森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

平成元年と平成30年のJ-POP、驚くほど変わってない説

 平成もあと3ヶ月でおしまい。

世紀末やいくつかの大災害、生活を一変させるようなテクノロジーの進化もいくつか経験して、30歳以上の日本人は二度目の元号の代り目に立ち会おうとしてる。

この30年で世の中はめっちゃ変わっていて、ざっくり言うと日本は老けたな、という印象。

 

30年前、「J-POP」という言葉がJ-WAVEによって生み出され、現在に至るまでこの国でもっとも聴かれている音楽がそう呼ばれ続けた。

つまり平成の30年とは、J-POPの30年と換言してもよい。

 

ではこの30年でJ-POPはどう変わったか。

「J-POP」という言葉が指し示す中身はどれぐらい同じでどれぐらい同じでないか。

J-POPの周辺は変わってないのか。

今日はそういう話。

 

変わったところ

この30年で、変わったことのほうがそりゃ多い。30年前に誰も想像していなかったことが当たり前になったりしてるけど、変わってからだいぶたってると、変わったことすら忘れてしまってる。

まずは激変っぷりをちょっと思い出して愕然としてみたい。

 

メディア

平成元年、人々が音楽を手に入れる方法としてはCDが一般的になっていたが、アナログレコードもまだギリギリ生産されていたし、カセットでもリリースされていた。ウォークマンで音楽を持ち歩く習慣は定着し、CDウォークマンももうあった。

平成30年はというと、もっぱらSpotifyやAppleMusicなどのサブスクか、Youtubeで音楽を手に入れてる。いや、「手に入れる」って何だよっていうところまできてる。

ほんの数年前まで「データ」として音楽を手に入れることが珍しかったのに、今ではそっちがメインになったので「フィジカル」っていう言葉が使われるように。

 

情報源

新しい音楽に出会う情報源も大きく変わった。

平成元年はラジオと雑誌のパワーがすごかった。あとは知人の口コミ。なので、ラジオや雑誌が拾い上げるレベル以上の知名度のものしか一般のリスナーは知り得なかった。

もっとコアな情報に触れたければコアな場所に身を置くしかなかった。80年代の選民意識ってそういう環境と密接だったよね。

reminder.top

 

じじいの繰り言で恐縮だけど、あの頃は視聴もできなかったし、雑誌でイメージを膨らませただけの状態で3,000円弱のお金を払ってアルバムを買ってたわけで、毎回バクチだった。そのおかげで選球眼が磨かれたっていう点は絶対あると思っている。

 

この変化は、雑誌やラジオがウェブメディアに置き換わったってだけじゃない。雑誌やラジオにはもっと影響力があった。

SNSがなかったので、アーティスト本人が直接不特定多数のファン交流するなんてできなかったので、雑誌のインタビュー記事を聖典のように崇めてた。

 

世の中に出回ってる音楽の量 

平成元年に、音楽をつくるとか広く売り出すとかいったことは、基本的にプロフェッショナルの仕事だった。

 

歌唱指導をうけたり専門的な楽器の演奏技術を習得したりした者のうちのごく一部が、日本で数社しかないレコード会社と契約し、ビジネスとして採算がとれると判断されたものだけが世にでることを許されていた。

 

平成30年には、そのへんの中学生でも自分の音楽を全世界に配信することが可能になっている。DTMの普及と技術革新により誰でもそこそこ聴ける音を出せるようになり、SNSや動画配信サイトで誰もが発信者になれて、しかもフィジカルなメディアでリリースする必要がないのでコストはゼロ。

身内音楽」とそうじゃない音楽の区別が限りなく曖昧になってる。 

omocoro.jp

 

その結果、膨大な数のオリジナル音源が世の中に出回ってる状態になった。かつては個人でもがんばればその時代のすべての音をチェックすることは可能だったけど、今やそんなことは不可能。

 

世の中に出回ってる音楽の量は、この30年で圧倒的に増えた。

国民的ヒットが生まれにくい原因は、アーティストが小粒になったからでも世代で分断されたからでもなく、世の中に出回ってる音楽の量が増えすぎてるからだと思ってる。

 

変わってないところ

たしかにこの30年でJ-POPに関するいろんなことが激変した。

しかし逆に、おそろしいことに30年前とまったく変わっていないものもたくさんある。当たり前に見えてるけどよく考えたらすごくないですか!っていうことを思いつくままに挙げていきます。

 

CDの値段

シングルCDが約1,000円、アルバムが2,500〜3,000円っていう価格設定は、30年前とまったく変わっていない。

ちょっと調べてみたんだけど平成元年の東京都の最低賃金って525円だった!今では985円なので2倍近く上がってるのに、CDの値段はそのまま。つまり30年前よりも2倍近く買いやすくなってるはずだろう。それでも音楽を手に入れるいろんな手段のなかで「フィジカル」は割高な部類なんだよな。

CDは今やコレクターアイテムって言われるけど、少なくとも値段の面では完全にそうだと思う。

 

カラオケ

平成元年ぐらいから、若者の娯楽としてカラオケが普及してきた。

それまでのカラオケといえば夜のお店でおじさんが歌うものだったんだけど、カラオケボックスが登場し、通信カラオケが登場し、1993年には、文部省の『教育白書』に「我が国でもっとも盛んな文化活動はカラオケである」とまで書かれることに。

カラオケ歴史年表

 

平成30年の現在、若者のカラオケ離れなどと言われるようにもなってるけど、ヒトカラという概念が生まれたり、まだまだ一般的な遊び方の地位を保っている。

 

今ではあまりにもカラオケが一般に定着しすぎて当たり前になってるけど、それ以前の世の中を想像してみてほしい。昔は夜のお店以外の場所で、普通の日本人が流行歌を大声で歌い、他の人がそれを聴くっていう状況なんてなかった。

歌手以外の人にとって流行歌はひとりで口ずさむもの、もしくは大勢でわーわー歌うものだったはず。

昭和40年代以降は若干状況も変わったけど、それにしたって歌うよりも前に、まずフォークギターを練習して最低3つぐらいコードを押さえられるようになる必要があった。歌いたい人だけが努力して歌っていた。歌いたくない人には歌わない自由があったとも言える。

 

それが平成の時代は、たとえば中高生が土日に遊ぶといったらまずカラオケ。歌が好きか嫌いか、得意か苦手か、そういうことに関係なくカラオケボックスには立ち入る。そして1曲ぐらい何か歌わないとまわりが許してくれない。

 

平成ぐらいから人前で歌うことについての意識が変わり、そのモードが今も続いている。カラオケで歌うために音源を入手して練習するっていう行動は、昭和にはなかったけど、平成元年にも平成30年にもみられる。すごく平成っぽいと、後世に言われそう。

 

紅白歌合戦

紅白歌合戦は、平成元年どころか戦後すぐからずっとある。平成中期に視聴率が低迷して、3部構成にしたり若者を意識したりといろいろ試行錯誤してたよね。それでも完全にオワコン扱いされていたのに、ここ数年は見事に往年の存在感を取り戻してる。
よく言われるようにSNSとの親和性が高いってのはありそう。国民みんなが同じ番組を同時に観てTwitterで好き勝手つぶやくっていうスタイル。かくいう自分自身も紅白ツイート多め。
必ず何らかのハプニングが起こる生放送の緊張感、ツッコミやすすぎる大物演歌歌手のたたずまいやNHK的な生真面目さ、実はこんなにすごいことをやってる系のうんちくを誘発する仕込みなど、Twitterとの相性がとにかくよい。

 

あとはプロレスやアイドルやメタルなどと同じように、90年代に一度いろんなものが「リアル志向」になったけど、最近また揺り戻しで「様式美」なものが求められるようになったことも関係ありそう。

プロレスは八百長と言われて総合格闘技にもっていかれ、アイドルはお人形とされて自作自演至上主義のアーティスト志向になり、メタルはよりストリートでリアル感があるオルタナやミクスチャーにお株を奪われっていう流れがあったんですよ。

 

その流れが一周して、再びプロレスやアイドルやメタルが復権してる。

あの頃あんなに重要視された「リアルかどうか」は、今や誰も気にしてない。

 

ジャニーズ

プロレスやメタルと同じように、ジャニーズも一度死にかけた。

 

昭和後期にシブがき隊!少年隊!男闘呼組光GENJI!と人気グループを輩出したジャニーズ事務所は、平成元年には元気があったんだけど、光GENJIの失速とともに冬の時代に突入する。

非現実的なキラキラの衣装、スターであることを求められる言動、みたいなものが古臭くなってしまったのだった。

 

SMAPは時代の境目に登場し、リアル志向の世の中でどのように振る舞うべきか、必死に探求してきたグループ。

バラエティ番組に積極的に露出し、カジュアルで力の抜けた平成的な振る舞いでその地位を確立したんだけど、デビューからかなりの時間を要したのだった。

嵐やそれ以降のグループは、完全にそのスタイルを踏襲してる。

詳しくは矢野利裕せんせいの名著「SMAPは終わらない」を参照のこと。

 

 

秋元康 

まだいる。

 

ロックバンド

ギター・ベース・ドラム・ヴォーカルの4人バンド(もしくはキーボードも加える)っていうフォーマットがいまだに一般的って事実、よくよく考えたら不思議じゃない?

 

平成元年にはバンドブームがあり、パンクやハードロックやファンクといった具合にいろんな音楽的背景をもったバンドがたくさんデビューしていた。

だけどバンドブームが終わった後に小室哲哉の時代があり、自宅で音楽制作が安価にできる機材が出回り、ボカロの登場で歌う必要すらなくなった。

 平成30年、音楽をやるにあたってバンドである必然性はもうないはず。

 

カラオケの登場で昭和の箱バンのミュージシャンが大量に失業したのと同じように、昔ながらのバンド編成は時代遅れになってても全然おかしくない。

 

なのに、いまだにギター中心のロックバンドは廃れてない。

セカオワが「まだギター弾いてんの」って議題に挙げてくれたけどまだ誰もそのテーマを深めるに至っていない。

波紋だの炎上だの言ってるけど、めっちゃ重要な問題提起だったと思うよ。

 

バンドマン

ロックバンドが廃れてなければ、バンドマンという存在も廃れてない。

アルバイトしながらデビューの機会をうかがうバンドマンという存在。平成元年のバンドブームの頃から常に世の中に一定数が存在し続けてきた。

 

勉強もスポーツも苦手だけど人とは違う何かになりたい!っていう若者が身を投じる先として、30年間あり続けた。

途中、クラブカルチャーの勃興によりDJやラッパーといった方向に流れたり、M-1グランプリ以降はお笑いに流れたりもしたけど、廃れることはなかった。

 

ライブハウスで実績を積んでメジャーデビューっていうキャリアパスも、基本的には平成元年と変わってない。

 

まとめ、そして

平成育ちのヤングな方々にとっては、何を当たり前の話をしてるのだと思われるかもしれない。

だけど、かつては30年もの年月があったら時代が3周できたんだから。

30年あったらエルビス・プレスリーからYMOまでいくんだから。

 

そう考えるとこの30年でJ-POPは驚くほど変わってないんじゃないでしょうか。

 

…というような話をディープに繰り広げるトークイベントをやります。

 

-----------------------------------

LL教室の試験に出ない平成J-POP

日程:2019年3月17日(日)

時間:開場16:30 / 開演17:00

料金:1500円(+1Drink別)

出演:LL教室(森野誠一、ハシノイチロウ、矢野利裕)

独自の観点から1990年代のJ-POP界を1年ごとに深掘ってきた

「LL教室の試験に出ない90年代J-POPシリーズ」。

全10回のシリーズも折り返し地点にさしかかり、

またいよいよ平成も終わりというタイミングでもあるということで、

一旦ここで平成のJ-POPを総括してみようと思います。

年号の変わり目でひとくくりに語るのは本来ナンセンスな話ですが、

たまたま平成元年は政治経済そしてカルチャーが激変するタイミングであり、

そもそも「J-POP」という言葉が生まれた時期でもありました。

そこからの30年間で日本人の音楽との付き合い方は大きく変わっています。

小室哲哉/夏フェス/バンドブーム/サブスクリプションケータイ小説日本語ラップビーイング/シティポップ/LDH/地下アイドル/アナログレコード/ジャニーズ/クラブカルチャー/インディーズ/着メロ着うた/ヴィジュアル系DTMハロプロ/通信カラオケ/秋元康/などなど

様々なキーワードを散りばめつつ、平成のJ-POPを<試験に出ない>独自の切り口で語ります。

また、LL教室が現在取り組んでいるの極秘プロジェクトのご報告も!

 

定員
20名まで

event.spacemarket.com

 

チケット予約は上記リンクからどうぞ。

よろしくおねがいします!

 

「温度差の観測」という、あたらしいフェスの楽しみ方

夏フェスのヘッドライナーが発表されはじめ、みんなの気持ちがそわそわしてきた今日このごろ。

今日は「温度差」に着目した新しいフェスの味わい方を紹介しようと思います。

 

フェスの多様化・大衆化混ぜるな危険!だけど混ざるのも醍醐味! 

90年代後半から日本に根付いてきた音楽フェス文化。

今ではだいたい5月から10月ぐらいまでの毎週末、大小様々な規模で日本のどこかでフェスが開催されてるといっても過言ではない。

 

ひとくちにフェスって言っても、規模や環境や出演ラインナップによって集まる人種や雰囲気がぜんぜん違う。

音楽好きだけどフェスに行かないっていう人はたくさんいるけど、話を聞いてみるとそういう人ってフェスに対して先入観あるじゃないですか。わりと一定のパターンのやつ。

でも現実のフェスはもっと多様で、ここ20年でいろんなパターンが出てきている。

 

海外のトップアーティストを招聘して数万人規模のキャパで開催されるもの、アウトドア系のアパレル企業がブランディング目的で3アーティストぐらいでちっちゃく開催するもの、過疎化が進んだ地域の自治体が町おこし目的で見よう見まねで開催するもの、レゲエやパンクやEDMなどジャンル特化型で開催されるもの、子育て世代をメインターゲットに居心地の良さを追求して開催されるもの、逆にアーティストの求心力に依存して居心地には一切配慮しないもの、などなど。

 

今や日本国内である程度以上の規模がある音楽シーンは、もれなくフェスに関わってる時代に突入している。またリスナーにとっても、かつてはごく一部の人が行く場所だったものが、今では誰もが気軽に行く場所へと認識が変わってきている。

 

ここまで大規模化し、多様化し、また大衆化してくると、フェスならではのいろんな興味深い事象が見られるようになる。

なかでも個人的にものすごく興味があるのが、ものすごく熱い人たちと平熱の人たちという、温度差が激しい二者が出会ってしまうことによるいろいろ。

 

ものすごく熱い人たちは、熱さゆえの独自のふるまいやカルチャーを生む。

いつもは熱い人たちだけがいる閉じた場所でそのカルチャーは育まれているんだけど、フェスの場ではそれがたくさんの平熱の人たちの目にさらされることになる。

 

そこでどんなことが起きるのか。

大きすぎる温度差が生む大規模な気象現象が観測できるのは、フェスならではでありましょう。

 

ラウドめなロックバンドの最前列にて

武道館や横アリや大阪城ホールなどのホールで単独公演をやれるクラスの、しかし音はちょっとラウドな感じのバンドたちの事例。

 

熱心なファンにとっては、昔はライブハウスでやってたのにビッグになったもんだと感慨にふけりつつ、ホールだと椅子席なので不自由だなと感じていたところ。

かたや、テレビや動画でしか見たことがなく、単独公演はすぐに売り切れるので行けなかったっていうファンたちにとっては、初めて生のライブを見る機会。

生が初めてっていうファンたちの中には、貴重な機会を精一杯味わいたくて猛暑のなか朝からがんばって最前列を確保する人も少なからずいて、みんな柵にしがみつきながら、思ってたよりも距離が近い!ヤバい!と胸を躍らせてる。

 

するといよいよお目当てが次の出番っていう頃に、どこからともなくバンドTシャツ(黒)に身を包み、手にはリストバンド、首にはタオル、足元はスニーカーっていう集団が2列目以降にぎっしり集まってくる。ああこの人たちはライブに通いなれてるんだろうな、うらやましいな、でもこのバンドを愛する気持ちは負けないぞ!などと考えてるうちにメンバーが登場。

1曲目が始まった瞬間、なんだかわからないけど視界からステージが消えてたくさんの足と地面が見えた。あとはもうほとんど記憶がない。

 

はじめてのフェスでこういう経験したって人、けっこういるんじゃないでしょうか。

何を隠そう自分も高校生のときにオールスタンディングでラモーンズを見たときこんな目にあった。

 

モッシュ」という、パンクやメタルのファンの間では一般的なライブ中のノリがあって。まあとにかく身体をぶつけあって暴れるのがお作法。ときには人の上に乗って泳いでいったり、ステージから客席にダイブしたり。

ロキノン系のフェスでは禁止されてる行為だけど、フジロックなどではふつうによくある光景。

 

モッシュの中で転んだら誰かがすぐに助けあげてくれるし、実はハタで見てるほど危険ではないんだけど、何の免疫もない状態で巻き込まれたらびっくりするよね。

メタル系のフェスだと2メートルで100キロぐらいの白人男性がニコニコしながらぶつかってくることもよくある。

youtu.be

 

最前列付近がそういう雰囲気になるってことをあらかじめ知っていれば避けられたであろう、混ぜるな危険事例。

 

アイドルがフェスに殴り込み!でよくある光景

サマソニロキノン系などの大規模フェスにどんどんアイドルが進出してきてる。ましてや、夏の魔物などのサブカル色の強いフェスならなおさら。

フジロックはかたくなに壁をつくっていて最後の砦って感じだし、アウトドアとかロハス色の強いフェスとは相変わらず相性が悪いけど)

 

ロックフェスにアイドルが出るとなると、熱心なオタクたちも当然やってくる。

 

ご存じの通り、アイドルのライブにおけるファンのふるまいはとっても特徴的で、他の出演者のファンから浮きまくることになる。

いわゆるオタ芸というやつで、ペンライトやサイリウムを手にいろんな動きをやったり、曲やMCに対して合いの手をいれたり。悪ふざけと紙一重の絶妙のラインで成り立つものが多いので、ファン層が変わってくると禁止されたり廃れたりもする。

 

ファンとの絆が強いアイドルの場合、曲ごとの決まりごとがいろいろあって、それを覚えていくのが新参者にとってはハードルでもあり楽しみでもありっていう文化。

また、ほとんどの決まりごとはオタクのほうから自然発生的に生まれるものだったりするし、ライブ前に有志が決まりごとをSNSや印刷物などで他のファンに広めたりもする。やがて自然発生的な決まりごとが半ばオフィシャルなものになり、アイドル自身がそれに乗っかったりも。

このようにアイドルとオタクは相互に影響を与え合いながらやってくものなので、フェスだろうがなんだろうがいつものように盛り上げるもんだろってなってる。

 

そういう状態でフェスにファンと一緒に乗り込んできたアイドルが出会うのが、名前と有名曲だけ知っててそのアイドルに興味がちょっとあるっていう感じのお客さんたち。この層に気に入られたら認知度が一気に高まり、それまでの活動領域からもう一つ上のステージに上がれるっていう。

 

しかしそういうお客さんたちは、アイドルとオタクが作り上げる「いつもの感じ」には引いちゃう。基本的にオタクを煽りまくってガンガンいこうぜって戦法しかないので、フェスで出会ううっすらとしか興味がないお客さんを掴むのが難しい。

単にオタ芸を封印しただけでは、ただ盛り上がってないライブになるだけだし。

 

かわいい女子が全力で歌い踊る、しかも好きなタイプの楽曲、これは応援したいかも、だけどあの独特のノリにはついてけない!自分があの集団の一員になることが全然イメージできない!ってな感じで、一見さんをファンにさせ損なってしまう。

 

オタクの狂熱ありきでここまでやってきたんだけど、それ以上ブレイクするためにはあと一歩足りない…っていう難しさ。

武道館はやれたけど東京ドームは遠い、Mステには出たけど紅白は遠い、そんなポジションにとどまるアイドルが多いのは、ここの温度差を超えていくのが難しいからではないでしょうか。

 

 山下達郎

山下達郎という人は、サウンドへのこだわりが半端なく、あまり広い会場でライブをやりたがらない。広いハコはだいたい音が悪いから。

中野サンプラザNHKホールの音響が好きらしいんだけど、そうなるとキャパが限られるのでツアーは常に超プラチナチケットと化す。

ただ熱心なファンはそんなところも含めて応援しているので、もっと広いところでやってくれとは決して言わない。

 

そういう関係性の山下達郎とファンの間で、一般的にライブ会場では当たり前とされている風習がうちではNGであるという、了解事項が最近ひとつ増えた。

 

www.huffingtonpost.jp

 

そう。ライブで自分の曲を客が大声で歌っちゃうのは嫌だそうな。

 

普段のライブは数十倍の倍率を勝ち抜いたリテラシーの高いファンばかりなので、この了解事項は隅々まで浸透しているであろうし、いまさらそんな達郎の機嫌を損ねるような輩はいないはず(チケット当選したことないので未確認)。

 

だけど、フェスだとそうはいかない。

 

2017年の氣志團万博山下達郎が出演したときのこと。

はじめて生で拝見できるチャンスなのでわたくしも勇んで駆けつけました。

会場には山下達郎のファンに加え、氣志團や他にこの日出演したユニコーン米米CLUBのファンたちがぎっしり。

つまり、30〜50代の山下達郎は好きだけど生でみるのははじめてっていう人々が大半という状態。

 

結果、みんなガンガン歌ってたよね。まあそうなるよね。また親切にKinKi Kids「硝子の少年」のセルフカバーなんてやってくたりするからなおさら。

 

前の方に集まってるコアなファンの先輩たちは、後ろの方の客が気持ちよさそうに歌うたびに、あー歌ったな歌ったな‥いつ達郎がキレて説教が始まってもおかしくないぞ‥知らないぞ‥っていう表情を浮かべていたのが印象的だった。

 

まあ、さすがの達郎自身は目くじら立てることもなく、フェスとはそういうものだと理解してくれている様子だったけど。

長渕剛またはX JAPAN

この話は直接体験したことではなく、知人から聞いた話。

 

ある人が、熱心な長渕剛ファンに誘われてライブに行ったときのこと。

ライブ中、長渕剛にあわせてお客さん全員で正拳突きをひたすら「セイ!セイ!」とやる演出があったそうな。

 

誘ってくれた熱心なファンは当然、嬉々として「セイ!セイ!」やってる。

誘われた人も、そういうもんかと思って正拳突き。

しかし長渕剛のこの手の演出はとにかくしつこいらしく、さすがに疲れてきた。

 

もういいかなと思って手をおろしたら、隣でずっと正拳突きしてた誘ってくれた人に一喝されたんだって。

「続けろ!ほら!剛が見てるだろ!」

 

ライブ会場がいつの間にかパノプティコンと化していたという。

 

さっきのアイドルのジレンマの話でいうと、長渕剛はこの問題に対して、信者に寄せるっていうかたちで答えを出してるんだと思う。

ハードめな試練を与え、ついてこれるやつだけついてこいっていう。ファンはその試練をむしろ求めるようになり、生き残ったファンとの絆はさらに強まる。

 

X JAPANもそういう感じあるよね。

生のライブを何年か前のサマソニではじめて拝見したんだけど、熱心なファンってライブの最後とかに手を「X」のかたちで何分間もずっと挙げ続ける。

別にYOSHIKIにそう強制されたわけでもないだろうに、普通の精神力だとすぐしんどくなる姿勢を、忠誠心を示すかのようにやり続けるっていうマゾい感覚。

 

2011年のサマーソニックでは、千葉マリンスタジアムのアリーナに数万本のXの手が掲げられ、スタンド席からは数万の野次馬の目が注がれていたのであった。

https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/02/02/jpeg/20170202s00041000169000p_view.jpg

 

普段は熱心なファンとの間でずっと行われてきたプレイが、ふわっとした衆人の目にさらされる瞬間。

それが見られるのは、圧倒的な温度差の2つの大集団がダイレクトに接触するフェスならでは。

 

 

タイムテーブル的に何も見たいものがない時間帯ってフェスにはかならずあるけど、そういうとき、できるだけ熱い人が多そうなステージを狙って、温度差を観測しにいくっていう楽しみ方はいかがでしょうか。

 

中途半端な音楽好きがプロフィールに書きがちなあのフレーズがどうにも許せない

自分ではけっこう気が長いほうだと思っていて、あまり何かに対して腹を立てたりすることはないんだけど、どうしても気になってしまう物言いってのはある。

 

「演歌とヘビメタ以外なんでも聴きます」だと

自称音楽好きな人が、聴く音楽の幅広さをアピールするためによく使う「演歌とヘビメタ以外なんでも聴きます」ってフレーズ。

自己紹介やプロフィール欄なんかでよく耳にするけど、この言葉がどうにも昔から好きじゃなくて。

好きじゃないというか、はっきりと嫌い。

 

まず単純に自分自身がメタル好きだから、メタルも聴いてくれよって思う。

だいたいこういう安直な発言する人に限ってちゃんと聴いたことなんてないでしょう。

たとえばヘヴィメタルが好きすぎる親や彼氏彼女の影響で否応なしにメタルを浴び続けたけど全然好きになれなかった人とかになら、嫌いっていう資格あるけど、どうせみんななんとなくのイメージでうるさい音楽を全部「ヘビメタ」の箱に突っ込んでほかしてるだけだろうし。

 

あとヘヴィメタルが好きなひとは「ヘビメタ」っていう略称で呼ばれるのを嫌がる。

どうしても略したいなら「メタル」でお願いします。

「ヘビメタ」もただの略称なんだしいいじゃん言葉狩りかよって思うかもしれないけど、やっぱメタルを揶揄する文脈で使われることが多いじゃないですか。「支那」とか「JAP」とかと同じで、ただの略称だったり昔はふつうに使ってたとしても、今この時代にあえてその言い方する人、蔑みたい気持ちがないとは言わせないよっていう。

 

でまあ百歩譲ってヘビメタが嫌いでもいいけど、それにしたって「演歌とヘビメタ以外」って物言いはおかしいんじゃないか。

演歌とヘビメタがその人の中でどんな位置関係になっててその物言いになってるのか。

なんだかモヤモヤしてたまらないので、今日はそこネチネチ考えてみようと思う。

 

1.演歌とヘビメタが対極にあるという位置関係の場合 

というわけで、平面上に2つの点を置いて範囲を表す話と考えると、2つのパターンが考えられる。

 

まず1パターンめ。

演歌とヘビメタを両極に置いて、その間にあるすべて(発言者にとってはその間には広大なスペースがあり、世の中の音楽の95%ぐらいが入ってると思っている)が守備範囲だって言いたいんだろう。図を参照。

f:id:guatarro:20181222004228p:plain

パターン1

つまり 「演歌からヘビメタまで」ってな具合で演歌とヘビメタが両極になってるんだろう。

 

「○○から○○まで」って普通は「ゆりかごから墓場まで」とか、「おかようからおやすみまで」とか、何かのはじまりとおわりまたは両極端の言葉が入るべきでしょう。

 

じゃあ仮に激しさ・うるささの軸でヘビメタを極限においたら、もう一方には、静かすぎるものが入ってくるべきじゃないか。

 

10分以上にわたってもこもこしたワンフレーズが続いてそれ以上特に何も起こらないジャーマン・ロックとかが対極に来るべきではないか?

 

逆に演歌が極限にある軸ってなんだろう?新しさとかかな。

 

しかしそもそも、演歌が日本の伝統とかまったくのデタラメで、今のスタイルの演歌というジャンルが形成されたのって1970年頃っていうからね。

美空ひばり北島三郎がデビューした頃には演歌ってジャンルは存在してないから。

 

 ↑ いろいろ間違ってるクソダサい人たち

 

なのでそもそもそこがおかしいんだけど、またさらに百歩譲って演歌が日本の伝統だったとして、じゃあその対極には先端すぎるものが来るべきでは?

 

わかんないけど先端すぎる音楽って、AIが作った曲とかかな。

それか10分以上にわたってもこもこしたワンフレーズが続いてそれ以上特に何も起こらないジャーマン・ロックとかでは?

いずれにしてもメタルじゃないことだけは確か。 

 

 

 

演歌とヘビメタが同じ場所にあるという位置関係の場合 

 演歌とヘビメタが対極にあるという認識で「演歌とヘビメタ以外なんでも聴きます」という物言いはおかしいことは明らかになった。

 

じゃあ、演歌とヘビメタが似たようなもんだと認識していて、それ以外なら…っていう位置関係でそう言ってるとしたらどうだろう。

 

その場合、たぶんその人の中には音楽ジャンルにヒエラルキーがあって、どうせたぶん最上階にはクラシックやオペラが鎮座してるんだろうし、演歌とヘビメタは底辺もしくは枠外の音楽っていう認識なんだろう。

f:id:guatarro:20181222010517p:plain

パターン2

1階J-POP売り場から最上階のクラシック売り場まで各フロアに分かれたタワーレコードのようなものをイメージして、その店の商品すべて聴きますっていう感じ。

で、演歌とヘビメタの売り場はねえぞっていう。

 

でその場合、たぶんその人にとって演歌とヘビメタよりさらに「下」のものがあるとは思っていない。

 

何をもって上とか下とかになるか知らないですけど、演歌とかヘビメタっていうのは、音楽がわかってる良識ある大人が聴くもんじゃないっていう気持ちがあるんでしょうよ。

 

つまり結局どっちのパターンで言ってるにしても、失礼だし視野が狭い物言いってこと。

 

不用意に「演歌とヘビメタ以外」なんて言い方ができる人にとっては、自分の音楽プレイヤーの中にすべての音楽のうちの95%ぐらいが入ってると思ってるんだろう。何の世界でもそうだけど、中途半端に知識があるとそういう落とし穴にハマりがち。

 

寛容さアピールの言葉に排除のニュアンスを使わなくてもいいだろ

「演歌とヘビメタ以外なんでも聴きます」の何が腹立つって、それが自分の幅広さや寛容さをアピールするときに使われる言葉だってこと。

 

寛容さをアピールするためにわざわざ排除の言葉をもってくるっていう感覚は、排除される側にいる人の気持ちをまったく考慮していないという点で想像力が欠けておりセンスがなさすぎる。

なんとなく小池百合子の不用意さ、デリカシーのなさを想起させる。

 

 

しかし、自分の場合たまたま音楽に関して謙虚でいられるおかげでこういいう考え方ができているけど、他のジャンルではどうだろう。衣・食・住・エロ・映画・マンガ・小説その他。

音楽以外のとこで似たようなことを自分もやらかしていないか、ちょっと省みたほうがいいかもな。

ビーイングのセピア色に覆われた1993年に開学した小沢大学〜LL教室の試験に出ないJ-POPイベントふりかえり

昨日このようなトークイベントをやりました。

 

「LL教室の試験に出ないJ-POPシリーズ〜1999年編〜」

www.velvetsun.jp

 

90年代のJ-POPについて1年ごとに区切って深掘りしていこうというこのイベント、これまでに1998年、1999年、1991年、1992年を扱ってきており、今回は5回目。

「試験に出ない」というタイトルの通り、一般的な語り口ではない、オルタナティブな目のつけどころで重箱の隅をつつこうという趣旨でやってます。

 

毎回ゲストをお迎えしているんだけど、今回は1993年にGOMES THE HITMANを結成し、昨年13年ぶりの新録作品をリリースした山田稔明さんにご登場いただきました。

gomesthehitman.shop-pro.jp

 

1993年の世相

さて1993年といえば自民党55年体制が終わって細川連立内閣ができた年でもあり、ヨーロッパではEUが発足した年でもある。バブル崩壊後、そして冷戦終了後の新しい世界の枠組みみたいなものが国内外で立ち上がってきた感じ。

また、この年に開幕したJリーグもそうなんだけど、「J」をつければ何か新しい平成っぽい軽やかなものに見えるっていうブランディングが通用していた。

 

そもそも「J-POP」という言葉はJ-WAVEが使い始めたもので、J-WAVEが開局した1988年頃からすでに使われていたと言われているが、言葉としてお茶の間に浸透してきたのは、「J」の時代である1993年頃だったような気がする。

 

「J-POP」という言葉、J-WAVEが生みの親って知ってた? その意味は…

 

それぞれの1993年

矢野くんは当時小学生だったにもかかわらず、すでに渋谷系的なものに惹かれる自分を認識していたっぽくて、スチャダラパーを好んでいたらしい。一方で流行りのB'zなんかも普通に聴いていたと。

 

森野さんは当時高校生。

競馬とプロレス、そして何より音楽にどっぷりハマっていて、深夜のTV番組「BEAT UK」を熱心にチェックし、今はなき神保町のJANISに毎週通ってたくさんのCDをレンタルしまくっていたとのこと。

 

ハシノも高校生で、同じく中古やレンタルでひたすらいろんな音楽を吸収していた。グランジオルタナティブなUSのロックを好み、一方でブリットポップという言葉が出てくる直前のUKのシーンも少しずつ気になっていた。

日本の音楽といえばユニコーン筋肉少女帯すかんち上々颱風ぐらいで、J-POPのメインストリームに対しては全く興味がなかった。

 

ゲストの山田さんは佐賀から上京して2年目。田舎と違って好きな音楽の話ができる相手が見つかるんじゃないかという期待を抱いて出てきた東京で、大学の先輩を誘ってGOMES THE HITMANを結成した年。

知性が感じられないJ-POPのメインストリームに対しては敵対心といってもいいほどの感情があり、日本には期待できないということで洋楽ばかり聴いていたんだって。

特に影響を受けたのがアメリカのR.E.M.とレモンヘッズで、最初は英語で歌詞を書いていたとのこと。

 

 
 

 

「小沢大学」

そんな山田さんにとって、1993年の小沢健二のソロデビューアルバムはとても大きかったそう。

犬は吠えるがキャラバンは進む

犬は吠えるがキャラバンは進む

  • アーティスト: 小沢健二
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 1993/09/29
  • メディア: CD

 

山田さんが当時大学で学んでいた英米の文学の香りも漂う、はじめて出会えた「知性」を感じる日本語の音楽。

それ以降、日本語で歌詞を書くようになるなど、山田さんの音楽観に多大な影響を受けたそうです。

山田さんはそれを「小沢大学に入学した」と表現されていた。

 

LL教室イベントでこのアルバムに言及されるのは実は2回めで、最初にやったイベントでゲストにお迎えしたTBSラジオの長谷川プロデューサーも、このアルバムを90年代のフェイバリットのひとつに挙げておられたのだった。

(打ち上げでは山田さんと長谷川さんの交流にまつわるイイ話も伺った)

 

イベント後半ではこのアルバムから「ローラースケート・パーク」の歌詞をじっくり分析したんだけど、これに関しては矢野せんせいの面目躍如といったところ。

 

矢野くんは「ローラースケート・パーク」のパンチラインである「ありとあらゆる種類の言葉を知って/何も言えなくなるなんて/そんなバカなあやまちはしないのさ」というフレーズを、太宰治の「猿面冠者」と対比させ、小沢健二太宰治がつまづいたと思われる部分を乗り越えていると主張。

太宰治 猿面冠者

(とはいえ太宰という人は「そういうグズグズした自分」をキャラ化している面もあり一筋縄ではいかないとのこと)

 

ほんとこのフレーズはいろんな人をハッとさせてきたよね。

大学生の頃、誰よりもいろんな音楽に詳しくて賢いやつは結局自分では音楽を作る側にはまわらなかったなーという印象がある。たぶんいろいろ考えすぎたんだろう。

それに比べると、自分のような深く考えずにいろいろ手を出してしまうような人間のほうが、かたちになるものを残していたり。

 

誰よりもいろんな音楽に詳しくて賢い人だった小沢健二が、そういう過去の自分を乗り越えたんだっていう表明なんだろうねっていう話でした。

 

ちなみにハシノが小沢大学に入学するのは翌年のアルバム「LIFE」からなんだけど、その話はまたいずれ。それこそこのイベントで1994年をやるときにでも。

 

1993年のJ-POPとその周辺

フリッパーズ・ギターの解散後、小沢健二コーネリアス小山田圭吾が揃ってソロデビューし、またオリジナルラブが「接吻」をヒットさせるなど、いわゆる渋谷系なシーンが活性化する一方、それとはまったく異なる状況がメインストリームにはあった。

 

1992年に登場した通信カラオケが普及し、文部省「教育白書」に「我が国でもっとも盛んな文化活動はカラオケである」と記された93年。中高生にとって、放課後に遊ぶことイコールカラオケだったといっても過言ではない。

 

また、テレビの歌番組でいうと「ポップジャム」と「COUNT DOWN TV」が始まったのがこの年。昭和の終わりとともに「ベストテン」などの古いタイプの歌番組が消え、しばらく歌番組らしい歌番組といえば「ミュージックステーション」ぐらいしかなかった時期がしばらくあって、ここからJ-POPの時代に対応した歌番組が登場してくる。翌94年には「HEY! HEY! HEY!」もスタート。

 

80年代後半からのバンドブームは90年頃にピークを迎え、大量のバンドがメジャーデビューしていたが、次第に勢いを失い、93年には完全に落ち目に。新しくデビューするバンドは極端に減っていた。

そんな中、この年にユニコーンが解散。ジュンスカも事実上の活動休止状態になり、とどめを刺す感じに。米米CLUBプリンセスプリンセスはバンドサウンドからシフトチェンジしてしばらく生き残る。

 

そして昭和末期の若者文化を牽引してきたサザンオールスターズ松任谷由実といった人たち(そして平成最後の紅白を締めくくった人たち!)もまだまだ元気だった一方、93年前後から新しい潮流が生まれてきつつあった。

 

ビーイング

1988年にデビューしたB'z、1991年にデビューしたZARDT-BOLANWANDSらが揃って大ヒット曲を連発した93年、ビーイング系アーティストだけで全CD売上の7%を占めたそうな。

 

ヒットチャート上位になったビーイング系アーティストの楽曲のCDジャケットをズラッと並べてみると、ある一定のセンスが貫かれているのがわかる。

http://image.news.livedoor.com/newsimage/b/3/b3f82_1503_17449dfeecd6ad3e27a4d059249df474.jpg

 

 

そう。

全体的にセピア色なんだよなー。 

 

ビーイングモータウン・レコードになぞらえるという、良心的な音楽ファンが眉をしかめそうな説があるんだけど、たしかに、いろんなアーティストをみんなレーベルの色に染めて大量生産するシステムを構築したっていう面は共通している。

J-POPの歴史を作った、織田哲郎とビーイングでの二人三脚 | BARKS

 

プロデューサー長戸大幸と作家織田哲郎が手がけると、みんな上記のようなセピア色のジャケットで世の中に出てくることになり、サウンド面でもしっかりビーイング色に染まっている。

そしてそれが確実に売れたのが1993年。

 

サウンド面の特徴としては、うっすらオールディーズ感(Mi-Keに顕著だけど他の曲にもフレーズ単位で散見される)がありつつも、全体としては80年代のいわゆる産業ロックを下敷きに、よりドメスティックな方向にカスタマイズされたもの。

それまでの日本のニューミュージックや歌謡曲が、その時代時代の洋楽のトレンドを敏感に取り入れていたのは対照的で、開き直ったガラパゴス感が強い。

 

あとイベントではビーイング楽曲の歌詞の分析もやったんだけど、こちらも見事に統一感のあるセンスで貫かれている。

 

矢野くんの分析によると、ビーイングの歌詞は基本的にモノローグであると。

それはつまりどういうことかというと、歌の中で物語が進行する気配がなく、自分以外の登場人物が出てくることもないということ。

恋愛の歌なんだけど、片思いであったり、過ぎ去った恋愛の追憶だったり。

歌い出しあたりで一応情景の描写があったりするけど、基本的に主人公の脳内で完結しており、社会との関わりもない。

 

この、社会との関わりについては村上春樹との類似性を指摘してたな。意外なところを繋げてくるのも矢野せんせいの面白さ。 

 

最終的に、歌詞がモノローグばかりってことと、CDジャケットが特徴的なセピア色なことって絶対これ関係あるよねっていう話に。

 

まとめ

1993年は平成5年。

冷戦終了やバブル崩壊で一つの時代が終わったあと、新しい時代の方向性がようやく定まりつつあった時期。

音楽シーンにおいても、それまでは音楽で食っていくことイコール芸能界の一員になることだった昭和の文化がほぼ終わり、バンドやシンガーソングライターとして芸能界と距離を置きながらやっていける体制が整ってきた。

それがJ-POPということかもしれない。

 

その新しい時代にまっさきに成功したのがビーイングだったという事実は、いろいろ重要なことを示唆していると思う。

 

その一方で、同時代のクラブミュージックや過去の膨大なグッドミュージックを参照する新しいアーティストが登場してきたのもこの時期。やがてその一部は「渋谷系」と呼ばれるようになるし、そのくくりに入っていなくても、スピッツサニーデイ・サービスのように日本語で良質な音楽をやるロックバンドがぼちぼち出てくるようになる。

 

そんな境目だったのが1993年ということでしょうかね。

 

おまけ:猫ジャケのコーナー

山田さんといえば愛猫家としても有名で、Instagramでは1万2千人のフォロワーがいる。

また実写であれイラストであれ猫がいるジャケットのレコードを収集されていることでも知られる。

www.instagram.com

 

 

そこで、LL教室の3人がそれぞれ持ち寄った猫ジャケのレコードを山田さんにプレゼンし、もっともお気に召したものを選んでもらうというコーナーをやった。

 

ハシノが持参したのは、下記画像の左側2列。

f:id:guatarro:20190114235717j:plain

猫ジャケのレコード

左上から、

本田美奈子がロック化したときのminako with wild cats名義のアルバム

「振られ気分でRock'n Roll」でおなじみTOM★CATのアルバム

一段下で

高畑勲監督「じゃりン子チエ」のサントラ

「赤頭巾ちゃん御用心」がヒットしたレイジーのライブアルバム 

7インチでは、

ムツゴロウさん監督の映画「子猫物語」の主題歌で、大貫妙子坂本龍一の楽曲

80年代に一世を風靡した「なめんなよ」のノベルティソング

児童合唱団の子が歌う1969年の大ヒット曲「黒ネコのタンゴ」

99年頃に買ったビッグビートのLOSFELDっていうアーティスト

あのねのね原田伸郎清水國明)のギャグを音源化した「ネコニャンニャンニャン」

でんぱ組.incの「でんぱーりーナイト」のジャケには相澤さんの白猫が

 

森野さんが持ってきたのは、ネオアコのオレンジジュースというバンドの、未発表曲を集めたアルバムで、ジャケットにレーベルのマスコットであるドラム猫があしらわれてるやつ。画像の右下隅。

 

矢野くんが持ってきたのは、左上から

60年代末、人気絶頂期にザ・タイガースを脱退したギタリスト加橋かつみのソロアルバム

細野晴臣が音楽を手がけたますむらひろしの「銀河鉄道の夜」のサントラ

Ellen Mcllwaineの70年代ファンキーフォークのかっこいいアルバム

など

なめ猫はハシノとかぶった

 

山田さんのために各自猫ジャケを探してこようっていう宿題になったときには、自分の家にはほとんどないんじゃないかって思ってたけど、探せば意外とあったね。

しかも内容的にもかなり気に入ってるレコードが多かった。

 

山田さん賞には矢野くん持参の加橋かつみパリII」が選ばれ、せっかくなのでということで山田さんにそのレコードをプレゼントしたのだった。

喜んでいただけたようで幸いです。

 

そんな感じでいろんな盛り上がりを見せたイベントでした。

まだ90年代は語っていない年が残っているので、引き続きLL教室をよろしくです!

 

次回イベントは未定なんだけど、twitterアカウントをフォローしていただければ幸いです。

 

twitter.com

 

 

 

#夢眠ねむ卒業公演 #推すという気持ち

でんぱ組.incから夢眠ねむさんが卒業しました。

news.nifty.com

 

自分にとっては、アイドルを推すということを理屈ではなく理解させてくれた存在。

でんぱ組とねむさんがいなければ、アイドルカルチャーを外からながめてわかったつもりになっていただけであろう。

 

 

 

 

出会いからハマるまで

思い起こせば2011年、吉田豪さん監修のアイドルコンピに収録されていた「Kiss+kissでおわらない」を聴いたのが出会い。

そして翌2012年の2月に開催された「やついフェス」ではじめて生のライブを拝見したのだった。

 

それ以来、でんぱ組の動きを気にするようになっていたんだけど、その年に小沢健二の「強い気持ち強い愛」やビースティ・ボーイズの「Savotage」をヒャダインのプロデュースでカバーするなど、完全に自分のような人間を狙い撃ちにしてきてる感があり、実際やられたのだった。

www.youtube.com

 

ただこの時点ではまだ、おもしろいことをやってるアイドルグループだなと感じているレベル。夢中になってるとかではない。

 

本格的にやられたのは、2013年1月のZEPP TOKYOでのワンマンから。

新曲「W.W.D」を中心にメンバーのバックボーンが赤裸々に語られる演出にびっくりしたのと、なんといってもでんぱオタクの人たちのノリも含めたあの空間の雰囲気にやられたんだと思う。

 

それ以来、地方も含めていろんな現場に行ったし、テレビなどメディアへの露出も欠かさずチェックするようになったよね。

 

この頃は日比谷野音灰野敬二と共演するとか渋谷WWWでかせきさいだぁと共演するとか、プロデューサーもふくちゃんの色が濃く、そういうところもたまらなかった。

そういった80〜90年代のサブカルと、00年代以降のメイドやエロゲやアニメなどの秋葉原カルチャー(最近ではこっちを「サブカル」って呼ぶのが一般的らしいけど)を力技で結びつけてる感じがたまらなくかっこよかった。

 

 

楽曲派

アイドルということでいうとそれ以前にも「ポリリズム」が出たぐらいのPerfumeとか「Z伝説」が出たぐらいのももクロのライブにはよく足を運んではいたんだけど、あくまで「楽曲派」というスタンスだった。

楽曲派というのは「おれはあくまで曲がいいからこのアイドルを追っているだけであって別にかわいいからとかそういうんじゃないからガチ恋のキモいオタクとは違うのだからそこ大事だから」っていう態度のファンのこと。

 

つまり、あくまでちょっと引いたところからながめてた。ももクロなんて当時は割と簡単に握手とかできてたんだけど、別にそういうのじゃないしなって思ってスルーしてたほど。今となってはもったいない話だけど。

 

実際、perfume中田ヤスタカの曲やアレンジがよかったわけだし、ももクロにしてもヒャダインNARASAKIの曲がおもしろいと思ったわけだし。他のアイドルグループ、たとえばAKB周辺などには、まったく興味がなかった。今もない。

それはやはり曲がピンとこないからだ。

 

で、でんぱに関しても、最初は曲からだった。

かせきさいだぁと木暮晋也という、HALCALIの「フワフワブランニュー」って名曲を生んだ名コンビとか、ももクロの一連のブレイクのきっかけになったヒャダインとか、そういう人たちが楽曲を提供しているっていう。

 

あと大きかったのが、歌パートの割り当てとかボーカルのディレクション

大人数のグループって、まずメンバーを覚えるのが大変だったり、音源を聴いて誰が歌ってるか声で聞き分けるのがまた大変だったり、初心者にはまずそこが壁になりがち。

AKBグループにいまいちハマらなかったのは、誰が歌ってるのか全然わからないってのが要素として大きい。いろんな編成で歌うから仕方がないのかもしれないけど。

その点でんぱ組の楽曲は、メンバー個々の声質が全然違って聞こえるようにディレクションされており、またサビ以外は基本的に誰か1人が歌うように割り当てられているので、メンバーの顔と声とキャラが一致しやすかった。

そういう声しか出せないっていう素材の人もいれば、ねむさんのようにいろんな声を出せる器用な人がいて、それぞれ味つけを濃くして歌ってる。

 

そんなこんなででんぱ組は、楽曲派としても十分楽しめていた。

 

夢眠ねむさん

しかし、でんぱ組の動きをチェックしてるうちに次第に夢眠ねむという人が気になってきて。

単純に背が高い女性にドキっとするというルックスの好みはまずあるとして、あとやはり筋を通すかっこよさ。

この方はもともと美大出身でアートとしてメイドとかアイドルというのを扱いたいってところからこの道に入ったそうで、なので他のメンバーや他のアイドルとは違ってプロデューサーと目線が近く、他のアイドルたちが10代のまだ右も左もわからない頃からデビューしてるのと比べて、ほぼ10歳近く大人なんです。

右も左も分かった上でアイドルをやっている。

いかにもアキバ的な舌足らずなアニメ声を自在に操る器用さもあり、アイドルのお約束を大人がやってる的なとこがあった。アイドルのあり方として正統派ではなかったかもしれないけど、そういうところがすごくおもしろかった。

 

あと、当たり前だけどアイドルの人たちって好きな音楽とかの話はぜんぜん自分とは合わなさそうじゃないですか。興味関心の範囲が違いすぎる。

まあ、そんなこと普通は気にしないけど、でもまあ、人種が違うなーってのはちょっとさみしくはある。

その点、ねむさんはバリバリこっち側の人って感じ。僭越ながら。

実際、ブレイクする前は気軽にいろんなミュージシャンとかDJに絡んでおり、その中にはわたくしの友人や知人も含まれており、出会い方が違っていれば普通に友達だったかもって、幻想かもだけど思える。

こっち側の話がわかる女子が、違う畑で活躍してる的な感覚を持ってた。

 

でもさ、美大生の卒業制作でアイドルやってみましたって話を聞くと、なんか半笑いで「萌え〜なんちゃって!」みたいな態度をイメージしがちだけど、ねむさんはそういうのではなく、何より、メイドとかアイドルのカルチャーに真剣に敬意を抱いていた。

決して上から目線とかではなく、なんなら下から目線でアキバに入ってきたぐらいのことらしい。

このあたり、「ヤンクロック」を標榜してた氣志團にとってのヤンキーカルチャーの関係性にも近いのかもしれない。

メタな視点だけどリスペクトがある的な。

 

そして、夢眠ねむというアイドルを自己プロデュースするようなスタンスは、ほとんど矢沢永吉のそれである。

「オレはいいけどヤザワはなんて言うかな」のやつである。

矢沢永吉という人格を演じきる態度。

 

夢眠ねむは、そういう、メタとマジとネタとベタとが境目なく溶け合った存在に見えてた。

 

外れていく色眼鏡

ねむさんのそういうあり方を通じて界隈を見ていくと、アイドルの現場で弾けまくっちゃってる人も、一部のほんとにヤバい人を除けば、みんな普段は定職についてる穏やかな紳士だったりして、なんならファッション業界や音楽業界のおしゃれな人も多かったりして、そういう人たちがアイドルという遊び場で意識的にネジを外してるんだなということがわかってきた。

 

そしていつしか、自分もその中の一人として、チェキを撮ったり握手したりの接触も含めてアイドルを楽しむようになっていた。

「推す」という気持ちが心からわかったのであった。

 

夢眠ねむさんとでんぱ組.incに出会わなければ、一生この気持ちを持つことはなかったに違いない。

 

 

だいたい大人ってのは、一定の条件下でバカになりたいと思ってるもの。

たとえば野球のことまったく知らない人がいきなり甲子園の阪神戦に行ってみたらどう感じるか。いい大人が選手を呼び捨てにしてヤジってたり変な応援歌を大合唱してたり、冷静に考えたらだいぶおかしいわけで。

長い年月でできあがってきた応援の型とかカルチャーのフォーマットに乗っかって、万単位の大の大人が平日から羽目を外しまくってるわけでしょう。

球場でバット型のメガホンでリズムを取って応援するのも、アイドル現場でサイリウムを振って応援するのも、縁がない人から見たら同じぐらい奇妙で同じぐらい楽しそうなはず。

もうあとは世間に認知されてるかどうかだけよね。

 

 

また、でんぱ組の楽曲の特徴である「電波ソング」についても。

電波ソングっていうのは、打ち込みのビートやハイテンションなシンセが高速のBPMで繰り出されて歌も過剰に情報量が多い楽曲のこと。どうかしちゃってる=電波系っていう。

そういう音楽ジャンルが存在するってことは知っていたけど、自分が好きな音楽と距離がありすぎてツボというか聴きどころのとっかかりを見つけることすら困難だった。

だいたいグルーヴってものが皆無で正直苦手だった。

 

だけど、アイドルのライブ現場に行ってみると、そういう曲が爆発的な威力を発揮するってことが理解できた。

この曲とか、当時はライブハウスでモッシュが発生したりしてて、メタルとかデジタルハードコアのような、自分の大好物のジャンルと近いものなんだっていうことが体感できたのだった。

どうかしちゃってるぐらいのテンションが、現場で頭のネジを外すのにはちょうどいい塩梅なんだなーって。

たとえばAKB48の「恋するフォーチュンクッキー」っていう曲、お茶の間にはとっても愛された曲だけど、現場のオタクには人気がないという。その温度差。

 

というような感覚が、理屈じゃなくて体感できたのは、自分の音楽リスナーとしての歴史としてもとても大きい。

できるだけいろんな音楽を理解して好きになりたいと思って生きているので。

 

いろんな色眼鏡を外してくれた夢眠ねむさんともふくちゃんでんぱ組.incに心から感謝したい。

 

 

2019年1月7日

2019年1月7日の日本武道館における卒業公演は、ねむさんがやりたい曲をやるというセットリストだったんだけど、それが自分の好きな曲とことごとく合致しており、さすが推しと思ったもんだった(欲を言えば「強い気持ち強い愛」をやってほしかった)。

 

自分がもっとも現場に通っていた2013年〜2015年によくやっていた曲なんかは、地方のライブハウスまで遠征した思い出も蘇ってきたりしてたまらなかったし、かせきさいだぁ&木暮晋也による「くちづけキボンヌ」で完全にもう感極まった。

 

 

この日のライブはとにかくねむさんの卒業をみんなで祝おうっていう思いが会場全体を包んでいつつ、決して湿っぽくはならずに進んでいった。なんでそこでキレ気味なのかっていういつものねむさんのノリも健在。みりんちゃんをいじる感じも見納めかと思うとまた一段と味わい深いし。

 

そんな感じでアンコールの「WWDBEST」まであっという間。

我慢できずに泣いちゃってるオタクちらほら。自分も最後のほうは鳥肌立たせながらボーッとしちゃってた。

 

感無量といった感じで最後のあいさつをしてステージを降りた後、昨日と同じようにエンドロールが流れるかと思いきや、もう一度アンコールがありそうな気配。

 

え、でもあれだけ感動的なやり取りがあってこの先なにが?と思ってたら、ファンクラブのハッピを着たねむさんがひとりでステージに登場。

 

で「どうせみんな『これでねむきゅんを見届けた』とか、『ねむきゅんがいないでんぱ組なんて怖くて見れない』とか思ってるんでしょ!」と強い調子で決めつけてきたんだけど、いやまったくその通りのことを考えていたのでめっちゃびっくり。

 

正直、これで自分にとってでんぱ組のライブは最後かな、なんて思ってた。

おそらくあの場にいたねむ推しの多くも同じ気持ちだったであろう。

 

しかし、でんぱ組における夢眠ねむの存在はめちゃめちゃデカいので、そんなことを思うオタクがたくさんいたら今度の活動にめっちゃ響いてしまう。

夢眠ねむという人は、そういうところまで見えてしまうし、またそれをほっておけない。ボロボロになるまでがんばった挙げ句、自分を守るため避難するように卒業するアイドルもいるなかで、ねむさんの意識は最後までこっちに向いていた。

 

これからは自分もでんぱ組のファンとしてライブを見に行くから!と言うと、ねむさんを除く6人(つまり明日からの新体制)がステージに現れ、「Future Diver」を披露。

ねむさんの見せ場である落ちサビは、後継者指名された根本凪さんが立派に歌い上げ、これからもでんぱ組は更新されていくんだっていうことを、全世界に示したのだった。

 

アイドルとして美しく卒業するだけであれば、このダブルアンコールは蛇足かもしれない。

けど、他界しそうなねむ推しに釘を刺し、でんぱ組の新体制をみんなに見せるってところまでが自分の仕事だと考えていたのでしょう。

こういう、めっちゃ優しくてめっちゃ粋なところ。

最後の最後まで夢眠ねむだったし、この人を推していてよかったと心から思えました。

 

夢眠ねむさんお疲れ様でした。

 

世代別・元バンドマンの見分け方(年表つき)

あなたのまわりにも昔バンドやってたって人が何人かいると思う。

 

「あの人むかしバンドやってたらしいよ」などと親戚とか同僚とかで噂されるような。

そう言われてみればそんな雰囲気あるかもって相槌を打ちつつも、自分の同世代の元バンドマンとはなんか人種が違う感じもするような。

そう。元バンドマンってひとくちに言っても、その時代のバンドマンがどんな音楽をおもにやっていたか、クラスの中のどんなタイプがバンドという自己表現を選んできたか、その時代の社会におけるバンドマンの位置づけがどんなだったかなどが影響するので、時代によって元バンドマンのタイプは実は全然違う。

 

なので、同僚や親戚にいる元バンドマンって人に接する際には、世代ごとの特徴をつかんで、適切な対応をしましょう。

日常生活の中で出会うあの人も実は元バンドマンかもよっていう、今日はそういう話。

 

戦後の「元バンドマン」の9分類

1940年生まれから1998年生まれまで、つまり1960年のハタチから2018年のハタチまで、戦後のバンドマンの系譜を大雑把に9分類してみたのが下の図。

f:id:guatarro:20181224222458p:plain

元バンドマン年表

 

左から、その人が生まれた年、2018年に何歳か、その人が20歳のとき何年だったかの数字が入っており、その世代ごとの代表的なバンドマンの分類と、その年にブレイクしたバンドをまとめている。

たとえば自分は1976年生まれで現在42歳。20歳のとき1996年だった。バンドマン分類でいうとヴィジュアル系の時代…という見方をしてください。

(実際に高校時代の学祭バンドはLUNA SEAコピーバンドだったし、楽器屋の目立つ場所に陳列されていたのはhideモデルのモッキンバードだった)

 

なお、この記事は日常生活で出会う確率が高い元バンドマンについての話なので、バンドマンの分類は、あくまで日本全国のマジョリティで考えています。

なので、いくら後世に多大な影響を与えたとしても、当時ごく一部の人にしか聴かれていなかったバンドや音楽は除外してる。

つまり、はっぴいえんどYMOフリッパーズギターはこの年表には入ってこない。なぜなら日本語ロックやテクノポップネオアコは、バンドに憧れるごくふつうの若者のマジョリティには直接的な影響を一切与えていないから。

 

では戦後バンドマンの分類をひとつずつ見ていこう。

 

1960年前後「マンボ」

いまでは「バンド」といえばエレキギターとベースとドラムのロックバンドを想起するけど、それってベンチャーズが来日して空前のエレキブームが起きた1965年ぐらいから後のこと。

それ以前に「バンド」といえば、金管楽器や打楽器を含めた大所帯のビッグバンドのことだった。

https://columbia.jp/artist-info/photo/tokyocubanboys01.jpg

 

演奏するジャンルは、ジャズやラテンが中心。

活動の場はキャバレーやダンスホールなどであり、基本的にバンドそのものが全面に出るのではなく、ゴージャスな夜の世界を演出する役割。

バンドマンが自作曲を演奏することもなかった。

 

つまり、この時代のバンドマンは承認欲求や自己表現とは無縁。「アーティスト」ではなく職人だった。

ミュージシャンのキャリア形成とか権利といった発想はまだなく、きわめて不安定な世界だったし、完全に昭和の夜の世界の住人なので極道界隈との距離も近い。

引退後のキャリアとしては、飲食とか風営法の領域が多そう。

 

この時代の元バンドマンは生きていたらほとんど80歳に近い。

上野とか浅草とか鶯谷あたりの、かつて栄えた歓楽街にいるおじいさんたちの中にたまにいる、カタギじゃないオーラの先輩たちはだいたい元バンドマン。

 

1960年代後半〜「エレキブーム」

1965年のベンチャーズ来日により、空前のエレキブームが起こった日本。

映画化もされた小説「青春デンデケデケデケ」みたいに、日本中の若者が何とかお金を工面してエレキギターをほしがった。

ギター、ベース、ドラムというロックバンドの基本編成が定着したのはここから。

http://www.geocities.jp/return_youth/groupsounds/_src/sc12155/83g83b83v.jpg

 

そして1966年のビートルズ来日に前後して、「グループ・サウンズ」という名前でたくさんのバンドがデビューしてくる。

 

ここから、自作の曲を演奏することや、バンド自体が全面にでてキャーキャー言われるようになる。

バンドを始める動機として、承認欲求や自己表現が入ってくる。

 

とはいえまだまだ楽器は高価なものであり、この時代にバンドをやっていたということは裕福な家庭の出である可能性が高い。

また同時に、ビートルズ来日の際にPTAから抗議の声が上がったほどなので、不良の音楽っていうイメージも根強かったわけで、実際に不良だったか、不良よばわりされることに抵抗がない人であったことは間違いない。

つまり裕福な自営業や医者などの子弟に多く、引退後のキャリアとしては家業を継いでいたりしてそう。

 

この時代の元バンドマンは現在70歳前後。

診察室の壁にジョン・レノンのイラストが額装されてる歯医者の、70歳には見えないツヤツヤした先生はだいたい元バンドマン。

 

1970年代〜「暴走族」

1950年代ごろからバイクを乗り回す不良少年たちは存在したんだけど、当時はまだバイクは高価だったので、「カミナリ族」と呼ばれた彼らはもっぱら富裕層だったらしい。

エレキギターと同じく、裕福な不良のアイテムだった。

 

そんなエレキギターやバイクがわりと一般に普及するようになってくるのが、70年代初頭。

世界的にも映画「イージーライダー」の公開、ローリング・ストーンズとヘルズエンジェルスの関係などから、ロックバンドとバイクがセットで語られる文脈ができてきた。

 

そうしてバイクとロックバンドが男の子の憧れるワルな感じの象徴になっていき、1972年には矢沢永吉のCAROL、1976年には舘ひろし岩城滉一のクールスがデビューしていく。CAROLやクールス、あと外道といったバンドは、暴走族にめっちゃ支持された。

 

日本において革ジャンとリーゼントのロックバンドのイメージはこのあたりで形成され、のちに半ばネタ化されて横浜銀蠅、さらにネタ化されて氣志團へと受け継がれていく。 

http://st.cdjapan.co.jp/pictures/l/02/18/UMCK-4048.jpg

 

要するにこの時代のバンドマンはほぼ間違いなく暴走族。

なので引退後のキャリアは必然的に自動車整備士運送業

たまにタクシーに乗ったらリーゼントがビシッとキマった60歳ぐらいの運転手にあたることあるじゃないですか、あれ、だいたい元バンドマン。

 

1980年代〜「パンクス」

1970年代後半にイギリスやアメリカではじまったパンクロックの流れは、すぐに日本にも影響を与え、アナーキーやザ・スターリンINU、THE STAR CLUBといったバンドが80年代初頭から日本のパンクシーンを形成していく。

 

日本のパンクシーンは最終的にはTHE BLUE HEARTSという大スターを生むんだけど、そこに至るまでの数年間は、客席に豚の臓物を撒き散らすなどのパフォーマンス、メタルなど他ジャンルとの抗争や暴力沙汰など、なかなかに過激でカオスだった。

 

髪型もモヒカンだったりして、とにかくどれだけ世間の価値観から遠くに行けるかっていう勝負みたいな感じだったと思う。

 

https://image.middle-edge.jp/medium/b4c3bb29-2822-4065-80d5-cc7043c3b8cf.jpg?1499671265

 

一方で、パンクロックって楽器ができなくてもいいっていうほどの敷居の低さが売りなので、ブーム収束後も職人ミュージシャンとして生き残った確率は他のどの時代よりも低そう。

 

音楽がやりたいというよりは、自己を表現したいとかクリエイティブなことがしたかった人がたまたま選んだのがパンクバンドだったっていう感じで、そういう人は音楽以外の文化的なジャンルに転身して成功してたりする。

 

出版社や広告代理店の中間管理職の、今やなんの面影もない50代の温厚なおじさんって感じに納まっていても、だいたい元バンドマン。

グイグイくる感じの新卒女子社員に飲み会で根掘り葉掘り突っ込まれてモヒカン時代が暴かれたりしがち。

 

1980年代末「バンドブーム」

パンクロックは世間の価値観につばを吐くことが重要で、ある面で世捨て人になる覚悟が必要だったんだけど、1980年代末のいわゆるホコ天イカ天のバンドブームのころになると、バンドマンもだいぶカジュアルな存在になってくる。

 

相変わらず髪は逆立ててるし破れたジーンズを履いてるけど、別に何かに中指を立てたいわけではないし、暴力反対だしっていう。

JUN SKY WALKER(S)あたりが象徴的だけど、パンクバンドとしての反抗的な目線は保ちつつも、破壊や暴力よりも前向きなメッセージが出てきたり、より日常的な世界を歌うことが増えてくる。 

https://dreamusic.co.jp/wordpress/wp-content/uploads/2018/04/b30cc2650ff585b1f55c37477f20b4f8.jpg

 

バンドブームのピークのころってバンドでありさえすればとりあえず注目してもらえたわけで、結構いろんなジャンルのバンドが出てきた。たまとFLYING KIDSブランキー・ジェット・シティに音楽的な共通点は皆無なわけで。

あらゆるブームの宿命として、質の悪いものがどんどん出てきて飽和状態になった結果すぐに下火になってしまうんだけど、とはいえ圧倒的な量が供給されたことで日本のロックの幅はめっちゃ広がった。

 

前の時代と比べて思想的な背景がない反面、演奏技術はあるわけで、楽器が好きで勉強が苦手な気のいいあんちゃんって感じ。

なので引退後のキャリアとしては、音楽業界の裏方ってパターン。

 

町おこしイベントや学祭などの野外ライブなんかの場でテキパキ働いてる40代後半の長髪のおじさんは、だいたいバンドブーム期の元バンドマン。

 

 90年代後半「ヴィジュアル系

1993年にはバンドブームは完全に終わっており、代わって10代のバンド志向男子を惹きつけたのが、ヴィジュアル系

 

80年代パンクロックから派生したサブジャンルや、パンクロックと同時代のラウドネスなどのジャパメタ、バンドブーム期から存在したBOOWYなどのビートロック勢といった複数の流れが、1989年にメジャーデビューしたXという一点で合流して生まれたこのジャンル。

90年代前半、Xに続いて、LUNA SEAGLAY、L'Arc~en~Cielなどが続々とデビューしていく。

 

https://i.pinimg.com/originals/69/c3/5b/69c35b93027c9be1ac4e279e411923b3.jpg

ヴィジュアル系は基本的にファン層はほぼ女性であり、ヴィジュアル系でやっていくためには演奏技術もさることながらルックスやカリスマ性が重要だった。 

 

この時代の元バンドマン、真面目に演奏技術を磨いていればミュージシャンとして活躍しているけど、ルックスやカリスマ性だけに頼ってやってきた人は、時期的に就職氷河期にもあたるのでセカンドキャリアは難しく、バンドマン時代の延長でヒモやってるパターンも多いかも。

つまり平日の昼間に手持ち無沙汰な感じでコンビニで立ち読みしてる緑色の髪のアラフォーは、だいたい元バンドマン。

 

00年代前半「青春パンク」

90年代後半、Hi-STANDARDDragon Ashモンゴル800の大ブレイクやAIR JAMの開催など、インディーズのメロコアスカコア・ミクスチャーがものすごく盛り上がってくる。

さらに数年後にはシーンの担い手がさらに若くなり、屈託なく青いことを言う青春パンクへと裾野が広がっていく。

http://lab.oceanize.co.jp/wp-content/uploads/2014/09/ROM2.jpg

 

このムーブメントの特徴は、ハイスタの沖縄公演のオープニングアクトをつとめたモンゴル800がその後ブレイクした事例のように、全国各地のシーンが活性化したこと。

それぞれの土地で、地元のバンドが拠点となるライブハウスを盛り上げ、そこに他の土地からのツアーバンドを招く。逆にそういったバンドがツアーに出たら各地のライブハウスで土地土地のバンドがハコをパンパンにしておいてくれる。

 

なので、バンドを結成してオリジナル曲が10曲ぐらいあれば、すぐにツアーに出たりインディーズでCDをリリースしたりといった感じ。

そうなると演奏技術の向上や音楽性の深化よりも、バンド同士の交流やツアーの手配、レーベルの運営などに長けたバンドが生き残る傾向がある。

 

もともとDo It Yourselfはパンクの基本姿勢なわけで、引退後のキャリアとしてもセルフマネジメント能力やコミュニケーション能力を活かして起業とかマネジメントにいくパターンが多い。ZOZOTOWNが典型例。

 

昭和のサラリーマン世界とは断絶した場所で、社員の一体感を武器にカジュアルにのし上がってきた30代若手経営者(愛読書はワンピース)は、だいたい元バンドマン。

 

00年代後半「メガネ」

1994年の雑誌「ROCKIN' ON JAPAN」のリニューアルおよび2000年の「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」開始により、よく取り上げられるバンドが「ロキノン系」という呼称でくくられるようになっていく。

 

この時代のバンドマンがそれ以前のバンドマンたちと決定的に違うのが、フィジカルの強さが不要になったこと。

それまでのどの時代においても、若者を熱狂させるバンドマンにはクラスの人気者だったりケンカが強かったりといったオスとしての強さが必要不可欠だった。

 

しかしロキノン系においては、クラスの中の目立たないメガネくんが抑えられてた暴力性を爆発させる的なカタルシスがもてはやされる。

むしろメガネくんの鬱屈や文学性こそがロックには必要であるとされ、旧世代の屈託のないヤンキーは揶揄される存在に。

フロントマンがメガネなことは今や何も珍しくないけど、くるりNUMBER GIRLなどが登場した90年代末にはけっこうな事件だった。

https://stat.ameba.jp/user_images/20090319/22/pan00123/d3/b4/j/o0550027510154469163.jpg

 

この時代のバンドマンはガツガツしてないタイプが多く、組織の中で成り上がる感じはない。

一方で00年代にはバンドでウェブサイトを制作したりDTMで楽曲制作することが一般的になっており、バンドマンのITリテラシーは同世代と比べてもかなり高め。

なので引退後のキャリアとしてウェブデザイナーやエンジニアを選ぶパターンが多い。

 

メロコア出身の元バンドマン社長の会社でエンジニアやってるボーダーを着たメガネのアラサーは、だいたい元バンドマン。

 

ジム通いやマラソンにハマってどんどんフィジカルになっていくメロコア社長やキラキラ新卒にはさまれて、そういうのはちょっと…と力弱くつぶやいてる。

 

10年代「前髪」

最後に、90年代生まれの現在20代のバンドマンたち。

ここはまだ世の中的にカテゴライズされきっておらず適切な呼称が難しいけど、ひとまず「前髪系」としておく。

BUMP OF CHICKENRADWIMPS〜米津玄師の流れをくむ、前髪長めで猫背なバンドマンたち。

 

http://visual-matome.com/wp-content/uploads/2018/07/BUMP-OF-CHICKEN.jpg

ゲームやアニメやアイドルなど、かつてはモテないものとされてきた趣味が、10年代にはスクールカーストに関係なく浸透し、ルックスや社交性やファッションセンスに何の不自由もない男子たちが地下アイドルやソシャゲをたしなむのももはや普通のことになってる。

 

この時代にバンドマンを志すタイプも基本的にそういう価値観の持ち主で、異性に対するコンプレックスや負のエネルギーはもはや創作の推進力になりえない感じがする。

「もてたいだけのロックンローラー あなた動機が不純なんだわ」と山口百恵が歌ってから約40年、基本的にバンドマンは「モテたい」が動機であり続けたわけだけど、ついに流れが変わってきた。

 

今はまだ現役の彼らがこれから数年後に元バンドマンになったとき、これまでの元バンドマンとはまた違った世界に落ち着いていくんだろうか。

 

まとめ

ここまで読めば、日常生活ですれ違う人が元バンドマンかどうかかなりの確率で当たるようになってるはず。

みんないろんな姿で世間に溶け込んでるけど、一度は本気でバンドやろうって思ったタイプに悪人はあまりいない。だらしない人は山のようにいるけど。

 

なのでみんななかよくしてあげてください。

 

しかしこうやってあらためて流れを追ってみると、元バンドマンってほんと時代によってバラバラだな。

ただ何度か揺り戻しはあったりしたけど、全体の傾向として不良度は時代が下るにつれてどんどん低くなってる。

逆に演奏技術はどんどん上がってるんじゃないかと思う。

 

プロ野球の世界でも、稲尾やカネやん的な大らかな昭和の時代と比べると、不良度が低下して技術は向上してる。160キロ出るようになったけど400勝みたいな無茶はもうできない時代っていう。

どんなジャンルでもそういう傾向あるのかなって。

 

それがいいことなのか悪いことなのかはわからないけど。

Dragon Ash、あゆ、GLAYから読み解く1999年のJ-POPと時代の空気 〜LL教室の試験に出ないJ-POPイベントふりかえり

先日、このようなトークイベントをやりました。

「LL教室の試験に出ないJ-POPシリーズ〜1999年編〜」

www.velvetsun.jp


その名の通り、1999年のJ-POPについていろんな角度から語るという趣旨。「試験に出ない」というところには、一般的な語り口ではない、オルタナティブな目のつけどころで重箱の隅をつつこうという意図が込められています。

 

ゲストにはニューアルバムをリリースした直後のTWEEDEESの清浦夏実さんをお迎えしてしまいました。お忙しいところ恐縮でした。

 

それぞれの1999年

その清浦さん、1999年には小学3年生。そしてLL教室メンバーのうち、森野さんとハシノは大学生。矢野くんは高校1年生。

つまり出演者4人がそれぞれ適度に年が離れており、世代ごとに異なった切り口で語ることができた。

 

森野さんは当時すでにバンド活動を熱心にやっていて、J-POPはほとんど聴いてなかったそう。たしかに、バンドやってると友達とか身近なシーンの音楽が関心の中心になり、世間で流行っているものとは距離を感じるようになるな。

自分は2002年頃からそんなモードになる。

 

 矢野くんは東京育ちらしい早熟な感覚で、高1ですでにマーヴィン・ゲイを聴いて公民権運動に思いを馳せていたらしい。恐るべし。

 

一方その頃の清浦さんは、世間の流行りとほぼ同期して清浦家に入ってきていた音楽をそのまま吸収していたとのこと。

たとえばこの年大流行した「だんご3兄弟」はもちろんのこと、宇多田ヒカルやジャニーズはリアルタイムで聴いていたそう。

ところが同じぐらいヒットしていたはずの浜崎あゆみGLAYDragon Ashは清浦家にはまったく入ってこなかったらしい。

清浦家でフィルタリングが作用していたのか、単にアンテナにまったく引っかからなかったのか。

大人からしたらどちらも区別なく売れてるJ-POPなんだろうけど、小学生のアンテナに引っかかるかどうか、微妙なラインがあるんだろうな

たしかにあゆやGLAYDragon Ashあたりはちょっと不良ぶりたい層の心をつかむことでメガヒットになったところがある。地方の中学生がギリギリあこがれるワルさ。今も昔もそこを突くのが歌謡曲商売の勘所なんだと思う。

 

2018年でいうと、EXILE一派が身にまとっている空気のなかに、やはりワルさ成分は入ってるでしょう。「HiGH&LOW」シリーズで前面に出てる部分ね。

 

 そしてわたくしの1999年はというと、大阪郊外のロードサイドのCDショップでバイトしてました。空前のCDバブルや、インディーズからのメロコア、ミクスチャー、日本語ラップといったシーンが盛り上がっていく様、北欧ダンス・ポップやユーロビート音ゲーの融合などなど、さまざまな世相をレジの後ろから眺めていた。

 

詳しくはこちらのブログをご覧ください。 

 

1999年のJ-POP界 

 この年のJ-POP界で外せない要素としては、ヴィジュアル系バンドが競うように大規模な野外ライブをやったこと。

90年代初頭からXが切り開いたというか作り上げたシーンが、ここにきて完全に世間一般に浸透したということ。

特にGLAYは、YOSHIKIに見出されたというヴィジュアル系の出自があるものの、佐久間正英プロデュースのBOOWYフォロワーという位置づけの方が実態に近い気がするし、なんならBOOWY以上に日本人が好きなウェットな歌謡ロックを極めることができたわけで、そりゃ20万人集められるわなって(この記事の後半で詳しく話してます)。

https://pbs.twimg.com/media/DjZDjpFUcAAvmr7.jpg

 

あとは女性R&Bブームね。UAMISIA、bird、SILVAといった、ファンキーでソウルフルな女性シンガーが続々とデビューしていた。

結果的に社会現象レベルに売れた宇多田ヒカルでさえ、最初はそのブームの中に位置づけられる一人として認識されていたわけで。m-floも最初はその文脈。

「クラブ」とか「DJ」って存在が、地方の高校生ぐらいまで浸透してきたのがこの頃。

 

一方で、この年からフジロックが苗場に会場を移したのと、ライジングサンが始まっており、フェス文化が本格的に日本に定着しはじめている(AIR JAMは98年からサマソニは2000年から)。

 

インディーズ界もこの数年でかなり盛り上がってきており、Hi-STANDARDに続くようにSNAIL RAMPBRAHMANあたりが大活躍。下北沢ではBUMP OF CHICKENGOING STEADYが活動を始めていたり。

 

そして80年代末から10年ぐらいずっと冬の時代だったアイドルの世界が、モーニング娘。LOVEマシーン」の大ヒットにより復活の狼煙を上げるのもこの年。

 

さらにいうとiモードがサービス開始したのも99年で、現在のサブスクリプション音楽配信サービスへとつながる流れの源流として「着メロ」の販売が始まっている。

それと入れ替わるように、CDの売り上げが98年にピークを迎えており、99年はここからズルズルと終わらない下り坂になっていく入り口でもある。

 

みんなが知らない曲がチャートの1位になってるって現象は21世紀では特に珍しくもないが、90年代はまだそんなことなかった。国民みんなが知ってるヒット曲がチャートで1位を獲ってた。そんな国民的ヒット曲の最後が、この年の「だんご3兄弟」なんじゃないか。

 

こうしてみると、1999年は21世紀の音楽シーンを形成するいろんな要素が出揃ってきた年だなっていう印象が強い。

 

 

歌詞分析

イベントは後半に入り、恒例(にしたい)の歌詞分析のコーナーへ。

現役の国語教師にして文芸批評家である矢野利裕くんがメンバーにいる強みをいかしたコーナーですね。

今回は作詞家でもある清浦さんもいるし。

 

Dragon Ash「Grateful Days」

まず取り上げたのは、Dragon Ash「Grateful Days」。

言わずとしれた「俺は東京生まれヒップホップ育ち」という超有名フレーズが入ってる例の曲。

あまりにも売れすぎたせいで、日本語ラップ親に感謝しすぎとかいろいろ揶揄される対象にもなってしまったけど、実は日本語ラップのマナーに則った歌詞だということが、矢野くんの解説でどんどん明かされていった。

 

当時はまだ音楽を志す若い人にとってロックバンドのほうが圧倒的に馴染みがあったわけで、日本語ラップというものに対して、なんかよくわからんけど不良ぶってたりすぐYo!とか言ったりあと自慢みたいな歌詞が多くて変だよねってイメージを持ってるやつが多かった。自分も含めて

あとストリートとかなんとか言ってるけど一億総中流の平和な日本で、生きるか死ぬかの世界で育まれたアメリカ黒人文化の猿真似をしてるのも滑稽だよねっていう意見とかね。

 

ただ2018年の現状では、たとえば自慢みたいな歌詞はボースティングっていうヒップホップ文化の一環でありそういうもんだっていう理解が広まってたり、日本社会がどんどんシャレにならないレベルで荒廃してきてるなかでどんどんラップの言葉がリアリティを獲得していったりしてる。

逆にいつまでもナイーブな自意識のことばかり歌ってるロックバンドのほうが、時代の空気を乖離してきているのかもね。

 

Dragon Ashの「Grateful Days」は、次の時代のモードをいち早くメジャーな場所で提示した曲なんだよなってあらためて思いました。

 

浜崎あゆみ「depend on you」

90年代というのは、かつての「アイドル」や「歌手」といった存在がそのままではやっていけず、「アーティスト」という形態にならざるを得ない時代だった。

たとえば坂井泉水というソロ歌手ではなく、ZARDというグループですという名乗り。

アイドル歌手としてはパッとしなかった渡瀬マキが、リンドバーグのボーカルとしてブレイクしたこと。

そんなふうにグループ化することで90年代に流通しやすい形態をとることが多かった。

 

または、みずから作詞することで、与えられた役割をこなすお人形ではありませんよ、自分の言葉を持ったアーティストですよっていうブランディングをするパターンも。

 

みずから作詞することで脱アイドルをはかるといえば、古くは森高千里がそうだったけど、浜崎あゆみも完全にその戦略が大当たりした人だった。

 

1999年の時代の空気を語る上で欠かせないのが、ケータイ小説

限りなくアマチュアな書き手たちによって徹底的に固有名詞を排して同工異曲に量産されたケータイ小説のなかで、例外的に固有名詞を与えられていたのが浜崎あゆみだったという、速水健朗さんの指摘を引用した矢野くんの分析。

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

 

それぐらい、ケータイ小説の書き手や読み手にとって特権的な地位を得ていた存在だったということ。

あゆの「自分の言葉」が、ケータイ小説の世界観とものすごく親和性が高かったんでしょう。

 

この「depend on you」という曲も、もちろんあゆ自身の作詞。

「あなたがもし旅立つ その日がいつか来たら そこからふたりで始めよう」で始まるこの曲。歌の中で時制とか仮定の話がぐちゃぐちゃになっていて、話の筋が追いづらいよねっていうところから、これはもしかしたら男に送ったメールの文面なんじゃないかっていう森野さんの指摘が生まれ、一気に解釈がはかどった。

仮定の話でメールしたら返信がなかった、返信しやすいように疑問型にして送ってみたけどそれでも返信がない、疲れてるのかなって自己解決して勝手に話を進めていく、といった感じに読んでいくと、脈のない相手に対して一方通行でメールを送り続ける痛々しい女性の姿が浮かび上がってきて、思わず会場全体がうわー!っていう空気に。

 

90年代の「アーティスト」志向の高まりにより、もっとも割りを食ったのがプロの作詞家たち。多少素人くさくても歌手本人のリアルな言葉で、っていう要請により職人たちの出番は激減した。

小室哲哉もみずから歌詞を書きたがったよなそういえば。あれも今にして思うとどうなんだろう。小室なりにレイブとかカラオケとか、若者文化にアンテナ高い自負があるようなことを当時語っていたので、古いプロの作詞家よりも自分のほうがリアルな歌詞が書けるっていう思い上がりがあったのかもしれない。

思い上がりって書いたけど、たしかに結果は出してるからまあそれが正解だったといえばそうで、それもひっくるめて90年代らしい話だな。

 

2018年はというと、秋元康など90年代に息を潜めていたプロの作詞家が見事に復活してる。J-POPに求められる要素のなかに、「自分の言葉で歌ってるかどうか」はまったくと言っていいほど入らなくなっており、隔世の感がある。

 

GLAYwinter,again

99年に「だんご3兄弟」と宇多田ヒカル「Automatic」に次ぐセールスを叩き出したのがこの曲。シングルで165万枚売り、さらにこの曲が収録されたアルバムは200万枚以上売ってる。

 

おもしろいのが、レコード大賞と有線大賞の大賞を獲っているということ。

有線大賞って基本的に演歌とかそっちが強くて、J-POPっていっても虎舞竜の「ロード」とかが賞を獲ってきたんだけど、この曲は世の中にそっち寄りのものとして受け入れられたんだよな。

 

まあそれも聴けば納得で、歌詞の世界は「あなた」への想いをウェットに歌い上げるもの。「無口な群衆 息は白く」なんて出だしは、「津軽海峡冬景色」を連想させるし。

 

ヴィジュアル系というのは世間の常識に対する異物として誕生したシーンだったはずだけど、YOSHIKIは皇居に呼ばれるしGLAYは有線大賞を獲るし、結局は日本の土着的なものに取り込まれていったんだなって思うとおもしろいよね。電気グルーヴの「しまいにゃ悪魔もバラードソング」っていうラインも思い出す。

ちょっと飛躍するけど、仏教が日本に伝来したときってさ、奈良の都会の一部のエリートがかぶれてる舶来のかなりとんがった思想だったはずなんだけど、長い年限を経て現代の葬式仏教になっていったわけで、そういうのに似て、日本社会の相変わらずのしたたかさを感じる。

 

閑話休題GLAYのバラードにおけるお茶の間っぽさ、もっというとフォークソングっぽさってなんだろうっていう話をしていると、実際にTAKURO氏と話したことがあるっていう森野さんから答え合わせになるような証言が。

TAKUROっていう人はヴィジュアル系に対して特に強い思いがある感じではなく、むしろルーツはフォークなんだって。

ヴィジュアル系という意匠があくまで手段なのであれば、もっと売れるためにって考えたときにそっちのバックボーンを活かしたほうが日本においては強いっていう戦略になったのかも。そしたらそれが大当たり。

 

その後、話が盛り上がった勢いで、みんなで「winter,again」を歌ってみようということに。清浦さんもお客さんも巻き込んでしまい、ふだんはおしゃれなベルベットサンが歌声喫茶状態に。

歌ってみてあらためて思ったけど、この曲の構造もすごく強くて、Bメロ(いつか二人で行きたいね〜のところ)がすでにサビ級の盛り上がり方をしてる。AメロからBメロへの盛り上げ方も、完全にサビ前のそれ。

なので、十分サビっぽいBメロになってるんだけど、そこからさらに本当のサビ(逢いたいから〜のところ)がくるため、気持ちよすぎてもう完全に心を掴まれてしまう。

 

ちなみに日本有線大賞は、視聴率低迷のため2017年が最後の放送になった。

最後に受賞したのは氷川きよし

 

まとめ

こんな感じで批評あり歌ありで1999年のJ-POPをふりかえるイベントは大盛り上がりで終了。

お客さんは1999年にはまだ生まれていない20代から当時すでに大人だった40代以上と幅広かったものの、あまり誰も置いてけぼりにせず進行できたかなと。

多くの方に次回も行きますといっていただけてありがたかったです。

 

この試験に出ない90年代J-POPシリーズ、過去には1991年(ゲスト:星野概念くん)、1992年(ゲスト:グレート義太夫さん)、1998年(ゲスト:ヒダカトオルさん)という感じでやってきてて、1999年(ゲスト:清浦夏実さん)で4回目。

 

まだ半分残ってるし来年以降も続けていきたいと思っており、すでに次回の予定も決まってます。

 

次回は2019年1月13日(日)。

場所は同じく荻窪ベルベットサンで、取り上げるのは1993年!

詳しいことは近日中にお知らせします。

 

LL教室のtwitterアカウントをフォローしてチェックしていただければ!

twitter.com