ここしばらく、音楽好きの間でギターソロに関する議論が盛り上がっていた。
きっかけとなったのは、ニューヨーク・タイムズの記事において、「今年のグラミー賞ノミネート曲の中にギターソロを含んだものがなかった」と書かれていたこと。
このことが「衝撃の事実!」みたいな感じで日本のTwitterで紹介されて、一家言ある方々がいろんな意見を表明したりしたという流れ。
全体として、ギターソロはもう時代遅れだよね…っていう論調が目立ったんだけど、実はニューヨーク・タイムズの元の記事においては、最近の曲にギターソロがないっていう話はマクラみたいな部分であって、それでもギターソロの役割は終わったわけではない!っていうのが全体の趣旨。
記事のタイトルからして、「なぜ我々はギターソロをやめられないのか?」だしね。
では、本邦のギターソロ論争はなぜ誤読気味に盛り上がってしまったのか。
ギターソロ論争に必要な2つの観点
いわゆるギターソロを語るには2つの観点があるわけです。
ひとつは、ギターという楽器に関する議論。
もうひとつは、曲の長さとかイントロとか間奏に関する議論。
ニューヨーク・タイムズの元記事は、前者について語りたかったわけで、ジミ・ヘンドリックスとかヴァン・ヘイレンとかトム・モレロといった革命的ギタリストに言及しつつたっぷり語っていた。
で、たしかにロック黄金時代みたいな豪華なギターソロの時代は終わったかもしれないけど、ギターソロにしかできない役割ってあるよね!みたいな結論だった。
しかし、日本で盛り上がったのはおもに後者の話だったんだよね。
曲の間奏を埋めたりイントロを彩ったりするのは別にギターじゃなくてもいいので、ギターソロ論争イコール尺の話というわけではないはずなんだけど、「最近の曲はギターソロが少ない」っていう話が、「長い曲は聴かれなくなった」という話に直結してしまった。
サブスク時代になってイントロが長い曲は聴かれなくなったとか、そういう単純な話はいいので、ここではギターっていう楽器が持っていた特権性みたいなところから掘り下げてみたいと思います。
ギターの特権性
1960年代から2000年代までは、ヒットチャートにおいてロックおよびロックの意匠を取り入れたポップスがずっと中心的な位置にいた。
そんな時代の若者が音楽に興味を持つのは、だいたいエレキギターへの憧れが入り口で、みんな掃除の時間にホウキをギター代わりにかき鳴らしたりしていた。
バンドを組むことになった場合、ベースやドラムはじゃんけんで負けたやつが仕方なく担当するもので、軽音楽部のギター:ヴォーカル:ベース:ドラムの人数比は5:3:1:1だった。
ブルースが源流にあるロック音楽においては、最初からギターは特別な地位にあり、その地位をフル活用したヒーローがたくさんいて、ますます特権的な地位を保っていたっていう感じ。
大仰でテクニカルで派手なギターソロは、80年代までは花形だった。
「天国への階段」「ボヘミアン・ラプソディ」「ホテル・カリフォルニア」など、いわゆるロックの名曲と言われる曲には名ギターソロがつきものだった。
ギターソロ専用コード進行
現在のJ-POPにおいては、ギターソロがあったとしてもバッキングはAメロのコード進行と同じってパターンが多い。
これはギターソロっていうか間奏であり、別にギターがソロを弾かなくてもよくて、鍵盤ソロでもいいし、ただのAメロのバッキングを8小節やるだけでも成立はする。
乱暴な言い方をすると、ここまでずっと歌が続いてきたので一休みしたいとか、曲の展開としてもちょっと飽きがくる頃合いなので何かしら目先を変えよう、っていうぐらいの役割でしかない。
これがかつてのギターソロ全盛期においては、入る場所は同じなんだけど、コード進行やリズムがですね、ギターソロ専用のものになってたりする。
曲の他の部分では使われてない、ギターソロ専用のコード進行で、ソロをより一層盛り上げようとするわけ。
これらの曲においては、歌メロと同等か、何ならそれ以上の地位がギターソロに与えられていた。
オルタナティブ革命
ところが、90年代に入るとニルヴァーナを中心としたオルタナティブ・ロックの時代になり、価値観が大きく転換した。
「オルタナティブ」っていうのは、当時メインストリームだった商業的で派手で嘘くさいロック「じゃない方」っていう意味。
そう。新しい価値観では、ギターソロは予定調和的で不自然で陳腐でダサいものとされた。
このあたりの詳しい経緯は拙ブログのロングテール過去記事をご覧いただくとして、要するに様式美みたいなものが一気に葬られたのがこの時代だったということです。
現代も大きくみればオルタナティブ以降の価値観が続いていると考えると、実はギターソロは30年前に死刑宣告されていて、最近ついに獄中死したという見方もできる。
↑オルタナティブ価値観以降の最後のギターヒーロー、トム・モレロ(頭出し済み)
ただ、90年代のオルタナティブ・ロックやグランジは、それでも音楽的には70年代ロックの匂いを引きずっていたと思う。
思春期になって親を否定し始めたけど、幼少期は親のレコード棚にあるブラック・サバスやAC/DCを聴いて育った世代なので。
今あらためて聴くと、70年代ハードロックと80年代ハードコアパンクの両方から同じぐらい影響を受けた音だというのがよくわかる。
しかし、さらに時代が下ってくると、いよいよその匂いも消えてくる。
ゼロ年代前半のポスト・パンク・リバイバルやその後のニュー・レイヴの流れを経て、ロックバンドにおけるギターの立ち位置は明らかに変化していった。
一言でいうと、ポスト・パンク・リバイバル以降、ギターはソロを弾いたり単音で「うたう」ものではなくなり、かき鳴らすものになった。
ゼロ年代以降の日本のギターヒーロー的な存在を思い浮かべれば、アベフトシ(ミッシェル・ガン・エレファント)や田渕ひさ子(ナンバーガール)や長岡亮介(ペトロールズ、東京事変)あたりはみんなギターソロを弾く人って感じではない。
現代のいわゆる邦ロックにおけるギターの役割は、カッティングやミニマルなフレーズでループ感やグルーヴを作り出すリズム楽器としての使われ方が中心になった。
歌メロと絡んで「うたう」楽器はむしろベースになってきてる印象。
↑ポスト・パンク経由のアフロビートでギターが完全にリズム楽器になっている例
ギター・マガジン
1980年に創刊した月刊『ギター・マガジン』といえば、かつてはフュージョンやヘヴィメタルのギタリストの速弾きとかテクニカルな奏法を解説する特集とか、機材に関する話題が中心の雑誌だった。
2000年ぐらいまでのギタリストの興味関心はほぼそっち方面ばかりだったということでしょう。
ところが、数年前からそんな『ギター・マガジン』誌の編集方針が大きく変わった。
モータウン、AOR、歌謡曲、ブラジル、J-POP、レゲエ、カントリー、シティ・ポップなどの特集を組むようになり、在庫切れになるほど話題になったのである。
長年ジミー・ペイジとか松本孝弘とかが表紙を飾っていた雑誌とは思えない変化。
これって、ギタリストを志す若者や今もギターを弾きたい大人にとって、興味をひく対象がもはやギターソロ的なものじゃなくなったことの証明だと思う。
以上、ロックおよびロックの意匠を取り入れたポップスにおける、ギターという楽器の役割の変遷について見てきました。
まとめると、1991年のオルタナティブ革命でギターという楽器の特権性は失われ、2000年台のポスト・パンク・リバイバル以降はリズム楽器としての性格を強めていった。その結果、ギタリストの興味関心もギターソロから離れていったということ。
ちょっと長くなったけど、現在のギターソロ論争であまり言及されていなかった部分について丁寧に触れてみました。