森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

小沢健二『So kakkoii 宇宙』はよその子を祝福して北島三郎を更新する

小沢健二の歌ものオリジナルアルバムとしては17年ぶり(!)になる『So kakkoii 宇宙』がリリースされた。
So kakkoii 宇宙

So kakkoii 宇宙

 

1993年のソロデビューアルバム『犬は吠えるがキャラバンは進む』、そして1994年の『LIFE』からの快進撃があり、1996年ぐらいにはちょっとした社会現象みたいになっていたオザケン

NHK紅白歌合戦にも出場してお茶の間にも知られるようになったんだけど、お茶の間というのはいつも雑なもんで、いわゆる「渋谷系」の王子様みたいな存在として、キャラ化して消費していく。

 

そんな扱いを受けつつも、ちょうど今でいう星野源のような感じで、キャラ化される自分を客観視しつつ軽やかに活動しているように見えていた数年間があった。

とはいってもやはりじわじわ消耗していたのか、1998年にシングルをリリースしたのを最後に渡米し、やがてJ-POPのシーンからは姿を消してしまう。

 

そこからの10年あまり、アメリカを拠点に世界を巡ったり結婚したりいくつかの文章を発表したりといった感じが続いた後、2010年からライブ活動を再開し、2017年には19年ぶりのシングル「流動体について」をリリース。
それ以降、日米を行き来しながらわりとコンスタントに新曲のリリースやライブ活動を行っている。

 

アルバム『So kakkoii 宇宙』には、2010年のライブで披露された久々の新曲「いちごが染まる」をはじめ、「流動体について」「フクロウの声が聞こえる」「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」などの復活後にリリースされた曲、そして新曲「高い塔」「失敗がいっぱい」「薫る(労働と学業)」の全10曲が収録されている。

(すなわち、2016年のライブで披露された「涙は透明な血なのか?(サメが来ないうちに)」「飛行する君と僕のために」「その時、愛」は未収録ということ)

 

帰ってきた小沢健二の特徴 

サウンド面でいうと、『So kakkoii 宇宙』は『LIFE』と『犬』の中間といった感じ。

ジャズに傾倒した『球体の奏でる音楽』やアーバンなR&Bの『Eclectic』とは似ていない。渡米直前の「ある光」から直接つながっているようにも思える。

 

そういう意味でははっきりとオザケン的ではあるんだけど、いろんな人が言ってるように『LIFE』やその前後の楽曲の圧倒的な輝きに比べるとちょっと物足りなく感じられるかもしれない。


たしかに、その時期の楽曲にあった圧倒的なキラキラ感や、一方でその輝きは永遠には続かないんだよなっていうほろ苦い刹那の美しさは、最新作では薄まっていると思う。

 

それでも、個人的には2017年以降の楽曲のほうにむしろ魅力を感じているんですよ。

少数派かもしれないけど、本当にそう思ってる。

 

なにしろ、2017年以降の曲の歌詞。

明らかに新しい境地に入ってるじゃないですか。

 

この劇的な変化、どう考えても2013年に長男「りーりー」が生まれて親になったことが大きいでしょ。

自分も2014年に長男が生まれて親になっていたので、「そうそう!そうだよなオザケン!わかるよーっ!」てな具合に響きまくっているわけです。

 

たとえば晩ご飯のあとの父と子の会話からはじまる「フクロウの声が聞こえる」は、混沌と秩序が一緒にあるような、わかりにくくてわかりやすく、優しくて残酷な世界に生きていく子どもたちを励ますような歌。

 

父親として、自分の子どもに対してこの世界がどんなものであるか伝えたい、背中を押したい、そういう気持ちに共感しまくってるのです。

奥田民生の「息子」「人の息子」も同じ理由で大好きなんだよな。

 

そして、直接的に父親の曲じゃなくても、親になったことで得られた視点がやっぱり入ってると思う。

たとえば歌詞に出てくる「きみ」の対象がそれまでと明らかに違う。

 

なにしろ親になると、自分の子どもがかわいいのは当然として、よその子もかわいくてたまらなくなる。

そしてその気持ちを掘り下げていくと、最終的に人類全体とかいうスケールで愛おしくてたまらなくなってきたりもする。

 

アルバム『So kakkoii 宇宙』においても、「都市」や「労働」みたいな人間のいとなみ全般に対して、人の親ならではの慈しむ気持ちが入ってきてるのを感じる。

 

つい数年前に全く無力な存在としてこの世に出てきた「ガキンチョ」が、あれよあれよという間に、道具を使いこなし言葉を使いこなし、人と関係して何かを作り出し、っていう感じで成長していく。

多くの親が感じるこの新鮮な驚きを、よその子全員(=全人類)にも感じてるんだなっていうのを、たとえば「薫る(労働と学業)」や「高い塔」から読み取ることができる。

 

このご時世に親になるということ

日本で一番知られた父と息子の歌といえば、北島三郎の「まつり」。

 

「山の神 海の神 今年も本当にありがとう」っていう世界において、「土の匂いの染み込んだ 倅その手が宝物」ってな具合で息子に語りかける。

代々受け継がれてきたものを伝えていく、自分が父親から教わったことを息子に教えていく、つまり「保守」の本領ですわな。

 

しかし、2019年の東京では、一応は近代的自我が確立された個人であるということでみんな生きてるわけでしょ。

見合いをしろとか早く孫の顔を見せろとか、自分が父親から教わったことをそのまま息子に教えていくわけにはいかないのがご時世。

「まつり」は、2019年の父と息子の歌としてはもう通用させられない。

 

そりゃあね、見合いをしろとか早く孫の顔を見せろとかの圧力がなくなるのは絶対的にいいことです。

だけど、その代わりになる生き方は誰も示してくれていない。

親になることが良いことなのかどうか、自分で判断しろっていう世の中。

 

かといって判断材料を求めてまわりを見渡せば、やれ満員電車にベビーカーを持ち込むなだの、子どもを育てて大学に入れるまでに数千万円かかるだの、コストや重圧ばかりが目につく。

 

まじめな人ほど、自分なんかが親になっていいわけがないと思いがちだし、そもそも自分ひとりが生きていくだけで精一杯でもあるし。

 

また、職業人とか趣味人とかアーティストとかとしての自己実現をストイックに追求するのって美しいじゃないですか。子育てなどという寄り道をしている暇はない。

 

そう。

この時代に自分らしく生きようとすればするほど、親になるっていう選択肢が魅力的にうつるタイミングが絶望的にない。

 

まさに、岡村靖幸の「祈りの季節」状態。

Sexしたって誰もがそう簡単に親にならないのは

赤ん坊よりも愛しいのは自分だから?

 

こち亀」をやめて親になった話

そんな、親になる圧力も理由もない現代に、それでもわたくし親になりました。

 

というのもですね、ある日「こち亀」をやめて「ドラゴンボール」に移行したくなったんですよ。

 

つまり、それまでの自分は、毎日毎日おもしろおかしく一話完結型で繰り返される「こち亀」型の人生を楽しんでいたわけ。

しかし「こち亀」の世界では登場人物は成長しないし、物語は一歩も前に進まない。コミックス何百巻になっても、両津は両津のままでしょう。

自分の人生がそんな感じであることに、突然めっちゃ飽きたんだよね。

 

それで、ためしに親になってみた。

そしたらおもしろいように「ドラゴンボール」型の、お話が前に進んでいく感覚になれたっていう。

 

これってものすごく自分勝手な理由なのかなと思っている。

自分の人間的実存のために子どもを利用したって言い方もできるかもしれない。

でもまあ、イエ制度の圧力がなくなった今、子どもを作る理由なんて自分勝手でしかないのでは?とも思うけど。

 

自分の場合はそうやって自分勝手を押し通して親になったんだけど、自分勝手じゃない多くの人たちにとって、親になるのはなんなら不自然なことになってしまってる。

 

そんな時代に、『So kakkoii 宇宙』はすごくフレッシュな視点をもたらしてくれた。

北島三郎 「まつり」が示す保守的なそれではない、新しい親としてのものの見方。

 

よその子(=人類)のいとなみを「宇宙」って言葉で表現し、その宇宙を「So kakkoii」と祝福してる。

このご時世に親であるってことはこういうことだと。悪くないでしょと。そんな感じですごく頼もしいんだよな。

 

真夜中、むにゃむにゃと寝言を言ってる子どもの寝顔。生きてやがる。こんなすごいものを妻と共同で作ってしまったんだという何度目かの(だけど常に新鮮な)驚き。不思議。そしてこいつがよその子と一緒に新しい時代をつくっていくのか。すごいな。So kakkoii 宇宙だな。

そんなアルバムです。