2019年のM-1グランプリにおいて、優勝こそ逃したものの、もっとも世間の話題になったコンビ、ぺこぱ。
普通の漫才であれば、ボケがおかしなことを言ったのに対して、ツッコミが訂正や叱責や暴力やときにはドン引きするといった否定的なリアクションをとることで笑いを生んでいくところ、ぺこぱはどんな素っ頓狂なボケに対してもすべて受け入れていくという、他にはないスタイルを打ち出した。
そんな彼らを評価する際によく言われるフレーズが、「誰も傷つけない笑い」というやつ。
誰も傷つけない笑いだからいいよね、と。
誰も傷つけない笑い…。
ちょっと前このフレーズを初めて聞いたときに感じた、よくわからない違和感。
そのままにしておくのが気持ち悪かったので、ちょっと考えてみました。
なにが笑えてなにが笑えないのか
「笑いとは『緊張の緩和』である」と定義してみせたのは桂枝雀。
人一倍の常識人じゃないとギャグ漫画家にはなれないという話もよく耳にする。
本来あるべき姿に対してズレとか逸脱が生じると、その状態がおかしくて笑っちゃうということだろう。
そのズレや逸脱は、常識に対しての距離によって生まれるものであり、またあまりにも離れすぎると笑えなくなってしまう。
常識が時代によって移り変わるものである以上、どのあたりが笑えるポイントかっていう位置も移り変わる。
たとえば、身体が不自由な人の動きをおもしろがるっていう感性は、現代人にはさすがにないでしょう。でも高齢者の世代には、物乞いや障害がある人を笑い者にすることが特におかしなことだと感じていない人がまだちょいちょい存在する。
で、ほとんどの場合、そういった常識や笑えるポイントというものはいつの間にか変わっていく。誰かしら権威ある人が「今後これは笑えない」と決めるわけでも、芸人や番組制作者が「今後これはネタにしない」とか宣言するわけでもない。またもし仮に誰かがそう言いだしたとしても、世間がそれに従うわけでもないだろう。
ブスは笑えるのか
常識や笑えるポイントっていうのは、基本的にはいつの間にか変わっていくもので、後々「そういえばもうこれは笑えないな」って気づくんだと思う。
それでいうと、「ブス」はもう笑えない感じになってきている昨今の空気も、実は6年前に先駆けとなるような事案が発生していた。
2014年8月24日、日比谷公会堂。
TBSラジオの「東京ポッド許可局」という番組のイベントに、久保ミツロウと能町みね子のご両人がゲストで登場したときのことだった。
ご存じない方に説明すると、東京ポッド許可局というのは、マキタスポーツ、プチ鹿島、サンキュータツオという3人の文系お笑い芸人によるラジオ番組。「屁理屈をエンタテインメントに」を合言葉に、M-1グランプリやBLやプロレスや辞書や汁やビートたけしや水曜スペシャルや加齢など、ありとあらゆることを語りつくし、コアな支持を集めている。
その許可局の3人が、久保ミツロウと能町みね子の両人を相手に、お笑いの世界の基本のコードに則って女性の容姿をいじりはじめたそのとき。
「ブスとかそういうので笑いをとろうなんていうのはもう古い」といった文意のことを、久保さんがズバッと言ってのけた。
許可局の3人にしても、いきなり失礼なことを言ったわけではなく、ちゃんと距離を詰めて打ち解けて、それまでの芸人としての経験から判断してゴーサインを出したはず。
その場にいた人間として、それまでの常識に照らして特に許されない言葉だったとは感じなかった。
2014年8月の時点では、自分も含めほとんどの人がブスいじりがアリという常識の側にいたんだと思う。
なので、久保発言は正直唐突に感じた。
しかし、その後の世の中は移り変わっていき、2019年のM-1グランプリ決勝では、見取り図がネタ中に放った、相手の容姿に対する「なでしこJAPANのボランチ」というツッコミが大スベリする状況があった。
日比谷公会堂の久保ミツロウ発言からは5年たったけど、遅かれ早かれこうなるってことをいち早く予見していたんだと思っている。
ブスは笑えるのか2
GAG(ジーエージー)というトリオが「キングオブコント2019」で披露したネタは、ブスを笑うことについてのネタだった。
中途半端なルックスの女性芸人はそのままだと何もおいしくないのでブスということにしてキャラ付けをしなければいけないという生存戦略を、その女性芸人と付き合っている男を登場させることで客観的に見せてる。
「わたしはブスでいくの」「わたしのブスを認めて」
「…お笑いって、異常な世界やな」
このことがネタになるということは、つまりそういう生存戦略でやっきた女性芸人が実在するということと、そういう生存戦略がもはや時代とズレてきていることの両方を意味していると思う。
このネタはブスを笑っているのはなく、ブスを笑っていることを笑っている。
個人的には、ぺこぱやミルクボーイよりもGAGのこのネタにこそ時代が象徴されてると思ってるんだけど、なぜか言及する人が少なすぎる。
M-1からの一連のあれこれがあった2020年の今、あらためてみんなにこれ観てほしい。
息苦しくなったのか
世の中の雰囲気が「誰も傷つけない笑い」をよしとする方向に流れている一方で、反動としていろんな声が出てきてもいる2020年。
いわく「最近のお笑いはコンプラを気にしすぎて息苦しい」「昔はもっと無茶なことができたし、そっちのほうがおもしろかった」「いまどきのお笑い芸人は芸人のくせに優等生ぶってる」などなど。
確かに、過度にクレームを気にしすぎて萎縮してしまうと、お笑いなんてできない。
笑いのためであれば、ある程度は食べ物を粗末にしたり、汚い言葉遣いをしたり、犯罪を匂わせても何も問題ないと自分も思っている。
ただ、それが本当に笑えるのであれば、だ。
笑えなければ、逸脱はただの逸脱。
笑わせるという目的のために、手段として逸脱をやるっていう話であって。
80年代は笑えた逸脱も、今では笑えないのであれば、それをやらないのはコンプラ違反だからじゃなくて単純におもしろくないから。
なので、時代によって常識や笑えるポイントが変わったことを考慮に入れず、単に昔はできたことが今はできないみたいな話をしてもあまり意味がないと思います。
なんでもかんでもコンプラのせいにして嘆いてるだけでは芸がない。
たとえば昔の芸人はお客よりもバカだったり劣った人間だと思わせる必要があったんだけど、今はその必要はなく、高学歴でイケメンで芸人やったりしてもふつうのことになってる。
何が笑えるかは世間の空気とともに変わり続けているし、また芸人側は自分たちの食い扶持のために何が笑えるかを日々拡張させてっている。
変わり続ける世間に対して同じ場所に立ち止まり続けていると、地殻変動で山が海の底になるみたいに、息苦しくなる事態もありえるだろう。
でも安易に息苦しいって言いがちなおっさんたちだって、ここまでは笑えるけどこの先は笑えないっていう価値観は持ってるでしょ。
で、その価値観でさえ、それより前の時代に比べると十分に「息苦しい」もの。
コンプラが息苦しい息苦しいって言いながら、物乞いや障害者を笑い者にするセンスはさすがに持ってないでしょう。前時代の価値観からするとそんなあなたの笑いのセンスも十分に「鼻持ちならないリベラル」だったりする。
明治時代の一般的な芸人を2020年に連れてきたらきっと「乞食を笑っちゃいけないなんて、息苦しい時代になったもんだ」って思うだろう。
変わらないことが美学の世界
漫才やコントといったジャンルのお笑いにおいては、変わり続ける世間に対応してみずからも変わり続けることで、笑いを提供し続けることができる。
しかし、そう簡単にいかない世界がある。
それは落語の世界。
落語といえば江戸時代や明治時代のおもしろい話を語るもの。
新作落語では舞台は現代でもいいし未来でもいいし自由なんだけど、それでも着物を着て座布団に座って演じるというところは古典落語と共通したスタイルであり、やはりどうしても落語である以上は江戸や明治の空気とは無縁ではいられない。
基本的人権も民主主義もジェンダー平等もない時代につくられた笑い話を現代の観客を相手に演じて、ちゃんと笑いをとらないといけない。
これまで見てきたように、何が笑えるかという範囲は時代とともに大きく動き続けているわけだけど、落語である以上はこれ以上は動かせないという領域は守らないともはや落語じゃなくなってしまう。
落語家たちの苦労は並大抵ではないと思う。
そんな情勢で放たれた立川志らくのこのツイート。
前述したような、コンプラ息苦しいおじさんの典型的な嘆きに見える。
ただそう簡単に片付けられないのは、落語家のつぶやきだっていうこと。
しかも、落語とは何かを生涯考え続けた立川談志の意思を継ぐ人ですよ。
そんな談志が晩年たどり着いた「落語とは江戸の風が吹く中で演じる一人芸」という定義は、志らくにとっては聖書やコーランみたいなものなはず。
なるほど江戸の風とコンプライアンスは相性が悪そうに見える。
とすると、もはや落語は時代に取り残されて江戸の風とともに消え去っていくしかないのか。
滅びたネタと生き残ったネタ
実は落語もその時代の常識や笑いのポイントとズレたものは演じられなくなるし、何ならストーリーを改変したりもよくある。
「代書」という、戦前の上方でうまれたネタがありまして。
当時は識字率が低く、長屋の住人は自分で履歴書を書けなかったので、代書屋に頼んで書いてもらっていたという。代書屋と長屋の住人のやり取りが爆笑を生む、個人的にも大好きなネタ。三代目桂春団治や桂枝雀が得意とした。
実はこのネタ、もとは済州島出身の朝鮮人が日本語を書けなくて代書屋に来たというくだりがあった。
現在はそこをカットして演じる人がほとんどなんだけど、戦後のお客の価値観ではもうそこは笑えないからカットして当然だろう。
逆に、識字率がほぼ100%の現代においては、読み書きができない登場人物を笑っても誰にも差し障りがないから、このネタ自体は生き残った。
寄席で目の前のお客を相手にしてる落語家にとっては、まだこのネタが通用するかどうか鮮度チェックを毎日やっているようなもんで。使えなくなったネタは廃れていくし、不要な部分はカットされていく。
たまたま古典落語として残っているものは、もともと現在の価値観とそんなにズレていないか、ズレをうまく補正できているかのどちらか。その影で、数え切れないほどのネタが滅びていってる。
上方落語ではじめて人間国宝になった桂米朝は、時代とともに廃れていったネタを純粋な学問的興味から発掘する人だった。発掘したものをたまに高座にかけたりしていたんだけど、やはり現代の価値観では笑えないものばかりだった。誰もやらなくなって廃れたのは必然って感じ。
結局、変わらないことが美学になっている落語の世界であっても、笑える笑えないを見極めつつ、落語らしさの範囲内でいろいろと柔軟にやってるということでしょう。
変わり続けているからこそ、能や狂言とは違って、古典芸能だけどちゃんと現代人の感覚で笑えるものとして存在し続けられているわけで。
誰も傷つけない笑いが偉いんじゃなく、笑えるから偉い。笑えるようにするためだったら、優しくもなる。さすがに笑えないでしょっていう範囲が変わったらそこから出ていく。逆に今までいた場所がヌルくなってきたらもう少しエッジを立てる。
時代が変わればその時代に寄せる。という単純なことだと思う。
笑いという目的を果たすためであれば、手段として優しくもなるし鬼畜にもなるっていう。