先日、マキタスポーツさんのYoutubeチャンネルで配信された『オトネタ大賞・2022上半期』に出演しました。
『オトネタ大賞』は、元々はライブハウスでマキタさんがやっていたイベントだったんだけど、コロナ禍になってからは動画配信の企画に姿を変え、半年に1回のペース続いている。
出演は、芸人・俳優・ミュージシャン・小説家として活躍中のマキタスポーツさん、ラッパーのカンノアキオくん、そしてわたくしハシノの3人。
世代も出自もバラバラな3人だけど、音楽に対して批評的な目線で語るのが大好きっていう共通点があり、毎回それぞれが持ち寄った議題で盛り上がっています。
先日の『オトネタ大賞・2022上半期』はアーカイブが見られるので、よかったら洗い物や筋トレでもしながらご覧ください。
今日は、この配信の中で取り上げられたテーマについて、個人的に感じたことなどをさらに掘り下げたり広げたりしてみようと思います。
平成J-POPの歌世界に存在した「概念としてのクラブ」
2022年上半期に話題になったアニメ『パリピ孔明』において、エンディングテーマ曲として使われていたのが、ミヒマルGT「気分上々↑↑」のカバー。
『パリピ孔明』は、三国志の時代から現代に転生した諸葛孔明と、アーティストを目指してクラブで活動する英子によるサクセスストーリーなんだけど、90年前後から始まった日本のクラブクルチャーの2022年におけるパブリックイメージはこのあたりなのか、っていう観点でも興味深いものがありました。
オトネタ大賞の中でも話したんだけど、90年代〜00年代ぐらいまでのJ-POPには、クラブ由来の言葉が歌詞に散りばめられていたし、音楽性の面でもクラブから生まれた新しい音楽をお茶の間向けに仕立て直すことで発展した部分がかなりあった。
その手法でもっとも成功したのが小室哲哉であり、SPEEDやDA PUMPあたりの存在もそうで、クラブやDJやストリートなカルチャーという何となくのイメージを日本全国津々浦々に広めることに貢献した。
またキック・ザ・カン・クルーやリップスライムといったメガヒットしたヒップホップ勢もそう。
その土台に、ゼロ年代以降に流行したEDMという音楽のスタイルと、「パリピ」という呼称が接続され、日本人のクラブのイメージが少し更新されつつ継承されていった。あと『フリースタイルダンジョン』によってMCバトルというものも一般的に存在を知られるようになった。
なんとなく共通認識があるけど、実際のクラブに行ったことはない。そんなマジョリティ層に向けてうまく作られたっていうのが『パリピ孔明』のヒットの背景だと思います。
大カバー時代
長年音楽を聴いていると、時代によっていつの間にかなくなったもの、増えたもの、変わったものに敏感になる。
今回のオトネタ大賞でも中島みゆきの「糸」がやたらカバーされていると話題になりましたが、ここ10年ぐらいのJ-POP界の傾向として、とにかくカバーアルバムが多い。
世は大カバー時代に突入しているといっても過言ではないでしょう。
思い起こせば90年代までは、基本的にJ-POPの第一線の歌手はあまりカバーをやらなかった。
90年代っていうのは、アーティストが「個性を発揮」して、自分の「等身大の言葉」で、「リアルな」音楽を自作することこそが良しとされた時代だった。
作品の質が高いかどうかよりも、リアルかどうかに価値があった。
質が高すぎるからリアルに感じられない、みたいな、逆転した価値観すらあった。
浜崎あゆみは自分の言葉を歌っているから良いのだ、と言われていた時代なので、プロの作詞家は仕事が激減していたと思う。
そんな時代には、人の曲をカバーすることに意義を見出せなかったよね。
そんな90年代が終わり、いつの間にかそんな価値観がなくなっていくと、カバーアルバムが増え始める。
ただ、長いスパンで考えると、これは90年代という特殊な価値観の時代が終わって、元に戻ったとも言える。
70年代にもカバーアルバムって多いんですよ。
森山良子とか勝新太郎とか沢田研二とか美空ひばりとかフランク永井とか、挙げればキリがないぐらい、いろんな歌手がカバーアルバムを出しているし、デビューして間もない歌手のファーストアルバムは、シングルが2曲ぐらい入ってる以外はすべてカバー曲っていうのがごく当たり前だった。
「夢は夜ひらく」とか「ブルーライトヨコハマ」とか「サニー」とか「竹田の子守唄」とか「精霊流し」あたりの曲は、とにかく大量のカバーが存在する。
近年のカバーアルバムの流行は、その頃と同じ匂いがするんだよね。
昔マキタさんと、みんなオリジナリティを重視しすぎるよねっていう話で盛り上がったことがあって。
アーティストが自作自演に重きを置きすぎることに、お互いちょっと疑問を抱いていたんでしょうね。
そういうのが一段落ついて、みんな気兼ねなくカバーをやれるようになったんだろうか。
リスナーの側も、「リアルかどうか」がどうでもよくなってるんだろう。
元々そんなところにこだわる必要がなかったといえばそうだろうし。
「民藝J-POP」の心象風景
かつて当ブログでこんな記事を書いた。
『NHKのど自慢』で歌われる曲は、ヒットチャートや音楽批評筋のトレンドとはまったく関係なく、独自の世界になっているというところから、これらの曲を「民藝J-POP」と名付けたんです。
「民藝J-POP」というのは、聴き手にとって日々の生活の中で具体的に機能している音楽のこと。
『NHKのど自慢』において、歌い終えたあと「なぜこの曲を?」と司会者に聞かれたときに、出場者はみんな、具体的な思い出だったり誰かへのメッセージだったりを語れる。
その曲がその人の生活の中で果たしている役割が明確だということ。
残念ながら書いた当時から今まで特に世の中的な話題になっていないんだけど、個人的にはこの概念をすごく重視していて、いろんな場所で語っていきたいと思っている。
音楽雑誌とか、音楽マニアのSNSとか、キリンジの「エイリアンズ」が2位になるランキングの文脈では絶対に出てこないんだけど、こういうものこそがいわゆるサイレントマジョリティなのではないでしょうか。
で、今回の「オトネタ大賞」で話題になった中島みゆきの「糸」は、2022年における民藝J-POPの頂点だと思っています。
配信の中でカンノくんが言っていたように、結婚式の定番ソングになっているというのは、まさに民藝の機能美だと思うし、あとコメントをいただいた中にあった、本家の「糸」を聴いたことがないという話も、もはや作者の手を離れて国民のものになったという証だと言える。
「糸」が強いのは、小さな子供からお年寄りまであらゆる世代を包括するし、TPOを選ばないところ。
思えば、昭和の歌謡曲や平成のJ-POPにおいて、みんなが知ってる曲って、基本的に恋愛モノだし、なんならちょっと公序良俗に反していたり際どい内容だったりするじゃないですか。
冷静に考えてみたら、国民的歌手の代表曲が「天城越え」だなんてヤバくないですか。
「さそり座の女」だの「ホテル」だの「さざんかの宿」だの…。
ちびまる子ちゃんが山本リンダを熱唱する姿を苦々しく見てるお母さんの気持ちがほんとによくわかる今日このごろ。
それに比べて、平成〜令和の民藝J-POPは実に健全。
さらに「糸」が絶妙なのは、「川の流れのように」や「あの鐘を鳴らすのはあなた」みたいな大仰なものではなくて、ごく普通の生活者の日常生活の中にフィットするサイズ感っていうところ。
円安や低成長がズルズル続いている時代だけど、みんな一緒にゆっくり貧しくなるんだったらこの体制は安泰だろうし、革命でも起きないうちは「糸」のカバーがリリースされ続けることでしょう。
配信の中でカンノくんが言っていたのはこれですね。
ハードロックバンドをやっているお父さんが娘の結婚式で歌った「糸」。