森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

概念としてのクラブ/民藝J-POPとしての「糸」〜『オトネタ大賞・2022上半期』をふりかえって

先日、マキタスポーツさんのYoutubeチャンネルで配信された『オトネタ大賞・2022上半期』に出演しました。

 

『オトネタ大賞』は、元々はライブハウスでマキタさんがやっていたイベントだったんだけど、コロナ禍になってからは動画配信の企画に姿を変え、半年に1回のペース続いている。

 

出演は、芸人・俳優・ミュージシャン・小説家として活躍中のマキタスポーツさん、ラッパーのカンノアキオくん、そしてわたくしハシノの3人。

世代も出自もバラバラな3人だけど、音楽に対して批評的な目線で語るのが大好きっていう共通点があり、毎回それぞれが持ち寄った議題で盛り上がっています。

 

先日の『オトネタ大賞・2022上半期』はアーカイブが見られるので、よかったら洗い物や筋トレでもしながらご覧ください。

 

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今日は、この配信の中で取り上げられたテーマについて、個人的に感じたことなどをさらに掘り下げたり広げたりしてみようと思います。

 

平成J-POPの歌世界に存在した「概念としてのクラブ」

2022年上半期に話題になったアニメ『パリピ孔明』において、エンディングテーマ曲として使われていたのが、ミヒマルGT「気分上々↑↑」のカバー。

 

パリピ孔明』は、三国志の時代から現代に転生した諸葛孔明と、アーティストを目指してクラブで活動する英子によるサクセスストーリーなんだけど、90年前後から始まった日本のクラブクルチャーの2022年におけるパブリックイメージはこのあたりなのか、っていう観点でも興味深いものがありました。

 

オトネタ大賞の中でも話したんだけど、90年代〜00年代ぐらいまでのJ-POPには、クラブ由来の言葉が歌詞に散りばめられていたし、音楽性の面でもクラブから生まれた新しい音楽をお茶の間向けに仕立て直すことで発展した部分がかなりあった。

 

その手法でもっとも成功したのが小室哲哉であり、SPEEDやDA PUMPあたりの存在もそうで、クラブやDJやストリートなカルチャーという何となくのイメージを日本全国津々浦々に広めることに貢献した。

またキック・ザ・カン・クルーリップスライムといったメガヒットしたヒップホップ勢もそう。

 

その土台に、ゼロ年代以降に流行したEDMという音楽のスタイルと、「パリピ」という呼称が接続され、日本人のクラブのイメージが少し更新されつつ継承されていった。あと『フリースタイルダンジョン』によってMCバトルというものも一般的に存在を知られるようになった。

 

なんとなく共通認識があるけど、実際のクラブに行ったことはない。そんなマジョリティ層に向けてうまく作られたっていうのが『パリピ孔明』のヒットの背景だと思います。

 

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大カバー時代

長年音楽を聴いていると、時代によっていつの間にかなくなったもの、増えたもの、変わったものに敏感になる。

 

今回のオトネタ大賞でも中島みゆきの「糸」がやたらカバーされていると話題になりましたが、ここ10年ぐらいのJ-POP界の傾向として、とにかくカバーアルバムが多い。

世は大カバー時代に突入しているといっても過言ではないでしょう。

 

思い起こせば90年代までは、基本的にJ-POPの第一線の歌手はあまりカバーをやらなかった。

 

90年代っていうのは、アーティストが「個性を発揮」して、自分の「等身大の言葉」で、「リアルな」音楽を自作することこそが良しとされた時代だった。

作品の質が高いかどうかよりも、リアルかどうかに価値があった。

質が高すぎるからリアルに感じられない、みたいな、逆転した価値観すらあった。

 

浜崎あゆみは自分の言葉を歌っているから良いのだ、と言われていた時代なので、プロの作詞家は仕事が激減していたと思う。

そんな時代には、人の曲をカバーすることに意義を見出せなかったよね。

 

そんな90年代が終わり、いつの間にかそんな価値観がなくなっていくと、カバーアルバムが増え始める。

 

ただ、長いスパンで考えると、これは90年代という特殊な価値観の時代が終わって、元に戻ったとも言える。

 

70年代にもカバーアルバムって多いんですよ。

森山良子とか勝新太郎とか沢田研二とか美空ひばりとかフランク永井とか、挙げればキリがないぐらい、いろんな歌手がカバーアルバムを出しているし、デビューして間もない歌手のファーストアルバムは、シングルが2曲ぐらい入ってる以外はすべてカバー曲っていうのがごく当たり前だった。

 

「夢は夜ひらく」とか「ブルーライトヨコハマ」とか「サニー」とか「竹田の子守唄」とか「精霊流し」あたりの曲は、とにかく大量のカバーが存在する。

 

近年のカバーアルバムの流行は、その頃と同じ匂いがするんだよね。

 

昔マキタさんと、みんなオリジナリティを重視しすぎるよねっていう話で盛り上がったことがあって。

アーティストが自作自演に重きを置きすぎることに、お互いちょっと疑問を抱いていたんでしょうね。

 

そういうのが一段落ついて、みんな気兼ねなくカバーをやれるようになったんだろうか。

 

リスナーの側も、「リアルかどうか」がどうでもよくなってるんだろう。

元々そんなところにこだわる必要がなかったといえばそうだろうし。

 

「民藝J-POP」の心象風景

かつて当ブログでこんな記事を書いた。

 

guatarro.hatenablog.com

 

NHKのど自慢』で歌われる曲は、ヒットチャートや音楽批評筋のトレンドとはまったく関係なく、独自の世界になっているというところから、これらの曲を「民藝J-POP」と名付けたんです。

 

「民藝J-POP」というのは、聴き手にとって日々の生活の中で具体的に機能している音楽のこと。

NHKのど自慢』において、歌い終えたあと「なぜこの曲を?」と司会者に聞かれたときに、出場者はみんな、具体的な思い出だったり誰かへのメッセージだったりを語れる。

その曲がその人の生活の中で果たしている役割が明確だということ。

 

残念ながら書いた当時から今まで特に世の中的な話題になっていないんだけど、個人的にはこの概念をすごく重視していて、いろんな場所で語っていきたいと思っている。

 

音楽雑誌とか、音楽マニアのSNSとか、キリンジの「エイリアンズ」が2位になるランキングの文脈では絶対に出てこないんだけど、こういうものこそがいわゆるサイレントマジョリティなのではないでしょうか。

 

で、今回の「オトネタ大賞」で話題になった中島みゆきの「糸」は、2022年における民藝J-POPの頂点だと思っています。

配信の中でカンノくんが言っていたように、結婚式の定番ソングになっているというのは、まさに民藝の機能美だと思うし、あとコメントをいただいた中にあった、本家の「糸」を聴いたことがないという話も、もはや作者の手を離れて国民のものになったという証だと言える。

 

「糸」が強いのは、小さな子供からお年寄りまであらゆる世代を包括するし、TPOを選ばないところ。

思えば、昭和の歌謡曲や平成のJ-POPにおいて、みんなが知ってる曲って、基本的に恋愛モノだし、なんならちょっと公序良俗に反していたり際どい内容だったりするじゃないですか。

 

冷静に考えてみたら、国民的歌手の代表曲が「天城越え」だなんてヤバくないですか。

さそり座の女」だの「ホテル」だの「さざんかの宿」だの…。

ちびまる子ちゃん山本リンダを熱唱する姿を苦々しく見てるお母さんの気持ちがほんとによくわかる今日このごろ。

 

それに比べて、平成〜令和の民藝J-POPは実に健全。

 

さらに「糸」が絶妙なのは、「川の流れのように」や「あの鐘を鳴らすのはあなた」みたいな大仰なものではなくて、ごく普通の生活者の日常生活の中にフィットするサイズ感っていうところ。

 

円安や低成長がズルズル続いている時代だけど、みんな一緒にゆっくり貧しくなるんだったらこの体制は安泰だろうし、革命でも起きないうちは「糸」のカバーがリリースされ続けることでしょう。

 

配信の中でカンノくんが言っていたのはこれですね。

ハードロックバンドをやっているお父さんが娘の結婚式で歌った「糸」。

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ギターという楽器が特権性を失っていく過程から考える「ギターソロ論争」

ここしばらく、音楽好きの間でギターソロに関する議論が盛り上がっていた。

 

きっかけとなったのは、ニューヨーク・タイムズの記事において、「今年のグラミー賞ノミネート曲の中にギターソロを含んだものがなかった」と書かれていたこと。

 

 

このことが「衝撃の事実!」みたいな感じで日本のTwitterで紹介されて、一家言ある方々がいろんな意見を表明したりしたという流れ。

 

全体として、ギターソロはもう時代遅れだよね…っていう論調が目立ったんだけど、実はニューヨーク・タイムズの元の記事においては、最近の曲にギターソロがないっていう話はマクラみたいな部分であって、それでもギターソロの役割は終わったわけではない!っていうのが全体の趣旨。

 

記事のタイトルからして、「なぜ我々はギターソロをやめられないのか?」だしね。

 

では、本邦のギターソロ論争はなぜ誤読気味に盛り上がってしまったのか。

 

ギターソロ論争に必要な2つの観点

いわゆるギターソロを語るには2つの観点があるわけです。

 

ひとつは、ギターという楽器に関する議論。

もうひとつは、曲の長さとかイントロとか間奏に関する議論。

 

 

ニューヨーク・タイムズの元記事は、前者について語りたかったわけで、ジミ・ヘンドリックスとかヴァン・ヘイレンとかトム・モレロといった革命的ギタリストに言及しつつたっぷり語っていた。

で、たしかにロック黄金時代みたいな豪華なギターソロの時代は終わったかもしれないけど、ギターソロにしかできない役割ってあるよね!みたいな結論だった。

 

しかし、日本で盛り上がったのはおもに後者の話だったんだよね。

 

曲の間奏を埋めたりイントロを彩ったりするのは別にギターじゃなくてもいいので、ギターソロ論争イコール尺の話というわけではないはずなんだけど、「最近の曲はギターソロが少ない」っていう話が、「長い曲は聴かれなくなった」という話に直結してしまった。

 

サブスク時代になってイントロが長い曲は聴かれなくなったとか、そういう単純な話はいいので、ここではギターっていう楽器が持っていた特権性みたいなところから掘り下げてみたいと思います。

 

ギターの特権性

1960年代から2000年代までは、ヒットチャートにおいてロックおよびロックの意匠を取り入れたポップスがずっと中心的な位置にいた。

 

そんな時代の若者が音楽に興味を持つのは、だいたいエレキギターへの憧れが入り口で、みんな掃除の時間にホウキをギター代わりにかき鳴らしたりしていた。

 

バンドを組むことになった場合、ベースやドラムはじゃんけんで負けたやつが仕方なく担当するもので、軽音楽部のギター:ヴォーカル:ベース:ドラムの人数比は5:3:1:1だった。

 

ブルースが源流にあるロック音楽においては、最初からギターは特別な地位にあり、その地位をフル活用したヒーローがたくさんいて、ますます特権的な地位を保っていたっていう感じ。

 

大仰でテクニカルで派手なギターソロは、80年代までは花形だった。

「天国への階段」「ボヘミアン・ラプソディ」「ホテル・カリフォルニア」など、いわゆるロックの名曲と言われる曲には名ギターソロがつきものだった。

 

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ギターソロ専用コード進行

現在のJ-POPにおいては、ギターソロがあったとしてもバッキングはAメロのコード進行と同じってパターンが多い。

 

これはギターソロっていうか間奏であり、別にギターがソロを弾かなくてもよくて、鍵盤ソロでもいいし、ただのAメロのバッキングを8小節やるだけでも成立はする。

 

乱暴な言い方をすると、ここまでずっと歌が続いてきたので一休みしたいとか、曲の展開としてもちょっと飽きがくる頃合いなので何かしら目先を変えよう、っていうぐらいの役割でしかない。

 

 

これがかつてのギターソロ全盛期においては、入る場所は同じなんだけど、コード進行やリズムがですね、ギターソロ専用のものになってたりする。

 

曲の他の部分では使われてない、ギターソロ専用のコード進行で、ソロをより一層盛り上げようとするわけ。

 


 

 

これらの曲においては、歌メロと同等か、何ならそれ以上の地位がギターソロに与えられていた。

 

 

オルタナティブ革命

ところが、90年代に入るとニルヴァーナを中心としたオルタナティブ・ロックの時代になり、価値観が大きく転換した。

 

オルタナティブ」っていうのは、当時メインストリームだった商業的で派手で嘘くさいロック「じゃない方」っていう意味。

 

そう。新しい価値観では、ギターソロは予定調和的で不自然で陳腐でダサいものとされた。

 

このあたりの詳しい経緯は拙ブログのロングテール過去記事をご覧いただくとして、要するに様式美みたいなものが一気に葬られたのがこの時代だったということです。

ヘヴィ・メタルはなぜ滅んだか(メタルの墓) - 森の掟

 

 

現代も大きくみればオルタナティブ以降の価値観が続いていると考えると、実はギターソロは30年前に死刑宣告されていて、最近ついに獄中死したという見方もできる。

 

オルタナティブ価値観以降の最後のギターヒーロー、トム・モレロ(頭出し済み)

 

ただ、90年代のオルタナティブ・ロックやグランジは、それでも音楽的には70年代ロックの匂いを引きずっていたと思う。

思春期になって親を否定し始めたけど、幼少期は親のレコード棚にあるブラック・サバスAC/DCを聴いて育った世代なので。

 

今あらためて聴くと、70年代ハードロックと80年代ハードコアパンクの両方から同じぐらい影響を受けた音だというのがよくわかる。

 

しかし、さらに時代が下ってくると、いよいよその匂いも消えてくる。

 

ゼロ年代前半のポスト・パンクリバイバルやその後のニュー・レイヴの流れを経て、ロックバンドにおけるギターの立ち位置は明らかに変化していった。

 

一言でいうと、ポスト・パンクリバイバル以降、ギターはソロを弾いたり単音で「うたう」ものではなくなり、かき鳴らすものになった。

 

ゼロ年代以降の日本のギターヒーロー的な存在を思い浮かべれば、アベフトシミッシェル・ガン・エレファント)や田渕ひさ子ナンバーガール)や長岡亮介(ペトロールズ、東京事変)あたりはみんなギターソロを弾く人って感じではない。

 

現代のいわゆる邦ロックにおけるギターの役割は、カッティングやミニマルなフレーズでループ感やグルーヴを作り出すリズム楽器としての使われ方が中心になった。

 

歌メロと絡んで「うたう」楽器はむしろベースになってきてる印象。

 

ポスト・パンク経由のアフロビートでギターが完全にリズム楽器になっている例

 

ギター・マガジン

1980年に創刊した月刊『ギター・マガジン』といえば、かつてはフュージョンヘヴィメタルのギタリストの速弾きとかテクニカルな奏法を解説する特集とか、機材に関する話題が中心の雑誌だった。

 

2000年ぐらいまでのギタリストの興味関心はほぼそっち方面ばかりだったということでしょう。

 

ところが、数年前からそんな『ギター・マガジン』誌の編集方針が大きく変わった。

 

モータウンAOR、歌謡曲、ブラジル、J-POP、レゲエ、カントリー、シティ・ポップなどの特集を組むようになり、在庫切れになるほど話題になったのである。

長年ジミー・ペイジとか松本孝弘とかが表紙を飾っていた雑誌とは思えない変化。

 

これって、ギタリストを志す若者や今もギターを弾きたい大人にとって、興味をひく対象がもはやギターソロ的なものじゃなくなったことの証明だと思う。

 

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以上、ロックおよびロックの意匠を取り入れたポップスにおける、ギターという楽器の役割の変遷について見てきました。

 

まとめると、1991年のオルタナティブ革命でギターという楽器の特権性は失われ、2000年台のポスト・パンクリバイバル以降はリズム楽器としての性格を強めていった。その結果、ギタリストの興味関心もギターソロから離れていったということ。

 

ちょっと長くなったけど、現在のギターソロ論争であまり言及されていなかった部分について丁寧に触れてみました。

 

 

「関ジャム 完全燃SHOW 若手アーティストが選ぶ最強平成ソング BEST30」から漏れてしまった「平成み」をリアルタイム世代が分析する

2022年5月6日の『関ジャム 完全燃SHOW』ゴールデン2時間SPにおいて、「令和に活躍する若手アーティストが選ぶ最強平成ソング BEST30」が発表された。

 

TVerで5月13日まで視聴可能

 

番組では、アイナ・ジ・エンド(BiSH)、井上苑子、Aimer、Awesome City Club神はサイコロを振らない、syudou、ちゃんみな、Vaundy、ハラミちゃん、yama、緑黄色社会ら平均年齢25.8歳、いま大活躍中の若手人気アーティスト48名に一斉アンケートを実施。
平成の30年間にリリースされた膨大なJ-POP楽曲の中から“最強平成ソング”を選出してもらった。

 

という趣旨なので、リアルタイムに平成(特に初期)を過ごした世代の実感とはかなりかけ離れたベスト30が選出されており、お茶の間の大人たちに衝撃が走った。

 

その結果がこちら。

 

 

小渕官房長官が「平成」の額縁を掲げた瞬間から今まで、ずっとJ-POPを観察してきたリアルタイム世代としては、このランキングは非常に興味深い。

 

誰もが気になるあれこれが入っていない理由など、ここから読み取れることは多いので、今日はその話をします。

 

抜け落ちてしまった「平成み」

平均年齢25.8歳の選者にとって、平成は後半になってやっと物心がつくような感じ。

 

番組を見ていても、みんな主に下記の2つの理由で選曲していた。

1. 小学生のときに流行った曲

2. 後追いで知ったすごい曲

 

つまり、当時おもに大人が聴いていた曲は入りづらいだろう。

また後追いで知ったパターンだと、すでに神格化されたものが入りやすい。

 

そうなると、平成初期に時代の空気に寄り添っていた大人向けの曲はここには入りにくい。

たとえばR&Bやヒップホップ周辺なんかは、ベスト30には28位の平井堅のみ入っていて、それ以下に39位のMISIAと50位の久保田利伸がギリギリ残っている状態。

 

あれだけ力強くJ-POPの潮流を作り出したにもかかわらず、当時小学生だった世代には大人すぎて届いてなかったということでしょう。

 

 

 

しかしそれにしても、平成J-POPにはクラブカルチャーを薄めて大衆化した要素が濃厚に詰まっているのが大きな特徴のひとつだと認識していたので、平均年齢25.8歳の選者ということを考慮しても、ここまでR&B/ヒップホップが選ばれてないのは驚きだった。

 

選者の作っている音楽性の偏りは考慮したとしても、「今夜はブギー・バック」ぐらいは入っててもいいんじゃないかって思うよね。

 

 

R&B/ヒップホップをはじめ、レゲエ、テクノといったジャンルがクラブカルチャーから生まれてJ-POPに取り込まれたことは事実だし、それによって90年代以降のJ-POPがカラフルでグルーヴィーになったのは間違いない。

また、渋谷系がもっともそうだけど、それに限らず幅広い現場で、DJカルチャー発祥のサンプリングとか引用の手法が多用されたという効果もある。

 

↑クラブの雰囲気をいい意味でチャラく取り込んだJ-POPの最高峰、mihimaru GT「気分上々↑↑」

 

これらの要素はJ-POPにとってすごく重要だと思ってるんだけど、今回の30曲からは完全に抜け落ちている。

 

宇多田ヒカルもリアルタイム世代からしたらR&Bブームの中から出てきたひとりって捉えてるけど、後追い世代にはそう見えていないんだよな。

 

キリンジ史観

俗に「はっぴいえんど史観」とよばれるものがある。

日本のロックは1970年のはっぴいえんどから始まって、みんなそこから影響を受けたんだという歴史観のこと。

 

たしかに、はっぴいえんどは偉大な存在ではあるけど、リアルタイムではほとんど知られてなかったし、実は同時代に直接的な影響をうけた人たちはそんなに多くない。

 

むしろ、当時のロック好きはフラワー・トラベリン・バンドとかのハードロックを好んでいたし、キャロルやサディスティック・ミカ・バンドのほうがインパクトがあった。

 

しかし、後の世代が日本のロック名盤に「風街ろまん」を選ぶようになると、当時の空気感を知らないわれわれ世代は、あたかもはっぴいえんどがリアルタイムで影響を与えていたかのように思ってしまいがち。

 

 

今回の平成30曲でも、キリンジフジファブリック、たまが、当時を知る世代からするとすごく違和感のある高順位でランク入りしていた。

 

あたかも平成のJ-POPにキリンジが絶大な影響を与えたかのように見えてしまうけど、そんなことないもんね。

たしかに、キリンジは90年代に脈々とあったローファイ至上主義みたいな価値観に対するカウンターとして、ミュージシャンにとってはインパクトがあったことは事実。それでも平成のすべてを通じてのランキングで2位ってことはない。

 

70年代の若者のほとんどが「風をあつめて」なんて知らなかったのと同じ程度に、「エイリアンズ」は後の世代がどんどん神格化していってる印象がある。

 

なるほど、こうやって歴史観って作られていってしまうんだなと。

年寄りのつとめとして、そこらへんの空気感については発信していかないといけない気になってます。

 

意外と入らなかった大物

あとやはりみんな気になったのが、小室哲哉ビーイングがまったく入っていないってこと。

 

1993年〜1998年ぐらいまで、ビーイング系のアーティストたち(ZARD、T-BOLLAN、WANDS、B'z、TUBE)や、小室哲哉プロデュースのアーティストたち(TRF安室奈美恵華原朋美、globeなど)が、ずっとチャートの上位を占拠していたわけでしょ。

 

音楽に興味がない人にも、売れてる音楽を敵視してる人にも、当時の日本社会で生きていたほぼ全員に浸透していた小室哲哉ビーイング

 

それがまったく存在しなかったかのようなこのベスト30のラインナップ、さすがにどよめきを禁じえない。

 

あとバンド方面でいうと、GLAYラルクやXを含めたヴィジュアル系が全滅しているのと、ブランキー、ミッシェル、イエモンといったお茶の間にまで届いたバンドも見当たらない。

 

これも非常に興味深い現象だなと思っていて。

さっきの「はっぴいえんど史観」にも通じる話だけど、結局は「誰が音楽を語り継いでいくのか」ということでしょう。

 

70年代にキャロルやクリエイションを聴いていた当時のロック好きのマジョリティではなく、はっぴいえんどを聴いていたマイノリティだけど文化エリートっていう人たちばかりが、後にロック史を紡ぐ立場になった。

 

それと同じことで、HIDEに憧れてギターを買ったり、あゆに憧れてケータイ小説を書いたり、湘南乃風に憧れてレゲエに興味を持ったりした人たちは当時たくさんいたけど、今回の選者の中にはそういったタイプはいない。

今回の番組でいえば、キリンジの良さがちゃんとわかる文化エリート層だけが、次の時代に語り継ぐ資格を与えられたってことでしょう。

 

シティポップと呼ばれなかった音楽の吹き溜まり

ハードオフでジャンク品のレコードを掘っていると、アリス、さだまさし松山千春あたりのレコードが大量に出てくる。

 

需要と供給の関係で、2020年代にはほとんど誰にも必要とされなくなったレコードたちってことになるけど、彼らだって1970年代には絶大な人気を誇っていたわけでしょう。

にもかかわらず、誰にも語り継がれなかったために、残念ながら次の世代にとっては価値がないことになってしまった。

 

アリスやさだまさし松山千春は、70年代当時、荒井由実山下達郎大滝詠一あたりと一緒に「ニューミュージック」と呼ばれていた。

「ニューミュージック」っていうのは、伝統的な歌謡曲ではない新しい感性の若者の音楽みたいなニュアンスであり、90年代における「J-POP」のもつニュアンスとほとんど同じ。

 

そんな「ニューミュージック」のアーティストのうち、一部は現在「シティポップ」という名前で若い世代にも支持されている。

すなわち、ニューミュージックからシティポップという上澄みを取り除いた残りの部分がハードオフに吹き溜まっているわけです。

 

あれと同じことが、ついに平成J-POPにおいても発生したんだなと。

歴史が作られてしまう瞬間に立ち会ったんだなと。

 

非常に興味深く眺めていたんだけど、それと同時に、さびしい気持ちもやっぱりある。

 

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「大人」の対義語が「子供」じゃなくなったのはJ-POPのせいです

「自分は大人だと思う」

 

17〜19歳へのアンケートで「自分は大人だと思う」と答えた日本人は27%しかおらず、他国と比べて圧倒的に低い割合だったらしい。

 

「自分は大人」日本は約3割 6か国中最低 18歳前後への意識調査 | NHK | 18歳 成人年齢引き下げ

 

 

いろんなことを考えさせられるニュースだけど、じゃあ自分が18歳ぐらいのときに「自分は大人だと思う」と答えたか?っていうと、全然自信がない。

 

さすがに今は自分が大人だと思っているけど、そう思えるようになったのはたぶん35歳ぐらいの頃。20代なんてほんとフワフワしてたしな。

 

じゃあなんで自分が大人だと思えないのか。かつての自分は思えてなかったのか。

日本人特有の謙遜みたいなものは大いに影響しているとは思う。自分なんてまだまだ若造ッス!若輩者なんで!みたいな。

ただ、それを差し引いても低すぎるように感じるので、その原因を掘り下げてみたい。

 

「大人」の定義

このアンケートは日本以外にアメリカ・イギリス・中国・韓国・インドでも行われた。

それぞれの国で、「大人」はなんていう単語で表現されて、どういうニュアンスを含んでいるんだろうか。

それぞれの国では「大人」の対義語として、どんな言葉がイメージされるだろうか。

 

日本では「大人」という言葉にネガティブなイメージが多分に含まれている。

「大人」の対義語は「子供」とか「幼さ」ではなく、「純粋」「誠実」「不器用」「無垢」でしょう。

 

たとえば、アーティストやアイドルが言う「大人」って、お金や数字のことばかり考えている事務所やレーベルの人間のことであり、自分とファンの間に立ちはだかる障壁みたいな存在として語られる。

もちろん、アーティストやアイドルにとっては、スケジュールやお金の管理や事務処理など、マネジメント全般を任せている信頼できる人たちなんだろう。

しかし、活動をしていくなかで、スポンサーとか様々なしがらみのなかで、時にファンに対して時期が来るまで伏せたり、本当のことを明かせなかったりすることがある。そういうときに言われるのが、「大人の事情で」というやつ。

 

アーティストやアイドルは、純粋に創作やパフォーマンスのことだけに集中して、ファンとも誠実に向き合いたいと思っている。そうじゃない振る舞いは「大人」のせい。

 

あと、ドラマやアニメにおいて、「お前も大人になれよ」ってセリフが吐かれるシーンを見たこと、何度かあるでしょう。

こういうセリフはだいたい、間違ってることは間違ってるって言わないと気がすまない!っていう純粋な主人公に向かって言われるもんだけど、感情移入して見てる側は、「やっぱそうですよね、よし大人になろう!」ってならない。

青少年向けのストーリーものにおいて、清濁併せ呑んでる主人公って平成以降ちょっと見当たらないんじゃないか。

 

「大人」という言葉のこういう使われ方に触れてきた若者に前述のアンケートを実施したら、そりゃ「自分は大人だと思う」なんて答えないだろう。

 

J-POPが「大人」を殺した

日本語の「大人」の意味をこんなふうにしてしまったのは誰か。

 

以前こんな記事を書いたわたくしですが、今回もやはりJ-POPを主犯だと決めつけたい。

J-POPが「大人」を殺したと。

 

J-POPが新聞を殺した - 森の掟 | ニュートピ! - Twitterで話題のニュースをお届け!

 

かつて、日本の大衆的なポピュラー音楽は歌謡曲と呼ばれていた。

昭和の末期から平成の初めごろにかけて、J-POPと呼ばれる音楽がその地位を奪い、現在に至る。

その際、歌謡曲にあってJ-POPになかったもの、その差分がすっぽりと抜け落ちたんじゃなかろうか。

 

その差分こそが「大人」成分だと思う。

 

J-POPの世界にはかっこいい大人の居場所は基本的になく、大人というのは、わかってくれないものであり、なりたくないものであり、いつかなってしまうものであり、無様にもなってしまったものでしかない。

 

 

欅坂46サイレントマジョリティー」2016年

君は君らしく生きて行く自由があるんだ

大人たちに支配されるな

 

THE BLUE HEARTS「1985」1985年

僕達を縛り付けて一人ぼっちにさせようとした全ての大人に感謝します

 

平井大「WISH」2022年

群青の空、子供達の声

その向こうで言い合う大人達よどうして?

あの子達を見習えないの?

 

BAKU「ピーターパン」1994年

大人になんかはならないよ勝手気ままに生きるのさ

そんな僕を大人達はピーターパンとけなす

 

ハチ「リンネ」2010年

カラスは言う カラスは言う

「あの頃にはきっと戻れないぜ」

「君はもう大人になってしまった」

 

ヨルシカ「藍二乗」2019年

あの頃ずっと頭に描いた夢も大人になるほど時効になっていく

 

歌詞の中に「大人」が出てくる曲は探せばいくらでも見つかるけど、アーティストの芸風や年代やジャンルを問わず、ほとんどすべての曲でこんな感じの扱い。

 

つまり、J-POPにおける最大公約数な一般意志みたいなものがあって、その核になっている価値観が、「大人」とは対極にあるものってこと。

 

この30年間、J-POPが大人を拒絶し続けた結果として、日本語における「大人」にネガティブなニュアンスがこびりついてしまった。

 

アンチ大人戦略の合理性

2020年代のJ-POPに特徴的な音楽的特徴のひとつに、邦ロックからの影響が挙げられる。

BUMP OF CHICKEN以降の、疾走感と瑞々しさを備えたロックバンド編成のサウンド

バンド名義のアーティストでなくても、邦ロックな音は随所に見られる。

 

シティポップやK-POP的なサウンド2020年代のJ-POPに特徴的だけど、それらと比べて、邦ロック的なアプローチをとっている楽曲は、歌詞の面でもアンチ大人戦略をとりがちな傾向があるんじゃないか。ここは調べられてないので印象論ですが。

 

そういえば、全世界にみてヒットチャートにこんなにもバンドサウンドがたくさん入っているのは日本だけっていう話もあるので、前述のアンケートで「自分は大人だと思う」と答えた割合が日本だけ極端に少ないことと関係あったりして。

 

たしかに、大人になってしまった自分が二度と戻れないあの頃を振り返るみたいなモチーフなんかは、いい年した自分が聴いてもキュンとする。

 

日本人は昔から、桜が散るとか夏が終わるとかそういう儚いのが好きすぎるし、高校野球とか箱根駅伝みたいなアマチュアリズムも好きすぎる。

 

また、アーティストの自意識としても、同世代が就職活動して社会に順応していく中で自分はいつまでもバンドとかやったりして…みたいな20代を過ごした人が大半なので、そういう人種が紡ぐリアルな言葉はどうしてもそうなる。

 

いろんな意味でアンチ大人戦略は理にかなってるんだよな。

 

 

と、ここまで書いてきて衝撃のデータを発見。

 

 

 

2013年のデータなので、60〜74歳てことは1939〜1953年生まれ。つまり団塊の世代を含んでる。

60〜74歳なんて大人どころかもう老人でしょ、何考えてるんだって思ったけど、いや、自分が大人だと思ってなさそうな団塊、割といそうだな。

 

この世代って、大人たちのひんしゅくを買いながら、髪を伸ばしてジーパン履いてギターをかき鳴らしていたわけで。

 

J-POPのアンチ大人戦略のルーツも、岡林信康とか吉田拓郎あたりまで遡れるんだよな。

つまり50年以上の歴史があります。

 

これはもう日本の伝統文化。

 

 

美学校「歌謡曲〜J-POPの歴史から学ぶ音楽入門・実作編」2021年度をふりかえって

今年度、美学校で「歌謡曲〜J-POPの歴史から学ぶ音楽入門・実作編」という講座を担当しました。

 

そして、ありがたいことにこの講座を来年度もやらせていただくことになりましたので、受講を検討されている方の参考になればと思い、今年度の講義をふりかえってみようと思います。

 

年間の授業内容はこんな感じでした。

第1回

概論「リズム歌謡」を考える(1)/1945-1968

第2回

講評①

第3回

「リズム歌謡」を考える(2)/1945-1968

第4回

講評②

第5回

フォーク~ニューミュージック/1969-1976

第6回

講評③

第7回

バブル・YMO・産業ロック/1977-1989

第8回

講評④

第9回

「J-POP」を考える/1990~2000

第10回

講評⑤

第11回

ポスト「J-POP」を考える/2000~

第12回

講評⑥

 

進め方は

  1. 戦後から2020年代までを時代ごとに5つに分け、それぞれの時代の音楽の特徴をじっくり解説します。
  2. 講義の最後に、その時代ごとの音楽の特徴をふまえた課題をお出しします。
  3. 各自で課題にそった楽曲や歌詞、コンセプトなどを制作していただきます。
  4. 次回の講座でわれわれが具体的な講評やアドバイスをします。質疑応答もたっぷり。

これをひとつのサイクルとして、6回繰り返します。

 

ちなみに、教室に足を運んでの受講のほかに、ZOOMを通じてのリアルタイムオンライン受講や、後日動画のアーカイブをご覧いただくことも可能ですので、日曜の夜のスケジュールが合わせづらい方や、地方在住の方でも大歓迎です!

今年度の受講生にもオンライン参加オンリーの方がおられましたが、結局課題の提出率はその方がもっとも高かったので、離れていることはあまり不利にはなっておらず、参加意識次第かなと思いました!

 

講義の特徴

日本のポピュラー音楽を通史的に語るやり方はいろんな切り口があります。

 

われわれLL教室が意識したのは、時代ごとの音楽のスタイルや産業構造や世の中の空気と、アーティスト個人の人間性のかかわりを見ていくこと。

 

その際、「洋楽分の邦楽」という切り口を提唱した大滝詠一の分母分子論と、そこからインスパイアされて「規格分の人格」と捉えなおしたマキタスポーツの分母分子論を思考の枠組みとしてフル活用しました。

 

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▲実際の講義資料より。分母分子論の重要性について

 

どんな名曲であっても、天才が何もないところから生み出したわけではなく、必ず時代の影響を受けていると思っています。

 

時代の影響といっても、単に流行していたジャンルを取り入れたという部分にとどまりません。

 

録音機材、出身地、世の中の景気、政治、聴取環境、メディア、音楽以外の流行など、いろんな要素に影響をうけてポピュラー音楽は生まれます。

アーティスト本人はその各要素に自覚的だったり無意識だったりします。

 

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▲実際の講義資料より。音楽性そのものに影響を与えたテクノロジーの話

 

たとえば現在「シティポップ」と呼ばれている音楽について、当時はざっくりと「ニューミュージック」と呼ばれていたものの中から、一部が現在「シティポップ」と呼ばれるようになりましたが、その分かれ目はどこにあったか。

 

たとえば作詞家という商売が定期的に注目されたり廃れたりしてきたのはなぜか。

 

たとえばウォークマンやカラオケやサブスクはヒットする曲の傾向をどう変えたのか。

 

こういった各時代ごとのトピックについて掘り下げていきつつ、70年以上の時代全体を通して、ヒット曲の構造に共通するものを取り出していこうとしています。

 

課題は経験者向けと未経験者向けの2種類

今年度の受講者の方は、すでにしっかりした環境で楽曲制作の経験が豊富な方から、作詞作曲などまったくの初心者という方まで幅広かったため、課題については2つの軸を用意することを心がけていました。

 

■経験者向け課題

作詞作曲や編曲がすでにできる方であっても、手クセからの脱却は難しいです。

また、尺やコンセプトなどについて制約がある発注にこたえるという部分も、ある程度の経験や発想の転換が必要になります。

 

自由でクリエイティブな楽曲制作と、お金のためにやる楽曲制作というのは本当に対極にあるものなのか?という問いに、戦後の日本の音楽家たちの歩みを考えることで答えを見出してもらえればと思っています。

 

われわれLL教室には、自身のバンドでのリリースと、テレビ番組やCMのための楽曲制作の両方に経験豊富な森野さんがいます。

今年度も的確なアドバイスをしていました。

 

制約があってこそ生まれるクリエイティビティというものは確かにあって、それこそが日本のポピュラー音楽を発展させてきたと思います。講義ではそのあたりも詳しくお伝えしています。

 

■未経験者向け課題

作詞作曲どころか楽器の経験もほぼないという受講生もおられました。

それでも作詞作曲してみたいという熱意をお持ちだったので、なんとかしてこの1年弱でそこまでたどり着けるように伴走しました。

 

最初は、戦後たくさん存在した「カバーポップス」すなわち洋楽の日本語カバーに挑戦してもらいました。原曲があり、漣健児による日本語詞もある曲に、あらたな日本語の歌詞を書いてみるという取り組み。

次に、インストゥルメンタルの曲に歌詞とメロディをつけてみるという課題。

考え方のヒントをいくつかお出しし、また講義以外の時間にはDiscordというツールで質問にお答えしながら、最終的に作曲とよべるところまで到達しました。

 

音楽理論やコード進行の知識がなくても作曲はできるという体験をしてもらえました。

 

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▲実際の講義資料より。それぞれのスキルや志向に応じて複数の課題を出しています。

 

年間の講義を通して伝えたかったこと

すでに自身で楽曲制作をしている方には、制約がある状態でつくった楽曲に、それでも自分の作家性がにじんでしまうおもしろさを味わっていただきたいです。

 

オリジナリティというものに過度に囚われることなく、広い視野で俯瞰してもらって、今後の活動のヒントにしてもらえればと思っています。

たぶん自信がつくと思いますし、幅は間違いなく広がります。

 

作詞作曲が未経験な方には、極限までハードルを下げますので、理論なしに音楽を作ってみるという体験をしていただきます。

 

さらにもっと作ってみたいと思ってもらえたら、次のステップの示唆もしますし、少なくとも今後のリスナーとしての音楽体験は間違いなく豊かになるはずです。

 

子供の頃に食べていたごはんの味と、自分で料理をする経験をしたあとで食べるごはんの味は、決定的に違っていると思います。

 

また、リスナーというよりも一歩踏み込んで音楽批評やライティングに関心がある方にも、われわれが提示する切り口を踏み台にしてもらって、自分なりの語りを見つけるヒントを大量にお出しできると思っています。

 

われわれLL教室には、ノベルティソングという概念やジャニーズ関連の著作がある矢野利裕くんがいます。特にその分野については強みがあります。

 

 

むしろ、講義の時間やわれわれ3人の専門性の制約から、軽く触れるだけにとどまらざるを得ないトピックはたくさん出てきますし、われわれも一緒に勉強したいと思っていますので、講義の後にDiscordで議論を深めるようなことができたらと思います。

 

 

皆様の受講を心よりお待ちしています!

講義の概要やFAQはこちらからどうぞ。フォームでの質問も可能です。

 

われわれのインタビューもご参照ください。

 

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『ゴーストバスターズ アフターライフ』映画評と2015年リブート版の供養(ネタバレあり)

30年ぶりの続編

ゴーストバスターズ アフターライフ』が公開された。

 

1984年に公開され世界的な大ヒットとなった『ゴーストバスターズ』、そして5年後の続編『ゴーストバスターズ2』は、いまだに多くのファンをもつ作品。

かくいう自分もその一人で、80年代に何度かテレビで第一作目が放映されて気に入り、2はリアルタイムで観た。ファミコンでゲーム化されたやつもやった。

 

 

 

今回の『アフターライフ』は2から30年ぶりの正統な続編ということですが、実はその間にリブート版が存在してる。

 

ただリブート版は初期2作とは異なる世界線の話として作られているので、話は繋がらない。今回『アフターライフ』を観るにあたっての予習からは外してOK。

(ただしリブート版は駄作でも蛇足でもないですしその理由はこの後くわしく説明してます)

 

「ニューヨーク性」がたまらない初期2作

初期2作の舞台は80年代のニューヨーク。

 

主人公は、怪しげな超自然現象を研究してるせいで大学を追い出されてゴーストバスターズ業を起業することになった科学者3人と中途採用の1人。

オンリーワンな技術で街のゴースト退治を進めていくうちに、世界を破滅に導かんとする巨大な超自然的存在に立ち向かうことになり‥というお話。

 

ところが、実家を担保に借金して起業し周囲の理解もなく追い詰められ、終盤にはニューヨーク全体どころか世界の存亡が自分たちにかかっているというのに、軽口をたたきあったりしていていまいち深刻さがない。

 

有名なマシュマロマンも、世界を破滅に導くモノの姿を自分で選べと言われて、みんなできるだけ何も考えないようにしてたのに、つい思わず頭の中に思い浮かんでしまったのがあの姿だった、という経緯だったり。

 

 

終始そんな感じの軽薄でとぼけたノリのまま飄々と世界を救ってしまうゴーストバスターズに、幼少期の自分はすっかり憧れてしまったのだった。

 

それは、こんな大人たちがいるニューヨークっていう大都会に対する憧れでもあった。

 

実際、第一作の最後のセリフは、ウィンストンが叫ぶ「I love this town!」だった。

(吹き替えだと「この街だいすきだ」、字幕だと「ニューヨーク万歳」)

 

活気にあふれていて、自由な大人たちが人生を謳歌してる、そんなニューヨーク。

一方で、世界中から集ったものすごい数の人間が生き馬の目を抜くバトルを繰り広げ、怨念が地層みたいに200年ぶん積み重なった魔都としての顔もある。

 

1989年の続編では、そんな都市生活者たちの生む膨大な負のパワーが、禍々しい古代の悪者が蘇るエネルギーになったりもする。

 

つまり、『ゴーストバスターズ』っていうのは、ニューヨークならではのお話。

 

リブート版は時代より5年早かった

2015年のリブート版は、大学を追い出されて起業すること、4人目のメンバーは黒人で中途採用などの骨格部分は共通しつつ、主人公を女性科学者にするという大胆かつ現代的な意欲作だった。

また、主演に当時のアメリカを代表するコメディアンを起用しているという点もオリジナル版と共通している。

 

ただ、このリブート版は、アメリカを中心に往年のファンに激しくバッシングをくらってしまった。

 

主要キャスト全員女性の新『ゴーストバスターズ』に非難、ハリウッド性差別問題 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

 

「俺たちのゴーストバスターズフェミニズムの道具にするなんて許せん!」みたいな感情をそのまま吐き出すのは、2015年の当時も今もお行儀よくないけれど、そんな感情を裏に隠して「女だからっていうわけじゃないけど、単純にスベってるから嫌い」という、反論しづらいかたちで叩くことは可能だった。

 

世間の大多数にとってジェンダー意識が変わってきて、そういう時代だよねって普通に言えるようになってきたのはここ最近なので、今なら理不尽なバッシングはここまでいかなかったかもなと思う。

このリブート版は5年早かった。

 

個人的にはこのリブート版、ギャグも冴えてると思うし、キャラクターも魅力的だと思う。俺たちのゴーストバスターズが台無し!みたいな気持ちは全然わかなかった。

 

むしろ、人種も文化も多様な大都会で、みんなひとりの大人として自由に生きてるっていう、初期2作のキモであるニューヨーク性はしっかりと継承されているので、かなり好印象。

 

 

なので、今回『アフターライフ』が公開されると知ったとき、リブート版の続編がなくなったということでちょっと残念ではあった。

 

(『アフターライフ』のパンフレットを読むと、監督が今回の作品を撮るにあたってリブート版はとても重要だったとリスペクトの言葉を述べていて、ちょっと報われた気持ちにはなった)

 

 

過去作と対照的な『アフターライフ』

『アフターライフ』の予告編はかなり前から映画館で流れていたんだけど、そこに映っていたのは、アメリカの田舎と少年少女。

 

つまり、大都会ニューヨークで大人たちが活躍する、あのゴーストバスターズとはかなりかけ離れているわけで、正直自分もかなり不安な気持ちのまま映画館へ足を運んだ。

 

 

今回の主人公は12歳の少女、その兄とシングルマザーの母。

この母っていうのが、ゴーストバスターズのメンバーの一人だったイゴンの娘。

家賃を払えず追い出され、イゴンが晩年過ごしたオクラホマ州サマーヴィルの家に引っ越すところからストーリーが展開していく。

 

初期2作やリブート版の舞台であるニューヨークでは、基本的に誰がどんなことをしていようとも、干渉されない。登場人物はみんな独立した個人であり、タテの関係もない。

 

それと比べると、イゴンの娘たち家族が引っ越したオクラホマ州サマーヴィルは、みんな地に足をつけて家族と暮らしてるし、一方で隣人への陰口はすごい。

あらゆる面で初期2作&リブート版とは対照的な世界。

 

(ここからネタバレ)

過去作と対照的だった『アフターライフ』。

それでも、しみじみいい映画だった。

 

往年のファンとしては、あの車両(ECTO-1)がサイレンを鳴らして走ってるだけでアガるし、やっぱり最終的にオリジナルメンバーが揃ったところからは涙腺がもうダメでした。

 

ゴーザに「お前は神か?」と聞かれてどう答えるか、っていうのは30年越しの伏線回収ギャグになってるし、いちいち気が利いてた。

 

『アフターライフ』の主人公フィービーの祖父イゴンは、ゴーストバスターズの中では、まじめすぎるがゆえに変人というキャラだった。

その性質が隔世遺伝した主人公フィービーは、自分らしくあると世間になじめない。

フィービーの母は、イゴンが変人をこじらせて自分を捨てたと思い込んでいるので、娘が同じようになってしまうことを心配している。

最後に父の真の狙いや自分への思いがわかって、娘への気持ちが変わるという、母の側のドラマもしっかり描かれている。

 

そう、『アフターライフ』は、初期2作をリアルタイムで観ていた40代後半の親が、小中学生の子供と一緒に映画館に行くように作られてる。

我が家も完全にそうでした。

 

マーケティング的にも、ドラマの構造的にも、ゴーストバスターズは過去作のように独身貴族じゃなく親子である必要があった。

ちっちゃいマシュマロマンにケタケタ笑う小学生と、淡い恋愛にドキドキする中学生と、秘められた父の思いに涙する親とが、幅広く満足する映画になっている。

 

で、最後にオリジナルメンバーがエクト1を引き取って戻っていくのは、ニューヨーク!

ここで涙腺にダメ押し喰らった。

 

エンドロール後の落とし前

『アフターライフ』は、エンドロールの途中と最後に重要なシーンが2つあるので、最後まで席を立たないほうがよいです。

 

ひとつめ、初期2作のヒロインであるディナ(シガニー・ウィーバー)がピーターを相手にカードの透視テストをやるシーン。第1作でピーターはこのテストを悪用して女子学生を口説こうとするんだけど、あれは2022年の観客の価値観からするとやっぱりお行儀が悪く感じる。

それを30年越しに反省させることで、初期2作をすっきりした気分で見返せるように調整をかけたんだろう。リブート版をバッシングしてた男たちに向けてるって面もある。

 

もうひとつが、オリジナルメンバー唯一の黒人であるウィンストンが、ゴーストバスターズを辞めてから不動産業界でのし上がったことを述懐するシーン。

オリジナルメンバーの他の3人が白人で科学者なのに対して、ウィンストンは中途採用で「ちゃんと給料もらえるなら何でも信じるよ」みたいなことを言う低学歴キャラだったわけで、はっきりと差別的とまでは言えないまでも、やはり黒人へのステレオタイプを助長する存在だったことは否めない。

そんなウィンストンをビジネスの世界の成功者として描き、ゴーストバスターズでの経験があったからこそ現在の自分があると語らせることで、後づけだけどこっちも調整をかけてきたなと思った。

 

つまり『ゴーストバスターズ アフターライフ』は、往年のファン、青少年の新規顧客、そして現代の価値観という各方面に配慮が行き届きつつ、映画そのものとしてしっかり没頭して楽しめる、見事な出来でございました。

 

 

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バンドはけん玉だ

バンド音楽が厳しい

2010年代ぐらいから、世界的にロックバンドが売れなくなってきている。

2017年には、アメリカで最も売れたジャンルの座がロックからヒップホップ/R&Bに移ったというし、アメリカ最大規模のフェスであるコーチェラのヘッドライナーにロックバンドが選ばれることもなくなった。

90年代や00年代は若くてイキのいいバンドが次々に登場し、ロック界全体のモードが更新されていっていたけど、日本にいて検知できる規模では、もう長いことそういったことは起こっていない。

そこにきてこのコロナ禍でライブという場も奪われてしまい、けっこう厳しい状況になってきていると思う。

 

長いことバンドをやっていた人間として、またバンドの音楽を愛好する人間として、この状況は寂しい限りなんだけど、これってもう止められない傾向なんだろうか。

 

そのヒントを紅白歌合戦で見つけたので、今日はそのことについて書きます。

 

コロナ禍の紅白歌合戦

おととし2020年の紅白歌合戦は、出演者にコロナ感染者が出たりする大変な状況での開催となったため、NHKホールが無観客になったり、会場を3つに分けたりと、様々な対策を余儀なくされた。

その一環として、事前に収録した映像を流すというかたちでの出演になった歌手もいた。

 

紅白、5シーンが収録 Mr.Childrenや星野源:朝日新聞デジタル

 

その結果、この年の紅白歌合戦はかなり物足りない感じになってしまったと思う。

仕方がなかったこととはいえ、ライブじゃない部分があったことや、複数会場の切り替えによるつぎはぎ感によるものが大きいだろう。

 

NHKホールというひとつのハコにたくさんの演者と観客を詰め込んで、秒単位の仕切りで無秩序に詰め込んだ演出を繰り出すことで発生する、頭がクラクラするような独特のグルーヴ。それこそが紅白歌合戦だったんだなと再認識する機会になった。

 

 

翌2021年も引き続きコロナ禍での開催になったけど、感染状況がマシになっていたことに加え、2020年の反省に基づいた改善があったように思う。

特に、このご時世だし事前収録や遠隔地からの中継も仕方ないか…という共通認識を逆手に取った藤井風のサプライズ演出が象徴的だった。

 

また、紅白歌合戦のキモである混沌とライブ感を兼ね備えて、ある意味もっとも紅白っぽかったのが、三山ひろしのけん玉でしょう。

 

 

なぜ、「右を立てれば/左がへこむ/とかくこの世は/生きにくい」などという内容の歌のバックで、126人が次々にけん玉に挑戦するのか。

 

まじめに考えるだけ損だとは思うけど、ひとつ確実なのは、三山ひろしが紅白でけん玉ギネスに挑戦するのは5回目という事実。つまり人気があるコンテンツだということ。

 

紅白歌合戦でのけん玉の意義

では、紅白における事前収録の映像はなぜ物足りないと感じたのか。

 

たとえば、けん玉のギネス記録に挑戦という素材を事前に収録していたらどうだったか。

記録達成してすごいねということは同じはずなのに、ワクワク感は圧倒的に減るだろう。

それは、あらかじめ確定していた事実の再確認にしかならないから。

 

ギネス記録を更新したその瞬間に、テレビ越しとはいえ立ち会えるのと、数日前に記録達成していたという記録映像を見せられるのでは、体験としてまるで違う。

 

これって、口パクだったりオケを流すパフォーマンスに感じる物足りなさも、同じ仕組みだと思う。

 

けん玉を失敗するかもしれないというライブならではの緊張感は、音程を外すかもしれないという緊張感と同じ。

演奏についてもそうで、紅白に出るレベルのミュージシャンは今さらミスったりすることはないけど、それでも可能性としてドラムスティックが手からすっぽ抜けることや、ギターの弦が切れることはあり得るので、そのことが孕む緊張感ってやっぱりある。

 

もちろん、そういうマイナス面の緊張感だけでなく、生歌や生演奏が生む効果こそが音楽の醍醐味であることは言うまでもない。

紅白歌合戦は音楽番組なんだから、生のけん玉ではなく生の音楽のほうがより番組の趣旨にあってるわけで。

 

80年代までの音楽番組は生演奏が当たり前で、たとえば「夜のヒットスタジオ」におけるダン池田とニューブリードのBPM速めのノリノリの演奏は、レコードで聴けるバージョン以上の魅力を放っていた。

 

www.youtube.com

 

ライブの境目について考える

収録済みの映像を流すという場合、その先の未来が変わる分岐って、スタッフが映像を流すボタンを押すかどうかのタイミングにしかない。

 

一方、生演奏の場合、ひとつひとつの音を奏でるタイミングごとに、音を外す/強く弾く/弱く弾く/伸ばす/切る、みたいな分岐があって、それがミュージシャンの人数×音の数だけ存在する。そんな気が遠くなるほどの可能性があるなかで、現に奏でられた音というひとつのものに決まっていく。

当たり前すぎていちいち意識していないことだけど、だからライブってすごいと思う。

 

そう考えると、生歌や生演奏じゃなくても、口パクでのダンスパフォーマンスだって、立派にライブ感はある。

 

音楽以外でも、映画と舞台の違いはここにあるだろう。

生身の俳優が目の前で演じるという一回性は、映画では味わえないわけで。

 

映画は何回見ても同じだけど、舞台はアドリブがあったり上演を重ねるごとに仕上がっていったりする。

堂本光一の舞台『SHOCK』は上演回数1,500回を超えたらしいですが、100回目と1,500回目はやっぱり違う仕上がりになっているんだろう。

 

 
 
 
 
 
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ちなみに、ライブ感っていうのは演者の側だけでなく観客の側にもあって。

 

無観客でのライブ配信はやっぱりやりづらいっていうし、寄席に出てる芸人は客の雰囲気を見てネタを変えるっていうし。

 

ついさっき映画には一回性がないって書いたけど、観客参加型の上映だとむちゃくちゃライブ感って出る。

 

 

今はなき吉祥寺バウスシアターでのケミカル・ブラザーズの映画の爆音上映は、映画館がクラブになったような感じで最高だった。

 

 

「この世の中でもっともコスパの悪いエンタメ」

近年のJ-POPの世界においても、ロックバンドの占める位置は90年代と比べてかなり狭くなっている。

 

BUMP OF CHICKENの影響下にあるような、疾走感と青臭さたっぷりのロックサウンドは、アニソンを中心にすっかり定着した感はあるけど、それにしたってアーティストの名義はバンドじゃなくソロだったりするし)

 

バンドって、いざ演奏を見せるとなると、メンバーや機材やスタッフなど、とにかくお膳立てに手間暇がかかる。

そのことを、氣志團綾小路翔は「バンドはこの世の中でもっともコスパの悪いエンタメ」だと表現していた。

X年後の関係者たち あのムーブメントの舞台裏 バンドブーム編 | TBS FREE

 

バンドのそういう性質って、前述したような、不確定要素のかたまりであることと表裏一体。

 

ダン池田とニューブリードの大所帯のフルメンバーに毎回ギャラを支払っていた『夜のヒットスタジオ』と、CDと同じ音源をポン出しするだけでよかった『HEY!HEY!HEY!』ではどちらが低コストか、考えるまでもないだろう。

 

しかし、だからこそ、バンドというもののありがたみをちゃんと受け止めたい。

 

コロナが明けたら、再びフェスやライブハウスが活性化するだろう。

そのタイミングで、人と人が楽器を持ち寄って音を奏でることの豊かさや面白さを再発見する2022年になるんじゃないか。

演る側にとっても、聴く側にとっても。

 

そしてバンド音楽がもう一度世界中で流行ったらいいなと思います。