森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

ハードオフでウサギ狩り、または退屈しのぎに親になること〜『暇と退屈の倫理学』より

サラリーマンの降って湧いた暇と退屈

サラリーマンをやっていると、道路にぽっかり空いた穴のようなイレギュラーな平日休みがたまに訪れる。

有給消化とか休日出勤の振替休日のような名目で。

 

つい先日、久々にそういう日が訪れたんだが、さてどのように過ごそうかと悩んでしまった。

 

自分はどちらかというと一人で過ごすのは得意なタイプだし、「趣味がないのが悩みです」みたいな人のことがまったく理解できないぐらいにはいろんなことに興味がある。

それでも、コロナ禍に降って湧いた半日はなかなか中途半端で扱いに困った。

 

具体的な計画がまとまらないまま当日を迎え、とりあえず街に出て本屋が開く時間までコーヒー飲んで潰した。

せっかくだしこの休みはじっくり本でも読むかという考えである。

 

午前10時の時点ですでに時間を持て余しはじめていることに気づきながら入った本屋で、なんとなく目に止まった1冊の本に釘付けになった。

 

『暇と退屈の倫理学 増補新版』

 

こちら、2011年に出た本の増補版として2015年にリリースされているわけで、特に新刊というわけでもタイムリーなわけでもないはずなんだけど、なんでだか平積みされていて、たまたま引き寄せられるようにその棚の前を通りがかった自分の目に止まり、そうすることが決まっていたみたいな勢いでレジに持っていった。

 

この本には、今の自分が抱えていることを考えるヒントがあるかもしれないと思った。

 

暇と退屈の問題意識

休みの日に何もしないでいることに対して、ものすごく罪の意識のようなものを感じてしまう。

 

昼過ぎまで寝てそのままダラダラして気づいたら夜になっていて…という日をたくさん過ごしてきてしまった20代の自分。

そんな1日の終わりには、同年代や年下の、才能もあって日々の努力も惜しまず若くして世に出たような人たちと自分を比べて、激しく落ち込んだものだった。

 

それから長い年月がたって、人の親になったり会社で責任あるポジションになったりした今になっても、「何もしない日」に対する恐怖心のようなものが心の中にずっとある。

 

家族でどこかに出かけるのは、罪の意識なし。

ひとりで映画館に行くのは、罪の意識なし。

だけど子供が近所の公園で遊んでいるのを見守っているだけの1日は、ちょっと心がざわざわする。

たしかに子供にとっては、あたらしい友達との出会いや遊びに夢中になれる時間は、別に車で遠出した大自然の中じゃなくても、近所の公園でも体験できるもの。

だけど、親である自分にとっては、近所の公園での時間は「何もしない日」にちょっと近い感じがするからざわざわしてしまう。

 

そんなタチの自分にとって、降って湧いた半日の過ごし方は難しい。

「何もしない日」にならないようにするにはどうすればいいか。

 

結局この日は、この本を読みながら電車で遠出して湘南に行くことにした。

これにより、①読書するまとまった時間(電車の中だとはかどるから) ②普段なかなか行けない地域の酸辣湯麺トロール ③普段なかなか行けない地域でスマホ位置ゲーのチェックイン ④普段なかなか行けない地域のハードオフでレコード探し ⑤弊社のプロダクトが展開されてるので現地で体験 という5つの目的を今日という日に持たせることができることになった。

 

ここまで揃うと「何もしない日」ではまったくない感じになって、まことに心が落ち着いたのだった。

 

ハードオフでウサギ狩り

『暇と退屈の倫理学』は案の定めちゃめちゃ刺激的な本だった。

小田急片瀬江ノ島駅に着くまでの車中で読みふけった。

 

これからハードオフのジャンク品コーナーに行こうとする自分に特に刺さったのが、17世紀のフランスの思想家パスカルによるたとえ話。

 

これからウサギ狩りに行こうとする人に、「ウサギ狩りに行くのかい?それなら、これやるよ」と言ってウサギを与えるとどうなるか。

喜んでくれるわけはなく、嫌がらせにしかならないだろう。

 

なぜなら、ウサギ狩りに行く人は別にウサギがほしいわけではなく、退屈から逃れて気晴らしをしたいからわざわざ遠出してウサギ狩りをするのである。

一日中野山を駆け回ってもウサギは一匹も見つからないことだってあるし、それがわかっていても人はウサギ狩りに出かける。

 

ハードオフのジャンク品コーナーにあるレコードも、基本的にウサギ狩りと同じ。

大量のクズみたいなレコードの山をかきわけて、少しでもアンテナに引っかかるものを見つける。客観的に見ると気が遠くなるような行為である。

 

さだまさし、アリス、クラシック、民謡、因幡晃、童謡、ムード音楽、松山千春、、、のループが30周ぐらいするはざまに、多少珍しいコミックソングとかちょっとグルーヴを感じる演歌とかが掘り出せる程度。

 

はっきり言って時間の無駄。

目当てのレコードがあるなら、さっさとディスクユニオンヤフオクで探すべきで、多少マシかなと思えるレコードのために数時間を費やすなんて正気じゃない。

 

だけど、自分の基準ではこれは「何もしない日」にはカウントされない。

 

子供と公園にいるほうが100倍まともだって思われるのは百も承知だけど、誰にも迷惑をかけずに心の安定を保ったんだからいいじゃないですか。

 

人間が退屈する理由

『暇と退屈の倫理学』によると、古今東西さまざまな哲学者が「退屈」について考え続けてきたのだそう。

 

その中でも注目すべきはハイデッガーという20世紀を代表するドイツの哲学者の退屈論なんだって。

著者はハイデッガーの退屈論を参照しつつ、批判的なアプローチで独自の退屈論を展開していくんだけど、大まかに言うと、人間は何もすることがない状態に耐えられないほどの苦痛を感じるようにできている。

その耐え難い苦痛を避けるためなら、多少の苦痛は喜んで受け入れる。

 

家でじっとしていることができないがために、わざわざ出かけて疲れるようなことをする。

江戸時代の漁師が、短い期間だけ漁に出て大儲けしたものの、漁に出ていない暇な時間を持て余して博打に手を出し、地元のヤクザに身ぐるみ剥がされるみたいなエピソードを思い出した。

 

その反面、人間というのは新しい刺激ばかりだと疲れてしまうので、「慣れ」という機能を活用して省エネ化する仕組みももっている。

たとえば引っ越したばかりの頃は近所を歩くだけで大冒険だったけど、しばらくすると完全に身体が道を覚えてしまい、脳をまったく使わずに駅までオートモードで着くことができるようになる。

 

この「慣れ」は脳の消費カロリーを抑える重要な機能なんだけど、「退屈」とほとんど背中合わせ。

バイト初日はものすごく疲れると同時に充実感がすごいけど、3ヶ月もすると慣れて疲れなくなるのと同時にめちゃくちゃ退屈で死にそうになる。

 

退屈しのぎに親になる

30代も中盤にさしかかったある日のこと、突然、自分の人生そのものに対して退屈を感じてしまったことがあった。

 

前述のハイデッガーによると、これは「退屈の第二形式」とかいうやつで、パーティーに招かれて楽しい時間を過ごしている最中にふと感じるタイプの退屈らしい。

 

その頃の自分は、貧乏ではなくなっていたし視野も広がってきたし交友関係もいろいろあったしで、毎日おもしろおかしく過ごしていた。

平日はホワイトな会社でやりがいのある仕事を任されていて、休日はフェスに行ったりクラブに行ったり海外にもよく行ったりで、全面的に充実していたと言える時期だった。

 

それなのに、いや、『暇と退屈の倫理学』によると、それだからこそ、かもしれないが、漠然とした退屈がある日おそってきた。

 

今の自分が『こち亀』みたいな一話完結で成長せずに永遠に続く楽しい世界で生きているんだっていう感覚をおぼえ、そこから抜け出して『ワンピース』みたいな一本のストーリーの中に身を置きたいと思うようになったのである。

 

その転換を果たすために、結婚して子供をつくったみたいなところは正直ある。

 

言ってみれば、退屈しのぎの気晴らしのために親になった。

 

 

親になってみると、「子供を飢えさせずに育成する」っていうゲームにきっちり動物的にとらわれることになり、あの退屈はきれいさっぱり消え失せたので、大成功。

 

今の世の中、宗教とか世間とか非効率な仕組みから開放されてみんな自由になった反面、自由だからこそ感じてしまう退屈に対して、開放してくれる何かは誰も与えてくれないので自分で見つけるしかなく、結構しんどくなっている時代だと思う。

 

そんな時代におすすめしたいのが、親になること。

やらない/やれない理由はいくらでもリストアップできる中で、自分の退屈しのぎのためにあえてやってみると、こんなにシンプルに生きやすくなるもんかと感動すると思います。まじで。

 

でまあ自分の退屈しのぎ目的とはいえ、せっかく親になったんだからみんな普通に子供は育てられると思う。

犬猫でさえ飼ったらちゃんと責任感が勝手に芽生えて育てられるようになるんだから、人間なんてかんたん。

 

初物で長生き

ずっと緊張してるとしんどいから、慣れの機能を使って省エネしたがる人間。

これってダイエットの話と似てる。

 

大昔、餓死の危機がすぐそこにあった時代、食べて太ることは長生きするために必要なことだった。脂肪を蓄える機能にはニーズがあった。

しかし、餓死の心配がほぼなくなった現代、人はほっとくと太りすぎてしまうので、ダイエットに取り組んで健康を保つ必要がでてきた。

 

それと同じく、常に危険と隣り合わせで生きてきた大昔の人間にとって、知ってる場所にちゃんと慣れることで、いちいち消耗しないようにすることは大事な機能だったと思う。

しかし、歩きスマホで駅まで歩いても誰からも襲われないようになった現代、習慣だけで楽に生きることがいくらでもできるようになったのはいいことだけど、ほっとくと緩くなりすぎるので、長生きのためには適度な刺激を自分に与える必要があるだろう。

 

 

古典落語の大ネタ「らくだ」にはこんなセリフがある。

 

「死人のカンカンノウ?おもしろいやないか、見せてもらおう。初物や。初物みたら寿命が75日のびるっていうやないか」

 

www.youtube.com

 

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すべてのJ-POPはリズム歌謡である

リズム歌謡という概念

「リズム歌謡」というのは、おもに1950〜60年代に流行した歌謡曲のスタイルというか枠組みのこと。

海外でヒットした「ニューリズム」を輸入し、歌謡曲の人気歌手に歌わせるという形式で、数多く制作された。

 

特定のリズムを強調する流れはおそらく1947年の笠置シズ子「東京ブギウギ」の大ヒットからのもので、笠置シズ子は「ジャングル・ブギー」「買物ブギー」「大阪ブギウギ」「ホームラン・ブギ」などのブギものを連発して「ブギの女王」とも呼ばれた。

 

 

その後、「マンボ」「チャチャチャ」「カリプソ」「パチャンガ」「スクスク」「タムレ」「ボサノバ」「ツイスト」「ブーガルー」など様々なリズムが輸入され、歌謡曲としてリリースされていく。

 

マンボブーム

マンボといえば誰もが想起する「マンボNo.5」は1949年の曲。

作曲したペレス・プラードは「マンボの王様」と呼ばれた。

 

もともとはキューバ音楽の新しいスタイルの呼び名だったマンボが、ペレス・プラードの影響で全世界的なブームになり、日本へも波及。1956年には来日公演もやっている。

 

今でもリサイクルショップやレコ屋でペレス・プラードのレコードは大量に見つかることから、当時の普及っぷりがうかがえるというもの。

 

日本人によるマンボで代表的なのがこの2曲。

美空ひばり「お祭りマンボ」(1952年)

トニー谷宮城まり子「さいざんす・マンボ」(1953年)

 

いずれもパーカッションが大活躍する軽快なダンスナンバーになっている。

 

マンボは音楽のスタイルとしては廃れたけど、その後も社交ダンスのスタイルのひとつとして現在まで生き残っているのが興味深い。

 

リズム歌謡の機能

 

リズム歌謡のレコードのジャケ裏には、踊り方の説明やステップの図が描かれていたりする。

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1965年の橋幸夫「あの娘と僕(スイム・スイム・スイム)」のジャケ裏より。

 

踊り方の説明とダンス講師の名前、ニューリズム「スイム」を仕掛けるビクターの楽曲群、そして東レの水着とのタイアップと、「リズム歌謡」がどのようなビジネスモデルだったかがこの1枚に集約されているようでとても興味深い。

 

この時代、ポピュラー音楽は「アーティスト」の「作品」を姿勢を正して鑑賞するというものではなかった。

 

そういう「まじめな」鑑賞がされるようになってきたのはおそらく1960年代後半のフォークソングの時代以降。

歌詞がことさら重要視されたり、歌手がアーティストと呼ばれるようになったり、そういった現代まで続く音楽への向き合い方が生まれる前、リズム歌謡は第一に踊ることを目的とした音楽だった。

 

すべてのJ-POPはリズム歌謡である

マキタスポーツ氏は「すべてのJ-POPはパクリである」と喝破した。

 

これは、かの大滝詠一の「分母分子論」をさらにカスタマイズした理論に基づいてたどり着いた境地。

あえて強い言葉で断言してみせたという面はあるにせよ、やはりJ-POPという音楽は程度の違いはあっても、総じてそういうもんだと思う。

 

大まかに言うと、J-POPと呼ばれている音楽は、アーティストの人格という分子と、規格(=音楽のスタイル)という分母からできているという考え方。

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ポピュラー音楽における、規格(=音楽のスタイル)の部分は、基本的にどこかからの影響でできている。そのこと自体は別に悪いことでもなんでもなく、昔からそういうもの。

ビートルズだってピストルズだってエイフェックス・ツインだってビリー・アイリッシュだってそうだけど、既存のスタイルに新しい解釈やカスタマイズを施すことで、フレッシュなものを生み出している。

(それを「パクリ」と呼ぶことで、いわゆるパクリ論争の不毛さへの批評にもなっているすごいタイトルだと思う)

 

謡曲〜J-POPにおいてその構造は顕著で、特に「リズム歌謡」っていうのはその構造が見えやすい。

リズム歌謡の曲名によくある、「(歌手名)の(リズム)」っていうパターンはこの規格分の人格がむき出しになっているわけ。

 

美空ひばり「ひばりのドドンパ」

田代みどり「みどりちゃんのドドンパ」

小林旭「アキラでツイスト」

 

つまり、すべてのJ-POPは「規格分の人格」の構造で読み解くことができるのであれば、リズム歌謡のフレームを現代J-POPに当てはめることも可能ではないか。

 

EXILEの歌モノEDM」

Suchmosのアシッドジャズ」

サカナクションのシティポップ」

 

 

リズム歌謡についてさらに掘り下げたい方へ

リズム歌謡の構造でJ-POPをとらえなおす話、あえてここまでにします。

 

この先はオンライン講座でさらに深堀りしていこうと思っています。

 

われわれLL教室、2021年6月から美学校でこんな話をみっちりやるオンライン講座を受け持っています。

 

「歌謡曲〜J-POPの歴史から学ぶ音楽入門・実作編」ということで、J-POPというものを戦後からの75年のスパンで捉えていく試み。

1回2時間の講義と、それを踏まえた作品作りを月イチでやっていきます。

 

つい先日、第1回目の講義をやったところなのですが、なんと、その1回目分をアーカイブ動画より聴講していただくことで、7月10日まで申し込みが可能となりました!

 

講座へは7月11日の2回目からの参加となります。

この機会に、歌謡曲〜J-POPの構造について、1年かけてじっくり掘り下げてみませんか!!!

音の不良性感度〜LL教室「J-POPの構造」浜崎あゆみ論サブテキスト

不良性感度とは

「不良性感度」という言葉がある。

1960年代に東映の岡田社長がヤクザものやエログロといった方向に舵を切った際に打ち出したフレーズで、「不良っぽさ」と同じぐらいのニュアンスの言葉。

 

当時テレビに客を奪われて危機感が募っていた映画業界が、不良性感度を強化することでテレビとの差別化を図ったという。

 

暴力や犯罪、性的逸脱といった不良の世界に対して、怖いと感じるのと同時にどこか惹かれてしまうような感覚は、多くの人が身に覚えがあるはず。

 

昭和のヤクザ映画に限らず、明治時代には清水次郎長のような侠客ものの浪曲が爆発的に流行ったって事実もあるし、不良性感度が適度に高いことは、日本においてヒットする作品の重要な要素であり続けてきた。

 

ナンシー関もかつて「日本人の9割はヤンキーとファンシーでできている」と見抜いていたけど、ヤンキー的感性がそういったものを好むのは昔も今も同じなんだろう。

 

音の不良性感度

映画の世界だけじゃなく、音楽にも当然のことながら不良性感度が高いものと低いものがある。

 

わかりやすく不良性感度が高い音っていうと、悪者が登場したときに流れるような、悪の組織のアジトでかかってそうな、そういう音のこと。

 

1960年代からずっと、一般的にそういう音楽といえばロックだった。

特に、歪んだエレキギターの音には、一発で悪いやつだとわからせる効果があった。

 

特に80年代は暴走族やツッパリといった不良カルチャーとロックンロールは密接だったので、歪んだエレキギターの音は誰が聴いても不穏な空気を喚起できていた。

 

わかりやすい例でいえば、中森明菜の「少女A」のイントロとか。 

 

サブスクにないけど三原順子の楽曲も不良エレキが効果的に使われている。

 

 

オープン講座の浜崎あゆみ

先日、われわれLL教室は「J-POPの構造」というテーマのオンライン講義を行った。

 

peatix.com

 

6月から美学校で行うオンライン講義の公開ガイダンス的な位置づけで、大滝詠一の「分母分子論」やマキタスポーツの「ノベルティソング論」を援用し、J-POPという音楽がどういう構造でできているのかについてじっくり語っている。

※6月12日までアーカイブ視聴が可能(無料)なので、よかったらぜひ。

 

そのイベントの中で、J-POPという音楽を象徴するアーティストとして浜崎あゆみを取り上げ、わたくしはおもに音楽面について影響元とか楽曲構成なんかについての解説を担当した。

 

今回あらためて、初期の浜崎あゆみ楽曲をじっくり聴き直してみて感じたのが、その不良性感度の高さ。

日本人の9割がもつヤンキー感覚にお届けするための音楽になってる。

 

不良性感度の音の変遷と浜崎あゆみ

1stアルバムのあたりでは、中森明菜からの伝統を受け継ぐような不良ハードロックギターが要所で炸裂しているのがよくわかる。

 

「depend on you」のサビ始まりにつづくイントロ8小節のギターが代表的。

www.youtube.com

 

エイベックスという、ダンスミュージック専門からはじまったレコード会社の伝統に従えば、「Fly High」みたいな4つ打ち路線ばかりでもよさそうなものだけど、全体的にハードロックなギターがよく使われている。

 

ただ、90年代からゼロ年代にかけての時期に、不良性感度の音楽に大きな転換があった。

 

それまでの歪んだエレキギターに代わって、ある種の電子音が治安の悪さの象徴として使われるようになってきたのだった。

 

その背景にあるのは、90年代から勃興したクラブ文化。

脱法ドラッグとかギャルサーの事件などもあり、クラブといえば犯罪の温床みたいなイメージが一般に浸透してきたことがあるだろう。

 

浜崎あゆみが所属するエイベックスといえば、まさにそういったクラブ系音楽の総本山のようなレコード会社なので、不良の音楽の変遷にも自然に乗っかることができた。

 

 このMVのクラブ描写!

 

 

また、歪んだエレキギターという素材も、デジタル的な取り入れ方になってくる。

同時代の英米やドイツで流行ったインダストリアル系のトレンドが意識されていることは明らか。「デジロック」なる和製英語もあった。

 

 

あとはなんといってもユーロビート

エイベックスといえば、1990年からリリースが始まって先日ついにvol.250を超えた『SUPER EUROBEAT』シリーズでも有名なわけで、浜崎あゆみも過去にユーロビートのリミックスを数々リリースしている。

 

www.youtube.com

ayu-mi-x

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特徴的なR&B成分の薄さ

クラブ文化以降の不良音楽の変化にキャッチアップしてきた浜崎あゆみ

具体的には、ユーロビートやトランスといった、いわゆる大箱系のクラブでかかる音楽がもつ不良の匂い。

 

クラブがない地方都市においても、深夜2時のドンキホーテとか、峠を攻める走り屋のカーステレオで大音量で流されてきた。

 

一方、浜崎あゆみがブレイクした90年代末からゼロ年代にかけては、MISIAUA、birdといった女性R&Bシンガーが大活躍した時代でもあった。

宇多田ヒカルも最初はそのムーブメントの大型新人というかたちでデビューしている)

 

ユーロビートやトランス系の大箱ではない、コアな音楽好きが集まるほうのクラブでは、むしろそっちがメインだったわけで、浜崎あゆみの音楽にR&B色が入っていないのは、意図的なものを感じる。

 

すべての曲を聴いたわけではないんだけど、浜崎あゆみの代表曲といわれる曲はいずれもR&Bの特徴であるハネたリズムになっていなくて、ユーロビート化しやすい直線的なビートでできている。

 

ガチの不良はトランスやユーロビートじゃないと思うんだけど、そこはあくまで不良性感度、つまり「ぽさ」が大事なのであり、本気すぎるとマジョリティ層は引いてしまうんだろうか。「マイルド」ヤンキーというのはそういうことなんだろう。

 

結果的にゼロ年代浜崎あゆみが戦略的に突いたポイントっていうのが、当時の日本人の一番分厚い場所だったんだと思う。

 

LL教室の本講座でやりたいこと

 

いつの時代もそういうポイントを突いてくる音楽というのはあって、個人的にはそこにすごく興味があります。

 

われわれLL教室が担当するオンライン講座「歌謡曲〜J-POPの歴史から学ぶ音楽入門・実作編」では、ここ50年の日本の音楽シーンにおいて、それぞれの時代の空気がどうなっていたか、ヒットした曲の構造や背景を読み解くことで、一緒に考えていこうと思っています。

 

bigakko.jp

 

また、インプットだけでなく実際に制作も行うなど、双方向的で生きた講座にしたいと考えています。

音楽にかかわる仕事をしたい方や、音楽をより深く味わいたい方にオススメします。

 

まだまだ受付中です。

よろしくおねがいします!

J-POPが新聞を殺した

紙の新聞を読む人が減り続けている

日本新聞協会のデータによると、この20年で新聞の発行部数は3分の2になった。

20年前は一家に一紙かそれ以上とってたのに、今や新聞をとっている家は約半数。

 

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新聞の発行部数と世帯数の推移|調査データ|日本新聞協会

 

確かに、電車の中で新聞を読んでる人がもう全然いないよね。

世間話の入り口として「新聞で読んだんだけどさ」っていうのもなくなったし。

電車の中ではみんなスマホ見てるし、世間話の入り口はSNSやネットニュース。

 

今や紙の新聞はニュースソースじゃなく包装紙としての役割にシフトしつつある。

 

おそらく若い世代が購読しなくなったので、既存の読者である高齢者が亡くなるたびに新聞の部数が減っていってるんだろう。

もうかなり前から、新聞広告は定年退職後の豪華客船クルーズとか、いつまでも若々しく健康を保つためのサプリとか、懐かしの歌謡曲CDボックスセットとか、そういうのばかりになっている。

 

若い世代が新聞を読み始めるきっかけとして、就職活動のタイミングであわてて日経を購読するみたいなのがまだかろうじて機能しているかもしれないけど、それも電子版でいいやってなってるだろうしね。

 

誰が新聞を殺したか

ではなぜ新聞の発行部数はこんなに減ってしまったのか。

 

SNSやネットニュースにやられたというのはありそう。

新聞社が労力をかけて取材したニュースをSNSがタダ乗りすることも問題視されている。


しかし、減少傾向はネットの普及前からのこと。

犯人は他にもいるはずである。

 

大学生の間で教養主義が廃れたことや若い世代の可処分所得が減ったことなどいろんな要因はあるだろう。

ただ個人的に主犯格だと思っているのが、J-POP。

 

J-POPがしきりに訴えかけてきたメッセージが新聞を軽んじるムードを醸成したせいで、みんなが新聞を読まなくなったんじゃないだろうか。

 

たとえばこれ。

 

映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』のテーマソングとして2007年にリリースされた宇多田ヒカルの「Beautiful World」では、こんなことを。

 

新聞なんかいらない

肝心な事が載ってない

 

他にもたくさんある。

 

RCサクセション「Hungry」1990年

新聞みたいにデタラメなデマやウワサが踊るころ

 

内田有紀「Baby's Universe」1996年

信じる心忘れた大人は

新聞記事だけを信じてる

 

ザ・ハイロウズ「アレアレ」1996年

俺はテレビも信じない新聞も読まない

 

TUBE「Tomorrow's Dream」1996年

テレビも新聞も日替わりメニュー

知る権利と覗く権利さえはき違えているよ

 

稲葉浩「Seno de Revolution」2002年

新聞はいつも絶対じゃないぜやばい添加物有り

 

歌詞検索サイトで「新聞」で検索して拾ったんだけど、一番多いのが、大滝詠一「楽しい夜更し」みたいな夜ふかしして朝になった描写としての新聞配達でした。

そういうのを除くと、やはりこういう論調が目立つ。

 

ちなみに2010年代以降は出現頻度が低い。

もはや新聞が日本人の日常から縁遠いものになっていったからか。

 

新聞はなぜJ-POPに嫌われたか

いろんなタイプのアーティストがいて何万という楽曲が存在するJ-POP界において、最大公約数な歌詞の一般意志みたいなものがなんとなく、ある。

 

J-POPは昔から、「大人」にならないことを美徳とし、自分の目で見たことだけを信じろと、等身大の自分らしさこそがリアルであると、訴え続けてきた。

 

で、それは60年代のフォークソングあたりから尾崎豊を経て現在へと続く、若者が自分の言葉で歌う路線に共通するものだと思う。

 

つまり戦後の若者向けカルチャー全体を貫く精神性とほとんどイコールなのかもしれない。

そしてその精神性が、新聞を嫌っている。

 

新聞は、正義ぶって鼻持ちならないし、人の不幸にむらがる野次馬だし、「リアル」じゃないからっていう。

それでいて殴り返してこないから、気軽にディスることができる。

 

たしかに、綺麗事ばかり言ってても広告主の意向には逆らえないとか、パパラッチ的なメディアスクラムによる二次被害とか、記者クラブの閉鎖性とか、新聞を批判する切り口は実際いくらでもある。

考えなしに書きなぐった歌詞と、ジャーナリズム論の専門家の論考が偶然同じ方向性になっていても不思議じゃない。

 

ただ、30年間新聞を読んできた自分のような人間には、そういったJ-POPの論調はかなり居心地が悪いわけで。

どうしたって浅はかにも感じてしまう。

 

「書を捨てよ町へ出よう」の罪

自分は、ファッションというものに劣等感がある。

特に気合を入れてる感じでなく自然におしゃれができる人にはすごくあこがれるし、ハイブランドのすごい値段のジャージとかスニーカーの意味もわからない。

 

年相応な格好のさじ加減も全然わからないので、結局なんとなく自分の体型と財布から導き出された範囲で、おそるおそる無難にまとめてるにすぎない。

 

これは、10代の頃にちゃんと勉強してこなかったツケなんだろうなと思っている。

 

年頃になって色気づいた同級生がファッション雑誌をみていろいろ勉強してる姿を、なんとなく恥ずかしいものだと感じてしまうような変に硬派な価値観がもともとあった。

 

さらに、大学生1回生のころアパレル業界で働く年上の女性と付き合ってたんだけど、「ファッション雑誌に載ってる時点でもう情報としては死んでる」的な上級者向けすぎる価値観に接してしまったせいで、ますます基本的なところをすっ飛ばしてしまうことになった。

 

そのまま、お金がなさすぎて古着でしのぐしかない貧乏バンドマンの世界に飛び込んでしまったので、基本的なところが全然わからないままになってしまった。

 

これって、中学高校で社会科をちゃんとやらず新聞も読まないまま大人になって、いきなりネット上のもっともらしい情報に触れてしまった人の痛々しさにすごく似てる。

 

基本がない状態で、いきなり応用編の言葉に出会う問題。

 

「書を捨てよ町へ出よう」は、捨てるべき書が手元にあるからこそ意味がある言葉。

だけど、あまりにも言葉としてキャッチャーすぎるために、最初から書を読む気がない人間にも届いて、このままでいいんだと思わせる力も持ってしまった。

 

J-POPの歌詞においても、書いてる側は、新聞に載ってることがこの世のすべてじゃない、つまりリアルな体験や人間関係も同じぐらい大事っていう意図だったかもしれないのに、受け手は単に新聞は読まなくていいものって解釈してしまう。

 

歌詞という形態の特性上、言葉を尽くして誤解を避けるっていうよりも、多少乱暴でも心に響くワンフレーズの切れ味を重視せざるを得ないわけで。

 

今こそ紙の新聞

世の中の動きを追うにはネットニュースで事足りるかもしれない。

紙の新聞はかさばるし、興味関心のないジャンルの情報も大量に載っていて、情報収集のツールとしては非効率かもしれない。

 

それでも、いや、だからこそ、紙の新聞を推したいと思う。

興味関心のないジャンルの情報も、物理的に紙面を埋めているから、そのボリュームも含めて目に飛び込んでくる。

なので、よくわからないけど世の中にとってはインパクトのデカいことなんだろうなっていうアタリをつけられる。これが重要。

 

内容的にも、全国紙とか歴史のある地方紙であれば、基本的にちゃんと取材して裏を取った情報しか載ってない。

(その上で、載ってる事実に対する解釈が新聞社によって真逆だったりするんだけど、それは次の段階の話)

 

サイトの体裁だけしっかりしてるけど実態はめちゃ怪しいニュースサイトがいくらでもあるネットの世界よりは、紙ならひとまず信用してよいかどうかの判断が誰にでもできる。

 

そんな結構なものを1日100円ちょっとで家まで毎日配達してくれるんだから、ほんと安い買い物だと思ってます。

おすすめです。

 

 

 

そういえば、新聞はちゃんと読んだほうがいいよっていう意見は明治時代から言われていて。

今から100年ぐらい前にできた上方落語の「阿弥陀池」というネタにはこういうセリフがある。

 
「新聞を読まな世の中の流れについていかれへんで」
「なにを言うてまんねん。新聞なんか読まんかて世間のことならなんでも知ってます」
 
「せやから新聞を読めっちゅうねん。読まんさかいに騙される」 

 

「関ジャム」の『J-POP20年史 2000~2020プロが選んだ最強の名曲ベスト30』で10年代が手薄だった理由

2021年3月3日にテレビ朝日で「関ジャム 完全燃SHOW」のゴールデン特番として、『J-POP20年史 2000~2020プロが選んだ最強の名曲ベスト30』が放送された。

 

ここでいう「プロ」とは、いしわたり淳治いきものがかり水野良樹ヒャダインもふくちゃんといったこの番組おなじみの作家・プロデューサーや、スカパラ谷中敦ゴールデンボンバー鬼龍院翔岡崎体育といったミュージシャンたち。

 

彼彼女らが選んだランキングを総合して、最強の名曲ベスト30としてまとめられたのがこちら。

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1位にOfficial髭男dismが入ってきたのが意外だったり、SMAP以外のジャニーズやLDH勢、日本語ラップなどが選ばれていないというのも結構驚き。

番組を見ていると、楽曲としての完成度とか、革新性、売上枚数では測れない浸透度みたいなものをものさしに選んでいるプロが多かった感じだった。

 

あとこの30曲を見ていると気づくのが、年代の偏り。

サザン、椎名林檎バンプキリンジSMAPらのゼロ年代前半と、あいみょん、YOASOBI、米津玄師らの10年代後半に、明らかに集中しちゃってる。

選曲したプロたちが申し合わせたかのように、2010年の前後数年間が手薄なのです。

 

今日はこのことについてちょっと考えてみたい。

 

理由① 選者の世代の偏りが反映した

全員のプロフィールを確認したわけじゃないけど、今をときめく現役のクリエイターということで、30〜40代の世代が中心っぽい。

つまり、今から20年前のゼロ年代前半には10〜20代前半だった人たちであり、自分がリスナーとして多感な時期に出会った曲を選びがちという傾向はどうしてもあるだろう。

 

逆に、その世代の人達は10年代前半にクリエイターとしての出世作を手がけていることが多いだろうけど、自分が関わった作品は推しづらいわな、と。

10年代前半に紅白にも出たようなゴールデンボンバー「女々しくて」やいきものがかり「ありがとう」、ももいろクローバー行くぜっ!怪盗少女」あたりが30位に漏れているのはそういうことかなと。

 

理由② 古いと伝説になり、近いと記憶が新鮮、結果として間が埋もれる

リリースされて時間がたったものは「伝説」として評価が定まりやすく、一方で近年のものはまだ記憶が新鮮で想起されやすい。

10年ぐらい前のものは、そのどちらでもなく中途半端な状態なので、こいういうときに埋もれてしまいがちではないか。

 

野球選手でいうと、伝説になってる野茂、リアルタイムでやってる大谷翔平はランクインしやすく、間の松坂が埋もれるみたいな感じ。

なまじ最近の松坂を見てしまうと、全盛期にどれだけ凄かったか思い出しづらくなってしまうって効果もありそう。

 

理由③ 番組としてマイナーすぎるものは選びにくい

ゴールデンタイムの地上波で流れる番組として、視聴者の少なくとも半分以上が知ってる曲じゃないとつらい。

家族で見ていて、40代の親世代がゼロ年代の曲を全部知ってて、子供世代が10年代の曲を全部知ってる感じ。

「へー、この元ちとせって人ヤバいね」とか「あいみょんだったらパパもわかるぞ」みたいなね。

 

選曲を任されたプロたちもそこはわきまえてるはずで、一定以上の知名度がないと推しづらいって気持ちはあっただろう。

 

番組前半で31〜50位を紹介してるとき、40位ぐらいにあまり知られてないBank Bandの曲が入っていてスタジオが微妙な空気になったが、あれが限界であろう。

 

つまり、10年代前半にJ-POPのレベルが落ちていたわけじゃなく、お茶の間レベルで浸透した曲が少なかったということだと思う。

 

理由④ オリコンがハックされていた

10年代前半といえば、CDが売れなくなって、でもそれに代わる指標がまだない過渡期。

 

わたくしかつてブログで平成のJ-POPを7つの時代に区切って分析した際に、2009年から2012年を「AKB期」と名づけて、こんなふうに表現していた。

 

このあたりから、オリコンCDランキングを見てもシーンの動きが一切わからなくなってくる。AKBグループが総選挙の投票権をCDにつけたのと、AKB以外でも同じタイトルのシングルを初回版A/初回版B/通常版みたいな感じで複数の形態でリリースするのが当たり前になってきたため、1人で何枚も同じCDを買うようになったから。

かつてのミリオンセラーは100万人の買い手が確実にいたし、そこから口コミや歌番組などを通じて認知がさらに拡大し、最終的に2000万人ぐらいが知ってるレベルの存在感があった。しかしこの時代のミリオンセラーは、買い手が下手したら5万人ぐらいしかいないし、歌番組などで知らない曲にふれる機会も少ないので、いいとこ50万人ぐらいの認知にとどまっていても不思議はない。

平成のJ-POPを7つの時代に分けてみたらいろいろ見えてきた 〜LL教室の試験に出ないJ-POPイベントふりかえり - 森の掟

 

本当にこの時期のオリコンチャートを見ると、上位にはAKBグループかジャニーズしかいない。 

 

水面下ではおもしろい動きがたくさんあったんだけど、いかんせんチャートの上位に入ってこなかったために、関ジャムに取り上げられるような名曲として残ってこなかった面もあるだろう。

やはりCDが投票券になったことの功罪について考えざるを得ない。

 

10年代前半に水面下で動いていたこと

10年代前半、オリコンチャートがAKBとジャニーズに席巻されていた頃に、水面下ではいろんなことが動いていた。

 

ももクロ以降のアイドルシーンの活性化により、でんぱ組.incNegicco、BiS、東京女子流などなど、楽曲のクオリティが高いグループがたくさん登場。ハロプロモーニング娘。アンジュルムを中心にファン層を拡大していく。

 

・俗に東京インディーと呼ばれるシーンでスカート、シャムキャッツ、片思い、思い出野郎Aチームといったバンドが作り上げた音が、その後「ネオシティポップ」なんて名前でメジャーな場所で商品になるサウンドに反映されていく。

 

日本語ラップKREVAANARCHY、般若、田我流、SIMI LAB、鎮座DOPENESSなど数々の才能が活躍し、2015年の「フリースタイルダンジョン」をはじめ、10年代後半からメジャーな場所で取り上げられる機会が増えていく。

 

・2007年にリリースされたボーカロイドソフト「初音ミク」を使って楽曲を制作しネット上で発表する「ボカロP」が10年代前半にたくさん登場。米津玄師もその中のひとりで、10代がカラオケで歌う人気曲の多くがボカロ曲になっていく。

 

これらの流れがそれぞれに熟成され、メジャーな場所に浮上したり、間接的にJ-POPのメインストリームに影響を与えたりしてきたのが10年代後半。

 

いずれも最初はテレビや芸能界とは関係のない場所で起こっていた動きなので、オリコンチャートとテレビの音楽番組だけを見てる人には感知されづらかっただろう。

 

老若男女に幅広く届く曲がないという話は90年ぐらいからずっといわれてきたけど、それがいよいよ極まってきたのが10年代ってことかもしれない。

 

でもなんだかんだいってSuchmosとか星野源みたいにインディーズシーンからお茶の間レベルの人気者が出てきたり、「パプリカ」とか「夜を駆ける」とか「うっせえわ」みたいなボカロP畑の曲が国民的ヒットになったりしているここ数年は、やはり10年代前半にまかれた種が育ってきた感じがする。

 

名曲の「風格」

そんな感じでここ20年でJ-POPも移り変わりがあったけど、その一方で、時代によって変わらないものもある。

 

「国民性」という言葉はあまり軽々しく使いたくないけど、「関ジャム」で取り上げられた名曲を見てるとやはり「J」なりの特徴はあって。

 

まずやっぱみんなバラード好きだなって思う。

 

あと、ゲストの人たちが名曲を評価するコメントとして「結婚式で使いたい」とか「結婚式の定番」ってワードを頻発していたのがおもしろかった。

曲としての完成度とか革新性、歌手の技量とかといった要素がいくら揃っていても、このランキングに入りづらい曲っていくらでもありそうで、名曲に必要な「風格」みたいなものをなんとなく選者もゲストも感覚として共有していたっぽい。

 

もし自分がこのランキングの選曲者に選ばれたとして、どんな曲を入れるかっていうと、自分の味を出そうとしつつも、同時にできるだけ客観的な目線で文句なしの名曲を選ぼうとしてしまうだろうか。

つまり、視聴者の総意みたいなものを意識し、いかにも名曲然とした風格のある名曲を選んでしまいそう。

 

ということで、実際に自分でも選んでみました。

あいつら全然わかってないぜ、こういうのが真の名曲だ!みたいなスタンスではなく、番組の趣旨を汲み取った上で自分の色を出そうとしたんだけど、もっとメジャーな感じに仕上がるかと思いきや、自分に嘘はつけないなとこねくり回した結果、なかなかワガママな30曲になりました。

 

ワガママではあるけど、単に好きな曲っていう感じでもなく、やっぱり「風格」みたいなものは意識した。

 

お知らせ

わたくしハシノもメンバーの一員として活動しているLL教室というユニットで、2021年6月から1年間、美学校で口座を担当することになりました。

 

題して「LL教室の試験に出ないヒット曲の作り方」。

戦後日本の歌謡曲〜J-POPの時代ごとの流れやヒット曲の構造を読み解き、新たな時代のヒット曲はどういうものになるのかみんなで考えようという主旨です。

 

こういうタイトルではあるけど、売れ線狙いのテクニックを伝授するみたいなことではなく、ヒット曲を構成する要素を分析して捉え直すことで、より多角的に音楽を鑑賞できるようにするのが狙いです。

できる方には実際に作詞や作曲をしてもらって、たとえば昭和43年の大衆に響く曲を作ってみよう、みたいなことをやります。

 

詳しい話は下記ページをご覧ください。

われわれとしてはかなり気合が入ってます。よろしくおねがいします!

bigakko.jp

『人志とたけし: 芸能にとって「笑い」とはなにか』杉田俊介

2020年12月に出た『人志とたけし: 芸能にとって「笑い」とはなにか』という本。

このタイトルを見ただけで、あ、まさにそういうの読みたかったやつだ!とピンときた。

同じように感じる人は少なくないようで、発売から2ヶ月たった今でも、大型書店では平積みされていたりする。

今回はこの本の紹介と、それを踏まえた自分なりの松本人志論です。

 

人志とたけし: 芸能にとって「笑い」とはなにか

人志とたけし: 芸能にとって「笑い」とはなにか

 

 

『人志とたけし: 芸能にとって「笑い」とはなにか』は、批評というフィールドで『長渕剛論』『ジブリ論』『ドラえもん論』などの大ネタに取り組んできた杉田俊介氏の最新刊。

現代的なお笑い芸人や芸能界の専門家ではないとみずから断りつつ、批評家だからこその遠慮のないやり方で松本人志ビートたけしを中心にお笑い芸人という存在を語っている。

 

そして後半では、著者といろんな識者との対談を通じて、お笑い芸人がここまで世の中の隅々にまで影響を及ぼしている現代についていろんな角度から迫っている。

対談の相手としてマキタスポーツさんと矢野利裕くんもいる。

 

お笑い芸人のビートたけしや映画監督の北野武については、これまでもたくさんの人が論じてきたけど、それに比べて松本人志についてはお笑い界の外側からの批評というとあまりされてこなかったと思う。

特に、映画監督としての松本人志についてはちゃんと論じるべき対象だと思われていなかったんじゃないだろうか。

 

そういった意味でこの本はすごく画期的だし、また批評の内容においても、監督した4本の映画を丁寧に批評した上でこのように語っているなど、かなり大胆にバッサリいっている。

 

松本人志の笑いには、どこか、不気味な空虚さがあるように思ってきた。上も下も、真も偽も、善も悪もかき混ぜて、一瞬でダイナシにして、すべてを「うんこ」ですらない「うんこちゃん」にしてしまうという笑い。

 

最近の松ちゃんはなんであんな感じなのか?っていうのは自分もずっとモヤモヤしていたので、この松本人志論にはすごく刺激をうけた。

 

その上で、若干感じ方が違うなと思ったところがあったので、せっかくの機会なので自分なりに松本人志について考えてみました。

 

松本人志を特別な存在にしたもの

お笑いの世界において今では当たり前すぎて誰も気にしていないようなことの多くが、実はダウンタウンから始まってる。

 

たとえば弟子入りではなくスクールに入って芸人になること、「サムい」「噛む」「引く」といった用語の日常使い、芸能界における芸人のポジションが今の感じなのもダウンタウンの影響が大きい。

 

そういった意味では、現代のお笑い芸人は知らずしらずのうちに全員がダウンタウンの影響を受けているといっても過言ではない。

 

特に70年代後半から80年代前半ぐらい生まれの世代のお笑い好きにとって、松本人志は特別な存在だった。

ダウンタウンによってお笑い界の価値観がどんどん刷新されていく様子を目の当たりにしてきたから。

 

関西ローカルの「4時ですよ〜だ」(1987年)にはじまり、全国区に進出してからの「夢で逢えたら」「ごっつええ感じ」「HEY! HEY! HEY!」に至るあたりの快進撃は、関西のとんがった若者にとって、欽ちゃんとかウンナンに代表される東京のヌルいお笑いをどんどん駆逐していく爽快感があった。

 

そして神格化が極まったのが、ザ・ハイロウズ日曜日よりの使者」にまつわる伝説。

日曜日よりの使者

日曜日よりの使者

  • provided courtesy of iTunes

自殺を考えるほど思い悩んでいた甲本ヒロトが、たまたまテレビで「ごっつええ感じ」を見て、自分はまだ笑えるんだと救われた気持ちになった、そのことを歌にしたのが「日曜日よりの使者」であるというもの。

 

実際、この曲はその後「ごっつええ感じ」のエンディングで流れるようになり、また松本人志ハイロウズのアルバムのジャケットを描いたり、松本人志の結婚式のサプライズゲストとして甲本ヒロトが登場して「日曜日よりの使者」を歌ったりしている。 

 

この伝説は当時かなり広まって、ダウンタウンってすごいんだな、お笑いってすごいんだなっていう感覚を世の中に植えつけた。

全員が同じ土俵で競い合ってM-1で日本一を決めるようなアスリート的な仕事であるのと同時に、人の命を救うことができるすばらしい仕事でもあるんだと。

 

現代のお笑い芸人の仕事がちょっとした神聖さを帯びているのは、この伝説の影響があるんじゃないかと思っている。

その結果、お笑い芸人があらゆる場所で重宝されるようになって、吉本興業が政治の中心にまで喰い込むような状況になっているのではないか。

 

ロブスター(初回生産限定盤)

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  • アーティスト:THE HIGH-LOWS
  • 発売日: 2020/10/28
  • メディア: CD
 

 

メガネロックとの同時代性

本書で何度も言及されているように、ダウンタウンNSCの一期生。

 

それまでの昭和のお笑い芸人は、落語だろうが漫才だろうが、師匠に弟子入りして修行するというルートでしかデビューできなかった。

 

なので、吉本興業が芸人の学校を始めたというのは当時わりと議論を呼んだ。

お笑いなんて学校で勉強するようなものではない、そもそも芸人として成功するような規格外の人間はちゃんと学校に行けるわけがないなどと揶揄されたりもした。

 

矢野利裕くんも対談の中で言っているように、学校というのは実力主義

師匠弟子筋の縁故ではなく、ましてや血筋でもなく、あくまで実力があるものが認められるべきだという松本の主張と親和性が高い。

ダウンタウンがその一期生、つまり師匠がいない最初の芸人であるというのはすごく象徴的だと思う。

 

マキタさんは松本人志がやったのはお笑いの規格化、スポーツ化だと指摘している。

声の大きさとか、おもしろい顔とか、そういうフィジカルに依存するものはレベルが低くて、センスや間といった技術で勝負することをよしとする価値観。

そんな思想が「M-1グランプリ」や「すべらない話」などにも色濃くあらわれていると。

 

90年代には、この思想によって救われた若者は関西を中心にほんとうにたくさんいた。

クラスの中でおもしろいとされてるイケてるグループのやつらよりも、教室の片隅で目立たないけど自分のほうが圧倒的にセンスがあるしおもしろいんだと、そしておもしろいことは正義なんだというふうに、背中を押してもらえた。

リアルタイムの世代以外にはなかなか伝わりづらいけど、この思想に心酔する「信者」がたくさん生まれたもんだった。

 

 

いわゆるお笑いの民主化とでも言うべき思想は、お笑いじゃなく音楽を志した自分のような人間にも、すごく共感できた。

松本人志が教室の片隅の若者を勇気づけ「信者」を増やしていったのとほぼ同時期に、音楽の世界でも同じことが起きていたから。

 

それまでの日本でロックの世界で憧れの対象だった存在というと、矢沢永吉だったりCharだったり氷室京介だったりと、だいたいみんなフィジカルが強くて華があってオスとしての魅力があるか、または遠藤ミチロウとか江戸アケミみたいな人間離れした存在感があるかって感じだった。

 

しかし90年代になると教室の片隅にいるタイプでもバンドをやるのが普通になり、華々しさよりもセンスが評価される時代になる。

その時代の空気のなかで出てきたのが、くるりナンバーガールのようなバンド。

若い人にはもはや想像しにくいだろうけど、フロントマンがメガネをかけているバンドは当時めちゃめちゃ衝撃的だった。

 

これは松本人志がお笑いの世界でやったこととすごく似ている。

 

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全方位的にうんこちゃんのままでいられるのか

松本人志には、たとえば北野武と比べたとき、幅広い教養もなければ、知性もなく、それ以前にそもそも、人間たちが日々営む政治や芸術、文化や科学などに対する関心や興味が一ミリもないかに見える。

 

『人志とたけし』の中ではこんなふうに書かれていた松本人志

たしかに、映画についてはそうかもしれない。

 

しかし、ほんとうに松本人志は人間として全方位的にそういう感じかというと、そうとも言い切れないと思っている。

 

なぜなら、あらゆる権威を引きずり下ろしているかのように見えていても、実は昔からひとつだけうんこちゃん化してこなかった世界があるから。

 

それは落語。

 

特に桂枝雀に対してはずっとリスペクトの気持ちを表明している。

 

今は亡き桂枝雀は、後の人間国宝桂米朝の弟子として早くから頭角をあらわし、爆笑王の名をほしいままにした人。

 

有名な「緊張と緩和」のロジックのように、お笑いの構造について理論化を試み続けた人だし、他の上方の落語家と比べて古典落語のアレンジが強烈だったし、たしかに上方落語界にとっては革命児だったと思う。

 

そういう面では、松本人志が今後もしかしたら古典に回帰していくような展開があるとしたら、いい参照元たりえるかもしれない。

 

しかし「落語はやらへん。特別なもの。人の部分ができない」という言葉は、松本人志にしては珍しく謙虚。他のジャンルに対するおそれのなさとは非常に対照的だと思う。

 

千原ジュニア月亭方正といった松本ファミリーの面々が落語に手を出す一方で、かたくなに演じる側には行こうとしないのは、この謙虚さがあるからだろう。

 

映画とか報道に対しては愛がないのでうんこちゃん化に躊躇がないけど、落語のような本当に好きなものに対しては恥じらってしまう。ここになんとも言えないほつれを感じる。

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誰が引導を渡すのか

人間って、若い頃は権威に対する挑戦者を気取るけど、 年をとるにつれて古典や教養のよさに気づいていく傾向がある。

 

師匠がいない芸人として異端児扱いされながらも、既存のヌルいお笑い界を破壊していったあの頃のダウンタウンは挑戦者だったし革命家だった。

 

しかしその革命は成功し、中国やキューバのように革命政権が体制側になって何十年もたった。

才能ある若手は毎年のように出てくるけど、みんな松本人志が作り上げたシステムの中ではいあがってきた人たちではあるので、今のところ体制はまったく揺らいでいない。

あいかわらず松本人志は神格化された状態でいる。

 

 

1996年、セックス・ピストルズが「カネ目当て」だと公言して約20年ぶりに再結成。初めての来日公演が実現した。

往年のファンは、生でピストルズを見られるうれしさと、カネ目当てだとうそぶくおっさんバンドの醜態を見せられる厳しさに引き裂かれ、なんともいえない気持ちだったみたい。

アルバム1枚で華々しく散っていったかつての自分たちの伝説を、みずからぶち壊してまわるかのようなやりかたはまさに「うんこちゃん」だった。

 

そして、この来日ツアーの武道館公演でオープニングアクトをつとめたのは、くだんのザ・ハイロウズ

かれらは「ベイ・シッティ・ローラーズ」と名乗り、ベイ・シティ・ローラーズのコスプレで「Saturday Night」のド下ネタ日本語カバーをやった。

つまり日本のバンド代表として正面からいくのではなく、本気じゃないですよという姿勢を見せた。

 

ピストルズに対する愛は前提にありつつも、醜い姿をさらしている再結成ピストルズに対してベイ・シティ・ローラーズの下ネタ日本語カバーをもって遇することに決めたハイロウズ

そういえば「シッティ(shitty)」は日本語に訳すと「うんこちゃん」だ。

 

このハイロウズのような手つきでもって松本人志に引導を渡す若手が出てきてもいいんじゃないかなと想いました。

 

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配信もある

杉田俊介氏とマキタスポーツさんと矢野利裕くんの3人は、『人志とたけし』について2021年2月にトークイベントもやっていて、アーカイブが2021年2月26日まで視聴できる。

 

お笑い芸人がお笑いを語ることと、批評家がお笑いを語ることの違いについて、また後者にしかない価値がすごく大事っていうことを矢野くんが語ってたりして、書籍での対談を補うような重要な議論がいろいろ出ていて超オススメです。

 

www.loft-prj.co.jp

うちの子には「育ちがいい」子供になってほしい

育ちがいい

「育ちがいい」ってなんだろう。

自分自身、いままでの人生でわりとそう言われることが多かった。

他人を疑わないところとか、辛い目にあっても愚痴らないとか、そういう性質に対して言われたこともあるし、新聞を読むとか、ごはんをよく噛んでゆっくり食べるとか、習慣みたいなことに対して言われたこともある。

 

だけど、自分自身ではあまりよくわからない。

本当に育ちがいい人々は、もっともっと洗練されてるし、もっと生まれながらに下駄を履かされてるし、幼い頃から意識的に育てられてると思っている。

東京生まれで親の地位が高かったり文化的な職業だったりするようなのが本物でしょうって。

 

一方で、たしかに地元で小中高とずっと生きてる同級生たちとは、趣味趣向とか生き方みたいなものがいつの間にか大きく隔たってしまったというのも事実。

そういうズレってどこで生じるんだろうか。

 

「育ちがいい」は、ずっと謎だった。

 

「自分の考え」なんてものはない

いままで生きてきて、たくさんの人間と出会って会話したりプロフィールを見たりしてきた中で、なんとなくパターンが見えるようになってきた。

 

いかにもレゲエが好きそうな人がちゃんとレゲエ好きだったり、いかにもゲーム好きそうな人がちゃんとゲーム好きだったり、いまでは予想がだいたい当たる。

で、あまりにもそのまんますぎると人間的に薄く感じてしまうことすらあって、逆にプロフィールからはみ出すような意外な一面が見えるとそれだけで好きになってしまうこともある。

 

これは自分自身も例外ではなくて、マツコ・デラックス氏に「ロッキング・オンの編集部にいましたよね」っていじられ方をしたのは、それが笑いに繋がるから口に出されたってことでしょう。笑えるほどいかにもそういうタイプに見えたってこと。

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マツコの知らない世界」2020年11月24日放送

髪型とかファッションとか、ひとつひとつ完全に自分の意志で選んでいるはずなのに、最終的にいかにもな感じに仕上がるっていう謎。

 

あと、SNSを見てると、こういうニュースに対してこの人はこういう反応をしそうだなっていう予想がだいたい当たる。

 

これらのことから、結局人間には「自分の考え」なんてものは本当はないんじゃないか?って考えるようになった。

 

自分の意思でやっていること、自分のセンスで選んだもの、自分の考えでたどり着いた結論、そういったものは実は全部、外部の環境によってそれを選ぶしかないようになっているんじゃないかって。

その環境にはもちろん「育ち」とかも含まれるだろうって。

 

文化資本 

NHKEテレでやってる『100分de名著』っていう番組がある。

古今東西の名著といわれる書物を、専門家が25分×4回の番組で解説するというもの。専門家に対して一般の視聴者のレベルを代表しつつ芯を食ったコメントをする聞き手として伊集院光

 

社会学部の大学生だった頃に、書名や扱われている重要な概念ぐらいは聞きかじったというレベル、だけど自分で読み通す根性はなかったなという名著のエッセンスをわかりやすく教えてくれるっていうんだから、自分のような人間には本当にありがたい番組なのです。

 

その番組で先日取り上げられたのが、フランスの社会学ブルデューが1979年に書いた『ディスタンクシオン』。

 

ブルデューによると、人が何か特定の音楽や絵を好きになったり趣味をもつことには、階級や職業といったものが強く影響しているという。

ある音楽や芸術作品と運命的な出会いをしたと本人が思っていても、実はそれまでに培われたセンスや考え方感じ方によって、その作品を強く感じ取ることができただけだと。

つまり親がパンク好きだから子供もパンク好きになったみたいな単純な話ではなく、パンクが好きになる子供には家庭環境や学歴なんかに共通点があるみたいな話ね。

 

で、そのセンスや考え方感じ方は家庭や友人関係や教育のなかで育まれるもので、運命的な出会いみたいなものは基本的にはありえないらしい。ブルデューはこれを「ハビトゥス」と呼んでいる。

これは芸術作品を鑑賞するセンスの話にかぎらず、あらゆる物事のとらえ方や振る舞いについても当てはまるらしい。

 

そして身についた知識やセンスや振る舞いのことを「文化資本」と呼ぶ。

普通の意味での資本といえば経済力のことだけど、それの文化バージョンってこと。

 

この「文化資本」って概念、「育ちがいい」にすごく似ている気がする。

 

世襲は仕方がないかも

ブルデューによると、上流階級に生まれた人は家庭環境や周囲の同じような階級の人々から上流階級的な教養や振る舞いを学んで文化資本にすることができるけど、貧困な環境で生まれ育った子どもたちはみずから親と同じような職業や生き方を選んでしまう傾向があるんだって。

そういえば東大生の親は年収が高いっていう話もあった。

 

これはかなり身も蓋もない話で、庶民の家に生まれたらどうがんばってもムダっていう解釈になってしまってもおかしくない。

でもどちらかというと、みんな同じ条件でフラットに戦っているようにみえても、実は文化資本っていう下駄を履いてるやつと裸足のやつがいるよっていう、そこちゃんと考えないとダメだよねっていうノリで使うべき概念らしい。受験戦争とか典型的にそういうことだと思う。

 

これは別に、学習塾に通える経済力がある家庭が有利だっていうだけの話じゃなく、実際に高学歴な大人がまわりにいるとその大人の普段の姿から知識を身につける楽しさを知れて勉強好きになる、みたいな話でもある。

逆に、身近にそういう大人がおらず、大学に入ってからの具体的なイメージがないまま、単に入れる偏差値の大学を目指すだけだと受験勉強はしんどいと思う。

 

芸能人の子息が芸能人になる確率や、政治家の子息が政治家になる確率が高いのも、これと同じ話でしょう。

田舎の高校生にとっては、芸能人になる具体的な道なんて見えないし、どれぐらい遠くにある目標なのかも全然わからないし、そのためになにをすればいいのかも漠然としすぎている。

一方、親や親族に芸能人がいる場合、具体的なサンプルが身近にゴロゴロしていて、どれぐらいの実力が必要かとか、どういうコースで潜り込めるのかとか、どういうタイプは大成しないかとかまでもリアルに把握できるので、どう考えても有利。

 

漠然と「世の中を良くしたい!」とか「総理大臣になりたい!」と思って猛勉強している庶民の子よりも、どの団体や有力者を動かせば何票とれるとか、どうやって貸しを作ってどうやって返してもらうかとか、どういう身振り手振りが人の心を動かすかとかを幼いときから間近に見てきた子のほうが、どう考えても政治家になりやすい。ただでさえ親の票田を受け継ぐことができる上に文化資本まであるんだから、二世議員はものすごく有利。

 

外野からは世襲とかコネに見えてる話も、実態はそういう面も大きいのではないか。 

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勉強する習慣

ここまで「文化資本」ってもののおそろしさを味わってきたわけだけど、自分自身、子育て真っ最中の親のひとりなので、俯瞰して見てるだけではいられない。

 

格差が再生産される身も蓋もない世の中の仕組みがあるとわかったとして、でもそこからは誰も逃げられないので、親である以上どちらにしても自分の子供に文化資本を渡す役割は果たすことになるわけです。

それはつまり、親の蔵書で埋まった本棚やレコード棚、親が見ているテレビ、親が休日に出かける場所、親が仲良くしている人間といったものが、そのまま文化資本になっていくということ。

 

とはいえ、変に焦ってむりやりピアノを習わせたりとか親が背伸びして意識高い人たちと交流し始めたりとかそういうつもりはない。

相変わらずフェスに行ったり大河ドラマを見たり車で古い洋楽を流したりする親であり続けるでしょう。

 

ただ、ものを考えることの「構え」みたいなものは意識して伝えていきたいなと思った。

 

映画評論家の町山智浩氏とラッパーのダースレイダーさんがYoutubeアメリカ大統領選挙やトランプ支持者が連邦議会に乱入した事件について話していた。

 

いわゆるQアノン的な陰謀論にハマってしまう人はアメリカにも日本にもたくさん出てきてしまっているが、そういった人の特徴として、町山さんは「勉強をする習慣がない人」と評していた。

 

知らないことに出会ったとき、自分で調べて確認することができるかどうか、そういう習慣があるかどうかが、陰謀論にハマってしまうかどうかの分かれ目だという。

この「勉強」という表現にはちょっと注意が必要で、ネットで真実に目覚めてしまった人は、その手の動画やブログをまじめに勉強し続けた結果、引き返せないレベルまで陰謀論に浸かってしまうことが多い。

つまり、なんでもいいから勉強すればいいということでもなく、大事なのは知らないことに出会ったときの態度なんだろう。

 

Qアノンに限らず、反ワクチンとか地震兵器とかそういうのを信じてしまう人をSNSやリアルで見ていて思うのが、ある物事に対して感情的・直感的に何かを感じたとして、その感覚を別の角度から見たりしないってこと。証拠に基づいて判断するとかロジカルに思考するとかよりも、最初に感じた印象をそのまま重視する。

ブルース・リーの「考えるな、感じろ」を座右の銘にしてやたら強気だったりして。

 

たとえば目に見えないウイルスが飛沫や手すりから伝染して深刻な症状に繋がるっていう話は、科学的には疑いようのないことなんだけど、感覚的にリアルに受け取りづらい人がいる。そんな人は「コロナはただの風邪」とか甘い言葉を吹き込まれてコロッといってしまったりする。

目に見えないウイルスを警戒して専門家の注意を聞いて気を張って生きていくのってストレスがかかるので、無意識にそこから逃げて耳障りのいい情報だけを集めてしまう。

これは非常によくない。育ちがよくない。

 

よくわからない事態に遭遇したときの考え方の「構え」も文化資本のひとつなんだとしたら、優先度高めでうちの子に渡しておきたい。

 

自分で「自分の考え」だと思っているものは、本当にそうなのか、変なバイアスがかかってないか、そこをちゃんと省みることができる人間に育ってほしいものである。