フジロックに行ってきた
今年も行ってきました。
あの1997年以来、22年連続になります。
(詳しくはこの記事をあとで読んでいただくとして)
今年も最終日だけどうしても行きたくて家族に無理を言って出てきた。
昼から深夜までほぼ休みなく見まくったライブは、通りすがりも含めるとこちらの13組。
渋さ知らズオーケストラ〜monaural mini plug〜Paradise Bangkok Molam international band〜HIATUS KAIYOTE〜HYUKOH〜VAUDOU GAME〜柳家睦とラットボーンズ〜toe〜KHRUANGBIN〜THE CURE〜平賀さち枝とホームカミングス〜Night Tempo〜the comet is coming〜QUANTIC
ちょっとガツガツしすぎかと自分でも思ったけど、ここまで好みのラインナップを並べられたらしゃあない。
今年のフジロック最終日、とにかく国際色豊かだったんすよね。
アフリカにルーツがあるVAUDOU GAME、タイからやってきたParadise Bangkok Molam international band、韓国からHYUKOHとNight Tempo、オーストラリアのHIATUS KAIYOTE。
Quanticは英国人だけど南米の音楽をベースにした音楽をつくる人だし、渋さ知らズは日本人だけど雑多な音楽性の核のひとつに東欧のジプシーブラスが間違いなくあるし。
タイミングが合わず見れなかったけどモンゴルのHANGGAIやキューバのINTERACTIVOも出演していた。
こんな具合で、ほんとに世界中から非英米のアーティストがたくさん集められていたのが今年のフジロック最終日の特徴。
グローカル
ここ50年以上、日本において「ロック」といえばイギリスとアメリカのバンドが中心で、そこに国産がどれぐらいの比率でブレンドされるかっていう感じだった。
ところが近年徐々にそうでもなくなってきてる。
アジアをはじめ世界中のいろんな国々が豊かになってきて、それぞれの土地で国産のポップカルチャーを生み出せるようになってきて、特に若者人口が増えてるところだと切磋琢磨されてレベルもどんどん上がってきてて。
要するに60〜70年代ぐらいの日本みたいなモードになったばかりの国がたくさんある。
そういう国々で、ハウスやEDMやロックといったユニバーサルな音楽スタイルに現地好みの要素をブレンドしていくことで、オリジナルなダンスミュージックやバンドサウンドが同時多発的に生まれてきている。
一方でインターネットの発達により、各地のローカルな国産ポップミュージックに避けがたく滲んでくる土地柄みたいなものが、世界中のリスナーにおもしろがられるっていう現象が発生している。
世界各地のローカル音楽をおもしろがることで有名になったのがDiploでありQuanticであり、日本だとサラーム海上や高野政所といった人たち。
ここ10年ぐらいのそういう動きによって見いだされた音楽やカルチャーのことは、グローバルとローカルと組み合わせた「グローカル」っていう言葉で表現されたりする。
フジロック最終日のキーワードはタイ
国際色豊かだった今年のフジロック最終日において、特に濃いめに色づけされていたのがタイのモーラム/ルークトゥン系。
モーラムやルークトゥンっていうのは、タイ(特に北部イサーン地方)で古くから好まれてきた歌謡曲のような音楽で、現在に至るまで独自の発展を遂げながら地元で愛されてきていた。
それを2010年代に海外の好事家が発見し、地元で流通していたレコードをディグしまくってCD化して世界に紹介したところ、そのクセのあるいなたいグルーヴに世界中(の一部)が夢中になった。
日本においても、soi48というDJチームがタイ音楽の魅力を発信していたり、空族の人たちが現地に長期滞在してつくりあげた映画「バンコクナイツ」でも大々的に使用されるなどして、好事家のあいだで広まっていってる。
今年のフジロック最終日には、そんな世界的なモーラム/ルークトゥンブームを代表するような3組のアーティストが出演した。
まず日本のmonoral mini plagというバンドは、現地の冠婚葬祭のパレードで演奏するバンドのスタイルを完コピし、機動力あふれる演奏をする。
使う楽器は完全に現地のそれなんだけど、センスがDJ以降って感じで洗練されており、つまり最高。
1時間ぐらいは軽く踊らされる。
タイムテーブル上、monoral mini plagのすぐ後の時間帯にヘブンに登場したのがParadice Bangkok Molam International Band。こちらは本場タイからやってきたバンドで、モーラムの伝統楽器にファンクなベースとドラムを合わせることで、モーラムを知らない人にも踊りやすい感じになっている。
これはちょっとおもしろいなと思っていて、日本人であるmonoral mini plagが現地スタイルの完コピにこだわってる一方で、タイ人のPadice~のほうはグローバルで通じるスタイルに寄せていってるという。このねじれは示唆的。
ただ、個人的にはParadice~のグローバルひと工夫は余計なお世話に感じてしまう点が多々あった。これは自分がすでにモーラム耳ができているためで、「バスドラとかなくても踊れるっしょ!」ってなってるからだと思われ、ほとんどの人にとっては、Paradice~さんの工夫は効果を発揮していたであろう。
なのでPadarice~のみなさんはこんな意見は参考にしなくても大丈夫なので気にしないでください。
そして、フォールドオブヘブンのトリをとったのが、アメリカからやってきたクルアンビン(KHRUANGBIN)。
この日もっともみたかったバンドなのです。
クルアンビンとの出会い
クルアンビンはタイ語で飛行機という意味の言葉らしい。
タイ・ファンクに魅せられたアメリカ人のバンド。
タイ・ファンクってのがどのあたりのことか定かではないけど、前述したモーラムの70年代ぐらいのモードのことかなと。
たしか最初はTwitterで誰かが絶賛していたことがきっかけで知ったんだと思う。
絶妙のけだるい温度感やエキゾチックでサイケなギターがクセになってよく聴いてた。
ただ、無愛想なジャケと淡々としたサウンドから、白人音楽オタクによる宅録みたいな個人プロジェクトでやってる音だと勝手に思い込んでいたんだよね。
ところが、今年のコーチェラ・フェスに出演するっていうから中継動画を観てみたら驚いた。
音楽オタクどころか、必要以上にキャラ立ちしたルックス!
そしてキレのあるギター、セクシーなベース、安定感のあるドラム。
音源と見た目のギャップも含めて完全にやられてしまい、フジロックに出るっていうのでとても楽しみにしていたのだった。
現地で感じたこと
当日のフィールド・オブ・ヘブン。
裏ではTHE CUREがやってる時間帯。
各ステージでヘッドライナーがやってるにもかかわらず、思っていた以上にたくさんの人がクルアンビンを楽しみにしてステージ前に集まっていた。
ちょっとびっくりした。
言うたらさ、70年代のタイの音楽に影響を受けたアメリカ人のバンドなんて、めっちゃニッチな存在じゃないですか。
いろんな音楽をひととおり聴いてきた結果、もはやこのあたりの音じゃないと興奮できないのよっていう、ちょっとしたフェチな存在のはず。
それが、ここまで多くの人に待たれているという現実。
すぐ近くでライブ開始を待っていた女性の立ち話が聞こえてきたんだけど、いわく「立ってるの疲れたわ、3年前はKANA-BOONの最前列いけてたのに」とのこと!ちょっとぶっ飛ばされた実話。
そういう人たちまでがクルアンビンに夢中なのか!
で、いざライブがはじまると、音源以上にいい湯加減のメロウなグルーヴがたまらないわけです。3人とも演奏うまい。
それと、ライブの運びのうまさがとにかく印象的で。
曲に入るときのタメのつくり方、ちょっとファニーな演出、曲中の緩急のつけ方。そういったもろもろがとにかく達者なの。
であのルックスでしょ。
ものすごくマニアックな音と、ものすごくキャッチーな3人の存在感。
そのギャップに釘付けになった、夢のような1時間半だった。
KHRUANGBIN
— Beatink (@beatink_jp) July 30, 2019
FUJI ROCK FESTIVAL'19 セットリスト公開!
妖艶さにフロアが釘付けのベース:ローラ・リー、新たなギターヒーロー:マーク・スピアー、骨太ドラムで支えるドナルド"DJ"ジョンソンの3人が揺らす🌛
『全てが君に微笑む』でついに盤化したYMOカヴァーも👀@SpotifyJPhttps://t.co/HNN553Ezn6 pic.twitter.com/fAZMjImZlo
分子が分母を凌駕しそう
故・大瀧詠一氏が提唱し、マキタスポーツさんや矢野利裕くんも援用する、音楽の「分母分子論」という見立て方があって。
マキタさんの「すべてのJ-POPはパクリである」では、規格(=音楽のスタイル)を分母、人格(=アーティストのキャラクター)を分子ととらえ、すべてのJ-POPはこの構造で読み解くことができるとしている。
そして、分母分の分子が合致すればするほどオリジナリティが高い状態で、逆にここが意図的にズレた状態をつくることで違和感やおかしみが生じてコミックソングがつくりやすいという。
フジロックでのクルアンビンのライブを見ていて思い浮かんだのが、この分母分子論。
つまりクルアンビンとは、タイ・ファンクというフレッシュかつマニアックな規格(分母)の上に、メンバーのキャラクターという人格(分子)が乗っかっている状態であると。
分母と分子が合致しているからこそのこの人気なのか、それとも分母と分子がズレてる違和感が評判を生んでいるのか、それはわからないけど。後者かな。
自分としても、分子を知らない状態で音を聴いたときに分母のみで感じた先入観が、実物を目にしたときに良い意味でめっちゃ裏切られたわけで。
さらに、言ってしまえばタイ・ファンクなんていう規格(分母)はそこまでのポピュラリティがある乗り物ではないわけで、3人の身体性やキャラクターという分子のほうがもはや大きくなってきてしまっているのが現在のクルアンビンなのではないか。
そして本人たちもうすうす乗り物の小ささを窮屈に感じはじめているのではないか。
ライブで披露されたYMOの「Firecracker」やディック・デイル「ミザルー」などのカバーの選曲も、窮屈さを感じていることをあらわしてるんじゃないかと邪推してしまう。
「Firecracker」はもともとマーティン・デニー楽団による曲で、つまり欧米人によるなんちゃって中華の楽曲。それを東洋人であるYMOがテクノサウンドでカバーしたっていう批評的な手口がかっこいいやつ。
「ミザルー」はご存じ映画「パルプ・フィクション」のサントラでも印象的なサーフィンミュージックの代表的な曲なんだけど、もともとはギリシャやトルコあたりで昔からある曲で、演奏しているディック・デイルは中東レバノンにルーツがある人。音階はいわゆる西洋のものとはだいぶ違う感じ。
こうした西洋人からみたエキゾ感がある曲をとりあげることで、クルアンビンというバンドのあり方とも通じるおもしろさを感じる一方で、同時に、タイファンクという軸からエキゾという価値観に沿って少しずつ守備範囲を広げようとする試みなのかもという感じもする。
これらのカバー以外にも、曲の中で明らかに演歌っぽいスケールのギターを弾いた瞬間もあって驚かされたり。
とにかく、分母を広げるのか深めるのかみたいなところで試行錯誤していることを感じるライブだった。
今後、クルアンビンがどっちの方向に流れていくのかわからないし、案外ふつうのメロウグルーヴな路線に落ち着いていってさらに売れるとかの可能性もあるけど、どうなろうとも3人のミュージシャン力やキャラ立ちはかなりの強度があるので大丈夫でしょう。たのしみですね。