批評家の矢野利裕くん、構成作家の森野誠一さんとわたくしハシノの3人でLL教室というユニットを組んでいまして。
90年代のJ-POPについて語るトークイベントを定期的に開催しているのですが、次回は11月10日(日)に1997年を中心に語る回をやります。
そこで今日は、イベントの予習みたいな意味もこめて、1997年の西宮の丘の上から見えていた景色のことをいろいろと。
私大文系3回生
私大文系のゆるい世界で、勉強もバイトもそこそこに、同じ学部のやつらと組んだバンドでの活動に夢中になっていた時期。
自分たちで曲を作ってライブハウスに出演してファンを増やして、っていう活動がそれなりに軌道に乗ってきて、当時拠点にしていた神戸スタークラブ(現在の太陽と虎)で自主イベントをやったりしていた。
活動が軌道に乗ってくると、たかが学生バンドマンではあったけど、いっちょまえに意識だけは高くなってくるわけで。
音楽に対する接し方として、純粋なリスナーというよりは同業者として考えるようになっていった。
リスナーとしても、大学生の特権を最大限に活用してライブハウスやクラブやレコード屋に入り浸り、カルチャーの空気を胸いっぱいに吸い込んでいたので、自分たちが時代の最前線にいるぐらいの全能感があった。
若さゆえの思い上がりが多分に含まれていることをだいぶ差し引いても、実際人生でもっともアンテナが高かった時期だったと思う。
当時やってたバンドは、1990年頃のインディーダンス(マンチェスター)の感じとケミカル・ブラザーズみたいなロックっぽい打ち込みを混ぜたみたいなUKな音を目指してた。
いかんせん技量やセンスの問題で、実際にアウトプットされていたものは結構違うものになっていたんだけど。
自分たちはストーン・ローゼズのつもりでやっていたことが、あるお客さんにインスパイラル・カーペッツみたいだねって言われたこともあったな。
これで伝わる人には伝わるかもしれない。
当時のトレンドは「洋楽を消化できてる」こと
当時の関西のライブハウス界隈はわりと泥臭いような、エンターテインメント色が強いバンドが目立っていた。
シャ乱Qがメジャーデビューしたのを追うように後輩バンドたちが同じく大阪城公園のストリートで活動していたり、吉本興業がアマチュアバンドの育成に手を出して今はなき心斎橋筋2丁目劇場で漫才の合間にライブをさせたり、そういう感じ。
われわれもみようみまねで大阪城公園や2丁目劇場でライブやったりもしたんだけど、なかなか大阪的なノリが評価される場所では苦戦したもんだった。
ただいくら生意気なことを言ってても演奏が特にうまいわけでもなく、パフォーマンスに秀でているわけでもなく、ただただ、自分たちのセンスを過信してるのと、あとはルックスも武器になってるかな、ぐらいのところで戦おうとしていたんだから、今にして思うと頼りないことこの上なかった。
若さっていうのはほんとにおそろしいなと思う。
そして同世代や少し上のバンドには勝手にライバル意識を抱いていた。というより勝手に見下していた。
「こんなしょうもないバンドでもメジャーデビューできるのか」みたいな陰口はいつものこと。
あと新しく出てきたバンドが雑誌なんかでどのように評価されてるのかもすごく気になっていたもんだった。
それってつまり今のトレンドがどこにあるかを表してるわけで、そこに寄せていくつもりはなかったけど、とはいえ自分たちがハマっているかどうかにはどうしても敏感にならざるを得ないわけで。
だからすごくよく覚えてるんだけど、この時期の音楽誌に特有の評価軸として、「洋楽を消化できてる」「うたものロック」みたいなのがあったんですよ。
たとえばミスチルとかグレイプバインとかブリリアントグリーンあたりのバンドがそのような表現で褒められていた記憶がある。
どういうことかと言うと、洋楽ロックそのままの猿真似じゃなく、かといっていまだにバンドブーム臭のする古臭いドメスティックな音でもなく、日本人の琴線に触れるメロディと洋楽ロックのサウンドが上手にブレンドされてることが良しとされていたのです。
なるほど今はそういうのが評価されるのねって横目に見て、じゃあおれらがやってることもその路線に近いのでは?って思ってますます自信を深めたもんだった。
いやむしろ、そういうトレンドに対しても斜に構えていた気がする。洋楽ロック成分が多いとか言ってても実質単なるオアシスのパクリでしかないな!とか思っていたりした。
若さっていうのはほんとにおそろしいなと思う。
思い上がったまま関西の頂点へ
それなりに曲をたくさん作ったりライブをやりまくったりしたわれわれは、いよいよメジャーデビューとか音楽で食っていくとかそういうことを考えるようになった。
そして当時の関西でもっとも権威のあったバンドコンテストにエントリーする。
われわれが出場したのが第6回目で、それまでの歴代の優勝バンドはみんなメジャーデビューしているという、関西においてはこれ以上ない機会だった。
東京と違って関西にはメジャーのレコード会社はなく、インディーズレーベルもそんなになく、だいたい当時はみんな自主制作でレコーディングするのが当たり前だった。
自主イベントやワンマンに100人ぐらい集める規模までいっても、関西で地道に活動している限りはそれ以上どうにもならなかった。
そんな時代だったもんで、このコンテストはメジャーデビューのほとんど唯一の機会のように見えていたもんだった。
たしか予選みたいなのがあって、選ばれた8組ぐらいがライブハウスでの最終審査に進むことになったんだった。
さすがに最終審査ともなると、演奏は自分たちより全然うまいバンドもいたし、自分たちよりもオリジナリティたっぷりの音楽性のバンドもいたし、流行しはじめていたミクスチャーをいち早く取り入れたバンドもいた。みんないいバンドだった。
だけど、グランプリに選ばれたのはわれわれのバンドだった。
伸びしろも加味した上での評価だったらしいが、こんなことになってしまうと思い上がった学生バンドがさらに思い上がるのは仕方がない。
その日、某超メジャーレコード会社のA&Rとかいう人が名刺をくれて、何曲かつくって持ってきてとか言ってくれた。
その会社は有望な若手に声かけるだけかけてほぼ飼い殺しにされるっていう噂がまことしやかに流れていたけど、そんな噂は信じなかった。
友だちはそろそろ就職活動にそわそわし始める時期だったけど、このまま音楽で食っていけると完全に思い込んでいたので、いわゆる就職活動というものは一瞬もやらなかった。
甘くなかった
グランプリにはなったものの、そのA&Rとかいう人とは何度か会って曲を聴いてもらったりしたんだけど、そこから話が進む気配がない。
関西で一番権威のあるコンテンストで優勝してもメジャーデビューできないとなると、もうこっちから東京に乗り込んでいっちょ大暴れするしかないなということで上京。
そころが東京のインディーズシーンの壁は厚く、必死に足場を築いてるうちに疲弊してしまい、1年ちょっとでそのバンドは解散してしまった。
若いロックバンドを「洋楽を消化できてる」みたいに評価する風潮も、あまり長続きしなかった。
そういう評価のされ方をしていたバンドのほとんどは、スペースシャワーやFM局にちらっとプッシュされただけでそれ以上ブレイクすることはなかった。
思えば90年頃のバンドブームが終わってからの数年間で、はじめてのトレンドらしいトレンドだったわけで、売る側の大人たちとしても何とか大きな流れにしたかったのかもしれない。
たしかに、ビートルズ〜オアシスに通じる大きなメロディは日本人も大好きだし、実際ミスチルやブリリアントグリーンのようなメガヒットも生まれたわけで、狙いとしては悪くなかったと思う。
ただ、次世代を担うバンドたちは98年頃にはもう次のことをやろうとしていて、たとえばナンバーガールやくるり、クラムボンといった新しいバンドが中心となって流れを変えていくことになる。
97年といえばフジロックやAIR JAMが始まった年でもあり、メロコア、スカコア、ミクスチャーのシーンがここからめっちゃ盛り上がってくるし。
スペースシャワーやFM局を情報源にしてる若い人たちの志向もそっちに寄っていったのかもしれない。
「ロックバンドで売れる」をやるときの戦い方において、わりと大きなゲームチェンジがこのあたりで発生したのかなと思っている。
で、このとき生まれたモードが、現在も続いてるという認識。
イベントでお待ちしてます
以上、あくまで関西から見えていた景色ではあるけど、1997年頃のロックバンドが何を考えてあがいていたかのサンプルのひとつとして見ていただけるとありがたいです。
このあたりのことも踏まえて、イベントではもっと掘り下げていくかもしれない。
森野さんが勝手に名付けた「ミスチルフォロワー御三家」も、興味ある方がいればイベント限定で教えますね。
あとなんといってもこの日はすごいゲストをお招きしているので、たっぷり語っていただければと思っています。
ゲストは、エビ中、V6、岡崎体育、バナナマン、バカリズム、東京03といったすごい人たちへの楽曲提供、そしてあの「ゴットタン 芸人マジ歌選手権」の数多くの楽曲を作ってきた、「謎の音楽家」カンケさん!
カンケさんは1997年にアーティストとしてデビューされていて、そのあたりのこともじっくり伺いたいです。
ご予約は下記サイトからどうぞ。
こじんまりしたハコなのでお早めに!
<おまけ> メンバーのその後
解散後のメンバーそれぞれの活躍っぷり。
学生気分のバンドはあそこで終わっといて正解だったのかもね。