倖田來未の「め組のひと」カバーが話題ですね。
中国発の「Tik Tok」という動画SNSで、この曲にあわせて踊るのが10代の女子のあいだで流行っているとか。
「め組のひと」の原曲は1983年だし、倖田來未のカバーも2010年リリースだし、このタイミングでなぜ急に取り上げられたのか、倖田來未本人も驚いてるみたい。もちろん鈴木雅之や田代まさしも驚いてるであろう。
でもよく考えたらこの曲はそもそも資生堂のCMソングとしてつくられたもの。
なのでもともと若い女性にベクトルが向いた曲だったため、顔を黒塗りした大田区大森の不良グループが今から35年前に歌った曲だとしても、時空を超えて若い女性に届いたのは不思議ではない。
ただただ、この曲をつくった売野雅勇と井上大輔という80年代の歌謡曲の「らしさ」を代表するようなコンビ(郷ひろみ「2億4千万の瞳」も!)に、あらためて畏れ入る次第。
(ラッツ&スターの原曲はキャッチーなメロディや歌詞もさることながら、ビートのキレがすごいので、DJやるときには重宝したもんだった)
Tik Tokとヒップホップ
Tik Tokの「め組のひと」はみんな曲のテンポをかなりあげて踊っており、原曲にないニュアンスが生じている。
DJが曲のつなぎを重視するあまりオリジナルよりかなりBPMを早くした状態でプレイしたところ、偶然にも原曲にない新鮮な聴こえ方になったという、あの感じ。レコードだと特にBPMがあがるとピッチもかん高くなり、3歳児が本能でゲラゲラ笑っちゃうようなおかしみが生まれ、それでいて原曲の歌詞とか意味は残っている状態。
そういうふうにしたほうがよりいい感じの動画に仕上がるっていうことを、DJでもない10代の女子たちが偶然にたどり着いたわけでしょう。
つまり、彼女たちがTik Tokというあたらしいおもちゃの遊び方をいろいろ試行錯誤した結果、倖田來未の「め組のひと」をBPMあげたやつがいいっしょ!にたどり着いたという話には、1970年代ニューヨークの黒人たちのあいだでヒップホップが生まれていった話と同じワクワク感がある。
そしてBPMを上げることでうまれるおかしみは、ネタになる歌や歌手がリスペクトといじられの両方を引き受けてるタイプだとより効果を発揮する気がする。絶妙なダサさと強さ。いまの10代女子にとって、倖田來未がちょうどそういう位置にあったのではなかろうか。
もし「め組のひと」を他の人がカバーしていたら、Tik Tokでここまで流行ることはなかったはず。
倖田來未のカバーはなぜ話題になりやすいのか
そう。今回の現象で外せないのが、倖田來未というひとの存在感。
思い起こせばこの人が最初に注目されたのは「キューティーハニー」だったし、2013年には小沢健二「ラブリー」やhide「ピンクスパイダー」をカバーしたことでちょっとした炎上騒ぎになってもいて、良くも悪くもなにかとカバー曲がらみで話題になっている。
しかし、他にもカバー曲やカバーアルバムをリリースしている人はたくさんいるが、なぜ倖田來未だけが話題になるのか。
またしてもここからは完全なる妄想なんだけど、倖田來未というひとは、楽曲を文脈から解放する戦いをやっているんじゃないだろうか。
たとえば「ピンクスパイダー」という、亡きhideの思い出とともにファンが大事に大事にしている曲。それを、「エロかっこいい」が売りの倖田來未という歌手がカバーする。普通に考えて、hideファンの神経を逆なですることは火を見るより明らか。
倖田來未ぐらいの人であれば、自分のパブリックイメージは完全に把握しているだろうし、そんなイメージの自分があえて火中の栗を拾いにいくのは、完全に確信犯だと思う。
スタッフ「いや…たしかにピンクスパイダーはいい曲だし倖田さんの声質にも合ってるとは思います。しかし…なんていうかその、あまりにもhideさんのイメージが強くてですね…」
倖田來未「まあそうですよね。hideさんの熱烈なファンはいまもたくさんいらっしゃるし、批判されるとは思います。その気持ちはよくわかります」
スタッフ「じゃあわざわざそんなリスクを負ってまでこの曲にしなくても、カバーアルバムには他にもいろいろ候補曲もありますし…」
倖田來未「でもやるんです。批判をおそれていては、今後もう誰もこの曲を触れないようになるんじゃないですか?一部のファンだけがずっと大事にし続けることが、この曲にとって本当にええことやと思います?批判をうけてでも、誰かがファンからこの曲を取り上げる必要があると思うんです。わたしや他の歌手が歌い継ぐことで、この曲は永遠に残っていくんちゃうかなって」
スタッフ「倖田さんがそこまで考えてたとは…」
倖田來未「『倖田來未』っていうイレモノは、何でも入る間口の広さだけには自信があるんです。何を入れても壊れません。いまさら批判もこわくないし、叩かれてでもいろんな名曲を世の中に取り戻す、それが『倖田來未』の役割なのかなって」
楽曲そのものの力と、その楽曲の文脈を切り離すことは実はけっこう難しい。
たとえば、AKB48を毛嫌いする人に「恋するフォーチュンクッキー」の曲そのものの良さは伝わりにくい。
そんなふうに、文脈にとらわれたせいで楽曲が本来の飛距離を稼げていない現象はよくある話だけど、倖田來未という人は、そこにものすごくもったいなさを感じる人なのかもしれない。
原曲のファンから批判されまくってでも、そのもったいなさと戦うことを決意したのではないか。なんと気高い決意であろう。
「ハートに火をつけて」問題
楽曲と文脈を切り離す件で連想するのが、「ハートに火をつけて」という曲。
1967年にドアーズがリリースしたこの曲は、その後いろんなタイプの歌手たちに数え切れないほどカバーされており、ちょっとしたスタンダードナンバーになっている。
ちょっと挙げただけでも、スティービー・ワンダー、ナンシー・シナトラ、アストラッド・ジルベルト、シャーリー・バッシーなどなど、そうそうたるメンツ。
あと結局は実現しなかったらしいけど、車のCMに使われる話も当時ほぼリアルタイムで進行したとか。
しかし、もともとドアーズっていうのは、60年代のアメリカ西海岸サイケデリック・ムーブメントの象徴みたいなバンドなわけで。LSDとかマリファナとかヨガとかヒッピーとかそういう当時の先鋭的な若者文化のど真ん中にいた存在。商業主義やショービジネスといった世界からは距離を置きたいというスタンスであり、さっき挙げたそうそうたる歌手たちとは住んでる世界が全然違う。
だけど、「ハートに火をつけて」という曲の強度があまりにもあったため、サイケデリックだなんだっていう特定の時代の特定のカルチャーでしか通じない狭い世界の枠を軽々と飛び越えていった。
もちろん当時のドアーズのファンなんかからすると、シャーリー・バッシーとかのカバーは噴飯ものだったと思うし、車のCMで使うだなんてアートの本質が何もわかっていない上っ面なやり方に感じられたことだろう。
でもまあおもしろいもので、それから40年もたつと当時の文脈から適度に距離がとれるからか、シャーリー・バッシーとかのカバーもそれはそれでかっこよく感じる。
原曲はもちろん好きだけど、文脈が違うカバーによって変質したことも味わうこともできる。ドアーズっていう、ある意味文脈のかたまりみたいなバンドの曲を、全然畑違いの歌手が歌うことによって、楽曲そのものの素材の力を知ることができっるっていうか、それはそれでおもしろいと思えるようになってる。
で、それは倖田來未の「ピンクスパイダー」や「ラブリー」も同じ。
倖田來未さんの次なる戦いは
「ピンクスパイダー」や「ラブリー」を信者の手から開放し、また1983年の「め組のひと」を2018年の10代女子に伝承した倖田來未。
これからもややこしそうなファンが多いアーティストの「もったいない」楽曲を解放していってほしい。短期的には信者の気持ちを逆なですることになるとしても、長い目で見ればその曲の寿命を大幅に伸ばすことに貢献しているわけで。
ファン心理の逆なでによる摩擦係数が高そうな、そのため他の歌手が手を出しづらいアーティストはまだまだたくさんいる。
たとえばこのあたりはどうだろうか。なんとなく実現してもおかしくないし、個人的にはめっちゃ聴いてみたいっす。
・矢沢永吉…ふつうに「時間よ止まれ」あたりを歌い上げてる姿は容易にイメージできるが、お互いの支持層に親和性ありそでなさそで近親憎悪タイプの炎上あるかも。
・ブランキー・ジェット・シティ…文脈のかたまりみたいな存在だけど、ブレイクしてからのシングル群は文脈から切り離してもキャッチー。
・ハナレグミ…「一児の母として」みたいな文脈で「家族の風景」に注目する可能性あり。
いずれも、想像するだけでファンの悲鳴が聞こえてきそうで、ワクワクしてしまう。
倖田來未さんには、これからも名曲解放戦線の闘士としてがんばっていただきたい。
応援しています。