森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

『ザ・ダート: モトリー・クルー自伝』にみる「誠実さ」

「もう二度とツアーをやらない」という契約書を爆破する映像が話題となったモトリー・クルー

来年あたり再結成ツアーをやるらしいですね。

 

今回の再結成の機運が盛り上がったのは間違いなくネットフリックス限定で公開された『ザ・ダート: モトリー・クルー自伝』のおかげであろう。

 


『ザ・ダート: モトリー・クルー自伝』予告編 - Netflix [HD]

 

実際ストリーミングの再生回数はめっちゃ増えたらしいし、この映画をきっかけに多くの往年のファンがモトリーのことを思い出し、また多くの新しいファンがついたことは間違いない。

モトリー・クルーは伝記映像作品『ザ・ダート』の配信開始によってバック・カタログにも及ぶストリーミングとフィジカルの売り上げが急上昇しているという。現地時間3月29日に出された公式のプレス・リリースによれば、バンドのバック・カタログと『ザ・ダート』のサウンドトラックのストリーミング数の合算でスポティファイでは再生回数が570%増加し、アップル・ミュージックでは900%増加していると発表されている。また、iTunesでのダウンロード数は2027%増加しているという。

 

わたしとモトリー・クルー

健全な音楽遍歴をたどってきたリスナー諸氏にとっては、てゆうかモトリー・クルーって誰?ってな話だと思いますが、彼らは1981年にデビューした世界的なハードロックバンド。

同じ時期にロサンゼルスを拠点にしていたラットやガンズ・アンド・ローゼズなどとともに「LAメタル」と呼ばれるムーブメントの中心的な存在だった。

 

サウンド面の特徴としては、70年代のイギリスで流行ったグラムロックの妖しさと、パンクロック以降の激しさと、ブルースの要素などがブレンドされたロックンロール。

そして何よりルックスの華々しさが同時期のバンドの中ではずば抜けていた。

http://amassing2.sakura.ne.jp/image/jacket/large/2015b/51490.jpg

 

特に中学生時代のわたくしを夢中にさせたのが写真左端のベーシスト、ニッキー・シックス。

のちに軽音楽部でコピーバンドをやるようになった際、ニッキー・シックスと同じサンダーバードっていうベースを買ったほど(本家ギブソンのモデルは高かったのでオービルっていうメーカーのやつだったけど)。

 

だいたいのハードロックやメタルのバンドにおいては花形はギタリストで、ベーシストは目立たない存在なんだけど、ニッキー・シックスはベーシストだけどリーダーで、作曲もする。あと弾いてるフレーズはすごくシンプルで中学生にもコピーしやすい。バカテクすぎて遠い存在って感じでもなく、親近感がわきつつ憧れの存在って感じだったんだよね。

 

ところが、そんなモトリー・クルーをはじめとするLAメタル勢が覇権を握っていたのは80年代までのことで、90年代になるとグランジやミクスチャーといった新興勢力に追いやられ、完全に時代遅れの存在になってしまう。

※そのあたりの経緯はここに書いてるのでよろしければ後ほどご覧ください。 

 

あれほどカッコいいと感じていたモトリーやその他のハードロックやメタルのバンドが、一気に色あせて感じられたもんだった。 

よく考えたら能天気でバカっぽすぎるよなって。それよかニルヴァーナダイナソーJrやソニック・ユースとかのほうがクールだしリアルだしなって。

 

そんな感じで多くのハードロックやメタルのバンドにとって厳しい冬の時代だった90年代。モトリー・クルーは音楽性の迷走や一時的なメンバーチェンジなどいろいろありつつも、なんとか生き延びてきた。

で時代が一周したいま、再び注目されてるというわけ。

 

『ザ・ダート: モトリー・クルー自伝』

ネットフリックスの『ザ・ダート: モトリー・クルー自伝』は、そんな彼らの結成から活動休止を経ての復活までを自伝の記述に基づいてドラマ化したもの。

 

ファンにはおなじみのあんな事件やこんな事件はもちろん出てくるし、ベースのニッキーはバンドの頭脳で、ドラムのトミーはフィジカルで脳天気だし、ヴォーカルのヴィンスはとにかくモテるし、ギターのミックは変わり者っていう、メンバーのキャラもしっかり描かれているし、すごく楽しめたよね。

 

一応ニッキー・シックスが主人公に近いポジションで彼の目線がメインではあるけど、メンバー4人それぞれが自分の目線で語るパートもわりと公平に分配されていて、そこもよかった点。この、ワンマンバンドじゃない感じがモトリーらしさだなと。

 

しかしですね、まあとにかくコンプラ的にひどいシーンが続く。

当時雑誌とかで日本のファンにもうっすら漏れ伝わってきた話はあるんだけど、それどころじゃないひどさ。

ミックは変わり者って扱いになってるけど、他のメンバーやまわりの環境のほうが狂ってるから浮いてるだけで、むしろただ一人だけのまともな人だったってことがわかる。

 

セックス・ドラッグ・ホテル破壊。

 

「芸の肥やし」っていう言葉があるけど、あの狼藉あってこそのあの音楽だとでも言いたいのだろうか。

少なくとも、この映画はそこを説明しようとしてない。

ただただ時系列にそってライブ、狼藉、ライブ、ドラッグの連続が描かれていて、そこに何か理由があるみたいな話には一切ならない。

 

同じく名声とドラッグとセックスにまみれたロックスターを描いた映画でも、トラウマや孤独感からの逃避として狼藉を描いた「ボヘミアン・ラプソディ」や「ロケットマン」とはそこが決定的に違う。

いい話に回収しようと思えばする方法もあったと思うけど、基本そういう描き方をしてないんだよね。

 

大河ドラマのつくりかた

大河ドラマが好きで、毎年できる限り最後まで通して観続けようと心がけてる。

龍馬伝」や「平清盛」「真田丸」「いだてん」など、近年でも印象的な作品はいくつかあったし、基本的には大河は好きです。

 

ただ、それでも最近どうしても気になってしまう描き方のパターンがあって。

「争いのない世の中をつくる」みたいな大志を主人公が抱いてるって設定なのが、どうにも嘘くさく感じられてしまうってのもそのひとつ。

 

信長なり家康なり西郷なり龍馬なりは、ほんとうにそんなことを考えていたのかって疑問に思うんですよ。

 

大河の脚本家がやることって、史料に残っている実際にあったことをつなぎあわせて、一年を通したストーリーを作ること。そして視聴者が感情移入して感動できる主人公のキャラクターをつくることだというのはわかる。

つまり、現代日本の視聴者の大多数がついてこれない価値観の持ち主にすることは不可能なわけで。

 

たとえば、一夫多妻制に関する価値観。

正室とは別に側室をむかえるにあたって、主人公である戦国武将はもれなくとまどう。主人公は別に望んでいなくて、世継ぎがほしい周囲の家臣たちがむりやり娶らせたみたいな描き方も多い。そうしないと、平気で二股かける最低な野郎っぽくなって視聴者の心が離れてしまうから。


その時代と現代とで価値観が違う要素は多々あるので、その時代の主人公は当時の当たり前のふるまいとしてやっていたことでも、現代人には不快に感じられるってことは多い。討ち取った敵の首を斬り落として持ち帰るとかね。

 

あとやっぱ人生ってずっと波乱万丈ってことはないし、ずっと一つのことを目指してまっすぐ進んでるって人は珍しい。だいたいの人生ってダラダラしてるし、あとから思えばまったく無意味なことしてた時期ってのもある。歴史に名を残すような偉人でもそんなに変わらんはず。

 

しかし大河ドラマとして描くにあたっては、一年を通して視聴者を惹きつけないといけないので、なんとかしてダラダラを回避するし、「なんとなく周囲に流されて気づいたら重要な役割を果たしていた」みたいな描き方もしない。

何かしら重要な契機があって、主人公は英雄的な決断をして、その結果歴史に名を残したっていう描き方が王道。

(「真田丸」の草刈正雄の場当たり的な対応は、そんな王道に対するカウンターとしておもしろかった)

 

つまり大河ドラマというのは、視聴者である現代人のコンプラ意識とか感情移入できるコードにそって、歴史的事実を組み合わせ、主人公の主体性を強調してつくられている。


1000〜150年前にいた首刈りの風習をもつ野蛮人(つまり武士のこと)の殺し合いの話を、どうやって感動のドラマにするか。

殺し合いには理由があることにしないとキツイし、その理由だって自分とその一族が滅びないためっていうものだとショボい。「争いのない世の中をつくる」ぐらいの大志じゃないと、凄惨な殺し合いと釣り合わない。

 

なので、1年を通して視聴率20%ぐらいを維持することが求められる大河ドラマにおいては、実際にはあったかどうかわからない大志ってものが求心力やエクスキューズの装置としてすごく大事になってくる。 

 

モトリーの誠実さ

大昔の血なまぐさい野蛮行為をそのまま描くとエグすぎるので、「争いのない世の中をつくる」という大志ゆえの必要悪として描く大河ドラマ

 

80年代のロックスターがドラッグまみれで手当たりしだいにセックスしまくる様子をそのまま描くとエグすぎるので、セクシャルマイノリティであることの苦悩や、家族との断絶と和解といった背景をもたせた「ボヘミアン・ラプソディ」や「ロケットマン」。

 

『ザ・ダート: モトリー・クルー自伝』は、大志も背景もなく、ドラッグまみれで手当たりしだいにセックスしまくる様子をそのまま描く。

狼藉に理由がない。もしくは釣り合わないほどショボい。

なので映画として著しく壊れているように感じられる。

 

ただ、だからこそ、「誠実」だなとも思った。

 

メンバー全員が監修に入ってるので、この描き方は不本意なものではない。

むしろお墨付きを得た上での…というかそもそも自伝の映画化だったわ。

 

「あの狼藉あってこそのあの音楽だとでも言いたいのだろうか」っていうさっきの問いにむりやり答えをだすなら、あの狼藉をなにかに理由づけして美化しない「誠実さ」あってのあの音楽ってことは言えるかも。