森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

書評:「コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史」矢野 利裕

現役の教師にしてDJ、そして文芸批評の論客でもある矢野利裕くんの新刊「コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史」が出ましたね。

矢野くんとは一緒にLL教室という音楽批評ユニットをやっている仲でもありちょっと気恥ずかしいんだけど、できるだけ多くの人に読んでほしい本なので、詳しく紹介してみます。

コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史 (ele-king books)

コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史 (ele-king books)

 

どんな本かというと

本書は明治から平成までの日本のコミックソングノベルティソング)の流れを追ったものなんだけど、単なるディスクガイドではない。

 

日本のポピュラー音楽の歴史を見ていくにあたってなぜコミックソングが重要なのか、なぜ新しい音楽はいつも「おかしい」のか、そういったことが100年以上の歴史を追いながらわかるようになっている意欲作なのです。

 

ビートルズあたりから始まった、アーティストの自意識が重視される英米のロックを中心とした従来の歴史観ではなく、もっと多様で無意識で匿名的で雑多な音楽もちゃんと視野に入れるべきだろうという問題提起が込められていたり、さらには、J-POPというジャンルそのものがノベルティソングなのではないかという大瀧詠一が遺した大きなテーマを受け継いでいる本でもある。

  

また、本書はこれまでに様々な媒体やLL教室のイベントなどで語られてきた、矢野くんのポップミュージックや市井のリスナーに対する信頼というか愛というか、そういった目線で全体が貫かれていることも大きな特徴のひとつ。

 

流行歌を子どもがおバカな替え歌にして軽薄に歌い継いでいくことや、まだ世間になじみのない新しい音楽スタイルを歌手とバンドがおもしろおかしく歌い演奏することを、それこそが音楽が広まっていく姿として一般的であると位置づけているのである。

その価値観でもって、川上音二郎からエノケンクレイジーキャッツから美空ひばりからRADIO FISHやピコ太郎までが語られていく。

  

これらは一般的な音楽誌やメディアでの音楽の語られ方とは異なっていたりもするので、新鮮に感じる人も多いかもしれない。

ひとことでいうと、その楽曲でアーティストが何を表現したかったか、ではなく、その楽曲が世間にどうとらえられたか、を考えるというスタンスね。

 

気になった方はさらに文末に挙げられている参考文献をディグるとよいでしょう。

下記は特にわたくしからも激レコメンであります。

 

 

新奇なロックンロールとスパイダース

本書では、新しい音楽ジャンルとコミックソングの関係をこのように表現している。

 

大事なことは、新しい音楽は笑いとともにやってくる、ということだ。聴衆の目(耳)を引く新しい音楽は、滑稽さと違和感をはらんでいる。(略)

新しいリズムは芸能の場所で、好奇の目にさらされ、笑われ、マネされることによって、次なる時代に根づいていく。すぐれたコミックソングはなにより、日本のポピュラー音楽における新しさの体現でもある。

 

このあたりを読んで自分がまっさきに思ったのは、ザ・スパイダースのこと。

 

 

言わずとしれた、日本における最初期のロックバンド。

マチャアキと井上順というタレント性の高い2人のフロントマン、ムッシュかまやつというアンテナの高いアーティスト、大野克夫井上堯之といった職人ミュージシャンが揃っていたんだからすごい。さらには田邊昭知というのちに芸能界のドン的な存在になる人がリーダーっていう。

 

スパイダースは、まだビートルズがリアルタイムで活動していた1960年代中盤、ほぼ同時に日本人のオリジナルのロックンロールを自作自演(大作家先生の作品もあるけど)で演奏していたバンドなのです。

まだロックという音楽が海外においても若いジャンルで、スタイルや技術も固まっていないような時期に、見よう見まねでとにかくやってみるというイズムでいろんな曲を生み出していたわけで、ものすごいベンチャー精神だと思うし、また実際に生み出された作品もかっちょいい。

 

で、本書でも言及されているように、スパイダースがやっていたことはものすごく新しかったし、だからこそ珍しく、そしてコミックソングの領域に入ってくる。

つまりロックンロールの新奇さを、かっこよく、同時に笑いをまぶして伝えたバンドなんだと思います。

 

たとえば、「恋のドクター」「バンバンバン」「なればいい」といった曲にあらわれるムッシュかまやつのおかしみがにじみ出る言語感覚。

「エレクトリックおばあちゃん」などの曲でのマチャアキのデタラメなスキャットみたいなやつ。

「ロックンロールボーイ」における、キーボードソロでの「克夫ちゃん!」のかけ声。

www.youtube.com

 

スパイダースって、芸能人一家とかの、港区界隈の超ハイソな遊び人の集まりなわけで。1ドル360円の時代に海外を行き来するレーサーの友人がいたような、そんな超イケてる人たち。


まだ日本人の99.999%がロックバンドというものを知らないときに、スパイダースはイノベーターとして、カッコよさと同じぐらいおかしさを重視していたということ。

これは決してたまたまじゃないと思ってる。

 

すべてのJ-POPは‥

ロックンロールにおけるザ・スパイダースのように、日本ではあらゆる新ジャンルの黎明期にこういう存在がいたんじゃないかと思われる。

ごく少数の話のわかってる人で形成されたインディーなシーンの中では問題ないが、それ以上の規模になろうとするとき、どうしても話の通じないお茶の間と対峙するタイミングが出てくる。

キャズム」を超えて世間に広まっていくということはそういうことで。

 

キャズムのあっち側とこっち側の落差が大きければ大きいほど、新奇さが笑いにつながる。

今だとヒップホップ的なファッションや言動は、そのシーンの外にいる人からするとまだまだ新奇なものなので、お笑い芸人のネタにされやすい。

 

それが少なからぬ誤解のうえで成立しているとは言え、一発芸のネタでもなんでも、芸人・コメディアンはしばしば、ヒップホップの振る舞いをネタにする。

それは、日本におけるヒップホップが、そもそもノベルティソング性を抱えているからである。

 

これはヒップホップに限らず、これまでにもいろんな音楽ジャンルが紹介されるたびに起こってきたことである。

 

たとえばヘヴィメタルという新奇なジャンルを代表するX(X JAPAN)がお茶の間に出会った瞬間。

インディーズでパンクが大きなシーンになり、ついにブルーハーツがテレビの歌番組に登場したとき。

ハウスやインディーダンスといった海外の流行がある程度入ってきたタイミングで電気グルーヴが騒がしく登場したとき。

 

ここ最近でいうと、デスメタルのボーカルススタイルである「デス声」ね。これはキャズムを超えそうで超えないところにあるので笑いにつなげやすい新奇さがある。

 

そう。本書での矢野くんの説に依拠すると、なんとこれらもすべてノベルティソングということになる。

そして、この国では大衆音楽は常に英米から新しいスタイルを輸入して作られているということでいうと、「すべてのJ-POPはパクリである」し、「すべてのJ-POPはノベルティソングである」と言っても過言ではない。

 

もちろん、これはバカにして言ってるのではない。すべてのJ-POPがノベルティソングだったからといって、J-POPの価値は少しも落ちない。

 

軽薄ないじり

ある曲やアーティストが「売れた」かどうかの基準として自分が思っているのが、つくり手の意図を離れて軽薄に流通するようになったら一線を超えたなということ。

 

たとえ数百万枚の売り上げを誇っていても、それがすべて熱心な信者によるものだったら、その曲は世間には届かないし、替え歌にはならない。

 

しかし、たとえオリコンチャートの上位に入らなくても、そのへんの小学生が替え歌にしていたり、飲み会の席でイジるためのワードとして引用されたり、SNS大喜利のネタにされたりする曲がある。これが「売れた」状態だと思ってる。


それは「東京生まれヒップホップ育ち」であり、「ドラゲナイ」であり、「前前前世」であり。

その曲に何の思い入れもない人たちの耳に届いたからこそ、軽薄な替え歌やイジりが発生するわけで、飛距離を稼げば稼ぐほどその傾向は強まる。

 

その意味でいうと「もうgoodnight」大喜利が発生したサチモスは一線を超えて売れたんだと思いますが、最新作などを聴いてると、また線の内側に引っ込んだような印象もある。まるで、売れすぎないようにコントロールしているかのよう。

 

本書で矢野くんは繰り返し、音楽がアーティストの手を離れて軽薄に世間に流布していくさまを、愛しいものであると表現している。

さっき自分が使った言い方でいうと、その楽曲でアーティストが何を表現したかったか、ではなく、その楽曲が世間にどうとらえられたか。そっち側からも音楽を見つめてみることで、聴き慣れた音楽にもこれまでとは違った味わいが出てくるのではないだろうか。

 

次回作に期待したいこと

あとがきでも触れられていたりツイートでも語られてたように、コミックソングノベルティソング)のことを一冊にまとめるにあたって、抜け落ちた要素は多い。

 

とはいえ、単なるコミックソングのディスクガイドにしなかったところが矢野利裕の面目躍如って感じがする。つまり、ある一定の骨格でもって歴史を貫いてみるっていうやり方。「ジャニーズと日本」でもそうだった。

なので、もし本書の続編が書かれることになったとして、漏れた観点を拾い集めてもそれだけでは一冊にはならないであろう。

 

であれば、今回の背骨とはまた違うところに背骨を貫いてみたような矢野史観を期待したいと思う。


たとえばそれは、音楽と笑いが交差する「場所」という観点。
具体的には「お座敷」と「ダンスホール」と「路上」みたいな、場所によって音楽と笑い、ときには踊りが交差するかたちが違ってくるんじゃないかしら、とかね。

 

とくに「お座敷」はね、かつてはコミックソングの揺籃の地として圧倒的な地位を占めていたわけで。現在はキャバクラやホストクラブに姿を変えてるんだとしたら、五月みどりからゴールデンボンバーへ繋がる流れが見えてきたりするのかもしれないなとか。

 

みんなも読もう

やばい。

書評とか言いながら、本書に触発されてわいてきた自説の開陳に終始してしまった。

 

でもさ、いい本って読むと触発されて自分の考えがクリアになったり新たな疑問がわいたりと、脳が忙しくなる感じになるじゃないですか。

今まさにそういう脳の状態です。

 

みんなもぜひ読もう。

 

コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史 (ele-king books)

コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史 (ele-king books)