森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

10年ぶりにフル参加したフジロック2026で感じた、目黒のさんまとパレスチナ問題(および21組のライブ感想)

フジロックフェスティバルには、1997年から毎年行ってる。

 

以前は木曜の前夜祭から月曜の朝まで大人数で宿に泊まってたっぷり満喫してきたが、ここ10年ほどは、子供が小さかったこともあり、3日間のうちラインナップ次第で1〜2日に狙いを定めて行くスタイルにしている。

 

しかし、今年は藤井風の出演が発表された瞬間、ぼやぼやしてるとソールドアウトして後悔するぞと思ったのと、発表されたラインナップが例年以上に好みすぎたので、勢いで早めに3日通し券を購入した。

つまり、10年以上ぶりのフル参加。

あの頃ほどの体力はないが、経験値と経済力でカバーすべく、すなわち椅子に座った状態での15分ほどの仮眠を何度もとって体力を温存しながら、着圧タイツと登山用靴下で披露を軽減していくことで、歩きまくり踊りまくりの3日間を乗り越えられた。

天気が大きく崩れることがほぼなかったことも幸いしたと思う。

 

 

細かい感想は後の方で述べていくとして、先に総括をしておくと、自分にとっての今年のテーマは2つ。

ひとつは、Khruangbin(クルアンビン)を土曜日のヘッドライナーに大抜擢したこと。

もうひとつは、パレスチナをめぐるさまざまな動きにフジロックはどう反応するのか。

 

 

まず、クルアンビンについては、前回のフジロック出演の際にこんなブログを書いた程度には、思い入れがありまして。

 

当時はフィールド・オブ・ヘヴンでマニアックな客を相手にライブしたわけだけど、それが6年経って堂々たるヘッドライナーとして帰ってきた。

 

これは当然グリーンステージで彼らの凱旋を見届けたと思うじゃないですか。

でも実は今回は見送ってます。裏でやってたBADBADNOTGOODを見ていた。

 

クルアンビンは、70年代のタイの音楽に影響を受けたアメリカ人のバンドなんだけど、彼ら以降、同じようなコンセプトのバンドが明らかに増えた。

今年のフジロックにも何組か、そういう欧米以外のローカルな音楽のモチーフを取り入れた欧米人のアーティストが出演していたんだけど、どうにも今年はその流れに乗れなかった。

 

その手のアーティストのライブを見ながら、なぜ今の自分はこれがピンときてないんだろうと考えていたんだけど、その場では答えが出なくて。

ただその後、ところ天国で鈴々舎馬るこ師匠が「目黒のさんま」というネタをアレンジして演じていたのを見て、ちょっと気づいたことがあって。

 

「目黒のさんま」というのは、出先で地元の百姓に焼いてもらったさんまのおいしさが忘れられなくなった殿様が、お屋敷に戻ってさんまを食べたいと所望したところ、料理番が変に気を回してさんまをわざわざ蒸して脂を抜いてしまって小骨も取り除いてしまってつみれ汁にしてしまい、まったくの別物になってしまったという噺。

 

今の自分の気分として、欧米人によるローカル音楽解釈が、脂の抜けたさんまのように感じてしまったんだよね。そんな自分のモードに気づいたので、好きだったクルアンビンを見ても今なら物足りなさを感じてしまうかもしれないと。

それならいっそ、ヘッドライナーの逆張りをしてみようと思った次第。これまでもヘッドライナーの裏で数々の伝説が生まれてきているのがフジロックでもあるので。

 

そしたら案の定BADBADNOTGOODがめちゃくちゃすばらしいライブを見せてくれたので、この判断は正しかったんじゃないでしょうか。

 

 

もうひとつのテーマと思っていたのが、パレスチナのこと。

2023年のハマスによるイスラエルの音楽フェス襲撃事件をきっかけに激化したイスラエルによるガザ地区への攻撃は、現在も続いている(そもそもパレスチナ問題はもっと前からある)。

イスラエルによるパレスチナの破壊に加担するトランプ政権や、イスラエル寄りとされる世界的企業たち、またナチスへの反省が強いあまりにパレスチナに連帯する市民をも反ユダヤ主義として弾圧してしまうドイツなどに対して、世界中で大規模な市民の反応を生んだ。

 

音楽の世界では、多くのアーティストが、イスラエルやトランプ政権に対する抗議とパレスチナへの連帯の姿勢を示してきた。

今年のフジロックの3日目のヘッドライナーであるMASSIVE ATTACK(マッシヴ・アタック)もそのひとつだし、同日のKNEECAP(ニーキャップ)もそう。

この時期に彼らをブッキングするっていうことは、そして配信に乗せるっていうことは、フジロックのスタンスを決定づけることだったと思っている。

 

そもそもフジロックというのは、RAGE AGAINST THE MACHINEやATARI TEENAGE RIOTやASIAN DUB FOUNDATIONといった政治的なメッセージを強く打ち出しているバンドを積極的にブッキングしてきた。日本だと忌野清志郎やソウル・フラワー・ユニオンや加藤登紀子。

その流れからすると、今年のラインナップは当然とも言える。

 

KNEECAPのライブでは、世界中のデモで叫ばれている「Free Free Palestine!」というコールが何度もあったし、MOGWAIはステージ上にパレスチナの旗を掲示していた。

SNSでめちゃくちゃに論争が起こった通り、MASSIVE ATTACKは日本語字幕をつけた映像でパレスチナ問題やテック企業による監視や世論の誘導について真正面から警鐘を鳴らしていた。

音楽に政治を持ち込むな、なんて意見がいまだに日本のSNS上には飛び交ってるけど、そんな議論はとっくに通り越した境地で、やるべきと思った表現をやっていた。

それでこそフジロックだよな、と思いました。

 

来年でフジロックは30周年になるみたいだけど、それまでにパレスチナにもウクライナにもイランにもその他の地域にも平和が訪れていたらいいのになと思いつつ、もしそうなっていなかったら、フジロックとして何らかの打ち出しがあるのかについても期待したい。

 

 

 

この後はアーティストごとの感想を時系列でダラダラ書いています。

自分が数年後に読み返して懐かしく思うためのテキストなのですが、時間に余裕がある方はお付き合いいただけたら幸い。

 

7月24日(金)

1時間単位の予報や雨雲レーダーでは一時的に雨になると出ていたので雨具でしっかり備えたが、結果的にほとんど降らず。

暑さもそれほどではなく、過ごしやすかった。

 

テレビ大陸音頭

ずっと見たかったバンド。

若くて勢いがあって破壊的な魅力があり、30年前のキングブラザーズなどを彷彿とさせた。

ただ、今どきだなと思ったのはみんな演奏がうまいってこと。

この手の若手って、バンドとしては荒削りだけど得意分野の楽曲では爆発的なノリを生み出せるみたいな、一芸入試みたいなことが多かったけど、かれらは楽曲の幅が広くていろんな武器を持ってる。一芸どころか帝大って感じ。

 

クマイルス

カンボジア音楽を演奏する日本人のバンド。

クレイジーケンバンドとほぼ同じ編成の大所帯で、タイのモーラムにも共通するイナタイ音を鳴らす。前述の「目黒のさんま」のたとえで言うと、地元民も捨てるような癖のある部位だけを凝縮したような感じ。

最高すぎてCD買った。

 

ALTIN GUN

わたくし実はイスタンブールでCD屋に行ったほどトルコの音楽にハマったことがありまして。音源は前から好きだったバンドで、やっと生で見れた。

アナドルロックのエッセンスを、現代的なサイケ感も含めインディーロックっぽく昇華していつつ、おいしい脂の部分はしっかり味がした。

 

TURNSTILE

前回はホワイトステージに登場して大盛り上がりした、人種も性別も混合のハードコアパンク。

グリーンステージの規模でも、あの熱狂は維持されていた。

曲と曲の間の時間が異様に長かったりするんだけど、それも客が次のモッシュに備える時間のためじゃないかと思うほど。

 

HYUKOH

韓国を代表するインディーロックバンド。去年は台湾の落日飛車とのコラボでグリーンステージに出演したが、今年は単独でレッドマーキーに登場。

繊細でメロウかつオルタナなアンサンブルは健在でした。

 

7月25日(土)

朝からちょっと雨。

藤井風もしくはXGが目当てだと思われる、フジロックでは普段見かけない客層が目立った。

とはいえ、悪い意味で浮いてたりとか、いわゆる「地蔵化」の問題はそんなに気にならず、みんなはじめてのフジロックを楽しもうとか溶け込もうとしているように見えた。



柴田聡子(BAND SET)

ダブマスターXのPAによるダビーな「ワンコロメーター」から始まったのはフジ仕様か。

そこから「雑感」や「シナジー」など名曲連発。

この前見たときにも思ったけど、ベースの人がすごくいい。

ステージさばきもかっこよくて、フェス映えする。

 

neco眠る

10年以上ぶりに見た気がする。

そしてその時よりも今回のほうがよかった気がするのは、気合が入っていたからか、脂が乗ってきたからか。オレンジエコーにしとくのはもったいないほどの盛り上がり方だった。

東のサケロック、西のneco眠るみたいな時期あったよね。

 

LA LOM

ギター中心でクンビアやチーチャを奏でるスリーピースバンド。

クンビアやチーチャって基本的にラテンパーカッションが3人ぐらいいるような大編成バンドが一般的だけど、このバンドはドラマーがめっちゃ器用で1人3役ぐらいこなしていたのが印象的。

足でキック、右手でシェイカー、左手でボンゴ、みたいな感じ。

 

cero

こないだ別のフェスで見たときは5人編成でネイキッドな感じだったけど、この日は7人。

やっぱりこの編成のほうがやりたいことができている感じが格段にある。

一番好きな「Fdf」も5人ではやれなかったのかやらなかったのかだけど、この日はばっちり演奏してくれた。

5人と7人でこうも音の厚みや複雑さや自由度が違ってくるものなのかと驚き。

 

BASEMENT JAXX

ひたすらアッパーで過剰で楽しかった。

なのにクィアな色気や繊細さもあって、ハウスミュージックの好きなところが詰め込まれている。

ライブではトランペットとギターでラテンテイストを増していたのもさらに高評価。

最後の「Where's Your Head At」でゴリラの着ぐるみが大量に出てきたのとか最高。

 

THURSTON MOORE GROUP

客層が若返ったと言われている近年のフジロック。

あのサーストン・ムーアがわりとガラガラだったことからも伺える。だってソニック・ユースで出たときにはグリーンステージだったよ。90年代を知る世代にとっては神格化すらされてるような人だよ。

この日はソニック・ユースのドラマー、スティーヴ・シェリーと共に、あの音のギターをかき鳴らしており、元妻のキム・ゴードンがトラップとか新しい取り組みに行ってるのと対照的だった。

 

藤井風

アーティストグッズの物販ブースがこの人だけ別枠だったことからもわかるように、圧倒的に集客した藤井風。

いきなりPAブースからサックスを吹きながら花道を闊歩してステージに登場したところから、大入りのオーディエンスの心をがっちり掴んでいた。まさにスターといった風格。

音の方はというと、70年代スティーヴィー・ワンダーのようなニュー・ソウルを基調とした音楽性を高い演奏力で表現しており、客寄せのために単に人気者をブッキングしてみたっていうことではない。フジロックのヘッドライナー格を務めるにふさわしいライブだった。

 

BADBADNOTGOOD

ここでXGかサニーデイ・サービスからクルアンビンに行くのが王道でありましょう。

しかしフジロックの数々の伝説はヘッドライナーの真裏で作られてきたことも事実。

健全な逆張り精神でBADBADNOTGOODへ。

すると同じ気持ちの人たちがヘヴンに集結していたらしく、周囲にいる全員がまったくバラバラの踊り方で好き勝手に楽しんでおり、これこれ!っていう気持ちに。

もともと彼らのことはいわゆる新世代ジャズの中でも好きなグループのひとつだったけど、卓越した演奏技術だけでなくライブ運びも上手で、ますます好きになった。

YMOの「RYDEEN」のカバーも楽しかったけど、最後にさらっとやったロイ・エアーズの「Everybody Loves The Sunshine」が鼻血が出るほどかっこよかった。

ヘッドライナーの逆張りによる成功体験がまたひとつ自分のなかで積み上がった。

 

TOMORA

ケミカル・ブラザーズのトムがオーロラっていう女性アーティストと組んだユニット。

ライブではオーロラともう一人同じ衣装を着た女性アーティストがいて、双子のようにパフォーマンスしていた。

ケミカルと比べて見た目が華やかであることと、あとケミカルのライブは基本的に全曲が繋がってる構成なんだけど、TOMORAでは1曲ごとに区切っていたことが違い。

音はというと、ダンス要素の薄い歌ものもあったりしたけど、基本的にはケミカル・ブラザーズの凶悪なビートやウワモノは健在で最後はきっちり踊らされたのであった。

 

 

7月26日(日)

朝から雨がしっかり降っていて、昨日までの疲れもあるしでなかなか外に出ていく勇気がわかなかった。鬼の右腕は見たかったけど、ダラダラしていたら浅井健一の途中からに。ブランキー・ジェット・シティの曲を連発していて、中年が熱狂していた。

 

THE LEMON TWIGS

昔から注目していた兄弟。70年代ソフトロックやパワーポップの意匠をしっかりと押し出してくる時代錯誤がたまらない。あくまで長髪っていうのが重要。

彼らがやろうとしていることに深く感じ入るところがあり、以前こういうブログを書いたほど。

ヨット・ロックもポスト・パンクも20年以上リバイバルが続いて飽きたので、次のモードとして「御茶ノ水系」をご提案します - 森の掟

久しぶりに見たら、直球ド真ん中のパワーポップ曲ばかりになっていて、振り切ったなと。

90年頃のレニー・クラヴィッツみたいに、ファッション業界がリバイバルのアイコン的存在として祭り上げてくれないかな。

レニーがマドンナやヴァネッサ・パラディにモテたような感じでイケてる存在になってほしい。

 

KNEECAP

アイルランドの勢いある若手。

おじさん世代からすると、あの頃のビースティ・ボーイズのヤンチャ感とプロディジーのビートの凶悪さとU2のアイリッシュな政治性を兼ね備えたように見える。映画でいうと『パッチギ!』みたいなグループ。

ステージ上にはパレスチナの旗が掲示されていて、「Free Free Palestine!」というコールもやっていた。前の方にいたオーディエンスの中でも即座にコールに反応できる人は多くはなかったけど。



MOGWAI

この後は見たいアーティストが連続していて過酷になるため、ここが最後の休み時間。

MOGWAIはご飯を食べながら後方でゆっくり鑑賞したけど、轟音ギターは健在でした。

あと控えめながらもしっかりパレスチナの旗を掲示していた。

 

GEORDIE GREEP

元Black Midiのフロントマン。何年か前のレッドマーキーで最凶のライブをかまされた印象が強く、またソロ・アルバムもめちゃくちゃよかったので今年のフジでもっとも期待していたアクトのひとつ。

日本人の腕利き若手ジャズ・ミュージシャンをおそらく今回のために招集したとおぼしきバンド編成だったんだけど、練度がすごくて圧倒された。

オルタナ・フュージョンとでも呼びたいような感じで、リズムやフレーズは往年のそれこそ高中正義にもあるようなものだけど、現代的なアプローチでバキバキにソロを回しながら演奏、しかもジョーディーによる即興の指揮もあってスリリング極まりない。ベストアクトかも。

 

ANGINE DE POITRINE

水玉模様のかぶりものというインパクト強すぎるルックスで、女性を中心にめちゃくちゃ注目されていた自称333歳の宇宙人2人組。

ヘヴンでは初めて味わったかもっていう入場規制のため、冒頭の20分ほどは見れず。

ただ、音のほうはポピュラリティーとは縁遠いド変態。

普通のギターはピアノと同じく半音単位で音が区切られているが、彼らはそれを半音以下の単位で区切った特製のギターを使っているため、気持ち悪い音階を奏でることが可能。

また、ルーパーを駆使して、ベースラインとギターリフとギターソロを順番に重ねていくんだけど、使い方がめちゃくちゃ上手なため、ルーパー特有の展開の単調さからは無縁。

ごくごく当たり前のように変拍子も頻発しており、自分で楽器を触る人にはヤバさがより深くわかるようになっている。

BUFFALO DAUGHTER

オレンジエコーの屋台で列に並びながらライブを見ていたら、前にいた白人アニキに話しかけられた。めっちゃファンキーでカッコいいね、このステージはもったいないね、日本では有名なバンドなの?みたいな。

そんなに有名じゃないけど、自分は大好き。90年代から活躍してるバンドだよ、って拙い英語で説明してるうちに、大学生の頃に心斎橋のクラブクアトロで初めてこの人たちのライブを見たときのことを思い出していた。

大野さんはベーシストとしてすごく尊敬しているし、ちょっととぼけたようなセンスの、それでいて強靭な音にはずっとやられてきた。この日も長尺の人力テクノでしっかりロックしていました。やっぱり大好きなバンド。

 

MASSIVE ATTACK

往年の名曲をヴォーカルも含めて生演奏で妖しく重苦しくダビーに演奏。

そしてスクリーンには、パレスチナ問題やテック企業による世論操作といったことを問題提起する映像が流される。

音楽に政治を持ち込むな、なんて意見がいまだに日本のSNS上には飛び交ってるけど、そんな議論はとっくに通り越した境地で、現実に起きていることを日本語字幕つきで訴えかけていた。

そのやり方に白けたり、居心地の悪さを感じたりする人も多いだろうが、そんなことも織り込み済みなんだろう。

 

MUSIC AWARDS JAPANが始まったのがこの時代でよかったよね

昨年から始まった新しい音楽賞、MUSIC AWARDS JAPAN(以下MAJ)。

第2回目となる今年は6月13日に各部門の授賞式が行われた。

 

各賞の発表のたびに「音楽人5000人が選ぶ」という枕詞をつけることで、芸能界の内輪の論理ではなく透明性が担保された選考であることを強調していたのが印象的だった。

 

国際的な権威ある賞に育てていくべく、音楽業界主要5団体が連携してアメリカのグラミー賞をお手本に創設されたとのことだが、60年以上の歴史があるグラミー賞に対してこちらはまだ2回目なので、課題はたくさんあって然るべきでしょう。

 

様々な観点での指摘があった中で個人的に重要だと思うのは、総理大臣の登壇に象徴されるように「国策」としてJ-POPを世界に押し出したいというビジネス目線の強さや政治との距離感の問題、そして、あまり詳しくない部門に何となく投票できてしまう選考方法の問題。

 

前者については、政治と距離が近いことの何が問題なのかピンとこない人がおそらく多そうなので、今の時点だとなかなか議論そのものが成り立たなさそうでもどかしい。

今後もっと分断や全体主義化が進んでヤバいことになってきたら、問題点が明確になってくるのかもしれない。

たとえば国歌斉唱が式典に盛り込まれたり、高市首相のゴリ押しによりディープ・パープルが授賞式で演奏することになったり、政権を批判したアーティストがノミネートから外されたりしたら、さすがにちょっとマズくないかっていう話になってきそう。でもちょっとした風向き次第で簡単にそっちに流れていく未来はありえるでしょ。

 

 

後者については、ヒップホップやジャズ、またアイドルや演歌といった専門性の高いジャンルの賞に対して、畑違いのアーティストや業界関係者が投票することで、一般的な知名度のある人が受賞してしまうという問題がある。

グラミー賞はそのあたりの問題に対してうまく設計されているらしい。

 

たとえばヒップホップ部門でCreepy Nutsが2年連続受賞となったのは、畑違いからの投票によるものが大きいだろう。

そのような投票の仕組みも影響してか、主要な部門はMrs. GREEN APPLEなどのおなじみのアーティストが占める結果となった。

 

その結果に対して、すでに売れているものに賞をあげて意味あんの?といった批判が出たりもした。

たしかに、その意見はもっともだとも思う。

 

しかし、MAJの各賞の受賞者や、授賞式でパフォーマンスを行ったアーティストの顔ぶれを見て感じるのは、いまのJ-POP界が充実したいい状態にあるんだよなということ。

 

 

これがたとえば、20年前だったらどうだったか。

授賞式では、SMAP「世界に一つだけの花」 森山直太朗「さくら(独唱)」 秋川雅史「千の風になって」 平井堅「瞳をとじて」みたいな、やさしいバラードばかりになっていたのではないか。

ヒップホップ部門はケツメイシで、オルナタティブ部門はそもそも存在しないか、レミオロメンが受賞して今年以上に「そもそもオルナタティブとは」みたいな議論になっていただろう。

 

じゃあ10年前だったらどうなっていたか。

リリースの面ではLDHやAKBやジャニーズが圧倒的な存在感を放っていたが、「音楽人5000人」はその勢いに気圧されずに、優秀な楽曲に投票できていただろうか。

本格的なブレイク前だった星野源や米津玄師は正当に評価されていただろうか。

 

30年前だったらビーイング一色になっていたかもしれず、とてもじゃないけど世界に打って出る賞としての体裁が整ったとは思えない。

 

【参考】平成のJ-POP史をざっくり7つの区分に分類した弊ブログの過去記事

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/g/guatarro/20190321/20190321141042.png

 

こうして振り返ってみると、平成〜令和のJ-POPの歴史の中で、ここ数年で明らかにメインストリームの多様性が増して質も向上していることは間違いない。

 

羊文学や藤井風やサカナクションや米津玄師といったアーティストが、日本代表として授賞式でパフォーマンスできている2026年って、めっちゃいい時代ですよね。

 

それが、芸能界の地位が低下した影響なのか、大資本を投下してCDを売りさばくビジネス手法が通じなくなった影響なのか、日本人の耳が肥えてきた影響なのか、サブスクやYoutubeで過去の膨大なアーカイブをタダ同然で無制限に参照して楽曲制作ができるようになった影響なのか、それ以外の要因なのか。

 

ひとつ言えるのは、音楽業界が一致団結して世界にむけた賞を創設したとしても、それに値するアーティストがいないと何の意味もないけど、幸いにして2026年のJ-POP界にはふさわしい存在がたくさんいたということ。

MUSIC AWARDS JAPANが始まったのがこの時代で本当によかったよね。

 

www.youtube.com

 

CEIPA

 

『「いまどきの若者」の150年史』を読んで、個人であることと大人になることについて考えた

先日リリースされた『「いまどきの若者」の150年史』は、日本における「若者」の起源をたどりつつ、おもに団塊世代からZ世代までの若者論について(若者についてではなく、若者論について)語る一冊。

 

古い事例では明治後期の煩悶青年や、戦後すぐの時代に話題になったアプレゲールなど、いつの世も「いまどきの若者」は大人たちにとって得体のしれないものだったということが豊富な事例をもとに紹介されつつ、一方で戦後80年を通じて社会の変化に応じて若者のすがたが変わってきたことも語られている。

 

https://www.chikumashobo.co.jp/docs/images/book/big/9784480685513.MAIN.jpg

 

自分が若者論のターゲットだった時代のこと

自分自身が若者論の対象だった時代は90年代なので、本書でいう第四章にあたる。

 

「80年代の否定」「ドレスダウン」というキーワードで90年代の若者文化の特徴が説明されているが、当時の価値観がうまく言い表わされていると思った。

 

たとえば、ディスコじゃなくてクラブだし、スキーじゃなくてスノボだし、WinkじゃなくてPuffyだし、少年隊じゃなくSMAPだし、という具合。

80年代のバンドはみなスーツやセットアップを着ていたが、90年代はTシャツにジーンズや古着。

 

作務衣を着て頭にタオルを巻いて自然体でブラックバスを釣る奥田民生の姿は、90年代の象徴って感じで、お笑いの世界でドレスダウンを体現したダウンタウンと波長が合ったのもうなづける。

 

80年代ポップスの加工されまくったドラムやキラキラしたシンセの音に対するカウンターとして、レニー・クラヴィッツらがあえてヴィンテージ機材を使った生々しい音作りを追求したのが90年代。

スネアの音を聴けば時代の移り変わりがわかる。

 

80年代的なゲートリヴァーブを効かせまくったスネア

 

90年代的な生々しいドラム

 

しかし、90年代に多感な十代だった自分なんかは、その感覚が行き過ぎた結果、生々しくカジュアルであることに価値を見出すあまり、整っているものや気を張っているものすべてをダサいものとしてバカにするところまでいってしまった。

 

生々しくてローファイな音がかっこいいと思っていたので、演奏がうまいとか音がゴージャスとかいうだけでフュージョンやAORをバカにしてたものでした。

 

今にして思えば、直前の時代を否定することで自分たちのアイデンティティを確立しようっていう、若者に普遍的に備わった態度が、90年代においてはそのように作用したということなんだろうと思う。

 

 

そこで気になるのが、Z世代が上の世代を否定をしていないってこと。

 

90年代が80年代を「スカ」扱いしたような、シラケ世代が団塊世代を否定したような、団塊世代が体制に反抗したような、そういうのがない。

 

その結果として、ファッションや音楽などの分野において、80年代リバイバルと90年代リバイバルとゼロ年代リバイバルが同時進行してしまっている。

ひとつ前の世代がダサくならないから、それぞれのリバイバルがいつまでもアリなまま、次のリバイバルの波が来てしまっている。

 

この現象は過去半世紀には見られなかったものなので興味深いが、本書でいうところの不安定な時代を生きるために社会的自己管理を徹底した結果なのかもしれず、終わらないリバイバルが最終的にどこにたどり着くのかとても興味深い。

 

進み続ける個人化と永遠の若者

『「いまどきの若者」の150年史』の最終章では、いい年をした大人世代が若者文化を持ち続けたまま年をとっていく傾向と、当の若者には逸脱したり反抗したりする余地が与えられておらず大人化せざるを得なくなっている傾向が語られ、「もう、みんな若者で、みんな大人です」とまとめられている。

 

そして、いい年をした大人世代がいつまでも若者のままでいる原因として、この半世紀を「個人化」の進行であると分析している。

 

かつては、共同体の中で体制の一部になっていくことが大人として成熟することとされていたが、団塊の世代以降の若者はそれを拒否し、「自分の生き方を自分で決めたい」という個人化が進んでいったと。

 

自分の生き方を自分で決められる、自由があるということは、それ自体すばらしいことで否定されるべきものではないため、半世紀かけて少しずつそういった価値観が当たり前になっていった。

「早く結婚しなさい」「子供は2人ぐらいいたほうがいいよ」などの発言は、40年ぐらい前は当たり前だったが、20年ぐらい前にはよほど近い関係の高齢の親戚ぐらいしか言わなくなったし、今では他人に言うべきではないこととして高齢者も含めた全世代で規範化された。

 

その結果、世間一般の価値観に生きづらさを感じるタイプの若者もそのままでいられるようになった。

ただ、そもそも大人とは何なのかもわかりにくくなってしまった。

いわゆる「子供部屋おじさん」の何が具体的に問題とされているのか、ということ。一人暮らしをしていないことなのか、経済的に自立していないことなのか、未婚であることなのか。

ひとつひとつの要素を見ていくと、それ自体が問題であるという結論は出せない。

 

 

本書の出版記念トークイベントでも「成熟」に関する議題に多くの時間が割かれていたし、このテーマは語りがいがある。

 

【アーカイブ動画視聴】パンス×柴崎祐二×伏見瞬「“カルチャー小僧”だった私たちが“老害”にならないための“大人らしさ”考」『「いまどきの若者」の150年史』(筑摩書房)刊行記念

 

個人化について思うこと

この「個人化」という概念は、自分が以前から考えていたことと響き合う部分が大いにあった。

 

たとえば江戸時代などにおいても、村には若い衆のグループがあり、多少の放縦や逸脱のある独自のカルチャーが存在していたが、みんなやがては結婚して親の跡を継いで大人になっていった。

村には若者だけが入れる組織もあり、そこから抜けて大人になったということが誰の目にも明らかだった。

その時代と、大人が何なのかわからなくなった現代との違いを考えてみたい。

 

江戸時代の村社会の例を出したけど、これって地方によってはつい最近まで、もしかしたら現在も、その残り香があると思っていて、団塊の世代が個人化に向かっていった1960年代においては、もっともっと濃厚だったはず。

 

ビートルズやボブ・ディランが自由な風を送り込んできた60年代って、学生運動が盛んだったとはいえ、そもそも大学進学率は20%ほどだった。

日本の労働者の3人に1人が第一次産業つまり農林水産業にたずさわっていて、村社会で生きていた人たちという時代。

 

以前に弊ブログでも書いたけど、みんな百姓の子だった。この事実は重要だと思う。

百姓の子は基本的に親の田畑を受け継ぐことが期待されていたが、多くの若者がその引力に逆らうように都会に出ていって工場やオフィスで働くようになった。

 

村社会において家を継ぐということ、そして親が隠居するということは、わかりやすく大人になる条件のひとつだったが、この時期にそれがほぼ失われた。

 

村社会の煩わしさから解放され、お互いに価値観を押しつけ合わずに個人として存在することができている反面、都会で働き自分で家庭を築いたとしても、大人になった実感が持ちづらくなった。

この時代を生きる大人たちのほとんどが、そんなふうな気持ちを抱えているはず。

 

しかし、そんな大人たちの少なからざる割合が、バラバラの個人であることに漠然とした不安を感じてしまうのも事実。

その心の隙間に、宗教やイデオロギーが入り込む余地がある。

 

これまでも自己啓発やカルトがうまくマネタイズしてきた領域だが、個人化がどんどん進行した昨今では、政治家が「行き過ぎた個人主義」みたいなキーワードでこの気分をまとめ上げようとしている。

 

そりゃ確かにすべての人が個人として立ち続けられるほど人間は強くないけど、かといってずるずると全体主義に再び堕ちてしまうことだけは避けたい。

若者を引きずる大人の一人として。

 

 

ゼロ年代に一瞬だけ目立ったシナトラとかいうバンドの話

ゼロ年代の下北沢ライブハウス界隈にシナトラというバンドがいたことを、どれほどの人が覚えているでしょうか。

 

結成からの数年間で、何度かワンマンライブをやったり、CDをリリースしたり、映画の主題歌をやったり、米国でライブをやったりと、それなりに目立つ活動をして追い風が吹いていた頃もあったが、その追い風でさらに飛翔するところまではいけず、2009年に解散したシナトラ。

 

わたくしハシノはこのシナトラというバンドでベーシスト&メインのソングライターをやっていたのですが、解散後に一度だけ、2011年に震災直後の福島県いわき市と東京で復活ライブをやっただけなので、ここ十数年で知り合った方々はシナトラとしてのハシノのことはご存じないことでしょう。

(時代的にSNS前夜って感じなので、インターネット上にもほとんど痕跡がないし)

 

そのシナトラが、この度15年ぶりにライブをやることになりまして。

 

場所は、2011年やそれ以前から度々ライブをやってシナトラにとっては第二のホームだったいわきソニック。

残念ながらいわきソニックは、建物の老朽化のため今年いっぱいで閉店することになってしまったんだけど、最後にシナトラにやってもらえないかというありがたいお誘いをいただきまして、さすがにこのオファーは断れないでしょうと。

 

 

このブログでもシナトラの話はまったくしてこなかったわけですが、せっかくなので、今までライブの打ち上げで対バンの人たちぐらいとしか話したことがなかった、シナトラの音楽面について赤裸々に話してみたいと思います。

 

結成当初のビジョン

シナトラを結成したのは2003年。

学生時代からやっていたバンドで上京したもののわりとすぐに解散してしまったので、下北沢を拠点にいろんなバンドのサポートやイベントのオーガナイズをやりながら、人見知りを克服してとにかくいろんな人に会っていろんな音楽を吸収して新しいバンドの準備をしていた。

 

そんなとき、自身のバンドが解散したばかりのギタリスト、ワラガイマサト(アニ)とユニコーン好きとして意気投合。

新バンドの構想をいろいろ話し合ったり、メンバー探しをしている中で、福岡のSTUDIO44というバンドの音源でゲストボーカルとして歌っていた黒岩トキオを発見。さっそく誘ってみることに。

のちにメンバー募集にて当時まだ大学生だったドラムのウチヤマヒカルが加入し、メンバーが揃う。

 

当時の下北沢といえば、アジカンやバンプに代表されるいわゆる下北系ギターロックの全盛期。

人脈的にその界隈のバンドとも友人知人だったりはするものの、自分たちが今からやるバンドをそっちに寄せるのは違うなと思っていた。

流行に背を向けたい天邪鬼な気持ちと、いま全盛期ってことはそんなに長く続かないのではという先読みマインドと、何よりも、それらのバンドのやってることが自分にはピンとこなかったので。

 

ではその頃どんな音楽を聴いてかっこいいと思っていたかというと、ブラジル音楽やラテン・ジャズやファンク、ブラス・ロックなど。それと70年代の歌謡曲。

そういう要素を、ロックバンドにうまく落とし込めたらおもしろいだろうなという話を、ワラガイアニともよくしていた。

 

そんなときに例の黒岩トキオの歌を発見したもので、自分の中でパズルのピースがバチッとハマった感覚があったんですよ。

つまり、ブラス隊が暑苦しく殴りかかってくるような、それでいて甘酸っぱい切なさがあるような、そんなラテン系音楽のあの感じを歌声で表現できるんじゃないかって。そして和モノのいなたい匂いをスパイス的に効かせつつ、あくまでロックバンドとして成立させることができたらって。

 

さっそく自分たちでレコーディングしてみたのが、この曲。

 

同時代のバンドからの影響

この話はメンバー以外にはしたことがないんだけど、さすがに20年たっているし今さら恥ずかしいとかもないので書きますが、同時代のバンドにもこっそり影響を受けていて。

 

それがこのあたり。

ダブルオーテレサとは対バンした。そのときにちょうどこの曲をやっていて、自分がやりたかったことはこれだ!ってなった。

 

つまり、マイナーキーのいなたいメロ、疾走感のあるギターロック、そしてメインボーカルじゃないメンバーがユニゾンで暑苦しくコーラスする感じ。

当時の自分がロックバンドがこれやったらかっこいいよなと思っていた要素の多くがここに入ってるので、シナトラにはそういう曲がけっこう多い。

 

あとはガレージロックのバンドが奏でる甘酸っぱくて粋なソウルナンバー。

当時シナトラはどのシーンにも属せていない自覚があったんだけど、洋服の並木で仕立てたスーツを衣装にするタイプのバンドとは親和性があって、ご一緒する機会は割と多かった。

 

そんな流れでできたのがこの曲。

 

 

ポストパンク・リバイバル

活動開始して最初の1年ぐらいは、70年代のラテン音楽の切なさと暑苦しさをロックバンドで表現する路線を追求していた。

下北系のトレンドとは意図的に距離をとっていたため、わざわざハードモードな道を歩んでいたんだけど、それなりに手応えもあって自主イベントなどを通じて動員が着実に増えてはいた。

 

そんな中、海外ではポストパンク・リバイバルとかダンス・パンクと呼ばれるようなムーブメントが、アークティック・モンキーズとかラプチャーとかLCDサウンドシステムとかCSSといったアーティストを中心に起こってくる。

日本にもそのムーブメントは波及して、後のいわゆる「邦ロック」のフォーマット形成にかなり大きな影響を与えた。

 

われわれもそのあたりのバンドの手口は大いに参考にさせてもらった。

 

ヘルマンやダブルオーにインスパイアされた要素とダンス・パンクを混ぜ合わせることで生まれたのが、シナトラの代表曲のひとつ「薩摩白波」。

これは作詞も作曲も自分なりに会心の一作でした。

 

黒岩トキオという、良くも悪くもクセの強い突出したボーカリストをどう料理するかっていう、バンド内プロデューサー的な考え方をこの頃からするようになっていた。

 

多様化

「薩摩白波」をきっかけにシナトラは一皮むけた感じになり、レーベルとの話が始まったり動員がさらに増えたりしていく。

 

音楽性についても、ひとつの勝ちパターンができたことで、この路線を軸に広げていけるっていう手応えが持てて、いろんな曲が生まれていった。

アフロビートもスカもストレートなパンクもガレージロックも取り込んで、いろいろ実験するのが楽しかった時期。

 

瓦屋さんの業界の方から、「日本人なら瓦屋根」というテーマで曲を作ってほしいというオファーをもらって曲を作ったことも。

そしたらその曲が幼稚園のダンスで使われ、日本各地の瓦業界が盛んな地域に広まったりもした!

「瓦屋根の歌を」なんてオファー、普通のロックバンドは料理しきれないと思いますが、これを作れたのは作家としての自身にもなったし、バンドとしての器も確認できた感じ。

 

最後の代表曲

いよいよ活動が軌道に乗ってきた頃、この曲が劇場公開映画の主題歌に選ばれる。

 

当時ハシノはnittというユニットのサポートでもベースを弾いていたんだけど、そのnittをプロデュースしていたS-KENさんに、レーベルの縁もあってシナトラのプロデュースもお願いできることとなる。

 

そしてインディーズでアルバムをリリース!米国でのライブ!あと阪神タイガース公式の楽曲にもなって甲子園球場で毎試合流れたシーズンもあったりと、かなりの追い風が吹いたんだけど、いまいち風を捉えきれず、いろいろあって解散。

 

解散することが決まってからいい話が入ってくるっていうバンドあるあるも体験したけど、当時なりにやるだけやって届かなかったということ。ただ、もうちょっと評価されてもよかったのでは?と思わなくもない。いや、かなり思っている。

 

そのあたり、今回サブスクに公開した楽曲や復活ライブを通じて、皆様の意見も聞きたいです。

ということでいわきでお待ちしてます!

 

介護の現場でAI生成ラジオ番組を使うのはアリか?

同世代の友達に会うと、ついつい90年代の話に花が咲きすぎてしまう。

 

カセット→CD→MDだとか、ファミコン→スーファミ→プレステだとか、ポケベル→ガラケー→インターネットだとか、激動の時代をリアルタイムで過ごしてきた実感を昨日のことのように話しているだけで数時間があっという間。

 

でも今はまだこうやってノスタルジーに淫していることが後ろめたいような気持ちがあるけど、自分が80歳ぐらいになったらどうなるんだろう。

ノスタルジーというものが、自分にとってもっと切実な、この世界や他者と自分を繋ぐ数少ない手がかりになっていくんだろうか。

 

 

そんなことを考えていると、こんなリリースを見かけた。

 

博報堂傘下で広告事業を手掛けるTBWA HAKUHODO(東京都港区)は3月5日、AIが過去のニュースやヒット曲をラジオ番組風に紹介するデバイス「RADIO TIME MACHINE」(ラジオタイムマシーン)を開発したと発表した。介護サービスなどを展開するニチイ学館(東京都千代田区)と協力し、介護施設への導入も検証する。

 筐体は、1950年代から60年代のラジオ機器をモチーフにデザインした。備え付けのダイヤルで50年から2025年までの西暦を入力すると、その年の操作日同日のラジオ番組を模した音声が流れる。

 

博報堂DYグループのサイトにはもう少し詳しい仕組みや狙いなどが説明されていて、それによると、ニュース部分はWikipediaをAIに読ませてニュース原稿ふうのテキストを生成させ、AI音声で読ませてるらしい。楽曲は権利者の許諾がとれたものを流すとか。

 

そうやって過去のニュースや懐かしい音楽を通じて当時の思い出を振り返ることで、認知症の予防につなげたいとのこと。

 

で、実際に介護施設の利用者に実際にこのラジオを聴かせてみて実証実験を行ったところ、笑顔が増えたり活発になったり発話が増えたりしたんだと。

 

 

 

なるほど。

狙いはめっちゃわかる。

同世代の友達の発言に触発されて、30年前に見に行ったライブのことや40年前にやっていたゲームのことを突如思い出して、そこから連鎖的に、一緒にいた友達の顔や会話の内容まで蘇ってきたりすること、ありますね。

 

この、いわゆる「記憶の扉が開く」っていう状態は、年をとっていろいろ錆びてきちゃった人にはより効果を発揮しそう。

 

余計な要素を削ぎ落として直感的に操作できる昭和のラジオのようなデザインもいいと思う。

高齢者に馴染みのあるラジオのような見た目で、中身は最新のAI技術が活かされているっていうあり方は、ガジェットとしておもしろい。

 

 

でも、ぬぐいきれないこの違和感はなんだろう。

 

AI技術を活用したラジオ型ガジェットで介護施設にいる高齢者の認知症予防をするっていう、立派なプロジェクトのはずだけど。

 

ちょっとその正体を考えてみたい。

 

 

まず押さえておきたいのが、この「RADIO TIME MACHINE」(ラジオタイムマシーン)は典型的なプロダクトアウトな発想だということ。

 

プロダクトアウト(ぷろだくとあうと):情報システム用語事典 - ITmedia エンタープライズ

 

つまり、AIを使って何か新しいことをやろうって発想ありきで、この技術で解決できる社会的な課題って何かあるかな?と探しにいったっていう順番になっている。

たとえば、音楽をデータ化して何千曲も持ち歩きたいっていう需要があるなんて誰も気づいていなかった時代にiPodをリリースすることだったり、馬車で移動していた時代に自動車を開発するようなこと。

 

そう考えるととてもよいことのように見えるんだけど、プロダクトアウトの落とし穴っていうのもあって、手段ありきで目的を強引に後づけすることがどうしても起こるし、その目的を果たすためにもっと良い他の手段があることを見落としがち。

 

今回でいうと、利用者の認知症予防をしたいというニーズがあり、そのために記憶の扉を開くのが有効なのもわかってるんだけど、現場の介護スタッフだとうまく扉を開くことができていないっていう課題があると。

介護業界にそういう課題があるのは確かだとして、しかしその解決にはAIが必須なわけではないよねっていうこと。

 

 

そう考えると、これって本来ならAI業界じゃなくて、AM/FMラジオ局のほうで仕掛けるべきプロダクトだったんじゃないか。

 

 

「RADIO TIME MACHINE」(ラジオタイムマシーン)の強みのうち、1950年から2025年まで1年刻みにチャンネルを選べて、それぞれの年のチャンネルで毎日コンテンツが自動生成されるっていう、この圧倒的な物量は、そりゃあ人力では無理でしょう。

75年分の75チャンネルで毎日番組を制作するのは既存のラジオのやり方だとコストがかかりすぎる。

Wikipediaを元にニュース原稿を自動生成するっていうのは、これはAIの使い方として正解でしょう。

 

でも、そもそも75チャンネルを毎日更新する必要ってあるだろうか。

このあたりにAIありきのプロダクトアウトの落とし穴を感じる。

 

実際に高齢者に聴いてもらって実証実験をして効果がありましたっていうけど、まあ言ってみれば、お願いだから聴いてくださいって頼まれたから聴いてみたっていう話で。

これ、実験のフェーズが終わって高齢者にとってこのラジオを聴くことが任意になったら、テレビとか既存のラジオとかと競合することになるわけで、そうなるとたぶん選ばれないと思う。

 

 

ベタな結論かもしれないけど、やっぱりそこに人間がいるかどうかじゃないですかね。

「パーソナリティ」っていうぐらいですし。

 

いくら読まれる原稿が毎日変わるといっても、じゃあ明日も聴こうって思ってもらえるとは限らない。

 

そこにパーソナリティがいて、リスナーと一緒に日々を重ねているっていう確かな実感こそが愛着を生むし、餅は餅屋じゃないけど、AM/FMラジオ局はパーソナリティとリスナーの関係性によって明日も聴こうって思わせる手管のプロフェッショナルなわけで。

 

 

たとえばこの件で参考になるのは、FM COCOLOっていう関西のFM局。

ここは、40代以上の「大人」をターゲットにしたFM局というコンセプトで、80〜90年代に活躍したDJを起用して選曲もその時代に完全に寄せている。

 

FM COCOLO - Wikipedia

 

これのもっと高齢世代に振り切ったものとして、たとえば井上順とか森山良子あたりの人を起用して、朝5時から夜9時ぐらいまで昭和の思い出トークに特化した番組を流すラジオ局があればいいんじゃないか。

 

Wikipediaを元にAIに自動生成させたニュース原稿を読むのはいいでしょう。

で、その上で、「いやぁ懐かしいですね、わたしこの時何歳だったんですけど…」とか「みなさんはどうでしたか?」といったトークがあったら、リスナーの記憶の扉がさらに開きまくるんじゃないか。

 

 

そもそも、この「RADIO TIME MACHINE」を介護施設の利用者に聴かせて反応を見ましたっていう実証実験は、典型的な結論ありきのズルい実験なんだよね。

 

どこがズルいかというと、「RADIO TIME MACHINE」を聴かせた人たちと、何も聴かなかった人たちを比べて、聴かせた人のほうが会話が増えましたってやってるところ。

こんなの、丸一日何も食べさせなかった人と、パンの耳を食べさせた人を比べて、パンの耳はすごいんです!って言ってるようなもんでしょ。

 

ちゃんとした実験をやるなら、AIが作った番組を聴かせた10人と、井上順の番組を聴かせた10人と、何も聴かなかった10人で比較しないと。

 

まあ、そうなると井上順が圧勝するだろうけど、番組制作コストの面ではAIが優位なので、両方の良さを活かした落としどころを探していくっていうのが王道なんじゃないでしょうか。

 

 

人間の仕事がどんどんAIに置き換えられようとしている昨今ですが、順番ってものがあるだろうと思うわけです。

たとえば、プログラミング言語やデータベース言語を使わなくても、アプリを作ったりデータを抽出したりできるようになるっていう面では、AIは本当にすごい。

でもどんなアプリを作るかだったり、抽出データをどう活用するかだったりは、まだまだ人間の仕事だなという印象。

 

ラジオのパーソナリティなんてものは、AI化の順番でいうと最後の最後、大トリでしょって思いますがいかがでしょうか。

 

 

NVIDIAがAIに音楽を聴かせて評価までさせはじめた件について調べてみたら怖くなってきた

先日このようなニュースを見た。

 

米国のUniversal Music Group(UMG)が、NVIDIA社との提携を発表したという。

発表によると、NVIDIAのAIインフラと、UMGが権利を持っている数百万曲の音楽カタログを組み合わせて、音楽の発見や創作にかかわるAIを共同で開発するとのこと。

 

NVIDIAといえば、AI向けのGPUで世界的に有名な企業。ただしあくまで半導体というハードを作るメーカーだという認識だったので、こういう分野もやっているのは意外だった。

 

既存のレコメンド機能の限界

今回の件で個人的に気になったのが、「音楽の発見」という部分に、どのようにAIが効果を生むのかという点。

 

たとえば現代の多くのリスナーが音楽と出会う場所として一般的なAppleMusicやSpotifyやYoutubeにおいては、基本的には「このアーティストを聴いてる人がよく聴いてる他のアーティストとか同じジャンル内でレコメンドする」っていう方式だと思う。

今までそのことに別に物足りなさなど感じることもなく受け入れてきたし、このようなものでもありがたく重宝してきた。

 

▲今日のわたくしのAppleMusicのレコメンドはこんな感じ

 

自分の場合、80年代のベイエリアのスラッシュメタルとか、70年代のフィリー・ソウルとか、60年代のリズム歌謡といった感じで、明確にジャンル名やキーワードで好みを自覚できているので、そのジャンルの今まで知らなかった名曲とか超マイナーなバンドとかをプレイリスト内で掘り下げていくみたいな聴き方をするにあたっては、既存のレコメンドはわりと役立っている。

1枚1枚CDやレコードを集めていた頃には時間的にも経済的にもたどり着けなかったような深いところまで掘れるようになったのは、単純にありがたいと思っている。

 

でもこれって、自分がどういう系統の音楽とかジャンルが好きだってことが自分でわかっているからできていることなんだろう。

 

日頃そこまで熱心に音楽を掘らないタイプの人にとっては、すごく好きなタイプの曲に出会ってしまって、こういうのもっと聴きたいと思っても、たぶんそこから先に行けない。

ジャンル名とか年代といった、既存のレコメンドがキーにする情報を持てていないから。

 

そう考えると、音楽を売りたい側(つまり今回のユニバーサルなど)にとっては、そこにビジネスチャンスがあるってことなんだろう。

既存の手法では効果的なレコメンドができてこなかったリスナー(おそらく大半の人がそう)は、未開拓のブルーオーシャン。

 

Music Flamingoはどこがすごいのか

では、今回NVIDIAとUMGはどうやってそこにイノベーションをもたらそうとしているのか。

発表にはこのように書かれていた。

 

NVIDIAの音楽理解モデル「Music Flamingo」を拡張し、従来のメタデータ(タグやジャンル)に依存した検索を超え、楽曲の構造、ハーモニー、さらには歌詞や文化的背景までを踏まえた“人間のような理解”に基づく発見体験を目指すとしている。

 

つまり、楽曲に割り当てられたジャンルなどのデータを使った従来のやり方のレコメンドではなく、まるで人間がやっているように音楽の中身を理解しますよと言っている。

 

本当にそんなことが可能なんだろうか。

具体的にイメージできなかったので、もう少ししっかり調べてみたところ、こんな論文がヒットした。

 

 

技術的な部分は難しくて全然わからなかったけど、特徴としてはこんな感じらしい。

 

・曲のテンポ、コード、キー、使われている楽器などの情報を読み取る

・特にヴォーカルは声の重なりとかハーモニーや歌詞の内容まで検出する

・曲の構成(Aメロ〜Bメロ〜サビ〜間奏など)やダイナミクスを把握

・文脈に基づいた分析

 

たしかに、曲のBPMの検知だったら大昔からCDJでもできていたことだし、キーやコード進行の読み取りも無料アプリとかでもできる時代。

使われている楽器についても、いろんな楽器ごとの波形を学習させれば比較的簡単に理解できるようになるだろう。

楽曲構成だって、BPMとコード進行がとれたら、8小節ごとに繰り返しているパターンがわかるし、数種類の繰り返しの中で強調されているところがサビだなとわかるかもしれない。

ここ数年でビデオ会議の文字起こしの精度がものすごく向上しているので、歌詞を聴き取ることもできるんだろうなとも想像がつく(ただし歌い方のクセがすごくて演奏も爆音な、メタリカみたいなバンドだと相当難易度が高そうだけど)。

 

このあたりのことは、今どきのAIならやれるんだろうなと想像がつく。

そして今までのレコメンドとは一線を画すイノベーションなんだろうなというのもわかる。

なにしろ実際に音楽を「聴いて」いるわけなので。

 

これに比べたら、AppleMusicやSpotifyやYoutubeがやってることなんて、自分で食べに行ったわけでもないのに食べログを熟読してるだけでグルメぶってる奴みたいなものでしょう。

 

文脈がわかるとは

だけど、「文脈がわかる」ってどういうことなんだろう。

楽曲を「聴いた」だけでは、リリースされた時代の背景だとか、誰がどんな狙いで歌っているかといった、楽曲そのものには埋め込まれていない情報は得られないんじゃないか。

自分なんかはそういうものこそが「文脈」ってやつだと思っていますが、音そのものから読み取れた情報だけで分析できるものなんだろうか。

 

 

NVIDIAのサイトには、実際に既存の楽曲をMusic Flamingoに分析させたサンプルがあった。

 

 

たとえば、このブルーノ・マーズとレディ・ガガのデュエット曲を分析させてる。

 

Aメロとサビのコントラストがすごいねとか、音色やコード進行からすると2020年代の洗練されたオルタナティブ・ポップ・ロックっぽいねとか、永遠の愛について歌ったラブソングだねとか、メランコリーで内省的なトラックだねとかいったことを、この曲からAIが読み取ったんだって。

 

なるほど…。

たしかに楽曲を聴いて分析してるし、一応は文脈らしきものも踏まえてるとも言える。

 

ただ、やっぱりわれわれが使う意味での「文脈」とは違うってことがわかりました。

 

 

たとえばMusic Flamingoにはコミックソングはわからないと思う。

たぶん「慎吾ママのおはロック」を聴かせても、軽快なビートにのった元気な曲でポジティブな歌詞ですねとかしか言えないし、「PERFECT HUMAN」を聴かせても、バキバキのEDMで歌詞の内容は完璧な人間を称えるものですねとか言うはず。

 

逆にいうとですよ、人間が音楽を聴いて何かを感じるっていうことって、めちゃくちゃ複雑ないとなみをやってるんだなってあらためて思った次第。

 

いや、もしかしたら来年にでも背景とかまで学習するようになって、「慎吾ママのおはロック」について、SMAPや小西康陽やビッグビートやジェンダー交差歌唱といったワードを使って語るようになるかもしれない。

 

暗めの未来予測

もしもMusic Flamingo的なテクノロジーがさらに発達していくとどうなるか。

 

昨今のミュージシャンにとって、自分たちの曲を幅広く届けたかったら、各サブスクサービス内のリスナーが多いプレイリストに拾ってもらうことがとにかく大事らしい。

現在はそのプレイリストの選曲は人間がやってるはずだけど、近いうちにMusic Flamingo的なAIがプレイリストの選曲をやるようになるだろう。

なにしろ音楽を作ることのハードルもAI活用によって極限まで下がっているので、日々リリースされる楽曲の数はとんでもないレベルで増え続けるだろうし、いずれ人力で選曲するのにも限界がくるに違いない。

 

そんな時代にミュージシャンが考えることは、AIが気に入ってプレイリストに取り上げたくなるような曲を作ることになるだろう。プレイリストに拾われない限りリスナーが増えないんだとしたら。

 

ウェブサイトを作ってる人が、そのサイトが検索結果の上位に表示してもらえるようにGoogleの顔色を見ていろいろ工夫をこらすこと(SEO)が重要な業務になっているのと同じ具合に、ミュージシャンはAIにいい曲だと判定してもらえるような曲を作るのが仕事になっていくんじゃないか。

で、どういう曲が選曲AIに好まれるのかは、自分のところのAIに相談すればいいし、何なら楽曲もそいつに作ってもらえばいいってことになる。

AIに音楽を作らせること自体にはポジティブな可能性も感じるけど、AIに聴かせるための音楽をAIに作らせる世界って、音楽好きにとってはやっぱほとんどディストピアのように見えてしまいますね。

 

「いろんな雑務はAIに任せて、人間は人間にしかできないクリエイティブな仕事をやるのが明るい未来!」みたいなことをAI屋さんはみんな言うけど、選曲とか批評までAIに明け渡すのって話が違うんじゃないですかね。

選曲って行為がとにかく大好きなんで、最後まで明け渡したくないのですが。

 

 

Music Flamingo: Scaling Music Understanding in Audio Language Models -  NVIDIA ADLR

大河ドラマ60年の歴史は保守と革新の二大政党制だった!?だとすると『豊臣兄弟!』は…

大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新情報 - NHK

2026年の大河ドラマは、豊臣秀吉・秀長の兄弟を描く『豊臣兄弟!』。

 


貧しい百姓から織田信長の家来になり、数々の手柄を立てて織田家重臣に出世、信長の死後はライバルを蹴落として天下人にまでのぼりつめた豊臣秀吉の人生は、多くの日本人にとって馴染みのあるものだろう。

 

今回は、保守と革新の二大政党制としての大河ドラマの歴史における『豊臣兄弟!』について考えてみたい。

 

二大政党制としての大河ドラマ

実は大河ドラマとは二大政党制みたいなもので、保守と革新との間で振り子のように左右の振れを繰り返してきた。

 

日本人が好きな歴史上の人物はずっと織田信長坂本龍馬なので、そのあたりの時代を余計なことをせずしっかり重厚に描いてほしいという民意にこたえるのが保守的な立場。

 

それに対して、ここ最近は、金栗四三渋沢栄一紫式部北条義時蔦屋重三郎といった、ちょっと攻めた人選を主役にすえることが多く、いわば革新寄りのターンだったと言える。

 

 

とはいえ革新ターンにおいても、あくまで大河ドラマという枠の中で成立させることが求められる。

民主党が政権を獲っても外交など国の根本は維持されたっていうのと同じことで、枠を大きく逸脱することは、NHKの名において、できない。

 

大河ドラマという枠の外に出たら『首』のような超ラディカルなものも作れる↓

 

ただ、枠の中で新しいことをするっていうさじ加減はかなり難しくて、革新志向の大河ドラマは視聴率的には苦戦しがちでもある。

 

大河ドラマを必ず見るっていう層のニーズは基本的に保守なので、逸脱しすぎると見てもらえない。

うちの老親なども革新ターンの大河ドラマはいつも途中で離脱していて、『いだてん』も『べらぼう』もどちらも苦手だったと言っていた。

 

 

戦国と幕末ばかりの保守一辺倒だと飽きられるが、なじみのない時代のドラマにはついていけない。

このジレンマに対するひとつの回答として、信長や龍馬ではなく、その周辺にいた人物を主役にすえるというやりかたがある。

『豊臣兄弟!』もそのパターンで、秀吉ではなく弟の秀長を主人公にするというずらし方。

 

ちなみに、超有名人の近くにいて無名だけど実は激動の人生だった主人公のパターンで、さらに女性であれば、大河なんてどうせ武張ったおじさんのものでしょっていうイメージの刷新もできる。

 

信長の姪でありながら実父も養父も殺されるなどしたけど最後は徳川将軍の正室になったという『江〜姫たちの戦国〜』(2011年)なんかはその典型。

坂本龍馬西郷隆盛という超有名人が脇役として出てくる『篤姫』(2008年)『八重の桜』(2013年)『花燃ゆ』(2015年)もそうで、この系譜は古くは『おんな太閤記』(1981年)『春日局』(1989年)あたりに遡ることができる。

 

 

 

また、保守や革新っていうのは、扱う時代や人物におけるそれにとどまらず、ときには美術や音楽の使い方にまで現れてくる。

 

リアリズムを追求した「汚い」美術や、エマーソン・レイク・アンド・パーマーの「タルカス」を大胆に使った音楽などが話題となった『平清盛』に対しては、当時の兵庫県知事が苦言を呈したりもした。

 

ルーティンの描き方でわかる保守性

たとえばめちゃくちゃ有名な歴史上のエピソードってあるじゃないですか。

本能寺の変だとか近江屋事件(龍馬暗殺)だとか。

大河ドラマでその時代を扱う以上は避けられない、テクニカルルーティン(規定演技)のようなもの。

 

敵は本能寺にあり」と叫ぶ馬上の明智光秀。本能寺で白い着物を着た信長が、森蘭丸と一緒に槍を持って押し寄せる明智の軍勢と戦うが多勢に無勢。「是非もなし」と覚悟を決め奥の部屋に籠もり「人間五十年」と歌って不敵な笑みでも浮かべながら死んでいく信長、みたいな。

 

こういうのをどこまでベタにやり切るかで、そのドラマの保守性が見えてくるわけです。

逆に、革新はこの規定演技をどう斬新にやるかが腕の見せどころになってくる。

 

三谷幸喜はこれが抜群に上手で、『真田丸』では本能寺の変を直接描かずいわゆる「ナレ死」で処理したことで話題になったんだけど、本能寺から遥か遠い東国で少年時代を過ごしていた真田信繁(幸村)にとっての本能寺の変とはそれぐらいの距離感なんだろうな、というリアリティがむしろあった。

 

今年の『豊臣兄弟!』においては、桶狭間の戦いという超有名エピソード(=テクニカルルーティン)があったばかり。

押し寄せる今川の大軍に対してパニック状態の織田家においてひとり落ち着いている信長、快進撃に油断して陣中でくつろぐ今川義元、「人間五十年」という例のアレ(「敦盛」)を舞う信長、突如として出陣し「狙うは義元の首」と大雨の中奇襲に成功する信長といった、桶狭間と聞いてみんながイメージするシーンをひとつも漏らさずやってくれたわけで、『豊臣兄弟!』はかなりの保守本流をやろうとしていることがうかがえる。

 

史実とフィクションの取り扱い

歴史上の人物のよく知られたエピソードには、史実ではないものがたくさんある。

 

その多くは、歌舞伎や浄瑠璃や書物などを通じて江戸時代に広まったフィクションがなんとなく広まったものだけど、昭和においても司馬遼太郎が小説でおもしろくするためにそれらしく書いたエピソードが定着してしまったみたいなパターンもある。

また、近年の歴史研究が進んだ結果として、みんなが知っているのとは異なる新たな事実が解明されてきたというパターンもある。

 

大河ドラマとして、そういうものをどう扱うか。

どの大河ドラマにも時代考証というスタッフが存在しており、史的に間違った描写がされないようにチェックされているが、一方で現代人が面白いと思えるドラマにする必要もあるのでガチガチすぎても仕方がない。そこのバランスを取るのが重要になってくる。

 

どんなにおなじみのエピソードだとしても、フィクション由来のものはバッサリ削って、史実に即していくやり方のほうが、どちらかというとラディカルで革新寄りのスタンスと言えるだろう。

逆に、絵空事だとわかっていても、国民的な共通意識の置きどころとして必要であろうとばかりに、保守の務めとしてきっちり描き切るというのも、ひとつの立派な姿勢だとも思う。

個人的には、描きはするが新たな解釈を加えるという第三の道を示されると、脚本家の腕を感じられてうれしくなる。

 

たとえば『豊臣兄弟!』においては、信長の草履を懐で温めたという件について、実は草履を盗もうとして懐に入れていて、それがバレて言い訳として言ったという斬新な解釈をやっていた。

 

嘘をつくことに後ろめたさがないという『豊臣兄弟!』における秀吉のキャラクターを補強するエピソードとして機能しており、効果的だったと思う。

 

左右に振れながら前に進む大河

低視聴率のリスクを抱えながらも大河という枠に新しい空気を持ち込む革新側と、堂々と期待に応えることを目指す保守側との間で、60年以上にわたって左右に振れながら続いていた大河ドラマ

 

視聴率が20%を下回ると失敗作扱いされてしまう大河ドラマとしては、常にマジョリティの感覚に寄り添うことが求められるが、視聴者の価値観というやつはこの50年でかなり移り変わってきた。

ここまで『豊臣兄弟!』は保守だと書いてきたが、同じ保守でもジェームス三木(1987年の『独眼竜政宗』など)や橋田壽賀子(1981年の『おんな太閤記』など)の時代とはたとえば世の中のジェンダー観がまるで違ってきているでしょう。

 

たとえ戦国時代の話だとしても、親が勝手に決めてきた政略結婚だとか、側室を何人ももうけて世継ぎを産ませるとかいったことをただただ無条件に受け入れる感じは、最近の大河ではもう見かけなくなった。

主人公自身は正室と一夫一婦制で何不自由ないと思っているが家臣たちが無理やり側室と引き合わせる、とか、政略結婚ではあるがお互いに男女として惹かれ合っている、みたいな処理の仕方が目立つ。

 

これは例の「誰も傷つけない笑い」と同じで、意識が高い一部の人たちがポリコレのために不自然にそっちに引っ張っていこうとしているとかではなく、視聴者のマジョリティに感情移入してもらうために必要なこと。

前衛による啓蒙ではなく大衆への追従。

筆者などは、戦国時代の人間のくせに現代人みたいな価値観だな…と感じさせる描き方には興ざめしてしまうクチだが、とはいえ、北野武『首』みたいなリアルすぎる人物像で大河をやるとみんなドン引きするはずなので仕方がないと思っている。

 

 

 

左右に振れながら時代の流れに応じて進んでいる歴代の大河ドラマの中で、数年に一度大きな話題になる作品があらわれてくるんだけど、それらに共通しているのが、保守と革新の両方の側面をもっているということ。

 

戦国時代でありつつ東北地方という周縁部にスポットを当て、渡辺謙という当時ほぼ無名の俳優を抜擢した『独眼竜政宗』(1987年)。

坂本龍馬という超ベタな主人公を扱いながら、リアリズムを追求した美術や生々しいカメラワークが話題になった『龍馬伝』(2010年)。

源平合戦という、戦国や幕末に次ぐ知名度の時代を扱いながら、組織内の権力闘争という側面を硬軟織り交ぜて描き切った『鎌倉殿の十三人』(2022年)。

 

つまり、成功する大河ドラマの条件っていうのは、「保守の中の革新」だったり、「保守も納得させる懐の深い革新」なんだと思う。

『豊臣兄弟!』がそうなれるかどうか、見守っていきたい。