森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

J-POPが滅んでも演歌は生き残ると思う(演歌の定義・なりたち・未来)

2020年2月22日リリースの都はるみトリビュート・アルバム『都はるみを好きになった人』がとにかくすばらしい。

 

 

参加アーティストはUA畠山美由紀高橋洋子水谷千重子Chage一青窈怒髪天ミッツ・マングローブ大竹しのぶ、そして民謡クルセイダーズ feat.浜野謙太という、バラエティに富んでいつつ必然性を感じさせる面々。

特に民クル「アラ見てたのね」や畠山美由紀大阪しぐれ」や高橋洋子アンコ椿は恋の花」あたりは、原曲のコクを殺さずにそれでいてちゃんとフレッシュな解釈がされていて、すばらしかった。

 

あまりにすばらしかったので、都はるみの原曲の方もまとめて聴きこんでいたんだけど、そこでちょっといろいろ考えてしまったんだよね。

そもそも「演歌」ってなんだろうって。

 

都はるみはなぜ涙こらえてセーターを編むことになったのか

都はるみといえば、1964年にデビューし、紅白歌合戦に20年連続で出場、複数のミリオンヒットを飛ばし、1984年に突如引退(その後復帰)した、昭和を代表する歌手のひとり。

 

そんな都はるみの数々のヒット曲のなかでも、特に国民的ヒットといえる曲がいくつかあり、それをリリース順に並べてみると、こんな感じになる。

アンコ椿は恋の花」1964年

「涙の連絡船」1965年

「好きになった人」1968年

「北の宿から」1976年

大阪しぐれ」1980年

「浪花恋しぐれ」1983年

 

この5曲、ジャンルとしてはぜんぶいわゆる「演歌」だとくくってしまえるとは思うんだけど、あえてどこかで線を引くとすれば、「好きになった人」と「北の宿から」の間であろう。

曲調もそうだし、歌詞の世界観もそうなんだけど、やっぱここに断絶があると思う。

 

ざっくりいうと、「アンコ椿は恋の花」と「涙の連絡船」「好きになった人」は昼間の歌。陽のあたる場所の歌。「北の宿から」「大阪しぐれ」「浪花恋しぐれ」は夜の歌。日陰の歌。

どちらにも通じるのは「健気な女心」なんだけど、健気さのあり方が違うっていうか。

「たとえ別れて暮らしてもお嫁なんかにゃ行かないわ」と「着てはもらえぬセーターを涙こらえて編んでます」はやっぱり全然違うと思う。

 

では「好きになった人」の1968年と「北の宿から」の1976年の間に世の中でなにがあったかというと、大阪万博が終わって高度成長期が一息つき、公害病が問題になったり、ベトナム戦争が泥沼化したり、三島由紀夫切腹したり、新左翼あさま山荘事件よど号ハイジャック事件みたいなことをいろいろやらかしたりとまあいろいろと負の側面が出てきたような時代だった。

そんなこんなを経験して、日本社会がすっかりスレてしまったのがその8年間だったのではないかと。

戦後日本を擬人化すると、寝る間も惜しんで受験勉強していたまっすぐな高校生が、大学でもまれてひねくれてしまったみたいな変化。

 

都はるみの音楽性の変化にも、その社会の空気の変化が出ちゃってるような気がするんだよね。

昼間の歌、陽のあたる場所の歌をのんきに歌ってても刺さらない感じになってきたので、暗い情念みたいなものをインストールすることで、スレた社会に適応しようとしたようにみえる。

 

その結果、都はるみは「北の宿から」で見事に10年ぶりのミリオンセラーをたたきだしたのだった。

 

しかしよく考えてみると、この変化は単に都はるみひとりの変化ではなく、演歌そのものの変化でもあったんじゃないかって気がしてきた。

もっというと、演歌というジャンルの立ち位置というか守備範囲が移り変わったということかもしれない。

 

演歌のなりたち

そもそも、演歌ってどう定義できるのか。いつ生まれたものなのか。

 

「演歌は日本の伝統」だなんて気軽に言うひとがいるけど、実はいわゆる「演歌」っていうジャンルが明確にできたのって1970年頃のこと。

つまり、ジャズやロックやR&Bなんかのほうがよっぽど古くから日本に存在していたのである。

 

そのあたりの流れについては、『創られた「日本の心」神話  「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』という本(名著!)に詳しく書いてあるので興味があるひとはぜひ。 

 

この本によると、「演歌」っていう言葉自体は明治時代から存在してはいたけど、今とは意味がぜんぜん違っていたそうな。

そして、美空ひばり都はるみといった、代表的な「演歌歌手」と呼ばれるひとたちも最初は単に「流行歌手」なんて呼ばれていたという。

 

60年代までは「演歌」っていうジャンルは存在しておらず、日本の大衆が好むポピュラーな歌として流行歌とか歌謡曲とか呼ばれていた。

つまり1964年の「アンコ椿は恋の花」は演歌としてリリースされたわけじゃなかった。1970年頃に「演歌」というものがジャンルとして成立した際に、そのジャンルの代表的な歌手のひとりである都はるみの過去のヒット曲がさかのぼって演歌とカテゴライズされたというのが正しい。

 

では1970年頃に演歌というジャンルがなぜ成立したのか。

いろいろあるけど大きいのは音楽業界の構造の変化だという。

 

60年代前半までの日本のヒット曲は、基本的にすべてレコード会社専属の作詞家と作曲家が手がけていたんだけど、60年代後半からのグループサウンズフォークソングの流行により、フリーの作家やシンガーソングライターが一般的になってくる。

阿久悠筒美京平、都倉俊一、なかにし礼松本隆村井邦彦といったフリーの作家たちが、新しい世代として登場してきたのがこの時代。

 

そういった新世代の作家が新しいい歌を次々に送り出していく一方、レコード会社専属の作家たちが作っていた歌はひとまとめに古臭いものに感じられていく。

専属作家の楽曲といっても、実態としてはジャズや民謡やハワイアンや声楽、それ以外にも雑多なバックボーンをもっており、ひとまとめにするにはだいぶ幅広すぎると思うんだけど、実際にひとまとめにされ、「演歌」というラベルを貼られることになった。

 

演歌の変容

1960年代後半からジャンルとして成立していく時期の、オーセンティックな演歌のイメージを代表する存在としては、北島三郎藤圭子が挙げられるだろう。

この2人に共通しているのが、北海道から上京して「流し」をやっていたということ。

北島三郎は渋谷を拠点に、藤圭子は浅草や錦糸町を拠点にしていたという。

 

流しというのは、ギターを抱えて酒場をめぐり、酔客のリクエストにこたえて歌を歌う仕事。

そこで身につけた地べたの美学とか匂い、そして酔客がリクエストしてくる曲のラインナップが、演歌というジャンルのコアにあるんじゃないかとにらんでいるんだよね。

場末の流しというフィルターを通すことで、民謡調もムード歌謡もロカビリーもお座敷唄も軍歌も、みんな演歌になったのではないかと。

 

「歌謡曲」や「流行歌」 と呼ばれて、日本の大衆音楽のど真ん中にいた歌(written by 専属作家)が、ど真ん中の地位を脅かされ、「じゃないほう」をカテゴライズする言葉として「演歌」と呼ばれるようになったその過程で、地方から上京して酒場で流しをやっていた2人の歌手が下積み時代に見てきた世界が濃厚に取り込まれたんじゃないかって思ってる。

 

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演歌マンガの名作『俺節』でもギター一本で流しをやる下積み時代が描かれている

 

さらに時代が下って1990年代になると、日本の大衆音楽のど真ん中にJ-POPがやってくる。

 

そのタイミングでも、それまでは演歌とは違うものだったはずのいくつかの音楽ジャンルや作家たちが「じゃないほう」として演歌側のカテゴリに取り込まれたりした。

具体的にいうと、フォーク/ニューミュージックと呼ばれていた人たちの一部(堀内孝雄とか)や、ハワイアンやラテン音楽のバンドを出自にもつようなムード歌謡の界隈(和田弘とマヒナスターズ内山田洋とクール・ファイブなど)のこと。

しかし、かつてはフォークもラテンも、演歌みたいな田舎臭い音楽じゃない、洋楽的で都会的な洗練された若者むけの音楽だったわけで、そう考えるとすごく興味深い取り込まれ方だよね。

 

まあとにかくこんな感じで演歌というジャンルは、自在にその定義を拡大させつつ、時代時代の「若いもんの音楽はガチャガチャしててどうにも苦手だわい」というニーズにこたえていく存在になった。

 

なので2020年までくると「演歌」というジャンルには、ものすごくいろんなものが含まれている。

 

2020年の演歌

2020年3月1日の朝日新聞土曜版の全面広告に、「いま何が演歌なのか」の正解があらわれていた。

 

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これ、『昭和の演歌 大全集』というタイトルのCD12枚組のボックスセット。

つまりこれぜんぶ演歌とカテゴライズされているのである。

 

時間がある方はぜひ画像を拡大して見ていただきたんだけど、ここまでお話ししてきたように、1960年代前半ぐらいまでの専属作家の楽曲がけっこう雑多に詰め込まれている。

 

ジャズの出自をもち都会的な「低音の魅力」が売りだったフランク永井の「有楽町で逢いましょう」も、ナイトクラブ出身のアイ・ジョージによるアメリカンポップスな「硝子のジョニー」も、スチールギターウクレレを擁するハワイアンバンドである和田弘とマヒナスターズの「愛して愛して愛しちゃったのよ」も、2020年には「演歌」になってしまった。

 

これも演歌…なのか…

 

やはり、「若いもんの音楽はガチャガチャしててどうにも苦手だわい」という人のための歌を総称して「演歌」と呼んでいるフシがあるな。

 

そしてこの広告の感じや選曲からして、ターゲットは70代後半以上(戦前戦中生まれ)だと思う。

 

ということはですよ、あと5年もしたら団塊の世代むけに演歌のボックスセットがリイシューされるはずで、そのボックスセットではまた新たな演歌のカテゴライズが見られるであろう。

そして、団塊の世代むけの演歌ボックスセットには、「時には母のない子のように」とか「悲しくてやりきれない」あたりが入っていても全然おかしくないと思う。

 

だったら2035年にリリースされる新人類むけの演歌ボックスセットには「乾杯」とか「冬の稲妻」が入るかもしれない…!

 

そして2045年にリリースされる団塊ジュニアむけの演歌ボックスセットには、「未来予想図」とか「Forever Love」が入ってきたりして…!

 

 

いやこれ半分まじめに言ってますよ。

だってさ、フランク永井アイ・ジョージやマヒナスターズも50年たつと演歌にされちゃうんだよ。

それに、われわれも70代とかになったら、「若いもんの音楽はガチャガチャしててどうにも苦手だわい」ってなるもん絶対に。

そうなったらもう演歌の手のうちに落ちてるも同然。

 

演歌って、昔からそこにいますよみたいなシレッとした顔をしてるくせに、実はロックとかよりも新しいジャンルだし、ここまでみてきたように定義も時代によって変わっていってて、なんだかんだ滅びずにしぶとく生き残っている。

 

 

たとえ未来のある時期にJ-POPが滅んだとしても、演歌は生き残ってるんじゃないだろうか。

「演歌は日本の心」だというけれど、その白々しさやプリンシプルのなさゆえの強さはたしかに日本っぽいかもしれない。