森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

ハードオフでウサギ狩り、または退屈しのぎに親になること〜『暇と退屈の倫理学』より

サラリーマンの降って湧いた暇と退屈

サラリーマンをやっていると、道路にぽっかり空いた穴のようなイレギュラーな平日休みがたまに訪れる。

有給消化とか休日出勤の振替休日のような名目で。

 

つい先日、久々にそういう日が訪れたんだが、さてどのように過ごそうかと悩んでしまった。

 

自分はどちらかというと一人で過ごすのは得意なタイプだし、「趣味がないのが悩みです」みたいな人のことがまったく理解できないぐらいにはいろんなことに興味がある。

それでも、コロナ禍に降って湧いた半日はなかなか中途半端で扱いに困った。

 

具体的な計画がまとまらないまま当日を迎え、とりあえず街に出て本屋が開く時間までコーヒー飲んで潰した。

せっかくだしこの休みはじっくり本でも読むかという考えである。

 

午前10時の時点ですでに時間を持て余しはじめていることに気づきながら入った本屋で、なんとなく目に止まった1冊の本に釘付けになった。

 

『暇と退屈の倫理学 増補新版』

 

こちら、2011年に出た本の増補版として2015年にリリースされているわけで、特に新刊というわけでもタイムリーなわけでもないはずなんだけど、なんでだか平積みされていて、たまたま引き寄せられるようにその棚の前を通りがかった自分の目に止まり、そうすることが決まっていたみたいな勢いでレジに持っていった。

 

この本には、今の自分が抱えていることを考えるヒントがあるかもしれないと思った。

 

暇と退屈の問題意識

休みの日に何もしないでいることに対して、ものすごく罪の意識のようなものを感じてしまう。

 

昼過ぎまで寝てそのままダラダラして気づいたら夜になっていて…という日をたくさん過ごしてきてしまった20代の自分。

そんな1日の終わりには、同年代や年下の、才能もあって日々の努力も惜しまず若くして世に出たような人たちと自分を比べて、激しく落ち込んだものだった。

 

それから長い年月がたって、人の親になったり会社で責任あるポジションになったりした今になっても、「何もしない日」に対する恐怖心のようなものが心の中にずっとある。

 

家族でどこかに出かけるのは、罪の意識なし。

ひとりで映画館に行くのは、罪の意識なし。

だけど子供が近所の公園で遊んでいるのを見守っているだけの1日は、ちょっと心がざわざわする。

たしかに子供にとっては、あたらしい友達との出会いや遊びに夢中になれる時間は、別に車で遠出した大自然の中じゃなくても、近所の公園でも体験できるもの。

だけど、親である自分にとっては、近所の公園での時間は「何もしない日」にちょっと近い感じがするからざわざわしてしまう。

 

そんなタチの自分にとって、降って湧いた半日の過ごし方は難しい。

「何もしない日」にならないようにするにはどうすればいいか。

 

結局この日は、この本を読みながら電車で遠出して湘南に行くことにした。

これにより、①読書するまとまった時間(電車の中だとはかどるから) ②普段なかなか行けない地域の酸辣湯麺トロール ③普段なかなか行けない地域でスマホ位置ゲーのチェックイン ④普段なかなか行けない地域のハードオフでレコード探し ⑤弊社のプロダクトが展開されてるので現地で体験 という5つの目的を今日という日に持たせることができることになった。

 

ここまで揃うと「何もしない日」ではまったくない感じになって、まことに心が落ち着いたのだった。

 

ハードオフでウサギ狩り

『暇と退屈の倫理学』は案の定めちゃめちゃ刺激的な本だった。

小田急片瀬江ノ島駅に着くまでの車中で読みふけった。

 

これからハードオフのジャンク品コーナーに行こうとする自分に特に刺さったのが、17世紀のフランスの思想家パスカルによるたとえ話。

 

これからウサギ狩りに行こうとする人に、「ウサギ狩りに行くのかい?それなら、これやるよ」と言ってウサギを与えるとどうなるか。

喜んでくれるわけはなく、嫌がらせにしかならないだろう。

 

なぜなら、ウサギ狩りに行く人は別にウサギがほしいわけではなく、退屈から逃れて気晴らしをしたいからわざわざ遠出してウサギ狩りをするのである。

一日中野山を駆け回ってもウサギは一匹も見つからないことだってあるし、それがわかっていても人はウサギ狩りに出かける。

 

ハードオフのジャンク品コーナーにあるレコードも、基本的にウサギ狩りと同じ。

大量のクズみたいなレコードの山をかきわけて、少しでもアンテナに引っかかるものを見つける。客観的に見ると気が遠くなるような行為である。

 

さだまさし、アリス、クラシック、民謡、因幡晃、童謡、ムード音楽、松山千春、、、のループが30周ぐらいするはざまに、多少珍しいコミックソングとかちょっとグルーヴを感じる演歌とかが掘り出せる程度。

 

はっきり言って時間の無駄。

目当てのレコードがあるなら、さっさとディスクユニオンヤフオクで探すべきで、多少マシかなと思えるレコードのために数時間を費やすなんて正気じゃない。

 

だけど、自分の基準ではこれは「何もしない日」にはカウントされない。

 

子供と公園にいるほうが100倍まともだって思われるのは百も承知だけど、誰にも迷惑をかけずに心の安定を保ったんだからいいじゃないですか。

 

人間が退屈する理由

『暇と退屈の倫理学』によると、古今東西さまざまな哲学者が「退屈」について考え続けてきたのだそう。

 

その中でも注目すべきはハイデッガーという20世紀を代表するドイツの哲学者の退屈論なんだって。

著者はハイデッガーの退屈論を参照しつつ、批判的なアプローチで独自の退屈論を展開していくんだけど、大まかに言うと、人間は何もすることがない状態に耐えられないほどの苦痛を感じるようにできている。

その耐え難い苦痛を避けるためなら、多少の苦痛は喜んで受け入れる。

 

家でじっとしていることができないがために、わざわざ出かけて疲れるようなことをする。

江戸時代の漁師が、短い期間だけ漁に出て大儲けしたものの、漁に出ていない暇な時間を持て余して博打に手を出し、地元のヤクザに身ぐるみ剥がされるみたいなエピソードを思い出した。

 

その反面、人間というのは新しい刺激ばかりだと疲れてしまうので、「慣れ」という機能を活用して省エネ化する仕組みももっている。

たとえば引っ越したばかりの頃は近所を歩くだけで大冒険だったけど、しばらくすると完全に身体が道を覚えてしまい、脳をまったく使わずに駅までオートモードで着くことができるようになる。

 

この「慣れ」は脳の消費カロリーを抑える重要な機能なんだけど、「退屈」とほとんど背中合わせ。

バイト初日はものすごく疲れると同時に充実感がすごいけど、3ヶ月もすると慣れて疲れなくなるのと同時にめちゃくちゃ退屈で死にそうになる。

 

退屈しのぎに親になる

30代も中盤にさしかかったある日のこと、突然、自分の人生そのものに対して退屈を感じてしまったことがあった。

 

前述のハイデッガーによると、これは「退屈の第二形式」とかいうやつで、パーティーに招かれて楽しい時間を過ごしている最中にふと感じるタイプの退屈らしい。

 

その頃の自分は、貧乏ではなくなっていたし視野も広がってきたし交友関係もいろいろあったしで、毎日おもしろおかしく過ごしていた。

平日はホワイトな会社でやりがいのある仕事を任されていて、休日はフェスに行ったりクラブに行ったり海外にもよく行ったりで、全面的に充実していたと言える時期だった。

 

それなのに、いや、『暇と退屈の倫理学』によると、それだからこそ、かもしれないが、漠然とした退屈がある日おそってきた。

 

今の自分が『こち亀』みたいな一話完結で成長せずに永遠に続く楽しい世界で生きているんだっていう感覚をおぼえ、そこから抜け出して『ワンピース』みたいな一本のストーリーの中に身を置きたいと思うようになったのである。

 

その転換を果たすために、結婚して子供をつくったみたいなところは正直ある。

 

言ってみれば、退屈しのぎの気晴らしのために親になった。

 

 

親になってみると、「子供を飢えさせずに育成する」っていうゲームにきっちり動物的にとらわれることになり、あの退屈はきれいさっぱり消え失せたので、大成功。

 

今の世の中、宗教とか世間とか非効率な仕組みから開放されてみんな自由になった反面、自由だからこそ感じてしまう退屈に対して、開放してくれる何かは誰も与えてくれないので自分で見つけるしかなく、結構しんどくなっている時代だと思う。

 

そんな時代におすすめしたいのが、親になること。

やらない/やれない理由はいくらでもリストアップできる中で、自分の退屈しのぎのためにあえてやってみると、こんなにシンプルに生きやすくなるもんかと感動すると思います。まじで。

 

でまあ自分の退屈しのぎ目的とはいえ、せっかく親になったんだからみんな普通に子供は育てられると思う。

犬猫でさえ飼ったらちゃんと責任感が勝手に芽生えて育てられるようになるんだから、人間なんてかんたん。

 

初物で長生き

ずっと緊張してるとしんどいから、慣れの機能を使って省エネしたがる人間。

これってダイエットの話と似てる。

 

大昔、餓死の危機がすぐそこにあった時代、食べて太ることは長生きするために必要なことだった。脂肪を蓄える機能にはニーズがあった。

しかし、餓死の心配がほぼなくなった現代、人はほっとくと太りすぎてしまうので、ダイエットに取り組んで健康を保つ必要がでてきた。

 

それと同じく、常に危険と隣り合わせで生きてきた大昔の人間にとって、知ってる場所にちゃんと慣れることで、いちいち消耗しないようにすることは大事な機能だったと思う。

しかし、歩きスマホで駅まで歩いても誰からも襲われないようになった現代、習慣だけで楽に生きることがいくらでもできるようになったのはいいことだけど、ほっとくと緩くなりすぎるので、長生きのためには適度な刺激を自分に与える必要があるだろう。

 

 

古典落語の大ネタ「らくだ」にはこんなセリフがある。

 

「死人のカンカンノウ?おもしろいやないか、見せてもらおう。初物や。初物みたら寿命が75日のびるっていうやないか」

 

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