2020年12月に出た『人志とたけし: 芸能にとって「笑い」とはなにか』という本。
このタイトルを見ただけで、あ、まさにそういうの読みたかったやつだ!とピンときた。
同じように感じる人は少なくないようで、発売から2ヶ月たった今でも、大型書店では平積みされていたりする。
今回はこの本の紹介と、それを踏まえた自分なりの松本人志論です。
『人志とたけし: 芸能にとって「笑い」とはなにか』は、批評というフィールドで『長渕剛論』『ジブリ論』『ドラえもん論』などの大ネタに取り組んできた杉田俊介氏の最新刊。
現代的なお笑い芸人や芸能界の専門家ではないとみずから断りつつ、批評家だからこその遠慮のないやり方で松本人志とビートたけしを中心にお笑い芸人という存在を語っている。
そして後半では、著者といろんな識者との対談を通じて、お笑い芸人がここまで世の中の隅々にまで影響を及ぼしている現代についていろんな角度から迫っている。
対談の相手としてマキタスポーツさんと矢野利裕くんもいる。
お笑い芸人のビートたけしや映画監督の北野武については、これまでもたくさんの人が論じてきたけど、それに比べて松本人志についてはお笑い界の外側からの批評というとあまりされてこなかったと思う。
特に、映画監督としての松本人志についてはちゃんと論じるべき対象だと思われていなかったんじゃないだろうか。
そういった意味でこの本はすごく画期的だし、また批評の内容においても、監督した4本の映画を丁寧に批評した上でこのように語っているなど、かなり大胆にバッサリいっている。
松本人志の笑いには、どこか、不気味な空虚さがあるように思ってきた。上も下も、真も偽も、善も悪もかき混ぜて、一瞬でダイナシにして、すべてを「うんこ」ですらない「うんこちゃん」にしてしまうという笑い。
最近の松ちゃんはなんであんな感じなのか?っていうのは自分もずっとモヤモヤしていたので、この松本人志論にはすごく刺激をうけた。
その上で、若干感じ方が違うなと思ったところがあったので、せっかくの機会なので自分なりに松本人志について考えてみました。
松本人志を特別な存在にしたもの
お笑いの世界において今では当たり前すぎて誰も気にしていないようなことの多くが、実はダウンタウンから始まってる。
たとえば弟子入りではなくスクールに入って芸人になること、「サムい」「噛む」「引く」といった用語の日常使い、芸能界における芸人のポジションが今の感じなのもダウンタウンの影響が大きい。
そういった意味では、現代のお笑い芸人は知らずしらずのうちに全員がダウンタウンの影響を受けているといっても過言ではない。
特に70年代後半から80年代前半ぐらい生まれの世代のお笑い好きにとって、松本人志は特別な存在だった。
ダウンタウンによってお笑い界の価値観がどんどん刷新されていく様子を目の当たりにしてきたから。
関西ローカルの「4時ですよ〜だ」(1987年)にはじまり、全国区に進出してからの「夢で逢えたら」「ごっつええ感じ」「HEY! HEY! HEY!」に至るあたりの快進撃は、関西のとんがった若者にとって、欽ちゃんとかウンナンに代表される東京のヌルいお笑いをどんどん駆逐していく爽快感があった。
そして神格化が極まったのが、ザ・ハイロウズ「日曜日よりの使者」にまつわる伝説。
自殺を考えるほど思い悩んでいた甲本ヒロトが、たまたまテレビで「ごっつええ感じ」を見て、自分はまだ笑えるんだと救われた気持ちになった、そのことを歌にしたのが「日曜日よりの使者」であるというもの。
実際、この曲はその後「ごっつええ感じ」のエンディングで流れるようになり、また松本人志がハイロウズのアルバムのジャケットを描いたり、松本人志の結婚式のサプライズゲストとして甲本ヒロトが登場して「日曜日よりの使者」を歌ったりしている。
この伝説は当時かなり広まって、ダウンタウンってすごいんだな、お笑いってすごいんだなっていう感覚を世の中に植えつけた。
全員が同じ土俵で競い合ってM-1で日本一を決めるようなアスリート的な仕事であるのと同時に、人の命を救うことができるすばらしい仕事でもあるんだと。
現代のお笑い芸人の仕事がちょっとした神聖さを帯びているのは、この伝説の影響があるんじゃないかと思っている。
その結果、お笑い芸人があらゆる場所で重宝されるようになって、吉本興業が政治の中心にまで喰い込むような状況になっているのではないか。
メガネロックとの同時代性
本書で何度も言及されているように、ダウンタウンはNSCの一期生。
それまでの昭和のお笑い芸人は、落語だろうが漫才だろうが、師匠に弟子入りして修行するというルートでしかデビューできなかった。
なので、吉本興業が芸人の学校を始めたというのは当時わりと議論を呼んだ。
お笑いなんて学校で勉強するようなものではない、そもそも芸人として成功するような規格外の人間はちゃんと学校に行けるわけがないなどと揶揄されたりもした。
矢野利裕くんも対談の中で言っているように、学校というのは実力主義。
師匠弟子筋の縁故ではなく、ましてや血筋でもなく、あくまで実力があるものが認められるべきだという松本の主張と親和性が高い。
ダウンタウンがその一期生、つまり師匠がいない最初の芸人であるというのはすごく象徴的だと思う。
マキタさんは松本人志がやったのはお笑いの規格化、スポーツ化だと指摘している。
声の大きさとか、おもしろい顔とか、そういうフィジカルに依存するものはレベルが低くて、センスや間といった技術で勝負することをよしとする価値観。
そんな思想が「M-1グランプリ」や「すべらない話」などにも色濃くあらわれていると。
90年代には、この思想によって救われた若者は関西を中心にほんとうにたくさんいた。
クラスの中でおもしろいとされてるイケてるグループのやつらよりも、教室の片隅で目立たないけど自分のほうが圧倒的にセンスがあるしおもしろいんだと、そしておもしろいことは正義なんだというふうに、背中を押してもらえた。
リアルタイムの世代以外にはなかなか伝わりづらいけど、この思想に心酔する「信者」がたくさん生まれたもんだった。
いわゆるお笑いの民主化とでも言うべき思想は、お笑いじゃなく音楽を志した自分のような人間にも、すごく共感できた。
松本人志が教室の片隅の若者を勇気づけ「信者」を増やしていったのとほぼ同時期に、音楽の世界でも同じことが起きていたから。
それまでの日本でロックの世界で憧れの対象だった存在というと、矢沢永吉だったりCharだったり氷室京介だったりと、だいたいみんなフィジカルが強くて華があってオスとしての魅力があるか、または遠藤ミチロウとか江戸アケミみたいな人間離れした存在感があるかって感じだった。
しかし90年代になると教室の片隅にいるタイプでもバンドをやるのが普通になり、華々しさよりもセンスが評価される時代になる。
その時代の空気のなかで出てきたのが、くるりやナンバーガールのようなバンド。
若い人にはもはや想像しにくいだろうけど、フロントマンがメガネをかけているバンドは当時めちゃめちゃ衝撃的だった。
これは松本人志がお笑いの世界でやったこととすごく似ている。
全方位的にうんこちゃんのままでいられるのか
松本人志には、たとえば北野武と比べたとき、幅広い教養もなければ、知性もなく、それ以前にそもそも、人間たちが日々営む政治や芸術、文化や科学などに対する関心や興味が一ミリもないかに見える。
『人志とたけし』の中ではこんなふうに書かれていた松本人志。
たしかに、映画についてはそうかもしれない。
しかし、ほんとうに松本人志は人間として全方位的にそういう感じかというと、そうとも言い切れないと思っている。
なぜなら、あらゆる権威を引きずり下ろしているかのように見えていても、実は昔からひとつだけうんこちゃん化してこなかった世界があるから。
それは落語。
特に桂枝雀に対してはずっとリスペクトの気持ちを表明している。
今は亡き桂枝雀は、後の人間国宝・桂米朝の弟子として早くから頭角をあらわし、爆笑王の名をほしいままにした人。
有名な「緊張と緩和」のロジックのように、お笑いの構造について理論化を試み続けた人だし、他の上方の落語家と比べて古典落語のアレンジが強烈だったし、たしかに上方落語界にとっては革命児だったと思う。
そういう面では、松本人志が今後もしかしたら古典に回帰していくような展開があるとしたら、いい参照元たりえるかもしれない。
しかし「落語はやらへん。特別なもの。人の部分ができない」という言葉は、松本人志にしては珍しく謙虚。他のジャンルに対するおそれのなさとは非常に対照的だと思う。
千原ジュニアや月亭方正といった松本ファミリーの面々が落語に手を出す一方で、かたくなに演じる側には行こうとしないのは、この謙虚さがあるからだろう。
映画とか報道に対しては愛がないのでうんこちゃん化に躊躇がないけど、落語のような本当に好きなものに対しては恥じらってしまう。ここになんとも言えないほつれを感じる。
誰が引導を渡すのか
人間って、若い頃は権威に対する挑戦者を気取るけど、 年をとるにつれて古典や教養のよさに気づいていく傾向がある。
師匠がいない芸人として異端児扱いされながらも、既存のヌルいお笑い界を破壊していったあの頃のダウンタウンは挑戦者だったし革命家だった。
しかしその革命は成功し、中国やキューバのように革命政権が体制側になって何十年もたった。
才能ある若手は毎年のように出てくるけど、みんな松本人志が作り上げたシステムの中ではいあがってきた人たちではあるので、今のところ体制はまったく揺らいでいない。
あいかわらず松本人志は神格化された状態でいる。
1996年、セックス・ピストルズが「カネ目当て」だと公言して約20年ぶりに再結成。初めての来日公演が実現した。
往年のファンは、生でピストルズを見られるうれしさと、カネ目当てだとうそぶくおっさんバンドの醜態を見せられる厳しさに引き裂かれ、なんともいえない気持ちだったみたい。
アルバム1枚で華々しく散っていったかつての自分たちの伝説を、みずからぶち壊してまわるかのようなやりかたはまさに「うんこちゃん」だった。
そして、この来日ツアーの武道館公演でオープニングアクトをつとめたのは、くだんのザ・ハイロウズ。
かれらは「ベイ・シッティ・ローラーズ」と名乗り、ベイ・シティ・ローラーズのコスプレで「Saturday Night」のド下ネタ日本語カバーをやった。
つまり日本のバンド代表として正面からいくのではなく、本気じゃないですよという姿勢を見せた。
ピストルズに対する愛は前提にありつつも、醜い姿をさらしている再結成ピストルズに対してベイ・シティ・ローラーズの下ネタ日本語カバーをもって遇することに決めたハイロウズ。
そういえば「シッティ(shitty)」は日本語に訳すと「うんこちゃん」だ。
このハイロウズのような手つきでもって松本人志に引導を渡す若手が出てきてもいいんじゃないかなと想いました。
配信もある
杉田俊介氏とマキタスポーツさんと矢野利裕くんの3人は、『人志とたけし』について2021年2月にトークイベントもやっていて、アーカイブが2021年2月26日まで視聴できる。
お笑い芸人がお笑いを語ることと、批評家がお笑いを語ることの違いについて、また後者にしかない価値がすごく大事っていうことを矢野くんが語ってたりして、書籍での対談を補うような重要な議論がいろいろ出ていて超オススメです。