを安易に科学ネタとして消費してるウェブ記事を読んだときに誰もが感じる「それってメタルじゃなくても大音量の音楽だったらなんでもよくね?」とか「この話のキモってメタルだからってことじゃなくて好きな音楽を聴いたらどうなるかってことでは?」みたいなツッコミどころが、残念ながらこの本にも散見されるわけですよ。

 

そこで妄想

全編にわたってそんな感じで、威勢のいい看板と慎重な書きぶりのギャップが目立つわけ。

これ、もしかしてだけどこんなやり取りで書かれた本なのではないかって妄想したくもなるよね。

 

編集者「中野先生!なんかないすか、ヘビメタ聴いたら賢くなるみたいなやつ、ないすか」

中野さん「なにをもって『賢い』とするかもいろいろありますよね、うーん…」

 

編集者「あのほら、ヘビメタのライブに来る人ってすごく暴れたりして怖い感じしますけど、ああいうのが実は…みたいなのあります?カラオケでストレス発散のすごいバージョンみたいなやつとか?

中野さん「(いや、カラオケと比較…さすがにそのまんますぎて書けないな、わたしは暴れるタイプでもないし…どうしよ)」

編集者「うーん、ほら、なんか実は脳の特定の部位がこうビビッときてるんだとかそういう」

中野さん「ああ、たとえばライブではCDでは出ていない可聴域の音が出ていて、それを耳だけじゃなく皮膚でも感じることで、オキシトシンが分泌されるというのはあるかもしれないですね」

編集者「おお!そういうのですそういうの!」

中野さん「ただ可聴域の話だと別にヘヴィメタルに限らずライブ全般に当てはまっちゃいますけどね」

編集者「いやいやいや!いいじゃないですか!そういうのもっとください!」

中野さん「(これも書きぶりでバランスとらないとな…)」

編集者「あのほら、ライブですっごい頭を振るやつなんでしたっけ?あれは脳にいいんですか?」

中野さん「ヘッドバンギングですね。いや、特にそういう話は聞いたことないですね」

編集者「なんかそういうことにできないですかね?血行が良くなってとかでも」

中野さん「むしろちょっと脳損傷のリスクがあるので推奨できないです、すみません」

編集者「(チッ)」

 

みたいな感じで作られていったのではないかと邪推してしまう。

タイトルで強めの断言をした後に本文でフォローするパターンが何箇所か見られるのは、その押し引きの痕跡かなと。

 

 

強い気持ち強い愛

ただこれ、文化人気取りの学者が数時間ぐらい語りおろしたものを編集者が文字起こしして適当にまとめたような安易な本っていうわけでもなさそう。

 

中野さんにとってメタルが切実なテーマであることはビシバシ伝わってくるし、むしろ脳科学の知見に基づいて語っている部分よりも、実体験から組み立てられた論のほうが説得力が桁違い。

 

たとえば、メタルファンはニセモノを憎む気持ちが強いとか、世間のみんなが付和雷同で飛びついているものにノレないとか、そういう傾向を深堀りして説いていく第4章などは、面目躍如といったおもむき。

(世界的にポピュリズムの流れが強まっているこの時代、安易に尻馬に乗らず欺瞞を見抜くメタルファンの特性が重要になってくるとのことです!)

 

それは、鬱々としていた10代のあの頃、メタルを聴くことで「別に孤立していても構わないのだ」という安心感を得られたと語る第1章と呼応しているかのようで、エビデンスに基づいた説得力というよりも、実体験に基づく思いの強さがとにかく伝わってくる。

 

強い気持ち、強い愛。今のこの気持ち、ほんとだよね。

 

ハロウィンは犬臭い

本書でも言及されてるけど、どんな音楽を好むかでその人がわかるっていう。
それでいうと、会ったことないけど中野さんのことをすごく好ましく感じた。

 

カーカスのような複雑な構造のバンドが好きだけど、ハロウィンはなんだか「犬臭い」感じがして好きになれなかったとか、ロブ・ハルフォードのメタリックで「なめらか」な質感の声は好きだけど、サミー・ヘイガーやデヴィッド・カヴァーデイルの声が苦手だとか、自分語りがさらに脱線したところに垣間見えるかわいげ。

 

そしてグイグイくる編集者(妄想です)に対して、社会人としての大人の対応と学者としての誠実さの板挟み(妄想です)でバランスをとってがんばる姿(妄想です)も素敵。

 

そして何より、世間が顔をしかめるような音楽に傾倒することで自分をどうにか保とうとしていたという件への共感がすごい。

 

高3の秋にマイケル・モンローのデモリッション23の来日公演を一緒に見た京都の高偏差値女子校のあの子、今頃どうしてるかなとか思い出したりもした。

 

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この曲の歌詞を覚えて来日公演のとき歌ってたあの子。

ロシアンルーレット・セックス!」って大声で合唱した姿が今でも忘れられない。

 

「科学的に証明されています」

サラリーなマンとしての仕事柄、いろんなデータを分析して何らかの結論を出すっていうことを日常的にやってる。

 

もともとそういう定量的な分析からこぼれ落ちるものに興味があった人間だってこともあり、グラフだの関数だのはすごい苦手だったけど、いまじゃBigQueryも使えるようになった。

 

その経験から言えるんだけど、「科学的に証明されています」とか「データによると」ほど胡散臭いものはない。

けっこうなんとでもなるんだなって。

 

いい加減な分析をもっていっても突っ込まれるかどうかなんて、結果を見る側(上司とか教授とか読者とか)の能力にめっちゃ依存する。

だいたいみんな忙しいし、ザルだよね。

 

「メタルが好きな人は◯◯だ」も、「メタルを聴くと◯◯になる」も、まずは疑ってかかったほうがいいと思う。

最低限、それってメタルじゃなくても成り立つのでは?と考えてみるといいと思います。

 

さらにいうと、その「メタル」は具体的に何なのか?

デフ・レパードとブルータル・トゥルースでは全然話が変わってくるぞと。

「カレーの王子様」と「LEE 40倍」をどちらもカレーでしょって言って何かを語ろうとするやつが信用できないのと同じだぞと。

そこまで指摘できるといいと思います。

 

メタルを聴くとそういったリテラシーを養えます。脳科学的に証明されています。

 

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クルアンビンの分子が分母を凌駕しそうです【フジロック2019レポート】

フジロックに行ってきた

今年も行ってきました。

あの1997年以来、22年連続になります。

(詳しくはこの記事をあとで読んでいただくとして)


今年も最終日だけどうしても行きたくて家族に無理を言って出てきた。

昼から深夜までほぼ休みなく見まくったライブは、通りすがりも含めるとこちらの13組。

渋さ知らズオーケストラ〜monaural mini plug〜Paradise Bangkok Molam international band〜HIATUS KAIYOTE〜HYUKOH〜VAUDOU GAME〜柳家睦とラットボーンズ〜toe〜KHRUANGBIN〜THE CURE平賀さち枝とホームカミングス〜Night Tempo〜the comet is coming〜QUANTIC

 

ちょっとガツガツしすぎかと自分でも思ったけど、ここまで好みのラインナップを並べられたらしゃあない。 

今年のフジロック最終日、とにかく国際色豊かだったんすよね。

 

アフリカにルーツがあるVAUDOU GAME、タイからやってきたParadise Bangkok Molam international band、韓国からHYUKOHとNight Tempo、オーストラリアのHIATUS KAIYOTE。

Quanticは英国人だけど南米の音楽をベースにした音楽をつくる人だし、渋さ知らズは日本人だけど雑多な音楽性の核のひとつに東欧のジプシーブラスが間違いなくあるし。

タイミングが合わず見れなかったけどモンゴルのHANGGAIやキューバのINTERACTIVOも出演していた。

 

こんな具合で、ほんとに世界中から非英米のアーティストがたくさん集められていたのが今年のフジロック最終日の特徴。

 

グローカル

ここ50年以上、日本において「ロック」といえばイギリスとアメリカのバンドが中心で、そこに国産がどれぐらいの比率でブレンドされるかっていう感じだった。

 

ところが近年徐々にそうでもなくなってきてる。

アジアをはじめ世界中のいろんな国々が豊かになってきて、それぞれの土地で国産のポップカルチャーを生み出せるようになってきて、特に若者人口が増えてるところだと切磋琢磨されてレベルもどんどん上がってきてて。

要するに60〜70年代ぐらいの日本みたいなモードになったばかりの国がたくさんある。

 

そういう国々で、ハウスやEDMやロックといったユニバーサルな音楽スタイルに現地好みの要素をブレンドしていくことで、オリジナルなダンスミュージックやバンドサウンドが同時多発的に生まれてきている。

 

一方でインターネットの発達により、各地のローカルな国産ポップミュージックに避けがたく滲んでくる土地柄みたいなものが、世界中のリスナーにおもしろがられるっていう現象が発生している。

 

世界各地のローカル音楽をおもしろがることで有名になったのがDiploでありQuanticであり、日本だとサラーム海上高野政所といった人たち。

ここ10年ぐらいのそういう動きによって見いだされた音楽やカルチャーのことは、グローバルとローカルと組み合わせた「グローカル」っていう言葉で表現されたりする。

 

フジロック最終日のキーワードはタイ

国際色豊かだった今年のフジロック最終日において、特に濃いめに色づけされていたのがタイのモーラム/ルークトゥン系。

 

モーラムやルークトゥンっていうのは、タイ(特に北部イサーン地方)で古くから好まれてきた歌謡曲のような音楽で、現在に至るまで独自の発展を遂げながら地元で愛されてきていた。

 

それを2010年代に海外の好事家が発見し、地元で流通していたレコードをディグしまくってCD化して世界に紹介したところ、そのクセのあるいなたいグルーヴに世界中(の一部)が夢中になった。

 

 

 

 

日本においても、soi48というDJチームがタイ音楽の魅力を発信していたり、空族の人たちが現地に長期滞在してつくりあげた映画「バンコクナイツ」でも大々的に使用されるなどして、好事家のあいだで広まっていってる。

 

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今年のフジロック最終日には、そんな世界的なモーラム/ルークトゥンブームを代表するような3組のアーティストが出演した。

 

まず日本のmonoral mini plagというバンドは、現地の冠婚葬祭のパレードで演奏するバンドのスタイルを完コピし、機動力あふれる演奏をする。
使う楽器は完全に現地のそれなんだけど、センスがDJ以降って感じで洗練されており、つまり最高。

 

1時間ぐらいは軽く踊らされる。

 

タイムテーブル上、monoral mini plagのすぐ後の時間帯にヘブンに登場したのがParadice Bangkok Molam International Band。こちらは本場タイからやってきたバンドで、モーラムの伝統楽器にファンクなベースとドラムを合わせることで、モーラムを知らない人にも踊りやすい感じになっている。

 

これはちょっとおもしろいなと思っていて、日本人であるmonoral mini plagが現地スタイルの完コピにこだわってる一方で、タイ人のPadice~のほうはグローバルで通じるスタイルに寄せていってるという。このねじれは示唆的。

 

ただ、個人的にはParadice~のグローバルひと工夫は余計なお世話に感じてしまう点が多々あった。これは自分がすでにモーラム耳ができているためで、「バスドラとかなくても踊れるっしょ!」ってなってるからだと思われ、ほとんどの人にとっては、Paradice~さんの工夫は効果を発揮していたであろう。
なのでPadarice~のみなさんはこんな意見は参考にしなくても大丈夫なので気にしないでください。

 

そして、フォールドオブヘブンのトリをとったのが、アメリカからやってきたクルアンビン(KHRUANGBIN)。

この日もっともみたかったバンドなのです。

 

クルアンビンとの出会い

クルアンビンはタイ語で飛行機という意味の言葉らしい。
タイ・ファンクに魅せられたアメリカ人のバンド。


タイ・ファンクってのがどのあたりのことか定かではないけど、前述したモーラムの70年代ぐらいのモードのことかなと。

 

 

 

 

たしか最初はTwitterで誰かが絶賛していたことがきっかけで知ったんだと思う。
絶妙のけだるい温度感やエキゾチックでサイケなギターがクセになってよく聴いてた。

 

ただ、無愛想なジャケと淡々としたサウンドから、白人音楽オタクによる宅録みたいな個人プロジェクトでやってる音だと勝手に思い込んでいたんだよね。

 

ところが、今年のコーチェラ・フェスに出演するっていうから中継動画を観てみたら驚いた。

 

https://cdn.fujirockfestival.com/smash/artist/5212.jpg

 

音楽オタクどころか、必要以上にキャラ立ちしたルックス!
そしてキレのあるギター、セクシーなベース、安定感のあるドラム。

 

音源と見た目のギャップも含めて完全にやられてしまい、フジロックに出るっていうのでとても楽しみにしていたのだった。

 

現地で感じたこと

当日のフィールド・オブ・ヘブン。
裏ではTHE CUREがやってる時間帯。

 

各ステージでヘッドライナーがやってるにもかかわらず、思っていた以上にたくさんの人がクルアンビンを楽しみにしてステージ前に集まっていた。

ちょっとびっくりした。

 

言うたらさ、70年代のタイの音楽に影響を受けたアメリカ人のバンドなんて、めっちゃニッチな存在じゃないですか。

いろんな音楽をひととおり聴いてきた結果、もはやこのあたりの音じゃないと興奮できないのよっていう、ちょっとしたフェチな存在のはず。

それが、ここまで多くの人に待たれているという現実。

 

すぐ近くでライブ開始を待っていた女性の立ち話が聞こえてきたんだけど、いわく「立ってるの疲れたわ、3年前はKANA-BOONの最前列いけてたのに」とのこと!ちょっとぶっ飛ばされた実話。

そういう人たちまでがクルアンビンに夢中なのか!

 

で、いざライブがはじまると、音源以上にいい湯加減のメロウなグルーヴがたまらないわけです。3人とも演奏うまい。

 

それと、ライブの運びのうまさがとにかく印象的で。
曲に入るときのタメのつくり方、ちょっとファニーな演出、曲中の緩急のつけ方。そういったもろもろがとにかく達者なの。

であのルックスでしょ。

 

ものすごくマニアックな音と、ものすごくキャッチーな3人の存在感。
そのギャップに釘付けになった、夢のような1時間半だった。

 

 

 

分子が分母を凌駕しそう

故・大瀧詠一氏が提唱し、マキタスポーツさんや矢野利裕くんも援用する、音楽の「分母分子論」という見立て方があって。

 

すべてのJ-POPはパクリである (扶桑社文庫)

すべてのJ-POPはパクリである (扶桑社文庫)

 

 

マキタさんの「すべてのJ-POPはパクリである」では、規格(=音楽のスタイル)を分母、人格(=アーティストのキャラクター)を分子ととらえ、すべてのJ-POPはこの構造で読み解くことができるとしている。

そして、分母分の分子が合致すればするほどオリジナリティが高い状態で、逆にここが意図的にズレた状態をつくることで違和感やおかしみが生じてコミックソングがつくりやすいという。

 

フジロックでのクルアンビンのライブを見ていて思い浮かんだのが、この分母分子論。

 

つまりクルアンビンとは、タイ・ファンクというフレッシュかつマニアックな規格(分母)の上に、メンバーのキャラクターという人格(分子)が乗っかっている状態であると。

 

分母と分子が合致しているからこそのこの人気なのか、それとも分母と分子がズレてる違和感が評判を生んでいるのか、それはわからないけど。後者かな。

自分としても、分子を知らない状態で音を聴いたときに分母のみで感じた先入観が、実物を目にしたときに良い意味でめっちゃ裏切られたわけで。

 

 

さらに、言ってしまえばタイ・ファンクなんていう規格(分母)はそこまでのポピュラリティがある乗り物ではないわけで、3人の身体性やキャラクターという分子のほうがもはや大きくなってきてしまっているのが現在のクルアンビンなのではないか。

そして本人たちもうすうす乗り物の小ささを窮屈に感じはじめているのではないか。

 

ライブで披露されたYMOの「Firecracker」やディック・デイル「ミザルー」などのカバーの選曲も、窮屈さを感じていることをあらわしてるんじゃないかと邪推してしまう。

 

「Firecracker」はもともとマーティン・デニー楽団による曲で、つまり欧米人によるなんちゃって中華の楽曲。それを東洋人であるYMOテクノサウンドでカバーしたっていう批評的な手口がかっこいいやつ。

 

「ミザルー」はご存じ映画「パルプ・フィクション」のサントラでも印象的なサーフィンミュージックの代表的な曲なんだけど、もともとはギリシャやトルコあたりで昔からある曲で、演奏しているディック・デイルは中東レバノンにルーツがある人。音階はいわゆる西洋のものとはだいぶ違う感じ。

 

こうした西洋人からみたエキゾ感がある曲をとりあげることで、クルアンビンというバンドのあり方とも通じるおもしろさを感じる一方で、同時に、タイファンクという軸からエキゾという価値観に沿って少しずつ守備範囲を広げようとする試みなのかもという感じもする。

 

これらのカバー以外にも、曲の中で明らかに演歌っぽいスケールのギターを弾いた瞬間もあって驚かされたり。

とにかく、分母を広げるのか深めるのかみたいなところで試行錯誤していることを感じるライブだった。

 

今後、クルアンビンがどっちの方向に流れていくのかわからないし、案外ふつうのメロウグルーヴな路線に落ち着いていってさらに売れるとかの可能性もあるけど、どうなろうとも3人のミュージシャン力やキャラ立ちはかなりの強度があるので大丈夫でしょう。たのしみですね。

走るひきこもりが日本語カバーに救われた話

ただのバンドマンくずれの会社員であるハシノが、今のような書いたりしゃべったりという活動の場を得たのは、マキタスポーツさんのラジオ番組がきっかけ。

 

ラジオ日本「ラジオはたらくおじさん」という番組で「カバー曲特集」のオンエア時、リアルタイムでハッシュタグでつぶやきまくっていたら、「そんなに詳しいならゲストで出てみる?」と声をかけていただいたのです(それ以前にはお互いのバンドで何度か対バンしていた程度)。

 

そして気づけば「非常勤講師」という名の準レギュラーとして何度か番組に呼んでいただき、番組終了後もそのときの縁からLL教室が結成されて現在に至るというわけ。

そのときから今もずっと、ハシノにとって「洋楽の日本語カバー曲」はライフワークなのです。

 

 

じゃあそもそもなんで日本語カバーを掘ることにしたのか。

今日はいままでどこでもしてこなかった個人的な話をします。

 

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走るひきこもり

10年ぐらい前、ずっとやってたバンドが解散し、同じぐらいの時期になかば衝動的に仕事も辞めて、しばらく実家に戻っていた時期があって。結構いい年だったのに、この先どうやっていくのか白紙になったことがあった。
 
たまに求人サイトを見て履歴書を送ったりする以外は家にいても気まずいし、かといってそんな状態だと友だちにも会いたくなく、すべてが億劫になっていくのが自分でもはっきり自覚された。
 
これ近所の人からすると完全にいま話題の中年ひきこもり状態だったと思う。 
 
それでもとにかく時間はあって、親の車もあって、少しだけ貯金もあって、でも誰にも会いたくない。 なので、ひとりで車でひたすら出歩いていた。
 
たとえば古戦場やマイナーな戦国武将の城やお墓を巡ったり。意味なく和歌山の山奥の那智の滝を目指したり、帰りにさらに遠回りして落合博満野球記念館まで行ったけど夜中だったので前を通っただけみたいな、そんなことをひとりで毎日毎日繰り返して。
 
高速道路は使わず、ポッドキャスト時代の「東京ポッド許可局」やエレ片タマフルなんかを聴きながら近畿地方のあちこちを走り回っていた。
 
走るひきこもりだった。
 

暇つぶしとしてのディグ

そんな暇つぶしの一環として、リサイクルショップを巡ってレコードをディグる活動もあった。 
 
同好の士にはわかってもらえると思うけど、リサイクルショップにレコードがあるかどうかは運次第。2時間ぐらいかけてたどり着いたけど空振りでしたっていうのもザラで。
また運良くレコードを扱っていたとしても、どこにでもあるようなムード音楽とかクラシック全集みたいなハズレしか売ってないこともよくある。
 
それでも飽きもせずに毎日ひたすらいろんな土地を巡って、レコードを掘った。
 
郊外の国道沿いの巨大な倉庫みたいなリサイクルショップの片隅で、平日の昼間にいい大人が必死になってエサ箱をあさって1枚50円〜300円ぐらいのレコードを数十枚買ってく。
 
今にして思うと、砂漠でコンタクトレンズを拾うような、暇つぶしとしてはうってつけの活動に没頭することで、押しつぶされそうになる感じと戦っていたんだと思う。
 
リサイクルショップでレコードを掘る人種のアンセム

鶏の口

座右の銘なんていうと大層だけど、まあそれ的なものとして意識してる言葉があって。
「鶏口となるも牛後となるなかれ」というやつ。
 
牛の身体は大きいけどそんな牛の後ろのほうに位置するよりは、鶏のように小さくてもいいからトップになれって意味。大企業の下っ端でいるよりは起業して一国一城の主になれみたいな使われ方をすることが多い。
 
この言葉、別にサラリーマンの心意気だけじゃなく、人生のいろんな場面で適用できる。リサイクルショップでレコードを掘るときでさえ。
 
 
レコードコレクター道というものが、まあなんとなく存在していて。
ものすごい高値で取引されている貴重盤だったり、名盤とされているレコードだったり、そういうものを収集していくのが王道なんだけど。
そういう、すでに多くの人が取り組んでいるテーマに、今から参入するのはどうにも気持ちが乗らない。牛後っぽい。
 
それよりは、ものすごくニッチな分野でもいいからその道では日本一になるほうが鶏口っぽくていいなって。
それに何より、貴重盤や名盤はリサイクルショップではまずお目にかからないしな。
 
そこで選んだのが日本語カバーだったというわけ。
ひきこもりの暇つぶしに近い行為とはいえ、テーマやルールがあったほうがいいかなって。
 

日本語カバーを選んだ理由

日本語カバーって何?とか詳しいことはLL教室のnoteに書いたのでそちらを参照していただくとして、なんで日本語カバーを選んだかって話をします。

 
何より、幼少期から中学生までを過ごした80年代という時代は、日本語カバーの黄金時代だった。
 
ドラマの主題歌や歌番組で耳についた曲が実は洋楽の日本語カバーで、自分が知ってるバージョン以外に外国人が英語で歌ってる「原曲」があるっていう事実、小学生ぐらいの時分にとっては、何か裏事情にアクセスしたみたいなドキドキ感があった。
 
母親が家で流していたAMラジオの音楽番組とかでたまにそういう話題になって原曲がオンエアされたりして。
 
最初に原曲も聴いたのは、たぶん小林麻美「雨音はショパンの調べ」とか椎名恵「今夜はAngel」とかそのあたりだったと思う。それか「ジンギスカン」かな。
 
日本語カバー版を先に聴いた状態で原曲にも触れて、知ってる曲なのに知らない!みたいな、なんともいえない不思議な感覚になったことを覚えている。
 
その不思議な感覚の名残は、数十年たったいまも耳にかすかに残っていて、いまだに新しい日本語カバーを発掘するとドキドキしてしまう。
 

そしてLL教室へ

その後なんとか仕事も見つかり、家族にも恵まれ、おかげさんでぼちぼちやらせてもらってます。
 
ただ、この状態まで立て直せたのはほんとに運の要素が大きすぎるので、ひきこもり関係のニュースとかいまだに他人事とはまったく思えてないっす。
 
近所の人はもちろん、仲が良かった友だちや家族にすら、できるだけ顔をあわせたくないっていうあの感覚。世の中にどんどん背中を向けて閉じていくようなあの感覚。
たぶん、いまこの瞬間もあの感覚を味わってる人が数十万人単位で世の中に存在してるんだよな。
 
自分の場合は日本語カバーのレコードを掘るっていう行為に没頭できたおかげで、その状態をこじらせずに済んだような気がしてる。
いろんな会社に履歴書でハネられまくってても、折れずに求職を続けられたのは、明日はもっとヤバい日本語カバーが見つかるかもしれない!っていう前向きなメンタリティが保てたからなんじゃないか。
大げさじゃなくそう思ってます。
 
しかもそうやって暇な日々に地道に掘ったレコードたちがマキタさんのラジオで日の目を見て、リスナーの人にも伝わって。
 
別に具体的な見返りというか利益を求めてやっていた行動じゃないけど、何かニッチな分野で日本一を目指そうって漠然と考えたあの日の自分はグッジョブだと思う。
 
いちリスナーとしても大好きだった「はたおじ」は終わってしまったけど、そこでの出会いがきっかけでLL教室が結成され、イベントごとに日本語カバーを少しずつ紹介できたりしてる。
 
 
 
あ、そうそう。
今度そういうイベントやるんですよ。
時間が許す限り日本語カバーを紹介しまくるやつ。
 
よかったら遊びにきてください。
 
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LL教室presents『実習#1』
 
2019年7月12日(金)
新宿V-1
開場19:00 / 開演19:30
前売2500円 / 当日3000円
 
▼出演
4×4=16(落語×HIP HOP)
LL教室(日本語カバー曲特集)
MELODY KOGA(ピアノ弾き語り)
ナツノカモ(立体モノガタリ
 
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【大予言シリーズ】椎名林檎が次にコラボするのは誰?

最近、椎名林檎さんがコラボ活動を熱心にやられてますね。

 

 

目抜き通り(w/トータス松本

獣ゆく細道(w/宮本浩次

駆け落ち者(w/櫻井敦司

 

すでに発表されているこの3曲に加え、ニューアルバムには向井秀徳とのコラボ曲も入ってるそうな。

 

毎回「そうきたか」感と「さもありなん」感があってなかなかワクワクしているので、個人的には今後もぜひ続けてほしいなと思っています。

そこで、次はこの人とヤるんじゃないかっていうのを予想してみた。

 

「さもありなん」感強めの「本命」、「そうきたか」感強めの「対抗」、「ないとは思うけど夢あるね〜」な「穴」、「これが実現したら事件でしょ」な「大穴」と、思いつくままに挙げてみるとどれもこれも実現してほしいなっていうラインナップに。

 

そんなG1「林檎杯」の出走表とオッズはこちら!

 

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本命

ここは本気で当てにいきたい。読んでてつまらなくていい。当てにいく。

 

斉藤和義

https://i.kfs.io/playlist/global/59171870v23/fit/500x500.jpg

逆になんで今までなかったのかっていうぐらいしっくりくるのでは?

これまでに木村カエラシシド・カフカといった人たちとコラボ曲をやってるし、歌番組のなかではもっといろいろやってきてるし。

この人の独特の秘めたエロさみたいなところも、椎名林檎さんの好物なんじゃないかとも思う。

フォーク・ロックなイメージが強い最近の斉藤和義のイメージをあえて覆すかのように、ジャズやR&Bな曲をあてがってくるとまたおもしろいことになりそう。

オッズ1.2倍の大本命。

 

チバユウスケ

https://monkeyflip.co.jp/wp-content/uploads/2018/06/132665327_o8.jpg

これもMステの階段を2人で降りてくるところが容易に想像できるよね。

ある世代にとってはカリスマ的な存在だし、満を持して登場!って雰囲気がすごく出そう。

基本的にバンドでやってる人をシンガーとして引っ張り出してくることでのスペシャル感っていうことでは、BUCK-TICK櫻井やエレカシ宮本と同じ路線だし。

かといってまったくソロ活動をしないかというとそうでもなくて、過去にはスカパラの曲でフィーチャリングされてたりもする。あ、てことは椎名林檎とはスカパラ繋がりってことにもなるな。

オッズ3倍の本命。

 

対抗

「そうきたか」感が強めだけど決して無茶な話ではないっていう人たちを選んでみた。

 

デーモン閣下

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企画会議ですぐに名前が挙がるものの、いやそれはさすがに安直では?ってなって却下されるライン。

ただ一周してありっていう気もする。

もはや散々こすられて手垢がついてきた悪魔っていうギミックを、あえて全面に押し出したような曲を作ってくるぐらいのことはしそう。「悪魔とデュエットできるなんて光栄じゃありませんこと?」とか言って。

デーモン閣下は結構カバーアルバムとかいろいろ幅のある活動もしてるし、ヴォーカリストとして色んな面を見せたいっていう欲がある人だと思うし。

オッズ20倍。スポーツ紙があえて推すあたり。

 

岡村靖幸

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これはヤバい。いますぐやってほしい。

 

岡村氏といえばDAOKOとの「ステップアップLOVE」も最高だったじゃないですか。あの感じかそれ以上の、クセの強い同士のバチバチのコラボが見られるんじゃなかろうか。

「獣ゆく細道」での、椎名林檎が歌ってるパートでのエレカシ宮本のあのアクションすごかったでしょ、あのパートに岡村さんのあのダンスがハマるところを想像してみよ。これはもうすごすぎて笑っちゃうやつだ。

オッズ30倍。現実味とロマンがどっちもあるライン。全財産つぎ込みたい。

 

ここは個人的な願望もかなり入ってる。かといってまったくの夢物語ってわけでもないっていう。

 

横山剣

https://www.townnews.co.jp/0113/images/a000780843_01.jpg

ありそうでなさそうでなさそうかも。

剣さんも椎名林檎さんも、どちらかというと自分の世界に連れ込みたい気質の人なわけで、その掛け合わせが吉と出るか凶と出るか。

あとどちらも「昭和」のカルチャーへの思い入れがものすごく強いわけだけど、2人の昭和観が実は全然違ってたっていう可能性もあるしね。

「あの人もロックバンドやってるって言ってたから話が合うと思う」みたいな雑な感じで引き合わされた人がゴリゴリのV系で、全然話が盛り上がらなかったみたいなね。うわ~そっちのロックか〜っていう。そこが懸念点。

ただ、横山剣といえば渚ようこ野宮真貴などとのデュエット実績はあるし、うまくハマれば無敵なコラボになると思う。

オッズ50倍ぐらい。

 

ROLLY

https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/06/28/jpeg/G20140628008459760_view.jpg

椎名林檎さんともなると、「あんまりデュエットのイメージのないROLLYさんですが、92年にCharaさんと歌った「愛の自爆装置」っていう名曲がありまして、そのイメージでオファーさせていただきました」ってぐらいのことを言ってくれそう。

椎名林檎の一連のコラボ企画には、かつてものすごい輝きを発していた人にもう一度注目を集めてフックアップするような効果もあると思っていて。野村再生工場ならぬ林檎再生工場みたいな。

この人もミュージシャンとしてのポテンシャルはずっと一流なわけで、一貫したスタイルで音楽活動をしている中で、たまに世間の風向き次第で「笑っていいとも!」のレギュラーをやるような事態にもなったりしたということでしょ。

なので、もう一度そういう風が当たるとまたおもしろいことになるんじゃないかなと。

オッズ70倍。記念に100円でおさえておきたい馬券。

 

 

大穴

ASKA

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例の件ですっかりヤバい人枠になってしまったASKA

しかし実は音楽活動は再開しており、今年4月には武道館でのライブも行っている。すっかりアーティストとして現役バリバリに仕上がってきてるみたい。今までやってこなかったことにも挑戦したいっていう意欲もありそうだし、誘ったらOKしてくれるんじゃないだろうか。

福岡つながりっていうこともあるし。

毎年別の男と紅白に出てる椎名林檎、今年はASKAと一緒にってなると話題性抜群であろう。

オッズ100倍の万馬券だけどロマンのある馬券。

 

沢田研二

https://img-s-msn-com.akamaized.net/tenant/amp/entityid/BBTiZBe.img?h=768&w=1366&m=6&q=60&o=f&l=f&x=212&y=110

これまでのコラボ相手は椎名林檎にとってはちょっと上の世代だったわけだけど、ここらで大ベテランに声をかけてみるっていう展開もあるんじゃないか。

かといって、加山雄三とかだと若手と組んでくれる人っていうイメージがもう定着しており、林檎再生工場のおもしろみはない。

 

そこでジュリーですよ。

 

お茶の間やネット的には、例のワイドショーネタで騒がれた昔の歌手の人でしょっていうぐらいの認知になってしまっている状態。ジュリー本人も今さら自分から頭を下げてテレビ界に出させてもらうつもりもその必要もない。

そこで林檎さんが三顧の礼でジュリーを口説き落とし、そしてこのために書き下ろした新曲を通じて、往年のジュリーを知らない世間に対してこの人はこんなにすごいんだよって見せつけるっていう。最高の展開じゃないですかね、これ。

この十万馬券には賭けてみたくなるっていうもの。

 

最後に

今回は書いてて楽しさしかなかったです。

そして、あながち無茶な話でもないなっていうギリギリのラインを突くことができたかなとも思ってる。

要するにこういうの考えるの大好きなんよね。

 

 

 

椎名林檎が次にコラボするのは誰なのか?みんなも予想してみて!

ベンジー以外で!

書評:「コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史」矢野 利裕

現役の教師にしてDJ、そして文芸批評の論客でもある矢野利裕くんの新刊「コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史」が出ましたね。

矢野くんとは一緒にLL教室という音楽批評ユニットをやっている仲でもありちょっと気恥ずかしいんだけど、できるだけ多くの人に読んでほしい本なので、詳しく紹介してみます。

コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史 (ele-king books)

コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史 (ele-king books)

 

どんな本かというと

本書は明治から平成までの日本のコミックソングノベルティソング)の流れを追ったものなんだけど、単なるディスクガイドではない。

 

日本のポピュラー音楽の歴史を見ていくにあたってなぜコミックソングが重要なのか、なぜ新しい音楽はいつも「おかしい」のか、そういったことが100年以上の歴史を追いながらわかるようになっている意欲作なのです。

 

ビートルズあたりから始まった、アーティストの自意識が重視される英米のロックを中心とした従来の歴史観ではなく、もっと多様で無意識で匿名的で雑多な音楽もちゃんと視野に入れるべきだろうという問題提起が込められていたり、さらには、J-POPというジャンルそのものがノベルティソングなのではないかという大瀧詠一が遺した大きなテーマを受け継いでいる本でもある。

  

また、本書はこれまでに様々な媒体やLL教室のイベントなどで語られてきた、矢野くんのポップミュージックや市井のリスナーに対する信頼というか愛というか、そういった目線で全体が貫かれていることも大きな特徴のひとつ。

 

流行歌を子どもがおバカな替え歌にして軽薄に歌い継いでいくことや、まだ世間になじみのない新しい音楽スタイルを歌手とバンドがおもしろおかしく歌い演奏することを、それこそが音楽が広まっていく姿として一般的であると位置づけているのである。

その価値観でもって、川上音二郎からエノケンクレイジーキャッツから美空ひばりからRADIO FISHやピコ太郎までが語られていく。

  

これらは一般的な音楽誌やメディアでの音楽の語られ方とは異なっていたりもするので、新鮮に感じる人も多いかもしれない。

ひとことでいうと、その楽曲でアーティストが何を表現したかったか、ではなく、その楽曲が世間にどうとらえられたか、を考えるというスタンスね。

 

気になった方はさらに文末に挙げられている参考文献をディグるとよいでしょう。

下記は特にわたくしからも激レコメンであります。

 

 

新奇なロックンロールとスパイダース

本書では、新しい音楽ジャンルとコミックソングの関係をこのように表現している。

 

大事なことは、新しい音楽は笑いとともにやってくる、ということだ。聴衆の目(耳)を引く新しい音楽は、滑稽さと違和感をはらんでいる。(略)

新しいリズムは芸能の場所で、好奇の目にさらされ、笑われ、マネされることによって、次なる時代に根づいていく。すぐれたコミックソングはなにより、日本のポピュラー音楽における新しさの体現でもある。

 

このあたりを読んで自分がまっさきに思ったのは、ザ・スパイダースのこと。

 

 

言わずとしれた、日本における最初期のロックバンド。

マチャアキと井上順というタレント性の高い2人のフロントマン、ムッシュかまやつというアンテナの高いアーティスト、大野克夫井上堯之といった職人ミュージシャンが揃っていたんだからすごい。さらには田邊昭知というのちに芸能界のドン的な存在になる人がリーダーっていう。

 

スパイダースは、まだビートルズがリアルタイムで活動していた1960年代中盤、ほぼ同時に日本人のオリジナルのロックンロールを自作自演(大作家先生の作品もあるけど)で演奏していたバンドなのです。

まだロックという音楽が海外においても若いジャンルで、スタイルや技術も固まっていないような時期に、見よう見まねでとにかくやってみるというイズムでいろんな曲を生み出していたわけで、ものすごいベンチャー精神だと思うし、また実際に生み出された作品もかっちょいい。

 

で、本書でも言及されているように、スパイダースがやっていたことはものすごく新しかったし、だからこそ珍しく、そしてコミックソングの領域に入ってくる。

つまりロックンロールの新奇さを、かっこよく、同時に笑いをまぶして伝えたバンドなんだと思います。

 

たとえば、「恋のドクター」「バンバンバン」「なればいい」といった曲にあらわれるムッシュかまやつのおかしみがにじみ出る言語感覚。

「エレクトリックおばあちゃん」などの曲でのマチャアキのデタラメなスキャットみたいなやつ。

「ロックンロールボーイ」における、キーボードソロでの「克夫ちゃん!」のかけ声。

www.youtube.com

 

スパイダースって、芸能人一家とかの、港区界隈の超ハイソな遊び人の集まりなわけで。1ドル360円の時代に海外を行き来するレーサーの友人がいたような、そんな超イケてる人たち。


まだ日本人の99.999%がロックバンドというものを知らないときに、スパイダースはイノベーターとして、カッコよさと同じぐらいおかしさを重視していたということ。

これは決してたまたまじゃないと思ってる。

 

すべてのJ-POPは‥

ロックンロールにおけるザ・スパイダースのように、日本ではあらゆる新ジャンルの黎明期にこういう存在がいたんじゃないかと思われる。

ごく少数の話のわかってる人で形成されたインディーなシーンの中では問題ないが、それ以上の規模になろうとするとき、どうしても話の通じないお茶の間と対峙するタイミングが出てくる。

キャズム」を超えて世間に広まっていくということはそういうことで。

 

キャズムのあっち側とこっち側の落差が大きければ大きいほど、新奇さが笑いにつながる。

今だとヒップホップ的なファッションや言動は、そのシーンの外にいる人からするとまだまだ新奇なものなので、お笑い芸人のネタにされやすい。

 

それが少なからぬ誤解のうえで成立しているとは言え、一発芸のネタでもなんでも、芸人・コメディアンはしばしば、ヒップホップの振る舞いをネタにする。

それは、日本におけるヒップホップが、そもそもノベルティソング性を抱えているからである。

 

これはヒップホップに限らず、これまでにもいろんな音楽ジャンルが紹介されるたびに起こってきたことである。

 

たとえばヘヴィメタルという新奇なジャンルを代表するX(X JAPAN)がお茶の間に出会った瞬間。

インディーズでパンクが大きなシーンになり、ついにブルーハーツがテレビの歌番組に登場したとき。

ハウスやインディーダンスといった海外の流行がある程度入ってきたタイミングで電気グルーヴが騒がしく登場したとき。

 

ここ最近でいうと、デスメタルのボーカルススタイルである「デス声」ね。これはキャズムを超えそうで超えないところにあるので笑いにつなげやすい新奇さがある。

 

そう。本書での矢野くんの説に依拠すると、なんとこれらもすべてノベルティソングということになる。

そして、この国では大衆音楽は常に英米から新しいスタイルを輸入して作られているということでいうと、「すべてのJ-POPはパクリである」し、「すべてのJ-POPはノベルティソングである」と言っても過言ではない。

 

もちろん、これはバカにして言ってるのではない。すべてのJ-POPがノベルティソングだったからといって、J-POPの価値は少しも落ちない。

 

軽薄ないじり

ある曲やアーティストが「売れた」かどうかの基準として自分が思っているのが、つくり手の意図を離れて軽薄に流通するようになったら一線を超えたなということ。

 

たとえ数百万枚の売り上げを誇っていても、それがすべて熱心な信者によるものだったら、その曲は世間には届かないし、替え歌にはならない。

 

しかし、たとえオリコンチャートの上位に入らなくても、そのへんの小学生が替え歌にしていたり、飲み会の席でイジるためのワードとして引用されたり、SNS大喜利のネタにされたりする曲がある。これが「売れた」状態だと思ってる。


それは「東京生まれヒップホップ育ち」であり、「ドラゲナイ」であり、「前前前世」であり。

その曲に何の思い入れもない人たちの耳に届いたからこそ、軽薄な替え歌やイジりが発生するわけで、飛距離を稼げば稼ぐほどその傾向は強まる。

 

その意味でいうと「もうgoodnight」大喜利が発生したサチモスは一線を超えて売れたんだと思いますが、最新作などを聴いてると、また線の内側に引っ込んだような印象もある。まるで、売れすぎないようにコントロールしているかのよう。

 

本書で矢野くんは繰り返し、音楽がアーティストの手を離れて軽薄に世間に流布していくさまを、愛しいものであると表現している。

さっき自分が使った言い方でいうと、その楽曲でアーティストが何を表現したかったか、ではなく、その楽曲が世間にどうとらえられたか。そっち側からも音楽を見つめてみることで、聴き慣れた音楽にもこれまでとは違った味わいが出てくるのではないだろうか。

 

次回作に期待したいこと

あとがきでも触れられていたりツイートでも語られてたように、コミックソングノベルティソング)のことを一冊にまとめるにあたって、抜け落ちた要素は多い。

 

とはいえ、単なるコミックソングのディスクガイドにしなかったところが矢野利裕の面目躍如って感じがする。つまり、ある一定の骨格でもって歴史を貫いてみるっていうやり方。「ジャニーズと日本」でもそうだった。

なので、もし本書の続編が書かれることになったとして、漏れた観点を拾い集めてもそれだけでは一冊にはならないであろう。

 

であれば、今回の背骨とはまた違うところに背骨を貫いてみたような矢野史観を期待したいと思う。


たとえばそれは、音楽と笑いが交差する「場所」という観点。
具体的には「お座敷」と「ダンスホール」と「路上」みたいな、場所によって音楽と笑い、ときには踊りが交差するかたちが違ってくるんじゃないかしら、とかね。

 

とくに「お座敷」はね、かつてはコミックソングの揺籃の地として圧倒的な地位を占めていたわけで。現在はキャバクラやホストクラブに姿を変えてるんだとしたら、五月みどりからゴールデンボンバーへ繋がる流れが見えてきたりするのかもしれないなとか。

 

みんなも読もう

やばい。

書評とか言いながら、本書に触発されてわいてきた自説の開陳に終始してしまった。

 

でもさ、いい本って読むと触発されて自分の考えがクリアになったり新たな疑問がわいたりと、脳が忙しくなる感じになるじゃないですか。

今まさにそういう脳の状態です。

 

みんなもぜひ読もう。

 

コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史 (ele-king books)

コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史 (ele-king books)