音楽は魔法というより科学に近い
最近読んだ本のなかでかなり刺激を受けたのが、「80年代音楽解体新書」という、音楽評論家のスージー鈴木さんがウェブで連載していたものを一冊にまとめたもの。
この本の魅力をひとことでいうと、音楽は魔法というより科学に近いんだってことを教えてくれるところです。
これまでの音楽評論は、音楽が魔法であるかのように語ってきすぎたんだと思う。
悩み多き環境で育って常人とは違う感性をもった天才が、「降りてきた」メロディを紡いで、常人には理解の及ばない工程を経てレコードになっている、かのような。
それに対して、この本の著者であるスージー鈴木さんは、音楽というのは実はいくつかの要素の組み合わせであり、その要素は再現可能だったりするということを説こうとしている。
再現可能っていうのはつまり、数百万円するビンテージもののレスポールであろうが音楽室のボロボロのガットギターであろうが、sus4のコードを弾けば同じ響きが得られるということ。ティン・パン・アレイを従えた荒井由実であろうが駅前のビッグエコーにたむろする女子高生であろうが、歌の途中で半音上に転調したときの高揚感は同じだということ。
科学の世界においても、論文に書かれた実験結果は、誰がやっても同じ結果になるからこそエビデンスとして採用してもらえる(STAP細胞には再現性がなかった)わけで。
それに対して、魔法っていうのは工程がブラックボックスだし再現性がなく、属人的。
長らく音楽というのはそういう魔法っぽいものだとして語られてきたんだけど、ではなぜスージーさんは音楽評論を科学として語ることができているのか。
他の人はそれをやらない(やれない)のか。
ミュージシャン同士はどんな言葉で話しているか
思えば自分が中高生の頃はインターネットもなく、おもにラジオや音楽雑誌で情報を仕入れていたもんだった。
音楽雑誌では、「ジェネレーションX世代のアイデンティティのゆらぎを象徴するかのようなダウナーな音像」みたいな言葉で新譜が紹介されていて、よくわからないなりにそういうもんかと思って聴いていた。
だけど、やがて自分で楽器を手にして、またバンドを組んで活動してくようになると、それまではひとつの音の塊としてしか聴こえていなかった楽曲が、ひとつひとつの楽器がどんなフレーズを弾いているのかバラバラに聴こえるようになり、リズムに対する解像度が上がり、コード進行に仕掛けられた工夫がわかるようになり、プレイヤーの技術でどれぐらい違いが出るのかがわかるようになってくる。
そうやって音楽の作り手としての言葉をどんどん獲得していったことで、ミュージシャン同士で音楽について話すときもそういうボキャブラリーが主になってくる。
「あの曲じつは間奏で転調してる」「上のコードが変わっててもベースだけずっと同じフレーズ弾いてる」「あのベーシストの前のめりなリズム感いいね」みたいな。
機材、コード進行、リズムのとり方など、それぞれに興味のある範囲は違っていても、音楽雑誌に書かれているような話よりも断然具体的だし客観的だしロジカル。
つまり科学。
ごく一部の詩人タイプのヴォーカリストとかを除けば、ほとんどのミュージシャンはどちらかというと自分を魔法使いだと思っておらず、作品に込めた思いとかよりも、レコーディングの機材のことや作曲やアレンジで工夫したことを話すほうが楽しい科学者タイプだったりする。
既存の音楽評論が音楽を魔法扱いしてきたわけ
音楽を構成するいろんなパーツは、それぞれ個々に見ていくと純然たる科学の領域なんだけど、これまで音楽評論ってそういうところをあまり語ってこなかった。
もちろん、アーティストのパーソナルな部分を掘り下げて記事にすることも大事だと思うし、そういうの読むのも好きなんだけど、それだけだと伝わるのは音楽の楽しさの半分かそれ以下じゃないかと思う。
ではなぜ、今までの日本の(もしかしたら世界の)音楽評論はそうなのか。
ミュージシャン同士が話すときのボキャブラリーと、雑誌に書かれているボキャブラリーが全然違うのか。
ものすごく意地悪な言い方をすれば、ミュージシャンに憧れたけどギターに挫折してライターになった人たちが中心になって雑誌を作ってきたからではないか。
「俺はギターは弾けないけど、言葉の力でこの音楽の魅力を伝えてみせる!」みたいなモチベーションでやってるんだとしたら、その心意気はすばらしいとしても、ギタリストなら当然わかることがわかっていないままにギターのことを語っているってことになる。厨房に立ったことがない料理評論家みたいな状態。
いや、さすがにそんなことはなくて、音楽評論家たちだって専門的な話も理解できているんだけど、ただ読者はそんな難しい話についてこれないからあえて、っていうことかもしれない。
コードの話は楽器やってないとわからないけど、歌詞の話は日本語話者ならみんなわかるから。
しかし、もしそうだとしても、もう少し努力はしてきてもよかったのではないかと思う。楽器を弾かない読者にも、この曲がなんで新鮮な響きになっているのか伝える方法はあるんじゃないかって。ちょっと既存の音楽評論はそこの努力を怠りすぎではないか。
その点スージーさんは、楽器をやったことがない多くの読者にどうすれば伝わるか、たとえば音階の説明はすべてコードをCに置き換えてドレミファソで書くとか、「後ろ髪進行」みたいな感じでそのコード進行が生む効果をキャッチーに命名するとか、可能な限り平易にする工夫がなされている。
その結果、「80年代音楽解体新書」はコードやメロディの話をいっぱいしてるけど、楽器の経験がなくても、ギターを挫折した人でも、だいたい理解できるレベルになってるんじゃないでしょうか。
個別には再現可能な要素たちの再現不可能な組み合わせ
音楽を構成するいろんなパーツの多くは科学の領域。
ただ、各要素を最終的にどんなブレンドにするかは作り手のさじ加減であり、たとえばどこまでやんちゃなギターを弾くかとか、どこまでナンセンスな言葉を連ねるかとか、あえて引っかかるコードを配置するかとか、そういう細かい判断の積み重ねの上に楽曲が成り立っている。
さらに、本人の意図しないところで、1986年ならアリだけど1990年にはもう古臭いとかいった事情だとか、震災以降のムードに合致してるだとか、誰がプロデュースしたかとか、そういった事柄も多分に影響する。
そういった、個別には再現可能な要素たちの再現不可能な組み合わせ。そして本人にコントロールできない追い風(または向かい風)が複雑に影響しあって、ある曲が売れたり売れなかったりするわけ。
あの売れた曲の感じでもう一曲たのみますとか言われても、あの曲を作っていた当時の謎のテンションが再現できないので、同じような要素を組み合わせてるつもりでもどうにも勢いが出ない、みたいなことはよくある。何も考えないで書きなぐった歌詞や、よく考えたら不自然で不必要なコード進行、実はコードからはみ出してるメロディ、みたいなことは再現できない。
多くのアーティストがデビュー・アルバムを超えられないっていうのも、一発屋が一発屋であるゆえんも、まさにそういうことだとも思う。
自分なんかはむしろそういう文脈だとか背景をとっかかりにして音楽を味わうのが好きなタイプ。個別には再現可能な要素たちの再現不可能な組み合わせにものすごくロマンを感じちゃう。
この「80年代音楽解体新書」でいうと、松田聖子の声のピーク、阿久悠が時代とズレてきたこと、若き山下達郎の生意気さ、大村雅朗が無敵だった瞬間、佐野元春に刺激された沢田研二など。
そういった再現不可能な要素が楽曲にどのように影響を及ぼしたのか、みたいなあたりも、たっぷり描写されている。
つまりこの「80年代音楽解体新書」は、音楽を一旦バラバラに解体して、再現性のある科学にした後、それらのいわば誰にでも使えるパーツを天才たちが扱うととんでもない作品が生まれるんだということを、わかりやすく教えてくれる。
そしていかに天才であっても、本人にコントロールできない要素が奇跡的に組み合わさることではじめて、後世に語り継がれる名曲を残すことができたんだということも。
帯でマキタスポーツさんも書いてるとおり、音楽評論はスージー鈴木以前以降で分けられると思う。