阪急電車とJRが淀川と並行して京都と大阪を結んでおり、そこに大阪郊外を南北に貫く近畿道と大阪モノレールが直角に交わっている。
近畿道とその下道である中央環状、またそこから枝のように府道がいくつも分かれており、北は千里方面、南は門真や寝屋川方面、西は高槻方面からもアクセスしやすい場所に位置している。
そんな地理的条件のため物流拠点とか工場が多く、またロードサイドにはお決まりのファミレスやパチンコ屋、カー用品店などが並ぶ。
でかいトラックが行き交う埃っぽい道沿い、南茨木駅から少し離れた美沢町の交差点に、それはあった。
きみはミサワランドを知っているか
かつて茨木市美沢町の中央環状ぞいにあった、ボウリング場にゲームセンター、レストラン、書店、CD・レコードショップが一体になった独立系のアミューズメント施設。
その名はミサワランド。
市バスにでかでかと広告を出していたため、地元で知ってる人は多いかも。
または、中央環状で千里方面から南下する途中、名神高速の入口を過ぎたあたりに立っていた巨大なビルボードで認識していた人もいるかもしれない。
わかりやすくいえば、ドンキのセンスでラウンドワンとツタヤを合体させたような場所。
ワンマン社長の独特の嗅覚と思いつきでいろんな業態がスクラップ・アンド・ビルドされてきたらしく、かつてカラオケボックスだったであろう倉庫とか、クラブにしようとしてたスペースがゲーセンになってたりしていた。
古参の社員やパートさんの話によると、もともとうどん屋から始まり、ボウリングブームに乗ってアミューズメント方面に触手を広げたのが始まりだとか。
基本的に儲かりそうな領域に手当たり次第に手を出してきたんだと思うけど、それがだいぶカルチャー寄りの領域で商売になっていたというのが90年代っぽい!
実はわたくし、そのミサワランドのCD・レコード部門で90年代末にアルバイトをしてまして、その数年間はかなり強烈な体験だったので、いまでも時折思い出すんですよ。
で地域住民にも結構なインパクトを与えていたんじゃないかと思ってググったりもするんだけど、mixiのコミュぐらいしかヒットせず。
20年以上前のことだし、まあそんなもんかなとも思うんだけど、このままだと世の中から忘れ去られそうな気がするのでそれはちょっと寂しいなと。
ということで今回の記事の目的は、インターネット上にミサワランドの記憶を留めるための永代供養みたいなことだと思ってください。
もしくは、「ミサワランド」のキーワードで検索1位を目指す。なくなった店のSEO対策という、よくわからない取り組みです。
みなさまにとっては何の利益ももたらすつもりはないけど、諦めて最後までお読みください。
1999年頃の店内の様子
当時のミサワランドの客層といえば、ゴリゴリのヤンキーからマイルドヤンキー、ギャル、仕事帰りの職人、チャリで来た中高生など、いかにも郊外っぽく、素人時代の鈴木紗理奈がよく来ていたという噂があるんだけど、たしかに鈴木紗理奈がいても何の違和感もない。
駐車場は立体駐車場になっており、ナンバープレートが光ってたり車高が低かったりダッシュボードの上に食玩が並んでるような車がたくさん止まっていた。
店に入るとまずゲーセン。UFOキャッチャーが充実。あとは当時流行のきざしを見せていた音ゲーの筐体が並ぶ。
UFOキャッチャーコーナーで左に曲がるとレストラン。真っすぐ行って階段をのぼるとボウリング場。右に曲がると書店とCD・レコード売り場。
当時はDVDはまだなくて映像ソフトはVHSのみ。販促の映像を流す用のテレビデオではパラパラの教則ビデオを流してたんだけど、店の通路でそれ観ながら練習するギャルがいたりした。
かつてカラオケボックスにも手を出していた頃の名残の小部屋がバックヤードや倉庫になっており、UFOキャッチャーのぬいぐるみや当時はやったファービーのパチもんなどが在庫としてストックされていた。
クラブなみの爆音が鳴らせるスピーカーからはユーロビートや北欧のダンス・ポップが店中に大音量で響き渡っており、またそれに負けじとゲーセンの筐体からもそれぞれ賑やかな電子音が鳴っており、毎日毎日夜更けまでちょっとした祝祭感があった。
深夜2時すぎに閉店するとその爆音が一斉に止み、いきなり静寂がやってくる。
耳鳴りを感じながら静かすぎる店内でレジ締め作業をするのがちょっと好きだった。
個性的なメンバー
当時のミサワランドは、社長と5人ぐらいの社員、あとはバイトやパートでまわっていた。
ブラックでもホワイトでもない生暖かい空気の職場だった。
昼から夕方までは地元のおばちゃんパートがおもにシフトを埋めており、夜から朝方にかけてのシフトは大学生やフリーター。
夜勤メンバーは気づいたら30歳すぎちゃったよははは、社員にならないかって言われてるよ、みたいな古株フリーターがいたり、中卒ですけど肉体労働はしんどいんでここに来ました的なマイルドヤンキーがいたり、かと思うと早々と一流企業に就職が決まって暇になった国公立大の学生がいたりと個性的な面々だった。
社員もみんな変わったおっさんたちで、パワハラとかそういうんじゃなく単に薄給で休みなく淡々と働いてる感じだったな。
店員は胸に「MISAWA LAND」と書かれたまっ黄色のトレーナーを着る。くたびれたおっさん社員もそんなファンシーな制服を着て働いてた。
CDまわりを担当していた当時おそらく40歳ぐらいの社員の人は、実はガチのブルースマンで、年に一回だけシカゴで行われるブルースのフェスに行くために休暇を取る。
その人が仕入れて売りさばいていた店での売れ筋の音楽はユーロビートとかチャラ箱のダンス・ポップとかなわけで、ブルースとの間に乖離がありすぎて非常に味わい深かった。その状況そのものがブルースってやつなのかなって。
強烈だったのは、ワンマン社長。
普段は店に来ないんだけど、たまに真っ白のリムジンに乗って様子を見に来る。
1999年にはもうおじいちゃんといった風貌だったけど、一代で財を成した叩き上げの凄みと、いつも何か思いついては社員にやらせようとするフットワークの軽さは健在って感じ。
そしてその社長が「カズヒコちゃん」と呼んで溺愛していた息子。
たぶん当時20代後半?ぐらいのいい大人なんだけど、「カズヒコちゃん」呼ばわり。
カズヒコちゃんは当時まだ珍しかったDTM(コンピュータでの音楽制作)をやっていて、なんと坂本龍一のレーベルからCDをリリースしていた。
CDの帯には教授の推薦コメントまで載っており、確かにYMOの影響を感じつつも当時のリアルタイムなクラブサウンドになっていた。
正直かっこいい。
これがそのCD。ジャケットもおしゃれですね。
社長はカズヒコちゃんの活躍がよっぽど嬉しかったのか、中央環状と名神高速が交わるあたりに建てていたミサワランドを宣伝するための巨大ビルボードを、息子のCDの宣伝に転用したのだった。
サイズとしては東京ドームの外野席の上に出てる長嶋茂雄のセコムぐらい。
その看板に、「KAZUHIKO NOW ON SALE」って。
すごく正しく親バカでいいなって、自分も親になったいま、素直にそう思う。
1999年の音楽エンゲル係数
さてそんなミサワランド、CDショップとしての品揃えもなかなかにカオスだった。
当時はCDバブルと言われた時代で、98年なんてアルバムチャートの上位20位まですべてミリオン超えしていた。上位なんて500万枚とかよ。
B'zとかサザンとかユーミンとかGLAYが軒並みベストアルバムをリリースし、あの宇多田ヒカルの『ファースト・ラブ』が年末に出たり。このあたりはほんと夢に出てきそうなほど売った。
当時ミサワランドでは万引き防止と補充の効率化のため、売れ筋の商品は店頭に出さず、ジャケをカラーコピーして下敷きみたいなクリアファイルに入れたものを並べていた。お客さんはそれを持ってレジに来る。
売れたらすぐ店頭に戻すようにすればクリアファイルは最低1枚ずつあれば事足りるはずだけど、多いものだと何十枚と用意していた。クリアファイルをレジから店頭に戻す暇もないほど売れる勢いが激しかったということ。
カーFMや遊びにいったチャラ箱でチラ聴きしてちょっといいなと思った程度の曲を、アルバムで買いに来る。
たとえばB'zのベストとダンスマニアシリーズとマキシシングル3枚ぐらいで客単価10,000円弱みたいなのが、一般的なラインだった。
ちょっと今からは考えられない音楽エンゲル係数の高さ。
今の時代に音楽ソフトやデータに毎月10,000円使う人ってどれだけいる?正直わたくしもそんなに使ってないぞ。
980円出せば世界中の古今東西の曲が聴き放題になる現代と比べ、1999年には同じ値段で2曲入りのマキシシングルしか買えなかったわけだ。
ちなみに当時はシングルCDの過渡期で、従来の短冊形のシングルと、マキシシングルの両方をリリースするパターンが多かった。
短冊形はカップリングにカラオケバージョンが入っていて、マキシの方にはリミックスバージョンが入ってるような、それぞれの形態ごとに顧客のニーズに応える感じ。
北摂の90年代末カルチャー
当時、お茶の間レベルのCDバブルど真ん中のラインナップを大量に売りさばく一方で、それとは違う流れが出てきたことも感じていた。
98年頃からのインディーズ界隈の盛り上がりが、北摂地域にもしっかり波及していたのである。
Hi-STANDARDに連なるいわゆるメロコア勢、そこから派生したスカコア勢、海外の流行とリンクしたミクスチャー勢、全国各地に根を下ろした日本語ラップ勢が、それぞれに活発に交流しながら盛り上がってきていた。
小さいレーベルからリリースされていて大手の流通経路には乗ってなかったりするものも多かったんだけど、前述のブルースマンの社員がいろんなルートで仕入れていた。
CDだけでなく、アナログや果てはカセットテープ(ミックステープ)なんかも仕入れてたし、いま思えばなかなかイケてる。
当時の北摂のキッズたちがもうひとつ夢中になったのは、クラブカルチャー。
文化系のモテたい男子はバンドをやるものって昔から相場が決まっていたけど、この時期、バンドをしのぐ勢いでDJがモテ活動になってきていた。
TechnicsやVestaxは高価で手が出ないというキッズむけに、バイト代で手が届く無名メーカーのDJ入門セットが雑誌の広告なんかにたくさん載っていた。
当時はまだCDJはほとんど出回ってなくて、ましてやPCでDJができるなんて誰も思ってない時代。DJといえば当然アナログレコードでやるものだった。
自分なんかは当時から中古レコード屋で安く掘ることをミッションにしてたタイプですが、みんな基本的にダンスクラシックとかブレイクビーツとかレア・グルーヴの再発されたレコードを買ってたよねDJ志望者たちは。
ブルースマン社員はそういうニーズを目ざとく把握して、ちゃんと仕入れてたと思う。
そんな感じで草の根からDJ文化が勃興していくのを肌で感じてて、そしたら半年後くらいからJ-POP側がそれに呼応するように、新譜をCDだけじゃなくアナログでもリリースするようになってきた。
USで安くプレスするインディーズとは違って、J-POPのメジャーどころは東洋化成でしっかりした盤をリリースする。でも確か同じタイトルでもCDは売れ残ったら返品できるけどアナログは返品できなかったはず。
なので売れ残ったやつは半額セールとかに出してたな。
そうそう思いだしたけど、ミサワランドではCDをUFOキャッチャーとかクレーンゲームの景品にしてた。鈴木亜美のマキシシングルとか補充した記憶すごく鮮明。キッチュな色使いの筐体によく映えてたわ。返品できなかった不良在庫CDも景品に転用してた。
閑話休題。
ヒップホップ、DJ(サンプリング)、メロコア、ミクスチャーという当代のモテ要素をものすごくクレバーにすくいあげたのが、Dragon Ash。
あいつらはニセモノだみたいな批判は当然あったけど、それ以上に北摂のキッズには売れた。
発売してすぐに回収騒ぎになった「I love hip hop」のシングルもめっちゃ売った。
往年の大ネタを大胆に引用する手つきがイマっぽいでしょっていうドヤ顔が見えたもんだった。
そして、クラブカルチャー方面から吹いてくる風はもうひとつのムーブメントを生んでて、それが女性R&Bシンガー、いわゆるディーヴァ系のブーム。
たぶんUAが先駆けで、1998年頃からbird、MISIA、sugarsoul、double、SILVA、あと3人時代のm-floなんかがどんどん出てきた。
そういった人たちが作り出した上昇気流にうまく乗ったのが、宇多田ヒカル。
北摂のロードサイドのCD売り場からは、その空気力学の作用がものすごくクリアに見えた。
とにかくあのアルバムはめちゃめちゃ売れた。北摂のキッズ&ギャルたちのど真ん中を突き刺した感じ。事件だった。
あとディーヴァ系の時代って実はかっちょいいプロデューサーの時代でもあって、朝本浩文や大沢伸一やDJ HASEBEといった人たちを追っかけるという感じで自分は認識していた記憶。
個人的にもちょうどハウスとかブレイクビーツの良さがわかってきた年頃で、好みの音だなって感じていた。
チャラいダンス・ポップで荒稼ぎ
当時のミサワランドでは、J-POP全般が当たり前に売れまくっていたのと同じぐらいのボリュームで、ダンス・ポップ系やユーロビートなんかが充実していた。
クラブの中でもいわゆるチャラ箱っていわれるような、ナンパ目的の男女が集まるハコでかかってるような楽曲。
具体的には、エイス・オブ・ベイス、ダイアナ・キング、スキャットマン・ジョン、ミー・アンド・マイ、アクア、チャンバワンバあたり。3年後にはブックオフの100円棚に並ぶような一発屋たちでもある。
そのあたりの曲をさらにダンスフロア対応でリミックスしたやつをいっぱいに詰め込んだオムニバスが、めっちゃ売れた。
「X-MIX」シリーズっていう海外のMIX CDのシリーズがヒットしたときには、社長が「X-MIX」っていう響きにピンときたらしく、レストランで「X-MIXカレー」なる新メニューを出したりした。何がXで何がMIXなのかは不明だが、それぐらいこの商売に可能性を感じていたんだと思う。
ジャケも中身もこんな感じのがウーハー効かせて爆音で鳴ってる店で深夜4時まで働いてた
そのあたりのCDは海外から直輸入していてミサワランドでしか手に入らないようなのも多かったので、めっちゃ強気の価格設定だった。
1,400円で仕入れて3,800円で売る、みたいな。
あと、日本版が2,500円で発売されているCDの、輸入盤を2,500円で売るということもよくやっていた。普通タワレコとかだったら輸入盤は1,800円とかで買えたりするじゃないですか。つまり仕入れ値は1,200円ぐらいなんだけど、それを2,500円で売っちゃう。
それでもめっちゃ売れてた。
情弱を騙すのに躊躇がないのはミサワランドの特徴。
ガバの聖地
独自の仕入れルートでアガるダンス・ポップをめっちゃ売っていき、どんどん深いところまでいった結果、ガバというジャンルの品揃えが充実していく。
ガバとは、オランダのロッテルダム発祥の、超高速BPMのハードコア・テクノのジャンル。石野卓球が一時期ハマって、電気グルーヴの曲のリミックスにむこうのアーティストを起用したりしていた。
その影響もあって日本では一部のサブカル界隈で話題になり、やがて雑誌「クイック・ジャパン」で特集が組まれることに。
でその特集ページで、なぜかガバのCDが充実しまくっている聖地としてミサワランドが紹介されたのだった。
たぶんクイック・ジャパンを読んで遠くからミサワランドに来てくれた人もいただろうけど、前述の通りの強気の値付けのため、CDを5枚買うと2万円ぐらいになったと思う。本当に気の毒である。
ミサワランドの最期
あれはたしか2000年のこと、近くにラウンドワンができたという話がスタッフの間に駆け巡った。
何かを悟ったような社員の苦い表情を思い出す。
自分はその年に上京してしまったので、その後のことはわからない。
ミサワランドのことは気にかかったけど、東京でバンドやってく期待と不安でそれどころじゃなかった。
そして数年、東京で目まぐるしい日々を送って久しぶりにあのあたりを通ったら、ミサワランドは跡形もなく更地になっていた。
さらに数年後にはマンションが建っていた。
最初からミサワランドなんてものはなかったかのように、そのマンションはロードサイドに溶け込んでおり、いつもそこを通るたびに山道で狐にばかされたような不思議な感覚になる。
でもたしかにそこにはかつてミサワランドがあった。
「アンダーグラウンド」という映画はユーゴスラビアという国の崩壊を描いた名作ですが、今日はそのラストシーンのセリフで締めたい。
苦痛と悲しみと喜びなしでは、子供たちにこう伝えられない。『むかし、あるところに国があった』
みんな元気にしてるだろうか。