バンド音楽が厳しい
2010年代ぐらいから、世界的にロックバンドが売れなくなってきている。
2017年には、アメリカで最も売れたジャンルの座がロックからヒップホップ/R&Bに移ったというし、アメリカ最大規模のフェスであるコーチェラのヘッドライナーにロックバンドが選ばれることもなくなった。
90年代や00年代は若くてイキのいいバンドが次々に登場し、ロック界全体のモードが更新されていっていたけど、日本にいて検知できる規模では、もう長いことそういったことは起こっていない。
そこにきてこのコロナ禍でライブという場も奪われてしまい、けっこう厳しい状況になってきていると思う。
長いことバンドをやっていた人間として、またバンドの音楽を愛好する人間として、この状況は寂しい限りなんだけど、これってもう止められない傾向なんだろうか。
そのヒントを紅白歌合戦で見つけたので、今日はそのことについて書きます。
コロナ禍の紅白歌合戦
おととし2020年の紅白歌合戦は、出演者にコロナ感染者が出たりする大変な状況での開催となったため、NHKホールが無観客になったり、会場を3つに分けたりと、様々な対策を余儀なくされた。
その一環として、事前に収録した映像を流すというかたちでの出演になった歌手もいた。
紅白、5シーンが収録 Mr.Childrenや星野源:朝日新聞デジタル
その結果、この年の紅白歌合戦はかなり物足りない感じになってしまったと思う。
仕方がなかったこととはいえ、ライブじゃない部分があったことや、複数会場の切り替えによるつぎはぎ感によるものが大きいだろう。
NHKホールというひとつのハコにたくさんの演者と観客を詰め込んで、秒単位の仕切りで無秩序に詰め込んだ演出を繰り出すことで発生する、頭がクラクラするような独特のグルーヴ。それこそが紅白歌合戦だったんだなと再認識する機会になった。
翌2021年も引き続きコロナ禍での開催になったけど、感染状況がマシになっていたことに加え、2020年の反省に基づいた改善があったように思う。
特に、このご時世だし事前収録や遠隔地からの中継も仕方ないか…という共通認識を逆手に取った藤井風のサプライズ演出が象徴的だった。
また、紅白歌合戦のキモである混沌とライブ感を兼ね備えて、ある意味もっとも紅白っぽかったのが、三山ひろしのけん玉でしょう。
なぜ、「右を立てれば/左がへこむ/とかくこの世は/生きにくい」などという内容の歌のバックで、126人が次々にけん玉に挑戦するのか。
まじめに考えるだけ損だとは思うけど、ひとつ確実なのは、三山ひろしが紅白でけん玉ギネスに挑戦するのは5回目という事実。つまり人気があるコンテンツだということ。
紅白歌合戦でのけん玉の意義
では、紅白における事前収録の映像はなぜ物足りないと感じたのか。
たとえば、けん玉のギネス記録に挑戦という素材を事前に収録していたらどうだったか。
記録達成してすごいねということは同じはずなのに、ワクワク感は圧倒的に減るだろう。
それは、あらかじめ確定していた事実の再確認にしかならないから。
ギネス記録を更新したその瞬間に、テレビ越しとはいえ立ち会えるのと、数日前に記録達成していたという記録映像を見せられるのでは、体験としてまるで違う。
これって、口パクだったりオケを流すパフォーマンスに感じる物足りなさも、同じ仕組みだと思う。
けん玉を失敗するかもしれないというライブならではの緊張感は、音程を外すかもしれないという緊張感と同じ。
演奏についてもそうで、紅白に出るレベルのミュージシャンは今さらミスったりすることはないけど、それでも可能性としてドラムスティックが手からすっぽ抜けることや、ギターの弦が切れることはあり得るので、そのことが孕む緊張感ってやっぱりある。
もちろん、そういうマイナス面の緊張感だけでなく、生歌や生演奏が生む効果こそが音楽の醍醐味であることは言うまでもない。
紅白歌合戦は音楽番組なんだから、生のけん玉ではなく生の音楽のほうがより番組の趣旨にあってるわけで。
80年代までの音楽番組は生演奏が当たり前で、たとえば「夜のヒットスタジオ」におけるダン池田とニューブリードのBPM速めのノリノリの演奏は、レコードで聴けるバージョン以上の魅力を放っていた。
ライブの境目について考える
収録済みの映像を流すという場合、その先の未来が変わる分岐って、スタッフが映像を流すボタンを押すかどうかのタイミングにしかない。
一方、生演奏の場合、ひとつひとつの音を奏でるタイミングごとに、音を外す/強く弾く/弱く弾く/伸ばす/切る、みたいな分岐があって、それがミュージシャンの人数×音の数だけ存在する。そんな気が遠くなるほどの可能性があるなかで、現に奏でられた音というひとつのものに決まっていく。
当たり前すぎていちいち意識していないことだけど、だからライブってすごいと思う。
そう考えると、生歌や生演奏じゃなくても、口パクでのダンスパフォーマンスだって、立派にライブ感はある。
音楽以外でも、映画と舞台の違いはここにあるだろう。
生身の俳優が目の前で演じるという一回性は、映画では味わえないわけで。
映画は何回見ても同じだけど、舞台はアドリブがあったり上演を重ねるごとに仕上がっていったりする。
堂本光一の舞台『SHOCK』は上演回数1,500回を超えたらしいですが、100回目と1,500回目はやっぱり違う仕上がりになっているんだろう。
ちなみに、ライブ感っていうのは演者の側だけでなく観客の側にもあって。
無観客でのライブ配信はやっぱりやりづらいっていうし、寄席に出てる芸人は客の雰囲気を見てネタを変えるっていうし。
ついさっき映画には一回性がないって書いたけど、観客参加型の上映だとむちゃくちゃライブ感って出る。
今はなき吉祥寺バウスシアターでのケミカル・ブラザーズの映画の爆音上映は、映画館がクラブになったような感じで最高だった。
「この世の中でもっともコスパの悪いエンタメ」
近年のJ-POPの世界においても、ロックバンドの占める位置は90年代と比べてかなり狭くなっている。
(BUMP OF CHICKENの影響下にあるような、疾走感と青臭さたっぷりのロックサウンドは、アニソンを中心にすっかり定着した感はあるけど、それにしたってアーティストの名義はバンドじゃなくソロだったりするし)
バンドって、いざ演奏を見せるとなると、メンバーや機材やスタッフなど、とにかくお膳立てに手間暇がかかる。
そのことを、氣志團の綾小路翔は「バンドはこの世の中でもっともコスパの悪いエンタメ」だと表現していた。
X年後の関係者たち あのムーブメントの舞台裏 バンドブーム編 | TBS FREE
バンドのそういう性質って、前述したような、不確定要素のかたまりであることと表裏一体。
ダン池田とニューブリードの大所帯のフルメンバーに毎回ギャラを支払っていた『夜のヒットスタジオ』と、CDと同じ音源をポン出しするだけでよかった『HEY!HEY!HEY!』ではどちらが低コストか、考えるまでもないだろう。
しかし、だからこそ、バンドというもののありがたみをちゃんと受け止めたい。
コロナが明けたら、再びフェスやライブハウスが活性化するだろう。
そのタイミングで、人と人が楽器を持ち寄って音を奏でることの豊かさや面白さを再発見する2022年になるんじゃないか。
演る側にとっても、聴く側にとっても。
そしてバンド音楽がもう一度世界中で流行ったらいいなと思います。