森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

髭男も猿岩石も、みんな後ろめたさを歌ってきた

ペンディング・マシーン

Official髭男dismのニューアルバム『Editorial』を聴いていて、ある曲の歌詞に耳が止まった。

 

誰かの憂いを肩代わり出来るほどタフガイじゃない 耐えられない

耳からも目からも 飛び込む有象無象はもう知らないでいよう 病まないためにも

 

はい。分かったからもう黙って 疲れてるから休まして

申し訳ないけど待って 迷惑はお互い様だって

 

ペンディング・マシーン」というその曲のタイトルは、ベンディング・マシーン(=自動販売機)をもじって、ペンディング、すなわち決定を先延ばしする自分という自嘲的なノリを感じさせる。

 

 

こういった気持ちは、SNSやネットニュースを大量に浴びながら生きているわれわれの多くに思い当たるふしがあるんじゃなかろうか。

 

世界中には、いや日本国内にも、いろんな事情で困っている人がいたり、放置してはいけない構造の歪みがあったりして、そのすべてに態度を表明しなければいけないような気にさせられている。

その反面、100%の悪だとして糾弾されていた側にも事情があったことが数日後に判明して振り上げた拳の行き場がなくなるなんてこともしょっちゅうだし、誰がが吊し上げている対象は別の誰かにとっては信仰の対象だったりするし、自分なんかが浅い知識で軽々しく何かを表明してはいけないんじゃないかといつも感じさせられている。

 

そんなダブルバインド状態に陥ってしんどくなっている人は少なくないはず。

 

Ado、セカオワ、MOROHA

こういった心情を歌っているのは髭男だけじゃない。

 

たとえばAdo「うっせえわ」の中にもあるこんなフレーズ。

 

最新の流行は当然の把握

経済の動向も通勤時チェック

 

こういった行動が「社会人じゃ当然のルール」とされてることに対して「うっせえわ」と毒づく構成になってる。

法律だったり特定の誰かに明示的に強制されているわけでもないのに、なんとなくそういう気持ちにさせられてると。

 

あとSEKAI NO OWARIの「Hey Ho」はもっとはっきりとこう言ってる。

 

例えば君がテレビから流れてくる悲しいニュースを見ても

心が動かなくても

それは普通なことなんだと思う

誰かを助けることは義務じゃないと僕は思うんだ

笑顔を見れる権利なんだ 自分のためなんだ

 

 

 

ふつうに人として心を痛める、とはいえ具体的な行動は何もできない、そんな自分は偽善的なんじゃないかと思ってしんどくなる、しんどくなるぐらいならはじめから心を動かさないようにする、という心の動き。

それでいいんだよと肯定してあげつつも、サビでは「誰かからのSOS」について何度も言及していて、単純に切り捨てていないことがわかる。

 

 

MOROHAは「今、偽善者の先頭で」という曲で、この感情をもう少し具体的に解き明かしている。

 

あの街は悲しみに溢れ

かたやいつも通りの自分に引け目

駅前の募金箱を見たときの後ろめたさの理由は

昨晩のアルコールが知ってる

 

 

そう、この感情は後ろめたさなんだと思う。

髭男もAdoもセカオワも、後ろめたさについて歌っているんだろう。

 

最初から世の中のことや他人の痛みに無関心なのであれば、わざわざそのことを歌詞にしたりしないわけで。

 

ただただ心を痛めているだけで何も行動できない後ろめたさを、まずは自嘲気味にでも歌にしておく、そこにギリギリの誠実さみたいなものを感じました。

 

そしてそれはアーティスト本人の心の問題というだけでなく、同時に今の時代の多くの日本人に共通する意識でもあるだろう。

 

猿岩石「NEWS」

ちょっとさかのぼると、猿岩石は1997年のシングル「ツキ」のカップリング「NEWS」でこんなことを歌っている。

 

家をなくした家族が空を見上げてる

希望が戦車に踏み潰されてく

ずっと続くのかい?このカーニバル

 

だけど仕方がない

僕も早く眠らなきゃ

だけど仕方がない

明日があるから

 

まるでカンケイない

僕はここに生きている

まるでカンケイない

日本なんだよ

 

いかにも90年代的なフォーキーで明るい感じの(明らかにPUFFYのあの感じを意識してる)A面「ツキ」と同じコンビ(高井良斉高見沢俊彦)の作詞作曲なんだけど、一転して「NEWS」は曲調もかなり暗い。

 

サブスクにないためここで聴いてもらえないのがもどかしいんだけど、全体的に救いがなさすぎる感じがする曲。

 

飛ぶ鳥を落とす勢いの人気芸能人がなんでわざわざこんなことを歌ってるんだと、当時も多くの人が困惑したんじゃなかろうか。

 

今回、髭男やセカオワやMOROHAの事例を追っかけてやっとわかるのが、この曲も後ろめたさの歌なんだってこと。

世界の出来事に対して何もできないでいる無力な自分を自嘲的に歌ってるんだと。

 

しかしそれにしてももうちょっといい言葉の選び方はあったんじゃないかって思うよね。

「日本なんだよ」ってなんだよ。

自嘲が自嘲だと伝わりづらくて、単に冷酷な人みたいに聞こえてしまう。

 

ちなみに作詞の高井良斉っていうのは秋元康ペンネーム。

この人ってこういう、「わかってやってます」感の路線よくやるけど、やっぱ苦手。

実は今年もフジロックに行ってきた

実は今年のフジロックに行っていました。

 

最終日8月22日の1日券をずっと前に買っていたんだけど、当日の朝まで行くかどうか決めかねていて、発券もしていなかったほど。

で、いろいろ考えた末に行くことにした。

 

2020年は開催されず、2021年も入場者数を半数以下に減らして国内アーティストのみで開催するということになったフジロック、ラインナップが発表された時点では新型コロナの感染者数はここまでじゃなかった。

開催される頃にはワクチンも行き渡って、状況も落ち着いてるんだろうななんて楽観視していたんだけど、落ち着くどころかどんどん状況はひどくなり続けて当日を迎えてしまった。

 

去年の夏、延期を決めたときよりも間違いなく悪化しているので、なぜ去年は延期で今年はやるのかっていうツッコミはもっともだと思う。

 

 

ただ、去年よりも悪化しているのは感染状況だけでなく、音楽業界、特にライブやフェスにかかわる部分の景気もそう。ライブハウスはどんどん潰れ、音楽にかかわる人がどんどん仕事を失っている。

にもかかわらず国からの補償は全然ないらしく、このまま中止したら二度とフジロックはできなくなるかもしれない。だったらできる対策をすべてやった上で開催するしかない、たとえ猛烈な批判を食らったとしても、という状況だったと思われる。

 

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いつもどおりのようにも見えるけど、ステージ前方足元にはディスタンスの目安を示すマークが

 

オリンピックと同じなのか

オリンピックには反対していたのにフジロックには行くのかよ、っていう、なぜか嬉しそうなテンションの批判も聞こえてきた。

オリンピックは無観客なのにフジロックは有観客っていうのもツッコミどころだろう。

 

数万の人が集まることで直接的に感染源になってしまうという面では、有観客というリスクは高すぎるというのはわかる。

経済的な理由で開催したいのであれば無観客で有料配信にしてはどうかという意見もあった。

 

それでも、世界中から選手やスタッフが集まるオリンピックと、国内アーティストと日本の観客のみで行うフジロックのリスクは単純な比較が難しいと思う。

また、どちらかというと懸念されていたのは、「オリンピックもやってるんだから」という油断したムードが世の中に広がることだったと思う。

 

いろんな意味で単純な比較は難しいけれど、自分にとって最大の違いは「信頼」のひとことに尽きる。

 

つまり、招致のために裏金を使ったり、開会式の演出プランを理不尽に潰したり、8月の東京はアスリートにとって理想的な環境だと嘘をついたり、いつの間にか当初の何倍にも予算が膨れ上がっていたり、そういったことがあったのに、納税者、特に都民に対してまともに説明をしない国や組織は、信用することができない。

 

自分が知っている限り、フジロックの運営体制でそういった話は聞いたことがない。

代表の日高氏をはじめ、ことあるごとにきちんと説明をしようとしてきたし、われわれ観客だけでなく、地元の湯沢町とも時間をかけて信頼関係を築いてきたという話も聞いている。

あれだけの規模のイベントごとで、ここまで顔が見えるのって結構珍しいことだと思う。

そうやってこれまでフジロックが築いてきた信頼関係の貯金があったので、最終的に参加しようと思ったのだった。

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よらしむべし知らしむべからず

「民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず」という有名なフレーズがある。

2500年前に孔子が言ったとされる言葉。

 

これ、「民衆には細かいことをいちいち説明する必要はなくただ従わせればよいのだ」という意味だと思ってる人が多い(自分もかつてそう思ってた)んだけど、実は「べし」の意味が違うらしい。

実際には、「民衆は従わせることはできるけど細かい内容まで伝えることはなかなかできないよね」っていうことなんだと。

 

新型コロナに関するいろんな情報が飛び交う昨今、よくこの言葉を思い出してた。

つまり、結局われわれ公衆衛生学の素人には、何が正しい情報なのか知ることができないなと。そうなると結局、アナウンスしている人を信頼できるかどうかで判断するしかない。

 

(たしかに最低限の科学リテラシーがないと、信頼する相手を思いっきり間違ってしまって「ワクチンにマイクロチップが埋め込まれていて接種したら洗脳される!」みたいな思想に染まってしまうリスクがあるので、まったく無防備でいるのもダメだけど)

 

都合の悪い情報を隠そうとする前科がある組織がいう安心安全と、できるだけオープンであろうとする組織がいう安心安全では、信頼度がまるで違う。

 

そういった意味でフジロックは「よらしめる」ことにある程度成功したと言える。

ただ、「よらしめる」ことができたとして、その中身が間違っていたかもしれないという話は別でするべきで、それについては今後の検証が必要だと思う。

たとえば参加者に無料配布された抗原検査キットがザルだという指摘はある。

 

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アーティストからのコメント

今回フジロックが開催されたことについて、様々な意見が飛び交った。

その中でも特徴的だったのが、出演者からのいくつかのコメント。

 

直前になって出演を取りやめたアーティストもいたし、悩みぬいた結果出演することに決めたけど本当にこれでいいのかいまだにわからないと葛藤しまくりのコメントを出すアーティストもいた。

当日のライブ中に生の言葉で説明したアーティストもたくさんいた。

 

それらの言葉のひとつひとつが真摯なものだと思うし、出ることにしたアーティストと出ないことにしたアーティストのどちらも、それぞれに筋が通っていると思う。

そしてそこには分断はないように見えている。

 

 

 

 

 

 

 

分断があるとしたら、外部からの無責任な声との間にあるんだろう。

人によっては、つい最近オリンピックに対して自分が投げかけていた声がこれと同じだったことに気づいて、ダブスタ具合に苦しくなったかもしれない。

結局、人は当事者にならないと重みがわからないって話なんだろうけど、そこまでまじめに受け止めてしんどくなることもないかなとも思う。

 

 

そういったことはありつつ、出演者からいろんな言葉が出たことそのものを、実はすごく頼もしく思っている。

 

やっぱりミュージシャンという人種は人一倍めんどくさい人たちで、なんとなく空気に流されたり大人の言われるがままに動くことをよしとしないんだなと。

この局面で出るか出ないかを決めるにあたって、一言言わずにはいられないんだなと。

ネットでの炎上に対する先回りしたエクスキューズっていうニュアンスはなく、自分に筋を通したいという思いが伝わってきた。

 

比べるのもおかしいのかもしれないけど、「いろいろ考えましたがオリンピックに出ることにしました、なぜなら〜」とか「この状況でオリンピックに出るという判断がどうしてもできませんでした」みたいなコメントはアスリートから出なかったわけで。

 

自分はバンドマンだったけどアスリートだった経験はないため、あくまで片方の世界から見た想像でしかないけど、スポーツって「余計なことは考えず競技に集中するべき」みたいな感じになるからだろうか。

実はその「余計なこと」の部分がめちゃめちゃ重要だったりすることもあるだろうに。

 

思い起こせば、2016年のフジロックをきっかけに「音楽に政治を持ち込むな」の議論がまきおこったことがあったけど、あれって2021年の状況から眺めると、なんとも牧歌的な状況だったなと思ってしまう。

 

今回わかったように、音楽に政治はとっくに持ち込まれている。

フジロックに出ると決めたこと、出ないと決めたこと、何か発言すること、何も発言しないこと、このどれもが広い意味での政治だし、狭い意味で言っても、国が補償するかしないかで音楽業界の命運がはっきり分かれている。

国によっては、ライブやフェスができない間の補償がしっかりもらえているわけで。

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もうひとつ信頼していたもの

自分が今回フジロックに行くことにした理由のもうひとつが、フジロッカーへの信頼。

 

昔からフジロックは世界一クリーンなフェスだなんて言われており、ゴミのポイ捨てがとにかく少ないし、みんな食器類やペットボトルなどは指示通り徹底的に分別して捨ててる。

お互いに助け合う文化みたいなものもあるし、自分もそうだけど苗場にいる間だけはみんないつもの3割増しぐらいで意識高くなる。

 

なので、ただでさえ意識が高くなりがちなフジロックなのにこの状況下ではさらにみんなちゃんとするだろうなと思ったのです。

 

だから常時マスクや黙食や禁酒やソーシャルディスタンスといったルールについても、おそらくみんなちゃんと守るんだろうなと。

 

実際、自分が見た範囲ではみんなディスタンスをとっていたし、マスクなしで歩き回ってる人は見かけなかったし、ステージに対して歓声を上げる人もひとりもいなかった。

 

なんてったって、あのGEZANのものすごいライブのときもモッシュが発生しなかったし、ピエール瀧がどんなに煽ってもみんな声を上げず手振りだけで反応していたし、ほんとにちゃんとしてたと思う。

 

電気グルーヴが終わってみんなが一斉に会場外に向かったときは正直、人との距離はかなり近くなっていたけど、オープンエアなぶん、朝の新宿駅南口の乗り換えやオフィスビルのエレベーターなんかよりもよっぽどマシだと思った。

 

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少子化と経済の落ち込みにより、海外のアーティストが当たり前のように来日公演をしてくれる時代はいずれ終わってしまうかもしれない。

そうなるとほとんどの日本人は海外のアーティストのライブを見たくても見れず、一部の金持ちがシンガポールや上海あたりまで遠征するようになるだろう。

 

日本の中でも、超メジャーなアーティストと、超インディーなアーティストに二分化していき、音楽で食える人数はこれからも減り続けるだろう。

 

そういう時代の流れは避けられないと思っているので、フジロックサマソニのようなトップランナーにはがんばっていただいて、少しでもその日が来るのを先延ばししたい。

単独公演は難しいけどフェスのヘッドライナーなら来日できるっていうケースは、すでにたくさん発生しているだろうし。

 

とりとめのない文章になってしまったけど、2021年のフジロックが開催されたことが、プラスになってくれることを心から願っています。

2022年の開催はアナウンスされたのでひと安心。

 

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ハードオフでウサギ狩り、または退屈しのぎに親になること〜『暇と退屈の倫理学』より

サラリーマンの降って湧いた暇と退屈

サラリーマンをやっていると、道路にぽっかり空いた穴のようなイレギュラーな平日休みがたまに訪れる。

有給消化とか休日出勤の振替休日のような名目で。

 

つい先日、久々にそういう日が訪れたんだが、さてどのように過ごそうかと悩んでしまった。

 

自分はどちらかというと一人で過ごすのは得意なタイプだし、「趣味がないのが悩みです」みたいな人のことがまったく理解できないぐらいにはいろんなことに興味がある。

それでも、コロナ禍に降って湧いた半日はなかなか中途半端で扱いに困った。

 

具体的な計画がまとまらないまま当日を迎え、とりあえず街に出て本屋が開く時間までコーヒー飲んで潰した。

せっかくだしこの休みはじっくり本でも読むかという考えである。

 

午前10時の時点ですでに時間を持て余しはじめていることに気づきながら入った本屋で、なんとなく目に止まった1冊の本に釘付けになった。

 

『暇と退屈の倫理学 増補新版』

 

こちら、2011年に出た本の増補版として2015年にリリースされているわけで、特に新刊というわけでもタイムリーなわけでもないはずなんだけど、なんでだか平積みされていて、たまたま引き寄せられるようにその棚の前を通りがかった自分の目に止まり、そうすることが決まっていたみたいな勢いでレジに持っていった。

 

この本には、今の自分が抱えていることを考えるヒントがあるかもしれないと思った。

 

暇と退屈の問題意識

休みの日に何もしないでいることに対して、ものすごく罪の意識のようなものを感じてしまう。

 

昼過ぎまで寝てそのままダラダラして気づいたら夜になっていて…という日をたくさん過ごしてきてしまった20代の自分。

そんな1日の終わりには、同年代や年下の、才能もあって日々の努力も惜しまず若くして世に出たような人たちと自分を比べて、激しく落ち込んだものだった。

 

それから長い年月がたって、人の親になったり会社で責任あるポジションになったりした今になっても、「何もしない日」に対する恐怖心のようなものが心の中にずっとある。

 

家族でどこかに出かけるのは、罪の意識なし。

ひとりで映画館に行くのは、罪の意識なし。

だけど子供が近所の公園で遊んでいるのを見守っているだけの1日は、ちょっと心がざわざわする。

たしかに子供にとっては、あたらしい友達との出会いや遊びに夢中になれる時間は、別に車で遠出した大自然の中じゃなくても、近所の公園でも体験できるもの。

だけど、親である自分にとっては、近所の公園での時間は「何もしない日」にちょっと近い感じがするからざわざわしてしまう。

 

そんなタチの自分にとって、降って湧いた半日の過ごし方は難しい。

「何もしない日」にならないようにするにはどうすればいいか。

 

結局この日は、この本を読みながら電車で遠出して湘南に行くことにした。

これにより、①読書するまとまった時間(電車の中だとはかどるから) ②普段なかなか行けない地域の酸辣湯麺トロール ③普段なかなか行けない地域でスマホ位置ゲーのチェックイン ④普段なかなか行けない地域のハードオフでレコード探し ⑤弊社のプロダクトが展開されてるので現地で体験 という5つの目的を今日という日に持たせることができることになった。

 

ここまで揃うと「何もしない日」ではまったくない感じになって、まことに心が落ち着いたのだった。

 

ハードオフでウサギ狩り

『暇と退屈の倫理学』は案の定めちゃめちゃ刺激的な本だった。

小田急片瀬江ノ島駅に着くまでの車中で読みふけった。

 

これからハードオフのジャンク品コーナーに行こうとする自分に特に刺さったのが、17世紀のフランスの思想家パスカルによるたとえ話。

 

これからウサギ狩りに行こうとする人に、「ウサギ狩りに行くのかい?それなら、これやるよ」と言ってウサギを与えるとどうなるか。

喜んでくれるわけはなく、嫌がらせにしかならないだろう。

 

なぜなら、ウサギ狩りに行く人は別にウサギがほしいわけではなく、退屈から逃れて気晴らしをしたいからわざわざ遠出してウサギ狩りをするのである。

一日中野山を駆け回ってもウサギは一匹も見つからないことだってあるし、それがわかっていても人はウサギ狩りに出かける。

 

ハードオフのジャンク品コーナーにあるレコードも、基本的にウサギ狩りと同じ。

大量のクズみたいなレコードの山をかきわけて、少しでもアンテナに引っかかるものを見つける。客観的に見ると気が遠くなるような行為である。

 

さだまさし、アリス、クラシック、民謡、因幡晃、童謡、ムード音楽、松山千春、、、のループが30周ぐらいするはざまに、多少珍しいコミックソングとかちょっとグルーヴを感じる演歌とかが掘り出せる程度。

 

はっきり言って時間の無駄。

目当てのレコードがあるなら、さっさとディスクユニオンヤフオクで探すべきで、多少マシかなと思えるレコードのために数時間を費やすなんて正気じゃない。

 

だけど、自分の基準ではこれは「何もしない日」にはカウントされない。

 

子供と公園にいるほうが100倍まともだって思われるのは百も承知だけど、誰にも迷惑をかけずに心の安定を保ったんだからいいじゃないですか。

 

人間が退屈する理由

『暇と退屈の倫理学』によると、古今東西さまざまな哲学者が「退屈」について考え続けてきたのだそう。

 

その中でも注目すべきはハイデッガーという20世紀を代表するドイツの哲学者の退屈論なんだって。

著者はハイデッガーの退屈論を参照しつつ、批判的なアプローチで独自の退屈論を展開していくんだけど、大まかに言うと、人間は何もすることがない状態に耐えられないほどの苦痛を感じるようにできている。

その耐え難い苦痛を避けるためなら、多少の苦痛は喜んで受け入れる。

 

家でじっとしていることができないがために、わざわざ出かけて疲れるようなことをする。

江戸時代の漁師が、短い期間だけ漁に出て大儲けしたものの、漁に出ていない暇な時間を持て余して博打に手を出し、地元のヤクザに身ぐるみ剥がされるみたいなエピソードを思い出した。

 

その反面、人間というのは新しい刺激ばかりだと疲れてしまうので、「慣れ」という機能を活用して省エネ化する仕組みももっている。

たとえば引っ越したばかりの頃は近所を歩くだけで大冒険だったけど、しばらくすると完全に身体が道を覚えてしまい、脳をまったく使わずに駅までオートモードで着くことができるようになる。

 

この「慣れ」は脳の消費カロリーを抑える重要な機能なんだけど、「退屈」とほとんど背中合わせ。

バイト初日はものすごく疲れると同時に充実感がすごいけど、3ヶ月もすると慣れて疲れなくなるのと同時にめちゃくちゃ退屈で死にそうになる。

 

退屈しのぎに親になる

30代も中盤にさしかかったある日のこと、突然、自分の人生そのものに対して退屈を感じてしまったことがあった。

 

前述のハイデッガーによると、これは「退屈の第二形式」とかいうやつで、パーティーに招かれて楽しい時間を過ごしている最中にふと感じるタイプの退屈らしい。

 

その頃の自分は、貧乏ではなくなっていたし視野も広がってきたし交友関係もいろいろあったしで、毎日おもしろおかしく過ごしていた。

平日はホワイトな会社でやりがいのある仕事を任されていて、休日はフェスに行ったりクラブに行ったり海外にもよく行ったりで、全面的に充実していたと言える時期だった。

 

それなのに、いや、『暇と退屈の倫理学』によると、それだからこそ、かもしれないが、漠然とした退屈がある日おそってきた。

 

今の自分が『こち亀』みたいな一話完結で成長せずに永遠に続く楽しい世界で生きているんだっていう感覚をおぼえ、そこから抜け出して『ワンピース』みたいな一本のストーリーの中に身を置きたいと思うようになったのである。

 

その転換を果たすために、結婚して子供をつくったみたいなところは正直ある。

 

言ってみれば、退屈しのぎの気晴らしのために親になった。

 

 

親になってみると、「子供を飢えさせずに育成する」っていうゲームにきっちり動物的にとらわれることになり、あの退屈はきれいさっぱり消え失せたので、大成功。

 

今の世の中、宗教とか世間とか非効率な仕組みから開放されてみんな自由になった反面、自由だからこそ感じてしまう退屈に対して、開放してくれる何かは誰も与えてくれないので自分で見つけるしかなく、結構しんどくなっている時代だと思う。

 

そんな時代におすすめしたいのが、親になること。

やらない/やれない理由はいくらでもリストアップできる中で、自分の退屈しのぎのためにあえてやってみると、こんなにシンプルに生きやすくなるもんかと感動すると思います。まじで。

 

でまあ自分の退屈しのぎ目的とはいえ、せっかく親になったんだからみんな普通に子供は育てられると思う。

犬猫でさえ飼ったらちゃんと責任感が勝手に芽生えて育てられるようになるんだから、人間なんてかんたん。

 

初物で長生き

ずっと緊張してるとしんどいから、慣れの機能を使って省エネしたがる人間。

これってダイエットの話と似てる。

 

大昔、餓死の危機がすぐそこにあった時代、食べて太ることは長生きするために必要なことだった。脂肪を蓄える機能にはニーズがあった。

しかし、餓死の心配がほぼなくなった現代、人はほっとくと太りすぎてしまうので、ダイエットに取り組んで健康を保つ必要がでてきた。

 

それと同じく、常に危険と隣り合わせで生きてきた大昔の人間にとって、知ってる場所にちゃんと慣れることで、いちいち消耗しないようにすることは大事な機能だったと思う。

しかし、歩きスマホで駅まで歩いても誰からも襲われないようになった現代、習慣だけで楽に生きることがいくらでもできるようになったのはいいことだけど、ほっとくと緩くなりすぎるので、長生きのためには適度な刺激を自分に与える必要があるだろう。

 

 

古典落語の大ネタ「らくだ」にはこんなセリフがある。

 

「死人のカンカンノウ?おもしろいやないか、見せてもらおう。初物や。初物みたら寿命が75日のびるっていうやないか」

 

www.youtube.com

 

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すべてのJ-POPはリズム歌謡である

リズム歌謡という概念

「リズム歌謡」というのは、おもに1950〜60年代に流行した歌謡曲のスタイルというか枠組みのこと。

海外でヒットした「ニューリズム」を輸入し、歌謡曲の人気歌手に歌わせるという形式で、数多く制作された。

 

特定のリズムを強調する流れはおそらく1947年の笠置シズ子「東京ブギウギ」の大ヒットからのもので、笠置シズ子は「ジャングル・ブギー」「買物ブギー」「大阪ブギウギ」「ホームラン・ブギ」などのブギものを連発して「ブギの女王」とも呼ばれた。

 

 

その後、「マンボ」「チャチャチャ」「カリプソ」「パチャンガ」「スクスク」「タムレ」「ボサノバ」「ツイスト」「ブーガルー」など様々なリズムが輸入され、歌謡曲としてリリースされていく。

 

マンボブーム

マンボといえば誰もが想起する「マンボNo.5」は1949年の曲。

作曲したペレス・プラードは「マンボの王様」と呼ばれた。

 

もともとはキューバ音楽の新しいスタイルの呼び名だったマンボが、ペレス・プラードの影響で全世界的なブームになり、日本へも波及。1956年には来日公演もやっている。

 

今でもリサイクルショップやレコ屋でペレス・プラードのレコードは大量に見つかることから、当時の普及っぷりがうかがえるというもの。

 

日本人によるマンボで代表的なのがこの2曲。

美空ひばり「お祭りマンボ」(1952年)

トニー谷宮城まり子「さいざんす・マンボ」(1953年)

 

いずれもパーカッションが大活躍する軽快なダンスナンバーになっている。

 

マンボは音楽のスタイルとしては廃れたけど、その後も社交ダンスのスタイルのひとつとして現在まで生き残っているのが興味深い。

 

リズム歌謡の機能

 

リズム歌謡のレコードのジャケ裏には、踊り方の説明やステップの図が描かれていたりする。

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1965年の橋幸夫「あの娘と僕(スイム・スイム・スイム)」のジャケ裏より。

 

踊り方の説明とダンス講師の名前、ニューリズム「スイム」を仕掛けるビクターの楽曲群、そして東レの水着とのタイアップと、「リズム歌謡」がどのようなビジネスモデルだったかがこの1枚に集約されているようでとても興味深い。

 

この時代、ポピュラー音楽は「アーティスト」の「作品」を姿勢を正して鑑賞するというものではなかった。

 

そういう「まじめな」鑑賞がされるようになってきたのはおそらく1960年代後半のフォークソングの時代以降。

歌詞がことさら重要視されたり、歌手がアーティストと呼ばれるようになったり、そういった現代まで続く音楽への向き合い方が生まれる前、リズム歌謡は第一に踊ることを目的とした音楽だった。

 

すべてのJ-POPはリズム歌謡である

マキタスポーツ氏は「すべてのJ-POPはパクリである」と喝破した。

 

これは、かの大滝詠一の「分母分子論」をさらにカスタマイズした理論に基づいてたどり着いた境地。

あえて強い言葉で断言してみせたという面はあるにせよ、やはりJ-POPという音楽は程度の違いはあっても、総じてそういうもんだと思う。

 

大まかに言うと、J-POPと呼ばれている音楽は、アーティストの人格という分子と、規格(=音楽のスタイル)という分母からできているという考え方。

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ポピュラー音楽における、規格(=音楽のスタイル)の部分は、基本的にどこかからの影響でできている。そのこと自体は別に悪いことでもなんでもなく、昔からそういうもの。

ビートルズだってピストルズだってエイフェックス・ツインだってビリー・アイリッシュだってそうだけど、既存のスタイルに新しい解釈やカスタマイズを施すことで、フレッシュなものを生み出している。

(それを「パクリ」と呼ぶことで、いわゆるパクリ論争の不毛さへの批評にもなっているすごいタイトルだと思う)

 

謡曲〜J-POPにおいてその構造は顕著で、特に「リズム歌謡」っていうのはその構造が見えやすい。

リズム歌謡の曲名によくある、「(歌手名)の(リズム)」っていうパターンはこの規格分の人格がむき出しになっているわけ。

 

美空ひばり「ひばりのドドンパ」

田代みどり「みどりちゃんのドドンパ」

小林旭「アキラでツイスト」

 

つまり、すべてのJ-POPは「規格分の人格」の構造で読み解くことができるのであれば、リズム歌謡のフレームを現代J-POPに当てはめることも可能ではないか。

 

EXILEの歌モノEDM」

Suchmosのアシッドジャズ」

サカナクションのシティポップ」

 

 

リズム歌謡についてさらに掘り下げたい方へ

リズム歌謡の構造でJ-POPをとらえなおす話、あえてここまでにします。

 

この先はオンライン講座でさらに深堀りしていこうと思っています。

 

われわれLL教室、2021年6月から美学校でこんな話をみっちりやるオンライン講座を受け持っています。

 

「歌謡曲〜J-POPの歴史から学ぶ音楽入門・実作編」ということで、J-POPというものを戦後からの75年のスパンで捉えていく試み。

1回2時間の講義と、それを踏まえた作品作りを月イチでやっていきます。

 

つい先日、第1回目の講義をやったところなのですが、なんと、その1回目分をアーカイブ動画より聴講していただくことで、7月10日まで申し込みが可能となりました!

 

講座へは7月11日の2回目からの参加となります。

この機会に、歌謡曲〜J-POPの構造について、1年かけてじっくり掘り下げてみませんか!!!

音の不良性感度〜LL教室「J-POPの構造」浜崎あゆみ論サブテキスト

不良性感度とは

「不良性感度」という言葉がある。

1960年代に東映の岡田社長がヤクザものやエログロといった方向に舵を切った際に打ち出したフレーズで、「不良っぽさ」と同じぐらいのニュアンスの言葉。

 

当時テレビに客を奪われて危機感が募っていた映画業界が、不良性感度を強化することでテレビとの差別化を図ったという。

 

暴力や犯罪、性的逸脱といった不良の世界に対して、怖いと感じるのと同時にどこか惹かれてしまうような感覚は、多くの人が身に覚えがあるはず。

 

昭和のヤクザ映画に限らず、明治時代には清水次郎長のような侠客ものの浪曲が爆発的に流行ったって事実もあるし、不良性感度が適度に高いことは、日本においてヒットする作品の重要な要素であり続けてきた。

 

ナンシー関もかつて「日本人の9割はヤンキーとファンシーでできている」と見抜いていたけど、ヤンキー的感性がそういったものを好むのは昔も今も同じなんだろう。

 

音の不良性感度

映画の世界だけじゃなく、音楽にも当然のことながら不良性感度が高いものと低いものがある。

 

わかりやすく不良性感度が高い音っていうと、悪者が登場したときに流れるような、悪の組織のアジトでかかってそうな、そういう音のこと。

 

1960年代からずっと、一般的にそういう音楽といえばロックだった。

特に、歪んだエレキギターの音には、一発で悪いやつだとわからせる効果があった。

 

特に80年代は暴走族やツッパリといった不良カルチャーとロックンロールは密接だったので、歪んだエレキギターの音は誰が聴いても不穏な空気を喚起できていた。

 

わかりやすい例でいえば、中森明菜の「少女A」のイントロとか。 

 

サブスクにないけど三原順子の楽曲も不良エレキが効果的に使われている。

 

 

オープン講座の浜崎あゆみ

先日、われわれLL教室は「J-POPの構造」というテーマのオンライン講義を行った。

 

peatix.com

 

6月から美学校で行うオンライン講義の公開ガイダンス的な位置づけで、大滝詠一の「分母分子論」やマキタスポーツの「ノベルティソング論」を援用し、J-POPという音楽がどういう構造でできているのかについてじっくり語っている。

※6月12日までアーカイブ視聴が可能(無料)なので、よかったらぜひ。

 

そのイベントの中で、J-POPという音楽を象徴するアーティストとして浜崎あゆみを取り上げ、わたくしはおもに音楽面について影響元とか楽曲構成なんかについての解説を担当した。

 

今回あらためて、初期の浜崎あゆみ楽曲をじっくり聴き直してみて感じたのが、その不良性感度の高さ。

日本人の9割がもつヤンキー感覚にお届けするための音楽になってる。

 

不良性感度の音の変遷と浜崎あゆみ

1stアルバムのあたりでは、中森明菜からの伝統を受け継ぐような不良ハードロックギターが要所で炸裂しているのがよくわかる。

 

「depend on you」のサビ始まりにつづくイントロ8小節のギターが代表的。

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エイベックスという、ダンスミュージック専門からはじまったレコード会社の伝統に従えば、「Fly High」みたいな4つ打ち路線ばかりでもよさそうなものだけど、全体的にハードロックなギターがよく使われている。

 

ただ、90年代からゼロ年代にかけての時期に、不良性感度の音楽に大きな転換があった。

 

それまでの歪んだエレキギターに代わって、ある種の電子音が治安の悪さの象徴として使われるようになってきたのだった。

 

その背景にあるのは、90年代から勃興したクラブ文化。

脱法ドラッグとかギャルサーの事件などもあり、クラブといえば犯罪の温床みたいなイメージが一般に浸透してきたことがあるだろう。

 

浜崎あゆみが所属するエイベックスといえば、まさにそういったクラブ系音楽の総本山のようなレコード会社なので、不良の音楽の変遷にも自然に乗っかることができた。

 

 このMVのクラブ描写!

 

 

また、歪んだエレキギターという素材も、デジタル的な取り入れ方になってくる。

同時代の英米やドイツで流行ったインダストリアル系のトレンドが意識されていることは明らか。「デジロック」なる和製英語もあった。

 

 

あとはなんといってもユーロビート

エイベックスといえば、1990年からリリースが始まって先日ついにvol.250を超えた『SUPER EUROBEAT』シリーズでも有名なわけで、浜崎あゆみも過去にユーロビートのリミックスを数々リリースしている。

 

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特徴的なR&B成分の薄さ

クラブ文化以降の不良音楽の変化にキャッチアップしてきた浜崎あゆみ

具体的には、ユーロビートやトランスといった、いわゆる大箱系のクラブでかかる音楽がもつ不良の匂い。

 

クラブがない地方都市においても、深夜2時のドンキホーテとか、峠を攻める走り屋のカーステレオで大音量で流されてきた。

 

一方、浜崎あゆみがブレイクした90年代末からゼロ年代にかけては、MISIAUA、birdといった女性R&Bシンガーが大活躍した時代でもあった。

宇多田ヒカルも最初はそのムーブメントの大型新人というかたちでデビューしている)

 

ユーロビートやトランス系の大箱ではない、コアな音楽好きが集まるほうのクラブでは、むしろそっちがメインだったわけで、浜崎あゆみの音楽にR&B色が入っていないのは、意図的なものを感じる。

 

すべての曲を聴いたわけではないんだけど、浜崎あゆみの代表曲といわれる曲はいずれもR&Bの特徴であるハネたリズムになっていなくて、ユーロビート化しやすい直線的なビートでできている。

 

ガチの不良はトランスやユーロビートじゃないと思うんだけど、そこはあくまで不良性感度、つまり「ぽさ」が大事なのであり、本気すぎるとマジョリティ層は引いてしまうんだろうか。「マイルド」ヤンキーというのはそういうことなんだろう。

 

結果的にゼロ年代浜崎あゆみが戦略的に突いたポイントっていうのが、当時の日本人の一番分厚い場所だったんだと思う。

 

LL教室の本講座でやりたいこと

 

いつの時代もそういうポイントを突いてくる音楽というのはあって、個人的にはそこにすごく興味があります。

 

われわれLL教室が担当するオンライン講座「歌謡曲〜J-POPの歴史から学ぶ音楽入門・実作編」では、ここ50年の日本の音楽シーンにおいて、それぞれの時代の空気がどうなっていたか、ヒットした曲の構造や背景を読み解くことで、一緒に考えていこうと思っています。

 

bigakko.jp

 

また、インプットだけでなく実際に制作も行うなど、双方向的で生きた講座にしたいと考えています。

音楽にかかわる仕事をしたい方や、音楽をより深く味わいたい方にオススメします。

 

まだまだ受付中です。

よろしくおねがいします!

J-POPが新聞を殺した

紙の新聞を読む人が減り続けている

日本新聞協会のデータによると、この20年で新聞の発行部数は3分の2になった。

20年前は一家に一紙かそれ以上とってたのに、今や新聞をとっている家は約半数。

 

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新聞の発行部数と世帯数の推移|調査データ|日本新聞協会

 

確かに、電車の中で新聞を読んでる人がもう全然いないよね。

世間話の入り口として「新聞で読んだんだけどさ」っていうのもなくなったし。

電車の中ではみんなスマホ見てるし、世間話の入り口はSNSやネットニュース。

 

今や紙の新聞はニュースソースじゃなく包装紙としての役割にシフトしつつある。

 

おそらく若い世代が購読しなくなったので、既存の読者である高齢者が亡くなるたびに新聞の部数が減っていってるんだろう。

もうかなり前から、新聞広告は定年退職後の豪華客船クルーズとか、いつまでも若々しく健康を保つためのサプリとか、懐かしの歌謡曲CDボックスセットとか、そういうのばかりになっている。

 

若い世代が新聞を読み始めるきっかけとして、就職活動のタイミングであわてて日経を購読するみたいなのがまだかろうじて機能しているかもしれないけど、それも電子版でいいやってなってるだろうしね。

 

誰が新聞を殺したか

ではなぜ新聞の発行部数はこんなに減ってしまったのか。

 

SNSやネットニュースにやられたというのはありそう。

新聞社が労力をかけて取材したニュースをSNSがタダ乗りすることも問題視されている。


しかし、減少傾向はネットの普及前からのこと。

犯人は他にもいるはずである。

 

大学生の間で教養主義が廃れたことや若い世代の可処分所得が減ったことなどいろんな要因はあるだろう。

ただ個人的に主犯格だと思っているのが、J-POP。

 

J-POPがしきりに訴えかけてきたメッセージが新聞を軽んじるムードを醸成したせいで、みんなが新聞を読まなくなったんじゃないだろうか。

 

たとえばこれ。

 

映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』のテーマソングとして2007年にリリースされた宇多田ヒカルの「Beautiful World」では、こんなことを。

 

新聞なんかいらない

肝心な事が載ってない

 

他にもたくさんある。

 

RCサクセション「Hungry」1990年

新聞みたいにデタラメなデマやウワサが踊るころ

 

内田有紀「Baby's Universe」1996年

信じる心忘れた大人は

新聞記事だけを信じてる

 

ザ・ハイロウズ「アレアレ」1996年

俺はテレビも信じない新聞も読まない

 

TUBE「Tomorrow's Dream」1996年

テレビも新聞も日替わりメニュー

知る権利と覗く権利さえはき違えているよ

 

稲葉浩「Seno de Revolution」2002年

新聞はいつも絶対じゃないぜやばい添加物有り

 

歌詞検索サイトで「新聞」で検索して拾ったんだけど、一番多いのが、大滝詠一「楽しい夜更し」みたいな夜ふかしして朝になった描写としての新聞配達でした。

そういうのを除くと、やはりこういう論調が目立つ。

 

ちなみに2010年代以降は出現頻度が低い。

もはや新聞が日本人の日常から縁遠いものになっていったからか。

 

新聞はなぜJ-POPに嫌われたか

いろんなタイプのアーティストがいて何万という楽曲が存在するJ-POP界において、最大公約数な歌詞の一般意志みたいなものがなんとなく、ある。

 

J-POPは昔から、「大人」にならないことを美徳とし、自分の目で見たことだけを信じろと、等身大の自分らしさこそがリアルであると、訴え続けてきた。

 

で、それは60年代のフォークソングあたりから尾崎豊を経て現在へと続く、若者が自分の言葉で歌う路線に共通するものだと思う。

 

つまり戦後の若者向けカルチャー全体を貫く精神性とほとんどイコールなのかもしれない。

そしてその精神性が、新聞を嫌っている。

 

新聞は、正義ぶって鼻持ちならないし、人の不幸にむらがる野次馬だし、「リアル」じゃないからっていう。

それでいて殴り返してこないから、気軽にディスることができる。

 

たしかに、綺麗事ばかり言ってても広告主の意向には逆らえないとか、パパラッチ的なメディアスクラムによる二次被害とか、記者クラブの閉鎖性とか、新聞を批判する切り口は実際いくらでもある。

考えなしに書きなぐった歌詞と、ジャーナリズム論の専門家の論考が偶然同じ方向性になっていても不思議じゃない。

 

ただ、30年間新聞を読んできた自分のような人間には、そういったJ-POPの論調はかなり居心地が悪いわけで。

どうしたって浅はかにも感じてしまう。

 

「書を捨てよ町へ出よう」の罪

自分は、ファッションというものに劣等感がある。

特に気合を入れてる感じでなく自然におしゃれができる人にはすごくあこがれるし、ハイブランドのすごい値段のジャージとかスニーカーの意味もわからない。

 

年相応な格好のさじ加減も全然わからないので、結局なんとなく自分の体型と財布から導き出された範囲で、おそるおそる無難にまとめてるにすぎない。

 

これは、10代の頃にちゃんと勉強してこなかったツケなんだろうなと思っている。

 

年頃になって色気づいた同級生がファッション雑誌をみていろいろ勉強してる姿を、なんとなく恥ずかしいものだと感じてしまうような変に硬派な価値観がもともとあった。

 

さらに、大学生1回生のころアパレル業界で働く年上の女性と付き合ってたんだけど、「ファッション雑誌に載ってる時点でもう情報としては死んでる」的な上級者向けすぎる価値観に接してしまったせいで、ますます基本的なところをすっ飛ばしてしまうことになった。

 

そのまま、お金がなさすぎて古着でしのぐしかない貧乏バンドマンの世界に飛び込んでしまったので、基本的なところが全然わからないままになってしまった。

 

これって、中学高校で社会科をちゃんとやらず新聞も読まないまま大人になって、いきなりネット上のもっともらしい情報に触れてしまった人の痛々しさにすごく似てる。

 

基本がない状態で、いきなり応用編の言葉に出会う問題。

 

「書を捨てよ町へ出よう」は、捨てるべき書が手元にあるからこそ意味がある言葉。

だけど、あまりにも言葉としてキャッチャーすぎるために、最初から書を読む気がない人間にも届いて、このままでいいんだと思わせる力も持ってしまった。

 

J-POPの歌詞においても、書いてる側は、新聞に載ってることがこの世のすべてじゃない、つまりリアルな体験や人間関係も同じぐらい大事っていう意図だったかもしれないのに、受け手は単に新聞は読まなくていいものって解釈してしまう。

 

歌詞という形態の特性上、言葉を尽くして誤解を避けるっていうよりも、多少乱暴でも心に響くワンフレーズの切れ味を重視せざるを得ないわけで。

 

今こそ紙の新聞

世の中の動きを追うにはネットニュースで事足りるかもしれない。

紙の新聞はかさばるし、興味関心のないジャンルの情報も大量に載っていて、情報収集のツールとしては非効率かもしれない。

 

それでも、いや、だからこそ、紙の新聞を推したいと思う。

興味関心のないジャンルの情報も、物理的に紙面を埋めているから、そのボリュームも含めて目に飛び込んでくる。

なので、よくわからないけど世の中にとってはインパクトのデカいことなんだろうなっていうアタリをつけられる。これが重要。

 

内容的にも、全国紙とか歴史のある地方紙であれば、基本的にちゃんと取材して裏を取った情報しか載ってない。

(その上で、載ってる事実に対する解釈が新聞社によって真逆だったりするんだけど、それは次の段階の話)

 

サイトの体裁だけしっかりしてるけど実態はめちゃ怪しいニュースサイトがいくらでもあるネットの世界よりは、紙ならひとまず信用してよいかどうかの判断が誰にでもできる。

 

そんな結構なものを1日100円ちょっとで家まで毎日配達してくれるんだから、ほんと安い買い物だと思ってます。

おすすめです。

 

 

 

そういえば、新聞はちゃんと読んだほうがいいよっていう意見は明治時代から言われていて。

今から100年ぐらい前にできた上方落語の「阿弥陀池」というネタにはこういうセリフがある。

 
「新聞を読まな世の中の流れについていかれへんで」
「なにを言うてまんねん。新聞なんか読まんかて世間のことならなんでも知ってます」
 
「せやから新聞を読めっちゅうねん。読まんさかいに騙される」 

 

「関ジャム」の『J-POP20年史 2000~2020プロが選んだ最強の名曲ベスト30』で10年代が手薄だった理由

2021年3月3日にテレビ朝日で「関ジャム 完全燃SHOW」のゴールデン特番として、『J-POP20年史 2000~2020プロが選んだ最強の名曲ベスト30』が放送された。

 

ここでいう「プロ」とは、いしわたり淳治いきものがかり水野良樹ヒャダインもふくちゃんといったこの番組おなじみの作家・プロデューサーや、スカパラ谷中敦ゴールデンボンバー鬼龍院翔岡崎体育といったミュージシャンたち。

 

彼彼女らが選んだランキングを総合して、最強の名曲ベスト30としてまとめられたのがこちら。

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1位にOfficial髭男dismが入ってきたのが意外だったり、SMAP以外のジャニーズやLDH勢、日本語ラップなどが選ばれていないというのも結構驚き。

番組を見ていると、楽曲としての完成度とか、革新性、売上枚数では測れない浸透度みたいなものをものさしに選んでいるプロが多かった感じだった。

 

あとこの30曲を見ていると気づくのが、年代の偏り。

サザン、椎名林檎バンプキリンジSMAPらのゼロ年代前半と、あいみょん、YOASOBI、米津玄師らの10年代後半に、明らかに集中しちゃってる。

選曲したプロたちが申し合わせたかのように、2010年の前後数年間が手薄なのです。

 

今日はこのことについてちょっと考えてみたい。

 

理由① 選者の世代の偏りが反映した

全員のプロフィールを確認したわけじゃないけど、今をときめく現役のクリエイターということで、30〜40代の世代が中心っぽい。

つまり、今から20年前のゼロ年代前半には10〜20代前半だった人たちであり、自分がリスナーとして多感な時期に出会った曲を選びがちという傾向はどうしてもあるだろう。

 

逆に、その世代の人達は10年代前半にクリエイターとしての出世作を手がけていることが多いだろうけど、自分が関わった作品は推しづらいわな、と。

10年代前半に紅白にも出たようなゴールデンボンバー「女々しくて」やいきものがかり「ありがとう」、ももいろクローバー行くぜっ!怪盗少女」あたりが30位に漏れているのはそういうことかなと。

 

理由② 古いと伝説になり、近いと記憶が新鮮、結果として間が埋もれる

リリースされて時間がたったものは「伝説」として評価が定まりやすく、一方で近年のものはまだ記憶が新鮮で想起されやすい。

10年ぐらい前のものは、そのどちらでもなく中途半端な状態なので、こいういうときに埋もれてしまいがちではないか。

 

野球選手でいうと、伝説になってる野茂、リアルタイムでやってる大谷翔平はランクインしやすく、間の松坂が埋もれるみたいな感じ。

なまじ最近の松坂を見てしまうと、全盛期にどれだけ凄かったか思い出しづらくなってしまうって効果もありそう。

 

理由③ 番組としてマイナーすぎるものは選びにくい

ゴールデンタイムの地上波で流れる番組として、視聴者の少なくとも半分以上が知ってる曲じゃないとつらい。

家族で見ていて、40代の親世代がゼロ年代の曲を全部知ってて、子供世代が10年代の曲を全部知ってる感じ。

「へー、この元ちとせって人ヤバいね」とか「あいみょんだったらパパもわかるぞ」みたいなね。

 

選曲を任されたプロたちもそこはわきまえてるはずで、一定以上の知名度がないと推しづらいって気持ちはあっただろう。

 

番組前半で31〜50位を紹介してるとき、40位ぐらいにあまり知られてないBank Bandの曲が入っていてスタジオが微妙な空気になったが、あれが限界であろう。

 

つまり、10年代前半にJ-POPのレベルが落ちていたわけじゃなく、お茶の間レベルで浸透した曲が少なかったということだと思う。

 

理由④ オリコンがハックされていた

10年代前半といえば、CDが売れなくなって、でもそれに代わる指標がまだない過渡期。

 

わたくしかつてブログで平成のJ-POPを7つの時代に区切って分析した際に、2009年から2012年を「AKB期」と名づけて、こんなふうに表現していた。

 

このあたりから、オリコンCDランキングを見てもシーンの動きが一切わからなくなってくる。AKBグループが総選挙の投票権をCDにつけたのと、AKB以外でも同じタイトルのシングルを初回版A/初回版B/通常版みたいな感じで複数の形態でリリースするのが当たり前になってきたため、1人で何枚も同じCDを買うようになったから。

かつてのミリオンセラーは100万人の買い手が確実にいたし、そこから口コミや歌番組などを通じて認知がさらに拡大し、最終的に2000万人ぐらいが知ってるレベルの存在感があった。しかしこの時代のミリオンセラーは、買い手が下手したら5万人ぐらいしかいないし、歌番組などで知らない曲にふれる機会も少ないので、いいとこ50万人ぐらいの認知にとどまっていても不思議はない。

平成のJ-POPを7つの時代に分けてみたらいろいろ見えてきた 〜LL教室の試験に出ないJ-POPイベントふりかえり - 森の掟

 

本当にこの時期のオリコンチャートを見ると、上位にはAKBグループかジャニーズしかいない。 

 

水面下ではおもしろい動きがたくさんあったんだけど、いかんせんチャートの上位に入ってこなかったために、関ジャムに取り上げられるような名曲として残ってこなかった面もあるだろう。

やはりCDが投票券になったことの功罪について考えざるを得ない。

 

10年代前半に水面下で動いていたこと

10年代前半、オリコンチャートがAKBとジャニーズに席巻されていた頃に、水面下ではいろんなことが動いていた。

 

ももクロ以降のアイドルシーンの活性化により、でんぱ組.incNegicco、BiS、東京女子流などなど、楽曲のクオリティが高いグループがたくさん登場。ハロプロモーニング娘。アンジュルムを中心にファン層を拡大していく。

 

・俗に東京インディーと呼ばれるシーンでスカート、シャムキャッツ、片思い、思い出野郎Aチームといったバンドが作り上げた音が、その後「ネオシティポップ」なんて名前でメジャーな場所で商品になるサウンドに反映されていく。

 

日本語ラップKREVAANARCHY、般若、田我流、SIMI LAB、鎮座DOPENESSなど数々の才能が活躍し、2015年の「フリースタイルダンジョン」をはじめ、10年代後半からメジャーな場所で取り上げられる機会が増えていく。

 

・2007年にリリースされたボーカロイドソフト「初音ミク」を使って楽曲を制作しネット上で発表する「ボカロP」が10年代前半にたくさん登場。米津玄師もその中のひとりで、10代がカラオケで歌う人気曲の多くがボカロ曲になっていく。

 

これらの流れがそれぞれに熟成され、メジャーな場所に浮上したり、間接的にJ-POPのメインストリームに影響を与えたりしてきたのが10年代後半。

 

いずれも最初はテレビや芸能界とは関係のない場所で起こっていた動きなので、オリコンチャートとテレビの音楽番組だけを見てる人には感知されづらかっただろう。

 

老若男女に幅広く届く曲がないという話は90年ぐらいからずっといわれてきたけど、それがいよいよ極まってきたのが10年代ってことかもしれない。

 

でもなんだかんだいってSuchmosとか星野源みたいにインディーズシーンからお茶の間レベルの人気者が出てきたり、「パプリカ」とか「夜を駆ける」とか「うっせえわ」みたいなボカロP畑の曲が国民的ヒットになったりしているここ数年は、やはり10年代前半にまかれた種が育ってきた感じがする。

 

名曲の「風格」

そんな感じでここ20年でJ-POPも移り変わりがあったけど、その一方で、時代によって変わらないものもある。

 

「国民性」という言葉はあまり軽々しく使いたくないけど、「関ジャム」で取り上げられた名曲を見てるとやはり「J」なりの特徴はあって。

 

まずやっぱみんなバラード好きだなって思う。

 

あと、ゲストの人たちが名曲を評価するコメントとして「結婚式で使いたい」とか「結婚式の定番」ってワードを頻発していたのがおもしろかった。

曲としての完成度とか革新性、歌手の技量とかといった要素がいくら揃っていても、このランキングに入りづらい曲っていくらでもありそうで、名曲に必要な「風格」みたいなものをなんとなく選者もゲストも感覚として共有していたっぽい。

 

もし自分がこのランキングの選曲者に選ばれたとして、どんな曲を入れるかっていうと、自分の味を出そうとしつつも、同時にできるだけ客観的な目線で文句なしの名曲を選ぼうとしてしまうだろうか。

つまり、視聴者の総意みたいなものを意識し、いかにも名曲然とした風格のある名曲を選んでしまいそう。

 

ということで、実際に自分でも選んでみました。

あいつら全然わかってないぜ、こういうのが真の名曲だ!みたいなスタンスではなく、番組の趣旨を汲み取った上で自分の色を出そうとしたんだけど、もっとメジャーな感じに仕上がるかと思いきや、自分に嘘はつけないなとこねくり回した結果、なかなかワガママな30曲になりました。

 

ワガママではあるけど、単に好きな曲っていう感じでもなく、やっぱり「風格」みたいなものは意識した。

 

お知らせ

わたくしハシノもメンバーの一員として活動しているLL教室というユニットで、2021年6月から1年間、美学校で口座を担当することになりました。

 

題して「LL教室の試験に出ないヒット曲の作り方」。

戦後日本の歌謡曲〜J-POPの時代ごとの流れやヒット曲の構造を読み解き、新たな時代のヒット曲はどういうものになるのかみんなで考えようという主旨です。

 

こういうタイトルではあるけど、売れ線狙いのテクニックを伝授するみたいなことではなく、ヒット曲を構成する要素を分析して捉え直すことで、より多角的に音楽を鑑賞できるようにするのが狙いです。

できる方には実際に作詞や作曲をしてもらって、たとえば昭和43年の大衆に響く曲を作ってみよう、みたいなことをやります。

 

詳しい話は下記ページをご覧ください。

われわれとしてはかなり気合が入ってます。よろしくおねがいします!

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