森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

「め組のひと」だけじゃない倖田來未の解放戦線(妄想企画会議シリーズ)

倖田來未の「め組のひと」カバーが話題ですね。

 


中国発の「Tik Tok」という動画SNSで、この曲にあわせて踊るのが10代の女子のあいだで流行っているとか。

www.youtube.com

 

「め組のひと」の原曲は1983年だし、倖田來未のカバーも2010年リリースだし、このタイミングでなぜ急に取り上げられたのか、倖田來未本人も驚いてるみたい。もちろん鈴木雅之田代まさしも驚いてるであろう。

 

でもよく考えたらこの曲はそもそも資生堂のCMソングとしてつくられたもの。

なのでもともと若い女性にベクトルが向いた曲だったため、顔を黒塗りした大田区大森の不良グループが今から35年前に歌った曲だとしても、時空を超えて若い女性に届いたのは不思議ではない。

ただただ、この曲をつくった売野雅勇井上大輔という80年代の歌謡曲の「らしさ」を代表するようなコンビ(郷ひろみ2億4千万の瞳」も!)に、あらためて畏れ入る次第。

 

ラッツ&スターの原曲はキャッチーなメロディや歌詞もさることながら、ビートのキレがすごいので、DJやるときには重宝したもんだった)

 

 

Tik Tokとヒップホップ 

Tik Tokの「め組のひと」はみんな曲のテンポをかなりあげて踊っており、原曲にないニュアンスが生じている。

 

DJが曲のつなぎを重視するあまりオリジナルよりかなりBPMを早くした状態でプレイしたところ、偶然にも原曲にない新鮮な聴こえ方になったという、あの感じ。レコードだと特にBPMがあがるとピッチもかん高くなり、3歳児が本能でゲラゲラ笑っちゃうようなおかしみが生まれ、それでいて原曲の歌詞とか意味は残っている状態。

そういうふうにしたほうがよりいい感じの動画に仕上がるっていうことを、DJでもない10代の女子たちが偶然にたどり着いたわけでしょう。

 

つまり、彼女たちがTik Tokというあたらしいおもちゃの遊び方をいろいろ試行錯誤した結果、倖田來未の「め組のひと」をBPMあげたやつがいいっしょ!にたどり着いたという話には、1970年代ニューヨークの黒人たちのあいだでヒップホップが生まれていった話と同じワクワク感がある。

 

 

そしてBPMを上げることでうまれるおかしみは、ネタになる歌や歌手がリスペクトといじられの両方を引き受けてるタイプだとより効果を発揮する気がする。絶妙なダサさと強さ。いまの10代女子にとって、倖田來未がちょうどそういう位置にあったのではなかろうか。

もし「め組のひと」を他の人がカバーしていたら、Tik Tokでここまで流行ることはなかったはず。

 

倖田來未のカバーはなぜ話題になりやすいのか

そう。今回の現象で外せないのが、倖田來未というひとの存在感。

思い起こせばこの人が最初に注目されたのは「キューティーハニー」だったし、2013年には小沢健二「ラブリー」やhide「ピンクスパイダー」をカバーしたことでちょっとした炎上騒ぎになってもいて、良くも悪くもなにかとカバー曲がらみで話題になっている。

 

しかし、他にもカバー曲やカバーアルバムをリリースしている人はたくさんいるが、なぜ倖田來未だけが話題になるのか。

またしてもここからは完全なる妄想なんだけど、倖田來未というひとは、楽曲を文脈から解放する戦いをやっているんじゃないだろうか。

 

 

たとえば「ピンクスパイダー」という、亡きhideの思い出とともにファンが大事に大事にしている曲。それを、「エロかっこいい」が売りの倖田來未という歌手がカバーする。普通に考えて、hideファンの神経を逆なですることは火を見るより明らか。

倖田來未ぐらいの人であれば、自分のパブリックイメージは完全に把握しているだろうし、そんなイメージの自分があえて火中の栗を拾いにいくのは、完全に確信犯だと思う。

 

スタッフ「いや…たしかにピンクスパイダーはいい曲だし倖田さんの声質にも合ってるとは思います。しかし…なんていうかその、あまりにもhideさんのイメージが強くてですね…」

倖田來未「まあそうですよね。hideさんの熱烈なファンはいまもたくさんいらっしゃるし、批判されるとは思います。その気持ちはよくわかります」

スタッフ「じゃあわざわざそんなリスクを負ってまでこの曲にしなくても、カバーアルバムには他にもいろいろ候補曲もありますし…」

倖田來未「でもやるんです。批判をおそれていては、今後もう誰もこの曲を触れないようになるんじゃないですか?一部のファンだけがずっと大事にし続けることが、この曲にとって本当にええことやと思います?批判をうけてでも、誰かがファンからこの曲を取り上げる必要があると思うんです。わたしや他の歌手が歌い継ぐことで、この曲は永遠に残っていくんちゃうかなって」

スタッフ「倖田さんがそこまで考えてたとは…」

倖田來未「『倖田來未』っていうイレモノは、何でも入る間口の広さだけには自信があるんです。何を入れても壊れません。いまさら批判もこわくないし、叩かれてでもいろんな名曲を世の中に取り戻す、それが『倖田來未』の役割なのかなって」

 

 

楽曲そのものの力と、その楽曲の文脈を切り離すことは実はけっこう難しい。

たとえば、AKB48を毛嫌いする人に「恋するフォーチュンクッキー」の曲そのものの良さは伝わりにくい。

 

そんなふうに、文脈にとらわれたせいで楽曲が本来の飛距離を稼げていない現象はよくある話だけど、倖田來未という人は、そこにものすごくもったいなさを感じる人なのかもしれない。

原曲のファンから批判されまくってでも、そのもったいなさと戦うことを決意したのではないか。なんと気高い決意であろう。

 

 

「ハートに火をつけて」問題

楽曲と文脈を切り離す件で連想するのが、「ハートに火をつけて」という曲。

 

1967年にドアーズがリリースしたこの曲は、その後いろんなタイプの歌手たちに数え切れないほどカバーされており、ちょっとしたスタンダードナンバーになっている。

ちょっと挙げただけでも、スティービー・ワンダーナンシー・シナトラアストラッド・ジルベルト、シャーリー・バッシーなどなど、そうそうたるメンツ。

あと結局は実現しなかったらしいけど、車のCMに使われる話も当時ほぼリアルタイムで進行したとか。

 

しかし、もともとドアーズっていうのは、60年代のアメリカ西海岸サイケデリック・ムーブメントの象徴みたいなバンドなわけで。LSDとかマリファナとかヨガとかヒッピーとかそういう当時の先鋭的な若者文化のど真ん中にいた存在。商業主義やショービジネスといった世界からは距離を置きたいというスタンスであり、さっき挙げたそうそうたる歌手たちとは住んでる世界が全然違う。

 

だけど、「ハートに火をつけて」という曲の強度があまりにもあったため、サイケデリックだなんだっていう特定の時代の特定のカルチャーでしか通じない狭い世界の枠を軽々と飛び越えていった。

 

www.youtube.com

 

もちろん当時のドアーズのファンなんかからすると、シャーリー・バッシーとかのカバーは噴飯ものだったと思うし、車のCMで使うだなんてアートの本質が何もわかっていない上っ面なやり方に感じられたことだろう。

 

でもまあおもしろいもので、それから40年もたつと当時の文脈から適度に距離がとれるからか、シャーリー・バッシーとかのカバーもそれはそれでかっこよく感じる。

 

原曲はもちろん好きだけど、文脈が違うカバーによって変質したことも味わうこともできる。ドアーズっていう、ある意味文脈のかたまりみたいなバンドの曲を、全然畑違いの歌手が歌うことによって、楽曲そのものの素材の力を知ることができっるっていうか、それはそれでおもしろいと思えるようになってる。

 

で、それは倖田來未の「ピンクスパイダー」や「ラブリー」も同じ。

 

倖田來未さんの次なる戦いは

ピンクスパイダー」や「ラブリー」を信者の手から開放し、また1983年の「め組のひと」を2018年の10代女子に伝承した倖田來未

 

これからもややこしそうなファンが多いアーティストの「もったいない」楽曲を解放していってほしい。短期的には信者の気持ちを逆なですることになるとしても、長い目で見ればその曲の寿命を大幅に伸ばすことに貢献しているわけで。

 

ファン心理の逆なでによる摩擦係数が高そうな、そのため他の歌手が手を出しづらいアーティストはまだまだたくさんいる。

 

たとえばこのあたりはどうだろうか。なんとなく実現してもおかしくないし、個人的にはめっちゃ聴いてみたいっす。

 

矢沢永吉…ふつうに「時間よ止まれ」あたりを歌い上げてる姿は容易にイメージできるが、お互いの支持層に親和性ありそでなさそで近親憎悪タイプの炎上あるかも。

ブランキー・ジェット・シティ…文脈のかたまりみたいな存在だけど、ブレイクしてからのシングル群は文脈から切り離してもキャッチー。

ハナレグミ…「一児の母として」みたいな文脈で「家族の風景」に注目する可能性あり。

 

いずれも、想像するだけでファンの悲鳴が聞こえてきそうで、ワクワクしてしまう。

 

倖田來未さんには、これからも名曲解放戦線の闘士としてがんばっていただきたい。

応援しています。

 

Suchmosがおじさんに愛される理由とNHKに選ばれた理由(妄想企画会議シリーズ)

Suchmos(サチモス)が人気ですね。
ここ数年で出てきた日本の若いロックバンドはいろいろいるけど、Suchmosに関してはなかなか独特のポジショニングな感じ。

 

ものすごく雑なカテゴライズでいうと、いわゆる「シティポップ」の代表選手として、ceroとかnever young beachとかスカートとかと一緒にくくられてる様子。
若いひとにとっては、バンド音楽だけどWANIMAとかロキノン系みたいなのよりおしゃれなものとして感じられているのかなって。

ただSuchmosは、40代ぐらいの音楽好きおじさんたちにも熱い視線を浴びている(だから車のCMにも使われる)ところが、特異。


ジャミロクワイっぽさを愛でるおじさん

さんざん言われていることだけど、Suchmosジャミロクワイっぽい。
おじさんたちからするともう笑っちゃうぐらいジャミロクワイっぽい。

そしておじさんたちはパクリだなんだって目くじらをたてないので、ただただSuchmosジャミロクワイっぽさを愛でる。

 

自分が10~20代の頃に馴染んだ、いまも一番気持ちいいと感じるラインの音楽を、いまの若い人たちが演奏していて、いまの若い人たちが夢中になっているというこの事実。もうそれで十分。

 

当時のジャミロクワイ自体、70年代のファンクとかジャズのちょっと深いところをバックボーンにしており、結果的にものすごく売れたけど音楽性としてはもともとマニアックなものだった。

日本に「クラブ」の文化が定着してきた頃(=40代のおじさんが若かった頃)に、クラブでかかるようなおしゃれな音楽として認識されていたあたり。

 

そのおしゃれイメージをまとったまま、1996年の3枚目のアルバムは全世界で700万枚、日本でも140万枚という驚異的な売り上げとなった。おしゃれでありなおかつマス、というジャミロクワイか築いた最強のポジションは、そのままSuchmosが引き継ごうとしているかもしれない。


Jamiroquai - Virtual Insanity (Official Video)

 


NHKワールドカップ中継のあの曲

そんな感じで着々と音楽好きの若いひとと音楽好きのおじさんの両方を魅了しているSuchmosは、2018年サッカーワールドカップロシア大会のNHKのテーマ曲に選ばれた。

www1.nhk.or.jp

 

そして、日本VSコロンビア戦のハーフタイムに生ライブを披露。
これ以上ないアピールの機会となった。
が、ちょっと評判がアレだったよう。

biz-journal.jp

確かにこの曲はレコーディングで加えられた処理も含めての味わいなので、生ライブだと魅力を活かしきれないっていう問題はあった。
しかしそれにしても、そこまで叩かなくてもいいんじゃないかと思う。

 

少なくとも、サッカーに似合わないだなんて言われる筋合いはない。


「サッカーに似合う曲」とは

ここで、先ほどのNHKの特設サイトを見てみたい。

「アーティスト選考のポイント」という項目、つまりNHKSuchmosにオファーした理由が書いてある。

彼らが、世代や性別を超えて幅広く支持されるアーティストであることや、サッカーの魅力や感動を独特の表現力で伝えられることなどを最大のポイントとしました。

「世代や性別を超えて幅広く」は言い換えれば「J-POPにあまり関心がないうるさ型のおじさん層にも認められている」ということだと思う。

そして何よりも重要なのが「独特の表現力」というくだり。

 

Suchmosの「VOLT-AGE」を「サッカーに似合わない」って叩いてるやつに、じゃあサッカーに似合う曲ってどんな曲だよって聞いてみたら、おそらくかなりの確率で、BPMが早くてアガる曲って答えるんじゃないだろうか。
もしくは、大勢で合唱できるような曲って答えるか。
もしくは、サッカー=ブラジルのイメージでサンバとかラテンな曲ってか。

 

NHK内部でも当初はそういった声が高かったであろう。

しかし結局はSuchmosに賭けてみるという答えを出した。

そして仕上がってきたのが「VOLT-AGE」。

この流れが非常に興味深いので、例によって妄想妄想。

 

妄想企画会議 in NHK

NHKってところは、日本全国津々浦々を相手にしている。というか、NHKしか映らないまたはNHKしか見ないというド田舎の高齢者に配慮するため、基本的にものすごく保守的というか安全パイな選択をすることが多い。

しかしその一方で、スポンサーに遠慮する必要はなく、また視聴率に一喜一憂することもないおかげか、ものすごく尖ったことをすることもある。特にEテレなんかはサブカル人脈が大活躍しまくっている。

 

ワールドカップにSuchmosを起用するという判断は、それでいうと後者の面が出たのであろう。とはいえ、サッカーの曲といえばノリノリか大合唱かラテンかというイメージがあるなかで、おしゃれでクールなSuchmosに何を求めたのかという謎は残る。

 

この謎に対する仮説として、NHKのなかに30年前から海外サッカーを見ててしかも音楽好きっていうコアな人がいたのではないかと。

30年前といえばJリーグが発足する前。カズもヒデもいない頃。当時の日本人が海外のサッカーに興味を持つきっかけのひとつとして、英国のミュージシャンがサッカー好きだったからという経路があった。

そう。90年代のUKのロックスターはみんなサッカーが大好きだった。
ひいきチームのユニフォームとかジャージを着てライブする姿はUK音楽好きおじさんにはお馴染みだと思う。

 

たとえばニュー・オーダーという80年代のUKを代表するバンドが、1990年のワールドカップイタリア大会のイングランド代表のテーマ曲としてつくった「World In Motion」という曲。

当時の代表選手がラップしたりコーラスで参加したりしてる。日テレの読売巨人軍のテーマ曲で長嶋監督が歌ったのと同じである。


New Order - World In Motion (Official Music Video)HK

 

あとNHK内部の海外サッカー古参おじさんはニュー・オーダー以外にもこんな曲を引き合いに出したかもしれない。

 


The Lightning Seeds - Three Lions '98 (Official Video)

 

ライトニング・シーズっていうバンドが欧州選手権イングランド代表のために書いた曲。思わずみんなで大合唱したくなるサビの大きなメロディ!

 

どっちにしても、サッカーイコール南米イコールサンバっていう図式とか、BPMが早いほうが盛り上がるなんていう発送はちょっと安直であり、サッカーに似合う曲は別に南米に求めなくてもよくて、サッカーと音楽の本場であるイギリスにたくさんお手本があるのです!などとNHK内部の海外サッカー古参おじさんは力説したのではないか。

 

ワールドカップ中継のテーマ曲にジャニーズを起用した局もあるようですが、わたしに言わせれば愚の骨頂です。深夜にわざわざワールドカップ中継を見てくれるファン層は、圧倒的に30〜40代男性!ジャニーズなんて使ったらその人たちには嫌がられます。その点Suchmosは(以下略)…といった主張が認められ、晴れてSuchmosにオファーがいったのではないか。

 

オファーの際に、NHK内部の海外サッカー古参おじさんは上記のようなUKのアーティストとサッカーの蜜月のエピソードを話して、Suchmosメンバーと意気投合したかもしれない。Suchmosも俄然気合が入ったであろう。

 

そして仕上がってきたのが「VOLT-AGE」というわけ。

NHK内部の海外サッカー古参おじさんはこの曲をどう感じただろうか。

90年代のUKのイメージでってちゃんと認識合わせしたのになーって少しがっかりしただろうか。

 


「VOLT-AGE」を聴いて40代が感じること

たぶん、思ってたのとは違ったけど、これはこれで90年代のUKだよなーって感心したのではないだろうか。少なくとも自分はそうだった。

つまりこの「VOLT-AGE」という曲、さんざんジャミロクワイと言われ続けてきたSuchmosが示した新しい方向性がそっちであることを、40代の音楽好きおじさんとしてはとっても歓迎したいのです。

 

「そっち」とは、具体的にいうと90年代後半のUKのバンドが一定の方向に流れていった感じ。
1994年のストーン・ローゼズ「Second Coming」や1997年のプライマル・スクリーム「Vanishing Point」以降の音ってこと。

80年代末からのマンチェスタームーブメントを音楽的に牽引していた2大バンドが、90年代後半に打ち出した新しい方向性。
それまでよりも重く、同時期にUKのシーンを席巻していたトリップホップとかケミカル・ブラザーズプロディジーあたりの影響を感じさせるやつ。

 

「VOLT-AGE」には、その時期のにおいがものすごく濃厚に漂ってる。

1998〜2000年ぐらいかな。このあたりの音って「マッドチェスター」とか「アシッドジャズ」とかみたいに名前がついてないし、正直いって当時のUKロック好きにも評判がよかったわけではない。なんなら、UKロックの勢いが失われていく時期とさえ言える。

 

だけど個人的には、同時代の音楽をもっとも吸収しようとしてた年頃で、当時やってたバンドも音楽性がさわやかギターポップからそっちに寄っていってた。
当時からの友人(特にUKロックに詳しいわけではない)に、「Suchmosのあの曲さー、おまえが当時やってたバンドっぽいよな」って最近言われてたしかに!ってなった。

 

何よりベースなんだよな。ローゼスからプライマルに加入したマニって人がいるんだけど、当時自分がやってたバンドでめちゃめちゃ影響うけたんだけど、「VOLT-AGE」はベースがすげーマニ。
ちょっと歪んでる音色も、16分音符の使い方も、プライマル時代のマニなんだよなー。

 


ゼロ年代フジロックが苗場に移った頃、イアン・ブラウンプライマル・スクリームが常連かってぐらい何度も出演してた。当時20代後半だったわれわれは、かつてのストーン・ローゼスのメンバーがいろんなかたちで活躍していることにうれしくなりつつも、毎年のように彼らが出演するのでフレッシュさはもうない、っていうぐらいの温度感だった。

 

Suchmosの「VOLT-AGE」は、あの頃の苗場でグリーンステージとオアシスの間の斜面をグリーンカレーハイネケンをこぼさないように歩いてるときに大音量で聴こえてきたみたいなあの頃っぽさがある。

 

 

Suchmosありがとう。

そしてNHK内部の海外サッカー古参おじさんありがとう。

めざせ紅白。

 

 

というわけで最後に「VOLT-AGE」のベースがどれだけマニかを示す2曲を貼っておく。

どっちのバンドのファンもこの曲をフェイバリットに挙げることはほぼないだろうけど、Suchmosはなぜか2018年にこのラインを選んできた!


The Stone Roses - Love Spreads

 


Primal Scream - Kowalski

RADWIMPS「HINOMARU」はこうして生まれた(生き残ったC案として)

RADWIMPSの新曲「HINOMARU」。

古語の用法が間違ってるとか戦時中の軍歌を連想させるとか何が悪いんだとかで話題ですね。

HINOMARU RADWIMPS 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索

 

作者である野田さんは、意味深なコメントしたり謝罪したり開き直ったりと慌ただしい。

 

RADWIMPSをよく知る知人に言わせると、ある意味で彼らしくない、しかし別の意味でとても彼らしい、そんな曲だそう。

たしかに、このバンドのこれまでの作品がもつ味わいやクオリティと、「HINOMARU」のそれとは一貫性が見えない。彼らしくない。だけど、聴いててくすぐったくなるほどのピュアさ青臭さという点では、その道(現代史や古典文学や文芸批評やその他のいろんな方面)のプロに「稚拙」と言われてしまう無邪気さ脇の甘さに通じてるのではないか、とのこと。

この分析、自分が目を通したいろんな記事のなかではかなり腑に落ちるものでした。

 

 

というわけで前回DA PUMPの妄想企画会議でちょっとだけ話題になった当ブログ、今回はこの難物件に立ち向かいます。

 

タイアップ仕事

まず押さえておきたい事実として、「HINOMARU」は「カタルシスト」という、2018フジテレビ系サッカー テーマ曲のカップリングとしてリリースされたということ。

 

今回の件を考えるにあたり「カタルシスト」がどんな曲かを見ていく必要があると思っている。

 

ということでこの「カタルシスト」。

ストリート感のあるワルそうなビートのヒップホップで始まりラップが乗り、ドラムンベースっぽいビートに変わって、サビみたいなBメロ、さらに大きなメロディのサビという展開。

 

それぞれのパーツごとに違った味わいになっており、サッカー中継において、Aメロ・Bメロ・サビのどの部分が使われてもいいようになっている。たとえば番組のオープニングにはBメロ、CM前のジングル的にイントロのビート、エンディング(試合終了後)には雄大なサビ、といった具合。

作詞作曲の野田さんが職人の技を駆使して作り上げた、ひと皿で三回おいしいコスパの楽曲といったところかなと。

 

クライアント筋から依頼されたときには、「なんかこうギラギラしてるっていうかこれからやってやるぜ的なヤバめな感じのオープニング」「CM前の3秒で口ずさめる印象的なメロディ」「戦い終わった戦士たちを日本中でたたえるようなやさしさ」が詰まったような曲にしてほしいみたいなことをいろいろ注文されたかもしれない。

野田さんは「好き勝手言いやがって」と正直ムカついたんだけど、「よっしゃじゃあそれ全部一曲にしてやろうじゃないの」と逆に燃えたのかもしれない。あくまで妄想だけど。

 

あと「カタルシスト」で大事なこととしては、「HINOMARU」と違ってこの曲の歌詞には「国家」とか「民族」といった視点はまったく含まれていない。

勇気を持って立ち向かうんだってこと、君の応援が力になるってこと、みたいな、スポーツ全般に言えてさらには生きることにも通じる内容になっている。そういった意味でもすごく使いやすくて優秀な楽曲。

この曲がサッカー中継のテーマ曲として機能するであろうことは想像しやすい。

 

C案としての「HINOMARU

じゃあ「HINOMARU」とは何なのか。

また妄想なんだけど、フジテレビからサッカー中継のテーマ曲を依頼されたとき、最終的に採用された「カタルシスト」以外に、実はもう2曲作ったんじゃないか。

そのうちの1曲が「HINOMARU」だっだんじゃないか。

 

デザイナーとかクリエイターの人が発注された仕事に対して作品をプレゼンするとき、何パターンか毛色の違うものを作ってみてクライアントにハマるものを探ることがある。

たとえば依頼に対してど真ん中でクオリティ的にも自信がある本命のA案、同じくらい自信あるけどちょっと方向性を変えてみたB案、あえて振り切ってぶっ飛んだC案みたいな感じで用意するなど。

 

世の中に知られるいわゆる「名曲」の中には、もともとC案として作られたにもかかわらず案外クオリティが高かったり肩の力が抜けたぶん大衆性を獲得したっていうパターンが多々あるし、ひとつのお題に対してさまざまな角度からアプローチしてみるのはよくある話。

 

で今回でいうと「カタルシスト」はA案がそのまま採用されたのではないか。

その陰に、「『前前前世』みたいな感じで1曲つくってみてもらえませんかね」みたいな安直かつ大人の発想としてありがちなオーダーに応えて作ってあげたB案とかがあったのではないか。そして本人が気乗りせずに作ったので案の定ボツったのではないか。

そしてさらに、サッカー中継のテーマ曲ってお題に対して、考えうる限りでもっともぶっ飛んだC案として、「HINOMARU」が作られたのではないか。

個人的にはそう考えることでいろいろ腑に落ちる感じがする。

 

もともとの「HINOMARU

無茶を承知でもうひとつ仮説に仮説を重ねるとすると、「HINOMARU」は最初はこんなアレンジじゃなかったのではないか。

C案らしく、たとえばもっとテンポが速くてオルタナでロックな曲調で、ボーカルも拡声器みたいなエフェクトではっきり歌詞が聞き取れないようなもの(初期の椎名林檎っぽい)だったとしたら?

というのも、先ほどみたように「カタルシスト」は一曲でたくさんのニーズに応えられる曲なので、これに対するC案はかなりぶっ飛んだものだったに違いないと思ったから。ま、妄想ですけど。

 

ともあれ、そんな曲調にあの歌詞が乗ることで、全体として批評性が出てくるようなバランス感覚だったとしたら、自分が思ってるRADWIMPSっぽさとつじつまが合うんだよな。そんなによく知ってるわけじゃないけど。

 

なんなら歌詞ももっと違ってて、サビで「HINOMARUHINOMARU!」って連呼してたかもしれない。イメージは忌野清志郎がパンクっぽくカバーした「君が代」な。

 

 

で、宅録したデモ音源を会議の席で流したときに、「まあさすがにこれはね(苦笑)」「そうっすかね、ちょっと好きなんですけどねー(半笑い半分本気)」みたいなやりとりがあって、「さてじゃあ本命のやつ聴きましょうか」ってなるような。

 

 

なぜか生き残ったC案

そんなC案、タイアップ曲にこそ選ばれなかったものの、正式にレコーディングされカップリングとしてリリースはされたわけで。

なぜボツらずに生き残ったのか、さらに妄想に妄想を重ねてみる。

 

もしかしたらこっちがハマるかもって大穴としてC案を作ってみて、案の定ボツって、さて本題ってなるはずが、会議の席で異様にC案を推すスタッフもしくはクライアント筋がいたとしたら?しかも微妙に偉い人だったりしたら?

 

B案が早々にボツになった後、A案に絞って話が進むと思いきや、一部の熱い思いに引きずられてA案かC案かで決着がつかず、デモでは判断できんってことになって両方レコーディングしてみることに。

しかもここに至ると「HINOMARU」はぶっ飛んだC案としてではなくAダッシュ案として検討されることになるので、ふさわしい歌詞やアレンジに「洗練」させましょうって話になってくる。

その過程で、当初あった批評性は抜け落ち、リリースされた「HINOMARU」に近づいていったのではないか。もしかすると、その「洗練」は本人にとって不本意だったかもしれない。

 

しかし、ワールドカップまでに完成させてリリースするという期日が決まっていたり、どれを採用するかの決定権がアーティスト側になかったり、現場から遠いところに声の大きな大人がいたり、普段の作品作りとは全然ちがうフローにならざるを得ない事情があったかもしれない。

 

 

クライアント「野田くんさ、悪いんだけどあのC案の曲、もう1パターンアレンジ変えて録ってみてもらえないでしょうか?事業部長がぜひそれも聴いてみて判断したいって言ってまして、っていうか例の清志郎っぽい感じだと歌詞が聞き取れないって言ってまして」「申し訳ないんですけど事業部長が海外出張でして、タイアップが決まる会議が来週になります」

レコード会社「シングルのリリース日から逆算するとそろそろ収録曲を確定させないといけないんですけど、どっちがタイアップになったかまだ決まってないんですよね?じゃあA案カタルシストとC案HINOMARU(仮)の両方にしますよ?」

クライアント「いやー、事業部長はHINOMARU(仮)を最後まで推してたんだけど、もっと上からダメ出しくらっちゃいました」

レコード会社「収録曲はもう変えられないので2曲ともリリースします」「結局完パケしたのは歌詞もアレンジも事業部長オススメバージョンしかないのでそれ使います」

「あれ?そういえば清志郎バージョンのやつはデモしか録ってなかったっけ?」

 

どんな経緯であれ我が子はかわいい

そんな感じの不本意な生い立ちになってしまった「HINOMARU」。

 

とはいえ、たとえ自分たちの狙いと違う着地になってしまっても、RADWIMPS名義で世の中にリリースするからには、責任は持ちたい。

難産だろうと、気に入らない遺伝子が入っていようと、我が子は我が子。

 

賛否両論がはげしくまきおこるほどに、自分の子供が容疑者になった母親のような気持ちになる野田さん。自分だけはこの子のことをわかってあげたい。変に祭り上げられるのも、筋違いに批判されるのも、どちらの側も全然わかってないなと思う。誤解して傷ついた人に謝れと言われれば謝るけど、あくまで誤解だと思う。

 

といったような気持ちになっているんじゃないか。

そう考えると、リリース後のいろんな言動が腑に落ちるんだよな。

 

イデオロギー云々よりもっと手前の話なんじゃないかって。

 

DA PUMP「U.S.A.」はこうしてつくられた(KPIとしての「ダサい」)

DA PUMPの新曲「U.S.A.」が話題ですね。

なんといってもサビが「カーモンベイビーアメリカ」の連呼、しかも音の乗せ方がカタカナ英語のそれで、ボキャブラリーも小学3年生レベル。

「ダサい」「ダサいけどクセになる」「ダサかっこいい」など、とりあえず「ダサい」ってことを共通認識とした上でその破壊力にみんなやられちゃってる様子。

 


DA PUMP / U.S.A.

 

「ダサい」は想定外か

じゃあその「ダサい」って反応は、本人たちの想定外だったのか。

リーダーISSAはこんなふうに語ってる。

これを録音するのか、今やらなくてもいいんじゃないか、と思いました。歌詞も、どうなんだろうと。ユーロビート自体はなじみのあるジャンルで抵抗はないんですけど、チームとして考えたときに、今これで大丈夫かと。

やっぱり「U.S.A.」は本人たちもダサいと思っており、わかった上でやっているらしいことがわかる。

 

そしてこのインタビューの別のところでは、「自分たちが予想していなかったところで反響が大きい」とも言っており、こんなにバズるとは思っていなかったらしいこともわかる。

 

つまり、自分たちでも「ダサい」と感じていたしそう言われるだろうことも想定していたけど、こんなに評判になるとは思っていなかったって感じか。

でもそれって、どういうことか。

DA PUMPとして数年ぶりのシングルに、メンバーが微妙だと感じるような曲をわざわざやるっていうのは。

 

渋るDA PUMPに、ダサいけど絶対にバズるから信じてやってみてくれって誰かが説得したんじゃないだろうか。

 

妄想のDA PUMP戦略会議

2018年初頭あたりに開かれたであろう、DA PUMPの戦略会議を妄想してみる。

2014年に久しぶりにm.c.A・Tの楽曲で新曲をリリースするもいまいち世間に浸透していない今のDA PUMPを売るにはどうすればいいか、っていうテーマだったと思う。

たとえばISSAが、昨今のR&Bのトレンドを踏まえた方向性を提案したり、avexのスタッフが若手とのコラボを模索したりしたかもしれない。

 

だけど、その会議にはメンバーやマネジメントなどの内輪の人間だけじゃなく、たぶんいい意味でこれまでのDA PUMPの活動にリスペクトのない外部の人間が絶対いたと思う。

その人間が、「あえてズバリいいますけど、今のDA PUMPがまっとうな音楽性の曲をリリースしたとして、話題になりますか?」とか言ったんじゃないだろうか。

 

「中途半端に上質な楽曲をリリースしたところでどうなります?DA PUMPってそういうグループでしたっけ?ISSAさん、音楽評論家どもに評価されることと、もう一度紅白に出ること、どちらがやりたいことですか?」

「そりゃ紅白だけど…」
「ですよね?じゃあ紅白出たいなら、自分の提案を信じてください。必ずバズらせてみせます」

「そんなに簡単にいくかねえ?」

「ネット発で紅白っていう道筋が自分には見えてます」とか。

 

ここでパワーポイント登場

ここまでで会議の場の空気を一旦支配しといて、満を持してパワポの資料をプロジェクターに投影。

 

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内部資料が流出したっていうつもりでご覧ください。

 

縦軸はスキルとフレッシュさ。横軸は親しみやすさと尊敬。

競合するであろう男性ダンス&ヴォーカルグループをプロットしていき、さてDA PUMPはどこを狙いますかっていう問いかけをしたと思う。

 

さすがにDA PUMPにはフレッシュさはもう望めないので、スキルフルにならざるを得ない。

あとは横軸でどこを狙うかで、DA PUMPのキャリアで普通に考えるとスキルフルで尊敬の対象っていうポジショニングになるんだけど、ただその場所にはEXILEや(グループじゃないけど)三浦大知っていう横綱がすでに鎮座している。

 

すでに立派なキャリアがあるアーティストとしては、スキルフルで尊敬の対象をエグザイル以上に極めたいとか思いがちだけど、そんなレッドオーシャンに飛び込むのは勝ち目ないですよって。それよりもスキルフルで親しみやすいところががら空きですよって。そう説得されたはず。

 

「スキルフルで親しみやすい」っていうポジションは実はネット的な文脈と相性が良くて、これからの時代オススメですと。ただ中途半端にやっても印象に残らないので、「ダサい」って言われるぐらいの強い印象を与えましょうと。

 

そう。この戦略に乗ったからには、とにかくやり切ることが必須。

だから音楽性でもっともダサいところとしてユーロビートを持ってきて、歌詞も小学生レベルの語彙であててきて。

あとは「◯◯ダンス」っていう素人でもギリギリまねできる要素を入れれば完璧。

その会議では「TTポーズ」とか「ランニングマン」とかが例として挙がっていたでしょう。

 

そこまで言われてISSAも腹をくくったんでしょうね。
わかった。どんな曲でも乗ってみせようと。

こうして「U.S.A.」が誕生したわけです。絶対そうです。

 

KPIとしての「ダサい」

こうして世に出たDA PUMPの新曲プロジェクト。

この取り組みが成功したかどうかは、最終的には「U.S.A.」の売上ってことになるんだろうけど、そのゴールに至るまでのプロセスをみるKPI(Key Performance Indicator=重要業績評価指標)として、「ダサい」って言われた回数を計測していてもまったくおかしくない。

 

つまりきみたちが上から目線だかで「ダサい」とツイートするたびに、「U.S.A.」は成功に一歩近づき、ISSAは「あのときの判断は間違ってなかった」と自信を深める構造になっています。

こうしているうちにも、紅白で「U.S.A.」コールが起こる可能性が日に日に高まっているところ。

その前にFNS歌謡祭でスペシャルメドレーとして「ごきげんだぜっ!」からの「U.S.A.」でお茶の間をロックするであろうし、ダンスサークルが学祭でキレキレのいいねダンスを披露するであろう。

 

個人的には、こういうイチかバチかの勝負のタイミングで洋楽の日本語カバーが選ばれたことがうれしい。

世の中にまたひとつ、ものすごい破壊力をもった日本語カバー曲が生まれたわけで、そういう意味では西城秀樹「Y.M.C.A.」の系譜と考えてもいいと思う。

 

あの頃メタルがパンクに片思いしていた

今日もしつこく1990年前後のメタルの話をします

メタルのことをよく知らない人によく聞かれるのが、「メタルとかハードロックとパンクってどこが違うの?」っていうやつ。

たしかにどれもこれも、歪んだギターがザクザクいってるうるさいロックであり、同じように聴こえてもしょうがないかもしれない。

だけど、当事者にとってはその違いは明確で、お互いに「あいつらと一緒にされるなんて心外だ」と思っていたりする。

 

特に80年代にはメタルとパンクは仲が悪かった。ハードコア・パンクの怖い人たちが「メタル狩り」と称してメタルバンドのライブを襲撃するみたいな話はよく耳にした。
どちらも暴れたい若者のための激しいロックであることは同じなんだけど、テクニックがあることや様式美を重んじるメタルと、テクニック以外の面を重んじるパンクでは、思想的に相容れない。

たとえばもっとも有名なパンクロッカーの一人であるシド・ヴィシャスという人は、セックス・ピストルズに加入するまでは楽器を触ったことがなかったというし、なんならそれがかっこいいこととされている。メタルの世界ではそんなこと絶対にありえない。(似た例としては、脱退したギタリストの代わりにザ・タイガースに加入したのにギターが弾けなかった岸部シローぐらい)


実は一部で両者のいいとこ取りみたいなムーブメントもあって、個人的はそのあたりの音は大好物なんだけど、一般的には犬猿の仲だった。

 

 1990年にはこんな番組がNHKで放送されたりもした。

 

対立構造の緩和

それが90年ぐらいになってくると、対立構造が徐々になくなってくる。

 

まずその頃のパンクは、グラインドコアみたいな方向に先鋭化したりネオアコグランジに流れたりしたことで、分散していったイメージがある。

ロディックパンクが盛り上がってくるまでの数年間、パンクはおとなしかった印象。
たとえば日本でいうと90年代に活躍したスガシカオカジヒデキ片寄明人といった人たちはもともとパンクロッカーだったそうで、だけどミュージシャンとしてはパンクという出自から発展していった先で開花している。

そうやって先鋭化と分散化が進んで、保守本流のパンクロックというものの姿が一瞬消えたように見えていたのがこの時代。

 

一方その頃メタルもじわじわ時代遅れになっていく流れがあり、両者ともにかつての勢いがなくなって、メタル対パンクの対立構造はなくなっていった。

 

その傾向の行き着く先に、メタル界でちょっとした流行が発生したのだった。

 

90年代メタル界で発生した謎の流行

それは何かというと、メタルのバンドたちが一斉にパンクロックの名曲をカバーしはじめるという動き。

 

たとえばLAメタルトップランナーであるモトリー・クルーやスラッシュ四天王のメガデスが、ともにセックス・ピストルズの「アナーキー・イン・ザ・UK」というど定番をベタにカバーしたり、ガンズ・アンド・ローゼズがダムドやイギー・ポップらをカバーしたカバーアルバムをリリースしたり。またメタリカは一足早くて1987年にカバーアルバムをリリースしており、その中でパンクも取り上げている。

カバーアルバムといえばボン・ジョヴィの弟分として登場したスキッド・ロウもリリースしており、ラモーンズなんかをカバーしてる。

B‐SIDE OURSELVES

B‐SIDE OURSELVES

 

 

もう少しマイナーどころでは西海岸のエクソダスっていうバンドもエルビス・コステロのカバーをアルバムに収録したし、先日このブログで書いたL.A.GUNSも、ビリー・アイドルなどをカバーしたカバーアルバムをリリースしてる。

 

1990年前後の数年間だけに集中したこの流行、いったいどういうことなのか。

メタル対パンクの対立構造がなくなってきたという土壌の上に、2つの理由が乗っかっているんじゃないか、という推測が今日の本題です。

1ミリも興味ないですよね、ほんと申し訳ありません。

 

理由その一

 まず、ハードロック/ヘヴィメタルというジャンルを作った第一世代ではなく、ヘヴィメタルの影響を受けてヘヴィメタルをやり始めた第二世代に世代交代が進んできたこと。

第一世代とは既存のブリティッシュ・ロックのグッとくる部分を誇張し、パンクのいいとこ取りをしつつ、激しく強く悪く重く進化させていくことで「ヘヴィメタル」っていうジャンルそのものを作っていった人たち。具体的にいうとオジー・オズボーンであり、ジューダス・プリーストであり、アイアン・メイデンでありってことなんだけど。

 

それが1990年頃になると次の世代、つまり第一世代のつくった新ジャンルとしてのメタルを聴いてメタルの道を志した世代が登場してくる。

その中には、実はメタルと同じぐらいグラムロックも好きだしパンクも好きっていう70~80年代のいろんなロックを聴いてきた人たちが少なからずいたはずで。

オリジネーターである第一世代と違って、参照するものがいろいろ存在したため、カバーをやろうという機運が盛り上がりやすかったのではないか。

 

理由その二

もう一つの理由として考えられるのが、ヘヴィメタルがモテなくなりはじめてきたという時代の変化の影響。

 

メタルがダサいものになっていく流れって1991年のNIRVANAで決定的になるんだけど、ちょっと前から予兆はあったわけで、そんな向かい風の予感を感じたメタル勢が、パンクをカバーすることでブランディング面で保険をかけようとしたのではないだろうか。

 

「たしかに今やってる音楽はメタルっぽく聴こえるかもしれないけど、なんていうかこれはマネージャーに言われるがままにビジネスとして誇張してる?みたいなもんで。もうちょっと幅広く、アグレッシブでラウドなロックっていうくくりで捉えてもらえるとありがたいよ。ああ、たしかにメタル一辺倒のダサい人たちっているよね、でもオレたちはそういうのとは違って実はきみらと同じ側の人間なんだぜ?その証拠にパンクも大好き!ラモーンズ最高だよな!」みたいな。

 

ここまで露骨に言い切ってる例は見たことないけど、オブラートにくるんで似たようなことを言ってるインタビューは当時ちらほら見かけた。

 

そんな取り組みがどれほど効果を発揮したかはわからないけど、歴史的事実として、この後ほどなくしてメタルは音楽シーンの表舞台から消えていくことになる。

まあ、ちょっと保険をかけたぐらいでは抵抗しきれないレベルの地殻変動だったということか。

 

メタルの片思い

以上、1990年前後にメタルの人たちが一斉にパンクをカバーした流れを見てきたわけだけど、おもしろいのが逆パターンは皆無ってこと。

つまりパンクの人がメタルをカバーするって例は聞いたことがない。AC/DCとかブラック・サバスぐらいまでならパンクの人がカバーするパターンはあるけど、ど真ん中のヘヴィメタルはさすがに手を出す人はいない。(パンクバンドがサウンド面をまじめに強化していった結果どんどんメタル化するパターンはわりとあるんだけどね、筋肉少女帯とかスーサイダル・テンデンシーズとか)

 

リスナーとしても「メタルも好きっていうパンクの人」よりも「パンクも好きっていうメタルの人」のほうが多い印象。

なんだろうか、この片思い。

 

「パンクはヘタクソなくせに開きなおってるから嫌いだ」みたいな筋の通った意見をもったメタルの人は確かに少なからず存在するけど、「激しいロックが好きなんだよねー」っていうぐらいで特にこだわりのない人にとっては、思想的な対立は関係なく(あえて無視してでも)かっこいいと思うものを聴いていたんだと思う。自分もそういう節操ないタイプだった。

 

 

まあ、いろんな思惑や背景があったにせよ、メタルバンドによるパンクカバーっていう流行が、メタル一辺倒のキッズたちがいろんな音楽に触れるきっかけをつくってくれたことは間違いない。

うまくいってるカバーもあれば、残念な仕上がりになってるものもあったけど。

 

というわけで最後に、いろんなパンクカバーがある中で個人的に激推ししたい最高のやつを紹介します。

 

西海岸スラッシュメタルのバンドによる、デッド・ケネディーズの代表曲のカバー。

毒々しいジャケットのイメージそのまんまの歪みまくったギターがやばいでしょ。最高最高。

 

いや、それとも、やっぱりパンクの人ってやっぱこれ聴いたら怒るんだろうか。

せつない片思いなんだろうか。

サブスクリプション時代のメタル小商い(中学の卒アルとしてのApple Music)

先日Apple Musicが便利すぎて生活が一変したという話をしたんだけど、リスナーの生活だけじゃなくミュージシャンの生活にも大きな影響を与えてるんじゃないかって思うできごとがあったので、今日はそれについて。

 

参考:先日の記事 

大量のレコードとCDに囲まれて暮らしてた生活がApple Musicを2年半使って一変した話 - 森の掟

 

 

例によってフィルターバブルにたゆたうおじさん

過去記事で書いたように、Apple Musicを使いこなせば使いこなすほど自分好みの音楽ばかりがレコメンドされてくるようになり、心地よいフィルターバブルが仕上がっていく仕組みになっている。

 

メタル畑で育ったおじさんのApple Musicのタイムラインには、今日も「アイアン・メイデン 隠れた名曲」だの「スレイヤーに影響を受けたアーティスト」だのといったタイトルのプレイリストが並んでおり、そこをぐるぐる回遊してるだけで十分な感じになってしまっているわけ。

 

しかも、「さてはこいつ特定の時代に思い入れがあるな」ということがApple Musicにバレてしまっており、「ロックヒッツ 1991年」みたいな、世代をピンポイントで突いてくるプレイリストまでオススメしてきやがる始末。

でまたホイホイのせられてそのプレイリストを再生しちゃうっていうね。Apple Musicめの思う壺。

 

そんなある日、「ロックヒッツ 1991年」みたいなプレイリストをだらーっと聴いていて気づいたことがあって。

 

こういうプレイリストには、いわゆる一発屋みたいな曲もたくさん入ってる。こういう機会でもないと聴くことないだろうなっていう。たしかにあの頃に聴いてたんだけど、今の今までその存在もアーティスト名も忘れ去っていたような。

そういうアーティストからすると、過去に一発でもかすっていたおかげで30年ぶりに世界中のフィルターバブルおじさんに聴いてもらうことができたってことになる。

 

一発屋たちの収入について考える

ブームの頃にある程度人気が出たものの、ジャンルや時代を超えるようなA級にはなれなかったバンドはたくさんいる。

そのなかで、現在も細々とライブ活動を続けている人たちも結構いる(これはSNS時代およびフェス時代になって可視化された)。

 

でも、そういう細々とがんばってるバンドでは、ニューアルバムをレコーディングしたとしても、CDをプレスして流通に乗せて、っていうビジネスはもう成り立ちにくい。全世界のCD店の、限られた棚のスペースを確保できるほどのネームバリューはさすがにないよねっていう。

たとえベテランにやさしいメタルの世界であっても、勢いのある若手の新譜がひしめきあってる中に割り込むほどの人気も実力もさすがにない。どうしてもライブでの物販かファンクラブみたいなルートで通販中心にやってくしかない。

 

また、過去の音源はいったん廃盤になってしまったら、中古市場でいくら高値がついても、アーティスト本人には1円も入ってこない。ファンの聴きたい気持ちがアーティスト本人の収入に繋がるルートが存在しなかった。

 

そういう人たちにとって、Apple MusicやSpotifyのようなサブスクリプションの時代というのは大きなビジネスチャンスになってるんじゃないだろうかと思ったわけです。

 

L.A.GUNSさんのこと 

80年代末から90年代初頭にかけてちょっと人気があった、L.A.GUNSというバンドがいる。

あのガンズ・アンド・ローゼズの初期メンバーであるトレーシー・ガンズという人が中心となって結成された、いわゆるLAメタルのバンド。

 

実はわたくしこのバンドが好きで、来日公演も見に行ったほどだった。

軽薄で脳天気なLAメタルのバンドたちの中で、ちょっとダークでイルな雰囲気を醸し出していたのが、なんかかっこいいなって思っていたのだった。

 


L.A. Guns - Rip and Tear

 

以前にすげー長文の記事で書いたように、ヘヴィ・メタルやハードロックという音楽は、1991年以降、急速に勢いを失っていくんだけど、このL.A.GUNSも例に漏れず音楽性を時代にあわせてブレさせた挙句に消息がわからなくなってしまった。

ヘヴィ・メタルはなぜ滅んだか(メタルの墓) - 森の掟

 

自分もその頃にはメタルへの興味を失っていたので、90年代中盤以降はこのバンドのことを思い出すこともなく、平和な日常を送っていたのだった。

 

そしたら2000年代の中頃、内田裕也が毎年やってる「ニューイヤーロックフェスティバル」をぼんやり観ていたら、海外と同時開催ってやってる、アメリカの会場に、なんと「L.A.GUNS」の文字が!

キャパ200人ぐらいのちっちゃいライブハウスで、往年のダークでセクシーな雰囲気をどっかに置いてきてしまって変わり果てた姿のL.A.GUNSが、悪ノリとしか言いようのないライブパフォーマンスをやっていたのであった。メンバーもよくわからない感じに入れ替わっていたし。

どういう経緯があってのことかはわからないけど、その姿にものすごく悲しくなってしまった。見てられないっていうか。

 

そんなわけで、L.A.GUNSの最後の印象は、落ちぶれた姿だったんだけど、そこからさらに10年が過ぎた最近、Apple Musicを通じて再開したっていうわけ。


中学の卒アルとしてのApple Music

落ちぶれた姿の印象のまま記憶から消えていたL.A.GUNSの存在。

来日公演に行ったほどの自分ですらそうなんだから、99.99%の人にとってはさらに思い出す理由がない。

映画「リメンバー・ミー」の設定でいうと、死者の世界からも消えてしまう状態。

 

ところが、Apple Musicの「ロックヒッツ 1991年」みたいなプレイリストのおかげで、偶然L.A.GUNSに再会する人が続出しているはず。もしかしたら初めてL.A.GUNSに出会って、好きになる人だって出てくるかもしれない。

 

そう、AppleMusicの「ロックヒッツ 1991年」は、いわば中学の卒アルみたいなもんで。

「そういえばいたなこんなやつ、元気にしてるかなー」ってな具合で再会できるようになっている。

 

 

しかもご丁寧に、アーティスト名をクリックしたら当時から最新までの全アルバムが出てきたりする。

そのおかげで、中学の一時期にめっちゃつるんでたやつと久しぶりに飲みに行くみたいな感じで、L.A.GUNSの2018年のライブアルバムを聴くことができた。

 

 

どうやらイタリアのミラノでのライブの様子を収録したアルバムのようです。

 

どれぐらいの小バコがわからないけど、世界中をまわってがんばって活動を続けていることが知れたし、再生することでわずかでも本人の収入を増やすことができた。

 

L.A.GUNSみたいなバンドは世界中の40代男性の中学の卒アルに載ってるはずだから、全部足していったらわりとバカにできない額になるんじゃないだろうか。

しかもライブアルバムだから、新曲をつくってアレンジしてスタジオをおさえて、っていう工程は不要。ライブ音源をちょっと整えるぐらいでお手軽にリリースできてしまう。

 

「小商い」っていうのがキーワードとしてここ数年注目されてるみたいだけど、メタルの世界も小商いの時代になってきているのかもしれない。

 

少なくともL.A.GUNSさんにとっては、ちょうどいいビジネスモデルがなくて落ちぶれざるを得なかった2000年代に比べると、だいぶいい時代になっているのかもしれない。 

 

 

しかしいい年して中学の卒アルを見返すなんてよっぽど心が弱ってるのかって感じだし、わたくしのように定期的に卒アルを見返してああでもないこうでもないと論をこねくりまわすのはちょっとした変態だと思うので、安定した収入源になるほどの話ではないかも。

L.A.GUNSさんもそんなにうまく商売できてないかもしれない。

ちょっと本人に聞いてみたいところである。

 

 

 

3歳児に学ぶ、自分の機嫌を自分で直す方法

 

すごく話題になったこのツイート。

こちとら40歳すぎたいい大人なのに、これ実践するのって難しいなって日々痛感してる。

 

ところが、我が家には若干3歳にして自分の機嫌を自分で持ち直すことができる達人がいます。

今日はその達人の技を紹介しようと思う。

 

達人のプロフィール

現在3歳4ヶ月のうちの長男。

最近おむつが外れてきた、箸はまだ使えない、0歳の弟にやきもちを焼く、長男。

同年齢の他の子ができていることができなかったりその逆もあったりで、まあ多少の発達の凸凹はあるよねっていう程度の、ごくふつうの子供。

そして好きなものと苦手なもの見ればわかる通り、まあ典型的な男児オブ男児

 

好きなもの

特殊車両、緊急車両。ダンス。楽器。棒をふりまわすこと。布団にダイブすること。レゴで車をつくること。ミニオンズ。カーズ。ディズニー全般。ゴーストバスターズマイケル・ジャクソン。餃子。焼きそば。のり。イクラ。エビ。

 

苦手なもの

野菜。クリーム。人からレクチャーされること。15分以上じっとしていること。4以上の数の概念。段差から飛び降りること。着替え。三輪車を漕ぐこと。

 

達人が自分の機嫌を直す方法

一見ごくふつうのこの3歳児、自分で機嫌を直すことに関してだけは大人顔負けなのである。

 

といっても、何をされても一切感情が揺れ動かないとか、そういう偉いお坊さんみたいな話ではない。

そりゃ3歳児なので、むしろ感情は揺れ動きまくる。テンション上がりすぎて親がひくぐらいの奇声を発することもあるし、盛り上がりすぎてものを壊すといった、大人にはちょっと理解しがたい男児メンタリティを発揮することもある。

 

そして泣くときは泣くし、怒るときは怒る。

そこまでは特にすごいことはなくて、問題はそこからの機嫌の立て直しっぷり。

 

 

たとえば何か気に食わないことや痛いことがあったら、ぼろぼろ涙をこぼして泣く。

数分ぐらい手がつけられなくなることもある。

しかししばらくすると、おもむろに「おめめふいて」と頼んでくる。

親はタオルやハンカチで涙をふいてあげる。

 

実はこれこそが達人にとっての機嫌直しの儀式になっていて、涙をふいたらもう泣き止んで気持ちが切り替えられている。

叱ったりして親が泣かせた場合であっても、その泣かせた張本人がおめめをふいてもOK。ノーサイド
その儀式が済むと、「さっきないちゃったんだよねー」などと自己を客観視して振り返る余裕すら生じてる。

 

となりで一部始終に接していると、切り替えの速さに毎回驚かされる。

この分野に関しては、親だけど弟子入りしたいと思う。達人。

 

今朝の場合

「おめめふいて」以外にも、達人には機嫌を直すための儀式がいくつか存在するんだけど、今朝のはちょっとすごいパターンだった。

 

この4月から新しい保育園に通い始めた達人。

大人でさえ転職や引っ越しは大きなストレス要因になると言われているのに、いわんや3歳児においてをや。

しかも以前の園は保育士さん1人あたりの子供の人数が少なく、またベテランの保育士さんが多く、わりとのびのび過ごしてきたんだけど、4月からの保育園は保育士さんの数が少なくしかもみんな若い。

そんな環境でさすがの達人も少し気持ちが不安定なことが多い。

 

今朝は保育園に行きたくないと、はっきりと拒否してきた。

 

それでもなんとかなだめすかして、保育園の建物の中には入ることができた。

しかし、3歳児クラスの部屋には断固として入ろうとしない。部屋の前の廊下にある椅子に腰掛けて、「きょうはここにいる」と。

困ったなと思ったけど、いいからさっさと行くぞみたいに頭ごなしにやっても逆効果でますます頑なになるだけなのはわかっていた。


なので一旦自分も対面に座って、さてどうしようかなみたいに目線を合わせてみた。

 

カリオストロの城」の儀式

向かい合って椅子に座ってると、達人は「じゃんけんしよう」と言い出した。
何かわからなかったけどつきあってみた。
すると自分が負けた。そしたら達人いわく「タイヤかえるんだよ」って。

 

あ、これあれだ。

 

映画「ルパン三世 カリオストロの城」の最初の方で、乗ってる車のタイヤがパンクしてルパンと次元がじゃんけんしてどっちが修理するか決めるっていうシーン。

数日前に見たことが記憶に残っていて、それをやろうと言ってるらしい。

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そのことに気づいたので、長男と一緒に座席の下にタイヤがあるていで、ジャッキアップのふり、タイヤを外すふり、新しいタイヤをはめるふり、ネジを締めるふりをやり切った。
タイヤ交換完了、よかったねなんて言い合ってると、なんか落ち着いた顔になってる。

 

今この瞬間を逃すまいと思い、流れで教室まで連れて行くと、すんなり部屋に入ってみんなに合流。さっきまで断固拒否してたのが嘘みたい。

よくわからないけど、一緒にタイヤ交換の儀式をする過程で気持ちの整理がついたらしい。

 

というわけで、達人が自分で機嫌を直す技は今日も冴え渡っていた。

 

急がば回れ

朝の忙しい時間にタイヤ交換につきあうのはリスクがあった。3歳児の遊びマインドに火がついてしまって、そこから延々つきあわされるおそれがあったし、つきあったところで機嫌が直るという保証もない。

 

しかし、これまでの経験上、これは達人なりに手打ちができる落としどころを探ってきてるなという感触があった。

単なる遊びではなく、機嫌を直すための儀式だということが理解できたので、つきあってあげることにしたわけ。

 

結果、あっさりと機嫌は直った。

カリオストロの城のタイヤ交換ごっこに誘われたとき、「うんうんまた今度ね」とか「いいから早く来なさい」って言ってしまわなくてよかった。

 

焦って達人の儀式を見逃してしまうと、逆に機嫌を直すチャンスを棒に振ってしまう。

今日はそこに気づけてよかったなと自分で誇らしいのと、さすが達人だなー!という尊敬の気持ちの両方を味わえた今朝だった。