先日リリースされた『「いまどきの若者」の150年史』は、日本における「若者」の起源をたどりつつ、おもに団塊世代からZ世代までの若者論について(若者についてではなく、若者論について)語る一冊。
古い事例では明治後期の煩悶青年や、戦後すぐの時代に話題になったアプレゲールなど、いつの世も「いまどきの若者」は大人たちにとって得体のしれないものだったということが豊富な事例をもとに紹介されつつ、一方で戦後80年を通じて社会の変化に応じて若者のすがたが変わってきたことも語られている。
自分が若者論のターゲットだった時代のこと
自分自身が若者論の対象だった時代は90年代なので、本書でいう第四章にあたる。
「80年代の否定」「ドレスダウン」というキーワードで90年代の若者文化の特徴が説明されているが、当時の価値観がうまく言い表わされていると思った。
たとえば、ディスコじゃなくてクラブだし、スキーじゃなくてスノボだし、WinkじゃなくてPuffyだし、少年隊じゃなくSMAPだし、という具合。
80年代のバンドはみなスーツやセットアップを着ていたが、90年代はTシャツにジーンズや古着。
作務衣を着て頭にタオルを巻いて自然体でブラックバスを釣る奥田民生の姿は、90年代の象徴って感じで、お笑いの世界でドレスダウンを体現したダウンタウンと波長が合ったのもうなづける。
80年代ポップスの加工されまくったドラムやキラキラしたシンセの音に対するカウンターとして、レニー・クラヴィッツらがあえてヴィンテージ機材を使った生々しい音作りを追求したのが90年代。
スネアの音を聴けば時代の移り変わりがわかる。
80年代的なゲートリヴァーブを効かせまくったスネア
90年代的な生々しいドラム
しかし、90年代に多感な十代だった自分なんかは、その感覚が行き過ぎた結果、生々しくカジュアルであることに価値を見出すあまり、整っているものや気を張っているものすべてをダサいものとしてバカにするところまでいってしまった。
生々しくてローファイな音がかっこいいと思っていたので、演奏がうまいとか音がゴージャスとかいうだけでフュージョンやAORをバカにしてたものでした。
今にして思えば、直前の時代を否定することで自分たちのアイデンティティを確立しようっていう、若者に普遍的に備わった態度が、90年代においてはそのように作用したということなんだろうと思う。
そこで気になるのが、Z世代が上の世代を否定をしていないってこと。
90年代が80年代を「スカ」扱いしたような、シラケ世代が団塊世代を否定したような、団塊世代が体制に反抗したような、そういうのがない。
その結果として、ファッションや音楽などの分野において、80年代リバイバルと90年代リバイバルとゼロ年代リバイバルが同時進行してしまっている。
ひとつ前の世代がダサくならないから、それぞれのリバイバルがいつまでもアリなまま、次のリバイバルの波が来てしまっている。
この現象は過去半世紀には見られなかったものなので興味深いが、本書でいうところの不安定な時代を生きるために社会的自己管理を徹底した結果なのかもしれず、終わらないリバイバルが最終的にどこにたどり着くのかとても興味深い。
進み続ける個人化と永遠の若者
『「いまどきの若者」の150年史』の最終章では、いい年をした大人世代が若者文化を持ち続けたまま年をとっていく傾向と、当の若者には逸脱したり反抗したりする余地が与えられておらず大人化せざるを得なくなっている傾向が語られ、「もう、みんな若者で、みんな大人です」とまとめられている。
そして、いい年をした大人世代がいつまでも若者のままでいる原因として、この半世紀を「個人化」の進行であると分析している。
かつては、共同体の中で体制の一部になっていくことが大人として成熟することとされていたが、団塊の世代以降の若者はそれを拒否し、「自分の生き方を自分で決めたい」という個人化が進んでいったと。
自分の生き方を自分で決められる、自由があるということは、それ自体すばらしいことで否定されるべきものではないため、半世紀かけて少しずつそういった価値観が当たり前になっていった。
「早く結婚しなさい」「子供は2人ぐらいいたほうがいいよ」などの発言は、40年ぐらい前は当たり前だったが、20年ぐらい前にはよほど近い関係の高齢の親戚ぐらいしか言わなくなったし、今では他人に言うべきではないこととして高齢者も含めた全世代で規範化された。
その結果、世間一般の価値観に生きづらさを感じるタイプの若者もそのままでいられるようになった。
ただ、そもそも大人とは何なのかもわかりにくくなってしまった。
いわゆる「子供部屋おじさん」の何が具体的に問題とされているのか、ということ。一人暮らしをしていないことなのか、経済的に自立していないことなのか、未婚であることなのか。
ひとつひとつの要素を見ていくと、それ自体が問題であるという結論は出せない。
本書の出版記念トークイベントでも「成熟」に関する議題に多くの時間が割かれていたし、このテーマは語りがいがある。
【アーカイブ動画視聴】パンス×柴崎祐二×伏見瞬「“カルチャー小僧”だった私たちが“老害”にならないための“大人らしさ”考」『「いまどきの若者」の150年史』(筑摩書房)刊行記念
個人化について思うこと
この「個人化」という概念は、自分が以前から考えていたことと響き合う部分が大いにあった。
たとえば江戸時代などにおいても、村には若い衆のグループがあり、多少の放縦や逸脱のある独自のカルチャーが存在していたが、みんなやがては結婚して親の跡を継いで大人になっていった。
村には若者だけが入れる組織もあり、そこから抜けて大人になったということが誰の目にも明らかだった。
その時代と、大人が何なのかわからなくなった現代との違いを考えてみたい。
江戸時代の村社会の例を出したけど、これって地方によってはつい最近まで、もしかしたら現在も、その残り香があると思っていて、団塊の世代が個人化に向かっていった1960年代においては、もっともっと濃厚だったはず。
ビートルズやボブ・ディランが自由な風を送り込んできた60年代って、学生運動が盛んだったとはいえ、そもそも大学進学率は20%ほどだった。
日本の労働者の3人に1人が第一次産業つまり農林水産業にたずさわっていて、村社会で生きていた人たちという時代。
以前に弊ブログでも書いたけど、みんな百姓の子だった。この事実は重要だと思う。
百姓の子は基本的に親の田畑を受け継ぐことが期待されていたが、多くの若者がその引力に逆らうように都会に出ていって工場やオフィスで働くようになった。
村社会において家を継ぐということ、そして親が隠居するということは、わかりやすく大人になる条件のひとつだったが、この時期にそれがほぼ失われた。
村社会の煩わしさから解放され、お互いに価値観を押しつけ合わずに個人として存在することができている反面、都会で働き自分で家庭を築いたとしても、大人になった実感が持ちづらくなった。
この時代を生きる大人たちのほとんどが、そんなふうな気持ちを抱えているはず。
しかし、そんな大人たちの少なからざる割合が、バラバラの個人であることに漠然とした不安を感じてしまうのも事実。
その心の隙間に、宗教やイデオロギーが入り込む余地がある。
これまでも自己啓発やカルトがうまくマネタイズしてきた領域だが、個人化がどんどん進行した昨今では、政治家が「行き過ぎた個人主義」みたいなキーワードでこの気分をまとめ上げようとしている。
そりゃ確かにすべての人が個人として立ち続けられるほど人間は強くないけど、かといってずるずると全体主義に再び堕ちてしまうことだけは避けたい。
若者を引きずる大人の一人として。
