森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

「大人」の対義語が「子供」じゃなくなったのはJ-POPのせいです

「自分は大人だと思う」

 

17〜19歳へのアンケートで「自分は大人だと思う」と答えた日本人は27%しかおらず、他国と比べて圧倒的に低い割合だったらしい。

 

「自分は大人」日本は約3割 6か国中最低 18歳前後への意識調査 | NHK | 18歳 成人年齢引き下げ

 

 

いろんなことを考えさせられるニュースだけど、じゃあ自分が18歳ぐらいのときに「自分は大人だと思う」と答えたか?っていうと、全然自信がない。

 

さすがに今は自分が大人だと思っているけど、そう思えるようになったのはたぶん35歳ぐらいの頃。20代なんてほんとフワフワしてたしな。

 

じゃあなんで自分が大人だと思えないのか。かつての自分は思えてなかったのか。

日本人特有の謙遜みたいなものは大いに影響しているとは思う。自分なんてまだまだ若造ッス!若輩者なんで!みたいな。

ただ、それを差し引いても低すぎるように感じるので、その原因を掘り下げてみたい。

 

「大人」の定義

このアンケートは日本以外にアメリカ・イギリス・中国・韓国・インドでも行われた。

それぞれの国で、「大人」はなんていう単語で表現されて、どういうニュアンスを含んでいるんだろうか。

それぞれの国では「大人」の対義語として、どんな言葉がイメージされるだろうか。

 

日本では「大人」という言葉にネガティブなイメージが多分に含まれている。

「大人」の対義語は「子供」とか「幼さ」ではなく、「純粋」「誠実」「不器用」「無垢」でしょう。

 

たとえば、アーティストやアイドルが言う「大人」って、お金や数字のことばかり考えている事務所やレーベルの人間のことであり、自分とファンの間に立ちはだかる障壁みたいな存在として語られる。

もちろん、アーティストやアイドルにとっては、スケジュールやお金の管理や事務処理など、マネジメント全般を任せている信頼できる人たちなんだろう。

しかし、活動をしていくなかで、スポンサーとか様々なしがらみのなかで、時にファンに対して時期が来るまで伏せたり、本当のことを明かせなかったりすることがある。そういうときに言われるのが、「大人の事情で」というやつ。

 

アーティストやアイドルは、純粋に創作やパフォーマンスのことだけに集中して、ファンとも誠実に向き合いたいと思っている。そうじゃない振る舞いは「大人」のせい。

 

あと、ドラマやアニメにおいて、「お前も大人になれよ」ってセリフが吐かれるシーンを見たこと、何度かあるでしょう。

こういうセリフはだいたい、間違ってることは間違ってるって言わないと気がすまない!っていう純粋な主人公に向かって言われるもんだけど、感情移入して見てる側は、「やっぱそうですよね、よし大人になろう!」ってならない。

青少年向けのストーリーものにおいて、清濁併せ呑んでる主人公って平成以降ちょっと見当たらないんじゃないか。

 

「大人」という言葉のこういう使われ方に触れてきた若者に前述のアンケートを実施したら、そりゃ「自分は大人だと思う」なんて答えないだろう。

 

J-POPが「大人」を殺した

日本語の「大人」の意味をこんなふうにしてしまったのは誰か。

 

以前こんな記事を書いたわたくしですが、今回もやはりJ-POPを主犯だと決めつけたい。

J-POPが「大人」を殺したと。

 

J-POPが新聞を殺した - 森の掟 | ニュートピ! - Twitterで話題のニュースをお届け!

 

かつて、日本の大衆的なポピュラー音楽は歌謡曲と呼ばれていた。

昭和の末期から平成の初めごろにかけて、J-POPと呼ばれる音楽がその地位を奪い、現在に至る。

その際、歌謡曲にあってJ-POPになかったもの、その差分がすっぽりと抜け落ちたんじゃなかろうか。

 

その差分こそが「大人」成分だと思う。

 

J-POPの世界にはかっこいい大人の居場所は基本的になく、大人というのは、わかってくれないものであり、なりたくないものであり、いつかなってしまうものであり、無様にもなってしまったものでしかない。

 

 

欅坂46サイレントマジョリティー」2016年

君は君らしく生きて行く自由があるんだ

大人たちに支配されるな

 

THE BLUE HEARTS「1985」1985年

僕達を縛り付けて一人ぼっちにさせようとした全ての大人に感謝します

 

平井大「WISH」2022年

群青の空、子供達の声

その向こうで言い合う大人達よどうして?

あの子達を見習えないの?

 

BAKU「ピーターパン」1994年

大人になんかはならないよ勝手気ままに生きるのさ

そんな僕を大人達はピーターパンとけなす

 

ハチ「リンネ」2010年

カラスは言う カラスは言う

「あの頃にはきっと戻れないぜ」

「君はもう大人になってしまった」

 

ヨルシカ「藍二乗」2019年

あの頃ずっと頭に描いた夢も大人になるほど時効になっていく

 

歌詞の中に「大人」が出てくる曲は探せばいくらでも見つかるけど、アーティストの芸風や年代やジャンルを問わず、ほとんどすべての曲でこんな感じの扱い。

 

つまり、J-POPにおける最大公約数な一般意志みたいなものがあって、その核になっている価値観が、「大人」とは対極にあるものってこと。

 

この30年間、J-POPが大人を拒絶し続けた結果として、日本語における「大人」にネガティブなニュアンスがこびりついてしまった。

 

アンチ大人戦略の合理性

2020年代のJ-POPに特徴的な音楽的特徴のひとつに、邦ロックからの影響が挙げられる。

BUMP OF CHICKEN以降の、疾走感と瑞々しさを備えたロックバンド編成のサウンド

バンド名義のアーティストでなくても、邦ロックな音は随所に見られる。

 

シティポップやK-POP的なサウンド2020年代のJ-POPに特徴的だけど、それらと比べて、邦ロック的なアプローチをとっている楽曲は、歌詞の面でもアンチ大人戦略をとりがちな傾向があるんじゃないか。ここは調べられてないので印象論ですが。

 

そういえば、全世界にみてヒットチャートにこんなにもバンドサウンドがたくさん入っているのは日本だけっていう話もあるので、前述のアンケートで「自分は大人だと思う」と答えた割合が日本だけ極端に少ないことと関係あったりして。

 

たしかに、大人になってしまった自分が二度と戻れないあの頃を振り返るみたいなモチーフなんかは、いい年した自分が聴いてもキュンとする。

 

日本人は昔から、桜が散るとか夏が終わるとかそういう儚いのが好きすぎるし、高校野球とか箱根駅伝みたいなアマチュアリズムも好きすぎる。

 

また、アーティストの自意識としても、同世代が就職活動して社会に順応していく中で自分はいつまでもバンドとかやったりして…みたいな20代を過ごした人が大半なので、そういう人種が紡ぐリアルな言葉はどうしてもそうなる。

 

いろんな意味でアンチ大人戦略は理にかなってるんだよな。

 

 

と、ここまで書いてきて衝撃のデータを発見。

 

 

 

2013年のデータなので、60〜74歳てことは1939〜1953年生まれ。つまり団塊の世代を含んでる。

60〜74歳なんて大人どころかもう老人でしょ、何考えてるんだって思ったけど、いや、自分が大人だと思ってなさそうな団塊、割といそうだな。

 

この世代って、大人たちのひんしゅくを買いながら、髪を伸ばしてジーパン履いてギターをかき鳴らしていたわけで。

 

J-POPのアンチ大人戦略のルーツも、岡林信康とか吉田拓郎あたりまで遡れるんだよな。

つまり50年以上の歴史があります。

 

これはもう日本の伝統文化。

 

 

美学校「歌謡曲〜J-POPの歴史から学ぶ音楽入門・実作編」2021年度をふりかえって

今年度、美学校で「歌謡曲〜J-POPの歴史から学ぶ音楽入門・実作編」という講座を担当しました。

 

そして、ありがたいことにこの講座を来年度もやらせていただくことになりましたので、受講を検討されている方の参考になればと思い、今年度の講義をふりかえってみようと思います。

 

年間の授業内容はこんな感じでした。

第1回

概論「リズム歌謡」を考える(1)/1945-1968

第2回

講評①

第3回

「リズム歌謡」を考える(2)/1945-1968

第4回

講評②

第5回

フォーク~ニューミュージック/1969-1976

第6回

講評③

第7回

バブル・YMO・産業ロック/1977-1989

第8回

講評④

第9回

「J-POP」を考える/1990~2000

第10回

講評⑤

第11回

ポスト「J-POP」を考える/2000~

第12回

講評⑥

 

進め方は

  1. 戦後から2020年代までを時代ごとに5つに分け、それぞれの時代の音楽の特徴をじっくり解説します。
  2. 講義の最後に、その時代ごとの音楽の特徴をふまえた課題をお出しします。
  3. 各自で課題にそった楽曲や歌詞、コンセプトなどを制作していただきます。
  4. 次回の講座でわれわれが具体的な講評やアドバイスをします。質疑応答もたっぷり。

これをひとつのサイクルとして、6回繰り返します。

 

ちなみに、教室に足を運んでの受講のほかに、ZOOMを通じてのリアルタイムオンライン受講や、後日動画のアーカイブをご覧いただくことも可能ですので、日曜の夜のスケジュールが合わせづらい方や、地方在住の方でも大歓迎です!

今年度の受講生にもオンライン参加オンリーの方がおられましたが、結局課題の提出率はその方がもっとも高かったので、離れていることはあまり不利にはなっておらず、参加意識次第かなと思いました!

 

講義の特徴

日本のポピュラー音楽を通史的に語るやり方はいろんな切り口があります。

 

われわれLL教室が意識したのは、時代ごとの音楽のスタイルや産業構造や世の中の空気と、アーティスト個人の人間性のかかわりを見ていくこと。

 

その際、「洋楽分の邦楽」という切り口を提唱した大滝詠一の分母分子論と、そこからインスパイアされて「規格分の人格」と捉えなおしたマキタスポーツの分母分子論を思考の枠組みとしてフル活用しました。

 

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▲実際の講義資料より。分母分子論の重要性について

 

どんな名曲であっても、天才が何もないところから生み出したわけではなく、必ず時代の影響を受けていると思っています。

 

時代の影響といっても、単に流行していたジャンルを取り入れたという部分にとどまりません。

 

録音機材、出身地、世の中の景気、政治、聴取環境、メディア、音楽以外の流行など、いろんな要素に影響をうけてポピュラー音楽は生まれます。

アーティスト本人はその各要素に自覚的だったり無意識だったりします。

 

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▲実際の講義資料より。音楽性そのものに影響を与えたテクノロジーの話

 

たとえば現在「シティポップ」と呼ばれている音楽について、当時はざっくりと「ニューミュージック」と呼ばれていたものの中から、一部が現在「シティポップ」と呼ばれるようになりましたが、その分かれ目はどこにあったか。

 

たとえば作詞家という商売が定期的に注目されたり廃れたりしてきたのはなぜか。

 

たとえばウォークマンやカラオケやサブスクはヒットする曲の傾向をどう変えたのか。

 

こういった各時代ごとのトピックについて掘り下げていきつつ、70年以上の時代全体を通して、ヒット曲の構造に共通するものを取り出していこうとしています。

 

課題は経験者向けと未経験者向けの2種類

今年度の受講者の方は、すでにしっかりした環境で楽曲制作の経験が豊富な方から、作詞作曲などまったくの初心者という方まで幅広かったため、課題については2つの軸を用意することを心がけていました。

 

■経験者向け課題

作詞作曲や編曲がすでにできる方であっても、手クセからの脱却は難しいです。

また、尺やコンセプトなどについて制約がある発注にこたえるという部分も、ある程度の経験や発想の転換が必要になります。

 

自由でクリエイティブな楽曲制作と、お金のためにやる楽曲制作というのは本当に対極にあるものなのか?という問いに、戦後の日本の音楽家たちの歩みを考えることで答えを見出してもらえればと思っています。

 

われわれLL教室には、自身のバンドでのリリースと、テレビ番組やCMのための楽曲制作の両方に経験豊富な森野さんがいます。

今年度も的確なアドバイスをしていました。

 

制約があってこそ生まれるクリエイティビティというものは確かにあって、それこそが日本のポピュラー音楽を発展させてきたと思います。講義ではそのあたりも詳しくお伝えしています。

 

■未経験者向け課題

作詞作曲どころか楽器の経験もほぼないという受講生もおられました。

それでも作詞作曲してみたいという熱意をお持ちだったので、なんとかしてこの1年弱でそこまでたどり着けるように伴走しました。

 

最初は、戦後たくさん存在した「カバーポップス」すなわち洋楽の日本語カバーに挑戦してもらいました。原曲があり、漣健児による日本語詞もある曲に、あらたな日本語の歌詞を書いてみるという取り組み。

次に、インストゥルメンタルの曲に歌詞とメロディをつけてみるという課題。

考え方のヒントをいくつかお出しし、また講義以外の時間にはDiscordというツールで質問にお答えしながら、最終的に作曲とよべるところまで到達しました。

 

音楽理論やコード進行の知識がなくても作曲はできるという体験をしてもらえました。

 

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▲実際の講義資料より。それぞれのスキルや志向に応じて複数の課題を出しています。

 

年間の講義を通して伝えたかったこと

すでに自身で楽曲制作をしている方には、制約がある状態でつくった楽曲に、それでも自分の作家性がにじんでしまうおもしろさを味わっていただきたいです。

 

オリジナリティというものに過度に囚われることなく、広い視野で俯瞰してもらって、今後の活動のヒントにしてもらえればと思っています。

たぶん自信がつくと思いますし、幅は間違いなく広がります。

 

作詞作曲が未経験な方には、極限までハードルを下げますので、理論なしに音楽を作ってみるという体験をしていただきます。

 

さらにもっと作ってみたいと思ってもらえたら、次のステップの示唆もしますし、少なくとも今後のリスナーとしての音楽体験は間違いなく豊かになるはずです。

 

子供の頃に食べていたごはんの味と、自分で料理をする経験をしたあとで食べるごはんの味は、決定的に違っていると思います。

 

また、リスナーというよりも一歩踏み込んで音楽批評やライティングに関心がある方にも、われわれが提示する切り口を踏み台にしてもらって、自分なりの語りを見つけるヒントを大量にお出しできると思っています。

 

われわれLL教室には、ノベルティソングという概念やジャニーズ関連の著作がある矢野利裕くんがいます。特にその分野については強みがあります。

 

 

むしろ、講義の時間やわれわれ3人の専門性の制約から、軽く触れるだけにとどまらざるを得ないトピックはたくさん出てきますし、われわれも一緒に勉強したいと思っていますので、講義の後にDiscordで議論を深めるようなことができたらと思います。

 

 

皆様の受講を心よりお待ちしています!

講義の概要やFAQはこちらからどうぞ。フォームでの質問も可能です。

 

われわれのインタビューもご参照ください。

 

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『ゴーストバスターズ アフターライフ』映画評と2015年リブート版の供養(ネタバレあり)

30年ぶりの続編

ゴーストバスターズ アフターライフ』が公開された。

 

1984年に公開され世界的な大ヒットとなった『ゴーストバスターズ』、そして5年後の続編『ゴーストバスターズ2』は、いまだに多くのファンをもつ作品。

かくいう自分もその一人で、80年代に何度かテレビで第一作目が放映されて気に入り、2はリアルタイムで観た。ファミコンでゲーム化されたやつもやった。

 

 

 

今回の『アフターライフ』は2から30年ぶりの正統な続編ということですが、実はその間にリブート版が存在してる。

 

ただリブート版は初期2作とは異なる世界線の話として作られているので、話は繋がらない。今回『アフターライフ』を観るにあたっての予習からは外してOK。

(ただしリブート版は駄作でも蛇足でもないですしその理由はこの後くわしく説明してます)

 

「ニューヨーク性」がたまらない初期2作

初期2作の舞台は80年代のニューヨーク。

 

主人公は、怪しげな超自然現象を研究してるせいで大学を追い出されてゴーストバスターズ業を起業することになった科学者3人と中途採用の1人。

オンリーワンな技術で街のゴースト退治を進めていくうちに、世界を破滅に導かんとする巨大な超自然的存在に立ち向かうことになり‥というお話。

 

ところが、実家を担保に借金して起業し周囲の理解もなく追い詰められ、終盤にはニューヨーク全体どころか世界の存亡が自分たちにかかっているというのに、軽口をたたきあったりしていていまいち深刻さがない。

 

有名なマシュマロマンも、世界を破滅に導くモノの姿を自分で選べと言われて、みんなできるだけ何も考えないようにしてたのに、つい思わず頭の中に思い浮かんでしまったのがあの姿だった、という経緯だったり。

 

 

終始そんな感じの軽薄でとぼけたノリのまま飄々と世界を救ってしまうゴーストバスターズに、幼少期の自分はすっかり憧れてしまったのだった。

 

それは、こんな大人たちがいるニューヨークっていう大都会に対する憧れでもあった。

 

実際、第一作の最後のセリフは、ウィンストンが叫ぶ「I love this town!」だった。

(吹き替えだと「この街だいすきだ」、字幕だと「ニューヨーク万歳」)

 

活気にあふれていて、自由な大人たちが人生を謳歌してる、そんなニューヨーク。

一方で、世界中から集ったものすごい数の人間が生き馬の目を抜くバトルを繰り広げ、怨念が地層みたいに200年ぶん積み重なった魔都としての顔もある。

 

1989年の続編では、そんな都市生活者たちの生む膨大な負のパワーが、禍々しい古代の悪者が蘇るエネルギーになったりもする。

 

つまり、『ゴーストバスターズ』っていうのは、ニューヨークならではのお話。

 

リブート版は時代より5年早かった

2015年のリブート版は、大学を追い出されて起業すること、4人目のメンバーは黒人で中途採用などの骨格部分は共通しつつ、主人公を女性科学者にするという大胆かつ現代的な意欲作だった。

また、主演に当時のアメリカを代表するコメディアンを起用しているという点もオリジナル版と共通している。

 

ただ、このリブート版は、アメリカを中心に往年のファンに激しくバッシングをくらってしまった。

 

主要キャスト全員女性の新『ゴーストバスターズ』に非難、ハリウッド性差別問題 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

 

「俺たちのゴーストバスターズフェミニズムの道具にするなんて許せん!」みたいな感情をそのまま吐き出すのは、2015年の当時も今もお行儀よくないけれど、そんな感情を裏に隠して「女だからっていうわけじゃないけど、単純にスベってるから嫌い」という、反論しづらいかたちで叩くことは可能だった。

 

世間の大多数にとってジェンダー意識が変わってきて、そういう時代だよねって普通に言えるようになってきたのはここ最近なので、今なら理不尽なバッシングはここまでいかなかったかもなと思う。

このリブート版は5年早かった。

 

個人的にはこのリブート版、ギャグも冴えてると思うし、キャラクターも魅力的だと思う。俺たちのゴーストバスターズが台無し!みたいな気持ちは全然わかなかった。

 

むしろ、人種も文化も多様な大都会で、みんなひとりの大人として自由に生きてるっていう、初期2作のキモであるニューヨーク性はしっかりと継承されているので、かなり好印象。

 

 

なので、今回『アフターライフ』が公開されると知ったとき、リブート版の続編がなくなったということでちょっと残念ではあった。

 

(『アフターライフ』のパンフレットを読むと、監督が今回の作品を撮るにあたってリブート版はとても重要だったとリスペクトの言葉を述べていて、ちょっと報われた気持ちにはなった)

 

 

過去作と対照的な『アフターライフ』

『アフターライフ』の予告編はかなり前から映画館で流れていたんだけど、そこに映っていたのは、アメリカの田舎と少年少女。

 

つまり、大都会ニューヨークで大人たちが活躍する、あのゴーストバスターズとはかなりかけ離れているわけで、正直自分もかなり不安な気持ちのまま映画館へ足を運んだ。

 

 

今回の主人公は12歳の少女、その兄とシングルマザーの母。

この母っていうのが、ゴーストバスターズのメンバーの一人だったイゴンの娘。

家賃を払えず追い出され、イゴンが晩年過ごしたオクラホマ州サマーヴィルの家に引っ越すところからストーリーが展開していく。

 

初期2作やリブート版の舞台であるニューヨークでは、基本的に誰がどんなことをしていようとも、干渉されない。登場人物はみんな独立した個人であり、タテの関係もない。

 

それと比べると、イゴンの娘たち家族が引っ越したオクラホマ州サマーヴィルは、みんな地に足をつけて家族と暮らしてるし、一方で隣人への陰口はすごい。

あらゆる面で初期2作&リブート版とは対照的な世界。

 

(ここからネタバレ)

過去作と対照的だった『アフターライフ』。

それでも、しみじみいい映画だった。

 

往年のファンとしては、あの車両(ECTO-1)がサイレンを鳴らして走ってるだけでアガるし、やっぱり最終的にオリジナルメンバーが揃ったところからは涙腺がもうダメでした。

 

ゴーザに「お前は神か?」と聞かれてどう答えるか、っていうのは30年越しの伏線回収ギャグになってるし、いちいち気が利いてた。

 

『アフターライフ』の主人公フィービーの祖父イゴンは、ゴーストバスターズの中では、まじめすぎるがゆえに変人というキャラだった。

その性質が隔世遺伝した主人公フィービーは、自分らしくあると世間になじめない。

フィービーの母は、イゴンが変人をこじらせて自分を捨てたと思い込んでいるので、娘が同じようになってしまうことを心配している。

最後に父の真の狙いや自分への思いがわかって、娘への気持ちが変わるという、母の側のドラマもしっかり描かれている。

 

そう、『アフターライフ』は、初期2作をリアルタイムで観ていた40代後半の親が、小中学生の子供と一緒に映画館に行くように作られてる。

我が家も完全にそうでした。

 

マーケティング的にも、ドラマの構造的にも、ゴーストバスターズは過去作のように独身貴族じゃなく親子である必要があった。

ちっちゃいマシュマロマンにケタケタ笑う小学生と、淡い恋愛にドキドキする中学生と、秘められた父の思いに涙する親とが、幅広く満足する映画になっている。

 

で、最後にオリジナルメンバーがエクト1を引き取って戻っていくのは、ニューヨーク!

ここで涙腺にダメ押し喰らった。

 

エンドロール後の落とし前

『アフターライフ』は、エンドロールの途中と最後に重要なシーンが2つあるので、最後まで席を立たないほうがよいです。

 

ひとつめ、初期2作のヒロインであるディナ(シガニー・ウィーバー)がピーターを相手にカードの透視テストをやるシーン。第1作でピーターはこのテストを悪用して女子学生を口説こうとするんだけど、あれは2022年の観客の価値観からするとやっぱりお行儀が悪く感じる。

それを30年越しに反省させることで、初期2作をすっきりした気分で見返せるように調整をかけたんだろう。リブート版をバッシングしてた男たちに向けてるって面もある。

 

もうひとつが、オリジナルメンバー唯一の黒人であるウィンストンが、ゴーストバスターズを辞めてから不動産業界でのし上がったことを述懐するシーン。

オリジナルメンバーの他の3人が白人で科学者なのに対して、ウィンストンは中途採用で「ちゃんと給料もらえるなら何でも信じるよ」みたいなことを言う低学歴キャラだったわけで、はっきりと差別的とまでは言えないまでも、やはり黒人へのステレオタイプを助長する存在だったことは否めない。

そんなウィンストンをビジネスの世界の成功者として描き、ゴーストバスターズでの経験があったからこそ現在の自分があると語らせることで、後づけだけどこっちも調整をかけてきたなと思った。

 

つまり『ゴーストバスターズ アフターライフ』は、往年のファン、青少年の新規顧客、そして現代の価値観という各方面に配慮が行き届きつつ、映画そのものとしてしっかり没頭して楽しめる、見事な出来でございました。

 

 

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バンドはけん玉だ

バンド音楽が厳しい

2010年代ぐらいから、世界的にロックバンドが売れなくなってきている。

2017年には、アメリカで最も売れたジャンルの座がロックからヒップホップ/R&Bに移ったというし、アメリカ最大規模のフェスであるコーチェラのヘッドライナーにロックバンドが選ばれることもなくなった。

90年代や00年代は若くてイキのいいバンドが次々に登場し、ロック界全体のモードが更新されていっていたけど、日本にいて検知できる規模では、もう長いことそういったことは起こっていない。

そこにきてこのコロナ禍でライブという場も奪われてしまい、けっこう厳しい状況になってきていると思う。

 

長いことバンドをやっていた人間として、またバンドの音楽を愛好する人間として、この状況は寂しい限りなんだけど、これってもう止められない傾向なんだろうか。

 

そのヒントを紅白歌合戦で見つけたので、今日はそのことについて書きます。

 

コロナ禍の紅白歌合戦

おととし2020年の紅白歌合戦は、出演者にコロナ感染者が出たりする大変な状況での開催となったため、NHKホールが無観客になったり、会場を3つに分けたりと、様々な対策を余儀なくされた。

その一環として、事前に収録した映像を流すというかたちでの出演になった歌手もいた。

 

紅白、5シーンが収録 Mr.Childrenや星野源:朝日新聞デジタル

 

その結果、この年の紅白歌合戦はかなり物足りない感じになってしまったと思う。

仕方がなかったこととはいえ、ライブじゃない部分があったことや、複数会場の切り替えによるつぎはぎ感によるものが大きいだろう。

 

NHKホールというひとつのハコにたくさんの演者と観客を詰め込んで、秒単位の仕切りで無秩序に詰め込んだ演出を繰り出すことで発生する、頭がクラクラするような独特のグルーヴ。それこそが紅白歌合戦だったんだなと再認識する機会になった。

 

 

翌2021年も引き続きコロナ禍での開催になったけど、感染状況がマシになっていたことに加え、2020年の反省に基づいた改善があったように思う。

特に、このご時世だし事前収録や遠隔地からの中継も仕方ないか…という共通認識を逆手に取った藤井風のサプライズ演出が象徴的だった。

 

また、紅白歌合戦のキモである混沌とライブ感を兼ね備えて、ある意味もっとも紅白っぽかったのが、三山ひろしのけん玉でしょう。

 

 

なぜ、「右を立てれば/左がへこむ/とかくこの世は/生きにくい」などという内容の歌のバックで、126人が次々にけん玉に挑戦するのか。

 

まじめに考えるだけ損だとは思うけど、ひとつ確実なのは、三山ひろしが紅白でけん玉ギネスに挑戦するのは5回目という事実。つまり人気があるコンテンツだということ。

 

紅白歌合戦でのけん玉の意義

では、紅白における事前収録の映像はなぜ物足りないと感じたのか。

 

たとえば、けん玉のギネス記録に挑戦という素材を事前に収録していたらどうだったか。

記録達成してすごいねということは同じはずなのに、ワクワク感は圧倒的に減るだろう。

それは、あらかじめ確定していた事実の再確認にしかならないから。

 

ギネス記録を更新したその瞬間に、テレビ越しとはいえ立ち会えるのと、数日前に記録達成していたという記録映像を見せられるのでは、体験としてまるで違う。

 

これって、口パクだったりオケを流すパフォーマンスに感じる物足りなさも、同じ仕組みだと思う。

 

けん玉を失敗するかもしれないというライブならではの緊張感は、音程を外すかもしれないという緊張感と同じ。

演奏についてもそうで、紅白に出るレベルのミュージシャンは今さらミスったりすることはないけど、それでも可能性としてドラムスティックが手からすっぽ抜けることや、ギターの弦が切れることはあり得るので、そのことが孕む緊張感ってやっぱりある。

 

もちろん、そういうマイナス面の緊張感だけでなく、生歌や生演奏が生む効果こそが音楽の醍醐味であることは言うまでもない。

紅白歌合戦は音楽番組なんだから、生のけん玉ではなく生の音楽のほうがより番組の趣旨にあってるわけで。

 

80年代までの音楽番組は生演奏が当たり前で、たとえば「夜のヒットスタジオ」におけるダン池田とニューブリードのBPM速めのノリノリの演奏は、レコードで聴けるバージョン以上の魅力を放っていた。

 

www.youtube.com

 

ライブの境目について考える

収録済みの映像を流すという場合、その先の未来が変わる分岐って、スタッフが映像を流すボタンを押すかどうかのタイミングにしかない。

 

一方、生演奏の場合、ひとつひとつの音を奏でるタイミングごとに、音を外す/強く弾く/弱く弾く/伸ばす/切る、みたいな分岐があって、それがミュージシャンの人数×音の数だけ存在する。そんな気が遠くなるほどの可能性があるなかで、現に奏でられた音というひとつのものに決まっていく。

当たり前すぎていちいち意識していないことだけど、だからライブってすごいと思う。

 

そう考えると、生歌や生演奏じゃなくても、口パクでのダンスパフォーマンスだって、立派にライブ感はある。

 

音楽以外でも、映画と舞台の違いはここにあるだろう。

生身の俳優が目の前で演じるという一回性は、映画では味わえないわけで。

 

映画は何回見ても同じだけど、舞台はアドリブがあったり上演を重ねるごとに仕上がっていったりする。

堂本光一の舞台『SHOCK』は上演回数1,500回を超えたらしいですが、100回目と1,500回目はやっぱり違う仕上がりになっているんだろう。

 

 
 
 
 
 
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ちなみに、ライブ感っていうのは演者の側だけでなく観客の側にもあって。

 

無観客でのライブ配信はやっぱりやりづらいっていうし、寄席に出てる芸人は客の雰囲気を見てネタを変えるっていうし。

 

ついさっき映画には一回性がないって書いたけど、観客参加型の上映だとむちゃくちゃライブ感って出る。

 

 

今はなき吉祥寺バウスシアターでのケミカル・ブラザーズの映画の爆音上映は、映画館がクラブになったような感じで最高だった。

 

 

「この世の中でもっともコスパの悪いエンタメ」

近年のJ-POPの世界においても、ロックバンドの占める位置は90年代と比べてかなり狭くなっている。

 

BUMP OF CHICKENの影響下にあるような、疾走感と青臭さたっぷりのロックサウンドは、アニソンを中心にすっかり定着した感はあるけど、それにしたってアーティストの名義はバンドじゃなくソロだったりするし)

 

バンドって、いざ演奏を見せるとなると、メンバーや機材やスタッフなど、とにかくお膳立てに手間暇がかかる。

そのことを、氣志團綾小路翔は「バンドはこの世の中でもっともコスパの悪いエンタメ」だと表現していた。

X年後の関係者たち あのムーブメントの舞台裏 バンドブーム編 | TBS FREE

 

バンドのそういう性質って、前述したような、不確定要素のかたまりであることと表裏一体。

 

ダン池田とニューブリードの大所帯のフルメンバーに毎回ギャラを支払っていた『夜のヒットスタジオ』と、CDと同じ音源をポン出しするだけでよかった『HEY!HEY!HEY!』ではどちらが低コストか、考えるまでもないだろう。

 

しかし、だからこそ、バンドというもののありがたみをちゃんと受け止めたい。

 

コロナが明けたら、再びフェスやライブハウスが活性化するだろう。

そのタイミングで、人と人が楽器を持ち寄って音を奏でることの豊かさや面白さを再発見する2022年になるんじゃないか。

演る側にとっても、聴く側にとっても。

 

そしてバンド音楽がもう一度世界中で流行ったらいいなと思います。

 

 

「くそくらえ節」から「うっせえわ」に至る反抗のJ-POP史(1968-2021)

2020年の流行語大賞TOP10に選ばれた「うっせえわ」。

 

世間や大人たちが押し付けてくる価値観に対して「うっせえわ」と言い返す歌詞がキャッチーなメロディに乗ったことで、Youtubeでは再生回数が2億回を超えた。

 

幅広い世代に届いてしまう国民的ヒットの宿命として、こんな歌詞は子供に悪影響ザマス!と心配する大人たちもあらわれる。

親や教師からのしつけや教育に対して「うっせえわ」と言い返すようになるんじゃないかという不安をかきたてたみたい。

 

一方で、尾崎豊「15の夜」と対比して昭和の若者との違いを論じる人もいた。

確かにこの曲は、かつてよく見られた「反抗する若者の歌」の系譜に位置づけられると思う。

 

 

反抗する若者の歌

日本において若者むけのポップソングの市場が生まれたのは、1960年代。

当初は大人世代の作家が若者向けに楽曲を作っていたが、1960年代後半にはグループサウンズフォークソングのシーンから、アーティストによる自作自演の楽曲が出てくるようになる。

 

特にフォークソングにおいては、当時隆盛していた学生運動の気分と連動し、反体制のスタンスを明確に打ち出した曲が特徴的に見られる。

 

ある日学校の先生が 生徒の前で説教した

テストで100点とらへんと りっぱな人にはなれまへん

くそくらえったら死んじまえ

くそくらえったら死んじまえ

この世で一番えらいのは

電子計算機

岡林信康 「くそくらえ節」(1968)

 

 

フォークソングに見られた60年代の反抗は主に京都や東京の大学生周辺のカルチャーだったんだけど、やがて80年代まで時代が下ってくると、反抗の歌の裾野が広がってくる。

 

まずはセックス・ピストルズやクラッシュらによるパンクロックがロンドンで勃興してから数年後、日本にもパンクバンドが登場し、本家よろしく反抗の歌をたくさん残すようになる。

 

俺たちゃ こんな汚ねぇ
社会を ぶっ潰したいのさ

あいつが怖くちゃ
やりてぇことも出来やしねぇぜ

あんたを縛る法律なんて
蹴っ飛ばしちまえ

あいつの敵になってあげる
イタズラ気分で

亜無亜危異「アナーキー」(1980)

 

 

学校への反抗

また、80年代といえば校内暴力とツッパリの時代。

3年B組金八先生』『スクール・ウォーズ』といったドラマでも描かれたように学校がとにかく荒れていた。

 

そんな中高生の気分に寄り添ったのが、後に氣志團が「ヤンクロック」と名付けた楽曲たち。

 

シッポをまかず うなってみせな

SCHOOL OUT やっちまえ 今すぐ

SCHOOL OUT やっちまえ

BOYS AND GIRLS

BOOWY「SHOOL OUT」(1982)

 

 

「何も理解せず頭ごなしに押しつけてくる教師たち」 VS 「はみ出し者だけど本当に大事なものがわかっているオレたち」という構図の曲がたくさんリリースされた時代。

 

たしかに、70年代から80年代にかけてのいわゆる「管理教育」や教師による体罰が問題視されていたことも事実なので、特に不良というわけでもない若者たちにもこれらの楽曲は幅広く共感を生んだ。

 

卒業式だというけれど 何を卒業するのだろう

チェッカーズギザギザハートの子守唄」(1984

 

行儀よくまじめなんて クソくらえと思った

夜の校舎 窓ガラス壊してまわった

尾崎豊「卒業」(1985)

 

ただ大人達にほめられるような バカにはなりたくない

THE BLUE HEARTS「少年の詩」(1987)

 

J-POPは反抗したか

80年代末期、ニューミュージックがJ-POPと呼ばれるようになってくると、教師に反抗するような歌は絶滅する。

 

いろんな原因はあるだろうけど、最大のものは、レコードやCDをたくさん買うボリュームゾーンだった団塊ジュニア世代(1970年代前半生まれ)の反抗期が終わったことなんじゃないかとにらんでいる。

 

反抗期が終わった団塊ジュニアはにわかに色気づき、ユーミンとんねるずホイチョイプロダクションに煽られて恋愛市場に身を投じていく。

 


一方で学校教育は管理教育や詰め込み教育への反省から、ゆとり教育や個性を重視した方向性へシフトチェンジしていく。

 

そうなるともはや学校は反抗する対象ではなくなってくるわけで、それはすなわち若者の視野で認識できるわかりやすい敵らしい敵がいなくなってしまったことを意味する。

 

ただ、そんな時代にも若者特有の葛藤や生きづらさはあった。

そしてJ-POPはそんな若者にしっかり寄り添ってきた。

 

それまでとの違いとしては、具体的な敵が見えなくなったということ。

 

everybody goes everybody fights 

秩序のない現代にドロップキック

 

Mr.Children「everybody goes〜秩序のない現代にドロップキック〜」(1997)

 

こんな感じで「現代」なんていう大きすぎる相手と戦ってみたり。

何なら敵が見えないけどとにかく戦ってみたり。

 

見えない敵にマシンガンをぶっ放せ Sister and Brother

天に唾を吐きかけるような 行き場のない怒りです

 

Mr.Children「マシンガンをぶっ放せ」(1996)

 

J-POPは全体的に反抗していないけど、数少ない戦ってる事例でもこのありさま。

 

葛藤や生きづらさは外側にではなくどんどん内側に向かっていたのが90年代以降の特徴だと言えるだろう。

自分自身の弱さが最大の敵、みたいな。

 

反抗する相手も言葉も持ちえないまま、J-POPは90年代後半に全盛期を迎える。

 

バビロンシステムへの反抗

一方、90年代頃から少しずつ日本に根づいていったレゲエやヒップホップでは、しっかりとした反抗の文化が息づいている。

 

レゲエやヒップホップの反抗の文化を象徴しているのが、両ジャンルに共通して見られる「バビロン」という特徴的なワード。

 

ここでいうバビロンとは、元々ジャマイカのラスタ思想からきた言葉で、警察や国家などの抑圧的で非人間的なシステム、体制のこと。

 

バビロン的なものに対して戦っていくというレゲエやヒップホップの正統的なスタンスは、日本のアーティストにも引き継がれていて、もはやガチな人たちだけでなく、ノベルティ的にレゲエやヒップホップを扱った楽曲においてもバビロンへの反抗が歌われるレベルにまで定着した。

 

遊助という名義を名乗り、レゲエ寄りの音楽性で活発にアーティスト活動を繰り広げている上地雄輔

 

Go way 硬い頭のシステム

Some day 壊せバビロン Shake it

遊助「Sexy Lady」(2017)

 

 

『Paradox Live』(パラドックスライブ)という、声優を起用した音源や舞台などに展開しているHIPHOPメディアミックスプロジェクトの中の1曲。

Paradox Live(パラライ)公式サイト

 

腐り切ったバビロンシステム

鎖ぶった切るこれがアンセム

 

武雷管「BURAIKAN is Back」(2021)

 

「うっせえわ」が新鮮だった理由

とはいえ2010年代以降も若者の反抗はずっとおとなしく、もっぱら坂道グループだけが担っていたと言っても過言ではない。

 

どうして学校へ行かなきゃいけないんだ

真実を教えないならネットで知るからいい

 

友だちを作りなさい スポーツをやりなさい

作り笑いの教師が見せかけの愛を謳う

 

欅坂46「月曜日の朝、スカートを切られた」(2017)

 

上記のような例もあったにはあったが、良識的な大人たちが眉をひそめるようなレベルではない。

反抗的な流行歌は、平成から令和にかけて長らく出てこなかった。

 

団塊ジュニア世代の反抗期が終わって以降、暴発する若者のエネルギーが社会問題になるようなニュースはどんどん減っている。

 

というのも、少子高齢化がどんどん進行していく中で、日本社会における若者の存在感がものすごく小さくなっているわけで、世の中にある程度のインパクトを生むようなボリュームをもはや保てていないんだからしょうがない。

 

日本の全人口の平均年齢は、1980年には約34歳だったんだけど、2020年にはなんと48.4歳になっているという。

 

そんな時代に、「うっせえわ」は久々にめちゃダイレクトに大人に反抗する歌だったからここまで目立ったんだろう。

 

「結局そんなことを気にしている自分が一番ダメなんだけどね」みたいな内省に戻ってくる回路というか予防線をつくらず、ひたすら外に外に向かってるところが特にすばらしいと思いました。

 

オトネタ大賞2021

2021年に数々の賞を受賞したAdoですが、僭越ながらわたしも「オトネタ大賞」を差し上げています。

芸人・ミュージシャン・俳優のマキタスポーツさんと、ラッパーのカンノアキオくんとハシノの3人でやってる恒例の企画。

 

他にも、氷川きよしDEENMISIAHiHi Jets、島津亜矢、オレンジスパイニクラブ、Creepy Nuts、Vaundyなども取り上げて、2021年のJ-POP界をたっぷりと振り返りました。

こちらもよかったらご覧ください。

www.youtube.com

 

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世襲議員が多いのは仕方がない(ホモサピエンスの脳が宇多田ヒカルを処理するとき)

世襲政治家多すぎ問題は問題なのか

国会議員をはじめ、日本の政治家に世襲が多すぎることが問題視されている。

 

世襲政治家は“親ガチャ”大当たり…河野太郎パパがとった「親バカすぎる行動」とは?《首相の座は親子三代の悲願》 | 文春オンライン

 

衆院選で落ちててほしかった世襲政治家ランキング 2位は安倍晋三氏…圧倒的1位は? | 女性自身

 

反世襲、形骸化した自民党…二階氏「最終決定は人物がいいかどうか」 : デスクの目~政治部 : Webコラム : 読売新聞オンライン

 

どんな出自の人でも能力が高くて志があれば誰でも政治家になれるっていうのが、この社会の大原則のはずなんだけど、現実はそうなっていない。

 

ただ、それには理由があるんだろうなとも思っています。

 

というのも、そもそもこのご時世、普通にやる気や才能があって高学歴で、っていう人間でも、自分の進路の選択肢に政治家ってまず入ってこない。

いまどきの何にでもなれる立場のイケイケの若者は、外資系コンサルや金融関係やGAFAあたりに就職するか、数年後に起業することを見据えた動きをするのが一般的で、いずれにしてもこの資本主義社会の中で成功することを目指しがち。

 

昭和のある時期までは、神童みたいな子供にたいして「末は博士か大臣か」なんて褒めそやす言い回しがあったけど、いまどきの神童は博士も大臣も目指さないということ。

 

地位や名誉、承認欲求、権力なんかを手に入れるためには、政治家になる必要なんて全然ない。むしろ公人として全方面から叩かれるしんどい職業に見えているんじゃないか。

 

そう考えると、幼い頃から政治家をやっている親の背中を見て育ち、どうやれば人を動かせるのか表も裏もわかっている二世のほうが、政治家という仕事に具体的なイメージを持ちやすいし、自分の進路として政治家がごく自然に選択肢に入ってくるというだけでもなかなか貴重な存在。

 

なので、そもそも政治家を目指すという動機の時点で、世襲に偏りがちな素地はかなりあるんじゃないだろうか。

 

 

 

世襲がまかり通る社会の側の問題として

政治家になろうとする人間に世襲が多くなるのは仕方がないとして、じゃあ世襲議員が多い社会というのはどういう社会になるのか。

 

具体的にイメージするために、サラリーマンとしての実感に引きつけて考えると、社長の息子とか得意先の親戚とかが明らかに優遇されてる会社って、めっちゃ空気悪そう。

 

次期社長が内定してるダメ息子がのうのうと出世コースに乗ってるような環境だと、成果を出せば正当に評価されるからがんばって仕事しよう!とか、多少耳が痛いことでも正しいことを主張しよう!とか、そんな気持ちを持ち続けるのは難しいと思う。

 

激動の時代を生き残れる確率が高いのは、そういう会社か、成果を出せた人が上に行ける会社か、どちらでしょうかっていう話。

 

こんなことは大人ならだいたい肌でわかるはずだけど、それでも世襲の政治家はめちゃくちゃ多い。

 

幸か不幸か、ここ数十年の日本って、政治家が無能なせいで大勢の人が死にかけるみたいな直接的な状況があんまりなかったために、選挙が単なる人気投票とか組織固めとしてのみ機能してきた側面がある。

 

つまり、たとえば自分の会社の直接の上司を選ぶ話だったら、絶対バカを選びたくないしみんな真剣に見極めることになるだろうけど、何をしてるかよくわからない社外取締役とか顧問みたいなものを選ぶ話だったら、まあ今まで特にその人たちのせいで問題が起こったこととかないし変に新しい人を入れて混乱するぐらいなら同じ人にまたやってもらえばいいかな、ってぐらいのノリになるだろう。

 

それぐらいの距離がある政治家を選ぶにあたっては、どんな理想を掲げているかっていうよりは、親しみやすさがあるかというほうが重要になる。

 

単純接触効果の相続

おもにマーケティングの分野でよく言われることだけど、人間というものは、製品やサービスや人に対して、見たり聞いたり接触する機会が増えれば増えるほど親しみを抱くようになる。

 

これを「単純接触効果」という。

 

街中にポスターを貼りまくったり、選挙カーが名前を連呼したり、地元の祭りに参加したり、よりよい社会を作るという政治家の本質とは全然関係ないこれらのことも、単純接触効果によって有権者の親しみをかき集めるために必要なことらしい。

 

軽いノリだろうと、熟考に熟考を重ねた結果であろうと、有権者が持ってる一票は一票なので、今の選挙のシステムだと単純接触効果を活かすのは大事なんでしょう。

 

そして、世襲の政治家が持っているアンフェアな強みのひとつとして、親の代からの単純接触効果も相続しているって点があると思う。

 

まったくの初対面で、「何だこの若造は…?」といぶかしく思っている相手に対しても、「お世話になっております。○○の息子でございます」って言っただけで、その瞬間に親の代が築いた単純接触効果の貯金を一気に相続できてしまう。

 

ああ、藤圭子の娘か

個人的な体験として忘れられないのが、宇多田ヒカルが大ブレイクしたあの冬の、両親との会話。

 

戦中生まれで演歌とかクラシックしか聴かないうちの父親にとって、J-POPというのは全体的になんだかよくわからない世界。

歌手の名前を何一つ把握していないし、覚えようという気持ちもない。

 

それでも唯一インプットされたのが宇多田ヒカルだった。

 

家族でテレビをみているときに、宇多田ヒカルの「First Love」が300万枚売れたとかそういう特集を報道バラエティ番組でやっていて、なんだかわからないけど16歳かぁ、へえーみたいな薄い反応をしていた父に対して、「これ藤圭子の娘よ」と母が言った。

 

すると父は、「ああ、藤圭子の娘か」と、なんだかものすごく納得いったような顔をした。

 

宇多田ヒカル藤圭子の娘であることで、はじめて父親の中で宇多田ヒカルという存在が認識されたみたい。

 

どう分類していいかわからないノイズとして、そのままゴミ箱行きになりそうだった情報が、藤圭子の娘というタグ付けができて、脳内に定着した。

 

人が人を認識するという行為の、ものすごく原初的なパターンを見た気がした。

 

First Love

First Love

Amazon

 

ホモサピエンス世襲

2016年に出版され世界的に話題になった『サピエンス全史』は、われわれホモサピエンスがここまで繁栄したのは、虚構を信じる力があったからだと説いている。

 

 

一般的に人間が自分の仲間だと認識して一緒に行動できる数は150人が限界だと言われているんだけど、150人を超える規模の集団が国とか民族とかを軸にして「おれたち」って思えたことで、今のような社会ができているんだと。

 

たしかに現在のわれわれは数千人を同じ会社の同僚だと認識することができているし、1億人を同じ国民だと認識している。

 

数万年前からの「おれたち」という意識を支える虚構として、王とか貴族とかいった存在はかなり効果的だっただろう。

おれたちは特別な存在!なぜなら神様の子孫である王様に率いられているから!みたいな。

 

そこでは王が王たるゆえんは基本的に血筋。

偉大な先王の血を受け継いでいるからこのお方が王なのであると。

何度か王朝が倒された中国や欧州とは違って、ここ日本は万世一系という虚構がより強固に信じられやすい土壌がある。

 

そういうノリで何万年もやってきたために、われわれの脳は世襲に弱くできている。

 

「これ藤圭子の娘よ」と言われてストーンと腹に落ちたあの感じ。

理屈じゃなく、われわれホモサピエンスの深いところに組み込まれた仕様なんだと思う。

 

 

なんぴとたりとも世襲からは逃れられない

世襲を喜ぶ気持ちって、じいさんたちの古臭い価値観なんじゃないかと思いがちだけど、全然そんなことはなくて。

 

たとえば『キン肉マン』も『ジョジョの奇妙な冒険』や『ドラゴンボール』も『ワンピース』も『鬼滅の刃』も、主人公の強さは父親譲りであることがストーリーの中盤で明かされる。

 

主人公がなんでこんなに強いのかという謎の解明において、「そういう血筋だから」という話は、前述した作品の多くで多分に後づけされた設定っぽい感じはするけど、いや後づけっぽいからこそ余計に、われわれホモサピエンス世襲好きを裏付けているように思える。

 

かの『スターウォーズ』の全9作を貫くテーマも、フォースの世襲制だった。

エピソード7から登場した主人公レイは、両親に捨てられて一人で生きてきた人物で、その両親は誰でもない平凡な人間だとされてきた。

そんな人物が超強力なフォースの使い手だということで、ダース・ベイダーからルークという世襲のライン以外にも能力者は存在するんだという、開かれた感じがしたものだった。エピソード8も映画としては残念な出来ではあったけど、脱世襲のメッセージは継続していたように思う。

 

ところが、最終作エピソード9に至ってレイの能力も世襲だったことが明かされる。

結局そういうことかよと思ったし、前述のジャンプ作品と同様、どんでん返しのネタとして親を持ち出すのって全世界的に有効なんだなとも思った。

 

www.youtube.com

 

ほっといたら世襲に気を許すようにできている、そういう脳の構造をしている以上、せめてそのことは理解した上で生きていきたいもの。

 

世襲を推すにしても自覚的にいきたいと思います。

 

 

 

AIが普及しても作曲家と棋士は生き残れるか

作曲AIが話題になっている。

 

 

 

AIに楽曲を生成させることができ、できた曲は著作権フリーで自由に使えるというもの。

AIにはギャラも払う必要なく何百曲でも作ってくれるし変なプライドもないからやり直しもさせ放題なので、人間の作曲家はもう不要になってしまうかもしれない。

 

そこまでじゃなくても、これから現在の音楽業界の中でAIがある程度の位置を占めるようになってくるんだろうか。

 

音楽をつくったり聴いたり語ったりすることが好き過ぎる自分のような人間にとって、この件はちょっと見過ごせない。

 

実際に使ってみた

FIMMIGRM(フィミグラム)というアプリがある。

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このように、キーとジャンルとBPMと長さを指定してボタンを押せば、条件に合った曲が数秒でできてきた。

R&BやRockといったジャンルを指定するとビートやアレンジも変わる。

 

たしかに、機械が作ったとは言われないとわからない自然なメロディ、ビートで、これはすごいかもしれないとは思った。

 

 

ただ、アプリをいろいろ調べたけど今できるのは2小節のループまでだった。

イントロ〜Aメロ〜サビみたいな構成のある楽曲ではない。

 

つまりYouTubeとかインスタライブのBGMとして流しておける曲としてのニーズを満たせればよいということだと思った。

これも作曲といえば作曲だけど、イメージしていたものとはまだ乖離があったという印象。

 

 

AIの仕組み

作曲AIは、過去の膨大な楽曲を勉強させることで、パターンを見つけ出し、分析してアウトプットする仕組み。

 

それは将棋のAIが過去の棋譜を勉強するのと似ている。

 

一般に、AIに学習させる膨大なデータを「教師データ」という。

いろんな分野にAIが進出してきているけど、教師データとしてどんなデータをどれぐらい学習させるか、そしてどんなアルゴリズムに基づいてアウトプットさせるか、AIの質を決めるのは大まかにその2点。

 

 

将棋の場合、明確な勝ち負けとルールがあって、相手と自分の駒の配置がこの状態のとき、次にどこにどの駒を打つと勝利に近づくのかということなので、なんとなくAIに向いているような気がする。

盤面は9かける9のマス目で、駒の動き方も決まっているので、そこもデジタルな処理に向いているし。

 

作曲も、昔からそもそも楽譜というデジタルなものにある程度は書き起こすことができるものだったし、さらに打ち込みの電子音楽MIDIという規格でデジタル化されたもの。

過去の膨大な楽曲をデータ化して教師データとすることは全然可能だったりする。

 

人間の演奏者にしかないとされてきた微妙な揺れや癖、グルーヴみたいなものさえ、最近ではデータ化して機械が再現できるようになっている。

 

 

人間の作曲

では作曲AIは人間の作曲家と全然違うやり方で「作曲」しているのだろうか。

 

人間の作曲家にこの問いをぶつけたところ、実は人間の作曲家はAIの劣化版みたいなものだという。

 

つまり、リスナーとしてこれまで聴いてきた楽曲を教師データとして頭の中に蓄積していて、それを元に構築したアルゴリズムに基づいて、自分が良いと思う曲をつくりだしているわけで、その点ではAIがやっていることと同じだという。

 

だいたいの場合、よっぽどの音楽マニアであっても人間の作曲家はAIと比べて教師データの数が少ない。

また人間の脳みそはすぐに疲れるし作曲に時間もかかるので、AIと比べて量産がきかない。

 

動画配信向けのBGMをつくるという目的においては、もはやAIの圧勝なのかもしれない。

 

作曲っていうと何か感性がするどい人間のアーティストにしかできないことだと思われるかもしれないけど、ほとんどすべての作曲家は過去の作品を参照しているし、音楽にまつわるほとんどすべてが理論化されているし、ほとんどすべての要素がデジタルデータにすることが可能だったりする。

 

そしたら、あと人間にできることといったらどこだろうか。

サラリーマンの世界では、自分の仕事がAIに奪われるのではないかという危機感はリアルなものになってきており、AI化できない領域で価値ある人材になりましょうなんて言われるようになってきたんだけど、音楽においても共通の課題だろう。

 

たとえば、カラオケの機械が登場したときに、歌う人のバックで生演奏していたバンドマンたちが大量に失業したという。

ど初期のヒップホップのライブでは同じレコードの2枚使いができるDJは必ず必要な存在だったけど、今は別に必須ではない。

 

そうやって、テクノロジーやスタイルの変化によって、ある職業が不要になったりあらたに生まれたりするのはポピュラー音楽の世界では常に行われていたこと。

それと同じように、AI作曲がさらに進化・普及していけば、人間の作曲家はほとんどいらなくなるかもしれない。

 

歌や歌詞といったものはAI化が難しい人間らしい技能の代表的なものだと考える人も多いだろうけど、たとえば、ここで紹介されている、AIが無限に生成しつづけるデスメタルも全然アリだった。

ただそれは、「これ機械なんだよな…」ってあらためてよく考えたときにわいてくる気持ち悪さが、デスメタルという音楽においてはプラスに作用するからかもしれない。


ほんとうの意味で教師を超える

これまでみてきたように、作曲AIは膨大な教師データを読み込んで学習する。

 

将棋のAIが、大量の棋譜を称しデータにして学習した結果、その棋譜を残した棋士よりも強くなってしまうごとく、アルゴリズムによっては、教師を超えるものもできるかもしれない。

 

まあ、音楽には将棋と違って明確な勝ち負けがないんだけど、仮に100人に聴かせてみて良いと評価した人数で競ったとして、AIが人間の作曲家に勝つ日は案外遠くないかもしれない。

 

ただ、それだとほんとうの意味で教師を超えたことにはならないと思っている。

 

ビートルズジェームス・ブラウンブラック・サバスクラフトワークアフリカ・バンバータボアダムスといった人たちは、それ以前の音楽を参照しながら、まったく新しいものを創造した。

それまでにあった「良い音楽」という基準ごとリニューアルしてしまった。

 

将棋のルールの中で最強の一手を選ぶのではなく、銀を10枚にしたり新しい動き方のスーパー桂馬を作ったりして将棋をもっとおもしろくしてしまったみたいなもの。

 

そういうことがAIにはできるのだろうか。

なんかそこが最後の聖域のような気がしています。