森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

2023年紅白歌合戦の裏テーマと、欠けていた最後のピース

2023年の紅白歌合戦は、ジャニーズの不在によって紅白らしさがクリアに見えた回だった。

 

第74回NHK紅白歌合戦」キービジュアル - ヒゲダン「紅白歌合戦」で全国の中学生とコラボ、「Chessboard」歌唱動画を募集 [画像ギャラリー  2/4] - 音楽ナタリー

 

紅白歌合戦って、単にその年のヒット曲を並べればいいというわけではなく、今年はこんな年だったよねと国民的ふりかえりをする場になっているじゃないですか。

活躍したスポーツ選手や文化人を審査員に招いたり、流行したワードや商品を企画に取り入れたりもして。

 

今回で言えば、スラムダンクの映画よかったよね〜とか、この人が趣里のお母さん!?とか、これが首振りダンスか〜とか、そういった会話をお茶の間に喚起するような機能が紅白にはある。

 

ただ、国民的ふりかえりの場といっても、個々のトピックをそこまでちゃんと扱える時間があるわけではなく、すべてをちょっとずつなぞるだけにならざるを得ないし、それぞれに独自の世界観を持っていて演出にこだわる歌手たちがだいたい3分ぐらいの尺で次々に現れるので、見てる側の理解が追いつかずにどんどんカオスになっていく。

 

今年の紅白は小中学生と一緒に見てたんだけど、この子たちにはどんなふうに見えてるんだろうって。

さっきまで「すとぷり」とかいう謎のアニメキャラクターが放っていた強烈な違和感を消化できていないうちに画面上には大阪新世界からの中継で天童よしみとかいうド演歌の歌手が暑苦しく大阪愛を歌い上げたりとか、郷ひろみとかいう昭和のスターみたいな人がブレイクダンスに挑戦したなーと思ってたら直後にオオカミの着ぐるみのバンドがアニメの映像をバックに演奏したりとか。

そんなことが4時間にわたって延々と続いていく祭典。

 

今年の「ボーダレス」とかのように一応毎年テーマが掲げられてるんだけど、正直どうでもよくて、必然性も脈絡もなにもあったもんじゃない、この目眩(めまい)こそが紅白の醍醐味なんだと思ってるし、そんな紅白が大好き。

 

 

てゆうか、「ボーダレス」よりももっと明確な裏テーマが全体を貫いていたことに気づいてしまった。

それは、「40代の子育て世代を全力で甘やかす」というもの。

 

たとえば1983年生まれで現在40歳だと、1996年に中学生になり、1999年に高校入学していたわけで、その世代からすると、猿岩石やポケットビスケッツブラックビスケッツヴィジュアル系全盛期が中学生時代と完全に重なるし、高校生時代に椎名林檎MISIAやゆずがデビューしている。

 

猿岩石日記〈Part1〉極限のアジア編―ユーラシア大陸横断ヒッチハイク 歌舞伎町の女王

 

そして20代の頃にロッキン系のフェスに行っていれば10-FEETPerfume星野源を生で見ている確率が高い。

 

まさに今年の紅白は音楽遍歴ど真ん中のラインナップだったということ。

 

(『テレビが届けた名曲たち』って企画、別にポケビ・ブラビである必然性はなくて、別にやまだかつてないWinkでもイモ欽トリオでも金八先生でも北の国からでもよかったわけで、そこに明確な意図を感じるんだよね、HYDE清春に松岡までダメ押しで並べるとことかも)

 

 

さらにいうと、その親世代は70年代後半〜80年あたりが若者時代だったので、キャンディーズ寺尾聰やラッツアンドスターやクイーンがど真ん中ということになる。

 

もっというと、いろんな世代の歌手が幅広く出ているように見えて、実は10年代前半がぽっかり空いているんだけど、これは、今の40代にとってその当時が子育てに忙しすぎて音楽を全然聴けていなかった時期にあたるので思い入れのある曲がないからではないか。

で、子育ても一段落ついて、親子でアニメを見ることが増えてきた20年代から、再びヒゲダンやadoやYOASOBIを知って思い入れができてきた的な。

 

で、さらにここが重要なんだけど、自分のまわりの40代子育て世代の多くが、ここ数年で軒並みK-POPにハマってるという事実。

そういう人たちにとっては、今年の紅白のラインナップって息をつく暇もない完璧な布陣だった。

40代の子育て世代(とその親とその子どもたち)を全力で甘やかすという裏テーマは大成功だったと思います。

 

あとはここにSMAPがいれば完璧だったんだけどなー!!

 

 

映画『首』を見て、生首に執着するヤバい部族だった武士が美化されていった理由を考えた

北野武監督の映画『首』を見た。

 

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アドリブでやってるシーンの脱力的な笑いの印象に引っ張られたからか、あまりよくない意味で期待を裏切られたという感想もちらほら見かけたんだけど、個人的には大大大絶賛です。

 

戦国版『アウトレイジ』と評する人も多いが、たしかにその通り。

おなじみの戦国武将たちが、大河ドラマなどで描かれるキャラクターとは真逆の、ほとんどヤクザみたいな奴らとして描かれている。

だけどこれ、監督ならではの独特で斬新な解釈っていうよりは、むしろ徹底してリアルをやろうとしたんじゃないか。

 

たとえば今年の大河ドラマ『どうする家康』でもそうだけど、「民が平和に暮らすことができる戦なき世をつくるのじゃ!」みたいなことを松潤が言うじゃないですか。

これがどうにもリアリティがないように感じていて。

 

ただ戦国時代ものって、甲冑とか城とか合戦シーンとかでどうしてもお金がかかるジャンルなので、一定以上の予算規模でしか映画やドラマを制作することができないわけで、なのでリアリティよりも一般受けする描写に寄せられるのは渋々だけど受け入れてきたんですよ。

 

そんな中、『首』は、お茶の間向けのコーティングを剥いだむき出しの戦国時代を、R15というレイティングで思う存分描いてくれてる。

そうそう。これを待ってたんだよ!

 

ヤクザであり異民族としての武士

戦国時代の少し前の室町時代には、一応は全国を治める幕府が存在して、それぞれの地域に守護大名が任命されてはいたんだけど、幕府の統治能力はものすごく低かった。

たとえると、警察と裁判所はあてにならず、税務署の仕事っぷりにものすごくバラつきがあるような社会なわけで。

 

さらに戦国時代になると幕府のトップである将軍ですら家来に暗殺されるほどに下剋上が当たり前になってきて、権威とか正当性よりも実力がものをいう世の中になっていき、武士はますます仁義なき存在になる。

 

織田信長っていう人も、分家の出身だけど織田本家を倒したり、立場的にその織田家の上位にいた斯波家も追放したり、権力争いで実の弟を殺したりと、手段を選ばずにのし上がってきた。

なので、実際の信長が『首』の加瀬亮みたいに、パワハラって言葉が生ぬるく感じるレベルの人間だったとしてもおかしくない。

 

そして下剋上でのし上がってきただけに、自分自身がいつやられる側になってもおかしくないっていう緊張感がずっとある。

この緊張感はまさに『アウトレイジ』にあったのと同質のものに感じられた。

 

 

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歴史上の人物と和菓子 荒木村重と饅頭 ーとらや

 

さらに『首』のおもしろさとしては、そんなヤクザな武士たちを、敵の首を切るという行為や首そのものに対して異様なまでに執着する存在として描いているところ。

 

まるで、いけにえだとか干し首だとか纏足だとか贈与みたいな、現代日本人には理解しがたい風習をもつ異民族の一種みたいな感じ。ほとんど文化人類学の領域。

 

で、百姓出身の秀吉・秀長の兄弟はそんな異民族の価値観に全然染まっていなくて、俯瞰して見てるっていうね。同性愛にも興味なさそうだったし。清水宗治のスタイリッシュな切腹にも心動かされないし。

 

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武士を美化したのは誰なのか

侍ジャパン」とか「武士道」とかの言葉でみんながイメージする武士の姿と『首』に出てくる武士は全然違う。

それは、江戸時代に武士のイメージがかなり美化されたから。

 

徳川家康小林薫)が幕府を作って戦国時代は終わるんだけど、黒田官兵衛浅野忠信)の子孫が福岡藩の大名として幕末まで続くみたいな感じで、首を切りまくって大暴れしていた野蛮な戦国時代の武士たちが、そのまま江戸時代の大名にスライドしていった。

 

つまり、おじいちゃんは主君を裏切ったり敵を皆殺しにしたりして生き残ってきたのに、その地位を受け継いだ孫は刀を抜くこともなく幕府に忠誠を誓って真面目に殿様をやるみたいな状態。

 

自分たちの一族が殿様になった経緯をストレートに説明しちゃうと血生臭すぎてとてもじゃないけど正当化するのが難しくなるので、そこはいろいろ美化してしまうってもんで。

 

その美化された武士の姿が、「侍ジャパン」とか「武士道」とかの言葉で現代人が思い描くイメージだとか、大河ドラマなどの戦国時代モノにかなり影響を与えているんじゃないか。

 

 

『首』は、美化されてないリアル武士がどんなものだったか、映画的な誇張はしつつも飛躍しすぎず追求した作品って感じで大満足でした。

 

これまでの北野武監督作品に一貫していた、情緒を排除した暴力とか底抜けの虚無感とかを描くのに、人の命が軽すぎる戦国時代って舞台がものすごく似合っていたと思う。

 

なので続編も全然あり。

清州会議の信長の跡目争いの場で暗躍する秀吉とか、家康とつるんで怪しい動きを見せる千利休を追い詰めて切腹させる秀吉とか、見たいでしょ。

 

 

ビートルズ最後の新曲を可能にした「デミックス」はもっと可能性がありそう

ビートルズが最後の新曲としてリリースした「ナウ・アンド・ゼン」。

 


ジョン・レノンが遺したデモ音源から歌声だけを抜き出し、ポールとリンゴがベースやドラムを演奏し、そこにジョージが生前録音していたギターを重ねることで完成したという、時空を超えてメンバーが最後の共同作業をおこなった新曲。

 

実はジョンのデモ音源は、1994年にはオノ・ヨーコからポールらに託されていたんだけど、その時代のテクノロジーでは、デモ音源から声だけを抜き出すことができず、ずっとお蔵入りになっていたという。

今回、AI技術の進化により、デモ音源からピアノと声を分離することに成功したため、「ナウ・アンド・ゼン」のプロジェクトが一気に進んだ。

 

この技術は「デミックス」といって、ビートルズのアルバム『リボルバー』を2022年に生まれ変わらせたのと同じ手法。

今回「ナウ・アンド・ゼン」と同じタイミングでリリースされたいわゆる赤盤・青盤の2023年エディションも、同じ手法。

 

特に赤盤は60年代前半の録音であり、現代と比べると録音技術に大きな制約があったわけで、やはり2023年エディションは、われわれがずっと聴いてきたものとは全然違う仕上がりになっていて衝撃だった。

 

デミックスとは

ではこの「デミックス」というのはどういう技術なのか。

その話をするにあたり、まずは基本的なレコーディングの仕組みについて見ていきたい。

 

楽曲をレコーディングする際には、いろんな楽器をバラバラに録音する。

ロックバンドの場合、まず最初にドラマーがスタジオに入り、メトロノーム的なものに合わせてドラムを叩き、それを録音する。

次にベーシストがスタジオに入り、さっき録音されたドラムに合わせてベースを弾き、それを録音する。

次にギタリストがスタジオに入り、さっき録音されたドラムとベースに合わせてリズムギターを弾き、、、といった具合にどんどん楽器を重ねていく。

 

それぞれの楽器は、独立したトラックに録音していくので、後で録音したパートだけの音量を上げ下げしたり加工したりすることができる。

この、バラバラに録音された状態の音源はレコード会社なりが所持しており、公式のリミックスが制作される際には、各トラックを抜き出したり加工したりすることができる。

 

90年代以降はデジタルレコーディングになっているので、トラック数はほぼ無限。好きなだけ楽器を重ねていくことができる。

ドラムはマイク1本ごとに1トラック使えたり、ギターはアンプに立てたマイクとライン録音と部屋の鳴りにそれぞれ1トラックずつ使えたりする。

なので、90年代以降に録音された楽曲については、基本的にはデミックスをする必要がない。

 

一方、アナログ時代のレコーディング、特に60年代前半などにおいては、物理的なテープに録音していくため、使えるトラック数に限りがあった。

赤盤の頃のビートルズは4トラックしか使えなかったため、必然的に複数の楽器をひとつのトラックにまとめて録音せざるを得なかったわけ。

なので、後からドラムのキックだけを上げたいとか、ギターをキラキラさせたいとか思っても、同じトラックに入っている他の楽器の音まで一緒に上がってしまったりするので、うまくいじれなかった。

 

ところが、デミックスという技術により、同じトラックにまとめて入ってしまっている楽器を分離できるようになった。いままで絶対に不可能とされてきたことがいきなり可能になったわけで本当にすごい。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ef/Tascam-16Track.jpg

16トラックのアナログテープレコーダー

 

デミックス希望その1

せっかくこのようなすばらしい技術が登場したんだから、ビートルズ以外にもデミックスしてクリアな音で再構築してもらいたい。

 

まずは、朝ドラ『ブギウギ』で再評価まっただなかの笠置シヅ子

マルチトラックでのレコーディングは1950年代終盤に登場した技術なので、戦前〜戦後すぐに活躍した笠置シヅ子の音源は、楽団も歌も一緒に一発録りしたもの。

すべての楽器が混ざって録音されているし、他にも当時の技術にはいろいろと限界があったので、現代のリッチな音に慣れた我々の耳にはどうしても物足りなく聴こえる。

 

耳の肥えた人はそこも想像力で補って脳内リプレイが可能なんだけど、現代人の多くに魅力が伝わるようなサウンドで聴いてみたいというのは多くの人の願いだろう。

 

実はそれに近い発想の取り組みはすでにあって、「東京ブギウギ」の原曲にウッドベースとパーカッションを重ね、音像も全体的にパキッとさせたバージョン「東京ブギウギ Boogie Woogie Age Re-Edit (Re-Edit by DJ Yoshizawa dynamite.jp)」がつい最近リリースされた。

 

これもかなりいい感じなんだけど、やはりオリジナル音源のビッグバンドの各楽器を最新のAI技術でクリアにデミックスして、職人技で磨きをかけたら雰囲気が一変するのではないか。

 

戦前戦後に録音されたビッグバンドのデミックスとなると、ビートルズよりも大変な仕事になるだろうけど、クールジャパンとかいって億単位の税金を無駄にするぐらいなら、こういうのを国家プロジェクトとしてやってほしい。

 

それが無理なら、音源から笠置シヅ子の歌声だけを抜き出して、服部隆之アレンジの現代のビッグバンドの演奏にのせるとかでもいい。

アカペラ音源を公式が配布して、リミックスコンテストをやるのもいいと思います。

 

デミックス希望その2

そんな笠置シヅ子のものまねで人気を博したのが、少女時代の美空ひばり

 

デビュー曲「河童ブギウギ」は1949年リリースなので当然マルチトラックレコーディングではない。

 

 

この音源だとせっかくのご機嫌なバックバンドが歌声に埋もれてしまっているので、デミックスによって打楽器も含めていい感じに生まれ変わったものを聴いてみたいよね。

 

AI美空ひばりは、生前の歌声を学習させて晩年の歌声を生成させたものだったが、むしろ10代のキレキレのリズム歌謡をデミックスするためにこそAI技術を使ってもらいたい。

 

デミックス希望その3

時代的にはマルチトラックレコーディングが一般的になっていたとしても、ライブ録音はマルチじゃないことが多い。

 

最初からライブアルバムにするぞっていう体制で録音されたものは、スタジオと同じくマイク1本ごとにトラックを分割されてるんだけど、そうじゃない場合、PA卓でまとめた後の音源しかないってことになる。

 

たとえば70年代の伝説的なロックバンド、村八分

いまだにいろんなライブ音源が発掘されてリリースされ続けているけど、このあたりをデミックスで仕上げてみたらどうなるんだろうか。

 

 

いや、村八分が好きな人は音質とかどうでもいいというか、むしろ音質の悪さも含めて愛してるような気がするので、これは完全に余計なお世話かもしれない。

 

ユニコーン『ええ愛のメモリ』はAI使用の模範解答なのでは!?

ユニコーンが2023年10月11日にリリースした配信限定EP『ええ愛のメモリ』。

 

発表された情報によると、収録された5曲はいずれも、メンバー5人がそれぞれに「あの頃、作っていたような楽曲」というテーマで作詞作曲した楽曲を、若い頃のメンバーの歌声を学習したAIに歌わせたものらしい。

ユニコーンが「自らの手」で「自らの声」を蘇らせる、といった趣のプロジェクト』とのこと。

 

進化し続けるAIというテクノロジーに対して、全人類がおっかなびっくりになっているこのご時世に、戯れつつも芯を食った作品を生み出すこのバンドはやっぱりすごい。

 

 

ユニコーンは昔からおかしかった

バンドブームのど真ん中に登場したユニコーンは、デビュー当初こそ時代の影響を受けたポップハードロックって感じの音楽性でアイドル視される存在だったものの、次第に高い音楽性に裏打ちされつつ全力でふざけるという、唯一無二の存在になっていった。

 

ユニコーンのおかしいところはいろいろあるけど、まず歌詞。

バンドブーム期の曲にありがちな悪ガキ目線ではなく、むしろ悪ガキの仮想敵だったサラリーマンの目線で歌った「大迷惑」「働く男」「ヒゲとボイン」が代表曲になっているし、他にも、おじいさん、犬、幕末の庶民、親に虐待されてる子供、野球部の補欠などなど、おおよそロックバンドの歌詞にならなさそうなテーマの曲がたくさんある。

 

そして音楽性のバラけ具合。

幅広い音楽性を売りにするバンドは多いけど、普通は何かしら核になる部分はあるものだし、特に代表曲にはそのバンドなりの勝ちパターンが見えてるもんだけど、ユニコーンの場合、先ほど挙げた代表曲「大迷惑」「働く男」「ヒゲとボイン」は、見事にバラバラで音楽性に統一感がない。

シングル曲もアルバム曲もバラバラで、的を絞らせない。

フュージョンもボサノバもハードコアパンクもケチャもロシア民謡もある。

 

今回の『ええ愛のメモリ』は、そんなユニコーンだからこその作品と言える。

 

ユニコーンの異常さについては詳しくはこの記事で書いてますのでこの記事を最後まで読んだら次こっちどうぞ。

 

星野源 ユニコーン『おかしな2人』を語る | miyearnZZ Labo

ユニコーン好きなアーティストはたくさんいるけど、こちらは星野源によるユニコーン語り

 

セルフパロディとしての『ええ愛のメモリ』

『ええ愛のメモリ』のおもしろさは、まず、AIに歌わせたという話の前に、「あの頃、作っていたような楽曲」というテーマで曲を作ったというところ。

 

インタビュー動画の中ではABEDONはこう語っている。

今ある曲に似たような曲を発注されたと思って作ってくれっていう風にみんなに言った

でないと書かないんですよ

音楽やってる人はみんなそうだと思うんですけど

前に一度書いたことがあるような曲を書くっていうことを避ける傾向がある

 

特にユニコーンは作品ごとにいろんな音楽性や手法をやるバンドなので、その傾向が顕著。

そこがかっこいいところではあるんだけど、常に新鮮なことをやりたいメンバーと、往年のあの感じが好きっていうファンの気持ちの折り合いをどうつけるかっていうのは、キャリアが長いアーティストに共通する悩みだろう。

 

今回のように企画モノっていうテイにするのは、ユニコーンらしい答えの出し方だと思った。

メンバーが堂々と伸び伸びとセルフパロディをやれる環境を作れて、往年のファンはニヤニヤしながらもあの頃の感じを味わうことができた。

 

 

たとえば1stアルバム収録の「Maybe Blue」って曲があって、甘酸っぱい名曲なんだけど若気の至りすぎてその後の音楽性と乖離しすぎて封印されたような感じになってて。

今回の『ええ愛のメモリ』の1曲目の「ネイビーオレンジ」って曲は、その「Maybe Blue」を元ネタにして奥田民生本人が作曲し、メンバーも音色やフレーズで遊びまくってるんですよ。

原曲を知らない人もぜひ聴き比べてみてほしい。

 

 

 

AIに歌わせることの問題と、ユニコーンらしい答え

AIに歌わせるといえば、2019年の紅白歌合戦に登場したAI美空ひばり

 

美空ひばりの生前の歌声を学習させて生成した声に、さらに微妙なピッチの揺れといった癖を反映させ、高い再現性が生まれたことで話題になった。

 

一方で、そもそも亡くなった人の歌を勝手に再現することの是非については、批判の声が多かったことも事実。

 

たしかに、「あなたのことをずっと見ていましたよ」というセリフにはちょっと一線を超えた怖さを感じたものだった。

遺族なり正当な権利者なりが許可を出したからといって、やっていいことなのかどうか、そして何を歌わせ、何を語らせるところまではアリなのか、法的にも倫理的にも経済的にも未解決な部分が残っている。

 

本人のデータに基づいてAIでつくられた部分にギャラは発生するのかどうかについては、先日のハリウッドのストライキでも争点になっていた。

 

俳優が制作会社から、「その人物をスキャンして1日分のギャラを支払い、そのスキャン画像や肖像に対する権利はスタジオ側が保有して、以後は同意もギャラもなしにスタジオ側が望むプロジェクトで恒久的に使用できる」という条件を持ちかけられたとか。

 

その点ユニコーンの今回のは、別に本人が歌ってもいいのにわざわざAIを使ったというパターンなので、揉める余地がない。

 

新奇なテクノロジーとの付き合い方

人類はこの数千年、新しいテクノロジーの登場による産業構造の変動を何度も味わってきた。

音楽の世界でも、カラオケの登場で多くの流しやバンドマンが失業したという。

 

人間というのは、それまでの習慣や馴染みのある世界が変わってしまうことを基本的に怖がるようにできている。

新しく出てきたものに対しては、だいたい最初は批判されるし、批判する言葉もジャンルを問わず驚くほど似通っている。

だいたい「心がない」「風情がない」「冷たい感じがする」的なこと。

 

シーケンサーによる打ち込みのリズムが登場した80年代にも、ボーカロイドが登場したゼロ年代にも、同じ言い回しによる批判があった。

2020年代のAI批判も、結局はそれらとすごくよく似てると思う。

 

 

でも新しいテクノロジーに対して反射的に身構えてしまうのは本能だとして、その本能には自覚的でいたいし、できるだけバイアスをとっぱらって見るようにしたいじゃないですか。

 

それでいうと、AIという新奇なテクノロジーに対して、とりあえず遊んでみるという接し方を選んだユニコーンは、やっぱりおもしろいしかっこいい。

 

それに、AIにまつわる法的な課題、倫理的な課題、経済的な課題に対して、「存命の本人が自分たちに権利がある楽曲で使用する」っていう、ひとつの模範解答を出したとも言えるのではないか。

 

というか、さっきのハリウッドの例なども考えると、いろんな課題を整理していった結果、他人とか死人とかをAI化するのはダメっていう結論に落ち着いてくる可能性も全然あると思う。

 

そうなると、『ええ愛のメモリ』はOKな使用例の先駆けとして、時代を超えて評価されるべき作品なのかもしれない。

 

「みんなちがって、みんないい」の時代にも『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす』のか

ここ最近「Y2Kリバイバル」として、2000年前後のファッションやカルチャーが若い世代に注目されている。

数年前には90年代っぽい厚底スニーカーが「ダッドスニーカー」なんて呼ばれて流行ったりもした。

 

ポピュラー音楽の世界でも、2000年前後に盛り上がっていたドラムンベースやポップパンクといったスタイルが、現役バリバリのアーティストの新曲で使われていたりする。

 

ドラムンベースを耳にしたのはH jungle with T以来という声も聞かれた

 

これが2020年代にリリースされた新曲で1.2億回再生されてるっていう事実

 

当時を知っている我々からすると、葬り去ったはずの過去に再び向き合わされているような、それでいて馴染みのある肌触りに安心感を抱くような、なんともいえない微妙な気持ちにさせられる。

 

この「リバイバル」っていう不思議な動きを真正面から取り上げて、400ページ超にわたって徹底的に掘り下げたのが、『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす』という本。

 

 

あの『シティポップとは何か』を著した柴崎祐二氏の新しいやつってことでかなり楽しみにしていたんだけど、期待を超える充実した内容でした。

 

1950年代から2020年代までの間にポピュラー音楽の世界で興ったいろんなリバイバルの動きを丁寧に紹介しつつ、それぞれの動きの時代背景や鍵となる人物やテクノロジーの話、さらには歴史的な意義にまで踏み込んで縦横無尽に書かれている。

 

たとえば、90年代の渋谷系を準備していたのは、個人経営のレコード店やDJによる埋もれたソフトロック名盤の再評価の動きであり、その背景には、カウンターカルチャー的なロック語りが陳腐化してきていたことがあり、その傾向は世界同時多発で共有された面もあり、、といった具合。

 

同時代で体験していてよく知っているリバイバルも、後追いだけど知識として入っている話も、自分がまったく通ってこなかった世界の話もあり、いずれも興味深くて一気に読み終えた。

 

カバーしている範囲の広さでも、リバイバルにまつわるいろんな要素の網羅性でも、批評の深さについても、本当にすごい一冊でした。

 

実体験してきたリバイバル

個人的にも、リバイバルについてはずっと興味を持って考えてきたし、LL教室としての活動の中でもことあるごとに議論したり紹介してきたりもした。

 

『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす』は、これまで自分なりに積み重ねてきた音楽体験や思考に対して、土台が強化されたような思いと、一方で思いもよらなかった方向で揺さぶられたような思いの両方を味わわせてくれたので、今回は自分なりにリバイバルという現象について考えてきたことをいくつか話してみたい。

 

 

リバイバルというものを初めて意識したのは、80年代にあったいわゆる「オールディーズ」のリバイバル

 

横浜銀蝿みたいなツッパリの人たちのリーゼントとか革ジャンとかポニーテールといったスタイル、さらにはロックンロールっていう音楽が、実は大昔のものだっていうことに薄々気づいたという原体験があった。

新進気鋭のグループであるはずのチェッカーズを「懐かしい」っていう大人がいたこととか。

 

そして自分がリバイバルの担い手になっている実感を持ったのは、90年代。

70年代の空気感を身にまとったイエローモンキーやラブサイケデリコといった人たちがJ-POPのど真ん中でブレイクした時代、襟のでかいハデな柄のシャツやブーツカットジーンズやミニワンピースといったファッションは自分たちの世代が中心だった。

リーボックのスニーカーがおしゃれになった2020年以降、「ラッパズボン」を履く息子を奇異な目で見ていた当時の親たちの気持ちを、今の自分ならすごくよく理解できる)

 

50年代リバイバルがあった80年代、60〜70年代リバイバルがあった90年代と、2度のリバイバルを体験してきた当時、「このままいくといずれ80年代ブームがやってきたりして」などと冗談を言い合っていたものだけど、これはあくまで冗談であって、そんなことはありえないという強い前提があった。

 

なぜなら、90年代には80年代らしいものは完全にダサいものになっていたから。

加工されたドラムの音やシンセサイザー、手数の多いスラップベース、都会っぽさを気取った歌、袖をまくった大きめのジャケットなどは、嘲笑する対象でしかなかった。

 

 

 

まさか後年それらの要素がシティポップを象徴するものとして「アリ」になっていくだなんて、誰も想像できなかった。

 

自分自身、いかにも80年代な音楽は、90年代と今とで全然違って聴こえている。

手のひら返しと言われればその通りなんだけど。

 

なので、この先なにかとんでもないものがリバイバルしたとしても驚かない。

すべての音楽はリバイバルの可能性を秘めていると思っている。

 

「みんなちがって、みんないい」のか

度忘れ去られた音楽が後の時代にリバイバルするという現象が何度も繰り返されてきたポピュラー音楽の半世紀。

 

『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす』の中で指摘されている通り、多くの者から「時代遅れ」とみなされている意匠こそ、新たな意味付けをされて再浮上する、つまりリバイバルしやすい傾向があると思う。

 

 

70年代〜80年代〜90年代にかけては、新しいジャンルやサウンドが流行していく過程で、直前のトレンドをダサいものとして否定するのが常だった。

「◯◯はもう古い!これからは▢▢だ!」みたいな言い回しが当時の音楽雑誌にはよく出てくる。

 

前述した個人的な音楽体験の中でも、80年代はとにかく深刻ぶって大げさな70年代っぽさを否定して、ポップで軽薄であることがカッコいいとされたし、90年代になるとそんな80年代の軽さがものすごくダサく見えていた。

そして、そうやって一度時代遅れになったからこそ、次の時代にリバイバルした。

 

言ってみれば、親殺しによって自己を確立するにあたり、親世代への逆張りとして、親世代が否定した祖父母の世代の価値観を引っ張り出してきたようなもの。

20世紀後半はその繰り返しでやってきたようなところがある。

 

ただ、21世紀になると、相変わらず新しい音楽ジャンルやサウンドは生まれ続けているものの、ことさら前の時代を否定しなくなった。

 

近頃の若者は反抗期がないまま大人になるらしいっていう話とよく似ているし、他人の好みや意見を批判するのはよくないことだという価値観が定着したことにも通じているのかもしれない。

 

ひと昔前なら、キャリアが20年ぐらいあるアーティストは、そのキャリアの中で何度も音楽性が変わっているのが当たり前だった。

たとえばジェファーソン・エアプレイン→スターシップ、シカゴ、ドゥービー・ブラザーズなどの、70年代から80年代にかけてのキャラ変は有名。

日本でも、フォークデュオとしてデビューしたCHAGE and ASKAが、80年代にアーバン化した末に90年代J-POPの代表格になった、みたいな事例はいくらでも転がっている。

 

それと比べると、90年代にデビューして2020年代も活動しているアーティストって、音楽性があまり変わっていない。

たとえ変わっていたとしても、それはシーンのトレンドに押し流された結果というよりは行き詰まったとか飽きたといった感じで、あくまで本人の意志でやったパターンが多そう。

少なくとも、80年代や90年代に起こったような、現役アーティスト全員が巻き込まれるような激変は、久しく発生していない。

 

20年前と同じ音楽性で活動しているアーティストがいても、ブレなさを評価されることはあっても、変わらなさをもってダサい言われることはない。

 

言わば「みんなちがって、みんないい」の時代になったわけで、変なトレンド圧力がなくていい時代だとも思うけど、一方であらゆるジャンルなり意匠が時代遅れにならずにそれぞれのシーンで生き延びていくということは、リバイバルされるきっかけも生まれにくいということも言えるのではないか。

ジャンルなり意匠を支える人たちが細々ながらもずっと存在し続ける限り、部外者による文脈の読み替えは起こりづらそう。

 

20年前からブックオフで短冊型CDシングルを買い集めて、時代が一周するのを待ち構えていたような自分からすると、なにごとも一旦は完全に時代遅れになってからリバイバルしてくれたほうがおもしろいので、「みんなちがって、みんないい」は物足りない。

今さら「◯◯はもう古い!これからは▢▢だ!」もしんどいけど。

 

↑同じバンドの1970年と1981年の代表曲…

 

1周目と2周目の区別がつかない

リバイバルはおもしろい。

しかし完全に文脈に依存した動きなので、後追い世代には掴みづらいことも多い。

 

先日も20代の音楽好きと話していて、60年代のモッズと70年代のネオモッズを混同している事例を観測した。

そりゃ90年代生まれにとってはどちらも自分が生まれる前のイギリスのマイナーなシーンの話だしね…。

1周目と2周目の区別がつかなくっても無理はない。

 

『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす』を読んでいて、このガイドはそんな世代にすごく役立つだろうなと思った。

 

LL教室として美学校のポピュラー音楽批評講座を次年度も担当させていただくことになりましたが、「リバイバル」はトピックとして立ててもよいかも。

 

 

 

 

フジロック2023の3日目でサハリンと大阪千日前と会津磐梯山と架空の80年代を行ったり来たり

めちゃくちゃに暑かった2023年の7月。

まとまった雨の日は一日もなく、毎日毎日35℃の晴天が続いた。

 

 

そんな7月の最終週に、今年もフジロックが開催された。

例年この時期はまだ梅雨明けしてなかったこともあったし、苗場の山は外界よりも一層不安定な気候だし、多少の雨は覚悟して行くのがフジロックだという感覚がこれまでの経験から染み付いているんだけど、今年に限ってはまったく心配していなかった。

そして案の定の晴天。

 

コロナ禍による開催中止を経て、去年も開催はされたものの、観客も運営もおそるおそる…っていう感じだったんだが、今年は本格的にあのフジロックが帰ってきた!というムードが会場に満ち満ちていた。

会場に向かいながらそんな空気をたっぷり味わって、ゲートをくぐる前からすでに幸せいっぱいでございました。

 

最近は加齢による効果でいろんなことで感動しちゃう体質になってきてるんだけど、フジロックについても、昔は好きなアーティストのライブがたくさん見られるっていう喜びだけだったのが、もはや、この場所があることや、たくさんの人が集まって楽しそうにしてることや、そういった環境そのものに対してまずは胸がいっぱい。

 

 

昔は前夜祭から月曜の朝までフルで遊び倒していたもんだったけど、幼い子供を家に残して三日三晩自由に過ごすのはちょっとむずかしいので、最近は三日のうちの一日に狙いを定めて行くのが恒例になっている。

ということで、2023年は最終日に行ってまいりました。

 

 

 

1997年に苗場に移ってから、ステージ数や会場のレイアウトなんかは基本的にずっと同じなんだけど、完全に同じなわけではなく、少しずつ変化していってる。

今年からの変化といえば、まずは「FUJI ROCK PLUS」という名のVIPチケットの導入でしょう。

 

「不便を楽しめ」というフジロックらしさには反するよなという葛藤はありつつも、古株のフジロッカーはもう世代的に50歳前後になってきてるわけで、個人的にはアリだと思う。

買わなかったのは、自分にはまだ早いかなというだけ。

一日だけ参加するスタイルだからだと思うけど、今年もまだまだ足腰いけました。

 

 

あとは現地の話じゃないんだけど、ここ最近当たり前のようにあったYouTubeでの中継が今年はなかったというのも大きな変化だったな。

 

自分が行かない日の中継がなかったのは普通に残念ではあったけど、よく考えたらむしろなんで今までタダで見せてもらえてたんだって思う。

来年から何らかのかたちで中継を復活させるなら、1日1,000円とかだったらたぶん払う人は何万人もいるんじゃないかな。世界規模を考えたら百万単位かもだし。

 

AM10:00

苗場に到着。

当日券を買ってリストバンドを巻き、ゲートのところでセルフィーを撮影するという恒例行事からスタート。

 

グリーンステージでnever young beachが始まったのを横目にさらに奥地へ移動し、ホワイトステージへ。こちらではHomecomingsが演奏中。

本当はもっと奥地にさっさと行きたかったんだけど、大きなステージに怯むことなく、いつもの気持ちいい感じでライブしてるHomecomingsにしばし釘付けされる。

 

 

AM11:40

ホムカミに後ろ髪を引かれながらフィールド・オブ・ヘブンへ。

そう、今年のフジロック最大のお目当てである民謡クルセイダーズに間に合わなくなるので。

 

ここ数年、民クルのライブには行けるだけ行きたくて、奥多摩のキャンプ場とか葉山の海の家とか鶯谷のライブハウスとかいろんなところに足を運んできたんだけど、実は初めてライブを見たのが2018年のフジロックだった。

悪天候などあって疲れ切っていたにもかかわらず、深夜のパレス・オブ・ワンダーで初めて見た民クルは本当にすばらしかった。

 

2022年のフジロックにも出る予定だったんだけど、直前にコロナでキャンセルになってしまい、今年はそのリベンジのような意味合いでもあり、めちゃくちゃ楽しみにしていて。

 

開始直後こそオーディエンスの数がまばらだったものの、曲を経るごとに増えていき、また熱気も増し増し。

おそらく初見の人が多そうな雰囲気だったんだけど、日本人ならなんとなく馴染みのある民謡と、強制的に足腰を踊らせにくるビートの掛け合わせは、フジロック(特にヘブン)に来るような人に刺さらないわけがない。

 

クンビアありサルサありマンボありレゲエありブーガルーあり、ありとあらゆるカリブ産のダンスミュージックの美味しいところを駆使してくる民クル。

民謡って基本的に西洋音楽とは別ものとして発展してきたので、五線譜に落とし込めなかったり四拍子で割り切れないところがあったりするし、ラテン音楽シンコペーションや裏拍が強かったりクセがあるんだけど、民クルはそのあたりの料理の仕方が本当に上手。

DJ目線で使えるビートをディグする感覚でやってるようなところもあるなと思う。そのセンスがたまらない。

 

ということで、まだ昼なんだけどこの時点で元は取れた感。以降はすべて余生の楽しみということになります。

 

 

PM1:00

フェスといえばごはん。

とにかく体力勝負なのと空き時間がタイムテーブル次第ということで、フジロックでは1日3食という規則性は完全に失われる。

食べられるときに食べるのでだいたい5食ぐらいになりますね。

ということでまずはビリヤニ

 

そして食べながらぼんやりスターダスト・レビューを観戦したんだが、やっぱり苦手でした。

ちゃんと聴いたことがないままにたぶん苦手なんだろうなと思ってきたんだけど、あのフジロックに呼ばれるからには、何か食わず嫌いなところがあったのかもしれないと反省して、いい機会だしちゃんと向き合ってみようと思ったんだけど、やっぱり苦手でした。

 

気を取り直して、再びヘブンに戻り、OKI DUB AINU BANDへ。

2010年にリリースされた「サハリン ロック」って曲がめちゃヤバくて、その時期の渋谷クアトロでのライブも最高で、そこからしばらく追ってたバンド。

 

 

 

一言でいうとアイヌの伝統楽器を使ってダブを演奏するバンドなんだけど、ドラムが沼澤尚だったりエンジニアが内田直之だったりキーボードがHAKASE-SUNっていう鉄壁のメンバーを擁している真ん中でトンコリっていう弦楽器が映えまくるっていう、ちょっと世界中に類を見ない音になっている。

 

本来は南国ジャマイカで生まれたダブっていう音楽形態が、ポストパンクの時代にイギリスに渡って、寒々しいダブもアリっていうことが発見されたんだけど、OKI DUB AINU BANDはさらに北にダブを持ち込んだ。

しかもアイヌ音楽という、それまでロックやポピュラー音楽の文脈に置かれたことが一度もないものを料理するために使ったところもすごくて、結果、北海道の深い森とか湖を感じさせる音になっているんだよね。

何年か前に行った支笏湖の静かな森と、土産物屋で口琴を教えてくれたアイヌのおばあさんを思い出す。

 

PM3:00

時間を持て余したのでぶらぶらしつつまたご飯。

スリランカ屋台メシ コットゥロティ」とかいう、エスニック料理はそこそこ食べてきた自負のある自分でも完全に初耳なやつを食べてみる。

が、ちょっと期待外れ。

 

ROTH BART BARONを遠目に見て、民クルのメンバーがやってる民謡ユニット こでらんに〜も遠目に見て、体力を温存。

 

PM4:00

ホワイトステージで100gecsを待機。

はちゃめちゃに散らかったハイパーポップで数年前から話題になっていたアメリカ出身のデュオ、100gecs。

 

エクストリームな打ち込みビートの上でヘヴィーメタリックなギターが鳴ってるタイプの音は個人的に大好物で、古くはMINISTRYやKMFDMやラムシュタインATARI TEENAGE RIOTあたりの系譜ですね。ドイツ勢が多いんだけど日本だとhideとか。

最近だと出自は全然違ってそうだけどSkrillexはその流れで聴いてた感覚があり、100gecsも自分の中では繋がってる。

 

そのSkrillex、2018年にグリーンステージに出たときはYOSHIKIが登場したりでど派手なパフォーマンスを繰り広げてたので、ホワイトステージの100gecsにもかなり期待してたんだよね。

 

ところが、100gecsはステージに出てきたのはメンバーの2人のみ。ちょっと変わった衣装でギーク感を醸し出していたものの、基本的にハンドマイクで歌うだけで音はカラオケ。

 

たとえば音源ではサンプリングで鳴らしていた音もライブでは人力でやるみたいな、そういう工夫(2017年のTHE AVALANCHESみたいな)は一切なかった。

なので正直いって数曲で飽きてしまった。

 

自分が100gecsだったら、ANTHRAXのスコット・イアンみたいな、ゴリゴリのメタルギターを弾けるけど遊び心がわかってる人をギタリストとして帯同して、音源よりもメタル度を高めたアレンジにしたりとか、もう少し低コストでいくとしても映像に凝ってみるとか、YOSHIKIを出せとは言わないけど何かしらはできたと思うんだよなー。

期待していただけにこの飽きは残念でした。

 

↑スコット・イアン…ゴリゴリにメタリックなリフを弾きつつラップもしちゃうスキンヘッド

 

PM6:00

続けて同じくホワイトステージに登場したのがBLACK MIDI

こちらは圧倒的なバンド力で激ヤバでした。

 

何よりもまずドラマーの手数の多さや尖り具合がすごくて、その鬼神っぷりを見てるだけでも十分楽しい。しかもただ手数が多いっていうだけじゃなく、クラッシュシンバルでバシャーン!って白玉を打ったときの破壊力もすごくて、そこに関してはBOREDOMSのYOSHIMIっぽい。

 

そしてギター2本とベースの絡み方やトリッキーな楽曲構成もヤバヤバで、そこに関しては『ディシプリン』期のキング・クリムゾンとか、90年代の変態ベーシストバンドのPRIMUSあたりを彷彿とさせる。

 

つまり最強に最強を掛け算した状態であり、今日2度目の個人的ピークがやってきてました。

夕方以降は夜中まで温存するはずが気づいたら汗だく。

 

↑PRIMUS…BALCK MIDIの狂いっぷりはこのバンドを思い出させた

 

PM7:00

あたりはすっかり暗くなっていた。

ホワイトからグリーンに通じるボードウォークを歩いていると、遠くから聴こえてくる音がバンドサウンドっぽい。

でもこの時間帯はBAD HOPのはずでは…?と思いながら歩いてグリーンステージに到着。

 

先日解散を発表した川崎出身のヒップホップグループ、BAD HOP。

MCによると他のアーティストがキャンセルになって急遽オファーが来たらしい。

 

いまや日本語ラップシーンを代表する存在になった彼らだけど、フジロックはいわばアウェイ。そこで何かカマしたいってことで、なんと初の試みとして豪華メンバーによる生バンド編成でやることにしたのだった。

 

特にリズム隊はRIZEの2人で、ラウドなバンドサウンドにラップを乗せるという2000年前後に流行ったミクスチャーロックのスタイルを完全に踏襲しており、30代後半以上のキッズは大喜びのやつ。

 

https://i2.wp.com/mag.digle.tokyo/wp-content/uploads/2023/07/badhop-news-mv-scaled.jpg?resize=768%2C512&ssl=1

BAD HOP、フジロックで特別バンド編成を披露!金子ノブアキ、KenKen、masasucksらと圧巻のパフォーマンス

 

昨今のY2Kリバイバルの流れに繋がってるのかどうかわからないけど、若い人には新鮮に聴こえたのであれば、今後この流れがひとつのトレンドになってくるかもしれない。

 

ただ当時と違って最近はトラップのビートに合う3連符のラップが主流なので、そのあたりがどう消化されるのかは見もの。

 

このあたりでシュラスコ丼を食べた。

 

PM9:00

キャリアの長いベテランが数年ぶりにフジロックに出演することはよくある。

苗場食堂に登場した赤犬も、実に16年ぶりのフジロック出演。

 

25年ぐらい前にハシノがやってたバンドが神戸で自主イベントをやった際に赤犬に出てもらったこともあり、昔から好きなんです。

(ちなみにそのイベントには、キングブラザーズクリンゴンやからふうりん(キセルの前身バンド)にも出てもらった。われながらすごいセレクト)

 

前回のフジロック出演時はディスコを基調としたミクスチャーといった音楽性だったけど、ここ10年でイメチェンし、現在は昭和〜平成の夜の匂いがする演歌歌手がやってそうな感じになっている。

裏ではヘッドライナーのLIZZOがグリーンステージを盛り上げてたり、ホワイトではWEEZERがやってたりするだろう時間帯に、あえてここに集まった少数精鋭(とはいえ苗場食堂の前は大混雑)を相手に、チークダンスありズンドコあり宇宙歌謡ありの大盤振る舞い。

30周年記念公演の告知ポケットティッシュもゲットしました。

 



PM10:00

赤犬の余韻を引きずりつつグリーンステージへ。

さっきまでの半径10メートルのコアな世界も最高だったけど、そこから急に全世界規模のポップスター様を目にすると、すぐにはピントが合わずにクラクラする。

 

全員女性メンバーのバンド編成で、映像も駆使して、そして何よりも本人の存在感で、数万人を捕らえて離さないのはさすが。

それでいて、ファンが掲げるメッセージボードにいちいち反応してあげたりする細やかさもあるっていう。

 

この後、スタッフからの例のパワハラ内部告発があって揉めてるわけですが、真偽の程がわからない段階であれこれ言うのはお行儀よくないのは承知の上ですが、一般論として、全世界を相手にエンパワメントするのが適切なスケール感の人間っていうのは、身近な人にとってはたぶん相当つきあうのが難しい感じなんだろうなと。

美空ひばりやJBやマイケル・ジャクソンなんかのエピソードを見てるとそう思う。

 

日曜のヘッドライナーの終演後にグリーンステージに鳴り響くジョン・レノンの「パワー・トゥ・ザ・ピープル」を背中に聴きながらレッドマーキーへ。

 

何だったか覚えてないけど何らかのフェス飯を食べながら、きゃりーぱみゅぱみゅを遠目でウォッチ。

有名曲を惜しげもなく連発していてとにかく華やかで楽しい。

外国人オーディエンスも盛り上がってた。

 

AM0:00

だいぶ疲れてたけど、今日の最後のお目当てであるGINGER ROOTのためにきゃりー終了後のレッドマーキーを最前列付近まで前進。

 

2010年代にトロ・イ・モワを中心に盛り上がったチルウェイブを受け継ぎつつ、さらにヴェイパーウェイヴ要素を強めて、その結果、映像も含めて日本の80年代文化をどっぷり取り込んだ奇人GINGER ROOT。

 

架空の80年代日本でGINGER ROOTが「キミコ」っていうアイドルをプロデュースしてるっていう設定を作品にしたアルバム『nisemono』が話題になった。

 

 

この映像へのこだわりはライブでも発揮されていて、ライブの様子をカメラマンが撮影していて、その様子がステージ後方のスクリーンに昭和の生放送の質感で映し出されるっていう趣向。

しかも、例の女性マネージャーだとか、キミコ本人まで生でステージに登場したんだから大盛りあがり。

中森明菜「スローモーション」をカバーしたりもして。

憎たらしいほどによくわかってる。

 

でですね、そういう仕掛けだけじゃなく音も実にしっかりしており。

リズム隊の2人はタイトかつ適度にライブ感もあるいい演奏をしていたし、ライブアクトとしても良質でした。

それがもっともよく出ていたのが、先日亡くなった坂本龍一への追悼の意味が込められていたとおぼしき後半のYMOメドレー。「東風」や「Tighten Up」 を本家と同じ3人編成でやり切ると、自分も含めてみんな大歓声。

 

この時期のGINGER ROOTを見れてほんとによかった。

 

たぶんいろんな人が言及してるだろうけど、80年代の質感へのガチなこだわりっぷりがものすごく藤井隆と通じるものがあって。

両者をなんとか引き合わせたいよね。TBSラジオのアトロクあたりで実現しないかな。

 

というわけで、約15時間の苗場を満喫しまくりました。

来年もフジロックよろしくお願いします!

 



『離婚しようよ』からマジで民主主義を学んだ(あと元ネタをたくさん見つけた)

Netflixオリジナルドラマ『離婚しようよ』がおもしろくて一気見しました。

 

親の地盤を引き継いだものの不倫や失言でバッシングされまくったボンクラ国会議員の夫(松坂桃李)と、複雑な家庭で育ち朝ドラの主演で国民的女優になった妻(仲里依紗)が離婚しようとする全9話。

 

宮藤官九郎大石静の共同脚本ってことで、ラブストーリーでありながら軽やかに笑えつつ芯を食った社会派でもあるという、絶妙なバランスのドラマに仕上がっている。

 

あくまで、一組の夫婦の離婚がメインテーマではあるんだけど、ドラマに奥行きや盛り上がりをつけるための舞台装置としての選挙や世襲議員といった要素が思いのほか効果を発揮していて、個人的にはもっぱら政治ドラマとして楽しめました。

 

今どき自分の人生や結婚や出産や離婚を自分の意思だけでは決めさせてもらえない世襲議員という存在は、よく考えたら起伏の激しい恋愛ドラマにはぴったりだった。そこに目をつけた宮藤官九郎大石静はすごい。

 

元ネタは現実の政治状況

ドラマの舞台となっているのは、愛媛県

ロケ地は松山市今治市大三島)なんだけど、一応「愛媛5区」っていう、実際には存在しない選挙区の話ってことになっている。

(現実の衆院小選挙区は愛媛4区までしかなく、次の選挙からはさらに減って3区までになる)

 

ちなみに実際の松山市は愛媛1区で、前回の選挙で当選した塩崎彰久って人は自民党のバリバリの世襲議員

じゃあ松坂桃李演じる東海林大志の元ネタはこの人なのかってことなんだけど、おそらくそうではなく、このキャラクターには他に複数のモデルが存在する。

 

(気づいた限りのものを書き出してみたので、他にもあったらぜひ教えてください)

 

小泉進次郎(神奈川11区)

まずはわかりやすいところから。

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イケメン枠だけど発言に中身がない世襲議員という評判や、妻が芸能人ってところなど、東海林大志っていうキャラは基本的にこの人がベースになっていると思われる。

 

世間的に一流とされる大学ではない学歴かつアメリカ留学もしたっていうところも一緒。

 

安倍晋三(山口4区)

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大志の母親、峰子(竹下景子)は、東海林家という政治家一族の業の深さを象徴する存在。

 

このキャラクターは、どう考えても「ゴッドマザー」と呼ばれた安倍洋子を思い出さずにはいられない。

昭和の妖怪と呼ばれた総理大臣岸信介の娘として生まれ、外相などを歴任した安倍晋太郎と結婚し、安倍晋三の母となった人。

 

 

このインタビューによると、ドラマの中の峰子かそれ以上のレベルで選挙にコミットしていたみたいだし、どうやら晋三から「ママ」と呼ばれていたらしいこともわかる。

 

安倍晋三夫妻の私邸があった渋谷区富ヶ谷のマンションの、別のフロアに住んでいたという。

そこも含めて、強烈な母親に頭が上がらなかったらしいところがドラマと一緒。

 

麻生太郎(福岡8区)

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小泉や安倍の呑気なボンボン感と比べてちょっとエグみが強すぎるので、一見、東海林大志っぽくはない。

 

しかし、「踏襲」を「ふしゅう」、「未曾有」を「みぞうゆう」など、漢字の読み間違いがとにかく多かった総理大臣時代の麻生太郎

 

また「子どもを産まなかった方が問題なんだから「セクハラ罪という罪はない」などいった女性蔑視な失言も多く、東海林大志のボンクラな人間性のモデルになっているはず。

 

戦後の日本をつくった総理・吉田茂の孫という、かなり強めの世襲議員


平井卓也(香川1区)

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愛媛5区の名門である東海林家は地元メディアも牛耳っており、親族が伊予毎朝新聞のオーナーという設定。

これは同じ四国の香川1区と四国新聞の関係をどうしても想起させる。

 

香川県でトップのシェアを誇る四国新聞は、初代デジタル大臣を努めた自民党平井卓也の親族がオーナー。

 

新聞社のオーナー一族で世襲議員でもある平井卓也と、同じ選挙区で激しい一騎打ちを繰り広げたのが立憲民主党小川淳也

その小川淳也は庶民派アピールとして、「パーマ屋のせがれ」を自称する。

 

そう、山本耕史演じる想田豪が「パン屋のせがれ」って設定もこれが元ネタですね。

 

 

東海林大志というキャラクターは、おそらくこのあたりの自民党世襲議員たちの要素をミックスして、おもにダメな部分を誇張してつくられていると思います。

 

パチアート恭二にもモデルが存在する!

錦戸亮演じる、パチプロにして謎のオブジェを制作するアーティスト、加納恭二。

 

何にも執着せずふわふわしていた彼が、ドラマの終盤に化ける。

愛媛5区の選挙で味わった祝祭感やむき出しの人間ドラマに魅せられ、日本全国を駆け巡って選挙の取材をするライターになったのである。

 

国政選挙だけでなく、沖縄の地方選挙にまで出向いて取材しているシーンも出てくるんだけど、実は、そんなことをやっている人は実在する。

 

畠山理仁(みちよし)という人。

 

「選挙の現場に『ハズレ』なし。骨の髄まで楽しんでもらいたい」。フリーランスライターの畠山理仁(みちよし)さん(49)は、そう言い切る。国政選挙から全国の知事・市長選、米大統領選まで、寝食を忘れて追っかけを続けること25年。激戦を取材しつつ地元の名産を味わう「選挙漫遊」を通じ、「民主主義のお祭り」のパワフルな魅力を発信してきた。

フリーランスライター 畠山理仁さん選挙の追っかけ25年、そんなに面白いですか? | 深デジ | 神戸新聞NEXT

 

 

恭二がブログで書いてることは、畠山さんがいろんな場所で書いたり話したりしてることをベースにしているのは間違いないと思う。

 

『離婚しようよ』から民主主義を考える

『離婚しようよ』がしっかりしているのは、政治家とか選挙といった題材を、上っ面じゃなくきっちり消化しているところ。

 

全9話あるうちの前半あたりでは、なんとなくおもしろネタとして政治家を取り上げてるだけなのかなと、半信半疑で見ていたんだけど、選挙戦が大詰めになってきた6話あたりから雰囲気が変わってくる。

 

いや、相変わらず笑って泣ける離婚ストーリーではあるんだけど、それと同時に、民主主義とは?政治家の役割とは?みたいなところにも触れてくるっていう、すごい状態になります。

 

もっとも重要だと思ったのが、公開討論会のシーン。

公開討論会には、愛媛5区には東海林大志と想田豪だけでなく、「赤シャツ」という第3の候補者も登場する。

この赤シャツ、おそらく政党や団体の支援を受けていない、独立系候補。昔の言い方だといわゆる「泡沫候補」ってやつ。

 

クドカン脚本によくある、お前もいたのかよ!っていうオチの要員(荒川良々が演じてそうな)として機能しつつ、世の中に訴えたいことをちゃんと持ってる候補者であることもわかってくる。

 

前述の畠山氏の選挙取材は、赤シャツ的な独立系候補にも公平にちゃんと取材するっていうスタイルが特徴的。

なので、2022年の参議院選挙では、なんと東京選挙区に立候補した34人全員に取材してその主張を紹介していた。

 

独立系候補って、奇をてらった政見放送や選挙ポスターから、頭がおかしい人だとかただの目立ちたがりだとか思ってしまいがちなんだけど、こうやってみると、それぞれに切実なテーマを掲げていることがわかる。

 

赤シャツが主張していた松山空港の件も、実際の政治問題になっている。

 

 

とはいっても、どう考えても当選する可能性がないのに、300万円の供託金を払って選挙に出るなんて無駄だろうって思うよね。自分もかつてはそうだった。

 

たしかに赤シャツの主張に賛同して投票した有権者はごくわずかで、当選にはほど遠い。

しかし、たとえば99対1という結果になった場合、99の側が好き勝手していいわけではない。小さい声だからといって1を無視していいってことではない。

それだとマイノリティはいつまでたっても報われないことになってしまう。

 

民主主義は多数決だって解釈してる人は多いけど、本当はそんなに単純ではない。

99と1のどちらにとっても納得できる落としどころを見つけ出すのが政治家の仕事であり、それはとっても泥臭くて大変な仕事でしょう。

 

公開討論会で赤シャツの主張を東海林大志が引き取ったあのシーンに、民主主義のお手本を見た。

 

おまけ(さらに細かい話)

政党

東海林大志が所属する「自由平和党」はもちろん、日本の世襲議員のほとんどが所属している自由民主党がモデル。

 

一方、想田豪が幹事長をつとめる野党第一党「改革の会」は、日本維新の会と、かつての民主党がモデルになっていると思われる。

税金の無駄遣いをなくせという主張は、現在の維新の主張でもあるが、政権交代した頃の民主党の「事業仕分け」を思い起こさせるシーンもあった。

また、終盤に政権交代を成し遂げた改革の会が、野党時代に主張していた勢いが失われてすっかりおとなしくなるっていうのも、民主党政権っぽい。

 

橋下徹

論戦に圧倒的な自信を持っていて、ときには汚い手段もとるっていう想田豪のキャラは、おそらく橋下徹がモデルになってるんだろうけど、実は他のキャラクターにも橋下徹の有名エピソードが反映されている。

 

それは、弁護士のヘンリーが「出馬は200%ない」って答えたシーン。

2007年、当時テレビの人気者だった弁護士の橋下徹が、大阪府知事選挙に出るのかと聞かれ、「2万%ない」って明言したにもかかわらずシレッと立候補したんだよね。

現実の数字ほうがドラマより100倍デカかったっていう。

 

比例復活(ネタバレ)

『離婚しようよ』で一点だけ気になったのが、総選挙で想田豪に100票差で敗れた東海林大志が浪人になってしまう展開。

小選挙区で落選しても、比例復活できるはずでは?と思った。

 

衆議院選挙は小選挙区比例代表並立制

つまり、小選挙区比例区の両方に立候補することができ、小選挙区で敗れても小選挙区での惜敗率が高ければ比例で復活当選することができるのです。

 

100票差で負けたんだったら惜敗率は最高のはずで、まっさきに復活できるんじゃないか。

 

あの展開で浪人になるとしたら、東海林大志の名前が比例名簿に載っていないっていうパターンだけでしょ。でも自民、いや自由平和党の伝統からはそんなことありえないしなーと、そこだけかなりモヤモヤしました。

 

共産党のキャッチコピー

あと、日本共産党が最近のポスターで「自由と平和」を掲げている。

「自由平和党」っていう自民党をモデルにした政党の名前に、共産党のコピーをもってくるっていうひねり方、狙ってやってたとしたらクドカンすごい。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik22/2022-04-29/2022042901_02_0.jpg

 

選挙をさらにおもしろく味わう方法

『離婚しようよ』をきっかけに、選挙や政治がおもしろそうだと気づいた方には、このあたりもオススメです。

 

『セイジドウラク

「政治を道楽として楽しむ」ポッドキャスト番組。

TBSラジオ記者澤田大樹と選挙ライター宮原ジェフリーという濃すぎる政治オタクの2人が、選挙や政治にまつわるいろんな小ネタやそもそもの話を語る。

 

選挙カーの後ろを「本人」というタスキをかけて追いかけるスタイルは、名古屋市長の河村たかしが始めた、とか、公職選挙法上、告示前にやってはいけないこととやっていいこととか、そんな知識が詰まった番組なので、これを聴けば『離婚しようよ』のいろんなシーンがさらに味わい深くなるでしょう。

 

 

『なぜ君は総理大臣になれないのか』と『香川1区』

前述した、小川淳也平井卓也の香川1区における激しい選挙戦に密着したドキュメンタリー映画

小池百合子希望の党が日本中を大混乱に陥れたあの選挙戦が『なぜ君〜』で、その次の選挙が『香川1区』で扱われている。

 

田舎のお年寄りと話し込み、家族総出でエモい選挙戦を戦う立憲民主党の小川陣営と、企業や団体のパワーを背景に戦う自民党の平井陣営が対照的。

 


ヒルカラナンデス』

時事芸人のプチ鹿島とラッパーのダースレイダーの2人が、コロナ禍に始めたYouTube番組。

毎週金曜の正午から配信しており、先日ついに150回を迎えた。

 

石原伸晃下村博文菅義偉二階俊博平井卓也といった重鎮の政治家たちのふるまいに笑いをまぶした鋭いツッコミを入れるスタイルが評判となり、フジロックに出たりドキュメンタリー映画にもなった。

 

「民主主義」とか「代議士」といった言葉のそもそもの大原則に立ち返って語れる2人なので、おもしろおかしい語り口が上滑りすることなく刺さってくる。