森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

荻野目洋子「ダンシング・ヒーロー」のリバイバルはどう考えても必然


輝く!日本レコード大賞 ダンシングヒーロー

 

ダンシング・ヒーロー」は日本語カバーですよ

登美丘高校ダンス部の「バブリーダンス」で今年リバイバルヒットした荻野目洋子の「ダンシング・ヒーロー」。

この曲は1985年にリリースされたANGIE GOLDって人の「Eat You Up」に日本語で歌詞をつけて歌った、いわゆる日本語カバー。


ANGIE GOLD - EAT YOU UP ( V.J ANDRES FABIAN C.R AUDIO HQ )

 

80年代後半は、「ダンシング・ヒーロー」以外にも洋楽のヒット曲(特にユーロビート)の日本語カバーがいくつもお茶の間に登場した時代だった。

代表的なのはこんな感じだけど、日本語カバーだと意識せずに聴いていた人が多かったように思う。

小林麻美「雨音はショパンの調べ」1984

石井明美CHA-CHA-CHA」1986年

長山洋子「ヴィーナス」1986年

BaBe「ギヴ・ミー・アップ」1987年

森川由加里「SHOW ME」1987年

Wink「愛が止まらない」1988年

 

他にも売れなかったけど同じ発想で売り出された日本語カバー曲が大量に存在していて、そういったあたりの発掘をライフワークにしている自分のような人間にとって、80年代後半は50〜60年代前半と並ぶ黄金時代になっている。

 

日本語カバーについての大胆な(大ざっぱな)仮説

ではなぜここが黄金時代だったのか、戦後の歌謡曲〜J-POP史のなかで、日本語カバーが多い時期と少ない時期がはっきり分かれる傾向があるのはなぜか。

ほとんどの人にとっては完全にどうでもいいことだと思うけど、その理由を自分なりにまじめに考えてみてひとつの仮説を立てるに至ったので、今日はその話をさせてください。

 

その仮説というのが、「アーティスト主義」の時代は日本語カバー曲が少ない説

 

この先、大ざっぱな話しかしませんが、もしよかったら戦後〜2017年までの歌謡曲〜J-POP史を「アーティスト主義」というキーワードでちょっとふりかえってみて、一緒に仮説を検討してみてほしい。

 

第一次黄金時代と最初の冬の時代

戦後〜60年代なかばぐらいまでの高度成長期は、歌謡曲にアーティスト性などは特に求められておらず、みんなで歌える歌、踊れる音楽、スターを輝かせる曲があればよかった。そして作詞家と作曲家と歌手は明確に分かれていた。つまり職人の時代。

そんな時代、海外で流行した歌に日本語の歌詞をつけて歌うことは、とても一般的だった。

ところが60年代なかばから、ビートルズ来日の影響により、自分で作詞作曲して歌う「自作自演」に対する志向が日本にも芽生えてきて、また学生運動などの動きから、若者が自分の言葉でメッセージを歌うフォークソングがリアルだと感じられるようになってくる。つまりアーティスト主義の時代。

そうなると、おっさんの作詞家やカバー曲は敬遠され、日本語カバー曲が一気に減ってくる。

 

第二次黄金時代と長い冬の時代

再び日本語カバーが増えてくるのは70年代後半。

アーティストとしての自我が芽生える前の10代でデビューするアイドル歌手(花の中三トリオ新御三家など)が注目を集めたことと、音楽性の面では、歌詞にメッセージ性が希薄なディスコ音楽が流行ってきたことが大きい。

ダンシング・ヒーロー」に代表される80年代後半のユーロビート系日本語カバーは、その流れが実を結んだものと言える。

しかし前述した以外にも本当に大量の日本語カバー曲がリリースされた黄金時代だったが、バブル崩壊と連動するかのように終わっていく。

 

そして90年代は再びアーティスト主義の時代へ。

 

実は80年代後半はお茶の間的にはアイドル全盛、ディスコやユーロビート全盛だった一方で、パンクやメタルを中心としたインディーズバンドの動きも始まっていて、その流れが1989年の「いかすバンド天国」からのバンドブームにつながっていく。

1990年前後は、とにかくバンドであればなんでも売れた。

逆に、アイドルは自分の言葉を持たずからっぽでオトナの言いなりのように見えたため、一気に衰退。菊池桃子がラ・ムーを結成するなど、アイドルではなくアーティストだと名乗ることで生き残りを図るしかなくなった。リンドバーグもその流れ。

 

で、昔も今もロックバンドは自作自演が当たり前。日本語カバー曲はほとんどみられなくなってしまう。日本語カバー冬の時代の到来。

バンドブーム自体は1993年頃にはあっさり終わるが、アーティスト主義の時代はその後も続く。

たとえば、世が世なら浜崎あゆみはアイドル歌手として売り出され、プロの作詞家が提供した歌詞を歌っていたはずだが、90年代の雰囲気のなかでは、自分で歌詞を書くことが女子高生の共感を生むために必要なことだった。秋元康あたりは息を潜めて、潮目が変わるのを待っていたはず。

 

もしかしたら第三次黄金時代

わりと長かったアーティスト主義の時代(=日本語カバー冬の時代)が終わったのは、21世紀に入ってから。

00年代後半ぐらいから、アイドルをやっていることや、アイドルを好きでいることに、ポジティブな意味が見出されるようになってきた感じがあった。

今も続いてるこのムードの中では、自分で歌詞を書いているかどうかはほとんど気にされていない。

つまり、日本語カバーが登場しやすい世相になったと言える。

 

実際、たとえばLDH勢は積極的に日本語カバー曲をリリースしている。

EXILELAST CHRISTMAS」2008年

E-girls「THE NEVER ENDING STORY」2013年

DOBERMAN INFINITY「JUMP AROUND ∞」2015年

Dream Ami「Lovefool -好きだって言って-」2016年

 

とはいえ、かつての黄金時代に比べると数は少ないし、何よりもリアルタイムのヒット曲のカバーが少ない。MACOの「私たちは絶対に絶対にヨリを戻したりしない」ぐらい。LDH勢が取り上げているのは80〜90年代のヒット曲ばかり。

80年代のユーロビートと同じような感じで享楽的なEDMのアガる曲を日本語カバーしてもいいように思うが、そういった動きはほとんど見られない。

 

なぜ80〜90年代のカバーばかりなのか

これはどういうことかというと、お茶の間まで届いている洋楽のヒット曲が少ないということがまず大きいのではないか。

80年代のMTVヒットはわりとお茶の間に届いていたような気がしていて、特に積極的に情報を取りに行かなくても、テレビの前で過ごしているだけで、海外で流行っている曲は耳に届いていた。一方、ここ数年の海外のヒット曲でお茶の間に届いたものといえばレディー・ガガファレル・ウィリアムステイラー・スウィフトぐらいか。

そんな状況なので、流行ってない曲は売れないしカバーされにくい。

流行ってないけどめっちゃいい曲だからカバーしようという気風も昔は存在していたけど、現代ではわざわざそんな面倒なことをしなくても、曲を作りたい人間は国内に腐るほどいるし。

 

それと、「洋楽」という言葉の神通力が、今の10〜20代にはもう通用しなくなっているのかもしれない。

むしろCardigansの「Lovefool」あたりに顕著だけど、おっさん世代をニヤリとさせるためのキーワードとして機能させようという意図で選曲されている(案の定ニヤリとさせられている自分がいる)。

 

 

まとめると、2017年は日本語カバー曲が生まれやすい時代であると。

そして、リアルタイムの曲よりもかつての「洋楽」を感じさせる曲ならなおよしと。

といった背景があるので、荻野目洋子ダンシング・ヒーロー」のリバイバルヒットは必然だと言わざるをえない。

バブリーダンスがきっかけになったことは間違いないが、それだけではここまでの現象になってないと思われる。時代の空気にばっちりハマったからこそではないか。

 

以上、好事家のひとりとして、次の冬が来る前に世の中に一曲でも多くの日本語カバーが出回ってくれることを切に願いつつ。おわり。

 

 

<おまけ>

陳慧嫻(プリシラ・チャン)によって広東語カバーされた香港版「ダンシング・ヒーロー」。かわいい。


陳慧嫻 跳舞街 1986勁歌金曲DISCO最受歡迎歌曲頒獎 胡楓 蕭芳芳 俞琤