森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

「くそくらえ節」から「うっせえわ」に至る反抗のJ-POP史(1968-2021)

2020年の流行語大賞TOP10に選ばれた「うっせえわ」。

 

世間や大人たちが押し付けてくる価値観に対して「うっせえわ」と言い返す歌詞がキャッチーなメロディに乗ったことで、Youtubeでは再生回数が2億回を超えた。

 

幅広い世代に届いてしまう国民的ヒットの宿命として、こんな歌詞は子供に悪影響ザマス!と心配する大人たちもあらわれる。

親や教師からのしつけや教育に対して「うっせえわ」と言い返すようになるんじゃないかという不安をかきたてたみたい。

 

一方で、尾崎豊「15の夜」と対比して昭和の若者との違いを論じる人もいた。

確かにこの曲は、かつてよく見られた「反抗する若者の歌」の系譜に位置づけられると思う。

 

 

反抗する若者の歌

日本において若者むけのポップソングの市場が生まれたのは、1960年代。

当初は大人世代の作家が若者向けに楽曲を作っていたが、1960年代後半にはグループサウンズフォークソングのシーンから、アーティストによる自作自演の楽曲が出てくるようになる。

 

特にフォークソングにおいては、当時隆盛していた学生運動の気分と連動し、反体制のスタンスを明確に打ち出した曲が特徴的に見られる。

 

ある日学校の先生が 生徒の前で説教した

テストで100点とらへんと りっぱな人にはなれまへん

くそくらえったら死んじまえ

くそくらえったら死んじまえ

この世で一番えらいのは

電子計算機

岡林信康 「くそくらえ節」(1968)

 

 

フォークソングに見られた60年代の反抗は主に京都や東京の大学生周辺のカルチャーだったんだけど、やがて80年代まで時代が下ってくると、反抗の歌の裾野が広がってくる。

 

まずはセックス・ピストルズやクラッシュらによるパンクロックがロンドンで勃興してから数年後、日本にもパンクバンドが登場し、本家よろしく反抗の歌をたくさん残すようになる。

 

俺たちゃ こんな汚ねぇ
社会を ぶっ潰したいのさ

あいつが怖くちゃ
やりてぇことも出来やしねぇぜ

あんたを縛る法律なんて
蹴っ飛ばしちまえ

あいつの敵になってあげる
イタズラ気分で

亜無亜危異「アナーキー」(1980)

 

 

学校への反抗

また、80年代といえば校内暴力とツッパリの時代。

3年B組金八先生』『スクール・ウォーズ』といったドラマでも描かれたように学校がとにかく荒れていた。

 

そんな中高生の気分に寄り添ったのが、後に氣志團が「ヤンクロック」と名付けた楽曲たち。

 

シッポをまかず うなってみせな

SCHOOL OUT やっちまえ 今すぐ

SCHOOL OUT やっちまえ

BOYS AND GIRLS

BOOWY「SHOOL OUT」(1982)

 

 

「何も理解せず頭ごなしに押しつけてくる教師たち」 VS 「はみ出し者だけど本当に大事なものがわかっているオレたち」という構図の曲がたくさんリリースされた時代。

 

たしかに、70年代から80年代にかけてのいわゆる「管理教育」や教師による体罰が問題視されていたことも事実なので、特に不良というわけでもない若者たちにもこれらの楽曲は幅広く共感を生んだ。

 

卒業式だというけれど 何を卒業するのだろう

チェッカーズギザギザハートの子守唄」(1984

 

行儀よくまじめなんて クソくらえと思った

夜の校舎 窓ガラス壊してまわった

尾崎豊「卒業」(1985)

 

ただ大人達にほめられるような バカにはなりたくない

THE BLUE HEARTS「少年の詩」(1987)

 

J-POPは反抗したか

80年代末期、ニューミュージックがJ-POPと呼ばれるようになってくると、教師に反抗するような歌は絶滅する。

 

いろんな原因はあるだろうけど、最大のものは、レコードやCDをたくさん買うボリュームゾーンだった団塊ジュニア世代(1970年代前半生まれ)の反抗期が終わったことなんじゃないかとにらんでいる。

 

反抗期が終わった団塊ジュニアはにわかに色気づき、ユーミンとんねるずホイチョイプロダクションに煽られて恋愛市場に身を投じていく。

 


一方で学校教育は管理教育や詰め込み教育への反省から、ゆとり教育や個性を重視した方向性へシフトチェンジしていく。

 

そうなるともはや学校は反抗する対象ではなくなってくるわけで、それはすなわち若者の視野で認識できるわかりやすい敵らしい敵がいなくなってしまったことを意味する。

 

ただ、そんな時代にも若者特有の葛藤や生きづらさはあった。

そしてJ-POPはそんな若者にしっかり寄り添ってきた。

 

それまでとの違いとしては、具体的な敵が見えなくなったということ。

 

everybody goes everybody fights 

秩序のない現代にドロップキック

 

Mr.Children「everybody goes〜秩序のない現代にドロップキック〜」(1997)

 

こんな感じで「現代」なんていう大きすぎる相手と戦ってみたり。

何なら敵が見えないけどとにかく戦ってみたり。

 

見えない敵にマシンガンをぶっ放せ Sister and Brother

天に唾を吐きかけるような 行き場のない怒りです

 

Mr.Children「マシンガンをぶっ放せ」(1996)

 

J-POPは全体的に反抗していないけど、数少ない戦ってる事例でもこのありさま。

 

葛藤や生きづらさは外側にではなくどんどん内側に向かっていたのが90年代以降の特徴だと言えるだろう。

自分自身の弱さが最大の敵、みたいな。

 

反抗する相手も言葉も持ちえないまま、J-POPは90年代後半に全盛期を迎える。

 

バビロンシステムへの反抗

一方、90年代頃から少しずつ日本に根づいていったレゲエやヒップホップでは、しっかりとした反抗の文化が息づいている。

 

レゲエやヒップホップの反抗の文化を象徴しているのが、両ジャンルに共通して見られる「バビロン」という特徴的なワード。

 

ここでいうバビロンとは、元々ジャマイカのラスタ思想からきた言葉で、警察や国家などの抑圧的で非人間的なシステム、体制のこと。

 

バビロン的なものに対して戦っていくというレゲエやヒップホップの正統的なスタンスは、日本のアーティストにも引き継がれていて、もはやガチな人たちだけでなく、ノベルティ的にレゲエやヒップホップを扱った楽曲においてもバビロンへの反抗が歌われるレベルにまで定着した。

 

遊助という名義を名乗り、レゲエ寄りの音楽性で活発にアーティスト活動を繰り広げている上地雄輔

 

Go way 硬い頭のシステム

Some day 壊せバビロン Shake it

遊助「Sexy Lady」(2017)

 

 

『Paradox Live』(パラドックスライブ)という、声優を起用した音源や舞台などに展開しているHIPHOPメディアミックスプロジェクトの中の1曲。

Paradox Live(パラライ)公式サイト

 

腐り切ったバビロンシステム

鎖ぶった切るこれがアンセム

 

武雷管「BURAIKAN is Back」(2021)

 

「うっせえわ」が新鮮だった理由

とはいえ2010年代以降も若者の反抗はずっとおとなしく、もっぱら坂道グループだけが担っていたと言っても過言ではない。

 

どうして学校へ行かなきゃいけないんだ

真実を教えないならネットで知るからいい

 

友だちを作りなさい スポーツをやりなさい

作り笑いの教師が見せかけの愛を謳う

 

欅坂46「月曜日の朝、スカートを切られた」(2017)

 

上記のような例もあったにはあったが、良識的な大人たちが眉をひそめるようなレベルではない。

反抗的な流行歌は、平成から令和にかけて長らく出てこなかった。

 

団塊ジュニア世代の反抗期が終わって以降、暴発する若者のエネルギーが社会問題になるようなニュースはどんどん減っている。

 

というのも、少子高齢化がどんどん進行していく中で、日本社会における若者の存在感がものすごく小さくなっているわけで、世の中にある程度のインパクトを生むようなボリュームをもはや保てていないんだからしょうがない。

 

日本の全人口の平均年齢は、1980年には約34歳だったんだけど、2020年にはなんと48.4歳になっているという。

 

そんな時代に、「うっせえわ」は久々にめちゃダイレクトに大人に反抗する歌だったからここまで目立ったんだろう。

 

「結局そんなことを気にしている自分が一番ダメなんだけどね」みたいな内省に戻ってくる回路というか予防線をつくらず、ひたすら外に外に向かってるところが特にすばらしいと思いました。

 

オトネタ大賞2021

2021年に数々の賞を受賞したAdoですが、僭越ながらわたしも「オトネタ大賞」を差し上げています。

芸人・ミュージシャン・俳優のマキタスポーツさんと、ラッパーのカンノアキオくんとハシノの3人でやってる恒例の企画。

 

他にも、氷川きよしDEENMISIAHiHi Jets、島津亜矢、オレンジスパイニクラブ、Creepy Nuts、Vaundyなども取り上げて、2021年のJ-POP界をたっぷりと振り返りました。

こちらもよかったらご覧ください。

www.youtube.com

 

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世襲議員が多いのは仕方がない(ホモサピエンスの脳が宇多田ヒカルを処理するとき)

世襲政治家多すぎ問題は問題なのか

国会議員をはじめ、日本の政治家に世襲が多すぎることが問題視されている。

 

世襲政治家は“親ガチャ”大当たり…河野太郎パパがとった「親バカすぎる行動」とは?《首相の座は親子三代の悲願》 | 文春オンライン

 

衆院選で落ちててほしかった世襲政治家ランキング 2位は安倍晋三氏…圧倒的1位は? | 女性自身

 

反世襲、形骸化した自民党…二階氏「最終決定は人物がいいかどうか」 : デスクの目~政治部 : Webコラム : 読売新聞オンライン

 

どんな出自の人でも能力が高くて志があれば誰でも政治家になれるっていうのが、この社会の大原則のはずなんだけど、現実はそうなっていない。

 

ただ、それには理由があるんだろうなとも思っています。

 

というのも、そもそもこのご時世、普通にやる気や才能があって高学歴で、っていう人間でも、自分の進路の選択肢に政治家ってまず入ってこない。

いまどきの何にでもなれる立場のイケイケの若者は、外資系コンサルや金融関係やGAFAあたりに就職するか、数年後に起業することを見据えた動きをするのが一般的で、いずれにしてもこの資本主義社会の中で成功することを目指しがち。

 

昭和のある時期までは、神童みたいな子供にたいして「末は博士か大臣か」なんて褒めそやす言い回しがあったけど、いまどきの神童は博士も大臣も目指さないということ。

 

地位や名誉、承認欲求、権力なんかを手に入れるためには、政治家になる必要なんて全然ない。むしろ公人として全方面から叩かれるしんどい職業に見えているんじゃないか。

 

そう考えると、幼い頃から政治家をやっている親の背中を見て育ち、どうやれば人を動かせるのか表も裏もわかっている二世のほうが、政治家という仕事に具体的なイメージを持ちやすいし、自分の進路として政治家がごく自然に選択肢に入ってくるというだけでもなかなか貴重な存在。

 

なので、そもそも政治家を目指すという動機の時点で、世襲に偏りがちな素地はかなりあるんじゃないだろうか。

 

 

 

世襲がまかり通る社会の側の問題として

政治家になろうとする人間に世襲が多くなるのは仕方がないとして、じゃあ世襲議員が多い社会というのはどういう社会になるのか。

 

具体的にイメージするために、サラリーマンとしての実感に引きつけて考えると、社長の息子とか得意先の親戚とかが明らかに優遇されてる会社って、めっちゃ空気悪そう。

 

次期社長が内定してるダメ息子がのうのうと出世コースに乗ってるような環境だと、成果を出せば正当に評価されるからがんばって仕事しよう!とか、多少耳が痛いことでも正しいことを主張しよう!とか、そんな気持ちを持ち続けるのは難しいと思う。

 

激動の時代を生き残れる確率が高いのは、そういう会社か、成果を出せた人が上に行ける会社か、どちらでしょうかっていう話。

 

こんなことは大人ならだいたい肌でわかるはずだけど、それでも世襲の政治家はめちゃくちゃ多い。

 

幸か不幸か、ここ数十年の日本って、政治家が無能なせいで大勢の人が死にかけるみたいな直接的な状況があんまりなかったために、選挙が単なる人気投票とか組織固めとしてのみ機能してきた側面がある。

 

つまり、たとえば自分の会社の直接の上司を選ぶ話だったら、絶対バカを選びたくないしみんな真剣に見極めることになるだろうけど、何をしてるかよくわからない社外取締役とか顧問みたいなものを選ぶ話だったら、まあ今まで特にその人たちのせいで問題が起こったこととかないし変に新しい人を入れて混乱するぐらいなら同じ人にまたやってもらえばいいかな、ってぐらいのノリになるだろう。

 

それぐらいの距離がある政治家を選ぶにあたっては、どんな理想を掲げているかっていうよりは、親しみやすさがあるかというほうが重要になる。

 

単純接触効果の相続

おもにマーケティングの分野でよく言われることだけど、人間というものは、製品やサービスや人に対して、見たり聞いたり接触する機会が増えれば増えるほど親しみを抱くようになる。

 

これを「単純接触効果」という。

 

街中にポスターを貼りまくったり、選挙カーが名前を連呼したり、地元の祭りに参加したり、よりよい社会を作るという政治家の本質とは全然関係ないこれらのことも、単純接触効果によって有権者の親しみをかき集めるために必要なことらしい。

 

軽いノリだろうと、熟考に熟考を重ねた結果であろうと、有権者が持ってる一票は一票なので、今の選挙のシステムだと単純接触効果を活かすのは大事なんでしょう。

 

そして、世襲の政治家が持っているアンフェアな強みのひとつとして、親の代からの単純接触効果も相続しているって点があると思う。

 

まったくの初対面で、「何だこの若造は…?」といぶかしく思っている相手に対しても、「お世話になっております。○○の息子でございます」って言っただけで、その瞬間に親の代が築いた単純接触効果の貯金を一気に相続できてしまう。

 

ああ、藤圭子の娘か

個人的な体験として忘れられないのが、宇多田ヒカルが大ブレイクしたあの冬の、両親との会話。

 

戦中生まれで演歌とかクラシックしか聴かないうちの父親にとって、J-POPというのは全体的になんだかよくわからない世界。

歌手の名前を何一つ把握していないし、覚えようという気持ちもない。

 

それでも唯一インプットされたのが宇多田ヒカルだった。

 

家族でテレビをみているときに、宇多田ヒカルの「First Love」が300万枚売れたとかそういう特集を報道バラエティ番組でやっていて、なんだかわからないけど16歳かぁ、へえーみたいな薄い反応をしていた父に対して、「これ藤圭子の娘よ」と母が言った。

 

すると父は、「ああ、藤圭子の娘か」と、なんだかものすごく納得いったような顔をした。

 

宇多田ヒカル藤圭子の娘であることで、はじめて父親の中で宇多田ヒカルという存在が認識されたみたい。

 

どう分類していいかわからないノイズとして、そのままゴミ箱行きになりそうだった情報が、藤圭子の娘というタグ付けができて、脳内に定着した。

 

人が人を認識するという行為の、ものすごく原初的なパターンを見た気がした。

 

First Love

First Love

Amazon

 

ホモサピエンス世襲

2016年に出版され世界的に話題になった『サピエンス全史』は、われわれホモサピエンスがここまで繁栄したのは、虚構を信じる力があったからだと説いている。

 

 

一般的に人間が自分の仲間だと認識して一緒に行動できる数は150人が限界だと言われているんだけど、150人を超える規模の集団が国とか民族とかを軸にして「おれたち」って思えたことで、今のような社会ができているんだと。

 

たしかに現在のわれわれは数千人を同じ会社の同僚だと認識することができているし、1億人を同じ国民だと認識している。

 

数万年前からの「おれたち」という意識を支える虚構として、王とか貴族とかいった存在はかなり効果的だっただろう。

おれたちは特別な存在!なぜなら神様の子孫である王様に率いられているから!みたいな。

 

そこでは王が王たるゆえんは基本的に血筋。

偉大な先王の血を受け継いでいるからこのお方が王なのであると。

何度か王朝が倒された中国や欧州とは違って、ここ日本は万世一系という虚構がより強固に信じられやすい土壌がある。

 

そういうノリで何万年もやってきたために、われわれの脳は世襲に弱くできている。

 

「これ藤圭子の娘よ」と言われてストーンと腹に落ちたあの感じ。

理屈じゃなく、われわれホモサピエンスの深いところに組み込まれた仕様なんだと思う。

 

 

なんぴとたりとも世襲からは逃れられない

世襲を喜ぶ気持ちって、じいさんたちの古臭い価値観なんじゃないかと思いがちだけど、全然そんなことはなくて。

 

たとえば『キン肉マン』も『ジョジョの奇妙な冒険』や『ドラゴンボール』も『ワンピース』も『鬼滅の刃』も、主人公の強さは父親譲りであることがストーリーの中盤で明かされる。

 

主人公がなんでこんなに強いのかという謎の解明において、「そういう血筋だから」という話は、前述した作品の多くで多分に後づけされた設定っぽい感じはするけど、いや後づけっぽいからこそ余計に、われわれホモサピエンス世襲好きを裏付けているように思える。

 

かの『スターウォーズ』の全9作を貫くテーマも、フォースの世襲制だった。

エピソード7から登場した主人公レイは、両親に捨てられて一人で生きてきた人物で、その両親は誰でもない平凡な人間だとされてきた。

そんな人物が超強力なフォースの使い手だということで、ダース・ベイダーからルークという世襲のライン以外にも能力者は存在するんだという、開かれた感じがしたものだった。エピソード8も映画としては残念な出来ではあったけど、脱世襲のメッセージは継続していたように思う。

 

ところが、最終作エピソード9に至ってレイの能力も世襲だったことが明かされる。

結局そういうことかよと思ったし、前述のジャンプ作品と同様、どんでん返しのネタとして親を持ち出すのって全世界的に有効なんだなとも思った。

 

www.youtube.com

 

ほっといたら世襲に気を許すようにできている、そういう脳の構造をしている以上、せめてそのことは理解した上で生きていきたいもの。

 

世襲を推すにしても自覚的にいきたいと思います。

 

 

 

AIが普及しても作曲家と棋士は生き残れるか

作曲AIが話題になっている。

 

 

 

AIに楽曲を生成させることができ、できた曲は著作権フリーで自由に使えるというもの。

AIにはギャラも払う必要なく何百曲でも作ってくれるし変なプライドもないからやり直しもさせ放題なので、人間の作曲家はもう不要になってしまうかもしれない。

 

そこまでじゃなくても、これから現在の音楽業界の中でAIがある程度の位置を占めるようになってくるんだろうか。

 

音楽をつくったり聴いたり語ったりすることが好き過ぎる自分のような人間にとって、この件はちょっと見過ごせない。

 

実際に使ってみた

FIMMIGRM(フィミグラム)というアプリがある。

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このように、キーとジャンルとBPMと長さを指定してボタンを押せば、条件に合った曲が数秒でできてきた。

R&BやRockといったジャンルを指定するとビートやアレンジも変わる。

 

たしかに、機械が作ったとは言われないとわからない自然なメロディ、ビートで、これはすごいかもしれないとは思った。

 

 

ただ、アプリをいろいろ調べたけど今できるのは2小節のループまでだった。

イントロ〜Aメロ〜サビみたいな構成のある楽曲ではない。

 

つまりYouTubeとかインスタライブのBGMとして流しておける曲としてのニーズを満たせればよいということだと思った。

これも作曲といえば作曲だけど、イメージしていたものとはまだ乖離があったという印象。

 

 

AIの仕組み

作曲AIは、過去の膨大な楽曲を勉強させることで、パターンを見つけ出し、分析してアウトプットする仕組み。

 

それは将棋のAIが過去の棋譜を勉強するのと似ている。

 

一般に、AIに学習させる膨大なデータを「教師データ」という。

いろんな分野にAIが進出してきているけど、教師データとしてどんなデータをどれぐらい学習させるか、そしてどんなアルゴリズムに基づいてアウトプットさせるか、AIの質を決めるのは大まかにその2点。

 

 

将棋の場合、明確な勝ち負けとルールがあって、相手と自分の駒の配置がこの状態のとき、次にどこにどの駒を打つと勝利に近づくのかということなので、なんとなくAIに向いているような気がする。

盤面は9かける9のマス目で、駒の動き方も決まっているので、そこもデジタルな処理に向いているし。

 

作曲も、昔からそもそも楽譜というデジタルなものにある程度は書き起こすことができるものだったし、さらに打ち込みの電子音楽MIDIという規格でデジタル化されたもの。

過去の膨大な楽曲をデータ化して教師データとすることは全然可能だったりする。

 

人間の演奏者にしかないとされてきた微妙な揺れや癖、グルーヴみたいなものさえ、最近ではデータ化して機械が再現できるようになっている。

 

 

人間の作曲

では作曲AIは人間の作曲家と全然違うやり方で「作曲」しているのだろうか。

 

人間の作曲家にこの問いをぶつけたところ、実は人間の作曲家はAIの劣化版みたいなものだという。

 

つまり、リスナーとしてこれまで聴いてきた楽曲を教師データとして頭の中に蓄積していて、それを元に構築したアルゴリズムに基づいて、自分が良いと思う曲をつくりだしているわけで、その点ではAIがやっていることと同じだという。

 

だいたいの場合、よっぽどの音楽マニアであっても人間の作曲家はAIと比べて教師データの数が少ない。

また人間の脳みそはすぐに疲れるし作曲に時間もかかるので、AIと比べて量産がきかない。

 

動画配信向けのBGMをつくるという目的においては、もはやAIの圧勝なのかもしれない。

 

作曲っていうと何か感性がするどい人間のアーティストにしかできないことだと思われるかもしれないけど、ほとんどすべての作曲家は過去の作品を参照しているし、音楽にまつわるほとんどすべてが理論化されているし、ほとんどすべての要素がデジタルデータにすることが可能だったりする。

 

そしたら、あと人間にできることといったらどこだろうか。

サラリーマンの世界では、自分の仕事がAIに奪われるのではないかという危機感はリアルなものになってきており、AI化できない領域で価値ある人材になりましょうなんて言われるようになってきたんだけど、音楽においても共通の課題だろう。

 

たとえば、カラオケの機械が登場したときに、歌う人のバックで生演奏していたバンドマンたちが大量に失業したという。

ど初期のヒップホップのライブでは同じレコードの2枚使いができるDJは必ず必要な存在だったけど、今は別に必須ではない。

 

そうやって、テクノロジーやスタイルの変化によって、ある職業が不要になったりあらたに生まれたりするのはポピュラー音楽の世界では常に行われていたこと。

それと同じように、AI作曲がさらに進化・普及していけば、人間の作曲家はほとんどいらなくなるかもしれない。

 

歌や歌詞といったものはAI化が難しい人間らしい技能の代表的なものだと考える人も多いだろうけど、たとえば、ここで紹介されている、AIが無限に生成しつづけるデスメタルも全然アリだった。

ただそれは、「これ機械なんだよな…」ってあらためてよく考えたときにわいてくる気持ち悪さが、デスメタルという音楽においてはプラスに作用するからかもしれない。


ほんとうの意味で教師を超える

これまでみてきたように、作曲AIは膨大な教師データを読み込んで学習する。

 

将棋のAIが、大量の棋譜を称しデータにして学習した結果、その棋譜を残した棋士よりも強くなってしまうごとく、アルゴリズムによっては、教師を超えるものもできるかもしれない。

 

まあ、音楽には将棋と違って明確な勝ち負けがないんだけど、仮に100人に聴かせてみて良いと評価した人数で競ったとして、AIが人間の作曲家に勝つ日は案外遠くないかもしれない。

 

ただ、それだとほんとうの意味で教師を超えたことにはならないと思っている。

 

ビートルズジェームス・ブラウンブラック・サバスクラフトワークアフリカ・バンバータボアダムスといった人たちは、それ以前の音楽を参照しながら、まったく新しいものを創造した。

それまでにあった「良い音楽」という基準ごとリニューアルしてしまった。

 

将棋のルールの中で最強の一手を選ぶのではなく、銀を10枚にしたり新しい動き方のスーパー桂馬を作ったりして将棋をもっとおもしろくしてしまったみたいなもの。

 

そういうことがAIにはできるのだろうか。

なんかそこが最後の聖域のような気がしています。

髭男も猿岩石も、みんな後ろめたさを歌ってきた

ペンディング・マシーン

Official髭男dismのニューアルバム『Editorial』を聴いていて、ある曲の歌詞に耳が止まった。

 

誰かの憂いを肩代わり出来るほどタフガイじゃない 耐えられない

耳からも目からも 飛び込む有象無象はもう知らないでいよう 病まないためにも

 

はい。分かったからもう黙って 疲れてるから休まして

申し訳ないけど待って 迷惑はお互い様だって

 

ペンディング・マシーン」というその曲のタイトルは、ベンディング・マシーン(=自動販売機)をもじって、ペンディング、すなわち決定を先延ばしする自分という自嘲的なノリを感じさせる。

 

 

こういった気持ちは、SNSやネットニュースを大量に浴びながら生きているわれわれの多くに思い当たるふしがあるんじゃなかろうか。

 

世界中には、いや日本国内にも、いろんな事情で困っている人がいたり、放置してはいけない構造の歪みがあったりして、そのすべてに態度を表明しなければいけないような気にさせられている。

その反面、100%の悪だとして糾弾されていた側にも事情があったことが数日後に判明して振り上げた拳の行き場がなくなるなんてこともしょっちゅうだし、誰がが吊し上げている対象は別の誰かにとっては信仰の対象だったりするし、自分なんかが浅い知識で軽々しく何かを表明してはいけないんじゃないかといつも感じさせられている。

 

そんなダブルバインド状態に陥ってしんどくなっている人は少なくないはず。

 

Ado、セカオワ、MOROHA

こういった心情を歌っているのは髭男だけじゃない。

 

たとえばAdo「うっせえわ」の中にもあるこんなフレーズ。

 

最新の流行は当然の把握

経済の動向も通勤時チェック

 

こういった行動が「社会人じゃ当然のルール」とされてることに対して「うっせえわ」と毒づく構成になってる。

法律だったり特定の誰かに明示的に強制されているわけでもないのに、なんとなくそういう気持ちにさせられてると。

 

あとSEKAI NO OWARIの「Hey Ho」はもっとはっきりとこう言ってる。

 

例えば君がテレビから流れてくる悲しいニュースを見ても

心が動かなくても

それは普通なことなんだと思う

誰かを助けることは義務じゃないと僕は思うんだ

笑顔を見れる権利なんだ 自分のためなんだ

 

 

 

ふつうに人として心を痛める、とはいえ具体的な行動は何もできない、そんな自分は偽善的なんじゃないかと思ってしんどくなる、しんどくなるぐらいならはじめから心を動かさないようにする、という心の動き。

それでいいんだよと肯定してあげつつも、サビでは「誰かからのSOS」について何度も言及していて、単純に切り捨てていないことがわかる。

 

 

MOROHAは「今、偽善者の先頭で」という曲で、この感情をもう少し具体的に解き明かしている。

 

あの街は悲しみに溢れ

かたやいつも通りの自分に引け目

駅前の募金箱を見たときの後ろめたさの理由は

昨晩のアルコールが知ってる

 

 

そう、この感情は後ろめたさなんだと思う。

髭男もAdoもセカオワも、後ろめたさについて歌っているんだろう。

 

最初から世の中のことや他人の痛みに無関心なのであれば、わざわざそのことを歌詞にしたりしないわけで。

 

ただただ心を痛めているだけで何も行動できない後ろめたさを、まずは自嘲気味にでも歌にしておく、そこにギリギリの誠実さみたいなものを感じました。

 

そしてそれはアーティスト本人の心の問題というだけでなく、同時に今の時代の多くの日本人に共通する意識でもあるだろう。

 

猿岩石「NEWS」

ちょっとさかのぼると、猿岩石は1997年のシングル「ツキ」のカップリング「NEWS」でこんなことを歌っている。

 

家をなくした家族が空を見上げてる

希望が戦車に踏み潰されてく

ずっと続くのかい?このカーニバル

 

だけど仕方がない

僕も早く眠らなきゃ

だけど仕方がない

明日があるから

 

まるでカンケイない

僕はここに生きている

まるでカンケイない

日本なんだよ

 

いかにも90年代的なフォーキーで明るい感じの(明らかにPUFFYのあの感じを意識してる)A面「ツキ」と同じコンビ(高井良斉高見沢俊彦)の作詞作曲なんだけど、一転して「NEWS」は曲調もかなり暗い。

 

サブスクにないためここで聴いてもらえないのがもどかしいんだけど、全体的に救いがなさすぎる感じがする曲。

 

飛ぶ鳥を落とす勢いの人気芸能人がなんでわざわざこんなことを歌ってるんだと、当時も多くの人が困惑したんじゃなかろうか。

 

今回、髭男やセカオワやMOROHAの事例を追っかけてやっとわかるのが、この曲も後ろめたさの歌なんだってこと。

世界の出来事に対して何もできないでいる無力な自分を自嘲的に歌ってるんだと。

 

しかしそれにしてももうちょっといい言葉の選び方はあったんじゃないかって思うよね。

「日本なんだよ」ってなんだよ。

自嘲が自嘲だと伝わりづらくて、単に冷酷な人みたいに聞こえてしまう。

 

ちなみに作詞の高井良斉っていうのは秋元康ペンネーム。

この人ってこういう、「わかってやってます」感の路線よくやるけど、やっぱ苦手。

実は今年もフジロックに行ってきた

実は今年のフジロックに行っていました。

 

最終日8月22日の1日券をずっと前に買っていたんだけど、当日の朝まで行くかどうか決めかねていて、発券もしていなかったほど。

で、いろいろ考えた末に行くことにした。

 

2020年は開催されず、2021年も入場者数を半数以下に減らして国内アーティストのみで開催するということになったフジロック、ラインナップが発表された時点では新型コロナの感染者数はここまでじゃなかった。

開催される頃にはワクチンも行き渡って、状況も落ち着いてるんだろうななんて楽観視していたんだけど、落ち着くどころかどんどん状況はひどくなり続けて当日を迎えてしまった。

 

去年の夏、延期を決めたときよりも間違いなく悪化しているので、なぜ去年は延期で今年はやるのかっていうツッコミはもっともだと思う。

 

 

ただ、去年よりも悪化しているのは感染状況だけでなく、音楽業界、特にライブやフェスにかかわる部分の景気もそう。ライブハウスはどんどん潰れ、音楽にかかわる人がどんどん仕事を失っている。

にもかかわらず国からの補償は全然ないらしく、このまま中止したら二度とフジロックはできなくなるかもしれない。だったらできる対策をすべてやった上で開催するしかない、たとえ猛烈な批判を食らったとしても、という状況だったと思われる。

 

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いつもどおりのようにも見えるけど、ステージ前方足元にはディスタンスの目安を示すマークが

 

オリンピックと同じなのか

オリンピックには反対していたのにフジロックには行くのかよ、っていう、なぜか嬉しそうなテンションの批判も聞こえてきた。

オリンピックは無観客なのにフジロックは有観客っていうのもツッコミどころだろう。

 

数万の人が集まることで直接的に感染源になってしまうという面では、有観客というリスクは高すぎるというのはわかる。

経済的な理由で開催したいのであれば無観客で有料配信にしてはどうかという意見もあった。

 

それでも、世界中から選手やスタッフが集まるオリンピックと、国内アーティストと日本の観客のみで行うフジロックのリスクは単純な比較が難しいと思う。

また、どちらかというと懸念されていたのは、「オリンピックもやってるんだから」という油断したムードが世の中に広がることだったと思う。

 

いろんな意味で単純な比較は難しいけれど、自分にとって最大の違いは「信頼」のひとことに尽きる。

 

つまり、招致のために裏金を使ったり、開会式の演出プランを理不尽に潰したり、8月の東京はアスリートにとって理想的な環境だと嘘をついたり、いつの間にか当初の何倍にも予算が膨れ上がっていたり、そういったことがあったのに、納税者、特に都民に対してまともに説明をしない国や組織は、信用することができない。

 

自分が知っている限り、フジロックの運営体制でそういった話は聞いたことがない。

代表の日高氏をはじめ、ことあるごとにきちんと説明をしようとしてきたし、われわれ観客だけでなく、地元の湯沢町とも時間をかけて信頼関係を築いてきたという話も聞いている。

あれだけの規模のイベントごとで、ここまで顔が見えるのって結構珍しいことだと思う。

そうやってこれまでフジロックが築いてきた信頼関係の貯金があったので、最終的に参加しようと思ったのだった。

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よらしむべし知らしむべからず

「民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず」という有名なフレーズがある。

2500年前に孔子が言ったとされる言葉。

 

これ、「民衆には細かいことをいちいち説明する必要はなくただ従わせればよいのだ」という意味だと思ってる人が多い(自分もかつてそう思ってた)んだけど、実は「べし」の意味が違うらしい。

実際には、「民衆は従わせることはできるけど細かい内容まで伝えることはなかなかできないよね」っていうことなんだと。

 

新型コロナに関するいろんな情報が飛び交う昨今、よくこの言葉を思い出してた。

つまり、結局われわれ公衆衛生学の素人には、何が正しい情報なのか知ることができないなと。そうなると結局、アナウンスしている人を信頼できるかどうかで判断するしかない。

 

(たしかに最低限の科学リテラシーがないと、信頼する相手を思いっきり間違ってしまって「ワクチンにマイクロチップが埋め込まれていて接種したら洗脳される!」みたいな思想に染まってしまうリスクがあるので、まったく無防備でいるのもダメだけど)

 

都合の悪い情報を隠そうとする前科がある組織がいう安心安全と、できるだけオープンであろうとする組織がいう安心安全では、信頼度がまるで違う。

 

そういった意味でフジロックは「よらしめる」ことにある程度成功したと言える。

ただ、「よらしめる」ことができたとして、その中身が間違っていたかもしれないという話は別でするべきで、それについては今後の検証が必要だと思う。

たとえば参加者に無料配布された抗原検査キットがザルだという指摘はある。

 

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アーティストからのコメント

今回フジロックが開催されたことについて、様々な意見が飛び交った。

その中でも特徴的だったのが、出演者からのいくつかのコメント。

 

直前になって出演を取りやめたアーティストもいたし、悩みぬいた結果出演することに決めたけど本当にこれでいいのかいまだにわからないと葛藤しまくりのコメントを出すアーティストもいた。

当日のライブ中に生の言葉で説明したアーティストもたくさんいた。

 

それらの言葉のひとつひとつが真摯なものだと思うし、出ることにしたアーティストと出ないことにしたアーティストのどちらも、それぞれに筋が通っていると思う。

そしてそこには分断はないように見えている。

 

 

 

 

 

 

 

分断があるとしたら、外部からの無責任な声との間にあるんだろう。

人によっては、つい最近オリンピックに対して自分が投げかけていた声がこれと同じだったことに気づいて、ダブスタ具合に苦しくなったかもしれない。

結局、人は当事者にならないと重みがわからないって話なんだろうけど、そこまでまじめに受け止めてしんどくなることもないかなとも思う。

 

 

そういったことはありつつ、出演者からいろんな言葉が出たことそのものを、実はすごく頼もしく思っている。

 

やっぱりミュージシャンという人種は人一倍めんどくさい人たちで、なんとなく空気に流されたり大人の言われるがままに動くことをよしとしないんだなと。

この局面で出るか出ないかを決めるにあたって、一言言わずにはいられないんだなと。

ネットでの炎上に対する先回りしたエクスキューズっていうニュアンスはなく、自分に筋を通したいという思いが伝わってきた。

 

比べるのもおかしいのかもしれないけど、「いろいろ考えましたがオリンピックに出ることにしました、なぜなら〜」とか「この状況でオリンピックに出るという判断がどうしてもできませんでした」みたいなコメントはアスリートから出なかったわけで。

 

自分はバンドマンだったけどアスリートだった経験はないため、あくまで片方の世界から見た想像でしかないけど、スポーツって「余計なことは考えず競技に集中するべき」みたいな感じになるからだろうか。

実はその「余計なこと」の部分がめちゃめちゃ重要だったりすることもあるだろうに。

 

思い起こせば、2016年のフジロックをきっかけに「音楽に政治を持ち込むな」の議論がまきおこったことがあったけど、あれって2021年の状況から眺めると、なんとも牧歌的な状況だったなと思ってしまう。

 

今回わかったように、音楽に政治はとっくに持ち込まれている。

フジロックに出ると決めたこと、出ないと決めたこと、何か発言すること、何も発言しないこと、このどれもが広い意味での政治だし、狭い意味で言っても、国が補償するかしないかで音楽業界の命運がはっきり分かれている。

国によっては、ライブやフェスができない間の補償がしっかりもらえているわけで。

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もうひとつ信頼していたもの

自分が今回フジロックに行くことにした理由のもうひとつが、フジロッカーへの信頼。

 

昔からフジロックは世界一クリーンなフェスだなんて言われており、ゴミのポイ捨てがとにかく少ないし、みんな食器類やペットボトルなどは指示通り徹底的に分別して捨ててる。

お互いに助け合う文化みたいなものもあるし、自分もそうだけど苗場にいる間だけはみんないつもの3割増しぐらいで意識高くなる。

 

なので、ただでさえ意識が高くなりがちなフジロックなのにこの状況下ではさらにみんなちゃんとするだろうなと思ったのです。

 

だから常時マスクや黙食や禁酒やソーシャルディスタンスといったルールについても、おそらくみんなちゃんと守るんだろうなと。

 

実際、自分が見た範囲ではみんなディスタンスをとっていたし、マスクなしで歩き回ってる人は見かけなかったし、ステージに対して歓声を上げる人もひとりもいなかった。

 

なんてったって、あのGEZANのものすごいライブのときもモッシュが発生しなかったし、ピエール瀧がどんなに煽ってもみんな声を上げず手振りだけで反応していたし、ほんとにちゃんとしてたと思う。

 

電気グルーヴが終わってみんなが一斉に会場外に向かったときは正直、人との距離はかなり近くなっていたけど、オープンエアなぶん、朝の新宿駅南口の乗り換えやオフィスビルのエレベーターなんかよりもよっぽどマシだと思った。

 

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少子化と経済の落ち込みにより、海外のアーティストが当たり前のように来日公演をしてくれる時代はいずれ終わってしまうかもしれない。

そうなるとほとんどの日本人は海外のアーティストのライブを見たくても見れず、一部の金持ちがシンガポールや上海あたりまで遠征するようになるだろう。

 

日本の中でも、超メジャーなアーティストと、超インディーなアーティストに二分化していき、音楽で食える人数はこれからも減り続けるだろう。

 

そういう時代の流れは避けられないと思っているので、フジロックサマソニのようなトップランナーにはがんばっていただいて、少しでもその日が来るのを先延ばししたい。

単独公演は難しいけどフェスのヘッドライナーなら来日できるっていうケースは、すでにたくさん発生しているだろうし。

 

とりとめのない文章になってしまったけど、2021年のフジロックが開催されたことが、プラスになってくれることを心から願っています。

2022年の開催はアナウンスされたのでひと安心。

 

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ハードオフでウサギ狩り、または退屈しのぎに親になること〜『暇と退屈の倫理学』より

サラリーマンの降って湧いた暇と退屈

サラリーマンをやっていると、道路にぽっかり空いた穴のようなイレギュラーな平日休みがたまに訪れる。

有給消化とか休日出勤の振替休日のような名目で。

 

つい先日、久々にそういう日が訪れたんだが、さてどのように過ごそうかと悩んでしまった。

 

自分はどちらかというと一人で過ごすのは得意なタイプだし、「趣味がないのが悩みです」みたいな人のことがまったく理解できないぐらいにはいろんなことに興味がある。

それでも、コロナ禍に降って湧いた半日はなかなか中途半端で扱いに困った。

 

具体的な計画がまとまらないまま当日を迎え、とりあえず街に出て本屋が開く時間までコーヒー飲んで潰した。

せっかくだしこの休みはじっくり本でも読むかという考えである。

 

午前10時の時点ですでに時間を持て余しはじめていることに気づきながら入った本屋で、なんとなく目に止まった1冊の本に釘付けになった。

 

『暇と退屈の倫理学 増補新版』

 

こちら、2011年に出た本の増補版として2015年にリリースされているわけで、特に新刊というわけでもタイムリーなわけでもないはずなんだけど、なんでだか平積みされていて、たまたま引き寄せられるようにその棚の前を通りがかった自分の目に止まり、そうすることが決まっていたみたいな勢いでレジに持っていった。

 

この本には、今の自分が抱えていることを考えるヒントがあるかもしれないと思った。

 

暇と退屈の問題意識

休みの日に何もしないでいることに対して、ものすごく罪の意識のようなものを感じてしまう。

 

昼過ぎまで寝てそのままダラダラして気づいたら夜になっていて…という日をたくさん過ごしてきてしまった20代の自分。

そんな1日の終わりには、同年代や年下の、才能もあって日々の努力も惜しまず若くして世に出たような人たちと自分を比べて、激しく落ち込んだものだった。

 

それから長い年月がたって、人の親になったり会社で責任あるポジションになったりした今になっても、「何もしない日」に対する恐怖心のようなものが心の中にずっとある。

 

家族でどこかに出かけるのは、罪の意識なし。

ひとりで映画館に行くのは、罪の意識なし。

だけど子供が近所の公園で遊んでいるのを見守っているだけの1日は、ちょっと心がざわざわする。

たしかに子供にとっては、あたらしい友達との出会いや遊びに夢中になれる時間は、別に車で遠出した大自然の中じゃなくても、近所の公園でも体験できるもの。

だけど、親である自分にとっては、近所の公園での時間は「何もしない日」にちょっと近い感じがするからざわざわしてしまう。

 

そんなタチの自分にとって、降って湧いた半日の過ごし方は難しい。

「何もしない日」にならないようにするにはどうすればいいか。

 

結局この日は、この本を読みながら電車で遠出して湘南に行くことにした。

これにより、①読書するまとまった時間(電車の中だとはかどるから) ②普段なかなか行けない地域の酸辣湯麺トロール ③普段なかなか行けない地域でスマホ位置ゲーのチェックイン ④普段なかなか行けない地域のハードオフでレコード探し ⑤弊社のプロダクトが展開されてるので現地で体験 という5つの目的を今日という日に持たせることができることになった。

 

ここまで揃うと「何もしない日」ではまったくない感じになって、まことに心が落ち着いたのだった。

 

ハードオフでウサギ狩り

『暇と退屈の倫理学』は案の定めちゃめちゃ刺激的な本だった。

小田急片瀬江ノ島駅に着くまでの車中で読みふけった。

 

これからハードオフのジャンク品コーナーに行こうとする自分に特に刺さったのが、17世紀のフランスの思想家パスカルによるたとえ話。

 

これからウサギ狩りに行こうとする人に、「ウサギ狩りに行くのかい?それなら、これやるよ」と言ってウサギを与えるとどうなるか。

喜んでくれるわけはなく、嫌がらせにしかならないだろう。

 

なぜなら、ウサギ狩りに行く人は別にウサギがほしいわけではなく、退屈から逃れて気晴らしをしたいからわざわざ遠出してウサギ狩りをするのである。

一日中野山を駆け回ってもウサギは一匹も見つからないことだってあるし、それがわかっていても人はウサギ狩りに出かける。

 

ハードオフのジャンク品コーナーにあるレコードも、基本的にウサギ狩りと同じ。

大量のクズみたいなレコードの山をかきわけて、少しでもアンテナに引っかかるものを見つける。客観的に見ると気が遠くなるような行為である。

 

さだまさし、アリス、クラシック、民謡、因幡晃、童謡、ムード音楽、松山千春、、、のループが30周ぐらいするはざまに、多少珍しいコミックソングとかちょっとグルーヴを感じる演歌とかが掘り出せる程度。

 

はっきり言って時間の無駄。

目当てのレコードがあるなら、さっさとディスクユニオンヤフオクで探すべきで、多少マシかなと思えるレコードのために数時間を費やすなんて正気じゃない。

 

だけど、自分の基準ではこれは「何もしない日」にはカウントされない。

 

子供と公園にいるほうが100倍まともだって思われるのは百も承知だけど、誰にも迷惑をかけずに心の安定を保ったんだからいいじゃないですか。

 

人間が退屈する理由

『暇と退屈の倫理学』によると、古今東西さまざまな哲学者が「退屈」について考え続けてきたのだそう。

 

その中でも注目すべきはハイデッガーという20世紀を代表するドイツの哲学者の退屈論なんだって。

著者はハイデッガーの退屈論を参照しつつ、批判的なアプローチで独自の退屈論を展開していくんだけど、大まかに言うと、人間は何もすることがない状態に耐えられないほどの苦痛を感じるようにできている。

その耐え難い苦痛を避けるためなら、多少の苦痛は喜んで受け入れる。

 

家でじっとしていることができないがために、わざわざ出かけて疲れるようなことをする。

江戸時代の漁師が、短い期間だけ漁に出て大儲けしたものの、漁に出ていない暇な時間を持て余して博打に手を出し、地元のヤクザに身ぐるみ剥がされるみたいなエピソードを思い出した。

 

その反面、人間というのは新しい刺激ばかりだと疲れてしまうので、「慣れ」という機能を活用して省エネ化する仕組みももっている。

たとえば引っ越したばかりの頃は近所を歩くだけで大冒険だったけど、しばらくすると完全に身体が道を覚えてしまい、脳をまったく使わずに駅までオートモードで着くことができるようになる。

 

この「慣れ」は脳の消費カロリーを抑える重要な機能なんだけど、「退屈」とほとんど背中合わせ。

バイト初日はものすごく疲れると同時に充実感がすごいけど、3ヶ月もすると慣れて疲れなくなるのと同時にめちゃくちゃ退屈で死にそうになる。

 

退屈しのぎに親になる

30代も中盤にさしかかったある日のこと、突然、自分の人生そのものに対して退屈を感じてしまったことがあった。

 

前述のハイデッガーによると、これは「退屈の第二形式」とかいうやつで、パーティーに招かれて楽しい時間を過ごしている最中にふと感じるタイプの退屈らしい。

 

その頃の自分は、貧乏ではなくなっていたし視野も広がってきたし交友関係もいろいろあったしで、毎日おもしろおかしく過ごしていた。

平日はホワイトな会社でやりがいのある仕事を任されていて、休日はフェスに行ったりクラブに行ったり海外にもよく行ったりで、全面的に充実していたと言える時期だった。

 

それなのに、いや、『暇と退屈の倫理学』によると、それだからこそ、かもしれないが、漠然とした退屈がある日おそってきた。

 

今の自分が『こち亀』みたいな一話完結で成長せずに永遠に続く楽しい世界で生きているんだっていう感覚をおぼえ、そこから抜け出して『ワンピース』みたいな一本のストーリーの中に身を置きたいと思うようになったのである。

 

その転換を果たすために、結婚して子供をつくったみたいなところは正直ある。

 

言ってみれば、退屈しのぎの気晴らしのために親になった。

 

 

親になってみると、「子供を飢えさせずに育成する」っていうゲームにきっちり動物的にとらわれることになり、あの退屈はきれいさっぱり消え失せたので、大成功。

 

今の世の中、宗教とか世間とか非効率な仕組みから開放されてみんな自由になった反面、自由だからこそ感じてしまう退屈に対して、開放してくれる何かは誰も与えてくれないので自分で見つけるしかなく、結構しんどくなっている時代だと思う。

 

そんな時代におすすめしたいのが、親になること。

やらない/やれない理由はいくらでもリストアップできる中で、自分の退屈しのぎのためにあえてやってみると、こんなにシンプルに生きやすくなるもんかと感動すると思います。まじで。

 

でまあ自分の退屈しのぎ目的とはいえ、せっかく親になったんだからみんな普通に子供は育てられると思う。

犬猫でさえ飼ったらちゃんと責任感が勝手に芽生えて育てられるようになるんだから、人間なんてかんたん。

 

初物で長生き

ずっと緊張してるとしんどいから、慣れの機能を使って省エネしたがる人間。

これってダイエットの話と似てる。

 

大昔、餓死の危機がすぐそこにあった時代、食べて太ることは長生きするために必要なことだった。脂肪を蓄える機能にはニーズがあった。

しかし、餓死の心配がほぼなくなった現代、人はほっとくと太りすぎてしまうので、ダイエットに取り組んで健康を保つ必要がでてきた。

 

それと同じく、常に危険と隣り合わせで生きてきた大昔の人間にとって、知ってる場所にちゃんと慣れることで、いちいち消耗しないようにすることは大事な機能だったと思う。

しかし、歩きスマホで駅まで歩いても誰からも襲われないようになった現代、習慣だけで楽に生きることがいくらでもできるようになったのはいいことだけど、ほっとくと緩くなりすぎるので、長生きのためには適度な刺激を自分に与える必要があるだろう。

 

 

古典落語の大ネタ「らくだ」にはこんなセリフがある。

 

「死人のカンカンノウ?おもしろいやないか、見せてもらおう。初物や。初物みたら寿命が75日のびるっていうやないか」

 

www.youtube.com

 

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すべてのJ-POPはリズム歌謡である

リズム歌謡という概念

「リズム歌謡」というのは、おもに1950〜60年代に流行した歌謡曲のスタイルというか枠組みのこと。

海外でヒットした「ニューリズム」を輸入し、歌謡曲の人気歌手に歌わせるという形式で、数多く制作された。

 

特定のリズムを強調する流れはおそらく1947年の笠置シズ子「東京ブギウギ」の大ヒットからのもので、笠置シズ子は「ジャングル・ブギー」「買物ブギー」「大阪ブギウギ」「ホームラン・ブギ」などのブギものを連発して「ブギの女王」とも呼ばれた。

 

 

その後、「マンボ」「チャチャチャ」「カリプソ」「パチャンガ」「スクスク」「タムレ」「ボサノバ」「ツイスト」「ブーガルー」など様々なリズムが輸入され、歌謡曲としてリリースされていく。

 

マンボブーム

マンボといえば誰もが想起する「マンボNo.5」は1949年の曲。

作曲したペレス・プラードは「マンボの王様」と呼ばれた。

 

もともとはキューバ音楽の新しいスタイルの呼び名だったマンボが、ペレス・プラードの影響で全世界的なブームになり、日本へも波及。1956年には来日公演もやっている。

 

今でもリサイクルショップやレコ屋でペレス・プラードのレコードは大量に見つかることから、当時の普及っぷりがうかがえるというもの。

 

日本人によるマンボで代表的なのがこの2曲。

美空ひばり「お祭りマンボ」(1952年)

トニー谷宮城まり子「さいざんす・マンボ」(1953年)

 

いずれもパーカッションが大活躍する軽快なダンスナンバーになっている。

 

マンボは音楽のスタイルとしては廃れたけど、その後も社交ダンスのスタイルのひとつとして現在まで生き残っているのが興味深い。

 

リズム歌謡の機能

 

リズム歌謡のレコードのジャケ裏には、踊り方の説明やステップの図が描かれていたりする。

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1965年の橋幸夫「あの娘と僕(スイム・スイム・スイム)」のジャケ裏より。

 

踊り方の説明とダンス講師の名前、ニューリズム「スイム」を仕掛けるビクターの楽曲群、そして東レの水着とのタイアップと、「リズム歌謡」がどのようなビジネスモデルだったかがこの1枚に集約されているようでとても興味深い。

 

この時代、ポピュラー音楽は「アーティスト」の「作品」を姿勢を正して鑑賞するというものではなかった。

 

そういう「まじめな」鑑賞がされるようになってきたのはおそらく1960年代後半のフォークソングの時代以降。

歌詞がことさら重要視されたり、歌手がアーティストと呼ばれるようになったり、そういった現代まで続く音楽への向き合い方が生まれる前、リズム歌謡は第一に踊ることを目的とした音楽だった。

 

すべてのJ-POPはリズム歌謡である

マキタスポーツ氏は「すべてのJ-POPはパクリである」と喝破した。

 

これは、かの大滝詠一の「分母分子論」をさらにカスタマイズした理論に基づいてたどり着いた境地。

あえて強い言葉で断言してみせたという面はあるにせよ、やはりJ-POPという音楽は程度の違いはあっても、総じてそういうもんだと思う。

 

大まかに言うと、J-POPと呼ばれている音楽は、アーティストの人格という分子と、規格(=音楽のスタイル)という分母からできているという考え方。

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ポピュラー音楽における、規格(=音楽のスタイル)の部分は、基本的にどこかからの影響でできている。そのこと自体は別に悪いことでもなんでもなく、昔からそういうもの。

ビートルズだってピストルズだってエイフェックス・ツインだってビリー・アイリッシュだってそうだけど、既存のスタイルに新しい解釈やカスタマイズを施すことで、フレッシュなものを生み出している。

(それを「パクリ」と呼ぶことで、いわゆるパクリ論争の不毛さへの批評にもなっているすごいタイトルだと思う)

 

謡曲〜J-POPにおいてその構造は顕著で、特に「リズム歌謡」っていうのはその構造が見えやすい。

リズム歌謡の曲名によくある、「(歌手名)の(リズム)」っていうパターンはこの規格分の人格がむき出しになっているわけ。

 

美空ひばり「ひばりのドドンパ」

田代みどり「みどりちゃんのドドンパ」

小林旭「アキラでツイスト」

 

つまり、すべてのJ-POPは「規格分の人格」の構造で読み解くことができるのであれば、リズム歌謡のフレームを現代J-POPに当てはめることも可能ではないか。

 

EXILEの歌モノEDM」

Suchmosのアシッドジャズ」

サカナクションのシティポップ」

 

 

リズム歌謡についてさらに掘り下げたい方へ

リズム歌謡の構造でJ-POPをとらえなおす話、あえてここまでにします。

 

この先はオンライン講座でさらに深堀りしていこうと思っています。

 

われわれLL教室、2021年6月から美学校でこんな話をみっちりやるオンライン講座を受け持っています。

 

「歌謡曲〜J-POPの歴史から学ぶ音楽入門・実作編」ということで、J-POPというものを戦後からの75年のスパンで捉えていく試み。

1回2時間の講義と、それを踏まえた作品作りを月イチでやっていきます。

 

つい先日、第1回目の講義をやったところなのですが、なんと、その1回目分をアーカイブ動画より聴講していただくことで、7月10日まで申し込みが可能となりました!

 

講座へは7月11日の2回目からの参加となります。

この機会に、歌謡曲〜J-POPの構造について、1年かけてじっくり掘り下げてみませんか!!!