森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

J-POPが新聞を殺した

紙の新聞を読む人が減り続けている

日本新聞協会のデータによると、この20年で新聞の発行部数は3分の2になった。

20年前は一家に一紙かそれ以上とってたのに、今や新聞をとっている家は約半数。

 

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新聞の発行部数と世帯数の推移|調査データ|日本新聞協会

 

確かに、電車の中で新聞を読んでる人がもう全然いないよね。

世間話の入り口として「新聞で読んだんだけどさ」っていうのもなくなったし。

電車の中ではみんなスマホ見てるし、世間話の入り口はSNSやネットニュース。

 

今や紙の新聞はニュースソースじゃなく包装紙としての役割にシフトしつつある。

 

おそらく若い世代が購読しなくなったので、既存の読者である高齢者が亡くなるたびに新聞の部数が減っていってるんだろう。

もうかなり前から、新聞広告は定年退職後の豪華客船クルーズとか、いつまでも若々しく健康を保つためのサプリとか、懐かしの歌謡曲CDボックスセットとか、そういうのばかりになっている。

 

若い世代が新聞を読み始めるきっかけとして、就職活動のタイミングであわてて日経を購読するみたいなのがまだかろうじて機能しているかもしれないけど、それも電子版でいいやってなってるだろうしね。

 

誰が新聞を殺したか

ではなぜ新聞の発行部数はこんなに減ってしまったのか。

 

SNSやネットニュースにやられたというのはありそう。

新聞社が労力をかけて取材したニュースをSNSがタダ乗りすることも問題視されている。


しかし、減少傾向はネットの普及前からのこと。

犯人は他にもいるはずである。

 

大学生の間で教養主義が廃れたことや若い世代の可処分所得が減ったことなどいろんな要因はあるだろう。

ただ個人的に主犯格だと思っているのが、J-POP。

 

J-POPがしきりに訴えかけてきたメッセージが新聞を軽んじるムードを醸成したせいで、みんなが新聞を読まなくなったんじゃないだろうか。

 

たとえばこれ。

 

映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』のテーマソングとして2007年にリリースされた宇多田ヒカルの「Beautiful World」では、こんなことを。

 

新聞なんかいらない

肝心な事が載ってない

 

他にもたくさんある。

 

RCサクセション「Hungry」1990年

新聞みたいにデタラメなデマやウワサが踊るころ

 

内田有紀「Baby's Universe」1996年

信じる心忘れた大人は

新聞記事だけを信じてる

 

ザ・ハイロウズ「アレアレ」1996年

俺はテレビも信じない新聞も読まない

 

TUBE「Tomorrow's Dream」1996年

テレビも新聞も日替わりメニュー

知る権利と覗く権利さえはき違えているよ

 

稲葉浩「Seno de Revolution」2002年

新聞はいつも絶対じゃないぜやばい添加物有り

 

歌詞検索サイトで「新聞」で検索して拾ったんだけど、一番多いのが、大滝詠一「楽しい夜更し」みたいな夜ふかしして朝になった描写としての新聞配達でした。

そういうのを除くと、やはりこういう論調が目立つ。

 

ちなみに2010年代以降は出現頻度が低い。

もはや新聞が日本人の日常から縁遠いものになっていったからか。

 

新聞はなぜJ-POPに嫌われたか

いろんなタイプのアーティストがいて何万という楽曲が存在するJ-POP界において、最大公約数な歌詞の一般意志みたいなものがなんとなく、ある。

 

J-POPは昔から、「大人」にならないことを美徳とし、自分の目で見たことだけを信じろと、等身大の自分らしさこそがリアルであると、訴え続けてきた。

 

で、それは60年代のフォークソングあたりから尾崎豊を経て現在へと続く、若者が自分の言葉で歌う路線に共通するものだと思う。

 

つまり戦後の若者向けカルチャー全体を貫く精神性とほとんどイコールなのかもしれない。

そしてその精神性が、新聞を嫌っている。

 

新聞は、正義ぶって鼻持ちならないし、人の不幸にむらがる野次馬だし、「リアル」じゃないからっていう。

それでいて殴り返してこないから、気軽にディスることができる。

 

たしかに、綺麗事ばかり言ってても広告主の意向には逆らえないとか、パパラッチ的なメディアスクラムによる二次被害とか、記者クラブの閉鎖性とか、新聞を批判する切り口は実際いくらでもある。

考えなしに書きなぐった歌詞と、ジャーナリズム論の専門家の論考が偶然同じ方向性になっていても不思議じゃない。

 

ただ、30年間新聞を読んできた自分のような人間には、そういったJ-POPの論調はかなり居心地が悪いわけで。

どうしたって浅はかにも感じてしまう。

 

「書を捨てよ町へ出よう」の罪

自分は、ファッションというものに劣等感がある。

特に気合を入れてる感じでなく自然におしゃれができる人にはすごくあこがれるし、ハイブランドのすごい値段のジャージとかスニーカーの意味もわからない。

 

年相応な格好のさじ加減も全然わからないので、結局なんとなく自分の体型と財布から導き出された範囲で、おそるおそる無難にまとめてるにすぎない。

 

これは、10代の頃にちゃんと勉強してこなかったツケなんだろうなと思っている。

 

年頃になって色気づいた同級生がファッション雑誌をみていろいろ勉強してる姿を、なんとなく恥ずかしいものだと感じてしまうような変に硬派な価値観がもともとあった。

 

さらに、大学生1回生のころアパレル業界で働く年上の女性と付き合ってたんだけど、「ファッション雑誌に載ってる時点でもう情報としては死んでる」的な上級者向けすぎる価値観に接してしまったせいで、ますます基本的なところをすっ飛ばしてしまうことになった。

 

そのまま、お金がなさすぎて古着でしのぐしかない貧乏バンドマンの世界に飛び込んでしまったので、基本的なところが全然わからないままになってしまった。

 

これって、中学高校で社会科をちゃんとやらず新聞も読まないまま大人になって、いきなりネット上のもっともらしい情報に触れてしまった人の痛々しさにすごく似てる。

 

基本がない状態で、いきなり応用編の言葉に出会う問題。

 

「書を捨てよ町へ出よう」は、捨てるべき書が手元にあるからこそ意味がある言葉。

だけど、あまりにも言葉としてキャッチャーすぎるために、最初から書を読む気がない人間にも届いて、このままでいいんだと思わせる力も持ってしまった。

 

J-POPの歌詞においても、書いてる側は、新聞に載ってることがこの世のすべてじゃない、つまりリアルな体験や人間関係も同じぐらい大事っていう意図だったかもしれないのに、受け手は単に新聞は読まなくていいものって解釈してしまう。

 

歌詞という形態の特性上、言葉を尽くして誤解を避けるっていうよりも、多少乱暴でも心に響くワンフレーズの切れ味を重視せざるを得ないわけで。

 

今こそ紙の新聞

世の中の動きを追うにはネットニュースで事足りるかもしれない。

紙の新聞はかさばるし、興味関心のないジャンルの情報も大量に載っていて、情報収集のツールとしては非効率かもしれない。

 

それでも、いや、だからこそ、紙の新聞を推したいと思う。

興味関心のないジャンルの情報も、物理的に紙面を埋めているから、そのボリュームも含めて目に飛び込んでくる。

なので、よくわからないけど世の中にとってはインパクトのデカいことなんだろうなっていうアタリをつけられる。これが重要。

 

内容的にも、全国紙とか歴史のある地方紙であれば、基本的にちゃんと取材して裏を取った情報しか載ってない。

(その上で、載ってる事実に対する解釈が新聞社によって真逆だったりするんだけど、それは次の段階の話)

 

サイトの体裁だけしっかりしてるけど実態はめちゃ怪しいニュースサイトがいくらでもあるネットの世界よりは、紙ならひとまず信用してよいかどうかの判断が誰にでもできる。

 

そんな結構なものを1日100円ちょっとで家まで毎日配達してくれるんだから、ほんと安い買い物だと思ってます。

おすすめです。

 

 

 

そういえば、新聞はちゃんと読んだほうがいいよっていう意見は明治時代から言われていて。

今から100年ぐらい前にできた上方落語の「阿弥陀池」というネタにはこういうセリフがある。

 
「新聞を読まな世の中の流れについていかれへんで」
「なにを言うてまんねん。新聞なんか読まんかて世間のことならなんでも知ってます」
 
「せやから新聞を読めっちゅうねん。読まんさかいに騙される」