育ちがいい
「育ちがいい」ってなんだろう。
自分自身、いままでの人生でわりとそう言われることが多かった。
他人を疑わないところとか、辛い目にあっても愚痴らないとか、そういう性質に対して言われたこともあるし、新聞を読むとか、ごはんをよく噛んでゆっくり食べるとか、習慣みたいなことに対して言われたこともある。
だけど、自分自身ではあまりよくわからない。
本当に育ちがいい人々は、もっともっと洗練されてるし、もっと生まれながらに下駄を履かされてるし、幼い頃から意識的に育てられてると思っている。
東京生まれで親の地位が高かったり文化的な職業だったりするようなのが本物でしょうって。
一方で、たしかに地元で小中高とずっと生きてる同級生たちとは、趣味趣向とか生き方みたいなものがいつの間にか大きく隔たってしまったというのも事実。
そういうズレってどこで生じるんだろうか。
「育ちがいい」は、ずっと謎だった。
「自分の考え」なんてものはない
いままで生きてきて、たくさんの人間と出会って会話したりプロフィールを見たりしてきた中で、なんとなくパターンが見えるようになってきた。
いかにもレゲエが好きそうな人がちゃんとレゲエ好きだったり、いかにもゲーム好きそうな人がちゃんとゲーム好きだったり、いまでは予想がだいたい当たる。
で、あまりにもそのまんますぎると人間的に薄く感じてしまうことすらあって、逆にプロフィールからはみ出すような意外な一面が見えるとそれだけで好きになってしまうこともある。
これは自分自身も例外ではなくて、マツコ・デラックス氏に「ロッキング・オンの編集部にいましたよね」っていじられ方をしたのは、それが笑いに繋がるから口に出されたってことでしょう。笑えるほどいかにもそういうタイプに見えたってこと。
髪型とかファッションとか、ひとつひとつ完全に自分の意志で選んでいるはずなのに、最終的にいかにもな感じに仕上がるっていう謎。
あと、SNSを見てると、こういうニュースに対してこの人はこういう反応をしそうだなっていう予想がだいたい当たる。
これらのことから、結局人間には「自分の考え」なんてものは本当はないんじゃないか?って考えるようになった。
自分の意思でやっていること、自分のセンスで選んだもの、自分の考えでたどり着いた結論、そういったものは実は全部、外部の環境によってそれを選ぶしかないようになっているんじゃないかって。
その環境にはもちろん「育ち」とかも含まれるだろうって。
文化資本
NHKのEテレでやってる『100分de名著』っていう番組がある。
古今東西の名著といわれる書物を、専門家が25分×4回の番組で解説するというもの。専門家に対して一般の視聴者のレベルを代表しつつ芯を食ったコメントをする聞き手として伊集院光。
社会学部の大学生だった頃に、書名や扱われている重要な概念ぐらいは聞きかじったというレベル、だけど自分で読み通す根性はなかったなという名著のエッセンスをわかりやすく教えてくれるっていうんだから、自分のような人間には本当にありがたい番組なのです。
その番組で先日取り上げられたのが、フランスの社会学者ブルデューが1979年に書いた『ディスタンクシオン』。
ブルデューによると、人が何か特定の音楽や絵を好きになったり趣味をもつことには、階級や職業といったものが強く影響しているという。
ある音楽や芸術作品と運命的な出会いをしたと本人が思っていても、実はそれまでに培われたセンスや考え方感じ方によって、その作品を強く感じ取ることができただけだと。
つまり親がパンク好きだから子供もパンク好きになったみたいな単純な話ではなく、パンクが好きになる子供には家庭環境や学歴なんかに共通点があるみたいな話ね。
で、そのセンスや考え方感じ方は家庭や友人関係や教育のなかで育まれるもので、運命的な出会いみたいなものは基本的にはありえないらしい。ブルデューはこれを「ハビトゥス」と呼んでいる。
これは芸術作品を鑑賞するセンスの話にかぎらず、あらゆる物事のとらえ方や振る舞いについても当てはまるらしい。
そして身についた知識やセンスや振る舞いのことを「文化資本」と呼ぶ。
普通の意味での資本といえば経済力のことだけど、それの文化バージョンってこと。
この「文化資本」って概念、「育ちがいい」にすごく似ている気がする。
世襲は仕方がないかも
ブルデューによると、上流階級に生まれた人は家庭環境や周囲の同じような階級の人々から上流階級的な教養や振る舞いを学んで文化資本にすることができるけど、貧困な環境で生まれ育った子どもたちはみずから親と同じような職業や生き方を選んでしまう傾向があるんだって。
そういえば東大生の親は年収が高いっていう話もあった。
これはかなり身も蓋もない話で、庶民の家に生まれたらどうがんばってもムダっていう解釈になってしまってもおかしくない。
でもどちらかというと、みんな同じ条件でフラットに戦っているようにみえても、実は文化資本っていう下駄を履いてるやつと裸足のやつがいるよっていう、そこちゃんと考えないとダメだよねっていうノリで使うべき概念らしい。受験戦争とか典型的にそういうことだと思う。
これは別に、学習塾に通える経済力がある家庭が有利だっていうだけの話じゃなく、実際に高学歴な大人がまわりにいるとその大人の普段の姿から知識を身につける楽しさを知れて勉強好きになる、みたいな話でもある。
逆に、身近にそういう大人がおらず、大学に入ってからの具体的なイメージがないまま、単に入れる偏差値の大学を目指すだけだと受験勉強はしんどいと思う。
芸能人の子息が芸能人になる確率や、政治家の子息が政治家になる確率が高いのも、これと同じ話でしょう。
田舎の高校生にとっては、芸能人になる具体的な道なんて見えないし、どれぐらい遠くにある目標なのかも全然わからないし、そのためになにをすればいいのかも漠然としすぎている。
一方、親や親族に芸能人がいる場合、具体的なサンプルが身近にゴロゴロしていて、どれぐらいの実力が必要かとか、どういうコースで潜り込めるのかとか、どういうタイプは大成しないかとかまでもリアルに把握できるので、どう考えても有利。
漠然と「世の中を良くしたい!」とか「総理大臣になりたい!」と思って猛勉強している庶民の子よりも、どの団体や有力者を動かせば何票とれるとか、どうやって貸しを作ってどうやって返してもらうかとか、どういう身振り手振りが人の心を動かすかとかを幼いときから間近に見てきた子のほうが、どう考えても政治家になりやすい。ただでさえ親の票田を受け継ぐことができる上に文化資本まであるんだから、二世議員はものすごく有利。
外野からは世襲とかコネに見えてる話も、実態はそういう面も大きいのではないか。
勉強する習慣
ここまで「文化資本」ってもののおそろしさを味わってきたわけだけど、自分自身、子育て真っ最中の親のひとりなので、俯瞰して見てるだけではいられない。
格差が再生産される身も蓋もない世の中の仕組みがあるとわかったとして、でもそこからは誰も逃げられないので、親である以上どちらにしても自分の子供に文化資本を渡す役割は果たすことになるわけです。
それはつまり、親の蔵書で埋まった本棚やレコード棚、親が見ているテレビ、親が休日に出かける場所、親が仲良くしている人間といったものが、そのまま文化資本になっていくということ。
とはいえ、変に焦ってむりやりピアノを習わせたりとか親が背伸びして意識高い人たちと交流し始めたりとかそういうつもりはない。
相変わらずフェスに行ったり大河ドラマを見たり車で古い洋楽を流したりする親であり続けるでしょう。
ただ、ものを考えることの「構え」みたいなものは意識して伝えていきたいなと思った。
映画評論家の町山智浩氏とラッパーのダースレイダーさんがYoutubeでアメリカ大統領選挙やトランプ支持者が連邦議会に乱入した事件について話していた。
いわゆるQアノン的な陰謀論にハマってしまう人はアメリカにも日本にもたくさん出てきてしまっているが、そういった人の特徴として、町山さんは「勉強をする習慣がない人」と評していた。
知らないことに出会ったとき、自分で調べて確認することができるかどうか、そういう習慣があるかどうかが、陰謀論にハマってしまうかどうかの分かれ目だという。
この「勉強」という表現にはちょっと注意が必要で、ネットで真実に目覚めてしまった人は、その手の動画やブログをまじめに勉強し続けた結果、引き返せないレベルまで陰謀論に浸かってしまうことが多い。
つまり、なんでもいいから勉強すればいいということでもなく、大事なのは知らないことに出会ったときの態度なんだろう。
Qアノンに限らず、反ワクチンとか地震兵器とかそういうのを信じてしまう人をSNSやリアルで見ていて思うのが、ある物事に対して感情的・直感的に何かを感じたとして、その感覚を別の角度から見たりしないってこと。証拠に基づいて判断するとかロジカルに思考するとかよりも、最初に感じた印象をそのまま重視する。
ブルース・リーの「考えるな、感じろ」を座右の銘にしてやたら強気だったりして。
たとえば目に見えないウイルスが飛沫や手すりから伝染して深刻な症状に繋がるっていう話は、科学的には疑いようのないことなんだけど、感覚的にリアルに受け取りづらい人がいる。そんな人は「コロナはただの風邪」とか甘い言葉を吹き込まれてコロッといってしまったりする。
目に見えないウイルスを警戒して専門家の注意を聞いて気を張って生きていくのってストレスがかかるので、無意識にそこから逃げて耳障りのいい情報だけを集めてしまう。
これは非常によくない。育ちがよくない。
よくわからない事態に遭遇したときの考え方の「構え」も文化資本のひとつなんだとしたら、優先度高めでうちの子に渡しておきたい。
自分で「自分の考え」だと思っているものは、本当にそうなのか、変なバイアスがかかってないか、そこをちゃんと省みることができる人間に育ってほしいものである。