森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

「The」から始まるバンドはなぜ多いのか(多い気がするのか)問題

ロックバンドって「The」から始まるバンド名がやたら多い気がする

昔、カセットテープにレタリングシートでアルバム名とアーティスト名を記載していったとき、特定の文字だけが減るのが早かった。

(レタリングシートがわからないという若い人は各自ググってください)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c4/Letraset-boegen.JPG

減るのが早かった特定の文字っていうのは、「T」と「S」。

なぜこの2文字が?って考えたときにひとつの仮説があって、「The ◯◯s」という名前がやたら多いからじゃないかって。

「The ◯◯s」というバンド名を記載するときに必ず「T」と「S」を使うわけで。

 

昔からThe BeatlesThe Rolling StonesThe Beach BoysThe Doors、The Sex PistolsThe Stone Rosesなどなど、挙げればキリがないほどで、「The ◯◯s」というのはバンド名の定番な気がする。

そりゃ「T」と「S」減るわ。

 

 

でも、「The」で始まるバンド名って本当に多いんだろうか。

多いとして、どれぐらい多いんだろうか。

 

という素朴な疑問を、ちゃんと調べて定量化した人がいた!

2006年~2017年のロッキンジャパンフェスの主要ステージ出演者のバンド名をすべてカウントしてる。すばらしい。

 

note.mu

 

 

結論としては、ここ10年のロッキンジャパンフェスに出たバンドのうち、「The」で始まるバンドは、30組。割合でいうと5%しかいなかった。

思ってたよりもだいぶ少ないなと感じる人が多いのではないだろうか。

 

思い込みと実態のこの落差、個人的にめちゃめちゃおもしろかったので、今日はそこらへんの背景を読み解いてみます。

 

なぜロックバンドは「The ◯◯s」を名乗るのか

「The ◯◯s」という名前は、ロックバンドという形態がこの世の中に誕生した直後からあった。

つまり1960年代。

The BeatlesThe Rolling StonesThe Beach BoysThe Kinksあたりですね。

リードボーカル、ギター、ベース、ドラムという4人編成またはギター2人やキーボードも含めたロックバンドの典型的な構成というものが出来上がってきた時期。

 

日本でも60年代なかば頃に「グループサウンズ」という名前でロックバンドが生まれた頃は、ザ・タイガースザ・スパイダース、ザ・テンプターズってな具合に「The ◯◯s」のフォーマットに則ってバンド名がつけられていた。

https://www.rittor-music.co.jp/pickup/images/20171002_pu7.png

 

 

おもしろいのが、「おれたちはそこらの普通のバンドと一緒にされたくないぜ」的な、とんがった思想のバンドであっても、60年代にはお行儀よく「The ◯◯s」的な名前を名乗っていたということ。

具体的にいうとThe DoorsやThe StoogesとかThe Velvet Undergroundとかのことね。

 

バンド名ってそういうもの、っていう暗黙の前提があったかのよう。

実際あったんでしょうね。

 

バンド名のThe離れ

その後、70年代に入ってロックバンドの音楽性やルックスなどが多様化していくにつれ、「The ◯◯s」じゃないバンド名が増えていく。

Led ZeppelinQueenKing CrimsonGrand Funk Railroad、KISS、サディスティック・ミカ・バンドはっぴいえんど、外道、NEU!KRAFTWERKAC/DCなどなど。

英米日独豪問わず世界中で、いろんな自由な発想でバンド名がつけられるようになり、The離れが進んでいく。

 

Theじゃなくてもいいんだ!っていう気分。

それは、「このバンドは古い価値観に縛られず新しいことをやりそう!」っていうイメージを身にまとうにあたって有効だったに違いない。

 

30代以上の人にはわかってもらえると思うんだけど、野球チームの名前といえば「タイガース」「ライオンズ」「ドラゴンズ」的な、動物の名前の複数形でつけるもんだと思っていたところに、いきなり「ブルーウェーブ」が登場したときの驚きね。

あのイチローの新人類感と「ブルーウェーブ」っていうチーム名は不可分だと思う。

https://i.daily.jp/mlb/2016/08/08/Images/d_09366621.jpg

 

というわけで、バンド名のThe離れは80年代以降も基本的に続いていた。

むしろ、ここまできたらあえて「The」を名乗ることに意味が生じるぐらいの話になってると思う。

 

祝日に日の丸を飾る人

そう。どんなバンド名(「!!!」っていうバンドもいるぐらい)もアリなこの世の中で、

いまや「The」を名乗ることには意味が生じてる。

60年代のバンドがみんなそうしていたように「The」を名乗るというのは、それらのバンドのようにありたいんですウチは、っていう意思表示が含まれてるわけ。

 

典型的なのはヒロトマーシーで、「The Blue Hearts」「THE HIGH-LOWS」「ザ・クロマニヨンズ」と、徹底して「The ◯◯s」にこだわってる。

海外でも、The StrokesだったりThe HivesだったりThe White Stripesだったり、21世紀に「The」を名乗るバンドはみんな、あの時代の空気感を身にまといたがってる感じ。

 

この「あえて」感は、祝日に日の丸を飾る家みたい。

ロックバンドたるものそうすべき!と主張したいとか、うちは伝統的なロックンロールのバンドですと表明する役割がある。

 

実家ぐらしでおじいちゃんの習慣を引き継いだとかならまだしも、自分が世帯主の家で、祝日に日の丸を掲げるという行為、2018年の社会ではかなりメッセージ性が強いと思う。

 

しかしおそらく、80年前であればむしろ日の丸を掲げてない家のほうが少なかったのではないか。祝日とはそうするもんでしょっていう暗黙の空気があったはず。

 

旗日(はたび)とは - 旗日の読み方・日本語表現辞典 Weblio辞書

↑こんな言葉もいまや死語なわけで。

 

バンド名をつけてみよう

自分たちでバンドを組んだらまずはバンド名をつけなければいけない。

高校の軽音部でも凄腕ミュージシャンの集まりでもそこはみんな同じ。

 

で、いざバンド名をつける段階になるとですね、たいがいなかなか決まらない。どんなバンドにしたいかという思いがどうしても乗るので、そもそもそこが認識があってないと決められないしな。

どんなバンドにしたいかの認識が揃ってたとしても、そのことを反映させたバンド名にするかどうかでまた一悶着。

たとえばメタルをやるバンドの名前がデスなんとかとかメタルなんとかでいいのか。そのまんまやろって意見が絶対メンバーから出る。

かといって、ひねりすぎるとそれはそれで中二ってか高二っぽくてあとあと恥ずかしい。

バンド名なんてなんでもいいんだよっていう立場は結局、思想がないという思想性を帯びてしまう。

 

バンド名は難しい。

今までの人生で何度かバンド名をつけてきたけど、 すんなり決まったためしがない。

初ライブの直前まで決まっていないことなんてザラで、下手するとバンド名で揉めて解散しかけたことすらある。

 

むりやりにでも決めたとしても、自分以外の誰かの意見で決まった場合、自分で違和感なく名乗れるようになるまで半年ぐらいかかったり。

 

かつて「The ◯◯s」はめちゃめちゃ便利だった

そんな経験から言えるのは、名前なんてなんでもいいんだよって一見そういう態度をにおわせつつも、どんな音がしそうかちゃんとイメージさせられるのが、いいバンド名だと思う。

(長く活動してるとバンド名の由来を何百回と聞かれるので、後悔しないようにだけ気をつけて)

 

それでいうと、「The ◯◯s」ってのはほんと便利なんすよ。

「The ◯◯s」って名乗ってるだけで、古き良きブリティッシュな香りが勝手に漂ってくれる。◯◯の部分はなんでもいい。そこにセンスを見せればいいの。無造作にポンって言葉を置けば、いい感じのバンド名のできあがり。

 

という価値観が、20世紀の終わり頃から21世紀の初め頃までは通用していた。

その時期はたぶん今よりも「The ◯◯s」が多かったと思う。

 

しかし、おそらく「The ◯◯s」がもつ便利な感じは、年々薄れてる気がする。

かつてはそういう効力があったことを知らずになんとなく「The ◯◯s」を名乗ってる子らも結構いるのかもしれないけど、基本的にはルーツ志向な気持ちがないと「The ◯◯s」は名乗らないわけで。

 

で、よく言われるように今どきの若いもんはルーツを掘り下げて聴くということをあまりしないらしい。

SpotifyやAppleMusicの登場で今後は変わってくるかもしれないけど、21世紀になったぐらいからは、好きなアーティストのルーツを掘り下げたいという若い人は少なくなっている。実際に「音楽好きっス」ていう人たちに聞いた実感で。

 

リスナーもアーティストもルーツを掘り下げないとなると、「The ◯◯s」の効力は半減するよな。

 

実際、前述の「The」で始まるロッキンジャパンフェスに出た30組のバンドをよく見てみると、theピーズやTHE PRIVATES、the brilliant greenTHE YELLOW MONKEYなどのベテラン勢や、THE STARBEMS、The Birthdayのようにバンドとしては新しいけどやってる人がベテランというバンドがかなり含まれている。つまり「The ◯◯s」の魔法が有効だった時代から活動しているミュージシャンたちね。

 

https://ro69-bucket.s3.amazonaws.com/uploads/text_image/image/244740/width:750/resize_image.jpg

 

となると新しい世代のバンドが「The ◯◯s」を名乗る割合は、5%よりももっと低そう。

 

イメージと実態のギャップはどこから

そういったわけで、ここ10年の日本のバンドからは「The」が失われている。「The ◯◯s」の魔法が効かなくなってきているから。

それが実態。

 

なんだけど、20世紀のイメージで「The ◯◯s」が多いような印象をみんなまだ持ってる。

そこがギャップを生んでいるのではないでしょうか。

 

ただ、今後なにかの拍子に「The ◯◯s」がまた増えてくる可能性は十分にある。

日の丸を掲げる家が増えるかもしれないのと同じで、「うちはそういう家です」と表明したいとかそう表明したほうが得だぞとか考える人が増えるかどうか、時代の空気次第でどうなるかわからんよね。

引き続き、10年ぐらいのスパンで眺めるとおもしろいと思う。

 

 

そういえば、 バンド名から途中で「The」を外すひとたちもいて、これはこれで味わい深い動きだと思う。

若い頃に勢いでつけた「The」に、いい年して違和感を覚えたりとかしたのかな。「The」のせいで幅が限られてるような息苦しさを感じたりしたのかな。

 

逆に、いい年だからこそ「The」っていいよなーって改めて気づくこともありそう。

 

ビートルズを好きになるのって、最初はキャッチーな初期から入って途中でサイケ期の中毒性に気づいたりいろんな方向に深まっていって音楽性の高い後期にハマっていく流れをたどる人が多いと思うけど、それが一周して、初期の赤盤のシンプルなロックンロールが愛おしくてたまらないって気持ちになるときがくる。

いい年して「The」をつけたくなるのはたぶんそういうとき。

 

 

ちなみに、「ジ・アルフィー」はデビュー当時「The」がついてなくて、デビューから数年たった後、この曲をリリースしたタイミングで「The」をつけてます。


THE ALFEE SWEAT & TEARS P 1986

 

たしかに「The」を名乗りたくなる曲ですね(しらんけど)。

 

BARBEE BOYSのスゴさ、知ってるつもり?

BARBEE BOYSバービーボーイズ)を知っていますか。

natalie.mu

30年前に東京ドームで単独公演をやったほど売れてたんだけど、驚くほど後の世に影響を与えていない気がする。

同時代のBOOWYとかブルーハーツとかが山ほどフォロワーを生んだのと比べると、BARBEE BOYSに憧れて音楽の道に進みましたってミュージシャンとか聞いたことないし、BARBEE BOYSの楽曲にインスパイアされた映画とか小説とかマンガとかも見たことない(あったらごめん)。

 

売れたのは売れたがあくまで流行歌として売れただけであって、音楽性が薄っぺらいから忘れ去られたんじゃないか、というパターンはよくあるけど、BARBEE BOYSに関しては違うと思う。まったくあたらないとおもいますよ(スガ官房長官ふうに)。

 

逆に、やってることがオリジナリティの塊すぎて、誰もマネできなかったんじゃなかろうかと。

だいたい男女がほぼ同じ比率でかけあいでリードボーカルをとるバンドってなると、日本はおろか世界的にもあまりなさそう。

 

BOOWYとかブルーハーツには、実際のスゴさとは別に、自分たちにもできるかも!って思わせる感じがあったしカリスマだけど身近な感じがあったけど、BARBEE BOYSは中高生のバンドマンの憧れをかきたてるものが皆無だったよね。

 

それに、日本のロックを語る文脈といえば、当時なんて特にロッキング・オン的な語り口が幅を利かせていたわけで、そうなると自分語りで内省的な人たちのほうが乗っかりやすい。

享楽的な男女の駆け引きの歌、騙し騙されな世界ばかり歌っていたBARBEE BOYSは、ちょっとそういう文脈では扱ってもらいづらい。また解散後も語り継がれるような伝説とかもないし、まあ文字になりづらいバンドってことだわな。

 

おそらく当時のBARBEE BOYSのメインの客層も、ブルーハーツを正座して聴くようなまじめで青臭い層ではなかったであろう。もっと大人だったはず。

で大人な分、音楽に対して過剰な思い入れもなく淡々としていたんじゃなかろうか。なので解散後はわりとあっさりBARBEE BOYSのことを忘れた。

そういうファン層はいつまでも終わったバンドをネチネチ語るタイプじゃないため、後世に語り継ぐこともしない。

 

フォロワーがいない、語られる言葉もない、語り継ぐ人もいない、となるとなかなか後世には残りづらいってのも仕方がないかなと。

 

でもですね、BARBEE BOYSはほんとにいいバンドなのです。
いろいろあるけど、特に強調したいのがギタリストいまみちともたかのスゴさ。

 


80年代と90年代のギターの役割の変化

90年代のロックバンドのギタリストって、歪ませた音色でジャカジャカいくスタイルが一般的だと思う。ギターは楽曲の音像のなかでベターッと空間を埋めていく、厚みをだす役割。日本だと奥田民生、 海外だとオアシスとかがわかりやすい例。

 

一方、80年代のギターは歪んでないクリーンな音色で、打楽器っぽく機能していることが多い。 サザンでもボウイでもいいけど、 80年代のロックバンドの音像って、ギターがどこで鳴ってるか一瞬わからなかったりする。

BARBEE BOYSいまみちともたかも典型的にこちらのスタイルのギタリスト。

そういう意味で、わかりやすいギターヒーロー的な人ではないんだけど、あの布袋寅泰がライバル視していたというほどの凄腕なのです。演奏のキレ、そして独創的なフレーズ。


そのスゴさはパッと聴きでは伝わりづらいんだけど、ギターのフレーズに耳をそばだててみると、 かなり異様なことをしていることに気づくであろう。

 

具体的に聴いてみましょう


BARBEE BOYS 目を閉じておいでよ


たとえばいちばん有名なこの曲とかどうですか。

 

印象的なイントロのフレーズ、右耳と左耳でほぼ同じフレーズを別のテイクで弾いてる。さらにコードの変わり目ごとにジャーンって音も入ってる。

Aメロになると、真ん中左寄りで8分音符を刻む音、右端でツチャッ、チャーララってフレーズ。「激しいときを夢見てたい夜」のところで突然もう一本入ってくるよね。

Bメロは一旦オルガンに主導権を渡しつつ、サビ直前でまた新しい音色のギターが登場。

でサビ。ここでも右耳と左耳からそれぞれ別のギターが聴こえてくる。「close your eyes」のところでまたトリッキーな別の音色が登場するという具合。

 

とにかくものすごく細かくて手のこんだ仕事だってことがわかってもらえると思います。この曲に限らず、BARBEE BOYSにおいては万事がこの調子である。

一聴しただけではシンプルで隙間の多い編曲に感じるんだけど、個々の楽器のパートに注目してみると、特にギターがいろんなことやってることに気づく。

 

自分ももともと中学生の頃に何気なく聴いていたのを、自分が楽器やるようになってから聴き直したらなんじゃこりゃーってなった。その感動をみんなに届けたくて、今回これを書きました。

とにかくBARBEE BOYSはすげーいいから聴いてほしい。

 

歌詞の性格の悪さやキャッチーかつヒステリックなメロディもたまらないし、アルバムを追うごとにKONTAと杏子という2人のボーカリストのクセの強さが仕上がっていくさまも味わいどころ。

 

BARBEE BOYSのそういう良さはすでに知ってるよナメんなという方には、ギターに注目して聴き直すことをオススメします。また印象が違ってくると思う。

 

 

 

最後に東京事変によるBARBEE BOYSのカバーを貼っとく。 


東京事変カモンレッツゴー浮雲&椎名林檎

 

「NHKのど自慢」の民藝J-POPにみる「用の美」

日本では日曜日の昼は「NHKのど自慢」ということになっている。

実家で親とそうめんをたぐっているときなぞはなおさら。

 

今日もどこか四国の山あいの街だったり東北の漁師町だったり、あるいは隣の県なのに存在を知らなかった地味な市だったり、日本のどこかから生中継されている。

 

予選を勝ち抜いた出場者たちは、若干緊張しながら自慢ののどを披露する。

公立高校の数学教師(40代独身)の尾崎豊

女手ひとつで子ども2人を育て上げたおかあさんの天童よしみ

おそろいのオーバーオールに身を包んだ選果場の小太りPUFFY

90歳の長老が歌うバタやんはバックバンドの演奏を1小節追い越す。

信用金庫の新卒社員は自分が生まれる前の曲をどこで覚えさせられたのか。

 

もうずっと前から、時間が止まったように同じ風景が毎週繰り広がられてる。

地方都市のリアルな息遣いを感じるにはうってつけの番組なのです。

 

役割を果たしているうた

1コーラス前後歌ったところで鐘が鳴り、終了。

そこからは司会のNHKアナウンサーが出場者に「今日はなぜこの曲を?」「誰に届けたいですか?」といった質問を投げる。

 

「入院しているおばあちゃんを勇気づけたくて」

「銀婚式を挙げた妻との思い出の曲で」

「受験勉強しているときにこの歌に勇気をもらいました」

などなどそれぞれに思いを語る、この番組ではおなじみの場面なんだけど、先日あらためてこのことをちゃんと考えてみようと思った。

 

出場者たちにとって、それらの楽曲は生活の中で役に立っているんだなって。

いや、当たり前といえば当たり前のことかもしれないけど、自分自身、もうずっと長いことそういう音楽の聴き方をしてないなって思ったわけ。

 

自分が好きで聴く音楽とその理由なんて、クンビアのいなたいビートが中毒性あるんだよな、とか、アイドルがサイケとニューウェーブを昇華してヤバいことになってる、とか、1986年頃のハードコアパンクとメタルの接点がアツい、とかそんなの。

 

たとえばのど自慢で「風をあつめて」を歌ったあとに、なんで今日はこの歌を?って聞かれて、「日本語でロックをやるというイノベーション精神に感銘をうけ、また失われつつある古き良き東京を「風街」という架空の都市になぞらえた松本隆の詩情にやられたからです!」なんて答える奴いるかよって。

もうちょっとありそうな選曲でいえば「渚にまつわるエトセトラ」を歌った介護系専門学校の同級生コンビがさ、「ちょいダサのフィリー・ソウルっぽいトラックに井上陽水のナンセンスぎりぎりの天才的な歌詞が乗ってるところが大好きだからです!」なんて言うだろうか。「クラスのみんなでカラオケに行くといつもこの曲でめっちゃ盛り上がるから!」が正解。

 

のど自慢という場所では、ちゃんと生活の中で役割を果たしてこその音楽ってこと。

音楽のための音楽ではなく、機能美。

つまりこれはあれだ、民藝ってやつだと思った。

 

民藝(みんげい)とは

「民藝(みんげい)」という概念がある。

大正時代の日本で提唱された、装飾的なアーティスティックな工芸品ではなく、ふつうの人が生活の中で使ったものに宿る「用の美」を見出す運動。

 

民藝品とは「一般の民衆が日々の生活に必要とする品」という意味で、いいかえれば「民衆の、民衆による、民衆のための工芸」とでもいえよう。

» 「民藝」の趣旨―手仕事への愛情

 

今では「民芸調家具」みたいなかたちで一般的に定着してる言葉だけど、もともとは結構ラディカルな、「ふつうが一番ヤバい」的ないわゆる「ノームコア」みたいな言葉だった。

 

そう。「NHKのど自慢」で歌われるうたは、民藝なのではないか!

(大学の先輩にこの分野の専門家がいるので内心ビクビクしながら断言)

 

やれ、サウスっぽい重いビートに三連符で言葉を詰め込んでいく現在形のヒップホップだの、情報量過多のメロディが生み出すヤケクソの躁状態現代日本の生きづらさをうきぼりにするだの、そういう言葉とは関係ないところで存在し、日常生活で役割を果たしている「用の美」。

 

そして民藝とは、有名な大作家先生の作品ではなく、名もなき職人が作った工芸品のことだそう。

2018年にもなって、いまだにのど自慢で「未来へ」「涙そうそう」を歌う地方の女子高生にとって、もはやキロロや夏川りみは名もなき職人と同じような存在でしょう。やっぱり民藝。

 

NHKのど自慢」でよく歌われるランキング

ここ10年間の「NHKのど自慢」で歌われた歌を集計している人がいた。 

 

100per22.com

1位:未来へ / Kiroro(歌われた回数:51回)

2位:ありがとう…感謝 / 小金沢昇司(歌われた回数:50回)

3位:涙そうそう / 夏川りみ(歌われた回数:49回)

4位:WINDING ROAD / 絢香×コブクロ(歌われた回数:48回)

5位:home / 木山裕策(歌われた回数:41回)

6位:TOMORROW / 岡本真夜(歌われた回数:41回)

7位:まつり / 北島三郎(歌われた回数:40回)

8位:恋のバカンス / ザ・ピーナッツ(歌われた回数:40回)

9位:Story / AI(歌われた回数:39回)

10位:最後の雨 / 中西保志(歌われた回数:38回)

 

とりあえずベスト10を引用させていただいたんだけど、どうですかこれ。

ちょっとすごくないですか。

 

オリコンチャートや歌番組、ましてやフェスのラインナップなんかとも絶対に連携してこない、この番組独特の、民藝J-POPの定番たち。

 

 

東京に住んでて音楽やっててとか、そうでなくても比較的若い業界で仕事してたりすると、「おれもおじさんと言われる年齢になったけどまわりで演歌を聴いてる人に出会う機会なんてないなー」とか「自分のまわりでEXILEを好きっていう人に一人も会ったことがないから本当に売れていることが信じられない」といった声をよく聞く。

信頼できる筋からの口コミとか、SNSから流れてくるニュースとか、フェスで出くわしたとか、そういうソースで新しい音楽を日々発見するような刺激的な音楽生活をしていると、そんな感覚になっても不思議はない。

 

だけど、「NHKのど自慢」が巡業してくる地方都市には、そんな音楽生活は存在しない。そして東京にいると忘れがちだけど、「NHKのど自慢」が巡業してくる地方都市が日本の9割なわけ。

民藝J-POPというサイレントマジョリティ、ちゃんと意識しておきたい。

 

キロロが1位になった理由を考えることはとても大事だし、この先10年でランキング上位がどう変わっていくのか、または驚くほど変わらないのかも気にしていきたい。

フジロックはアメトーークじゃない

今年も土曜日の1日だけフジロックに行ってきた。

http://www.fujirockfestival.com/assets/img/logo.png

 

フジロックはいつのまにか20年も続いてる。つまりあれから20年も年とったのか。

実は1997年の伝説になった第一回から、毎年欠かさず参加しているんだけど、つまり成人してからの夏はずっとフジロックとともにあるんだな。われながらすごいと思う。

 

最初は西宮から何台かの車に乗って乗り込んだ大学生だった。若さゆえ車中泊もやった。

何年かして東京に移住し、大勢で宿のワンフロアに雑魚寝したこともあった。

バンドマン界隈の仲間が出演することになって、嫉妬と祝福が混ざりあった複雑な気持ちでステージを見たこともあった。

そして今、妻に子供の面倒を押し付けて後ろめたい感じで3日中1日ぐらい参加するようになった。

20年も通っているといろいろある。

 

 

本当にいま2018年か

数日前から台風12号が関東に上陸して西に進むという予報が出ており、中止にならなければいいやというレベルに雨風には覚悟を決め、ゴアテックスの上下に野鳥の会の長靴という、フェスの鉄板装備に身を包んで出発。

そしたら関越道を北上するにつれ雨はおさまり、会場に着いたら薄曇りで時おり太陽も顔を出す天気だった。つまりフジロックにおけるベストコンディションということ。

何なら昼下がりには完全に晴れてきて、ちょっと暑いからパラっと雨こねーかなとか思うほどだった。

 

https://www.instagram.com/p/BlwqLcKgakd/

今年も帰ってまいりましたー薄曇りという最強のコンディション!#fujirock

 

フジロックは毎年7月の最終金土日に開催されているわけだけど、3日間のうち土曜に行こうと思ったのは、民謡クルセイダーズが出るから。

「炭坑節」などの民謡をラテンのリズムで演奏するっていう日本のバンドで、去年リリースされたアルバムがめちゃくちゃ良かったので、いつかライブを見たい見たいと思っていたのです。

エコーズ・オブ・ジャパン

エコーズ・オブ・ジャパン

 

 

しかし民謡クルセイダーズの出番は真夜中のクリスタルパレス

それまでは体力を温存しつつ会場の雰囲気を味わいながらぶらぶらという作戦でのぞむ。

 

カラッと晴れたり、曇って涼しかったり、激しめの雨が通り過ぎたり、空がいろんな表情を見せるなか、マキシマムザホルモンとかジョニー・マーとかユニコーンとかフィッシュボーンとかをのんびり見た。

いずれもおなじみのベテラン勢。そしてみんな往年の懐かしい曲をやってくれる。「恋のメガラバ」「ペケペケ」「ma and pa」「How Soon Is Now?」などなど。なんだか今が2018年だというのが信じられない時空の歪みを感じながら、うれしさの反面、フジロックはこれでいいのか複雑な気持ちになった。

 

苗場の高齢化問題 

フジロッカーが高齢化してきていると言われている。

毎年会場を見ていると、たしかにそうだねって思う。

 

現在40代前半の、自分のような第一世代と、その下の現在30代後半の世代がフジロッカーのど真ん中なように見える。団塊ジュニアの最後の方にかぶるので、日本の人口に占めるシェアは比較的大きい。

なので世代を狙い撃ちした企画では狙われやすい。たとえば「アメトーーク」の「◯◯芸人」なんて、自分たち世代が中高生のときに通ってきたものばかり。出てる芸人さんが同世代なこともあるけど、やっぱ数字が見込めるっていう判断はあるだろう。

最初は無邪気に男塾とかガンダムとかのあるあるネタを懐かしんでいたんだけど、さすがにちょっと怖くなってきて。

これ20代の人とか楽しめてるのかな、いや彼らはもうテレビ観てないのかな、むしろテレビ局も開きなって団塊ジュニアの芸人と団塊ジュニアの視聴者の共依存でやっていくことに腹くくったのかなって。

もしそうなんだとしたら、自分たちの世代はこの先ずっとテレビが相手してくれるのでさびしくないかもだけど、自分たちが閉じた輪の中でニコニコやってるうちに時代に取り残されてくんじゃないかって。

 

フジロックにも同じ怖さをじわじわと感じていて。

 

ここ10年のメインステージのヘッドライナーを務めたアーティストを列挙してみたら伝わるだろうか。

2008年〜2017年の10年間の3日間のヘッドライナーをデビューした年代ごとに並べてみた。

 

1970年代

ロキシー・ミュージック

フェイセズ

ザ・キュアー

 

1980年代

レッド・ホット・チリ・ペッパーズ

プライマル・スクリーム

 マイ・ブラッディ・バレンタイン

アンダーワールド

ストーン・ローゼズ

 

1990年代

レディオヘッド

コールドプレイ

ケミカル・ブラザーズ

オアシス(&ノエル・ギャラガー×2)

ウィーザー

ミューズ(×2)

マッシヴ・アタック

ナイン・インチ・ネイルズ

ビョーク(×2)

フー・ファイターズ

シガー・ロス

ベック

ゴリラズ

エイフェックス・ツイン

 

2000年代

フランツ・フェルディナンド(×2)

アーケイド・ファイア

ジャック・ジョンソン

 

 

いやー、思っていた以上に高齢者向け。

10年×3日=30の枠があるうち、2000年代デビュー組はわずか1割!

残りの9割が、出演した時点で最低でも10年以上、平均して20年以上のキャリアがあるベテランという。

もちろん、それなりに実績がないと数万人集めるヘッドライナーなんてなれないし実績を積むまでに10年ぐらいかかるのもわかる。

けど、それにしても。

 

たとえばもし1990年にフジロックがあったら、ヘッドライナーはニュー・オーダーモリッシービースティ・ボーイズとかだったかも。いずれも90年の時点ではちょうどデビューから10年ぐらいでしょう。

もし1995年にフジロックがあったら、ヘッドライナーはストーン・ローゼズ、オアシス、ベックあたりか。いずれもオアシスやベックなんてまだアルバム1枚とかの頃!

 

そう考えると、近年のヘッドライナーの高齢化はエグいじゃないですか。

 

 

 ロックはオワコンか

 

ロックという音楽ジャンルや生き方のスタイルみたいなものは、この半世紀の間にもう何度も死んだと言われ終わったと言われてきた。

ウッドストックの頃は良かったけどそれ以降はアートじゃなくなったって70代の人は言い、パンクの頃は良かったけどそれ以降はビジネスになったって50代の人は言い、フジロックの初期は良かったけど今じゃ年寄りばかりだと40代の自分が嘆いてる。

それにしてもだ。

 

今までは、ロックの中の主流だったスタイルが陳腐化し、カウンターとして新しいスタイルが勃興してくるっていうかたちで、ロック全体の勢いは保たれてきた。

その後メインストリームになったスタイルは「ニューウェーブ」とか「オルタナティブ」とかいう名前からもわかる通り、最初は挑戦者の立場で登場したわけ。で挑戦者がいつしか次のメインストリームになり、いつしか陳腐化し、また新しい挑戦を受けるという。1990年代まではそういう新陳代謝があった。

しかし、よく考えたら1990年ぐらいからずっと「オルタナティブ」の時代が続いてるような気がする。「オルタナティブ」な音作り、世界観、たたずまいといったものはいまだに陳腐化しきっていないんじゃないか。

今の若い人にはピンとこないかもしれないけど、かつては、10年前の音楽がめちゃめちゃダサく感じられたんです。それに比べると、オルタナティブは登場から四半世紀たってもいまだに通用しちゃってる。

 

そうやってずるずるやってるうちに、ロックバンドという大枠そのものがオワコンになっていってるのかもしれない。

エレキギターエレキベースとドラム、そしてヴォーカル。メンバーは英米の白人男性。っていう基本フォーマットのロックバンドというものが、今度こそ本格的に枯れてきたんじゃないかって思う。

 

原因はいろいろあるだろうけど、まずバンドやろうぜって言ってる中高生の人数が世界的に激減してきてるのかもしれない。彼らには、近い世代で憧れの対象になるバンドはいない。フェスに出てるのは自分が生まれる前に活動してたベテランばかりだし、憧れようがない。

バンドやろうぜ勢は将来のヘッドライナー候補であると同時に、ロック音楽にお金を落とす消費者・リスナーでもある。なので、両方の意味でバンドやろうぜ勢が減るのはダメージになる。

かつて、スポーツが得意じゃない、お金持ちでもない、顔がいいわけでもないっていう男子がモテたいと思ったら、手っとり早くバンドをやったものだった。たぶん今はもうそうじゃなくなってる。そういう若者はシリコンバレーハッカソンに出たり駅前でサイファーしたりしてるんだと思う。

 

高齢化に抵抗するフジロック

そんなこんなで、世界規模で困ったことになっているロック音楽。

フジロックフェスティバルは「ロック」を掲げている以上、この問題の影響をもろに受けてしまう。

 

アメトーーク」と同じように、団塊ジュニアがニヤニヤするあるあるネタを投下し続けて、演者と観客が閉じた輪の中で仲良く年をとっていくのもひとつの戦略だろう。というか、ビジネスの観点からいえば、確実に一定のかたまりが存在することがわかっている安全なやりかたなので、それが王道なのかもしれない。

基本その路線でいきつつ、たまにおじさんにも届くような若手が登場したら、積極的に登用すればいい。Suchmosとかね。

 

 

しかし、今年のフジロックはそれをしなかった。

金曜日のヘッドライナーは、ファレル・ウィリアムスが参加する黒人グループであるN.E.R.D。

土曜日のヘッドライナーは、ピューリッツァー賞まで受賞した現代最重要ラッパーのケンドリック・ラマー。

日曜日のヘッドライナーは、言わずとしれたノーベル文学賞ボブ・ディラン

 

そう。

団塊ジュニアがもっとも反応するいわゆる90年代の「オルタナティブ」なし。

っていうかロックバンドなし。

そして3日のうち2日が黒人。

 

過去に例のない、攻めたラインナップだった。

もしかしたら、いわゆる「ロック」というものに囚われてる人にとっては、こんなのフジロックじゃない!って感じられたかもしれない。

 

 

でも、フジロックはそういう決断をしたんでしょう。

ヘッドライナーじゃないけど、ケンドリック・ラマーも一押ししたというアンダーソン・パークも出たし。

自分たちのようなフジロッカーど真ん中のところから少し幅を広げた属性のお客を呼び込もうという狙いもあるだろうし、それより何よりも、英米の白人ロックバンドというフォーマットが枯れてきたことを考慮したような気がする。

 

アメトーーク」が薄ら怖くなってきた自分にとっては、フジロックにはそうなってほしくない気持ちが強い。なので、この傾向は大歓迎。

どの方向から出てくるかはわからないけど、いわゆる「オルタナティブ」からの遅すぎた世代交代に期待してる。

 

 

 あと配信のこと

今年はソフトバンクがスポンサーになって、Youtubeで3日間の主なステージを生中継(後追い可、再放送あり)してくれた。

なかなか行けないって人がありがたがって観てるツイートをよく見かけたし、自分も金曜と日曜は大いに楽しんだ。

 

これまでフジロックにはいろんなスポンサーがついてきた。

その中にはBSやCSの放送局もあった。それらの企業は、有料チャンネルで後日フジロックの様子を放送することで、加入者を増やしたいという思惑があってスポンサーになった。しかも放送されるのは3日間の全ステージを数時間分にダイジェストしたもの。

 

それに比べて今回は、無料!生!ライブ全部!っていうんだからすごい。

ソフトバンクにとっては、フジロックそのものでお金を稼ごうとはしておらず、ブランディングが目的なのであろう。

ブランディング目的というのはつまり、在宅フジロッカーたちのソフトバンクへのイメージが良くなることを目指しているというわけ。

 

なので、このありがたい取り組みが来年もあるかどうかは、実際にアンケートなり調査を行って、企業イメージが良くなっているかどうかにかかっているはず。

巨額のコストをかけてでも無料配信する価値あるかどうか。

 

もしかしたらみなさんがそのアンケートの対象になるかもしれない。

もしそういう機会があったら全力で「イメージ爆上がりッス!!!孫さん最高!」と答えるように。よろしくたのみます。

 

あと、無料で配信されるんだったら、合計10万ぐらいかけて現地に行って雨に振られながら見るのがアホらしいわって考える人がどれぐらい出てくるか。

まあ多少はいるかもしれないが、自分に限っていうと、あーちくしょー!こんな感じなら多少無理してでも行けばよかった!と後悔めっちゃした。少なくとも4回、N.E.R.D、cero、アンダーソン・パーク、ダーティープロジェクターで思った。

無料配信があったことで、むしろ来年の行きたさが増した。

 

 

ということで

フジロックみんな行きましょう。

ロックが枯れたとしても、おもしろい音楽はまだまだどんどん出てくる。

日頃チェックしていなくても、フジロックが発掘してくれる。

今年のラインナップからそういうメッセージを受け取ったわ。

 

そして在宅でいいやって思った人へ。

現地は配信の100倍過酷やけど200倍楽しいです。

 

そして。

台風の暴風にやられながら25時までねばって観た民謡クルセイダーズは最高だった。

 

https://www.instagram.com/p/BlyRg47g3w2/

今日いろいろ見たけどダントツでよかったのが #民謡クルセイダーズ 。暴風雨のなか深夜までねばった甲斐あった。来年あたりヘブンに進出しそう。 #fujirock

「め組のひと」だけじゃない倖田來未の解放戦線(妄想企画会議シリーズ)

倖田來未の「め組のひと」カバーが話題ですね。

 


中国発の「Tik Tok」という動画SNSで、この曲にあわせて踊るのが10代の女子のあいだで流行っているとか。

www.youtube.com

 

「め組のひと」の原曲は1983年だし、倖田來未のカバーも2010年リリースだし、このタイミングでなぜ急に取り上げられたのか、倖田來未本人も驚いてるみたい。もちろん鈴木雅之田代まさしも驚いてるであろう。

 

でもよく考えたらこの曲はそもそも資生堂のCMソングとしてつくられたもの。

なのでもともと若い女性にベクトルが向いた曲だったため、顔を黒塗りした大田区大森の不良グループが今から35年前に歌った曲だとしても、時空を超えて若い女性に届いたのは不思議ではない。

ただただ、この曲をつくった売野雅勇井上大輔という80年代の歌謡曲の「らしさ」を代表するようなコンビ(郷ひろみ2億4千万の瞳」も!)に、あらためて畏れ入る次第。

 

ラッツ&スターの原曲はキャッチーなメロディや歌詞もさることながら、ビートのキレがすごいので、DJやるときには重宝したもんだった)

 

 

Tik Tokとヒップホップ 

Tik Tokの「め組のひと」はみんな曲のテンポをかなりあげて踊っており、原曲にないニュアンスが生じている。

 

DJが曲のつなぎを重視するあまりオリジナルよりかなりBPMを早くした状態でプレイしたところ、偶然にも原曲にない新鮮な聴こえ方になったという、あの感じ。レコードだと特にBPMがあがるとピッチもかん高くなり、3歳児が本能でゲラゲラ笑っちゃうようなおかしみが生まれ、それでいて原曲の歌詞とか意味は残っている状態。

そういうふうにしたほうがよりいい感じの動画に仕上がるっていうことを、DJでもない10代の女子たちが偶然にたどり着いたわけでしょう。

 

つまり、彼女たちがTik Tokというあたらしいおもちゃの遊び方をいろいろ試行錯誤した結果、倖田來未の「め組のひと」をBPMあげたやつがいいっしょ!にたどり着いたという話には、1970年代ニューヨークの黒人たちのあいだでヒップホップが生まれていった話と同じワクワク感がある。

 

 

そしてBPMを上げることでうまれるおかしみは、ネタになる歌や歌手がリスペクトといじられの両方を引き受けてるタイプだとより効果を発揮する気がする。絶妙なダサさと強さ。いまの10代女子にとって、倖田來未がちょうどそういう位置にあったのではなかろうか。

もし「め組のひと」を他の人がカバーしていたら、Tik Tokでここまで流行ることはなかったはず。

 

倖田來未のカバーはなぜ話題になりやすいのか

そう。今回の現象で外せないのが、倖田來未というひとの存在感。

思い起こせばこの人が最初に注目されたのは「キューティーハニー」だったし、2013年には小沢健二「ラブリー」やhide「ピンクスパイダー」をカバーしたことでちょっとした炎上騒ぎになってもいて、良くも悪くもなにかとカバー曲がらみで話題になっている。

 

しかし、他にもカバー曲やカバーアルバムをリリースしている人はたくさんいるが、なぜ倖田來未だけが話題になるのか。

またしてもここからは完全なる妄想なんだけど、倖田來未というひとは、楽曲を文脈から解放する戦いをやっているんじゃないだろうか。

 

 

たとえば「ピンクスパイダー」という、亡きhideの思い出とともにファンが大事に大事にしている曲。それを、「エロかっこいい」が売りの倖田來未という歌手がカバーする。普通に考えて、hideファンの神経を逆なですることは火を見るより明らか。

倖田來未ぐらいの人であれば、自分のパブリックイメージは完全に把握しているだろうし、そんなイメージの自分があえて火中の栗を拾いにいくのは、完全に確信犯だと思う。

 

スタッフ「いや…たしかにピンクスパイダーはいい曲だし倖田さんの声質にも合ってるとは思います。しかし…なんていうかその、あまりにもhideさんのイメージが強くてですね…」

倖田來未「まあそうですよね。hideさんの熱烈なファンはいまもたくさんいらっしゃるし、批判されるとは思います。その気持ちはよくわかります」

スタッフ「じゃあわざわざそんなリスクを負ってまでこの曲にしなくても、カバーアルバムには他にもいろいろ候補曲もありますし…」

倖田來未「でもやるんです。批判をおそれていては、今後もう誰もこの曲を触れないようになるんじゃないですか?一部のファンだけがずっと大事にし続けることが、この曲にとって本当にええことやと思います?批判をうけてでも、誰かがファンからこの曲を取り上げる必要があると思うんです。わたしや他の歌手が歌い継ぐことで、この曲は永遠に残っていくんちゃうかなって」

スタッフ「倖田さんがそこまで考えてたとは…」

倖田來未「『倖田來未』っていうイレモノは、何でも入る間口の広さだけには自信があるんです。何を入れても壊れません。いまさら批判もこわくないし、叩かれてでもいろんな名曲を世の中に取り戻す、それが『倖田來未』の役割なのかなって」

 

 

楽曲そのものの力と、その楽曲の文脈を切り離すことは実はけっこう難しい。

たとえば、AKB48を毛嫌いする人に「恋するフォーチュンクッキー」の曲そのものの良さは伝わりにくい。

 

そんなふうに、文脈にとらわれたせいで楽曲が本来の飛距離を稼げていない現象はよくある話だけど、倖田來未という人は、そこにものすごくもったいなさを感じる人なのかもしれない。

原曲のファンから批判されまくってでも、そのもったいなさと戦うことを決意したのではないか。なんと気高い決意であろう。

 

 

「ハートに火をつけて」問題

楽曲と文脈を切り離す件で連想するのが、「ハートに火をつけて」という曲。

 

1967年にドアーズがリリースしたこの曲は、その後いろんなタイプの歌手たちに数え切れないほどカバーされており、ちょっとしたスタンダードナンバーになっている。

ちょっと挙げただけでも、スティービー・ワンダーナンシー・シナトラアストラッド・ジルベルト、シャーリー・バッシーなどなど、そうそうたるメンツ。

あと結局は実現しなかったらしいけど、車のCMに使われる話も当時ほぼリアルタイムで進行したとか。

 

しかし、もともとドアーズっていうのは、60年代のアメリカ西海岸サイケデリック・ムーブメントの象徴みたいなバンドなわけで。LSDとかマリファナとかヨガとかヒッピーとかそういう当時の先鋭的な若者文化のど真ん中にいた存在。商業主義やショービジネスといった世界からは距離を置きたいというスタンスであり、さっき挙げたそうそうたる歌手たちとは住んでる世界が全然違う。

 

だけど、「ハートに火をつけて」という曲の強度があまりにもあったため、サイケデリックだなんだっていう特定の時代の特定のカルチャーでしか通じない狭い世界の枠を軽々と飛び越えていった。

 

www.youtube.com

 

もちろん当時のドアーズのファンなんかからすると、シャーリー・バッシーとかのカバーは噴飯ものだったと思うし、車のCMで使うだなんてアートの本質が何もわかっていない上っ面なやり方に感じられたことだろう。

 

でもまあおもしろいもので、それから40年もたつと当時の文脈から適度に距離がとれるからか、シャーリー・バッシーとかのカバーもそれはそれでかっこよく感じる。

 

原曲はもちろん好きだけど、文脈が違うカバーによって変質したことも味わうこともできる。ドアーズっていう、ある意味文脈のかたまりみたいなバンドの曲を、全然畑違いの歌手が歌うことによって、楽曲そのものの素材の力を知ることができっるっていうか、それはそれでおもしろいと思えるようになってる。

 

で、それは倖田來未の「ピンクスパイダー」や「ラブリー」も同じ。

 

倖田來未さんの次なる戦いは

ピンクスパイダー」や「ラブリー」を信者の手から開放し、また1983年の「め組のひと」を2018年の10代女子に伝承した倖田來未

 

これからもややこしそうなファンが多いアーティストの「もったいない」楽曲を解放していってほしい。短期的には信者の気持ちを逆なですることになるとしても、長い目で見ればその曲の寿命を大幅に伸ばすことに貢献しているわけで。

 

ファン心理の逆なでによる摩擦係数が高そうな、そのため他の歌手が手を出しづらいアーティストはまだまだたくさんいる。

 

たとえばこのあたりはどうだろうか。なんとなく実現してもおかしくないし、個人的にはめっちゃ聴いてみたいっす。

 

矢沢永吉…ふつうに「時間よ止まれ」あたりを歌い上げてる姿は容易にイメージできるが、お互いの支持層に親和性ありそでなさそで近親憎悪タイプの炎上あるかも。

ブランキー・ジェット・シティ…文脈のかたまりみたいな存在だけど、ブレイクしてからのシングル群は文脈から切り離してもキャッチー。

ハナレグミ…「一児の母として」みたいな文脈で「家族の風景」に注目する可能性あり。

 

いずれも、想像するだけでファンの悲鳴が聞こえてきそうで、ワクワクしてしまう。

 

倖田來未さんには、これからも名曲解放戦線の闘士としてがんばっていただきたい。

応援しています。

 

Suchmosがおじさんに愛される理由とNHKに選ばれた理由(妄想企画会議シリーズ)

Suchmos(サチモス)が人気ですね。
ここ数年で出てきた日本の若いロックバンドはいろいろいるけど、Suchmosに関してはなかなか独特のポジショニングな感じ。

 

ものすごく雑なカテゴライズでいうと、いわゆる「シティポップ」の代表選手として、ceroとかnever young beachとかスカートとかと一緒にくくられてる様子。
若いひとにとっては、バンド音楽だけどWANIMAとかロキノン系みたいなのよりおしゃれなものとして感じられているのかなって。

ただSuchmosは、40代ぐらいの音楽好きおじさんたちにも熱い視線を浴びている(だから車のCMにも使われる)ところが、特異。


ジャミロクワイっぽさを愛でるおじさん

さんざん言われていることだけど、Suchmosジャミロクワイっぽい。
おじさんたちからするともう笑っちゃうぐらいジャミロクワイっぽい。

そしておじさんたちはパクリだなんだって目くじらをたてないので、ただただSuchmosジャミロクワイっぽさを愛でる。

 

自分が10~20代の頃に馴染んだ、いまも一番気持ちいいと感じるラインの音楽を、いまの若い人たちが演奏していて、いまの若い人たちが夢中になっているというこの事実。もうそれで十分。

 

当時のジャミロクワイ自体、70年代のファンクとかジャズのちょっと深いところをバックボーンにしており、結果的にものすごく売れたけど音楽性としてはもともとマニアックなものだった。

日本に「クラブ」の文化が定着してきた頃(=40代のおじさんが若かった頃)に、クラブでかかるようなおしゃれな音楽として認識されていたあたり。

 

そのおしゃれイメージをまとったまま、1996年の3枚目のアルバムは全世界で700万枚、日本でも140万枚という驚異的な売り上げとなった。おしゃれでありなおかつマス、というジャミロクワイか築いた最強のポジションは、そのままSuchmosが引き継ごうとしているかもしれない。


Jamiroquai - Virtual Insanity (Official Video)

 


NHKワールドカップ中継のあの曲

そんな感じで着々と音楽好きの若いひとと音楽好きのおじさんの両方を魅了しているSuchmosは、2018年サッカーワールドカップロシア大会のNHKのテーマ曲に選ばれた。

www1.nhk.or.jp

 

そして、日本VSコロンビア戦のハーフタイムに生ライブを披露。
これ以上ないアピールの機会となった。
が、ちょっと評判がアレだったよう。

biz-journal.jp

確かにこの曲はレコーディングで加えられた処理も含めての味わいなので、生ライブだと魅力を活かしきれないっていう問題はあった。
しかしそれにしても、そこまで叩かなくてもいいんじゃないかと思う。

 

少なくとも、サッカーに似合わないだなんて言われる筋合いはない。


「サッカーに似合う曲」とは

ここで、先ほどのNHKの特設サイトを見てみたい。

「アーティスト選考のポイント」という項目、つまりNHKSuchmosにオファーした理由が書いてある。

彼らが、世代や性別を超えて幅広く支持されるアーティストであることや、サッカーの魅力や感動を独特の表現力で伝えられることなどを最大のポイントとしました。

「世代や性別を超えて幅広く」は言い換えれば「J-POPにあまり関心がないうるさ型のおじさん層にも認められている」ということだと思う。

そして何よりも重要なのが「独特の表現力」というくだり。

 

Suchmosの「VOLT-AGE」を「サッカーに似合わない」って叩いてるやつに、じゃあサッカーに似合う曲ってどんな曲だよって聞いてみたら、おそらくかなりの確率で、BPMが早くてアガる曲って答えるんじゃないだろうか。
もしくは、大勢で合唱できるような曲って答えるか。
もしくは、サッカー=ブラジルのイメージでサンバとかラテンな曲ってか。

 

NHK内部でも当初はそういった声が高かったであろう。

しかし結局はSuchmosに賭けてみるという答えを出した。

そして仕上がってきたのが「VOLT-AGE」。

この流れが非常に興味深いので、例によって妄想妄想。

 

妄想企画会議 in NHK

NHKってところは、日本全国津々浦々を相手にしている。というか、NHKしか映らないまたはNHKしか見ないというド田舎の高齢者に配慮するため、基本的にものすごく保守的というか安全パイな選択をすることが多い。

しかしその一方で、スポンサーに遠慮する必要はなく、また視聴率に一喜一憂することもないおかげか、ものすごく尖ったことをすることもある。特にEテレなんかはサブカル人脈が大活躍しまくっている。

 

ワールドカップにSuchmosを起用するという判断は、それでいうと後者の面が出たのであろう。とはいえ、サッカーの曲といえばノリノリか大合唱かラテンかというイメージがあるなかで、おしゃれでクールなSuchmosに何を求めたのかという謎は残る。

 

この謎に対する仮説として、NHKのなかに30年前から海外サッカーを見ててしかも音楽好きっていうコアな人がいたのではないかと。

30年前といえばJリーグが発足する前。カズもヒデもいない頃。当時の日本人が海外のサッカーに興味を持つきっかけのひとつとして、英国のミュージシャンがサッカー好きだったからという経路があった。

そう。90年代のUKのロックスターはみんなサッカーが大好きだった。
ひいきチームのユニフォームとかジャージを着てライブする姿はUK音楽好きおじさんにはお馴染みだと思う。

 

たとえばニュー・オーダーという80年代のUKを代表するバンドが、1990年のワールドカップイタリア大会のイングランド代表のテーマ曲としてつくった「World In Motion」という曲。

当時の代表選手がラップしたりコーラスで参加したりしてる。日テレの読売巨人軍のテーマ曲で長嶋監督が歌ったのと同じである。


New Order - World In Motion (Official Music Video)HK

 

あとNHK内部の海外サッカー古参おじさんはニュー・オーダー以外にもこんな曲を引き合いに出したかもしれない。

 


The Lightning Seeds - Three Lions '98 (Official Video)

 

ライトニング・シーズっていうバンドが欧州選手権イングランド代表のために書いた曲。思わずみんなで大合唱したくなるサビの大きなメロディ!

 

どっちにしても、サッカーイコール南米イコールサンバっていう図式とか、BPMが早いほうが盛り上がるなんていう発送はちょっと安直であり、サッカーに似合う曲は別に南米に求めなくてもよくて、サッカーと音楽の本場であるイギリスにたくさんお手本があるのです!などとNHK内部の海外サッカー古参おじさんは力説したのではないか。

 

ワールドカップ中継のテーマ曲にジャニーズを起用した局もあるようですが、わたしに言わせれば愚の骨頂です。深夜にわざわざワールドカップ中継を見てくれるファン層は、圧倒的に30〜40代男性!ジャニーズなんて使ったらその人たちには嫌がられます。その点Suchmosは(以下略)…といった主張が認められ、晴れてSuchmosにオファーがいったのではないか。

 

オファーの際に、NHK内部の海外サッカー古参おじさんは上記のようなUKのアーティストとサッカーの蜜月のエピソードを話して、Suchmosメンバーと意気投合したかもしれない。Suchmosも俄然気合が入ったであろう。

 

そして仕上がってきたのが「VOLT-AGE」というわけ。

NHK内部の海外サッカー古参おじさんはこの曲をどう感じただろうか。

90年代のUKのイメージでってちゃんと認識合わせしたのになーって少しがっかりしただろうか。

 


「VOLT-AGE」を聴いて40代が感じること

たぶん、思ってたのとは違ったけど、これはこれで90年代のUKだよなーって感心したのではないだろうか。少なくとも自分はそうだった。

つまりこの「VOLT-AGE」という曲、さんざんジャミロクワイと言われ続けてきたSuchmosが示した新しい方向性がそっちであることを、40代の音楽好きおじさんとしてはとっても歓迎したいのです。

 

「そっち」とは、具体的にいうと90年代後半のUKのバンドが一定の方向に流れていった感じ。
1994年のストーン・ローゼズ「Second Coming」や1997年のプライマル・スクリーム「Vanishing Point」以降の音ってこと。

80年代末からのマンチェスタームーブメントを音楽的に牽引していた2大バンドが、90年代後半に打ち出した新しい方向性。
それまでよりも重く、同時期にUKのシーンを席巻していたトリップホップとかケミカル・ブラザーズプロディジーあたりの影響を感じさせるやつ。

 

「VOLT-AGE」には、その時期のにおいがものすごく濃厚に漂ってる。

1998〜2000年ぐらいかな。このあたりの音って「マッドチェスター」とか「アシッドジャズ」とかみたいに名前がついてないし、正直いって当時のUKロック好きにも評判がよかったわけではない。なんなら、UKロックの勢いが失われていく時期とさえ言える。

 

だけど個人的には、同時代の音楽をもっとも吸収しようとしてた年頃で、当時やってたバンドも音楽性がさわやかギターポップからそっちに寄っていってた。
当時からの友人(特にUKロックに詳しいわけではない)に、「Suchmosのあの曲さー、おまえが当時やってたバンドっぽいよな」って最近言われてたしかに!ってなった。

 

何よりベースなんだよな。ローゼスからプライマルに加入したマニって人がいるんだけど、当時自分がやってたバンドでめちゃめちゃ影響うけたんだけど、「VOLT-AGE」はベースがすげーマニ。
ちょっと歪んでる音色も、16分音符の使い方も、プライマル時代のマニなんだよなー。

 


ゼロ年代フジロックが苗場に移った頃、イアン・ブラウンプライマル・スクリームが常連かってぐらい何度も出演してた。当時20代後半だったわれわれは、かつてのストーン・ローゼスのメンバーがいろんなかたちで活躍していることにうれしくなりつつも、毎年のように彼らが出演するのでフレッシュさはもうない、っていうぐらいの温度感だった。

 

Suchmosの「VOLT-AGE」は、あの頃の苗場でグリーンステージとオアシスの間の斜面をグリーンカレーハイネケンをこぼさないように歩いてるときに大音量で聴こえてきたみたいなあの頃っぽさがある。

 

 

Suchmosありがとう。

そしてNHK内部の海外サッカー古参おじさんありがとう。

めざせ紅白。

 

 

というわけで最後に「VOLT-AGE」のベースがどれだけマニかを示す2曲を貼っておく。

どっちのバンドのファンもこの曲をフェイバリットに挙げることはほぼないだろうけど、Suchmosはなぜか2018年にこのラインを選んできた!


The Stone Roses - Love Spreads

 


Primal Scream - Kowalski

RADWIMPS「HINOMARU」はこうして生まれた(生き残ったC案として)

RADWIMPSの新曲「HINOMARU」。

古語の用法が間違ってるとか戦時中の軍歌を連想させるとか何が悪いんだとかで話題ですね。

HINOMARU RADWIMPS 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索

 

作者である野田さんは、意味深なコメントしたり謝罪したり開き直ったりと慌ただしい。

 

RADWIMPSをよく知る知人に言わせると、ある意味で彼らしくない、しかし別の意味でとても彼らしい、そんな曲だそう。

たしかに、このバンドのこれまでの作品がもつ味わいやクオリティと、「HINOMARU」のそれとは一貫性が見えない。彼らしくない。だけど、聴いててくすぐったくなるほどのピュアさ青臭さという点では、その道(現代史や古典文学や文芸批評やその他のいろんな方面)のプロに「稚拙」と言われてしまう無邪気さ脇の甘さに通じてるのではないか、とのこと。

この分析、自分が目を通したいろんな記事のなかではかなり腑に落ちるものでした。

 

 

というわけで前回DA PUMPの妄想企画会議でちょっとだけ話題になった当ブログ、今回はこの難物件に立ち向かいます。

 

タイアップ仕事

まず押さえておきたい事実として、「HINOMARU」は「カタルシスト」という、2018フジテレビ系サッカー テーマ曲のカップリングとしてリリースされたということ。

 

今回の件を考えるにあたり「カタルシスト」がどんな曲かを見ていく必要があると思っている。

 

ということでこの「カタルシスト」。

ストリート感のあるワルそうなビートのヒップホップで始まりラップが乗り、ドラムンベースっぽいビートに変わって、サビみたいなBメロ、さらに大きなメロディのサビという展開。

 

それぞれのパーツごとに違った味わいになっており、サッカー中継において、Aメロ・Bメロ・サビのどの部分が使われてもいいようになっている。たとえば番組のオープニングにはBメロ、CM前のジングル的にイントロのビート、エンディング(試合終了後)には雄大なサビ、といった具合。

作詞作曲の野田さんが職人の技を駆使して作り上げた、ひと皿で三回おいしいコスパの楽曲といったところかなと。

 

クライアント筋から依頼されたときには、「なんかこうギラギラしてるっていうかこれからやってやるぜ的なヤバめな感じのオープニング」「CM前の3秒で口ずさめる印象的なメロディ」「戦い終わった戦士たちを日本中でたたえるようなやさしさ」が詰まったような曲にしてほしいみたいなことをいろいろ注文されたかもしれない。

野田さんは「好き勝手言いやがって」と正直ムカついたんだけど、「よっしゃじゃあそれ全部一曲にしてやろうじゃないの」と逆に燃えたのかもしれない。あくまで妄想だけど。

 

あと「カタルシスト」で大事なこととしては、「HINOMARU」と違ってこの曲の歌詞には「国家」とか「民族」といった視点はまったく含まれていない。

勇気を持って立ち向かうんだってこと、君の応援が力になるってこと、みたいな、スポーツ全般に言えてさらには生きることにも通じる内容になっている。そういった意味でもすごく使いやすくて優秀な楽曲。

この曲がサッカー中継のテーマ曲として機能するであろうことは想像しやすい。

 

C案としての「HINOMARU

じゃあ「HINOMARU」とは何なのか。

また妄想なんだけど、フジテレビからサッカー中継のテーマ曲を依頼されたとき、最終的に採用された「カタルシスト」以外に、実はもう2曲作ったんじゃないか。

そのうちの1曲が「HINOMARU」だっだんじゃないか。

 

デザイナーとかクリエイターの人が発注された仕事に対して作品をプレゼンするとき、何パターンか毛色の違うものを作ってみてクライアントにハマるものを探ることがある。

たとえば依頼に対してど真ん中でクオリティ的にも自信がある本命のA案、同じくらい自信あるけどちょっと方向性を変えてみたB案、あえて振り切ってぶっ飛んだC案みたいな感じで用意するなど。

 

世の中に知られるいわゆる「名曲」の中には、もともとC案として作られたにもかかわらず案外クオリティが高かったり肩の力が抜けたぶん大衆性を獲得したっていうパターンが多々あるし、ひとつのお題に対してさまざまな角度からアプローチしてみるのはよくある話。

 

で今回でいうと「カタルシスト」はA案がそのまま採用されたのではないか。

その陰に、「『前前前世』みたいな感じで1曲つくってみてもらえませんかね」みたいな安直かつ大人の発想としてありがちなオーダーに応えて作ってあげたB案とかがあったのではないか。そして本人が気乗りせずに作ったので案の定ボツったのではないか。

そしてさらに、サッカー中継のテーマ曲ってお題に対して、考えうる限りでもっともぶっ飛んだC案として、「HINOMARU」が作られたのではないか。

個人的にはそう考えることでいろいろ腑に落ちる感じがする。

 

もともとの「HINOMARU

無茶を承知でもうひとつ仮説に仮説を重ねるとすると、「HINOMARU」は最初はこんなアレンジじゃなかったのではないか。

C案らしく、たとえばもっとテンポが速くてオルタナでロックな曲調で、ボーカルも拡声器みたいなエフェクトではっきり歌詞が聞き取れないようなもの(初期の椎名林檎っぽい)だったとしたら?

というのも、先ほどみたように「カタルシスト」は一曲でたくさんのニーズに応えられる曲なので、これに対するC案はかなりぶっ飛んだものだったに違いないと思ったから。ま、妄想ですけど。

 

ともあれ、そんな曲調にあの歌詞が乗ることで、全体として批評性が出てくるようなバランス感覚だったとしたら、自分が思ってるRADWIMPSっぽさとつじつまが合うんだよな。そんなによく知ってるわけじゃないけど。

 

なんなら歌詞ももっと違ってて、サビで「HINOMARUHINOMARU!」って連呼してたかもしれない。イメージは忌野清志郎がパンクっぽくカバーした「君が代」な。

 

 

で、宅録したデモ音源を会議の席で流したときに、「まあさすがにこれはね(苦笑)」「そうっすかね、ちょっと好きなんですけどねー(半笑い半分本気)」みたいなやりとりがあって、「さてじゃあ本命のやつ聴きましょうか」ってなるような。

 

 

なぜか生き残ったC案

そんなC案、タイアップ曲にこそ選ばれなかったものの、正式にレコーディングされカップリングとしてリリースはされたわけで。

なぜボツらずに生き残ったのか、さらに妄想に妄想を重ねてみる。

 

もしかしたらこっちがハマるかもって大穴としてC案を作ってみて、案の定ボツって、さて本題ってなるはずが、会議の席で異様にC案を推すスタッフもしくはクライアント筋がいたとしたら?しかも微妙に偉い人だったりしたら?

 

B案が早々にボツになった後、A案に絞って話が進むと思いきや、一部の熱い思いに引きずられてA案かC案かで決着がつかず、デモでは判断できんってことになって両方レコーディングしてみることに。

しかもここに至ると「HINOMARU」はぶっ飛んだC案としてではなくAダッシュ案として検討されることになるので、ふさわしい歌詞やアレンジに「洗練」させましょうって話になってくる。

その過程で、当初あった批評性は抜け落ち、リリースされた「HINOMARU」に近づいていったのではないか。もしかすると、その「洗練」は本人にとって不本意だったかもしれない。

 

しかし、ワールドカップまでに完成させてリリースするという期日が決まっていたり、どれを採用するかの決定権がアーティスト側になかったり、現場から遠いところに声の大きな大人がいたり、普段の作品作りとは全然ちがうフローにならざるを得ない事情があったかもしれない。

 

 

クライアント「野田くんさ、悪いんだけどあのC案の曲、もう1パターンアレンジ変えて録ってみてもらえないでしょうか?事業部長がぜひそれも聴いてみて判断したいって言ってまして、っていうか例の清志郎っぽい感じだと歌詞が聞き取れないって言ってまして」「申し訳ないんですけど事業部長が海外出張でして、タイアップが決まる会議が来週になります」

レコード会社「シングルのリリース日から逆算するとそろそろ収録曲を確定させないといけないんですけど、どっちがタイアップになったかまだ決まってないんですよね?じゃあA案カタルシストとC案HINOMARU(仮)の両方にしますよ?」

クライアント「いやー、事業部長はHINOMARU(仮)を最後まで推してたんだけど、もっと上からダメ出しくらっちゃいました」

レコード会社「収録曲はもう変えられないので2曲ともリリースします」「結局完パケしたのは歌詞もアレンジも事業部長オススメバージョンしかないのでそれ使います」

「あれ?そういえば清志郎バージョンのやつはデモしか録ってなかったっけ?」

 

どんな経緯であれ我が子はかわいい

そんな感じの不本意な生い立ちになってしまった「HINOMARU」。

 

とはいえ、たとえ自分たちの狙いと違う着地になってしまっても、RADWIMPS名義で世の中にリリースするからには、責任は持ちたい。

難産だろうと、気に入らない遺伝子が入っていようと、我が子は我が子。

 

賛否両論がはげしくまきおこるほどに、自分の子供が容疑者になった母親のような気持ちになる野田さん。自分だけはこの子のことをわかってあげたい。変に祭り上げられるのも、筋違いに批判されるのも、どちらの側も全然わかってないなと思う。誤解して傷ついた人に謝れと言われれば謝るけど、あくまで誤解だと思う。

 

といったような気持ちになっているんじゃないか。

そう考えると、リリース後のいろんな言動が腑に落ちるんだよな。

 

イデオロギー云々よりもっと手前の話なんじゃないかって。