先日、このようなトークイベントをやりました。
「LL教室の試験に出ないJ-POPシリーズ〜1999年編〜」
その名の通り、1999年のJ-POPについていろんな角度から語るという趣旨。「試験に出ない」というところには、一般的な語り口ではない、オルタナティブな目のつけどころで重箱の隅をつつこうという意図が込められています。
ゲストにはニューアルバムをリリースした直後のTWEEDEESの清浦夏実さんをお迎えしてしまいました。お忙しいところ恐縮でした。
それぞれの1999年
その清浦さん、1999年には小学3年生。そしてLL教室メンバーのうち、森野さんとハシノは大学生。矢野くんは高校1年生。
つまり出演者4人がそれぞれ適度に年が離れており、世代ごとに異なった切り口で語ることができた。
森野さんは当時すでにバンド活動を熱心にやっていて、J-POPはほとんど聴いてなかったそう。たしかに、バンドやってると友達とか身近なシーンの音楽が関心の中心になり、世間で流行っているものとは距離を感じるようになるな。
自分は2002年頃からそんなモードになる。
矢野くんは東京育ちらしい早熟な感覚で、高1ですでにマーヴィン・ゲイを聴いて公民権運動に思いを馳せていたらしい。恐るべし。
一方その頃の清浦さんは、世間の流行りとほぼ同期して清浦家に入ってきていた音楽をそのまま吸収していたとのこと。
たとえばこの年大流行した「だんご3兄弟」はもちろんのこと、宇多田ヒカルやジャニーズはリアルタイムで聴いていたそう。
ところが同じぐらいヒットしていたはずの浜崎あゆみやGLAYやDragon Ashは清浦家にはまったく入ってこなかったらしい。
清浦家でフィルタリングが作用していたのか、単にアンテナにまったく引っかからなかったのか。
大人からしたらどちらも区別なく売れてるJ-POPなんだろうけど、小学生のアンテナに引っかかるかどうか、微妙なラインがあるんだろうな
たしかにあゆやGLAYやDragon Ashあたりはちょっと不良ぶりたい層の心をつかむことでメガヒットになったところがある。地方の中学生がギリギリあこがれるワルさ。今も昔もそこを突くのが歌謡曲商売の勘所なんだと思う。
2018年でいうと、EXILE一派が身にまとっている空気のなかに、やはりワルさ成分は入ってるでしょう。「HiGH&LOW」シリーズで前面に出てる部分ね。
そしてわたくしの1999年はというと、大阪郊外のロードサイドのCDショップでバイトしてました。空前のCDバブルや、インディーズからのメロコア、ミクスチャー、日本語ラップといったシーンが盛り上がっていく様、北欧ダンス・ポップやユーロビートと音ゲーの融合などなど、さまざまな世相をレジの後ろから眺めていた。
詳しくはこちらのブログをご覧ください。
1999年のJ-POP界
この年のJ-POP界で外せない要素としては、ヴィジュアル系バンドが競うように大規模な野外ライブをやったこと。
90年代初頭からXが切り開いたというか作り上げたシーンが、ここにきて完全に世間一般に浸透したということ。
特にGLAYは、YOSHIKIに見出されたというヴィジュアル系の出自があるものの、佐久間正英プロデュースのBOOWYフォロワーという位置づけの方が実態に近い気がするし、なんならBOOWY以上に日本人が好きなウェットな歌謡ロックを極めることができたわけで、そりゃ20万人集められるわなって(この記事の後半で詳しく話してます)。
あとは女性R&Bブームね。UA、MISIA、bird、SILVAといった、ファンキーでソウルフルな女性シンガーが続々とデビューしていた。
結果的に社会現象レベルに売れた宇多田ヒカルでさえ、最初はそのブームの中に位置づけられる一人として認識されていたわけで。m-floも最初はその文脈。
「クラブ」とか「DJ」って存在が、地方の高校生ぐらいまで浸透してきたのがこの頃。
一方で、この年からフジロックが苗場に会場を移したのと、ライジングサンが始まっており、フェス文化が本格的に日本に定着しはじめている(AIR JAMは98年からサマソニは2000年から)。
インディーズ界もこの数年でかなり盛り上がってきており、Hi-STANDARDに続くようにSNAIL RAMPやBRAHMANあたりが大活躍。下北沢ではBUMP OF CHICKENやGOING STEADYが活動を始めていたり。
そして80年代末から10年ぐらいずっと冬の時代だったアイドルの世界が、モーニング娘。「LOVEマシーン」の大ヒットにより復活の狼煙を上げるのもこの年。
さらにいうとiモードがサービス開始したのも99年で、現在のサブスクリプションの音楽配信サービスへとつながる流れの源流として「着メロ」の販売が始まっている。
それと入れ替わるように、CDの売り上げが98年にピークを迎えており、99年はここからズルズルと終わらない下り坂になっていく入り口でもある。
みんなが知らない曲がチャートの1位になってるって現象は21世紀では特に珍しくもないが、90年代はまだそんなことなかった。国民みんなが知ってるヒット曲がチャートで1位を獲ってた。そんな国民的ヒット曲の最後が、この年の「だんご3兄弟」なんじゃないか。
こうしてみると、1999年は21世紀の音楽シーンを形成するいろんな要素が出揃ってきた年だなっていう印象が強い。
歌詞分析
イベントは後半に入り、恒例(にしたい)の歌詞分析のコーナーへ。
現役の国語教師にして文芸批評家である矢野利裕くんがメンバーにいる強みをいかしたコーナーですね。
今回は作詞家でもある清浦さんもいるし。
Dragon Ash「Grateful Days」
まず取り上げたのは、Dragon Ash「Grateful Days」。
言わずとしれた「俺は東京生まれヒップホップ育ち」という超有名フレーズが入ってる例の曲。
あまりにも売れすぎたせいで、日本語ラップ親に感謝しすぎとかいろいろ揶揄される対象にもなってしまったけど、実は日本語ラップのマナーに則った歌詞だということが、矢野くんの解説でどんどん明かされていった。
当時はまだ音楽を志す若い人にとってロックバンドのほうが圧倒的に馴染みがあったわけで、日本語ラップというものに対して、なんかよくわからんけど不良ぶってたりすぐYo!とか言ったりあと自慢みたいな歌詞が多くて変だよねってイメージを持ってるやつが多かった。自分も含めて
あとストリートとかなんとか言ってるけど一億総中流の平和な日本で、生きるか死ぬかの世界で育まれたアメリカ黒人文化の猿真似をしてるのも滑稽だよねっていう意見とかね。
ただ2018年の現状では、たとえば自慢みたいな歌詞はボースティングっていうヒップホップ文化の一環でありそういうもんだっていう理解が広まってたり、日本社会がどんどんシャレにならないレベルで荒廃してきてるなかでどんどんラップの言葉がリアリティを獲得していったりしてる。
逆にいつまでもナイーブな自意識のことばかり歌ってるロックバンドのほうが、時代の空気を乖離してきているのかもね。
Dragon Ashの「Grateful Days」は、次の時代のモードをいち早くメジャーな場所で提示した曲なんだよなってあらためて思いました。
浜崎あゆみ「depend on you」
90年代というのは、かつての「アイドル」や「歌手」といった存在がそのままではやっていけず、「アーティスト」という形態にならざるを得ない時代だった。
たとえば坂井泉水というソロ歌手ではなく、ZARDというグループですという名乗り。
アイドル歌手としてはパッとしなかった渡瀬マキが、リンドバーグのボーカルとしてブレイクしたこと。
そんなふうにグループ化することで90年代に流通しやすい形態をとることが多かった。
または、みずから作詞することで、与えられた役割をこなすお人形ではありませんよ、自分の言葉を持ったアーティストですよっていうブランディングをするパターンも。
みずから作詞することで脱アイドルをはかるといえば、古くは森高千里がそうだったけど、浜崎あゆみも完全にその戦略が大当たりした人だった。
1999年の時代の空気を語る上で欠かせないのが、ケータイ小説。
限りなくアマチュアな書き手たちによって徹底的に固有名詞を排して同工異曲に量産されたケータイ小説のなかで、例外的に固有名詞を与えられていたのが浜崎あゆみだったという、速水健朗さんの指摘を引用した矢野くんの分析。
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それぐらい、ケータイ小説の書き手や読み手にとって特権的な地位を得ていた存在だったということ。
あゆの「自分の言葉」が、ケータイ小説の世界観とものすごく親和性が高かったんでしょう。
この「depend on you」という曲も、もちろんあゆ自身の作詞。
「あなたがもし旅立つ その日がいつか来たら そこからふたりで始めよう」で始まるこの曲。歌の中で時制とか仮定の話がぐちゃぐちゃになっていて、話の筋が追いづらいよねっていうところから、これはもしかしたら男に送ったメールの文面なんじゃないかっていう森野さんの指摘が生まれ、一気に解釈がはかどった。
仮定の話でメールしたら返信がなかった、返信しやすいように疑問型にして送ってみたけどそれでも返信がない、疲れてるのかなって自己解決して勝手に話を進めていく、といった感じに読んでいくと、脈のない相手に対して一方通行でメールを送り続ける痛々しい女性の姿が浮かび上がってきて、思わず会場全体がうわー!っていう空気に。
90年代の「アーティスト」志向の高まりにより、もっとも割りを食ったのがプロの作詞家たち。多少素人くさくても歌手本人のリアルな言葉で、っていう要請により職人たちの出番は激減した。
小室哲哉もみずから歌詞を書きたがったよなそういえば。あれも今にして思うとどうなんだろう。小室なりにレイブとかカラオケとか、若者文化にアンテナ高い自負があるようなことを当時語っていたので、古いプロの作詞家よりも自分のほうがリアルな歌詞が書けるっていう思い上がりがあったのかもしれない。
思い上がりって書いたけど、たしかに結果は出してるからまあそれが正解だったといえばそうで、それもひっくるめて90年代らしい話だな。
2018年はというと、秋元康など90年代に息を潜めていたプロの作詞家が見事に復活してる。J-POPに求められる要素のなかに、「自分の言葉で歌ってるかどうか」はまったくと言っていいほど入らなくなっており、隔世の感がある。
GLAY「winter,again」
99年に「だんご3兄弟」と宇多田ヒカル「Automatic」に次ぐセールスを叩き出したのがこの曲。シングルで165万枚売り、さらにこの曲が収録されたアルバムは200万枚以上売ってる。
おもしろいのが、レコード大賞と有線大賞の大賞を獲っているということ。
有線大賞って基本的に演歌とかそっちが強くて、J-POPっていっても虎舞竜の「ロード」とかが賞を獲ってきたんだけど、この曲は世の中にそっち寄りのものとして受け入れられたんだよな。
まあそれも聴けば納得で、歌詞の世界は「あなた」への想いをウェットに歌い上げるもの。「無口な群衆 息は白く」なんて出だしは、「津軽海峡冬景色」を連想させるし。
ヴィジュアル系というのは世間の常識に対する異物として誕生したシーンだったはずだけど、YOSHIKIは皇居に呼ばれるしGLAYは有線大賞を獲るし、結局は日本の土着的なものに取り込まれていったんだなって思うとおもしろいよね。電気グルーヴの「しまいにゃ悪魔もバラードソング」っていうラインも思い出す。
ちょっと飛躍するけど、仏教が日本に伝来したときってさ、奈良の都会の一部のエリートがかぶれてる舶来のかなりとんがった思想だったはずなんだけど、長い年限を経て現代の葬式仏教になっていったわけで、そういうのに似て、日本社会の相変わらずのしたたかさを感じる。
閑話休題。GLAYのバラードにおけるお茶の間っぽさ、もっというとフォークソングっぽさってなんだろうっていう話をしていると、実際にTAKURO氏と話したことがあるっていう森野さんから答え合わせになるような証言が。
TAKUROっていう人はヴィジュアル系に対して特に強い思いがある感じではなく、むしろルーツはフォークなんだって。
ヴィジュアル系という意匠があくまで手段なのであれば、もっと売れるためにって考えたときにそっちのバックボーンを活かしたほうが日本においては強いっていう戦略になったのかも。そしたらそれが大当たり。
その後、話が盛り上がった勢いで、みんなで「winter,again」を歌ってみようということに。清浦さんもお客さんも巻き込んでしまい、ふだんはおしゃれなベルベットサンが歌声喫茶状態に。
歌ってみてあらためて思ったけど、この曲の構造もすごく強くて、Bメロ(いつか二人で行きたいね〜のところ)がすでにサビ級の盛り上がり方をしてる。AメロからBメロへの盛り上げ方も、完全にサビ前のそれ。
なので、十分サビっぽいBメロになってるんだけど、そこからさらに本当のサビ(逢いたいから〜のところ)がくるため、気持ちよすぎてもう完全に心を掴まれてしまう。
ちなみに日本有線大賞は、視聴率低迷のため2017年が最後の放送になった。
最後に受賞したのは氷川きよし。
まとめ
こんな感じで批評あり歌ありで1999年のJ-POPをふりかえるイベントは大盛り上がりで終了。
お客さんは1999年にはまだ生まれていない20代から当時すでに大人だった40代以上と幅広かったものの、あまり誰も置いてけぼりにせず進行できたかなと。
多くの方に次回も行きますといっていただけてありがたかったです。
この試験に出ない90年代J-POPシリーズ、過去には1991年(ゲスト:星野概念くん)、1992年(ゲスト:グレート義太夫さん)、1998年(ゲスト:ヒダカトオルさん)という感じでやってきてて、1999年(ゲスト:清浦夏実さん)で4回目。
まだ半分残ってるし来年以降も続けていきたいと思っており、すでに次回の予定も決まってます。
次回は2019年1月13日(日)。
場所は同じく荻窪ベルベットサンで、取り上げるのは1993年!
詳しいことは近日中にお知らせします。
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