森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

書評:『メタル脳 天才は残酷な音楽を好む』中野信子

科学ネタとして消費されるヘヴィメタル

Twitterとかでよく流れてくる、好きな音楽ジャンルによって性格がわかるとか、音楽を聴かせるとワインがおいしくなったとか、そういうアカデミックな装いをした記事あるでしょ。

だいたいそういう記事においては、メタルとクラシックとヒップホップとEDMなんかを比較した感じになっていて、「メタルのような音楽を好むタイプはこんな傾向が…」または「パブリックイメージとは違って案外メタル好きは‥」みたいな語り口になってるじゃないですか。

 

そういう記事を掲載するウェブメディアにとって、粗野で過激で頭悪そうなヘヴィメタルのパブリックイメージと、それを裏付ける or 覆すような意外な研究報告って、まあPV稼ぐのにもってこいのネタなんでしょうね。

 

ヘヴィ・メタル、自動車の運転に悪影響を及ぼすという新たな研究結果が明らかに | NME Japan

 

「ヘヴィメタルは死と向き合う助けになる」という研究結果 | ギズモード・ジャパン

 

【研究報告】男性ホルモンの多い男はソフトロックやヘビーメタルがお好き | BUZZAP!(バザップ!)

 

ヘビメタファンの性格を英大学が調査「彼らは権威を嫌い、自尊心が低い」 - ライブドアニュース

 

タイトルに興味をひかれて思わずタップして読みにいった経験は誰でもあるはず。

それがもし「R&Bのファンは…」っていう記事だったら果たしてどれほどの人が読もうとするかと考えると、まあキャッチーでおいしい路線を見つけたなって思うよ。

 

ただそこに愛を感じることはほぼなく、まあお手軽に消費されてるなって感じしかないけど。

 

 

「メタル脳 天才は残酷な音楽を好む」

そんな風潮にあやかったのかどうか、こんな本が出版された。

メタル脳 天才は残酷な音楽を好む

メタル脳 天才は残酷な音楽を好む

近年いろんなメディアでひっぱりだこの脳科学者、中野信子さんの著書ですね。

 

さっき挙げたような一連の記事で、科学ネタとしてのメタルのキャッチーさは認識されているし、そこそこ売れる確信があって世に出されたんだろうなという気はする。

 

個人的にはどうしても嫌な予感があったけどね。

どうせまたあの雑な感じで消費するんでしょって。

 

せいぜい揚げ足とってやろうかというぐらいの気持ちで手に取ったのだった。

 

そしたらですね、パラパラとめくったら章の終わりごとに著者が好きなメタルバンドを写真つきで紹介するページがあって、しかもカーカスみたいなエクストリームな音のバンドまで登場してるじゃないか。

 

さらにプロローグを読んでみたら、中野さんかなりのメタル好きとのこと。思春期の不安定で鬱々としたメンタルをメタルによってだいぶ救われたみたいなことを仰ってる。

 

これは失礼しましたって話で、さっきの先入観を捨ててかからないとダメだなと思った。

本当にメタルが好きな人が書いてるのであり、そして脳科学者の看板を掲げて堂々と書いてると。
そこらの出どころの怪しい3流ウェブメディアの飛ばし記事とは違って、適当なことはしていないであろうと。

これはってことで、さっそく腰を据えて本編を読み始めたのだった。

 

威勢のいい看板と慎重な書きぶりのギャップ

「メタル脳」は、帯に「モーツァルトよりメタリカを聴け」と書かれているとおり、メタルを聴くことが他のジャンルと比べてどれだけ脳に良いかを専門家として語っている本。

 

見出しのタイトルを読むだけで、「メタルを聴くと頭が良くなる」「メタルは反社会的ではなく非社会的」「内向性が高い人はメタル好き」などとあって興味深い。
「メタルは世界の欺瞞を見抜く」とまで言われたらそりゃ気になりますわな。

 

メタルに支えられて10代を過ごした人なんだし、よもや雑に扱ったり貶めたりしていないだろうという信頼感もあるしね。

 

ところが、いざ読んでみると「可能性があると言えます」とか「メタルである必要性は〜必ずしもありませんが」みたいな慎重な書きぶりがやけに目立つ。
「メタルを聴くと頭が良くなる」っていう大上段にかまえた章でも、結局「これはあくまでわたしの推論ですが」かよっていう。
なんていうか、慎重っていうかむしろ腰が引けてるような。

 

メタルを安易に科学ネタとして消費してるウェブ記事を読んだときに誰もが感じる「それってメタルじゃなくても大音量の音楽だったらなんでもよくね?」とか「この話のキモってメタルだからってことじゃなくて好きな音楽を聴いたらどうなるかってことでは?」みたいなツッコミどころが、残念ながらこの本にも散見されるわけですよ。

 

そこで妄想

全編にわたってそんな感じで、威勢のいい看板と慎重な書きぶりのギャップが目立つわけ。

これ、もしかしてだけどこんなやり取りで書かれた本なのではないかって妄想したくもなるよね。

 

編集者「中野先生!なんかないすか、ヘビメタ聴いたら賢くなるみたいなやつ、ないすか」

中野さん「なにをもって『賢い』とするかもいろいろありますよね、うーん…」

 

編集者「あのほら、ヘビメタのライブに来る人ってすごく暴れたりして怖い感じしますけど、ああいうのが実は…みたいなのあります?カラオケでストレス発散のすごいバージョンみたいなやつとか?

中野さん「(いや、カラオケと比較…さすがにそのまんますぎて書けないな、わたしは暴れるタイプでもないし…どうしよ)」

編集者「うーん、ほら、なんか実は脳の特定の部位がこうビビッときてるんだとかそういう」

中野さん「ああ、たとえばライブではCDでは出ていない可聴域の音が出ていて、それを耳だけじゃなく皮膚でも感じることで、オキシトシンが分泌されるというのはあるかもしれないですね」

編集者「おお!そういうのですそういうの!」

中野さん「ただ可聴域の話だと別にヘヴィメタルに限らずライブ全般に当てはまっちゃいますけどね」

編集者「いやいやいや!いいじゃないですか!そういうのもっとください!」

中野さん「(これも書きぶりでバランスとらないとな…)」

編集者「あのほら、ライブですっごい頭を振るやつなんでしたっけ?あれは脳にいいんですか?」

中野さん「ヘッドバンギングですね。いや、特にそういう話は聞いたことないですね」

編集者「なんかそういうことにできないですかね?血行が良くなってとかでも」

中野さん「むしろちょっと脳損傷のリスクがあるので推奨できないです、すみません」

編集者「(チッ)」

 

みたいな感じで作られていったのではないかと邪推してしまう。

タイトルで強めの断言をした後に本文でフォローするパターンが何箇所か見られるのは、その押し引きの痕跡かなと。

 

 

強い気持ち強い愛

ただこれ、文化人気取りの学者が数時間ぐらい語りおろしたものを編集者が文字起こしして適当にまとめたような安易な本っていうわけでもなさそう。

 

中野さんにとってメタルが切実なテーマであることはビシバシ伝わってくるし、むしろ脳科学の知見に基づいて語っている部分よりも、実体験から組み立てられた論のほうが説得力が桁違い。

 

たとえば、メタルファンはニセモノを憎む気持ちが強いとか、世間のみんなが付和雷同で飛びついているものにノレないとか、そういう傾向を深堀りして説いていく第4章などは、面目躍如といったおもむき。

(世界的にポピュリズムの流れが強まっているこの時代、安易に尻馬に乗らず欺瞞を見抜くメタルファンの特性が重要になってくるとのことです!)

 

それは、鬱々としていた10代のあの頃、メタルを聴くことで「別に孤立していても構わないのだ」という安心感を得られたと語る第1章と呼応しているかのようで、エビデンスに基づいた説得力というよりも、実体験に基づく思いの強さがとにかく伝わってくる。

 

強い気持ち、強い愛。今のこの気持ち、ほんとだよね。

 

ハロウィンは犬臭い

本書でも言及されてるけど、どんな音楽を好むかでその人がわかるっていう。
それでいうと、会ったことないけど中野さんのことをすごく好ましく感じた。

 

カーカスのような複雑な構造のバンドが好きだけど、ハロウィンはなんだか「犬臭い」感じがして好きになれなかったとか、ロブ・ハルフォードのメタリックで「なめらか」な質感の声は好きだけど、サミー・ヘイガーやデヴィッド・カヴァーデイルの声が苦手だとか、自分語りがさらに脱線したところに垣間見えるかわいげ。

 

そしてグイグイくる編集者(妄想です)に対して、社会人としての大人の対応と学者としての誠実さの板挟み(妄想です)でバランスをとってがんばる姿(妄想です)も素敵。

 

そして何より、世間が顔をしかめるような音楽に傾倒することで自分をどうにか保とうとしていたという件への共感がすごい。

 

高3の秋にマイケル・モンローのデモリッション23の来日公演を一緒に見た京都の高偏差値女子校のあの子、今頃どうしてるかなとか思い出したりもした。

 

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この曲の歌詞を覚えて来日公演のとき歌ってたあの子。

ロシアンルーレット・セックス!」って大声で合唱した姿が今でも忘れられない。

 

「科学的に証明されています」

サラリーなマンとしての仕事柄、いろんなデータを分析して何らかの結論を出すっていうことを日常的にやってる。

 

もともとそういう定量的な分析からこぼれ落ちるものに興味があった人間だってこともあり、グラフだの関数だのはすごい苦手だったけど、いまじゃBigQueryも使えるようになった。

 

その経験から言えるんだけど、「科学的に証明されています」とか「データによると」ほど胡散臭いものはない。

けっこうなんとでもなるんだなって。

 

いい加減な分析をもっていっても突っ込まれるかどうかなんて、結果を見る側(上司とか教授とか読者とか)の能力にめっちゃ依存する。

だいたいみんな忙しいし、ザルだよね。

 

「メタルが好きな人は◯◯だ」も、「メタルを聴くと◯◯になる」も、まずは疑ってかかったほうがいいと思う。

最低限、それってメタルじゃなくても成り立つのでは?と考えてみるといいと思います。

 

さらにいうと、その「メタル」は具体的に何なのか?

デフ・レパードとブルータル・トゥルースでは全然話が変わってくるぞと。

「カレーの王子様」と「LEE 40倍」をどちらもカレーでしょって言って何かを語ろうとするやつが信用できないのと同じだぞと。

そこまで指摘できるといいと思います。

 

メタルを聴くとそういったリテラシーを養えます。脳科学的に証明されています。

 

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クルアンビンの分子が分母を凌駕しそうです【フジロック2019レポート】

フジロックに行ってきた

今年も行ってきました。

あの1997年以来、22年連続になります。

(詳しくはこの記事をあとで読んでいただくとして)


今年も最終日だけどうしても行きたくて家族に無理を言って出てきた。

昼から深夜までほぼ休みなく見まくったライブは、通りすがりも含めるとこちらの13組。

渋さ知らズオーケストラ〜monaural mini plug〜Paradise Bangkok Molam international band〜HIATUS KAIYOTE〜HYUKOH〜VAUDOU GAME〜柳家睦とラットボーンズ〜toe〜KHRUANGBIN〜THE CURE平賀さち枝とホームカミングス〜Night Tempo〜the comet is coming〜QUANTIC

 

ちょっとガツガツしすぎかと自分でも思ったけど、ここまで好みのラインナップを並べられたらしゃあない。 

今年のフジロック最終日、とにかく国際色豊かだったんすよね。

 

アフリカにルーツがあるVAUDOU GAME、タイからやってきたParadise Bangkok Molam international band、韓国からHYUKOHとNight Tempo、オーストラリアのHIATUS KAIYOTE。

Quanticは英国人だけど南米の音楽をベースにした音楽をつくる人だし、渋さ知らズは日本人だけど雑多な音楽性の核のひとつに東欧のジプシーブラスが間違いなくあるし。

タイミングが合わず見れなかったけどモンゴルのHANGGAIやキューバのINTERACTIVOも出演していた。

 

こんな具合で、ほんとに世界中から非英米のアーティストがたくさん集められていたのが今年のフジロック最終日の特徴。

 

グローカル

ここ50年以上、日本において「ロック」といえばイギリスとアメリカのバンドが中心で、そこに国産がどれぐらいの比率でブレンドされるかっていう感じだった。

 

ところが近年徐々にそうでもなくなってきてる。

アジアをはじめ世界中のいろんな国々が豊かになってきて、それぞれの土地で国産のポップカルチャーを生み出せるようになってきて、特に若者人口が増えてるところだと切磋琢磨されてレベルもどんどん上がってきてて。

要するに60〜70年代ぐらいの日本みたいなモードになったばかりの国がたくさんある。

 

そういう国々で、ハウスやEDMやロックといったユニバーサルな音楽スタイルに現地好みの要素をブレンドしていくことで、オリジナルなダンスミュージックやバンドサウンドが同時多発的に生まれてきている。

 

一方でインターネットの発達により、各地のローカルな国産ポップミュージックに避けがたく滲んでくる土地柄みたいなものが、世界中のリスナーにおもしろがられるっていう現象が発生している。

 

世界各地のローカル音楽をおもしろがることで有名になったのがDiploでありQuanticであり、日本だとサラーム海上高野政所といった人たち。

ここ10年ぐらいのそういう動きによって見いだされた音楽やカルチャーのことは、グローバルとローカルと組み合わせた「グローカル」っていう言葉で表現されたりする。

 

フジロック最終日のキーワードはタイ

国際色豊かだった今年のフジロック最終日において、特に濃いめに色づけされていたのがタイのモーラム/ルークトゥン系。

 

モーラムやルークトゥンっていうのは、タイ(特に北部イサーン地方)で古くから好まれてきた歌謡曲のような音楽で、現在に至るまで独自の発展を遂げながら地元で愛されてきていた。

 

それを2010年代に海外の好事家が発見し、地元で流通していたレコードをディグしまくってCD化して世界に紹介したところ、そのクセのあるいなたいグルーヴに世界中(の一部)が夢中になった。

 

 

 

 

日本においても、soi48というDJチームがタイ音楽の魅力を発信していたり、空族の人たちが現地に長期滞在してつくりあげた映画「バンコクナイツ」でも大々的に使用されるなどして、好事家のあいだで広まっていってる。

 

www.youtube.com

 

今年のフジロック最終日には、そんな世界的なモーラム/ルークトゥンブームを代表するような3組のアーティストが出演した。

 

まず日本のmonoral mini plagというバンドは、現地の冠婚葬祭のパレードで演奏するバンドのスタイルを完コピし、機動力あふれる演奏をする。
使う楽器は完全に現地のそれなんだけど、センスがDJ以降って感じで洗練されており、つまり最高。

 

1時間ぐらいは軽く踊らされる。

 

タイムテーブル上、monoral mini plagのすぐ後の時間帯にヘブンに登場したのがParadice Bangkok Molam International Band。こちらは本場タイからやってきたバンドで、モーラムの伝統楽器にファンクなベースとドラムを合わせることで、モーラムを知らない人にも踊りやすい感じになっている。

 

これはちょっとおもしろいなと思っていて、日本人であるmonoral mini plagが現地スタイルの完コピにこだわってる一方で、タイ人のPadice~のほうはグローバルで通じるスタイルに寄せていってるという。このねじれは示唆的。

 

ただ、個人的にはParadice~のグローバルひと工夫は余計なお世話に感じてしまう点が多々あった。これは自分がすでにモーラム耳ができているためで、「バスドラとかなくても踊れるっしょ!」ってなってるからだと思われ、ほとんどの人にとっては、Paradice~さんの工夫は効果を発揮していたであろう。
なのでPadarice~のみなさんはこんな意見は参考にしなくても大丈夫なので気にしないでください。

 

そして、フォールドオブヘブンのトリをとったのが、アメリカからやってきたクルアンビン(KHRUANGBIN)。

この日もっともみたかったバンドなのです。

 

クルアンビンとの出会い

クルアンビンはタイ語で飛行機という意味の言葉らしい。
タイ・ファンクに魅せられたアメリカ人のバンド。


タイ・ファンクってのがどのあたりのことか定かではないけど、前述したモーラムの70年代ぐらいのモードのことかなと。

 

 

 

 

たしか最初はTwitterで誰かが絶賛していたことがきっかけで知ったんだと思う。
絶妙のけだるい温度感やエキゾチックでサイケなギターがクセになってよく聴いてた。

 

ただ、無愛想なジャケと淡々としたサウンドから、白人音楽オタクによる宅録みたいな個人プロジェクトでやってる音だと勝手に思い込んでいたんだよね。

 

ところが、今年のコーチェラ・フェスに出演するっていうから中継動画を観てみたら驚いた。

 

https://cdn.fujirockfestival.com/smash/artist/5212.jpg

 

音楽オタクどころか、必要以上にキャラ立ちしたルックス!
そしてキレのあるギター、セクシーなベース、安定感のあるドラム。

 

音源と見た目のギャップも含めて完全にやられてしまい、フジロックに出るっていうのでとても楽しみにしていたのだった。

 

現地で感じたこと

当日のフィールド・オブ・ヘブン。
裏ではTHE CUREがやってる時間帯。

 

各ステージでヘッドライナーがやってるにもかかわらず、思っていた以上にたくさんの人がクルアンビンを楽しみにしてステージ前に集まっていた。

ちょっとびっくりした。

 

言うたらさ、70年代のタイの音楽に影響を受けたアメリカ人のバンドなんて、めっちゃニッチな存在じゃないですか。

いろんな音楽をひととおり聴いてきた結果、もはやこのあたりの音じゃないと興奮できないのよっていう、ちょっとしたフェチな存在のはず。

それが、ここまで多くの人に待たれているという現実。

 

すぐ近くでライブ開始を待っていた女性の立ち話が聞こえてきたんだけど、いわく「立ってるの疲れたわ、3年前はKANA-BOONの最前列いけてたのに」とのこと!ちょっとぶっ飛ばされた実話。

そういう人たちまでがクルアンビンに夢中なのか!

 

で、いざライブがはじまると、音源以上にいい湯加減のメロウなグルーヴがたまらないわけです。3人とも演奏うまい。

 

それと、ライブの運びのうまさがとにかく印象的で。
曲に入るときのタメのつくり方、ちょっとファニーな演出、曲中の緩急のつけ方。そういったもろもろがとにかく達者なの。

であのルックスでしょ。

 

ものすごくマニアックな音と、ものすごくキャッチーな3人の存在感。
そのギャップに釘付けになった、夢のような1時間半だった。

 

 

 

分子が分母を凌駕しそう

故・大瀧詠一氏が提唱し、マキタスポーツさんや矢野利裕くんも援用する、音楽の「分母分子論」という見立て方があって。

 

すべてのJ-POPはパクリである (扶桑社文庫)

すべてのJ-POPはパクリである (扶桑社文庫)

 

 

マキタさんの「すべてのJ-POPはパクリである」では、規格(=音楽のスタイル)を分母、人格(=アーティストのキャラクター)を分子ととらえ、すべてのJ-POPはこの構造で読み解くことができるとしている。

そして、分母分の分子が合致すればするほどオリジナリティが高い状態で、逆にここが意図的にズレた状態をつくることで違和感やおかしみが生じてコミックソングがつくりやすいという。

 

フジロックでのクルアンビンのライブを見ていて思い浮かんだのが、この分母分子論。

 

つまりクルアンビンとは、タイ・ファンクというフレッシュかつマニアックな規格(分母)の上に、メンバーのキャラクターという人格(分子)が乗っかっている状態であると。

 

分母と分子が合致しているからこそのこの人気なのか、それとも分母と分子がズレてる違和感が評判を生んでいるのか、それはわからないけど。後者かな。

自分としても、分子を知らない状態で音を聴いたときに分母のみで感じた先入観が、実物を目にしたときに良い意味でめっちゃ裏切られたわけで。

 

 

さらに、言ってしまえばタイ・ファンクなんていう規格(分母)はそこまでのポピュラリティがある乗り物ではないわけで、3人の身体性やキャラクターという分子のほうがもはや大きくなってきてしまっているのが現在のクルアンビンなのではないか。

そして本人たちもうすうす乗り物の小ささを窮屈に感じはじめているのではないか。

 

ライブで披露されたYMOの「Firecracker」やディック・デイル「ミザルー」などのカバーの選曲も、窮屈さを感じていることをあらわしてるんじゃないかと邪推してしまう。

 

「Firecracker」はもともとマーティン・デニー楽団による曲で、つまり欧米人によるなんちゃって中華の楽曲。それを東洋人であるYMOテクノサウンドでカバーしたっていう批評的な手口がかっこいいやつ。

 

「ミザルー」はご存じ映画「パルプ・フィクション」のサントラでも印象的なサーフィンミュージックの代表的な曲なんだけど、もともとはギリシャやトルコあたりで昔からある曲で、演奏しているディック・デイルは中東レバノンにルーツがある人。音階はいわゆる西洋のものとはだいぶ違う感じ。

 

こうした西洋人からみたエキゾ感がある曲をとりあげることで、クルアンビンというバンドのあり方とも通じるおもしろさを感じる一方で、同時に、タイファンクという軸からエキゾという価値観に沿って少しずつ守備範囲を広げようとする試みなのかもという感じもする。

 

これらのカバー以外にも、曲の中で明らかに演歌っぽいスケールのギターを弾いた瞬間もあって驚かされたり。

とにかく、分母を広げるのか深めるのかみたいなところで試行錯誤していることを感じるライブだった。

 

今後、クルアンビンがどっちの方向に流れていくのかわからないし、案外ふつうのメロウグルーヴな路線に落ち着いていってさらに売れるとかの可能性もあるけど、どうなろうとも3人のミュージシャン力やキャラ立ちはかなりの強度があるので大丈夫でしょう。たのしみですね。

走るひきこもりが日本語カバーに救われた話

ただのバンドマンくずれの会社員であるハシノが、今のような書いたりしゃべったりという活動の場を得たのは、マキタスポーツさんのラジオ番組がきっかけ。

 

ラジオ日本「ラジオはたらくおじさん」という番組で「カバー曲特集」のオンエア時、リアルタイムでハッシュタグでつぶやきまくっていたら、「そんなに詳しいならゲストで出てみる?」と声をかけていただいたのです(それ以前にはお互いのバンドで何度か対バンしていた程度)。

 

そして気づけば「非常勤講師」という名の準レギュラーとして何度か番組に呼んでいただき、番組終了後もそのときの縁からLL教室が結成されて現在に至るというわけ。

そのときから今もずっと、ハシノにとって「洋楽の日本語カバー曲」はライフワークなのです。

 

 

じゃあそもそもなんで日本語カバーを掘ることにしたのか。

今日はいままでどこでもしてこなかった個人的な話をします。

 

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走るひきこもり

10年ぐらい前、ずっとやってたバンドが解散し、同じぐらいの時期になかば衝動的に仕事も辞めて、しばらく実家に戻っていた時期があって。結構いい年だったのに、この先どうやっていくのか白紙になったことがあった。
 
たまに求人サイトを見て履歴書を送ったりする以外は家にいても気まずいし、かといってそんな状態だと友だちにも会いたくなく、すべてが億劫になっていくのが自分でもはっきり自覚された。
 
これ近所の人からすると完全にいま話題の中年ひきこもり状態だったと思う。 
 
それでもとにかく時間はあって、親の車もあって、少しだけ貯金もあって、でも誰にも会いたくない。 なので、ひとりで車でひたすら出歩いていた。
 
たとえば古戦場やマイナーな戦国武将の城やお墓を巡ったり。意味なく和歌山の山奥の那智の滝を目指したり、帰りにさらに遠回りして落合博満野球記念館まで行ったけど夜中だったので前を通っただけみたいな、そんなことをひとりで毎日毎日繰り返して。
 
高速道路は使わず、ポッドキャスト時代の「東京ポッド許可局」やエレ片タマフルなんかを聴きながら近畿地方のあちこちを走り回っていた。
 
走るひきこもりだった。
 

暇つぶしとしてのディグ

そんな暇つぶしの一環として、リサイクルショップを巡ってレコードをディグる活動もあった。 
 
同好の士にはわかってもらえると思うけど、リサイクルショップにレコードがあるかどうかは運次第。2時間ぐらいかけてたどり着いたけど空振りでしたっていうのもザラで。
また運良くレコードを扱っていたとしても、どこにでもあるようなムード音楽とかクラシック全集みたいなハズレしか売ってないこともよくある。
 
それでも飽きもせずに毎日ひたすらいろんな土地を巡って、レコードを掘った。
 
郊外の国道沿いの巨大な倉庫みたいなリサイクルショップの片隅で、平日の昼間にいい大人が必死になってエサ箱をあさって1枚50円〜300円ぐらいのレコードを数十枚買ってく。
 
今にして思うと、砂漠でコンタクトレンズを拾うような、暇つぶしとしてはうってつけの活動に没頭することで、押しつぶされそうになる感じと戦っていたんだと思う。
 
リサイクルショップでレコードを掘る人種のアンセム

鶏の口

座右の銘なんていうと大層だけど、まあそれ的なものとして意識してる言葉があって。
「鶏口となるも牛後となるなかれ」というやつ。
 
牛の身体は大きいけどそんな牛の後ろのほうに位置するよりは、鶏のように小さくてもいいからトップになれって意味。大企業の下っ端でいるよりは起業して一国一城の主になれみたいな使われ方をすることが多い。
 
この言葉、別にサラリーマンの心意気だけじゃなく、人生のいろんな場面で適用できる。リサイクルショップでレコードを掘るときでさえ。
 
 
レコードコレクター道というものが、まあなんとなく存在していて。
ものすごい高値で取引されている貴重盤だったり、名盤とされているレコードだったり、そういうものを収集していくのが王道なんだけど。
そういう、すでに多くの人が取り組んでいるテーマに、今から参入するのはどうにも気持ちが乗らない。牛後っぽい。
 
それよりは、ものすごくニッチな分野でもいいからその道では日本一になるほうが鶏口っぽくていいなって。
それに何より、貴重盤や名盤はリサイクルショップではまずお目にかからないしな。
 
そこで選んだのが日本語カバーだったというわけ。
ひきこもりの暇つぶしに近い行為とはいえ、テーマやルールがあったほうがいいかなって。
 

日本語カバーを選んだ理由

日本語カバーって何?とか詳しいことはLL教室のnoteに書いたのでそちらを参照していただくとして、なんで日本語カバーを選んだかって話をします。

 
何より、幼少期から中学生までを過ごした80年代という時代は、日本語カバーの黄金時代だった。
 
ドラマの主題歌や歌番組で耳についた曲が実は洋楽の日本語カバーで、自分が知ってるバージョン以外に外国人が英語で歌ってる「原曲」があるっていう事実、小学生ぐらいの時分にとっては、何か裏事情にアクセスしたみたいなドキドキ感があった。
 
母親が家で流していたAMラジオの音楽番組とかでたまにそういう話題になって原曲がオンエアされたりして。
 
最初に原曲も聴いたのは、たぶん小林麻美「雨音はショパンの調べ」とか椎名恵「今夜はAngel」とかそのあたりだったと思う。それか「ジンギスカン」かな。
 
日本語カバー版を先に聴いた状態で原曲にも触れて、知ってる曲なのに知らない!みたいな、なんともいえない不思議な感覚になったことを覚えている。
 
その不思議な感覚の名残は、数十年たったいまも耳にかすかに残っていて、いまだに新しい日本語カバーを発掘するとドキドキしてしまう。
 

そしてLL教室へ

その後なんとか仕事も見つかり、家族にも恵まれ、おかげさんでぼちぼちやらせてもらってます。
 
ただ、この状態まで立て直せたのはほんとに運の要素が大きすぎるので、ひきこもり関係のニュースとかいまだに他人事とはまったく思えてないっす。
 
近所の人はもちろん、仲が良かった友だちや家族にすら、できるだけ顔をあわせたくないっていうあの感覚。世の中にどんどん背中を向けて閉じていくようなあの感覚。
たぶん、いまこの瞬間もあの感覚を味わってる人が数十万人単位で世の中に存在してるんだよな。
 
自分の場合は日本語カバーのレコードを掘るっていう行為に没頭できたおかげで、その状態をこじらせずに済んだような気がしてる。
いろんな会社に履歴書でハネられまくってても、折れずに求職を続けられたのは、明日はもっとヤバい日本語カバーが見つかるかもしれない!っていう前向きなメンタリティが保てたからなんじゃないか。
大げさじゃなくそう思ってます。
 
しかもそうやって暇な日々に地道に掘ったレコードたちがマキタさんのラジオで日の目を見て、リスナーの人にも伝わって。
 
別に具体的な見返りというか利益を求めてやっていた行動じゃないけど、何かニッチな分野で日本一を目指そうって漠然と考えたあの日の自分はグッジョブだと思う。
 
いちリスナーとしても大好きだった「はたおじ」は終わってしまったけど、そこでの出会いがきっかけでLL教室が結成され、イベントごとに日本語カバーを少しずつ紹介できたりしてる。
 
 
 
あ、そうそう。
今度そういうイベントやるんですよ。
時間が許す限り日本語カバーを紹介しまくるやつ。
 
よかったら遊びにきてください。
 
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LL教室presents『実習#1』
 
2019年7月12日(金)
新宿V-1
開場19:00 / 開演19:30
前売2500円 / 当日3000円
 
▼出演
4×4=16(落語×HIP HOP)
LL教室(日本語カバー曲特集)
MELODY KOGA(ピアノ弾き語り)
ナツノカモ(立体モノガタリ
 
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【大予言シリーズ】椎名林檎が次にコラボするのは誰?

最近、椎名林檎さんがコラボ活動を熱心にやられてますね。

 

 

目抜き通り(w/トータス松本

獣ゆく細道(w/宮本浩次

駆け落ち者(w/櫻井敦司

 

すでに発表されているこの3曲に加え、ニューアルバムには向井秀徳とのコラボ曲も入ってるそうな。

 

毎回「そうきたか」感と「さもありなん」感があってなかなかワクワクしているので、個人的には今後もぜひ続けてほしいなと思っています。

そこで、次はこの人とヤるんじゃないかっていうのを予想してみた。

 

「さもありなん」感強めの「本命」、「そうきたか」感強めの「対抗」、「ないとは思うけど夢あるね〜」な「穴」、「これが実現したら事件でしょ」な「大穴」と、思いつくままに挙げてみるとどれもこれも実現してほしいなっていうラインナップに。

 

そんなG1「林檎杯」の出走表とオッズはこちら!

 

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本命

ここは本気で当てにいきたい。読んでてつまらなくていい。当てにいく。

 

斉藤和義

https://i.kfs.io/playlist/global/59171870v23/fit/500x500.jpg

逆になんで今までなかったのかっていうぐらいしっくりくるのでは?

これまでに木村カエラシシド・カフカといった人たちとコラボ曲をやってるし、歌番組のなかではもっといろいろやってきてるし。

この人の独特の秘めたエロさみたいなところも、椎名林檎さんの好物なんじゃないかとも思う。

フォーク・ロックなイメージが強い最近の斉藤和義のイメージをあえて覆すかのように、ジャズやR&Bな曲をあてがってくるとまたおもしろいことになりそう。

オッズ1.2倍の大本命。

 

チバユウスケ

https://monkeyflip.co.jp/wp-content/uploads/2018/06/132665327_o8.jpg

これもMステの階段を2人で降りてくるところが容易に想像できるよね。

ある世代にとってはカリスマ的な存在だし、満を持して登場!って雰囲気がすごく出そう。

基本的にバンドでやってる人をシンガーとして引っ張り出してくることでのスペシャル感っていうことでは、BUCK-TICK櫻井やエレカシ宮本と同じ路線だし。

かといってまったくソロ活動をしないかというとそうでもなくて、過去にはスカパラの曲でフィーチャリングされてたりもする。あ、てことは椎名林檎とはスカパラ繋がりってことにもなるな。

オッズ3倍の本命。

 

対抗

「そうきたか」感が強めだけど決して無茶な話ではないっていう人たちを選んでみた。

 

デーモン閣下

http://www.townnews.co.jp/0110/images/20130226051340_166985.jpg

企画会議ですぐに名前が挙がるものの、いやそれはさすがに安直では?ってなって却下されるライン。

ただ一周してありっていう気もする。

もはや散々こすられて手垢がついてきた悪魔っていうギミックを、あえて全面に押し出したような曲を作ってくるぐらいのことはしそう。「悪魔とデュエットできるなんて光栄じゃありませんこと?」とか言って。

デーモン閣下は結構カバーアルバムとかいろいろ幅のある活動もしてるし、ヴォーカリストとして色んな面を見せたいっていう欲がある人だと思うし。

オッズ20倍。スポーツ紙があえて推すあたり。

 

岡村靖幸

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これはヤバい。いますぐやってほしい。

 

岡村氏といえばDAOKOとの「ステップアップLOVE」も最高だったじゃないですか。あの感じかそれ以上の、クセの強い同士のバチバチのコラボが見られるんじゃなかろうか。

「獣ゆく細道」での、椎名林檎が歌ってるパートでのエレカシ宮本のあのアクションすごかったでしょ、あのパートに岡村さんのあのダンスがハマるところを想像してみよ。これはもうすごすぎて笑っちゃうやつだ。

オッズ30倍。現実味とロマンがどっちもあるライン。全財産つぎ込みたい。

 

ここは個人的な願望もかなり入ってる。かといってまったくの夢物語ってわけでもないっていう。

 

横山剣

https://www.townnews.co.jp/0113/images/a000780843_01.jpg

ありそうでなさそうでなさそうかも。

剣さんも椎名林檎さんも、どちらかというと自分の世界に連れ込みたい気質の人なわけで、その掛け合わせが吉と出るか凶と出るか。

あとどちらも「昭和」のカルチャーへの思い入れがものすごく強いわけだけど、2人の昭和観が実は全然違ってたっていう可能性もあるしね。

「あの人もロックバンドやってるって言ってたから話が合うと思う」みたいな雑な感じで引き合わされた人がゴリゴリのV系で、全然話が盛り上がらなかったみたいなね。うわ~そっちのロックか〜っていう。そこが懸念点。

ただ、横山剣といえば渚ようこ野宮真貴などとのデュエット実績はあるし、うまくハマれば無敵なコラボになると思う。

オッズ50倍ぐらい。

 

ROLLY

https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/06/28/jpeg/G20140628008459760_view.jpg

椎名林檎さんともなると、「あんまりデュエットのイメージのないROLLYさんですが、92年にCharaさんと歌った「愛の自爆装置」っていう名曲がありまして、そのイメージでオファーさせていただきました」ってぐらいのことを言ってくれそう。

椎名林檎の一連のコラボ企画には、かつてものすごい輝きを発していた人にもう一度注目を集めてフックアップするような効果もあると思っていて。野村再生工場ならぬ林檎再生工場みたいな。

この人もミュージシャンとしてのポテンシャルはずっと一流なわけで、一貫したスタイルで音楽活動をしている中で、たまに世間の風向き次第で「笑っていいとも!」のレギュラーをやるような事態にもなったりしたということでしょ。

なので、もう一度そういう風が当たるとまたおもしろいことになるんじゃないかなと。

オッズ70倍。記念に100円でおさえておきたい馬券。

 

 

大穴

ASKA

https://cdnx.natalie.mu/media/pp/static/music/aska/Fu2wVEvm/photo02s.jpg

例の件ですっかりヤバい人枠になってしまったASKA

しかし実は音楽活動は再開しており、今年4月には武道館でのライブも行っている。すっかりアーティストとして現役バリバリに仕上がってきてるみたい。今までやってこなかったことにも挑戦したいっていう意欲もありそうだし、誘ったらOKしてくれるんじゃないだろうか。

福岡つながりっていうこともあるし。

毎年別の男と紅白に出てる椎名林檎、今年はASKAと一緒にってなると話題性抜群であろう。

オッズ100倍の万馬券だけどロマンのある馬券。

 

沢田研二

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これまでのコラボ相手は椎名林檎にとってはちょっと上の世代だったわけだけど、ここらで大ベテランに声をかけてみるっていう展開もあるんじゃないか。

かといって、加山雄三とかだと若手と組んでくれる人っていうイメージがもう定着しており、林檎再生工場のおもしろみはない。

 

そこでジュリーですよ。

 

お茶の間やネット的には、例のワイドショーネタで騒がれた昔の歌手の人でしょっていうぐらいの認知になってしまっている状態。ジュリー本人も今さら自分から頭を下げてテレビ界に出させてもらうつもりもその必要もない。

そこで林檎さんが三顧の礼でジュリーを口説き落とし、そしてこのために書き下ろした新曲を通じて、往年のジュリーを知らない世間に対してこの人はこんなにすごいんだよって見せつけるっていう。最高の展開じゃないですかね、これ。

この十万馬券には賭けてみたくなるっていうもの。

 

最後に

今回は書いてて楽しさしかなかったです。

そして、あながち無茶な話でもないなっていうギリギリのラインを突くことができたかなとも思ってる。

要するにこういうの考えるの大好きなんよね。

 

 

 

椎名林檎が次にコラボするのは誰なのか?みんなも予想してみて!

ベンジー以外で!

書評:「コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史」矢野 利裕

現役の教師にしてDJ、そして文芸批評の論客でもある矢野利裕くんの新刊「コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史」が出ましたね。

矢野くんとは一緒にLL教室という音楽批評ユニットをやっている仲でもありちょっと気恥ずかしいんだけど、できるだけ多くの人に読んでほしい本なので、詳しく紹介してみます。

コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史 (ele-king books)

コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史 (ele-king books)

 

どんな本かというと

本書は明治から平成までの日本のコミックソングノベルティソング)の流れを追ったものなんだけど、単なるディスクガイドではない。

 

日本のポピュラー音楽の歴史を見ていくにあたってなぜコミックソングが重要なのか、なぜ新しい音楽はいつも「おかしい」のか、そういったことが100年以上の歴史を追いながらわかるようになっている意欲作なのです。

 

ビートルズあたりから始まった、アーティストの自意識が重視される英米のロックを中心とした従来の歴史観ではなく、もっと多様で無意識で匿名的で雑多な音楽もちゃんと視野に入れるべきだろうという問題提起が込められていたり、さらには、J-POPというジャンルそのものがノベルティソングなのではないかという大瀧詠一が遺した大きなテーマを受け継いでいる本でもある。

  

また、本書はこれまでに様々な媒体やLL教室のイベントなどで語られてきた、矢野くんのポップミュージックや市井のリスナーに対する信頼というか愛というか、そういった目線で全体が貫かれていることも大きな特徴のひとつ。

 

流行歌を子どもがおバカな替え歌にして軽薄に歌い継いでいくことや、まだ世間になじみのない新しい音楽スタイルを歌手とバンドがおもしろおかしく歌い演奏することを、それこそが音楽が広まっていく姿として一般的であると位置づけているのである。

その価値観でもって、川上音二郎からエノケンクレイジーキャッツから美空ひばりからRADIO FISHやピコ太郎までが語られていく。

  

これらは一般的な音楽誌やメディアでの音楽の語られ方とは異なっていたりもするので、新鮮に感じる人も多いかもしれない。

ひとことでいうと、その楽曲でアーティストが何を表現したかったか、ではなく、その楽曲が世間にどうとらえられたか、を考えるというスタンスね。

 

気になった方はさらに文末に挙げられている参考文献をディグるとよいでしょう。

下記は特にわたくしからも激レコメンであります。

 

 

新奇なロックンロールとスパイダース

本書では、新しい音楽ジャンルとコミックソングの関係をこのように表現している。

 

大事なことは、新しい音楽は笑いとともにやってくる、ということだ。聴衆の目(耳)を引く新しい音楽は、滑稽さと違和感をはらんでいる。(略)

新しいリズムは芸能の場所で、好奇の目にさらされ、笑われ、マネされることによって、次なる時代に根づいていく。すぐれたコミックソングはなにより、日本のポピュラー音楽における新しさの体現でもある。

 

このあたりを読んで自分がまっさきに思ったのは、ザ・スパイダースのこと。

 

 

言わずとしれた、日本における最初期のロックバンド。

マチャアキと井上順というタレント性の高い2人のフロントマン、ムッシュかまやつというアンテナの高いアーティスト、大野克夫井上堯之といった職人ミュージシャンが揃っていたんだからすごい。さらには田邊昭知というのちに芸能界のドン的な存在になる人がリーダーっていう。

 

スパイダースは、まだビートルズがリアルタイムで活動していた1960年代中盤、ほぼ同時に日本人のオリジナルのロックンロールを自作自演(大作家先生の作品もあるけど)で演奏していたバンドなのです。

まだロックという音楽が海外においても若いジャンルで、スタイルや技術も固まっていないような時期に、見よう見まねでとにかくやってみるというイズムでいろんな曲を生み出していたわけで、ものすごいベンチャー精神だと思うし、また実際に生み出された作品もかっちょいい。

 

で、本書でも言及されているように、スパイダースがやっていたことはものすごく新しかったし、だからこそ珍しく、そしてコミックソングの領域に入ってくる。

つまりロックンロールの新奇さを、かっこよく、同時に笑いをまぶして伝えたバンドなんだと思います。

 

たとえば、「恋のドクター」「バンバンバン」「なればいい」といった曲にあらわれるムッシュかまやつのおかしみがにじみ出る言語感覚。

「エレクトリックおばあちゃん」などの曲でのマチャアキのデタラメなスキャットみたいなやつ。

「ロックンロールボーイ」における、キーボードソロでの「克夫ちゃん!」のかけ声。

www.youtube.com

 

スパイダースって、芸能人一家とかの、港区界隈の超ハイソな遊び人の集まりなわけで。1ドル360円の時代に海外を行き来するレーサーの友人がいたような、そんな超イケてる人たち。


まだ日本人の99.999%がロックバンドというものを知らないときに、スパイダースはイノベーターとして、カッコよさと同じぐらいおかしさを重視していたということ。

これは決してたまたまじゃないと思ってる。

 

すべてのJ-POPは‥

ロックンロールにおけるザ・スパイダースのように、日本ではあらゆる新ジャンルの黎明期にこういう存在がいたんじゃないかと思われる。

ごく少数の話のわかってる人で形成されたインディーなシーンの中では問題ないが、それ以上の規模になろうとするとき、どうしても話の通じないお茶の間と対峙するタイミングが出てくる。

キャズム」を超えて世間に広まっていくということはそういうことで。

 

キャズムのあっち側とこっち側の落差が大きければ大きいほど、新奇さが笑いにつながる。

今だとヒップホップ的なファッションや言動は、そのシーンの外にいる人からするとまだまだ新奇なものなので、お笑い芸人のネタにされやすい。

 

それが少なからぬ誤解のうえで成立しているとは言え、一発芸のネタでもなんでも、芸人・コメディアンはしばしば、ヒップホップの振る舞いをネタにする。

それは、日本におけるヒップホップが、そもそもノベルティソング性を抱えているからである。

 

これはヒップホップに限らず、これまでにもいろんな音楽ジャンルが紹介されるたびに起こってきたことである。

 

たとえばヘヴィメタルという新奇なジャンルを代表するX(X JAPAN)がお茶の間に出会った瞬間。

インディーズでパンクが大きなシーンになり、ついにブルーハーツがテレビの歌番組に登場したとき。

ハウスやインディーダンスといった海外の流行がある程度入ってきたタイミングで電気グルーヴが騒がしく登場したとき。

 

ここ最近でいうと、デスメタルのボーカルススタイルである「デス声」ね。これはキャズムを超えそうで超えないところにあるので笑いにつなげやすい新奇さがある。

 

そう。本書での矢野くんの説に依拠すると、なんとこれらもすべてノベルティソングということになる。

そして、この国では大衆音楽は常に英米から新しいスタイルを輸入して作られているということでいうと、「すべてのJ-POPはパクリである」し、「すべてのJ-POPはノベルティソングである」と言っても過言ではない。

 

もちろん、これはバカにして言ってるのではない。すべてのJ-POPがノベルティソングだったからといって、J-POPの価値は少しも落ちない。

 

軽薄ないじり

ある曲やアーティストが「売れた」かどうかの基準として自分が思っているのが、つくり手の意図を離れて軽薄に流通するようになったら一線を超えたなということ。

 

たとえ数百万枚の売り上げを誇っていても、それがすべて熱心な信者によるものだったら、その曲は世間には届かないし、替え歌にはならない。

 

しかし、たとえオリコンチャートの上位に入らなくても、そのへんの小学生が替え歌にしていたり、飲み会の席でイジるためのワードとして引用されたり、SNS大喜利のネタにされたりする曲がある。これが「売れた」状態だと思ってる。


それは「東京生まれヒップホップ育ち」であり、「ドラゲナイ」であり、「前前前世」であり。

その曲に何の思い入れもない人たちの耳に届いたからこそ、軽薄な替え歌やイジりが発生するわけで、飛距離を稼げば稼ぐほどその傾向は強まる。

 

その意味でいうと「もうgoodnight」大喜利が発生したサチモスは一線を超えて売れたんだと思いますが、最新作などを聴いてると、また線の内側に引っ込んだような印象もある。まるで、売れすぎないようにコントロールしているかのよう。

 

本書で矢野くんは繰り返し、音楽がアーティストの手を離れて軽薄に世間に流布していくさまを、愛しいものであると表現している。

さっき自分が使った言い方でいうと、その楽曲でアーティストが何を表現したかったか、ではなく、その楽曲が世間にどうとらえられたか。そっち側からも音楽を見つめてみることで、聴き慣れた音楽にもこれまでとは違った味わいが出てくるのではないだろうか。

 

次回作に期待したいこと

あとがきでも触れられていたりツイートでも語られてたように、コミックソングノベルティソング)のことを一冊にまとめるにあたって、抜け落ちた要素は多い。

 

とはいえ、単なるコミックソングのディスクガイドにしなかったところが矢野利裕の面目躍如って感じがする。つまり、ある一定の骨格でもって歴史を貫いてみるっていうやり方。「ジャニーズと日本」でもそうだった。

なので、もし本書の続編が書かれることになったとして、漏れた観点を拾い集めてもそれだけでは一冊にはならないであろう。

 

であれば、今回の背骨とはまた違うところに背骨を貫いてみたような矢野史観を期待したいと思う。


たとえばそれは、音楽と笑いが交差する「場所」という観点。
具体的には「お座敷」と「ダンスホール」と「路上」みたいな、場所によって音楽と笑い、ときには踊りが交差するかたちが違ってくるんじゃないかしら、とかね。

 

とくに「お座敷」はね、かつてはコミックソングの揺籃の地として圧倒的な地位を占めていたわけで。現在はキャバクラやホストクラブに姿を変えてるんだとしたら、五月みどりからゴールデンボンバーへ繋がる流れが見えてきたりするのかもしれないなとか。

 

みんなも読もう

やばい。

書評とか言いながら、本書に触発されてわいてきた自説の開陳に終始してしまった。

 

でもさ、いい本って読むと触発されて自分の考えがクリアになったり新たな疑問がわいたりと、脳が忙しくなる感じになるじゃないですか。

今まさにそういう脳の状態です。

 

みんなもぜひ読もう。

 

コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史 (ele-king books)

コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史 (ele-king books)

 

リテンションモデル化する音楽業界

今日は本職である会社員の側で得た知見を音楽ブログのほうに持ち込むこころみです。

ちゃんと途中で話がつながってくるので、とりあえず読みすすめてもらいたい。

 

リテンション・マーケティングとは

マーケティングの世界でここ数年流行ってる「リテンション・マーケティング」という概念。

ざっくりいうと、新しいお客さんを相手に商売をするよりも、既存のお客さんとの商売を深めたほうがいいよっていう話。

 

リテンション・マーケティングとは - コトバンク

 

たとえば携帯電話のキャリアは、他社から乗り換えてくる新規のお客さんに手厚くサービスしてくれる一方で、既存のお客さんには特になにもしないっていうのがこれまで当たり前だったんだけど、それだと愛想を尽かして出ていく既存よりも多く新規を獲得し続けないと実はビジネスモデルが成立しない。

今までのやり方が、穴の空いたバケツにとにかく大量の水を注ぎ続けるやり方だったとしたら、そうではなく、まずは穴をふさぐ努力をしたほうが、結果的にバケツに残る水の量(=お客さんの総数)は多くなるっていうね。

https://jp.images-monotaro.com/Monotaro3/pi/full/mono62971764-170630-02.jpg

13L スチール製バケツ【通販モノタロウ】

 

バケツに水を注ぐっていうのは、数億円かけてCMをうって、とか、はじめてのお客様限定キャンペーンで100万円が100人に!とか、そういうやつ。

そうやってガンガンやったら10万人ぐらいが新規会員登録してくれたとする。

でも、次の月には10万人のうち9万人がいなくなっていたとしたら、1億円かけて1万人しか定着させられなかったということになる。つまり1億÷1万人で1人獲得するために1万円もかかってしまったと。

 

そういう雑なやり方じゃなく、1ヶ月で9割がいなくなる原因を調べて、そこを改善することをまずやりなさいと。たとえば登録だけしてログインやサービス利用をしないユーザーに対して、割引クーポンを配ったり、使い方をレクチャーしたり。そうすることで1万人しか残らなかったのが2万人になったら、1人獲得するために必要なコストが半額になるわけです。

 

このリテンション・マーケティングっていう考え方が流行ってきたのは、最近いろんなサービスがサブスクリプション化してきたことが大きい。

自宅で映画を観るために、かつてはTSUTAYAでDVDを1枚300円で借りていたのが、Netflixに毎月950円払っておけば何本でも見放題っていう時代になったじゃないですか。最近ではラーメン屋やコーヒー店でも月額いくらか払えば飲み食いし放題になるっていう業態も出てきているっていうし。

こういうサブスクなサービスにおいては、企業としてはいかに長く継続してもらうかが勝負になってくる。商売のやり方がこれまでとは変わってきますよね、ってこと。

 

音楽業界でも

音楽業界においても、AppleMusicやSpotifyが上陸して数年のうちに、サブスクがすっかり中心になってしまった。

 

2018年の時点ですでにダウンロードよりもサブスクなどのストリーミングのほうが売上がデカくなっているらしい。

 

リスナーからしたら、お小遣いを貯めに貯めてやっとの思いで3,000円のアルバムを1枚だけ買っていた時代と比べると、一生かかっても聴き尽くせないカタログの中からほとんどタダみたいな値段でいくらでも聴けてしまう現代はもう天国かそれ以上って感じではある。

(あとは願わくば、音楽のつくり手の側に、これまで以上かせめて同等の収入が入るような構造になっていてほしいよねとは思ってる)

 

物理的に所有していたいという一部リスナーの思いはアナログレコードの復権というかたちで実現してるし、サブスク化の流れはもう止められないでしょう。

 

そうなると、商売としてはやっぱり、リテンションを意識したやり方になっていくのは必然かなと思う。

 

かつてのレコード会社の商売のやり方

レコードやCDといった音楽ソフトを売るという商売においては、かつては購入してもらうまでが勝負だった。

 

かっこいい広告、雑誌のインタビュー、プロモーション文脈でのライブ、これらはすべて、たった一点のゴールにむけた活動だった。

そのゴールというのは、レコードなりCDを購入してもらうこと。

レコード会社にとっては、お金が落ちるのはその瞬間。

それが最初で最後で最大の瞬間だった。

 

極端な話、たとえ次のリリースのときにファンが入れ替わっていても問題ない。

というか、ポピュラー音楽ってそもそも10代の若者のものだし、新曲が出る頃には「卒業」してるでしょぐらいの感じで商売をやっていた気配すらある。

 

そして、芸能界において流行歌手でいられる賞味期限もめっちゃ短かった。

一部の大スターを除き、歌手本人のパーソナリティが明らかになることもなかった。歌番組に出演した際に黒柳徹子に多少つっこまれるぐらいしか機会がなかった。

 

そう、その時代においてリスナーは単発の「歌」を消費してたんだと思う。

消費のサイクルに取り込まれたくない人たちは、テレビに出ないという選択をすることで、自分たちで時間軸をコントロールしようとしていたんだと思う。山下達郎とかそういう人たち。

 

サブスク時代の商売のやり方

一方、サブスク時代になると、レコード会社やアーティストにとって、収入は常に発生し続けていることになった。どこかのリスナーがAppleMusicやSpotifyで曲を再生するごとに、ごくわずかな金額が発生する。

一回の額はわずかでも、とにかく回数が多いし、また世界中からかき集めたらそれなりの規模になる。そういう商売に変わったのです。

 

となると、商売において意識するところは必然的にだいぶ変わってくる。

 

楽曲を手に入れるコストは限りなくゼロに近づいてるわけで、かつてはゴールだった楽曲の購入っていう瞬間が、いまはスタート地点でしかない。

あとは何回その曲を再生してもらえるか、アーティストとしてフォローしてもらって過去作や次回作まで聴いてもらえるか、それによって儲けが全然違ってくる。

 

平成元年、ラジオで聴いた曲が気に入った高校生はレコード屋でシングルCDを購入したとする。その曲にハマりまくろうがすぐに飽きようが、レコード会社にとっては1,000円の売上という点で同じ。

だけど、令和元年の高校生はラジオで聴いた曲をLINE MUSICで検索してお気に入りに入れたとする。この時点ではレコード会社には1銭も入ってない。その曲を折に触れて再生してくれてはじめて、累計で数十円なり数百円の売上が発生する。逆に結局1回しか聴かなかったわ、ってなったら売上は0.2円。

 

この差はデカいよね。

 

レコード会社の会議とかで使われる数字として、「ユーザー1人あたりの再生回数」っていう概念がもうそろそろ言われ始めるような気がする。

いや、もう言われてるかもしれない。

 

その数字を上げるためにどんなことができるのか。

 

キーワードは「フック」と「スルメ」

リテンション・マーケティングとしての音楽においては、楽曲の内容もとても重要。いや、そりゃもちろんいつの時代もいい曲は売れるんだけど、あるタイプの「いい曲」が成功(=メイクマネー)しやすくなると思う。

 

繰り返しになりますが、買い切りモデルの場合、売ったあとのことは基本的にお客の側の問題で1回しか聴かなかろうが1万回聴こうがアーティストの収入は同じだけど、サブスクにおいては再生1回と1万回では収入が1万倍違ってくる。売ったあとこそがキモ。


どういうことかというと、Youtubeで1回再生したときがピークっていうような曲しかつくれないアーティストは淘汰されていく。

いわゆるスルメ曲のほうが金になる。

 

ただしその一方で、1回の再生でよくわかんねーなって思われたらそれはそれでダメだろう。

昔の聴き手は1回聴いてピンとこなかったとしても、すでに1,000円ぐらいのまとまった金を払っている手前、もとを取るために何度か繰り返して聴いてくれた。

 

今はそれが通用しない。30秒ぐらい再生してピンとこなかった曲には、もう二度とチャンスは巡ってこない。なにせ一生かかっても聴き尽くせないカタログがサブスク上にあるわけで、代わりはいくらでもいる。

 

つまり、最初からある程度ピンとくるようなフックと、何度も聴きたくなるようなスルメ感の両方を兼ね備えた楽曲が生き延びる。

オリコンでは目立ってないサブスク独自の売れた曲、あいみょんとかは、それができていたってことでありましょう。

 

歌ではなく人をフォローしていく時代

流行歌っていう言葉があった時代が歌を消費していたんだとしたら、今は人をフォローしていく時代。

 

リリースされた楽曲を手にするところから始まる、アーティストとリスナーの関係性は、SNSでのアーティスト本人からの発信、フェスなどで生ライブに触れる、TikTokなどでの2次創作、といったかたちで強化されていく。

 

リスナーが楽曲を手に入れるコストはほとんどゼロなんだけど、そこからサブスクでの再生数、ライブ、グッズ、などなど細く長くお金を落としてもらうビジネスモデルになっていくしかない。

どれだけ途中で脱落させずに1人でも多くリテンションさせるかが勝負なので、アーティスト側にはマメであることが求められる。そういうの向き不向きあるだろうけど、まあ今はそういう時代。

 

一方、逆に一発大ヒットを狙う必要はないと言うこともできるんじゃないか。

 

最初の方で言ったように、新規開拓よりもリテンションのほうが低コストなわけで。

 

リテンションが成功して忠誠心が高まったファンは昔よりも卒業しなくなってる。

昔と比べてアイドルやバンドの寿命が長くなったとよく言われますが、これ、いろんな要因があるとは思うけどビジネスモデルの転換によるところがかなり大きいのではないだろうか。ファンが卒業しないので長く商売ができるようになったんじゃないかと。

 

これからの時代に成功するアーティスト

大ヒットよりもマメに活動してファンの心を掴み続ける。

一度つかまえたファンはできるだけ卒業させないように何十年でも引き止める(リテンション)。

これが、リテンション・マーケティングの時代のアーティストに必要な素養。


そう考えると、リテンションモデルの偉大な先駆者の存在に気づく。

 

 

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そう、ジ・アルフィーである。

 

彼らはレコードの時代からずっと、地道にリテンション・マーケティングをやり続けてきた。全国津々浦々を丁寧にツアーで巡り、ファンとの絆を大事にして物販にも力を入れ。

国民的ヒット曲はもう何十年も出していないけど、アル中アルフィー中毒の略)と呼ばれるファンはみな忠誠心が高く、40年ぐらいずっと脱落せずにリテンションし続けている。

今こそこのやり方を日本中が見習うときがきているのではないだろうか。

 

 

リテンションモデルは買い切りモデルと比べ、より顧客中心になるとされている。

 

ここで音楽はどこまでビジネスか、アーティストはどこまで商人か、という命題にぶち当たる。

リスナー側に降りていって、ほしいものを与えるだけで本当にいいのか。誰にも媚びずに創作意欲のおもむくままに作品をつくって、結果としてリスナーが熱狂するっていうあり方が本来ではないのか。アーティストはその名の通り芸術家なんだ、商人じゃないんだ、とか。

ものをつくってる人間なら一度はこういうことを考え込んだことがあるでしょう。

そしてほとんどの創作者にとっては、どちらの極にも振り切ることが難しく、どうにか折り合いをつけながらやっているのではないか。

 

その点アルフィーは明快。

徹底した顧客中心主義を貫いてきたことで先駆者になれたんだと思う。

 

愛のままにわがままに僕は平成のJ-POPベスト10枚を選びました後編(2002〜2019)

いよいよ平成も終わりということで、この機会に平成のベスト10枚を選んでいます。 

こちらに続き、今回は後編。

 

あ、どれだけ売れたかとかどれだけシーンへの影響力があったかとか、そういうのは一旦すべて度外視して、個人史的にインパクトがデカかった10枚を、できるだけ30年間からまんべんなくセレクトするという趣旨でやってるよ。

  

あと年号の変わり目でひとくくりに語るのはナンセンスってのは百も承知ですが、たまたま平成元年は「J-POP」という言葉が生まれた時期でもあったわけで、またこの30年間で日本人の音楽との付き合い方が大きく変化したということもあり、平成のJ-POPについて考えることにはそこそこ意義があるはずって思ってやってます。

 

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Crazy Ken Bandグランツーリズモ』(2002年)

グランツーリズモ

グランツーリズモ

 

もともと歌謡曲が子供の頃から好きで。

特に1960年代後半から70年代前半に特有の、つまりグループサウンズや和製R&Bな人たちの、コクがある歌いっぷりやキレッキレのリズム隊だったりが大好物。

ただ自分がそういう音が好きっていうことは、10代を通じてあまり誰とも共有せずにきた。それよりもリアルタイムの英米の音楽シーンを追っかけるほうが楽しかった。

 

ところが90年代中頃に、そういった歌謡曲を「和モノ」とかいう呼称で再評価するムーブメントが若い世代で起こる。

過去の音楽を文脈から切り離してサンプリングするっていうノリが「渋谷系」の精神だとよく言われるけど、その参照元として、昭和歌謡は実はかなりのウェイトを占めていたと考えてる。

たとえばピチカート・ファイヴ小沢健二かせきさいだぁスカパラといった人たちには特に色濃く感じるし、その周辺でいうと、サニーデイ・サービスゆらゆら帝国デキシード・ザ・エモンズ東京パノラママンボボーイズなど、和モノ界隈との距離が近い人たちがたくさんいた。

 

クレイジー・ケン・バンドを初めて知ったのは、小西康陽がプロデュースしてるっていうことや幻の名盤解放同盟の人たちがめっちゃ推してるっていうところから。

 

いわゆる昭和歌謡の世界を、サウンドはもちろん精神の面からも再現しようとしてて、しかもそこには清水アキラ淡谷のり子を歌うときのような、リスペクトと批評が絡み合った独特の愛情表現になってて。

すぐに夢中になった。

 

このアルバムは、2002年リリースのメジャー流通第1弾。

ただの時間が止まったおやじバンドではなく、たとえば「夜の境界線」という曲ではスヌープ・ドッグを引用していたりと、フレッシュさと老獪さの両方を高いレベルで持ち合わせてるのがほんと唯一無二だなって。

 

やむにやまれず初期衝動に駆られて生まれた作品や、若くしていろいろ整いまくってる早熟の天才もすごいと思うけど、いい年になっても粘り強く表現し続けてる人や、やりたいことをやれるための環境を整えるのに数十年かかってやっと出てきたような人にむしろシンパシーを感じてしまうんですよ。こういうのなんて言うんだろう、初期衝動の逆のやつ。中年のしつこさの美学。

 

Perfume『Complete Best』

Perfume 〜Complete Best〜 (DVD付)

Perfume 〜Complete Best〜 (DVD付)

 

今や紅白歌合戦の常連であり、海外でもコーチェラ・フェスティバルに出演するなど、日本の先端テクノロジーな面を一手に背負ってるぐらいの存在になってしまってる感もあるPerfume

 

しかしみんなご存じの通り、Perfumeはかつて広島の売れないローカルアイドルだった。

爆風スランプパッパラー河合プロデュースでいかにもローティーンのアイドル然とした楽曲を何曲かリリースしたものの売れず、路線変更して仕切り直すべくプロデューサーとして選ばれたのが、今をときめく中田ヤスタカ大先生だった。

最初はかわいらしいテクノポップ路線からはじまり、徐々にゴリゴリのエレクトロなダンスミュージックにシフトして「ポリリズム」あたりでブレイクしていくんだけど、このアルバムが出たのはそんなブレイク前夜にあたる。

 

だいたい、デビューアルバムなのに『Complete Best』ってどういうこと?って話でしょう。

これ、中田ヤスタカ路線でも思ったような成果が出なかったので、アルバムを出したら店じまいするつもりだったのではないか、だからベストなんてタイトルだったんじゃないかと、まことしやかに言われてるよね。真相はわかりませんが。

 

そんな時期に、友人からPerfumeっていうアイドルがすごいって激推しされて。

聴いてみたらたしかに!ってなって、ライブにも通うようになったのだった。

 

ポリリズム」が出た頃でもまだ都内のライブハウス規模でライブを見られたし、持ち曲が少なかったのでパッパラー河合時代の「彼氏募集中」なんて曲もふつうにやってた。お客さんも、つわものアイドルオタク、音楽業界や広告業界っぽい大人、大学生ぐらいのおしゃれ女子といった層が混在していてなかなかにカオス。

ただ間違いなく言えるのは、当時のPerfume現場の客席で支配的だったのは、昔から支えていたオタクたちの空気。つまりPerfumeはブレイクしてからもしばらくは色濃くアイドルだった。具体的にいうと武道館ぐらいまではアイドルだった。

 

当時はAKB48も立ち上がったばかりの時期で、のちにアイドル産業がここまで盛り上がるなんて予想してなかったけど、その初期にPerfumeがいたことって、その後のアイドル界のありかたにけっこう影響を与えてるんじゃないかな。

たとえばPerfumeがいなかったら、アイドル現場における女性ファンの比率がここまで高かっただろうか、とか、楽曲のクオリティやエッジ感はここまでだっただろうか、とか。

 

でんぱ組.inc『World Wide Dempa』

WORLD WIDE DEMPA 通常盤

WORLD WIDE DEMPA 通常盤

 

というわけで、Perfumeが切り開いた、エッジな音楽性のアイドルっていう路線は、ももいろクローバー、さらにでんぱ組.incに繋がったと思っています。

 

秋葉原のディアステージっていうメイドカフェを母体に結成されたでんぱ組.incは、いわゆる萌えカルチャーを体現する存在として登場した。楽曲も、畑亜貴小池雅也といったそっち系ど真ん中の作家が手がけていた。

 

ただ、プロデューサーのもふくちゃんという人の感性のおかげで、かせきさいだぁ&木暮晋也に曲をオファーしたり、ビースティーボーイズっていう米ヒップホップグループの90年代の曲をカバーしたり、小沢健二の曲をヒャダインのプロデュースでカバーしたり、主催イベントに灰野敬二っていうノイズ・ミュージック界の大御所を呼んだり、メンバーの人間関係がギクシャクしてるさまを赤裸々に曲にしたりと、特定のジャンルにおさまらないことをいっぱい仕掛けていく。

しかもそれがいちいちセンスよくて、Perfumeももクロなどでエッジのたったアイドルの魅力に気づいた人たちがでんぱ組に一気に流れるということがあった。2012年頃。

 

わたくしも上記のような振れ幅にすっかりやられてしまい、ねむ推しとして現場に通うようになっていたのだった。そのあたり詳しくはこちらを参照。

『World Wide Dempa』っていうアルバムは、グループにとってはセカンドアルバムだけど、メンバーが固まって6人体制になって最初のアルバムでもある。

畑亜貴小池雅也かせきさいだぁ&木暮晋也、前山田健一といった豪華作家陣がそれぞれの持ち味を発揮しまくり、さらには玉屋2060%っていう新たな才能を起用して大当たりし、つまり収録曲のほとんどが代表曲になっている最強の一枚。

 

民謡クルセイダーズ『Echos Of Japan』

エコーズ・オブ・ジャパン

エコーズ・オブ・ジャパン

 

日本古来の民謡を、ラテンを中心としたグローバルな音楽性でアレンジして演奏するバンドのデビューアルバム。

「炭坑節」とか「会津磐梯山」とかの、日本人なら誰もが知ってる、しかしほとんどの人にとってはおじいちゃんおばあちゃんのカルチャーだと思われてる民謡が、めちゃめちゃフレッシュに蘇ってる。

 

もともとラテン音楽は大好物だし、河内音頭江州音頭のような地元の民謡も好きだった自分のような人間にとって、民謡クルセイダーズはよくぞ出てきてくれた!ってな俺得なバンドなのです。

 

しかも、ここがすごく重要なことなんだけど、ラテンに料理するセンスがずば抜けてる。

ラテン音楽って一口に言っても、街のサルサ教室のそれもだし、街角で「コンドルは飛んでいく」を演奏するおじさんバンドのそれもだし、いろいろある。

その中で、クンビアだったりブーガルーだったりといった、欧米のおしゃれレーベルがアナログで再発するような、そして気の利いたクラブでDJがかけるような、そのあたりの路線を選ぶセンスですよ。

その上、肝心の歌が民謡としてへたっぴだったら元も子もないし、頭でっかちなだけで演奏がしょぼくてもまた台無しなんだけど、そのあたりも実にちゃんとしてて、すばらしい。

 

われわれ日本人って、明治以降は西洋の音楽に完全にかぶれてしまってて、伝統的な民族音楽を日常から消し去って100年以上たってるわけだけど、そんな状況に違和感だったりもったいなさを感じる人たちっていうのは常に一定数いると思う。

 

だけどだいたいは長渕剛のように、日本の誇りについて考え続け、西洋のモノマネだけでいいのかって問題意識を持ってはいても、結局出してる音は日本の伝統的なものとは切断されてるってパターンが多い。

 

なかには、西洋の音楽に日本の伝統を接続して日本人のオリジナルの音楽をつくろうという試みに取り組む人たちもいる。古くはスパイダースの「越天楽ゴーゴー」とか岡林信康の「エンヤートット」とかね。

ただ、それも多くの場合あまりうまくかなかったり長続きしなかったり(沖縄は例外として)。ある程度のポピュラリティを獲得するケースもあるけど、音楽的な深みはなかったりする。たとえば、よさこいソーラン的なやつ。

ましてや世界の音楽好きを驚かせるようなことは過去に例がなかった。

 

民謡クルセイダーズは、これまで多くの日本のミュージシャンができなかったことを成し遂げるかもしれない。

そう、民クルは世界中でじわじわ評価されはじめてる。おそらく今後もっと評価されるし、来年あたりヨーロッパツアーをやって一大ムーブメントになっても全然驚かない。

 

 

 

90年代に映画『アンダーグラウンド』のサントラをきっかけにヨーロッパでジプシー音楽がめっちゃ流行ったぐらいの規模で、2020年に民謡ブームが起こっても不思議じゃない。そしたら浮世絵のときと同じ経路で日本人が民謡を再発見することにもなるであろう。

 

cero『POLY LIFE MULTI SOUL』

POLY LIFE MULTI SOUL (通常盤)

POLY LIFE MULTI SOUL (通常盤)

 

言わずとしれた、2010年代の日本を代表するカッコいいバンド。

ここ最近のいわゆる新しい「シティポップ」と呼ばれるような若手バンドたちの筆頭のように位置づけられることも多いんだけど、本人たちは特定のジャンルにとどまることなく勝手にどんどん進化しつづけてってるのがすごい。

 

前作『Obscure Ride』では黒人音楽に接近し、特にディアンジェロ的なわざとズラしたようなリズムを取り入れるなど日本では他の追随を許さない感じになってきていたcero。このアルバムも大好きだった。

なんと稲垣吾郎のフックアップにより「SMAP×SMAP」でSMAPと共演したりも。

 

で、そのまま世界水準の新しいソウル・ミュージックをどんどんやってくれてもよかったんだけど、3年ぶりにリリースされた『POLY LIFE MULTI SOUL』では、まったく新しいところに挑戦しており、きっちり度肝を抜かれてしまった。

 

今回は、変拍子ありアフリカ的な細かいビートあり、今どきのジャズの感じとかにもかなり接近してる。まあとにかく、あまり聴きなじみのないつくりの音。ひとつひとつの楽器のフレーズに耳をすますと、変なタイミングで鳴らしてるやつがあったりする。すごく気になる。

なんだけど、めちゃめちゃ踊れる。

でまたライブは特にすごいことになってるし。

 

60年代からの日本のロックやポップ音楽にはいくつかの系譜があると思ってて、ムッシュかまやつのラインとか大滝詠一のラインとか井上陽水のラインとか。で、細野晴臣のラインってあるじゃないですか。

ceroは間違いなくそのラインの正統な後継者であり、しかも先人の縮小コピーじゃなくてむしろ発展させてる感じがある。

 

長いこと音楽を聴いてると、このバンドと同じ時代を過ごせてることがうれしくてしょうがないことってあるじゃないですか。または、後追いで好きになったバンドについて、リアルタイム世代の話がうらやましくてしょうがないこととか。

たとえば1963年から69年のビートルズを同時代で体験したのとか、死ぬほどうらやましいじゃないですか。

 

ceroに関しては、結構それに近い感覚をもっていて。

毎回新しいことに手を出しつつどんどんヤバみを増していくバンドをリアルタイムで追えるよろこび。

30年後の若者たちをめっちゃうらやましがらせる現象を、われわれはリアルタイムで体験しているのだと思ってます。ありがたい話です。

 

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以上、わたくしハシノが愛のままにわがままに選んだ平成の10枚でした。

 

40歳も過ぎるとなかなか新しい音に反応できなくなってくるけど、ちゃんとアンテナを張ってれば、いつの時代もおもしろい音楽はある。

おのれのアンテナが錆びついてるだけなのに、「近頃はいいバンドがいない」とかなんとか軽々しく言うなよって思います。

 

AppleMusicのレコメンドのおかげで、おじさんは気を抜くとすぐに90年代に旅立ってしまうんだけど、できるだけ重力に負けずにいたい。

いつか令和の10枚を選ぶときが来たとしても、今と同じぐらいのテンションで、10枚に収めるの難しいぞなんてうれしい悲鳴をあげていたいものです。