森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

「LL教室の試験に出ない90年代シリーズ 1991年」をふりかえって

さる4月1日、LL教室のトークイベントがいつものように荻窪ベルベットサンで開催された。

今年に入ってから、90年代J-POPを1年ごとに取り上げるイベントをやっており、今回は2回目。

前回は1998年編として、ゲストにBEAT CRUSADERS?THE STARBEMSの日高央(ヒダカトオル)さんをお招きし、CDバブルの時代とインディーズシーンの勃興について、危険球が飛び交う半分以上がオフレコな感じで語って大盛り上がり。

 

さて今回はまた趣向を変えて、ゲストに精神科医にしてミュージシャンの星野概念くんをお迎えし、1991年を掘り下げることになった。

星野概念といえばつい先日、あのいとうせいこうさんとの共著「ラブという薬」を出したばかりで勢いに乗ってるタイミング。

ラブという薬

ラブという薬

 

 

星野概念のこと

星野くんとは昔お互いバンドをやっていた頃からの繋がりで、何度か対バンしたことも。

I'M SENSITIVE

I'M SENSITIVE

 

このCDが出たのももう20年前か!

 

その後、バンドを離れてお互いにマルチな(=いろんなことに首を突っ込む)人生を送るようになったんだけど、星野くんの動向は常に気にしてた。
去年には何となく流れでサシで飲むようになり(わたくしお酒が弱いので誰かとサシで飲むのは人生で数度)、流れで彼がやってる星野概念実験室というグループのライブにカホンで参加するなどした。

そして今年、LL教室で90年代J-POPを掘り下げようということになり、イベントのゲストに誰を呼ぼうかという会議の際に何気なく星野くんの名前を出し、自分が知ってる彼の人となりを説明したところ、ぜひぜひということに。

 

テーマはどうするか

星野くんに来てもらうならどういうテーマでいくか。

以前に飲んだときにチャゲアスのことがすごく気になっているという話をしていたので、じゃあASKAオリコンチャート上位のヒット曲を連発した1991年だろうと。

1991年といえばSMAPがデビューした年ということで、ジャニーズ研究家の矢野利裕くんとしても語り甲斐があるであろうと。

森野さんや自分は当時高1~中3という多感な時期であり、時代の空気を絡めた話ができそうだし。

ちなみにわたくしハシノがどんな1991年を過ごしたかについてはこの記事を参照のこと。

guatarro.hatenablog.com

 

そんな感じでテーマは決まり、打ち合わせや顔合わせと称した飲み会などを重ねつつ当日へ。

 

イベント前半戦

いよいよイベント当日。
まずは1991年とはどんな時代であったか、いつものようにパワポでつくった資料を投影しながら振り返る。

 

 

前回1998年をテーマにした際には、いうても20年前だし客席と一緒に懐かしむモードで進んでいったんだけど、今回はちょっと様子が違った。わりとベタなあるあるネタのつもりでしゃべったことが、なんか反応薄い。

あとで気づいたけど、1991年ってもうほとんど30年前なわけで、アラサーの人でさえ物心ついてるか微妙なレベルの過去なんだよなー。そりゃ反応薄くもなるわな。

 

たとえば、この年のオリコンアルバムチャート1位はユーミンの「天国のドア」なんだけど、ユーミンが毎年冬にアルバムを出して、アルバムのコンセプトを発表し、それが恋愛の神様のお告げのように世間に受け取られていたことなど、そういう時代の空気みたいなものはなかなか後世に語り継がれづらいし追体験が困難。
またたとえば、アラサー以下の人にとってドリカムといえば男女2人という形態で思い浮かべると思うんだけど、40代以上にとってのドリカムはいまだに男2人女1人の形態。なのでたまにおじさんが「おっ、ドリカム状態だね」などと言うときは男2人女1人のこと。当時はこの編成が珍しかったのですよ。

 

チャートを眺めてみてあらためて思うのは、時代の転換期だなということ。

1990年にバンドブームが最盛期を迎え、同時に終わりかけた。1991年にはすでにチャートの100位以内にはほとんどロックバンドがいない。
90年代前半のチャートを席巻するビーイング系は、B'z以外まだ本気を出していない。T-BOLANWANDSZARDはこの年にデビューしている。
つまり、バンドブームとビーイング系の境目。

 

また、この年にデビューしたアーティストがなかなか興味深い。
電気グルーヴフィッシュマンズスピッツBLANKEY JET CITYLUNA SEA、L-R、スチャダラパーなど。
80年代後半からバンドブームまでの若者向け音楽といえばだいたいパンクかメタルだったわけだけど、ここにきてテクノやレゲエ、ヒップホップ、ヴィジュアル系まで音楽性が一気に広がった感じ。
その後の90年代の日本のロックの基盤ができた時代だと言えるかも。

 
 
 

 

一方でチャートの最上位を見てみると、「ラブ・ストーリーは突然に」「SAY YES」「しゃぼん玉」のようにドラマの主題歌から売れた曲が多い。それと同時に、ASKA槇原敬之長渕剛、ドリカムと、その後薬物がらみで問題になった人がベスト10のうち半分を締めているのも何かを示唆しているかもしれない。10位以下にしてもJ-WALKとかいろいろいる。

むりやりこじつけるなら、バブルの狂騒のなかで大衆に響く音楽を100万枚単位で届けるというハイパーで強烈な体験をした人が、祭りがはじけた後、当時のハイパーさを人工的に得ようとしたのかもしれないなとか。

 

イベント後半戦

休憩を挟んで、いよいよ星野くんによるチャゲアス論に。
ジェームス・ブラウン矢沢永吉、フレディー・マーキュリーなど、とにかく昔からジャンルに関係なく強烈な個性のアーティストに魅力を感じるという星野くん。
そうなるとASKA飛鳥涼)という人も強烈さという意味ではかなりの人材。

まずは1991年にリリースされたチャゲアスの代表曲「SAY YES」の歌詞を分析。

このとき壇上には精神科医と文芸批評家と構成作家という、言葉のプロが揃っていたわけで、それぞれの観点から容赦なくメスを入れていく。

 

余計な物など無いよね
すべてが君と僕との愛の構えさ
少しくらいの嘘やワガママも
まるで僕をためすような
恋人のフレイズになる
このままふたりで 夢をそろえて
何げなく暮らさないか
愛には愛で感じ合おうよ
硝子ケースに並ばないように
何度も言うよ 残さず言うよ
君があふれてる
言葉は心を越えない
とても伝えたがるけど
心に勝てない 君に逢いたくて
逢えなくて寂しい夜
星の屋根に守られて
恋人の切なさ知った
このままふたりで 朝を迎えて
いつまでも暮らさないか
愛には愛で感じ合おうよ
恋の手触り消えないように
何度も言うよ 君は確かに
僕を愛してる
迷わずに SAY YES 迷わずに
愛には愛で感じ合おうよ
恋の手触り消えないように
何度も言うよ 君は確かに
僕を愛してる

 

まず間違いなく言えることは、基本的にASKAは自分にしか興味がない人で、自己完結してる。恋愛の歌であっても、相手に語りかけていても、相手がどう考えているかは実はあまり関係ない。
「余計なものなどないよね」の「ね」にはっきりあらわれている。

「君は確かに僕を愛してる」という断言に、根拠はあるのか。とかね。

何よりも、「SAY YES」って命令形だから。YESって言えってことだから。

 

星野くんによると、ライブで「SAY YES」を歌うとき、コールアンドレスポンスになるんだけど、ヒップホップでよくあるように「SAY HO-」ってコールされたらレスポンスは「HO-」だけであって、「SAY YES」って言われたレスは「YES」だけのはず。しかしチャゲアスの場合「SAY YES」ってASKAにコールされたら観客も「SAY YES」ってこたえるらしい。つまりここでの「SAY」は、観客対する呼びかけ(コール)ではなく歌の世界の中でASKAがしつこく相手に語りかける洗脳ワードのパーツであり、観客もコールに対するレスポンスというかたちではなくASKAと同じ目線で洗脳のテクニックを練習するかのごとく「SAY YES」とこたえるのだという。

…この説明、伝わってるかどうか全然自信がないけどいかがだろうか。

 

とにかく、ここまでは言葉の専門家が寄ってたかってASKAの言葉からASKAという人間を解き明かしたパート。

続いてそこからは、ASKAがいかに強烈か、チャゲがいかに女房役として支えているか、フィジカルな存在としてのASKAをライブ動画をまじえてじっくりと味わっていく。

 

いくつかの動画を観た中で、ベルベットサン全体が揺れるほどの笑いとどよめきが起きたこれをご紹介。


BankBand With ASKA - 名もなき詩~YAH YAH YAH

 

ミスチルの「名もなき詩」を完全に自分のものにして歌い上げ、そこから「YAH YAH YAH」へと続く怒涛の展開。

「YAH YAH YAH」の思わず拳をあげたくなるあのカタルシスがライブでさらに増幅されてるし、バケモノかってレベルで歌うまいASKAが、薬物に頼らずにあそこまでブチ上がってるさまは、もう笑いが出るし元気になる。

イベントから数日たった今日までの間にまた何回か観てしまった。

 

まとめ

ASKAの動画でひとしきり盛り上がったあと、そろそろ締めのパートへ。

 

結論めいたことを言うなら、1991年はやはりバブル的なものや昭和的なものの終わりの時期であり、平成的な不景気のはじまりでありって感じ。

キメキメの衣装がダサいものになり、Tシャツとジーパンで客前に出ることがよしとされるようになった。

華やかな歌番組ではなく、ときに内輪ノリにもなるようなバラエティ番組の時代。

アイドルという存在がやりづらくなり、アーティストというパッケージで売り出さざるを得なくなったり(ZARDLINDBERGなど)、ひたすらポジティブで、だけど具体的なことは言わない歌詞のJ-POPがいよいよ時代の真ん中に入ってきたりした。

 

そんな転換期を象徴するような存在としてピックアップした1991年のこの曲を、最後に一緒に味わいましょう。


織田裕二 歌えなかったラヴ・ソング PV

何か大事なことを言ってるような雰囲気だけはするけどっていう、尾崎豊っぽさだけはある歌詞。

 

何曲か歌詞を分析してみたけど、徹底的に抽象的。

誰にでも当てはまるように、聴き手が我が事と感じてくれるような余地をわざと残しているかのよう。

「がんばろう」と歌うとき、「何のために(WHY)」「何を(WHAT)」がんばるのかは一切言わない。「どのように(HOW)」がんばるかをとにかく言い続けるっていう。

 

もしかしたらこれ、昭和40年代ぐらいまであった政治の季節の反動なのかも。

「世の中を良くするために」など、あの時代にはWHYが満ちていた。WHATもあった。

だけど時代は移り変わり、重苦しくてダサい昭和を脱ぎ捨てて、軽やかな平成を生きることになったとき、大きな物語みたいなものは邪魔になる。

 

それがJ-POPの歌詞の背景にある空気なのかもしれない。っていうような話を最後にして、イベント終了。

今回も硬軟織り交ぜてなかなか深いところまで話せたのではないでしょうか!

 

次回は7月1日。また豪華ゲストをお招きしてやりますので、よろしくお願いします!

1991年のこと

1991年は中学3年生だった。

中高一貫校だったので受験がなく、人生でもっとも勉強をしなかった時期。

サッカー部は辞めていたし軽音楽部でバンドを始めるのは高校に入ってからだし、その間の空白期間で友達も減ったし何かをがんばった記憶が一切ない。

やっていたことといえば夜更かししてテレビやラジオの深夜番組をチェックしていたことと、いろんな音楽を聴きあさっていたこと。

 

FM802

当時の大阪ではFM802が開局したばかりで、とにかくこの局を聴いてることがイケてると思っていた。

特に何かがんばっているわけでもないくせに自分は人とは違うと思いたくて「洋楽聴いてる俺カッコイイ」を唯一の拠り所にしたかったのだった。

https://pds.exblog.jp/pds/1/201306/21/40/d0171240_22595847.jpg

FM802のカウントダウン番組とかを聴いて流行っていた洋楽ヒッツを片っ端からチェックしていくなかで、ピンときたのがハードロック/ヘヴィ・メタル

当時はメタリカとかガンズとかMr.BIGなんかがチャートの上位に入っていたので、洋楽ロックを聴くことイコールそういうことだった。そういう時代。

 

一方で、打ち込みっぽいバンドにも耳が反応していた。

当時のUKではストーン・ローゼズとかハッピー・マンデーズとかのいわゆるマンチェスター勢が盛り上がっていたし1991年といえばあのプライマル・スクリーム『スクリーマデリカ』がリリースされているんだけど、FM802のチャートをなぞっているだけの中3はそこまでたどり着けなかった。

だけどそれらのシーンの影響下にありつつよりポップにしたような存在がちょいちょい出てきていたのも1991年の特徴。その中ではEMFとかジーザス・ジョーンズとかが好きだった。

日本ではフリッパーズ・ギターが「ヘッド博士の世界塔」でやったような感じ。電気グルーヴの「FLASH PAPA」もこの年。


EMF - Children (Official Music Video)

 

重要な情報源

当時FM802と同じぐらい重要だった情報源が、「SONY MUSIC TV」という番組。

トークもなにもなくひたすら洋楽のPVが流れ続けるというだけのテレビ神奈川の番組を、KBS京都というUHF局で観ていた。

どんな背景があるアーティストだとかどんなジャンルだとかいった文脈が一切なしの状態でPVだけで好きか嫌いか感じるというのは、いい体験だったと思う。

 


【懐かしい映像】SONY MUSIC TV オープニング 1989年

 

半年に一回ぐらいメタル特集をやってくれるので特にその回は録画して熱心に観ていた。

それ以外の回は、大量の興味ない曲のなかにたまに好きな感じの曲が流れるため、ビデオの編集もできないしテープが何本あっても足りないということで、基本的に録画はしてなかった。

 

そんな感じで毎週ナマでチェックしていたある日、とある曲の映像にめちゃめちゃ衝撃をうける。

アーティスト名は控えたのでCDは買えたけど、あのビデオを何としてももう一回観たい。

いろいろ考えてたどり着いたソリューションが、デジタルジュークボックス。

あのボーリング場の空いてるレーンの画面で流れてるあれ。

高校の近くのJR高槻駅前のロッテリアにデジタルジュークボックスがあることを知り、毎日のように友達と通いつめ、コーラ一杯で粘りつつ100円玉を投入してその曲のPVを観ていたのだった。

きみたちがyoutubeで無料で好きなだけ観てるPVを、おじさんはそういう苦労をして観ていました。知るかって言われると思うけど。

 

で、1991年のJR高槻駅前のロッテリアでもっとも流れたPVはこれ。


Red Hot Chili Peppers - Give It Away [Official Music Video]

 

このキモチワルイ映像に、中3のわたくしはとんでもなくハマったのでした。

そしてこの曲が収録されたアルバムは何千回と聴きまくったし、アルバムのレコーディングを追ったドキュメンタリー映像も観た。

 

1991年9月24日

後から調べてわかったことなんだけど、90年代以降のロックの歴史を変えてしまった2枚の重要なアルバムが、偶然にも同じ1991年9月24日に発売されている。

 

1枚目は前述のレッチリの「BLOOD SUGAR SEX MAGIK」。

のちに世界一の現役バンドになるレッチリも、このアルバムが出るまでは、白人なのにファンクをやるバンドとか、ラップをやるロックバンドとか、ベーシストが超絶テクとか、そういう話題性で語られてる感じだった。

このアルバムがめっちゃ評価され、レッチリは大物バンドの仲間入りを果たしていくし、またこういうファンクな要素のあるロックがブームになっていく。和製英語では「ミクスチャー」と呼ばれた。

 

そして、同じ日にリリースされたもう1枚の決定的なアルバムというのが、ニルヴァーナの「NEVERMIND」。

このアルバムによって、アメリカのロックのトレンドが一気に変わっていく。

そのあたりの経緯はこの記事に書いたのでよかったらどうぞ。
guatarro.hatenablog.com

 

自分もまんまとこの波に飲み込まれ、それまでメタル少年だったのが、一気にオルタナグランジ化していく。FM802や「SONY MUSIC TV」でもメタルが減っていく。

 

ただし節操なくなんでも聴いていたので、メタルを完全に捨てたわけではなく、この後、よりハードなスラッシュメタルデスメタルに触手を伸ばしていくことになる。

 

一方日本ではバンドブームが終わりかけていた 

 日本の音楽に興味がなかったわけではなく、バンドブーム期のバンドはいろいろ聴いていた。

1989~1990年ぐらいは深夜のテレビにバンドがいっぱい出ていたり、デビューの話もけっこうあったんだけど、1991年にはちょっと下火になってきてる雰囲気が中学生ながら感じられた。

デビューしたバンドはいても、ライブハウスから叩き上げた感じというよりは、大人たちによって作られた感があるバンドが目立つなと思っていた。まあ実態はどうあれ、好きな感じじゃないなと思っていた。のちのビーイング系とかがバンドブームと入れ替わるように出てきた時期。

 

そんな中でハマっていたのが、すかんち

ダウンタウンのごっつええ感じ」の主題歌になってブレイクするまでに2枚のアルバムをリリースしていて、その2枚をめちゃめちゃ聴き込んでいた。

60年代のブリティッシュ・ロックや日本の歌謡曲の引用がめちゃめちゃ多いすかんちだけど、中3にはわかるはずもなく、普通にかっこいいと思って聴いてた。また歌詞がストーカー気質だったり妄想がすぎる感じで、ちょっといいなと思ってた女子にカセットテープを貸してすかんちの良さを力説したらドン引きされたという苦い思い出あり。

 

あとは筋肉少女帯

メタル少年には音楽性がどストライクだったのと、自分は他人とは違うっていう中3の気分に大槻ケンヂの歌詞がハマるハマる。

1990年に「サーカス団パノラマ島へ帰る」「月光蟲」、1991年には「断罪!断罪!また断罪!」という名盤を立て続けにリリースし、メタル期の筋少の黄金時代って時期に間に合った。ナゴム時代から追っかけてるおねえさま方にはかなわないけど、今となってはそれなりに古参ということ。

 

上々颱風

関西の深夜ラジオのなかではABC朝日放送が音楽性の面ではもっとも尖っていて、いろんなおもしろいものに出会うきっかけをくれた。上々颱風もそのひとつ。

当時うちの母親がワールドミュージックに興味をもっていて、細野晴臣が監修したコンピなんかを母子でよく聴いていたんだけど、その流れで、これ好きだってすぐ思った。

80年代末ぐらいから「エスニック」って言葉がちょっとしたトレンドワードになっていたんだよな。映画版「AKIRA」の音楽に芸能山城組ガムランが使われたりとか、タイ料理とか激辛カレーとか。

河内家菊水丸がちょっと流行ったのもいうたら同じ文脈だと思う。日本の中のエスニックな存在というか。

 

圧倒的だったユニコーン

そんな感じで、中3にしてはわれながらセンスよく雑食してたなと思うんだけど、もっともハマっていた日本のバンドは、なんといってもユニコーン

1989年に「服部」、1990年に「ケダモノの嵐」という名盤を立て続けにリリースし、人気・実力ともにすごいことになっていた時期。音楽性の幅広さ、アイドルから本格派に毎年進化していく感じ、メンバーがみんな曲書いて歌えるところなど、ビートルズと比較するような言われ方もされるようになっていた。

しかし、1970年代前半生まれの男性(つまり1991年当時に大人だった)からすると、ユニコーンといえば若い女の子向けのアイドルバンドみたいに見られてて、あまりちゃんと評価されてなかった。先輩バンドマンとかスタジオのおにいさん連中に、ユニコーンが好きって言ったら軽くバカにされる空気あったもんな。

 

そんなユニコーンが、1991年にリリースしたのが「ヒゲとボイン」。

当時インタビューで奥田民生は「このアルバムの良さがわかるのは20代後半以上だけ」みたいなことを言っていて、捨てられた!って思ったし、メインのファン層はそれこそ10代〜20代前半の女性だっただけに、そこ全部捨てるのかってびっくりしたもんだった。

でも音を聴いてみたら確かにそうで、デビューから数年でどんどん枯れていき、複雑だったコード進行はひたすらシンプルになり、音数も減り、引き算の美学がすごかった。音楽性の幅は相変わらず広いんだけど、70年代のちょっと黒くて渋いロックが中心。

 

中3にはちょっと早いんだけど、食らいついて聴き込むことで良さがわかってきて、とにかく愛聴していた。


ユニコーン/開店休業

 

ユニコーンはとにかく大好きで。

めっちゃ曲がいいというだけでなく、たとえば歌詞カードのスタッフのクレジットで遊んでいたりとか、インタビューでふざけていたりとか、なんていうか遊んでいるみたいに仕事している感じにすごく憧れた。

音楽を仕事にするっていうことがこういうことなんだったら、なんてすばらしいんだと思った。

 

ダサい中高一貫の男子校でくすぶっていた中3が、よりどころになるものを見つけたような気になった瞬間。

 

いろんな音楽を浴びるように聴いて、自分なりに味わいどころがわかってきた時期でもあり、自分で音楽をやってみたいと思いはじめたのが1991年だった。

 

その後、20代30代をほぼ丸ごとバンドマンとして過ごし、今でもこんなブログやったり90年代J-POPを語るトークイベントをやったりしてるわけで。

 

あ、そうそう。90年代J-POPを語るトークイベントといえば、4月1日にこんなのやります。

www.velvetsun.jp

 

LL教室の試験に出ない90年代J-POP 1991年編

【出演】LL教室(森野誠一、ハシノイチロウ、矢野利裕)ゲスト:星野概念(ほしの・がいねん)

【会場】荻窪ベルベットサン

【開場】18:00
【開演】18:30
【料金】1,500円+税 (1ドリンク別)

 

90年代J-POPを1年刻みで深掘りしていくトークイベントの2回目。

前回は元BEAT CRUSADERS〜THE STARBEMSの日高央(ヒダカトオル)さんをお招きして、CDがもっとも売れたバブル期にしてインディーズ界も活気があった1998年を取り上げて大盛り上がり。

そして今回のゲストは、精神科医にしてミュージシャンの星野概念くんをお迎えします!

 

星野くんは実は10年ぐらいまえからの付き合いで、お互いに当時やっていたバンドで対バンするなど交流があって。最近では彼がやっている星野概念実験室という音楽グループのライブに参加してカホンを叩いたり。

昔からすごくおもしろい人物だったんだけど、最近それが世の中にバレてきて、いろんなところで連載を持つようになっていたり、先月にはなんとあのいとうせいこうさんとの共著「ラブという薬」を出版。  

ラブという薬

ラブという薬

 

 

そんな星野くんと一緒に掘り下げていくのは、トレンディドラマ全盛の1991年。

101回目のプロポーズ」の「SAY YES」をはじめとする当時のJ-POPを”診察”してくれるそうです。

 

おもしろいことになりそうな予感しかしない。

ぜひお越しください。

 

ヘヴィ・メタルはなぜ滅んだか(メタルの墓)

黄金時代

信じられないかもしれないけど、ハードロックとかヘヴィ・メタルが若者むけ音楽のど真ん中だった時代がたしかにあった。

ピークは1980年代の中盤ぐらい。

 

後にレジェンドとか神とか呼ばれるようになるバンド(アイアン・メイデンとかジューダス・プリーストとかボン・ジョヴィとかモトリー・クルーとか)が働き盛りで、たとえばアメリカで抱かれたい男ナンバーワンといえばヴァン・ヘイレンのデヴィッド・リー・ロスであり、日本でも少女マンガに出てくる憧れのセンパイが長髪で革パンのバンドマン(アルフィー高見沢みたいな)だったりした。

https://i.pinimg.com/originals/35/04/14/350414946898b5de5396d35c989a3f24.jpg

ダイヤモンド・デイヴことデヴィッド・リー・ロス

 

基本的にみんな派手で豪快で大味なノリで、細かいことは気にしない感じ。

歌ってる内容も、ワイルドなパーティー生活、オンナ、酒、ドラッグみたいな世界か、もしくは悪魔、狂気、殺人みたいなテーマ。

 

 

 

言ってしまえば能天気な、陽気な人たちがロック音楽のマジョリティだった。

 

あの日までは。

 

 

あの日(1991年9月24日)

「あの日」とは、1991年9月24日。あのアルバムがリリースされた日。

 

ネヴァーマインド

 

そう。ニルヴァーナのメジャーデビュー・アルバム「ネヴァーマインド」が、ハードロックとかヘヴィ・メタルの黄金時代を一瞬にして終わらせてしまった。

 

このアルバムが爆発的に売れまくり、同じようなシーンで活動していた他のバンドたちも注目されていき、そのうち「グランジ」とか「オルタナティブ」とか呼ばれるジャンルを形成していく。

サウンドガーデンソニック・ユース、マッドハニー、ダイナソーJr.、L7、フェイス・ノー・モア、ジェーンズ・アディクションパール・ジャムスマッシング・パンプキンズなどなど。

 

その結果、昨日まで世界の中心にいたはずのロックスターたちが、あっという間に古い人たちになってしまった。

ロックスターたちの派手な衣装や超絶技巧のギターソロ、破天荒な生き様などはすべてダサくなった。

 

歌われる歌詞の世界観も一変し、内省的で観念的でおおむね低血圧で暗い。

アメリカの景気が悪くなっていったこともあり、そういう歌詞のほうがリアルだと感じられる時代になっていたのだった。朝までパーティーだぜとかそういうんじゃないんだよね、って。

 

 

妄想:兄貴が東海岸の大学に行ったアメリカの田舎の高校生

1992年頃のアメリカ中部のとある田舎町の、こんな高校生を妄想してみる。

 

今年から東海岸の大学に進学している2つ上の兄貴が、夏の休暇で久しぶりに帰ってきたとする。

2人は去年まで、オジー・オズボーンやっぱ最高だよなとか言いながら爆音でメタルを流して頭を振っていた仲良し兄弟。

久しぶりに兄貴とメタルの話ができると思ってワクワクしてた弟。

フレディ・マーキュリーの追悼コンサート観た?ガンズとメタリカデフ・レパード最高だったよな!」とか言い合いたい。

 

ところが、帰ってきた兄貴の様子がちょっとおかしい。

長髪で黒いTシャツを着て家を出ていった兄貴が、髪を切ってネルシャツを着て帰ってきた。

地元のダチと無茶な飲み方をしたとかそういう話を一切しなくなり、代わりにブッシュ政権批判を口にするように。あの兄貴が。

挙句の果てに、弟の部屋に貼ってあるモトリー・クルーのポスターを見て、「お前まだこんな頭カラッポの幼稚なやつ聴いてるのかよ」と言い出す始末。

 

東海岸の大学で兄貴は変わってしまった。

 

でも確かにMTVで観たニルヴァーナは正直かっこいいと思ってしまったし、自分の気持ちに近いことを歌ってる気がした。それに比べてモトリー・クルーは確かに幼稚かもしれない。

ニルヴァーナがインタビューでメタルのことをバカにしてるのを読んで悲しい気持ちになったけど、そういえばクラスのイケてる奴らはラップを聴いてるし、気になるあの娘はR.E.Mっていうバンドが好きって言ってた。

 

…当時アメリカ中いたるところでこんな光景が繰り広げられてたのではなかろうか。

 

 

メタル界の反応

こんな感じでニルヴァーナやそっち系のバンドたちに若いリスナーをどんどん奪われていく一方のハードロック/ヘヴィ・メタル界。

自分たちのアーティストとしてのイメージ戦略とか築き上げてきたブランド、世界観が一夜にしてダサいものとされてしまった。

 

地上の覇者として君臨してきた恐竜たちが隕石落下による気候変動でバタバタと絶滅していったかのように、半年前までイケイケだった大物バンドが活動休止やメンバー脱退などの混乱状態に陥っていった。

おそらく、ライブの動員やCDのセールスが明らかに激減していったんだと思う。

それはもう心中察するに余りある。

 

このまま為す術なくジャンル全体が終わっていってしまうのか。

気の毒だけどそれも時代の宿命なのかもしれないと思われた。

 

 

しかし、座して死を待つバンドだけではなかった。

環境の変化に合わせていこうと必死にあがくやつらもいた。

 

 

必死にあがいたバンドたち

モトリー・クルーの場合

華やかなL.A.メタルの代表選手。ワイルドでセクシーな不良な彼らは、一方でビジネス感覚にも秀でており、ちゃっかり生き残りをはかっていく。

<before>

1987年のアルバム。「ガールズ・ガールズ・ガールズ」ってタイトルそして革ジャンといかついバイク。

 

<after>

1999年のアルバム。オルタナ感をかもしだすロゴ。「スーツを着た豚と星条旗」っていう、中学生が見ても「何かの風刺なんだろな」って理解できるジャケ。

 

デフ・レパードの場合

キャッチーな楽曲で全盛期には数千万枚アルバムを売ったイギリスのハードロックバンド。80年代を象徴するようなキラキラした音なので、グランジの影響をモロに被った。

<before>


Def Leppard - Pour Some Sugar On Me

1987年の大ヒット曲。スタジアムが似合うスケールの大きいロック。

 

<after>

ジャケの雰囲気からかなりグランジに寄せてきてる。曲も民族音楽っぽかったりダークだったり。ベテランの意地にかけて時代にキャッチアップしようという心意気は伝わってくる。

 

 

ウォレントの場合

いわゆるL.A.メタルの中でも後発組だけど、キャッチーな楽曲ですぐに注目されたバンド。

<before>

1990年の大ヒット作。このジャケにして邦題が「いけないチェリーパイ」っていう、何をか言わんやである。

<after>

1992年のアルバム。たった2年でここまでイメージを変えてくるんだからすごい。スケボーとかバスケが好きなストリート系キッズがジャケ買いしてしまいそう。

 

エクソダスの場合

アメリカ西海岸のスラッシュメタルシーンを代表するバンド。切れ味するどいザクザク感がクセになる。

<before>

1989年のアルバム。色使いといい表情といい、最高に頭悪そうで大好きなジャケ。音もまあそんな感じ。

 

<after>

1992年のアルバム。さっきと同じバンドとは思えないぐらい「アート」してるジャケ。音も明らかにグランジを意識した重さ。

 

 

他にも事例はたくさんあるけど、共通して言えるのは、能天気さ/豪快さ/ポップさ/陽気さといった要素を消して、リアルで/ダークで/シリアスで/ストリート感を演出しようとしていったってこと。

そうすることで、「大学生の兄貴にバカにされない」音楽に脱皮しようとしたわけ。

 

もちろん、昔からメタルシーンを支えてきた古株たちはこの流れに反発する。

日本のメタル専門誌「BURRN!」も、上記の<after>のアルバムは軒並み低評価。

コアなファンは離れてしまい、思ったほど今どきのキッズにも刺さらず、路線変更はうまくいかなかった。

 

 

全体として、90年代のアメリカでは、恐竜は一旦ほぼ滅んでしまう。

(東欧とか南米とかアジアなどの地域では、比較的メタルはしぶとく生き残ったりもしてて、それはおそらく「兄貴が進学した東海岸の大学」的カルチャーが少ないから)

 

その流れは1994年にカート・コバーンが死んでニルヴァーナが解散した後も止まらず、騒がしい音楽で暴れたい高校生のニーズは、オフスプリングとかリンプ・ビズキットとかマリリン・マンソンあたりが汲み取っていくことになる。

 

映画「レスラー」

2009年の映画「レスラー」は、全盛期を過ぎたおっさんプロレスラーの話。

めちゃめちゃいい映画なのでみんな観るべきなんだけど、注目すべきは映画の中で主人公とストリッパーが意気投合するシーン。

 

80年代はよかったよな。

ガンズ・アンド・ローゼズモトリー・クルーがいて。

なのにニルヴァーナが出てきてダメになった。

90年代は最悪。

 

上記の恐竜たちと主人公がオーバーラップして、メタル好きには二重に泣ける。

思えばプロレスも、90年代になってリアルな格闘技に押されて下火になった時代があった。

「ロープに振られて戻ってくるなんてダセー」ってのと、「ギターソロで速弾きするなんてダセー」って気分は似てる。

 


レスラー

 

ロックの焼け跡派

かくいう自分も、十代の前半をメタル全盛期として生き、後半をグランジオルタナ全盛期として生きた世代。価値観の変わり目をリアルタイムで味わったし、どちらにも同じぐらい思い入れがあって、どちらか一方を否定することができない。

 

小学校時代に終戦を迎えて軍国主義から民主主義に180度振り切った昭和の焼け跡世代と同じで、流行っていうものに対するある種のニヒリズムが根底にあるし、戦後民主主義の申し子を自認しつつも同窓会では結局みんなで軍歌を歌っちゃうみたいなノリで、なんだかんだメタルのほうが無条件に盛り上がってしまう。

 

 

焼け跡派の野坂昭如が「火垂るの墓」を書いたような気持ちで、この「メタルの墓」を書きました。

説教したくなるほどモテすぎて困ってるオスどもの音楽(ヒムロックからBAD HOPまで)

昔のロックスターの方々は説教したくなるほどモテすぎて困っていた

90年代前半ぐらいまで、ロックバンドは今よりもっとオラついていた。

メガネをかけたメンバーなんていなかった。

 

歌詞の世界観もまるで違っていて、「尻軽女にモテて困惑」みたいな曲がすごく多かった。とにかく当時ロックをやってる男はモテたんだと思う。

困惑するだけならまだしも、しまいには説教しはじめる歌もたくさんあった。

 


BOOWY - IMAGE DOWN

数をこなすのと もててることとは

同じじゃないんだぜ 尻軽TEENAGE GIRL

愛だ恋だを上手に使い分けてみても

先も中身もないのさ 尻が軽いだけじゃ

 

http://www.geocities.co.jp/Broadway/1389/a-complex01.jpg

COMPLEX「PRETTY DOLL」

華やいだ街の裏側じゃいつも

笑われているんだぜ

金で買われたお飾りのPRETTY

奴らの仲間にはなれない

 

大沢誉志幸「ゴーゴーヘブン」

いいかよく聞け表通りで お前は確かに女神(ビーナス)

だけどひとつはいった路地では笑われてるんだぜ

 

 

ライブ映像とかアー写を見てもらえばわかるように、当時のロックスターの方々は、そりゃモテるわなという人種。

なんていうか、オスとして強そう。

スクールカーストの最上位にいる男子が、地元の不良のセンパイに憧れてバンドを始める感じ。

 

だから元々モテただろうし、(自分なんかには想像もつかない世界の話だけど)「モテすぎてなんか腹立つ」とか「そんなに簡単に股開くなよ」って気持ちになったとしてもおかしくない。

それが素直に歌詞に出る。

 

あの奥田民生にしても、UNICORNのど初期にはその匂いを感じる。

 

エレキギターがメガネくんの一発逆転の武器に

さっきも言ったけど、昔はロックバンドにメガネかけたメンバーなんていなかった。

2018年の青少年には想像もつかないかもだけど、くるりナンバーガールが出てきたとき、「メガネくんがボーカル!?まじか」ってのがちょっとした事件として受け止められてたんだから。

 

それが90年代後半ぐらいから、いわゆる現在の「邦ロック」といわれる流れにつながるバンドたちが登場してきて、バンドやるような男の子の人種が変わってきた。

 

スクールカーストの下層とまでは言わないまでもトップではない。

趣味が合う数少ない友達と帰宅部でつるむような子らがギターを手にするようになった。

不良のセンパイに憧れたわけじゃなく、むしろそういうやつらを見返すために。

はい。自分も完全にそっち側の人間。

いつからロックって文化系のナヨナヨ眼鏡がやる音楽になったの?

 

 

不良のセンパイに憧れる子らはどこへ

じゃあ、90年代後半、不良のセンパイに憧れる子らはどこにいったのかというと、実はヴィジュアル系でした。

その証拠に、尻軽な女子にモテて困るっていう例のノリがロックバンドから消えたのと入れ替わるように、ヴィジュアル系の歌詞に登場するようになった。

ただしV系なので語彙が独特になり、おもに「淫乱」と表現されてる。

具体的にいうと黒夢とか。

 

さすがにヒムロックや吉川晃司あにきのように説教まではしないけど、群がる女どもを軽蔑するっていうスタンスをとってるし、そういうツンな態度がまたさらにモテを呼び込むというループが発生していた模様。

同じ時代にバンドやってたはずなのに、こうも景色が違うものかと。

 

 

不良のセンパイに憧れる子らの2018年

さらに時代が進んで2018年、不良のセンパイに憧れる子らはどんな音楽をやっているのかというと、そりゃもうヒップホップ一択であろう。

 

そしてビートロックには「尻軽」、V系には「淫乱」と呼ばれていた女子たちは、ラッパーたちに「ビッチ」と呼ばれていますね。

 

特に般若さんやBAD HOPさんといったあたりのコワモテの人がビッチを非難するリリックをよく見かける。

(ただややこしいのが、このあたりの人たちは女友達とか女性ファンに対してビッチ呼ばわりすることもあるので、文脈から読み取る必要がある)


2WIN (T-PABLOW × YZERR) / FIRE BURN - Official Video -

 

いつの世も、強いオスがやる音楽はモテすぎて困ってるし、尻軽を軽蔑してきたんだなということがよくわかる。

そして強いオスがやらなくなったジャンルはその後、ハイエナ的なオスのものになるんだけど、ハイエナは特にモテない。

突然ですがガンズのドラマーの話

ガンズはすごかった

Guns N' Roses(以下ガンズ)というアメリカのハードロックバンドがいる。

パンクロックとグラムロックと王道ハードロックのいいとこ取りをした音楽性と、メンバーのルックスやキャラ立ちがとにかくかっこよく、1987年のデビューアルバムがいきなりビルボードで1位になり世界中でも大ヒットした。

 

https://lastfm-img2.akamaized.net/i/u/770x0/763ffb0fcad04bd2baa70d2a83d3c54d.jpg#763ffb0fcad04bd2baa70d2a83d3c54d

この写真を見てもわかるとおり、男前であるのと同時に、とにかく「悪そう」っていうところが日本でも中高生男子の心を刺激しまくったのだった。

有名人にだっていろんな人に影響を与えており、B'zの短パンとか、WANDSのバンダナや、TOKIO全員のファッションはみんなガンズ憧れ。

 

あと「ファイナルファイト」っていうゲームには、ガンズのメンバーと同じ名前の敵キャラが出てくる。

https://videogameforce.files.wordpress.com/2010/09/axl-slash1.jpg?w=300&h=223

左がアクセルで右がスラッシュ。

 

そして人気絶頂の1992年にはなんと東京ドームで来日公演を3日間やっている。

ロックバンドで東京ドーム3DAYSってちょっとすごくないですか。

 

30代以下の人にはなかなか伝わりづらいかと思うけど、ものすごいカリスマ的なバンドだったのである。

 

 

アクセル・ローズという人

そんなガンズのフロントマンといえば、バンダナや短パンでWANDSTOKIOに影響を与えた、アクセル・ローズという人。

コワモテなイメージがある一方で、フレディ・マーキュリーエルトン・ジョンに影響された繊細なピアノ曲をたくさん作っていたりもする。ガンズは作曲はメンバーみんなで共作しているというクレジットになってるけど、アクセルがひとりで作ってきたと思われる曲も多い。ただ歌うだけじゃなく、音楽面でも力関係的にもバンドのリーダー的存在。

 

このアクセル・ローズという人、音楽の才能がめっちゃあることは誰もが認めるところだけど、まあとんでもないトラブルメーカーでもある。

ライブのスタートが2時間ぐらい遅れることは日常茶飯事。気に入らないことがあると誰彼なしにケンカを売る。ドラッグやりすぎで死にかける。

 

極めつきはこの「Get In The Ring」って曲。


Guns N' Roses - Get in the Ring (the best)

なんと自分に批判的な音楽ライターとかジャーナリストの実名を出して、「文句があるならかかってこいよ」って歌ってる。

 

日本だとなかなか比較できる人はいないですが、YOSHIKI松居一代ショーケンを足して5倍ぐらいにしたみたいな感じ。

 

 

ドラマー交代(ここからが本題)

デビューアルバムでいきなりロックスターになった5人の若者。一方で周囲からの期待はめちゃめちゃでかくなってたはず。

正気を保つのは難しかったのか、ドラマーのスティーブン・アドラーがドラムを叩けないレベルでドラッグにハマってしまい、クビに。

そして 後任にはザ・カルトという中堅ハードロックバンドのマット・ソーラムという人が選ばれ、バンドは2枚めのアルバム制作にとりかかることに。

 

前置きが長くなりすぎたんだけど、実は今回、このドラマー交代のことが書きたかった。ここからが本題です。

 

旧ドラマーの スティーブン・アドラーという人は、前のめりなスタイルのドラマーで、初期ガンズのパンクっぽさや性急な感じはこの人のおかげな気がしてる。

一方、新ドラマーのマット・ソーラムは、安定感があってどっしりしたドラムを叩く人で、この2人はスタイルが結構真逆なんだけど、個人的にはどうしてもスティーブン・アドラーのほうが好み。

 

ニューアルバムは超大作に

ドラマーを交代したガンズは、1990年ごろからニューアルバムの制作にとりかかる。

メンバーのクリエイティビティが爆発しまくった結果、なんと2枚組の全30曲、トータル2時間半というボリュームでリリースされることに。

しかも前作の延長線上にあるような、疾走感あるハードロック曲をはじめ、オーケストラも入った9分弱の大作バラード、カントリーっぽい曲やヒップホップ風まで、それはそれはバラエティに富んだ内容。

当時高校生だったけど、まあ何度も何度も聴いたものだった。

 

何度も何度も聴いたけど、まあ正直スティーブン・アドラーがもたらしていた初期のパンクっぽさに未練を感じていたし、マット・ソーラムは上手だけど退屈な感じがしていた。この2枚組は7分8分の超大作が多くて、たっぷりしたドラムが似合うっちゃ似合うんだけど。

 

気づいたこと

でさらに何度も何度も聴いていると、あることに気づく。

このアルバムの全30曲のうち、かなりの曲でドラムのオカズが同じフレーズになってるってことに。

(オカズっていうのはフィルとも言うんだけど、曲の展開が変わる直前とかに、通常のリズムパターンから離れて、「タタツタッタタ」とか「ダチーチーチー」みたいなちょっとしたフレーズを叩くやつのこと)

 

たとえばこの曲。

この埋め込みプレーヤーで聴ける範囲だと後半に出てくるし、ほんとのこの曲の冒頭でもドラムが入ってくるところでも出てくる。「んタッタタドン」ってやつ。

 

あとこの曲。 

埋め込みプレーヤーで聴ける範囲の最後の方に出てくる「タットンタカトン」ってやつ。

 

よく聴くと、この2つのフレーズが全30曲のアルバムの中でやたら出てくることに気づいてしまったのだった。

 

完全に妄想で謎解き

オカズのパターンがやたら少ないことに気づいた当時は、反マット・ソーラムな気分のままに、プロのくせにフレーズのひきだしが少なすぎるとかバカにしてたもんだった。

引き算の美学とかそういうところに思い至らない若者だった(引き算の美学がわかる子はそもそもメタルなんか聴かない)。

 

そのままガンズはメンバーチェンジや訴訟やその他トラブルを抱えまくりながら失速しやがて活動しなくなり、こちらはこちらで引き算の美学がわかる大人になっていき、ガンズは聴かなくなっていった。

 

 

しかし大人になってからも、ふとしたときにマット・ソーラムのことを思い出すことがあった。

ある程度大人になって、自分で音楽をやるようになって、意見の異なる他人とものをつくるようになって、なんとなくマット・ソーラムの気持ちがわかるようになってきた気がしたことがあった。

あのアルバムのオカズがワンパターンなのは、こういうことなんじゃないかって。

 

基本的にボーカリストというのは(ドラマー以外の全メンバーはと言い換えてもいい)、ドラムのことをあまりよくわかっていない。ドラムの細かいフレーズにまで普通は口出ししない。

ただ前述したように、中心人物であるアクセル・ローズという人はかなり性格に難があるし、完璧主義者。

 性格に難がある完璧主義者は、あまりわかっていない分野にも口出ししてコントロールしたがる。

すると何が起こるか。

 

ある日のレコーディングでマット・ソーラムが考えてきたオカズが、アクセルはどうにも気に入らない。でも代替案を言えるほどドラムのことがわかってるわけではない。でも知識がないなりに相手のことをコントロールしたい気持ちになっている。

さらにいけないと思いつつ頭のなかでは前任のスティーブン・アドラーと比べてしまってることにも気づいてる。そんな自分の気持ちを隠したくてさらに意固地になる。

といったようなこじらせ方をした結果、アクセルはマット・ソーラムに理不尽なダメ出しを繰り返し、レコーディングスタジオは険悪な空気に。

そしてマット・ソーラムはなかばやけくそになって「これなら文句ないだろ」と、以前に別の曲でアクセルがいいねって言ったフレーズを叩いてみた。1曲の中で何回も。

普通そんなことしたら、バカにしてんのかってアクセルは怒るだろう。マット・ソーラムもバカではないのでそんなことはわかる。わかるけど、これがおれなりの精一杯の抗議って気持ち。

さすがのアクセルもそんなマット・ソーラムの抗議の意思を感じ取った。でもここで怒ることは大人げないのではないかとなぜか思ってしまった。とはいえ、自分が悪かったと折れるつもりもない。

その結果、ヤケクソで繰り返した同じフレーズに誰も反対せず、OKテイクとして採用されてしまった。

 

以上、完全に妄想なんだけど、もしこういった経緯があったのであれば、同じようなフレーズが頻出するのもわかる気がするなと。

 

自分自身の中にこういう意固地で頑固な面があって、そのせいで誰も得しない結末になることがちょいちょいあって。自分でさえそうなんだからアクセル・ローズなんかもっとそうだろうって。完全に妄想なんだけど。

 

2018年にマット・ソーラムの話をこんなにするとは思わなかったけど、アウトプットしないと気がすまなくなってしまったので書きました。とはいえ口頭で誰かとの会話で「そういえばマット・ソーラムってさー」なんて話せる文脈がどこに繋がってるのかがわからなくて。

なのでなんの脈絡もない状態でブログに書きました。失礼しました。

なぜ日本ではもう「バーフバリ」がつくれないのか

http://eiga.k-img.com/images/special/2694/baahubali_01.jpg

一部で話題になっているインド映画「バーフバリ 王の帰還」を観てきた。

公開から数ヶ月たってる作品が、口コミで話題になり上映館がここにきて増えてるとか。

自分のときも土曜の深夜だったけど満員だった。

 


「バーフバリ 王の凱旋」予告編

 

 

 カレー味の「花の慶次

「バーフバリ 王の帰還」がどんな映画だったか、一言でいうならカレー味の「花の慶次」って感じ。

 

主人公バーフバリの優しくて強くて筋を通して誰からも愛される男っぷり、それをケレン味たっぷりに描いてるこの感じ、どこかで味わったことあるなーって思ってて、あ「花の慶次」だって思った。

renote.jp

 

そしてストーリーの背景には、シヴァ神とかの信仰、バラモンとかの身分格差、法(ダルマ)の意識などがあって、そのあたりを安直に「カレー味」と表現してみた。

だからカレー味の「花の慶次」。

 

もう少し補足すると 

少し補足すると、橋田壽賀子かよっていうレベルの嫁姑のいざこざもすごくて、インドの豪華絢爛な王宮が幸楽の2階みたいになります。

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国母シヴァガミ

 

さらに補足すると、全体的に荒唐無稽(だがそれがいい!)なんだけど、特に合戦シーンはもうコーエーテクモ無双シリーズ。総大将みずから打って出るし何百人をバッタバッタとなぎ倒すし。

ちょっと真剣に無双シリーズをインドで制作するのアリかもって思った。

(そっち方面うといから的外れかもだけど、もし10億人のインドで巨大なゲーム市場が生まれてるとしたら、「バーフバリ無双」にはお金の匂いがしまくり)

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無双シリーズスクリーンショットが完全にバーフバリ

 

あとはインド映画といえば歌と踊りね。特に歌は歌詞がストーリーにそった内容になってる。昭和のアニメ主題歌なみ(もえあがーれーガンダム―的な)で、21世紀の日本人には逆に新鮮に感じられるし、またそのおかげでこの映画が伝説とか神話っぽい雰囲気をまとうことに。

 

などなど、さまざまな要素がひとつの映画にすべてぶち込まれており、全体的にとにかく過剰。

それに加えてインド映画って尺の長さとかお話づくりの方法論とか、ハリウッド式の映画とはいろいろ異なってて、そこも「なんだかわからんけどすごいもん観た」な気分のひとつの要因になってると思うし、そりゃ話題になるわって。

 

うらやましい 

感想はいろいろあるけど、とにかくインドがうらやましいなー!と。映画館で観てるときからずっと感じていた。

 

だってまったく屈託がないじゃないですか。

今の日本からはもう完全に失われてしまったものがあるじゃないですか。 

それがうらやましくて。

 

 

日本だってかつては、長嶋茂雄石原裕次郎小林旭みたいな、バーフバリ的スターが存在できていた。

しかし1980年代ぐらいを境にモードが完全に変わってしまい、現在もその流れが続いているんだと思う。

たとえばビートたけしみたいな人が、バーフバリ的スターのおおらかなあり方を「ボケ」と捉え、そこにツッコミを入れるという笑いを作り出したことも大きいと思う。

ビートたけし松本人志って、21世紀の日本人の笑いのツボを変えたし、それってつまりものの考え方も変えたはず。

 

80年代にバーフバリ的スターへのカウンターとして始まったツッコミ感覚が、30年たって世の中全体に広がり、当時は尖ったものだったのが今ではもっともベタで誰にでもなぞれるものになってきたのかなと。

別の言い方をすると、「王様は裸だ」って最初に言い出したビートたけしは革命家だったけど、その枠組みがテンプレ化・コモディティ化して、いまではそのへんの中学生でも同じことを言えちゃうようになったというか。

それがいわゆる「一億総ツッコミ時代」。

一億総ツッコミ時代 (星海社新書)

一億総ツッコミ時代 (星海社新書)

 

 

インドのポップカルチャー史を想像してみると

21世紀に「バーフバリ」みたいな映画をつくれちゃうインドのポップカルチャーの歴史には、たぶんだけどビートたけし松本人志は存在していない。あとタモリも。

 

どっちが上とか下とか、進んでるとか遅れてるとか、そういう話ではなくて、ただただこの映画を通じて違いを思い知ったわけ。

 

 

そりゃ自分はダウンタウンタモリ以降の笑いが大好きだし、めちゃめちゃ影響をうけてる。小沢健二は「日本の笑いは独特だからっていうのは日本人の思い込みにすぎない」って言ってたけど、やっぱり独自の進化を遂げたものになってると思う。

ただそれによって、日本人がものをつくるときの姿勢に、もう絶対に後戻りできない影響を与えてしまったってことも間違いない。

 

作り手側の心のなかにビートたけし松本人志が棲みついてしまって、ベタなものをベタなままで真正面からつくることはもう難しくなってしまった。

 

 

映画館で「バーフバリ」の圧倒的なおおらかさを味わいながら、同時に圧倒的な不可能性をかみしめていたのでした。

「LL教室の試験に出ない90年代シリーズ 1998年」をふりかえって

構成作家/ミュージシャンの森野誠一、批評家/DJ/音楽ライターの矢野利裕、そしてわたくしハシノイチロウの3人で結成した、DJ、評論、イベントなどを通じて音楽を語るユニット「LL教室」。

 

2018年2月11日(日)荻窪ベルベットサンにて、かなり久々にトークイベントをやりました。

題して「LL教室の試験に出ない90年代シリーズ 1998年」。

 

以前にイベントで90年代J-POPを扱ったところ非常に盛り上がり、その反面、ちょっと話が広がりすぎて時間が全然足りなくなるという事態になったため、90年代を1年ごとに取り上げてシリーズでやっていこうということに。

今回はその1回目として、日本でCDが最も売れた年である1998年に焦点をあててみた。

 

1998年とはどんな年だったか

こちらが、当日イベントで投影した資料。これだけ見ても何も伝わらないかと思うけど、1998年の世相やオリコンCDランキング(シングル/アルバム)を整理してたり、イベントの流れは掴んでいただけるかも。

 

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