森の掟

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大河ドラマ60年の歴史は保守と革新の二大政党制だった!?だとすると『豊臣兄弟!』は…

大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新情報 - NHK

2026年の大河ドラマは、豊臣秀吉・秀長の兄弟を描く『豊臣兄弟!』。

 


貧しい百姓から織田信長の家来になり、数々の手柄を立てて織田家重臣に出世、信長の死後はライバルを蹴落として天下人にまでのぼりつめた豊臣秀吉の人生は、多くの日本人にとって馴染みのあるものだろう。

 

今回は、保守と革新の二大政党制としての大河ドラマの歴史における『豊臣兄弟!』について考えてみたい。

 

二大政党制としての大河ドラマ

実は大河ドラマとは二大政党制みたいなもので、保守と革新との間で振り子のように左右の振れを繰り返してきた。

 

日本人が好きな歴史上の人物はずっと織田信長坂本龍馬なので、そのあたりの時代を余計なことをせずしっかり重厚に描いてほしいという民意にこたえるのが保守的な立場。

 

それに対して、ここ最近は、金栗四三渋沢栄一紫式部北条義時蔦屋重三郎といった、ちょっと攻めた人選を主役にすえることが多く、いわば革新寄りのターンだったと言える。

 

 

とはいえ革新ターンにおいても、あくまで大河ドラマという枠の中で成立させることが求められる。

民主党が政権を獲っても外交など国の根本は維持されたっていうのと同じことで、枠を大きく逸脱することは、NHKの名において、できない。

 

大河ドラマという枠の外に出たら『首』のような超ラディカルなものも作れる↓

 

ただ、枠の中で新しいことをするっていうさじ加減はかなり難しくて、革新志向の大河ドラマは視聴率的には苦戦しがちでもある。

 

大河ドラマを必ず見るっていう層のニーズは基本的に保守なので、逸脱しすぎると見てもらえない。

うちの老親なども革新ターンの大河ドラマはいつも途中で離脱していて、『いだてん』も『べらぼう』もどちらも苦手だったと言っていた。

 

 

戦国と幕末ばかりの保守一辺倒だと飽きられるが、なじみのない時代のドラマにはついていけない。

このジレンマに対するひとつの回答として、信長や龍馬ではなく、その周辺にいた人物を主役にすえるというやりかたがある。

『豊臣兄弟!』もそのパターンで、秀吉ではなく弟の秀長を主人公にするというずらし方。

 

ちなみに、超有名人の近くにいて無名だけど実は激動の人生だった主人公のパターンで、さらに女性であれば、大河なんてどうせ武張ったおじさんのものでしょっていうイメージの刷新もできる。

 

信長の姪でありながら実父も養父も殺されるなどしたけど最後は徳川将軍の正室になったという『江〜姫たちの戦国〜』(2011年)なんかはその典型。

坂本龍馬西郷隆盛という超有名人が脇役として出てくる『篤姫』(2008年)『八重の桜』(2013年)『花燃ゆ』(2015年)もそうで、この系譜は古くは『おんな太閤記』(1981年)『春日局』(1989年)あたりに遡ることができる。

 

 

 

また、保守や革新っていうのは、扱う時代や人物におけるそれにとどまらず、ときには美術や音楽の使い方にまで現れてくる。

 

リアリズムを追求した「汚い」美術や、エマーソン・レイク・アンド・パーマーの「タルカス」を大胆に使った音楽などが話題となった『平清盛』に対しては、当時の兵庫県知事が苦言を呈したりもした。

 

ルーティンの描き方でわかる保守性

たとえばめちゃくちゃ有名な歴史上のエピソードってあるじゃないですか。

本能寺の変だとか近江屋事件(龍馬暗殺)だとか。

大河ドラマでその時代を扱う以上は避けられない、テクニカルルーティン(規定演技)のようなもの。

 

敵は本能寺にあり」と叫ぶ馬上の明智光秀。本能寺で白い着物を着た信長が、森蘭丸と一緒に槍を持って押し寄せる明智の軍勢と戦うが多勢に無勢。「是非もなし」と覚悟を決め奥の部屋に籠もり「人間五十年」と歌って不敵な笑みでも浮かべながら死んでいく信長、みたいな。

 

こういうのをどこまでベタにやり切るかで、そのドラマの保守性が見えてくるわけです。

逆に、革新はこの規定演技をどう斬新にやるかが腕の見せどころになってくる。

 

三谷幸喜はこれが抜群に上手で、『真田丸』では本能寺の変を直接描かずいわゆる「ナレ死」で処理したことで話題になったんだけど、本能寺から遥か遠い東国で少年時代を過ごしていた真田信繁(幸村)にとっての本能寺の変とはそれぐらいの距離感なんだろうな、というリアリティがむしろあった。

 

今年の『豊臣兄弟!』においては、桶狭間の戦いという超有名エピソード(=テクニカルルーティン)があったばかり。

押し寄せる今川の大軍に対してパニック状態の織田家においてひとり落ち着いている信長、快進撃に油断して陣中でくつろぐ今川義元、「人間五十年」という例のアレ(「敦盛」)を舞う信長、突如として出陣し「狙うは義元の首」と大雨の中奇襲に成功する信長といった、桶狭間と聞いてみんながイメージするシーンをひとつも漏らさずやってくれたわけで、『豊臣兄弟!』はかなりの保守本流をやろうとしていることがうかがえる。

 

史実とフィクションの取り扱い

歴史上の人物のよく知られたエピソードには、史実ではないものがたくさんある。

 

その多くは、歌舞伎や浄瑠璃や書物などを通じて江戸時代に広まったフィクションがなんとなく広まったものだけど、昭和においても司馬遼太郎が小説でおもしろくするためにそれらしく書いたエピソードが定着してしまったみたいなパターンもある。

また、近年の歴史研究が進んだ結果として、みんなが知っているのとは異なる新たな事実が解明されてきたというパターンもある。

 

大河ドラマとして、そういうものをどう扱うか。

どの大河ドラマにも時代考証というスタッフが存在しており、史的に間違った描写がされないようにチェックされているが、一方で現代人が面白いと思えるドラマにする必要もあるのでガチガチすぎても仕方がない。そこのバランスを取るのが重要になってくる。

 

どんなにおなじみのエピソードだとしても、フィクション由来のものはバッサリ削って、史実に即していくやり方のほうが、どちらかというとラディカルで革新寄りのスタンスと言えるだろう。

逆に、絵空事だとわかっていても、国民的な共通意識の置きどころとして必要であろうとばかりに、保守の務めとしてきっちり描き切るというのも、ひとつの立派な姿勢だとも思う。

個人的には、描きはするが新たな解釈を加えるという第三の道を示されると、脚本家の腕を感じられてうれしくなる。

 

たとえば『豊臣兄弟!』においては、信長の草履を懐で温めたという件について、実は草履を盗もうとして懐に入れていて、それがバレて言い訳として言ったという斬新な解釈をやっていた。

 

嘘をつくことに後ろめたさがないという『豊臣兄弟!』における秀吉のキャラクターを補強するエピソードとして機能しており、効果的だったと思う。

 

左右に振れながら前に進む大河

低視聴率のリスクを抱えながらも大河という枠に新しい空気を持ち込む革新側と、堂々と期待に応えることを目指す保守側との間で、60年以上にわたって左右に振れながら続いていた大河ドラマ

 

視聴率が20%を下回ると失敗作扱いされてしまう大河ドラマとしては、常にマジョリティの感覚に寄り添うことが求められるが、視聴者の価値観というやつはこの50年でかなり移り変わってきた。

ここまで『豊臣兄弟!』は保守だと書いてきたが、同じ保守でもジェームス三木(1987年の『独眼竜政宗』など)や橋田壽賀子(1981年の『おんな太閤記』など)の時代とはたとえば世の中のジェンダー観がまるで違ってきているでしょう。

 

たとえ戦国時代の話だとしても、親が勝手に決めてきた政略結婚だとか、側室を何人ももうけて世継ぎを産ませるとかいったことをただただ無条件に受け入れる感じは、最近の大河ではもう見かけなくなった。

主人公自身は正室と一夫一婦制で何不自由ないと思っているが家臣たちが無理やり側室と引き合わせる、とか、政略結婚ではあるがお互いに男女として惹かれ合っている、みたいな処理の仕方が目立つ。

 

これは例の「誰も傷つけない笑い」と同じで、意識が高い一部の人たちがポリコレのために不自然にそっちに引っ張っていこうとしているとかではなく、視聴者のマジョリティに感情移入してもらうために必要なこと。

前衛による啓蒙ではなく大衆への追従。

筆者などは、戦国時代の人間のくせに現代人みたいな価値観だな…と感じさせる描き方には興ざめしてしまうクチだが、とはいえ、北野武『首』みたいなリアルすぎる人物像で大河をやるとみんなドン引きするはずなので仕方がないと思っている。

 

 

 

左右に振れながら時代の流れに応じて進んでいる歴代の大河ドラマの中で、数年に一度大きな話題になる作品があらわれてくるんだけど、それらに共通しているのが、保守と革新の両方の側面をもっているということ。

 

戦国時代でありつつ東北地方という周縁部にスポットを当て、渡辺謙という当時ほぼ無名の俳優を抜擢した『独眼竜政宗』(1987年)。

坂本龍馬という超ベタな主人公を扱いながら、リアリズムを追求した美術や生々しいカメラワークが話題になった『龍馬伝』(2010年)。

源平合戦という、戦国や幕末に次ぐ知名度の時代を扱いながら、組織内の権力闘争という側面を硬軟織り交ぜて描き切った『鎌倉殿の十三人』(2022年)。

 

つまり、成功する大河ドラマの条件っていうのは、「保守の中の革新」だったり、「保守も納得させる懐の深い革新」なんだと思う。

『豊臣兄弟!』がそうなれるかどうか、見守っていきたい。