1991年は中学3年生だった。
中高一貫校だったので受験がなく、人生でもっとも勉強をしなかった時期。
サッカー部は辞めていたし軽音楽部でバンドを始めるのは高校に入ってからだし、その間の空白期間で友達も減ったし何かをがんばった記憶が一切ない。
やっていたことといえば夜更かししてテレビやラジオの深夜番組をチェックしていたことと、いろんな音楽を聴きあさっていたこと。
FM802
当時の大阪ではFM802が開局したばかりで、とにかくこの局を聴いてることがイケてると思っていた。
特に何かがんばっているわけでもないくせに自分は人とは違うと思いたくて「洋楽聴いてる俺カッコイイ」を唯一の拠り所にしたかったのだった。
FM802のカウントダウン番組とかを聴いて流行っていた洋楽ヒッツを片っ端からチェックしていくなかで、ピンときたのがハードロック/ヘヴィ・メタル。
当時はメタリカとかガンズとかMr.BIGなんかがチャートの上位に入っていたので、洋楽ロックを聴くことイコールそういうことだった。そういう時代。
一方で、打ち込みっぽいバンドにも耳が反応していた。
当時のUKではストーン・ローゼズとかハッピー・マンデーズとかのいわゆるマンチェスター勢が盛り上がっていたし1991年といえばあのプライマル・スクリーム『スクリーマデリカ』がリリースされているんだけど、FM802のチャートをなぞっているだけの中3はそこまでたどり着けなかった。
だけどそれらのシーンの影響下にありつつよりポップにしたような存在がちょいちょい出てきていたのも1991年の特徴。その中ではEMFとかジーザス・ジョーンズとかが好きだった。
日本ではフリッパーズ・ギターが「ヘッド博士の世界塔」でやったような感じ。電気グルーヴの「FLASH PAPA」もこの年。
EMF - Children (Official Music Video)
重要な情報源
当時FM802と同じぐらい重要だった情報源が、「SONY MUSIC TV」という番組。
トークもなにもなくひたすら洋楽のPVが流れ続けるというだけのテレビ神奈川の番組を、KBS京都というUHF局で観ていた。
どんな背景があるアーティストだとかどんなジャンルだとかいった文脈が一切なしの状態でPVだけで好きか嫌いか感じるというのは、いい体験だったと思う。
【懐かしい映像】SONY MUSIC TV オープニング 1989年
半年に一回ぐらいメタル特集をやってくれるので特にその回は録画して熱心に観ていた。
それ以外の回は、大量の興味ない曲のなかにたまに好きな感じの曲が流れるため、ビデオの編集もできないしテープが何本あっても足りないということで、基本的に録画はしてなかった。
そんな感じで毎週ナマでチェックしていたある日、とある曲の映像にめちゃめちゃ衝撃をうける。
アーティスト名は控えたのでCDは買えたけど、あのビデオを何としてももう一回観たい。
いろいろ考えてたどり着いたソリューションが、デジタルジュークボックス。
あのボーリング場の空いてるレーンの画面で流れてるあれ。
高校の近くのJR高槻駅前のロッテリアにデジタルジュークボックスがあることを知り、毎日のように友達と通いつめ、コーラ一杯で粘りつつ100円玉を投入してその曲のPVを観ていたのだった。
きみたちがyoutubeで無料で好きなだけ観てるPVを、おじさんはそういう苦労をして観ていました。知るかって言われると思うけど。
で、1991年のJR高槻駅前のロッテリアでもっとも流れたPVはこれ。
Red Hot Chili Peppers - Give It Away [Official Music Video]
このキモチワルイ映像に、中3のわたくしはとんでもなくハマったのでした。
そしてこの曲が収録されたアルバムは何千回と聴きまくったし、アルバムのレコーディングを追ったドキュメンタリー映像も観た。
1991年9月24日
後から調べてわかったことなんだけど、90年代以降のロックの歴史を変えてしまった2枚の重要なアルバムが、偶然にも同じ1991年9月24日に発売されている。
1枚目は前述のレッチリの「BLOOD SUGAR SEX MAGIK」。
のちに世界一の現役バンドになるレッチリも、このアルバムが出るまでは、白人なのにファンクをやるバンドとか、ラップをやるロックバンドとか、ベーシストが超絶テクとか、そういう話題性で語られてる感じだった。
このアルバムがめっちゃ評価され、レッチリは大物バンドの仲間入りを果たしていくし、またこういうファンクな要素のあるロックがブームになっていく。和製英語では「ミクスチャー」と呼ばれた。
そして、同じ日にリリースされたもう1枚の決定的なアルバムというのが、ニルヴァーナの「NEVERMIND」。
このアルバムによって、アメリカのロックのトレンドが一気に変わっていく。
そのあたりの経緯はこの記事に書いたのでよかったらどうぞ。
guatarro.hatenablog.com
自分もまんまとこの波に飲み込まれ、それまでメタル少年だったのが、一気にオルタナ/グランジ化していく。FM802や「SONY MUSIC TV」でもメタルが減っていく。
ただし節操なくなんでも聴いていたので、メタルを完全に捨てたわけではなく、この後、よりハードなスラッシュメタルやデスメタルに触手を伸ばしていくことになる。
一方日本ではバンドブームが終わりかけていた
日本の音楽に興味がなかったわけではなく、バンドブーム期のバンドはいろいろ聴いていた。
1989~1990年ぐらいは深夜のテレビにバンドがいっぱい出ていたり、デビューの話もけっこうあったんだけど、1991年にはちょっと下火になってきてる雰囲気が中学生ながら感じられた。
デビューしたバンドはいても、ライブハウスから叩き上げた感じというよりは、大人たちによって作られた感があるバンドが目立つなと思っていた。まあ実態はどうあれ、好きな感じじゃないなと思っていた。のちのビーイング系とかがバンドブームと入れ替わるように出てきた時期。
そんな中でハマっていたのが、すかんち。
「ダウンタウンのごっつええ感じ」の主題歌になってブレイクするまでに2枚のアルバムをリリースしていて、その2枚をめちゃめちゃ聴き込んでいた。
60年代のブリティッシュ・ロックや日本の歌謡曲の引用がめちゃめちゃ多いすかんちだけど、中3にはわかるはずもなく、普通にかっこいいと思って聴いてた。また歌詞がストーカー気質だったり妄想がすぎる感じで、ちょっといいなと思ってた女子にカセットテープを貸してすかんちの良さを力説したらドン引きされたという苦い思い出あり。
あとは筋肉少女帯。
メタル少年には音楽性がどストライクだったのと、自分は他人とは違うっていう中3の気分に大槻ケンヂの歌詞がハマるハマる。
1990年に「サーカス団パノラマ島へ帰る」「月光蟲」、1991年には「断罪!断罪!また断罪!」という名盤を立て続けにリリースし、メタル期の筋少の黄金時代って時期に間に合った。ナゴム時代から追っかけてるおねえさま方にはかなわないけど、今となってはそれなりに古参ということ。
上々颱風。
関西の深夜ラジオのなかではABC朝日放送が音楽性の面ではもっとも尖っていて、いろんなおもしろいものに出会うきっかけをくれた。上々颱風もそのひとつ。
当時うちの母親がワールドミュージックに興味をもっていて、細野晴臣が監修したコンピなんかを母子でよく聴いていたんだけど、その流れで、これ好きだってすぐ思った。
80年代末ぐらいから「エスニック」って言葉がちょっとしたトレンドワードになっていたんだよな。映画版「AKIRA」の音楽に芸能山城組のガムランが使われたりとか、タイ料理とか激辛カレーとか。
河内家菊水丸がちょっと流行ったのもいうたら同じ文脈だと思う。日本の中のエスニックな存在というか。
圧倒的だったユニコーン
そんな感じで、中3にしてはわれながらセンスよく雑食してたなと思うんだけど、もっともハマっていた日本のバンドは、なんといってもユニコーン。
1989年に「服部」、1990年に「ケダモノの嵐」という名盤を立て続けにリリースし、人気・実力ともにすごいことになっていた時期。音楽性の幅広さ、アイドルから本格派に毎年進化していく感じ、メンバーがみんな曲書いて歌えるところなど、ビートルズと比較するような言われ方もされるようになっていた。
しかし、1970年代前半生まれの男性(つまり1991年当時に大人だった)からすると、ユニコーンといえば若い女の子向けのアイドルバンドみたいに見られてて、あまりちゃんと評価されてなかった。先輩バンドマンとかスタジオのおにいさん連中に、ユニコーンが好きって言ったら軽くバカにされる空気あったもんな。
そんなユニコーンが、1991年にリリースしたのが「ヒゲとボイン」。
当時インタビューで奥田民生は「このアルバムの良さがわかるのは20代後半以上だけ」みたいなことを言っていて、捨てられた!って思ったし、メインのファン層はそれこそ10代〜20代前半の女性だっただけに、そこ全部捨てるのかってびっくりしたもんだった。
でも音を聴いてみたら確かにそうで、デビューから数年でどんどん枯れていき、複雑だったコード進行はひたすらシンプルになり、音数も減り、引き算の美学がすごかった。音楽性の幅は相変わらず広いんだけど、70年代のちょっと黒くて渋いロックが中心。
中3にはちょっと早いんだけど、食らいついて聴き込むことで良さがわかってきて、とにかく愛聴していた。
ユニコーンはとにかく大好きで。
めっちゃ曲がいいというだけでなく、たとえば歌詞カードのスタッフのクレジットで遊んでいたりとか、インタビューでふざけていたりとか、なんていうか遊んでいるみたいに仕事している感じにすごく憧れた。
音楽を仕事にするっていうことがこういうことなんだったら、なんてすばらしいんだと思った。
ダサい中高一貫の男子校でくすぶっていた中3が、よりどころになるものを見つけたような気になった瞬間。
いろんな音楽を浴びるように聴いて、自分なりに味わいどころがわかってきた時期でもあり、自分で音楽をやってみたいと思いはじめたのが1991年だった。
その後、20代30代をほぼ丸ごとバンドマンとして過ごし、今でもこんなブログやったり90年代J-POPを語るトークイベントをやったりしてるわけで。
あ、そうそう。90年代J-POPを語るトークイベントといえば、4月1日にこんなのやります。
LL教室の試験に出ない90年代J-POP 1991年編
【出演】LL教室(森野誠一、ハシノイチロウ、矢野利裕)ゲスト:星野概念(ほしの・がいねん)
【会場】荻窪ベルベットサン
【開場】18:00
【開演】18:30
【料金】1,500円+税 (1ドリンク別)
90年代J-POPを1年刻みで深掘りしていくトークイベントの2回目。
前回は元BEAT CRUSADERS〜THE STARBEMSの日高央(ヒダカトオル)さんをお招きして、CDがもっとも売れたバブル期にしてインディーズ界も活気があった1998年を取り上げて大盛り上がり。
そして今回のゲストは、精神科医にしてミュージシャンの星野概念くんをお迎えします!
星野くんは実は10年ぐらいまえからの付き合いで、お互いに当時やっていたバンドで対バンするなど交流があって。最近では彼がやっている星野概念実験室という音楽グループのライブに参加してカホンを叩いたり。
昔からすごくおもしろい人物だったんだけど、最近それが世の中にバレてきて、いろんなところで連載を持つようになっていたり、先月にはなんとあのいとうせいこうさんとの共著「ラブという薬」を出版。
そんな星野くんと一緒に掘り下げていくのは、トレンディドラマ全盛の1991年。
「101回目のプロポーズ」の「SAY YES」をはじめとする当時のJ-POPを”診察”してくれるそうです。
おもしろいことになりそうな予感しかしない。
ぜひお越しください。