北野武監督の映画『首』を見た。
アドリブでやってるシーンの脱力的な笑いの印象に引っ張られたからか、あまりよくない意味で期待を裏切られたという感想もちらほら見かけたんだけど、個人的には大大大絶賛です。
戦国版『アウトレイジ』と評する人も多いが、たしかにその通り。
おなじみの戦国武将たちが、大河ドラマなどで描かれるキャラクターとは真逆の、ほとんどヤクザみたいな奴らとして描かれている。
だけどこれ、監督ならではの独特で斬新な解釈っていうよりは、むしろ徹底してリアルをやろうとしたんじゃないか。
たとえば今年の大河ドラマ『どうする家康』でもそうだけど、「民が平和に暮らすことができる戦なき世をつくるのじゃ!」みたいなことを松潤が言うじゃないですか。
これがどうにもリアリティがないように感じていて。
ただ戦国時代ものって、甲冑とか城とか合戦シーンとかでどうしてもお金がかかるジャンルなので、一定以上の予算規模でしか映画やドラマを制作することができないわけで、なのでリアリティよりも一般受けする描写に寄せられるのは渋々だけど受け入れてきたんですよ。
そんな中、『首』は、お茶の間向けのコーティングを剥いだむき出しの戦国時代を、R15というレイティングで思う存分描いてくれてる。
そうそう。これを待ってたんだよ!
ヤクザであり異民族としての武士
戦国時代の少し前の室町時代には、一応は全国を治める幕府が存在して、それぞれの地域に守護大名が任命されてはいたんだけど、幕府の統治能力はものすごく低かった。
たとえると、警察と裁判所はあてにならず、税務署の仕事っぷりにものすごくバラつきがあるような社会なわけで。
さらに戦国時代になると幕府のトップである将軍ですら家来に暗殺されるほどに下剋上が当たり前になってきて、権威とか正当性よりも実力がものをいう世の中になっていき、武士はますます仁義なき存在になる。
織田信長っていう人も、分家の出身だけど織田本家を倒したり、立場的にその織田家の上位にいた斯波家も追放したり、権力争いで実の弟を殺したりと、手段を選ばずにのし上がってきた。
なので、実際の信長が『首』の加瀬亮みたいに、パワハラって言葉が生ぬるく感じるレベルの人間だったとしてもおかしくない。
そして下剋上でのし上がってきただけに、自分自身がいつやられる側になってもおかしくないっていう緊張感がずっとある。
この緊張感はまさに『アウトレイジ』にあったのと同質のものに感じられた。
さらに『首』のおもしろさとしては、そんなヤクザな武士たちを、敵の首を切るという行為や首そのものに対して異様なまでに執着する存在として描いているところ。
まるで、いけにえだとか干し首だとか纏足だとか贈与みたいな、現代日本人には理解しがたい風習をもつ異民族の一種みたいな感じ。ほとんど文化人類学の領域。
で、百姓出身の秀吉・秀長の兄弟はそんな異民族の価値観に全然染まっていなくて、俯瞰して見てるっていうね。同性愛にも興味なさそうだったし。清水宗治のスタイリッシュな切腹にも心動かされないし。
武士を美化したのは誰なのか
「侍ジャパン」とか「武士道」とかの言葉でみんながイメージする武士の姿と『首』に出てくる武士は全然違う。
それは、江戸時代に武士のイメージがかなり美化されたから。
徳川家康(小林薫)が幕府を作って戦国時代は終わるんだけど、黒田官兵衛(浅野忠信)の子孫が福岡藩の大名として幕末まで続くみたいな感じで、首を切りまくって大暴れしていた野蛮な戦国時代の武士たちが、そのまま江戸時代の大名にスライドしていった。
つまり、おじいちゃんは主君を裏切ったり敵を皆殺しにしたりして生き残ってきたのに、その地位を受け継いだ孫は刀を抜くこともなく幕府に忠誠を誓って真面目に殿様をやるみたいな状態。
自分たちの一族が殿様になった経緯をストレートに説明しちゃうと血生臭すぎてとてもじゃないけど正当化するのが難しくなるので、そこはいろいろ美化してしまうってもんで。
その美化された武士の姿が、「侍ジャパン」とか「武士道」とかの言葉で現代人が思い描くイメージだとか、大河ドラマなどの戦国時代モノにかなり影響を与えているんじゃないか。
『首』は、美化されてないリアル武士がどんなものだったか、映画的な誇張はしつつも飛躍しすぎず追求した作品って感じで大満足でした。
これまでの北野武監督作品に一貫していた、情緒を排除した暴力とか底抜けの虚無感とかを描くのに、人の命が軽すぎる戦国時代って舞台がものすごく似合っていたと思う。
なので続編も全然あり。
清州会議の信長の跡目争いの場で暗躍する秀吉とか、家康とつるんで怪しい動きを見せる千利休を追い詰めて切腹させる秀吉とか、見たいでしょ。