昨日このようなトークイベントをやりました。
「LL教室の試験に出ないJ-POPシリーズ〜1999年編〜」
90年代のJ-POPについて1年ごとに区切って深掘りしていこうというこのイベント、これまでに1998年、1999年、1991年、1992年を扱ってきており、今回は5回目。
「試験に出ない」というタイトルの通り、一般的な語り口ではない、オルタナティブな目のつけどころで重箱の隅をつつこうという趣旨でやってます。
毎回ゲストをお迎えしているんだけど、今回は1993年にGOMES THE HITMANを結成し、昨年13年ぶりの新録作品をリリースした山田稔明さんにご登場いただきました。
1993年の世相
さて1993年といえば自民党の55年体制が終わって細川連立内閣ができた年でもあり、ヨーロッパではEUが発足した年でもある。バブル崩壊後、そして冷戦終了後の新しい世界の枠組みみたいなものが国内外で立ち上がってきた感じ。
また、この年に開幕したJリーグもそうなんだけど、「J」をつければ何か新しい平成っぽい軽やかなものに見えるっていうブランディングが通用していた。
そもそも「J-POP」という言葉はJ-WAVEが使い始めたもので、J-WAVEが開局した1988年頃からすでに使われていたと言われているが、言葉としてお茶の間に浸透してきたのは、「J」の時代である1993年頃だったような気がする。
「J-POP」という言葉、J-WAVEが生みの親って知ってた? その意味は…
それぞれの1993年
矢野くんは当時小学生だったにもかかわらず、すでに渋谷系的なものに惹かれる自分を認識していたっぽくて、スチャダラパーを好んでいたらしい。一方で流行りのB'zなんかも普通に聴いていたと。
森野さんは当時高校生。
競馬とプロレス、そして何より音楽にどっぷりハマっていて、深夜のTV番組「BEAT UK」を熱心にチェックし、今はなき神保町のJANISに毎週通ってたくさんのCDをレンタルしまくっていたとのこと。
ハシノも高校生で、同じく中古やレンタルでひたすらいろんな音楽を吸収していた。グランジやオルタナティブなUSのロックを好み、一方でブリットポップという言葉が出てくる直前のUKのシーンも少しずつ気になっていた。
日本の音楽といえばユニコーンと筋肉少女帯とすかんちと上々颱風ぐらいで、J-POPのメインストリームに対しては全く興味がなかった。
ゲストの山田さんは佐賀から上京して2年目。田舎と違って好きな音楽の話ができる相手が見つかるんじゃないかという期待を抱いて出てきた東京で、大学の先輩を誘ってGOMES THE HITMANを結成した年。
知性が感じられないJ-POPのメインストリームに対しては敵対心といってもいいほどの感情があり、日本には期待できないということで洋楽ばかり聴いていたんだって。
特に影響を受けたのがアメリカのR.E.M.とレモンヘッズで、最初は英語で歌詞を書いていたとのこと。
「小沢大学」
そんな山田さんにとって、1993年の小沢健二のソロデビューアルバムはとても大きかったそう。
- アーティスト: 小沢健二
- 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
- 発売日: 1993/09/29
- メディア: CD
山田さんが当時大学で学んでいた英米の文学の香りも漂う、はじめて出会えた「知性」を感じる日本語の音楽。
それ以降、日本語で歌詞を書くようになるなど、山田さんの音楽観に多大な影響を受けたそうです。
山田さんはそれを「小沢大学に入学した」と表現されていた。
LL教室イベントでこのアルバムに言及されるのは実は2回めで、最初にやったイベントでゲストにお迎えしたTBSラジオの長谷川プロデューサーも、このアルバムを90年代のフェイバリットのひとつに挙げておられたのだった。
(打ち上げでは山田さんと長谷川さんの交流にまつわるイイ話も伺った)
イベント後半ではこのアルバムから「ローラースケート・パーク」の歌詞をじっくり分析したんだけど、これに関しては矢野せんせいの面目躍如といったところ。
矢野くんは「ローラースケート・パーク」のパンチラインである「ありとあらゆる種類の言葉を知って/何も言えなくなるなんて/そんなバカなあやまちはしないのさ」というフレーズを、太宰治の「猿面冠者」と対比させ、小沢健二は太宰治がつまづいたと思われる部分を乗り越えていると主張。
(とはいえ太宰という人は「そういうグズグズした自分」をキャラ化している面もあり一筋縄ではいかないとのこと)
ほんとこのフレーズはいろんな人をハッとさせてきたよね。
大学生の頃、誰よりもいろんな音楽に詳しくて賢いやつは結局自分では音楽を作る側にはまわらなかったなーという印象がある。たぶんいろいろ考えすぎたんだろう。
それに比べると、自分のような深く考えずにいろいろ手を出してしまうような人間のほうが、かたちになるものを残していたり。
誰よりもいろんな音楽に詳しくて賢い人だった小沢健二が、そういう過去の自分を乗り越えたんだっていう表明なんだろうねっていう話でした。
ちなみにハシノが小沢大学に入学するのは翌年のアルバム「LIFE」からなんだけど、その話はまたいずれ。それこそこのイベントで1994年をやるときにでも。
1993年のJ-POPとその周辺
フリッパーズ・ギターの解散後、小沢健二とコーネリアス小山田圭吾が揃ってソロデビューし、またオリジナルラブが「接吻」をヒットさせるなど、いわゆる渋谷系なシーンが活性化する一方、それとはまったく異なる状況がメインストリームにはあった。
1992年に登場した通信カラオケが普及し、文部省「教育白書」に「我が国でもっとも盛んな文化活動はカラオケである」と記された93年。中高生にとって、放課後に遊ぶことイコールカラオケだったといっても過言ではない。
また、テレビの歌番組でいうと「ポップジャム」と「COUNT DOWN TV」が始まったのがこの年。昭和の終わりとともに「ベストテン」などの古いタイプの歌番組が消え、しばらく歌番組らしい歌番組といえば「ミュージックステーション」ぐらいしかなかった時期がしばらくあって、ここからJ-POPの時代に対応した歌番組が登場してくる。翌94年には「HEY! HEY! HEY!」もスタート。
80年代後半からのバンドブームは90年頃にピークを迎え、大量のバンドがメジャーデビューしていたが、次第に勢いを失い、93年には完全に落ち目に。新しくデビューするバンドは極端に減っていた。
そんな中、この年にユニコーンが解散。ジュンスカも事実上の活動休止状態になり、とどめを刺す感じに。米米CLUBやプリンセスプリンセスはバンドサウンドからシフトチェンジしてしばらく生き残る。
そして昭和末期の若者文化を牽引してきたサザンオールスターズや松任谷由実といった人たち(そして平成最後の紅白を締めくくった人たち!)もまだまだ元気だった一方、93年前後から新しい潮流が生まれてきつつあった。
ビーイング
1988年にデビューしたB'z、1991年にデビューしたZARD、T-BOLAN、WANDSらが揃って大ヒット曲を連発した93年、ビーイング系アーティストだけで全CD売上の7%を占めたそうな。
ヒットチャート上位になったビーイング系アーティストの楽曲のCDジャケットをズラッと並べてみると、ある一定のセンスが貫かれているのがわかる。
そう。
全体的にセピア色なんだよなー。
ビーイングをモータウン・レコードになぞらえるという、良心的な音楽ファンが眉をしかめそうな説があるんだけど、たしかに、いろんなアーティストをみんなレーベルの色に染めて大量生産するシステムを構築したっていう面は共通している。
J-POPの歴史を作った、織田哲郎とビーイングでの二人三脚 | BARKS
プロデューサー長戸大幸と作家織田哲郎が手がけると、みんな上記のようなセピア色のジャケットで世の中に出てくることになり、サウンド面でもしっかりビーイング色に染まっている。
そしてそれが確実に売れたのが1993年。
サウンド面の特徴としては、うっすらオールディーズ感(Mi-Keに顕著だけど他の曲にもフレーズ単位で散見される)がありつつも、全体としては80年代のいわゆる産業ロックを下敷きに、よりドメスティックな方向にカスタマイズされたもの。
それまでの日本のニューミュージックや歌謡曲が、その時代時代の洋楽のトレンドを敏感に取り入れていたのは対照的で、開き直ったガラパゴス感が強い。
あとイベントではビーイング楽曲の歌詞の分析もやったんだけど、こちらも見事に統一感のあるセンスで貫かれている。
矢野くんの分析によると、ビーイングの歌詞は基本的にモノローグであると。
それはつまりどういうことかというと、歌の中で物語が進行する気配がなく、自分以外の登場人物が出てくることもないということ。
恋愛の歌なんだけど、片思いであったり、過ぎ去った恋愛の追憶だったり。
歌い出しあたりで一応情景の描写があったりするけど、基本的に主人公の脳内で完結しており、社会との関わりもない。
この、社会との関わりについては村上春樹との類似性を指摘してたな。意外なところを繋げてくるのも矢野せんせいの面白さ。
最終的に、歌詞がモノローグばかりってことと、CDジャケットが特徴的なセピア色なことって絶対これ関係あるよねっていう話に。
まとめ
1993年は平成5年。
冷戦終了やバブル崩壊で一つの時代が終わったあと、新しい時代の方向性がようやく定まりつつあった時期。
音楽シーンにおいても、それまでは音楽で食っていくことイコール芸能界の一員になることだった昭和の文化がほぼ終わり、バンドやシンガーソングライターとして芸能界と距離を置きながらやっていける体制が整ってきた。
それがJ-POPということかもしれない。
その新しい時代にまっさきに成功したのがビーイングだったという事実は、いろいろ重要なことを示唆していると思う。
その一方で、同時代のクラブミュージックや過去の膨大なグッドミュージックを参照する新しいアーティストが登場してきたのもこの時期。やがてその一部は「渋谷系」と呼ばれるようになるし、そのくくりに入っていなくても、スピッツやサニーデイ・サービスのように日本語で良質な音楽をやるロックバンドがぼちぼち出てくるようになる。
そんな境目だったのが1993年ということでしょうかね。
おまけ:猫ジャケのコーナー
山田さんといえば愛猫家としても有名で、Instagramでは1万2千人のフォロワーがいる。
また実写であれイラストであれ猫がいるジャケットのレコードを収集されていることでも知られる。
そこで、LL教室の3人がそれぞれ持ち寄った猫ジャケのレコードを山田さんにプレゼンし、もっともお気に召したものを選んでもらうというコーナーをやった。
ハシノが持参したのは、下記画像の左側2列。
左上から、
本田美奈子がロック化したときのminako with wild cats名義のアルバム
「振られ気分でRock'n Roll」でおなじみTOM★CATのアルバム
一段下で
「赤頭巾ちゃん御用心」がヒットしたレイジーのライブアルバム
7インチでは、
ムツゴロウさん監督の映画「子猫物語」の主題歌で、大貫妙子/坂本龍一の楽曲
80年代に一世を風靡した「なめんなよ」のノベルティソング
児童合唱団の子が歌う1969年の大ヒット曲「黒ネコのタンゴ」
99年頃に買ったビッグビートのLOSFELDっていうアーティスト
あのねのね(原田伸郎と清水國明)のギャグを音源化した「ネコニャンニャンニャン」
でんぱ組.incの「でんぱーりーナイト」のジャケには相澤さんの白猫が
森野さんが持ってきたのは、ネオアコのオレンジジュースというバンドの、未発表曲を集めたアルバムで、ジャケットにレーベルのマスコットであるドラム猫があしらわれてるやつ。画像の右下隅。
矢野くんが持ってきたのは、左上から
60年代末、人気絶頂期にザ・タイガースを脱退したギタリスト加橋かつみのソロアルバム
細野晴臣が音楽を手がけたますむらひろしの「銀河鉄道の夜」のサントラ
Ellen Mcllwaineの70年代ファンキーフォークのかっこいいアルバム
など
なめ猫はハシノとかぶった
山田さんのために各自猫ジャケを探してこようっていう宿題になったときには、自分の家にはほとんどないんじゃないかって思ってたけど、探せば意外とあったね。
しかも内容的にもかなり気に入ってるレコードが多かった。
山田さん賞には矢野くん持参の加橋かつみ「パリII」が選ばれ、せっかくなのでということで山田さんにそのレコードをプレゼントしたのだった。
喜んでいただけたようで幸いです。
そんな感じでいろんな盛り上がりを見せたイベントでした。
まだ90年代は語っていない年が残っているので、引き続きLL教室をよろしくです!
次回イベントは未定なんだけど、twitterアカウントをフォローしていただければ幸いです。