シティポップとは何か
ここ数年日本のシティポップが世界中で人気らしいという話が、ネットニュースなどを通じて一般レベルにまで伝わってきている。
単におもしろい社会現象としてだけでなく、いわゆる「日本スゴイ」言説の一種としても受け入れられている感じもある。
また、国内でのシティポップ再評価は、自分が観測してきた限りでも10年以上前からあり、たとえば2011年のceroの1stアルバムについてはそのような語られ方をしていた。
ただ、これら一連のムーブメントにおいて、「シティポップ」という言葉が具体的にどのあたりのサウンドを指しているか、実は語ってる人によってバラバラなんですよね。
「シティポップ」という呼び名が出てくる前から、山下達郎のシュガー・ベイブとか、細野晴臣のティン・パン・アレイ周辺の再評価がゼロ年代にあって、その流れで大貫妙子や吉田美奈子や大滝詠一あたりがシティポップってイメージを個人的には持っていたんですよ。
なので、シティポップというくくりが音楽シーンの中で使われるようになって、いろいろ紹介されていくなかで、林哲司や角松敏生あたりが含まれるということになってきたとき、最初は違和感があった。
その違和感がどこからきてるのかと考えたときに、大きく2つあるなと。
ひとつは、シティポップって、商業的には成功していないけど高度な音楽性のためむしろ後世への影響が大きいものっていうイメージがあったので、リアルタイムで普通に売れていた曲が含まれてくることへの違和感。
もうひとつは、鈴木茂のギターとか林立夫のドラムとか松任谷正隆の鍵盤とか、そういう名プレイヤーによる生っぽい質感の音こそがシティポップっていうイメージがあり、80年代中盤以降の加工されたドラムや打ち込みのリズム、シンセサイザーの音色がシティポップっぽいと言われるとどうしても同意しづらいってこと。
※このあたりのことは名著『シティポップとは何か』で詳しく書かれているので、ぜひ。今回のこの話の超重要参考文献です。
いくら個人的な違和感を抱えていても、世の中はそれとは関係なく進んでいくもので、シティポップの概念は今ではかなり広くなっている。
ここでは便宜上、シュガー・ベイブやティン・パン・アレイあたりを70年代シティポップ、林哲司や角松敏生あたりを80年代シティポップと呼んで話を進めていきたい。
どこまでがシティポップか
林哲司や角松敏生あたりの80年代シティポップが再評価されているこの時代、本人たちの次にこのことを喜んでいるのが、中古レコード・CD業界であろう。
なんといっても、杏里とかオメガトライブといった80年代シティポップのレコード・CDなんてものは、ちょっと前までは100円コーナーでも手に入るものだった。
不良在庫の山になるだけなので、中古レコード店ではなんなら買い取り拒否されてたんじゃないか。
それが今や「シティポップ」のタグをつけることで世界中から引き合いがくるようになったわけで。
中古レコード・CD業界にとっては、大量に抱えた在庫を売り尽くすまたとないチャンスと認識されているんじゃないだろうか。
こうなると、できるだけ多くのレコード・CDに対して「シティポップ」のタグをつけたいと思うのが、商売人としての自然な感情であろう。
何がシティポップなのかという明確な定義がない以上、「おたくで買ったレコードを聴いてみたけどこれは全然シティポップじゃなかった!詐欺!」などと買った人から訴えられることもないし、このブームが続く限りはシティポップの枠はなし崩し的にどんどん拡大していくに違いない。
かつてシティポップを再発見したイノベーター層はもう何年も前に次のモードに移行していたとしても、もっとも人数が多いレイトマジョリティ層がシティポップという概念に気づいてきたここ数年が商売としてはもっともボリュームゾーンになるんだろう。
過去のいろんなブームの例に違わず、このフェーズになってくると、ブームの担い手はセンスや愛情よりも大規模なビジネス展開の能力を持った人々になってくる。
つまり、細かい差異に目くじらを立てるよりも、あれもこれもシティポップってことにしておいたほうが儲かるしいいじゃないかっていうマインドがますます支配的になってきそう。
つまり、今まではシティポップだとされてこなかったあれこれが、シティポップ扱いされてしまう現状が観測できるんじゃないか。
そして、そこまで行ってしまったらさすがにブームももう終わりだろうな、っていうひとつの目印になりそう。
そんな、シティポップの「最終防衛ライン」を、いまここで設定しておこうと思う。
2023年にこのラインを誰かが超えてくるかどうか見張っておきたい。
最終防衛ラインその1:TUBE
左が細野晴臣・鈴木茂・山下達郎『Pacific』のジャケット。右がTUBE『Beach Time』のジャケット。
TUBEがシティポップと呼ばれてしまう懸念は、個人的には何年も前から感じていた。
オメガトライブがシティポップならTUBEもそうだろっていう。
純粋にかれらの音楽的な背景をみていくと、AORやフュージョン、あとビーチボーイズ的なコーラスやリゾート感のある軽いラテンフレーバーなど、それこそ山下達郎にも共通点が多いわけで。
いかにもビーイング系な産業ロック臭が全体的にあるので、そのまま刺身にはできないけれど、薬味などでうまく脱臭する調理ができれば、シティポップとしておいしくいただけるんじゃなかろうか。
90年代を生きた我々にとっては、生身のTUBEが発していた軽薄さの印象が強すぎて、今のところシティポップとは呼びたくないって気持ちになるってだけで、このあたりの曲だけ切り出して外国人に紹介したら普通にシティポップとして扱ってくれそうじゃないですか。
なのでこの防衛ラインは割とたやすく突破されそう。
最終防衛ラインその2:C-C-B
いかにも80年代なテクノポップ楽曲の一部は、すでにシティポップ扱いされている。
すでにいろんなプレイリストや紹介記事では、テクノポップ〜初期ユーロビート〜ブラコン的な音でさえもシティポップ扱いされてきているわけで。
おそらく若い人を中心に、文脈ではなく音の質感によって、それらにシティポップらしさを感じてるんじゃなかろうか。
そしたらC-C-Bだって立派にシティポップじゃないかって思うんですよね。
デビュー当初は和製ビーチボーイズ路線のバンドだったC-C-Bは、松本隆・筒美京平コンビによる「Romanticが止まらない」(1985年)が大ヒットし、その後もテクノポップ楽曲でお茶の間レベルでのヒットを量産した。
このあたりの曲は、Night Tempoがこんな感じ↓でリミックスしてくれたりなんかしたら、一瞬で世界中の好事家に見つかってレコードが高騰しそうじゃないですか。
なので、この防衛ラインが突破されるのも時間の問題かも。
最終防衛ラインその3:TMネットワーク
さて、いよいよここが本当に本当の最終防衛ライン。
プログレッシブ・ロックで音楽に目覚めたという小室哲哉がシンセサイザーやシーケンサーという武器を手に入れ、産業ロックやニューロマンティックといった当時のトレンドを取り入れて独自の音楽性を確立したのがTMネットワーク。
つまりバックボーンにはシティポップ要素は皆無と言っていい。
サウンドだけでなく、人脈的(内田裕也ファミリーだったりエイベックス周辺だったり)にもヴィジュアル的にも歌詞の世界観もシティポップとは縁遠いので、さすがにここまで到達することはないだろうと思える。
しかし、曲単位で聴いていくと、その確信もだんだん揺らいでくるんだよね。
このあたりの曲なんて、亜蘭知子や杏里なんかと一緒に外国人のDJミックスに紛れ込んでいても違和感ないと思う。
あやうし最終防衛ライン。
それに何よりも、アニメ『シティーハンター』のエンディングで流れる「Get Wild」のイメージ。
アニメとシティポップって、リアルタイム世代の日本人にとってはむしろ真逆の存在のように感じられるだろうけど、Youtubeなどを通じて80年代の日本のカルチャーに触れた海外の若者にとっては、両者はむしろ強く結びついているらしい。
「Get Wild」という曲自体はシティポップ感は薄いけど、『シティーハンター』の強烈な印象によって最終防衛ラインを超えてきてしまう可能性がある。
シティポップはどこまでいくのか
以上、まったくありえないわけではないけど、今のところ一般的にはシティポップ扱いはされていないっていうアーティストを3組取り上げてみたわけだけど、あらためて聴き返してみると、現在シティポップとされているものとサウンド面での距離はほとんどないように感じる。
ぶっちゃけ、80年代中盤以降のサウンドまでもがシティポップ扱いされるようになってからは、もはや自分にとってはそのラインがよくわからなくなっているっていうのが大きいんだけど。
とはいえ別に解釈が拡大し続けていることに目くじらを立てたいわけではなく、現象として非常に興味深いなと感じている次第です。