森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

ハリウッドが本気で描いた『SHOGUN 将軍』を、令和の日本人はどう味わえるのか

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ディズニープラスオリジナルの配信ドラマシリーズ『SHOGUN 将軍』。

これを書いている時点では全8話のうち第5話まで公開されており、全世界で大ヒット中らしい。

 

1980年に三船敏郎主演でドラマ化された作品のリメイクとして、ハリウッドの大資本でリッチに制作され、しかも主演の真田広之がプロデューサーとしても細かく監修していることで、日本人から見ても違和感のない描写になっていると話題の大作。

 

【真田広之はいつ寝ていた?】「SHOGUN 将軍」現場で、主演&プロデューサーとして八面六臂の活躍 メイキング映像披露 : 映画ニュース - 映画.com

 

ちなみにこれが1980年版。

 

舞台は戦国時代末期の日本。

日本を支配していた太閤の死後、大老たちが繰り広げる権力争いに、ポルトガル人とイギリス人の宗教対立が絡むというストーリー。

 

この大枠については史実の通りなんだけど、登場人物は実在の人物をモデルにした架空の存在。

たしかに、そうしたほうが史実通りよりも絶対わかりやすい。

 

史実との違い

主人公の吉井虎永のモデルは、徳川家康

太閤秀吉から江戸を中心とする関東地方を任されていた大老、という設定も史実通り。

太閤の死後の取り決めを有名無実化するような振る舞いを繰り返していたというところも、幼い頃に人質に出されていたというところも、史実通り。

漂着したオランダ船の乗組員を保護して家来にしたというのも。

 

細かい話をすると、吉井家は高貴な血筋であるといった台詞が出てくるが、実際の徳川家も源氏の血筋であるとされていた(自称)。

 

この虎永と、細川ガラシャをモデルにした鞠子の設定については、だいたい史実に沿っているといって差し支えない。

(最後どうなるかはまだなんとも言えないけど)

 

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ただ、虎永と対立する石堂和成については史実と大きく異なる点があって。

 

石堂のモデルは関ヶ原で家康と戦った石田三成なんだけど、史実との大きな違いとして、石田三成大老ではなかった。

 

司馬遼太郎が書いていた例え話でいうと、太閤秀吉という創業社長が死んだ後に跡目争いをする有力支店長や子会社の社長たちが大老だとしたら、石田三成は社長秘書室長みたいな存在。

つまり、子分がたくさんいるわけでも、自らの腕力でぶんどった領地があるわけでもなく、後ろ盾である太閤がいなくなってしまうと、まことに心細い状態ってこと。

 

そんな石田三成が、一筋縄ではいかない大老たちに声をかけて味方につけ、なんとか家康と対立できるところまでこぎつけたのが史実の関ヶ原の戦いなのです。

だからこそ石田三成側から見た関ヶ原はおもしろいし哀しいし最高なんだけど、『SHOGUN 将軍』を見る世界中の視聴者にはわかりにくくなってしまうので、石堂を実力ある大老という設定にした狙いはよくわかる。

 

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あと、樫木藪重には、特定のモデルは存在しない。

 

第5話の時点では、虎永の配下でありながら石堂に内通するよう誘われ、どちらに対してもいい顔してる状態。

 

SHOGUN』と同じく、史実でも太閤秀吉亡き後、日本中の大名たちが徳川家康と豊臣側の間で揺れ動いていた。

樫木藪重は、そんな揺れ動いていた大名のひとりであり、特定のモデルは存在しないけど、個人的には黒田官兵衛っぽさを感じる。

 

豊臣秀吉の天下統一を軍師として支えた功労者でありながら、能力が高く野心家すぎて信用されなかったとも言われており、また秀吉の死後はいち早く家康に忠誠を誓う世渡り上手なところもあった。

あと、史実で三浦按針が漂着した豊後黒島は、当時の黒田官兵衛の領地のすぐ近くだったりもする。

 

奇しくも、藪重役の浅野忠信北野武監督の『首』で演じていたのが黒田官兵衛なんだよね。

これ、もう藪重が黒田官兵衛にしか見えなくなるでしょ。

 

他にも大谷吉継がモデルであると思しき大老のこととかいろいろあるけど、また別の機会に。

 

あなたも「日本」に迷い込む

プロデューサー真田広之の貢献もあって、細かいところまで出来がよすぎて忘れがちなんだけど、『SHOGUN 将軍』は、イギリス人の目から見た異文化としての日本を描いた作品。

 

なので、名誉のために命を簡単に捨てるとか、身分の違いにうるさいとか、なんていうか東洋的な無常観みたいな、そういう西洋との価値観のギャップをことさら強調してくるところが正直ちょっと鼻につきはする。

 

まあ、グローバルなターゲットに向けてつくられてる作品だから、日本文化に対してリスペクトしつつ珍しがって触ってくること自体は、もう仕方ないと思う。

 

視聴者が感情移入するのは、異世界に迷い込んだイギリス人である按針なので、『アバター』や『ラスト・サムライ』のようないわゆる「白人酋長モノ」の構造にならざるを得ない。

未開で野蛮だと見下していた異文化に暮らしているうちに、いつしか原住民たちと心を通わせ…っていう。

 

そう考えると、最初の方に貼った1980年版の紹介動画にあった、「あなたも「日本」に迷い込む」というコピーは本当によくできているなと。

日本人が『SHOGUN 将軍』を見るにあたっては、異世界としてのカギ括弧付きの「日本」に迷い込むことになるわけで。

 

SHOGUN 将軍』と『どうする家康』、そして『首』

去年の大河ドラマ『どうする家康』は、最後の10話ぐらいが『SHOGUN 将軍』と同じ時代っていうことになるけど、あの感じが、自国の歴史をドラマ化するにあたっての王道なんでしょう。

 

家族を愛し、仲間を大事にし、ライバルにも敬意を払い、勝利のために努力するっていうような、現代を生きる視聴者と地続きの感情移入できる存在として戦国時代の武士たちを描くやり方。

 

つまり、同じ時代を取り上げながら、あくまで外側からの目線である『SHOGUN 将軍』とは真逆の方向からのアプローチになっている。

 

 

 

 

ただ、同じ時代を内側から取り扱うにしても、かつての日本ではもうちょっと違うアプローチだったと思うんですよね。

 

たとえば歌舞伎なんかでは、主君を守るために我が子の命を差し出したり、親の仇を討つために子供が人生を賭けたりするし、それがストレートに美談として受け取られてきた。

主君や親や家が自分の命よりも大事っていう価値観に基づくストーリーって、昭和の途中ぐらいまではわりとストレートに感情移入できていたんじゃなかろうか。

戦後もしばらくはラジオの有力コンテンツだった浪曲も、忠臣蔵とか侠客ものが人気ネタだったというし。

 

 

それと比べると、『どうする家康』的な人権感覚に馴染んでいるわれわれは、『SHOGUN 将軍』を見ているときも、もはやイギリス人の按針の目線になっている部分はあるだろう。

本当の意味で、戦国時代を内側から感情移入することができなくなっているわけで。

 

あ、念のためだけどそれが悪いことだとは全然思わないですよ。

だって家とか主君とかより自分の命のほうが絶対大事だし。

 

 

ちなみに、内側/外側の話だと北野武監督の『首』は、ちょっと特殊なアプローチだったので最後にその話も。

 

ちょっと前に当ブログで『首』についてこんなふうに書いた。

 

『首』のおもしろさとしては、そんなヤクザな武士たちを、敵の首を切るという行為や首そのものに対して異様なまでに執着する存在として描いているところ。

 

まるで、いけにえだとか干し首だとか纏足だとか贈与みたいな、現代日本人には理解しがたい風習をもつ異民族の一種みたいな感じ。ほとんど文化人類学の領域。

 

日本の内側からでありながらも、武士という存在をヤバい他者としてあえて突き放して描いた北野武のアプローチはあらためてすごいと思いました。

 

 

ZAZEN BOYS『らんど』を聴きながら、新宿革命記念公園があり得た世界線を妄想してみる

ZAZEN BOYSの12年ぶりのアルバム『らんど』を聴いています。

 

リリースに先行してビデオが公開された『永遠少女』をはじめ、ファンク寄りに研ぎ澄まされたバンドサウンドと、現実と空想の境目がわからなくなる情景描写が特徴的な、世界中ここにしかないZAZEN的世界が13曲も入ってる。

 


いろんな要素がある中で、個人的に注目したいのが、1曲目「DANBIRA」に登場した「新宿革命記念公園」というフレーズ。

 

 

この「新宿革命記念公園」は、2008年の「asobi」という曲が初出。

「asobi」は『ZAZEN BOYS 4』に収録され、その後のライブでもアレンジを変えてたびたび演奏されてる。

 

 

当時からこのフレーズがものすごく気になっていて、今回また出てきたので嬉しいのです。

だって「新宿革命記念公園」って。

 

そんな公園は存在しないんだけど、言葉としてあまりにも収まりがよすぎて、一瞬ほんとにあるんじゃないかと思わせてしまう。

 

ナチスが連合国に勝ってしまった『高い城の男』や、大日本帝国が降伏していない『五分後の世界』のような、あり得たかもしれない世界を描いた作品を読んだときと同じSF的想像力を、たった一言でものすごくかきたててくる。

 

 

では、ここではない別の世界の新宿に「新宿革命記念公園」があるとしたら、それはどんな公園なんだろうか。

 

 

まず、革命記念公園が現在まで存在しているということは、過去のどこかの時点で日本に革命が起こって、しかもその政治体制が現在まで続いている必要があることを意味する。

 

たとえばロシアだと、ロシア革命が起こって王朝が倒れ1922年にソビエト連邦が成立したんだけど、そのときに何らかの革命記念公園が作られていたとしても、1991年にソ連もまたなくなっているので、そのタイミングで革命記念公園から別の名前に変わっているはず。

 

もしくは、過去のどこかの時点で日本に革命が起こって、その政治体制が維持されなかったとしても、現在の政治体制はその革命を肯定的に評価しているパターン。

 

たとえば中国において、現在の中国共産党政権は、かつて中華民国と内戦状態だったんだけど、中華民国による辛亥革命については実は肯定的に評価しているらしく、現在も中国に辛亥革命記念公園は存在している。

 

 

このどちらのパターンだったとしても、過去のどこかの時点で日本に革命が起こっている必要はあるんだが、日本の歴史上、もっとも革命の可能性があったのはいつだろうか。

 

革命とは、定義としては王朝だったりそれまでの政治体制が覆されること。

それでいうと、徳川幕府が覆された明治維新を革命とする解釈は当然あり得るけど、「革命」ではなく「維新」と呼び習わしているこの世界では、日本で革命と名のつく体制変更は行われていないので、「新宿革命記念公園」が存在する世界では、明治維新とは別の「革命」が起こる必要がある。

 

では、明治維新以降に日本で体制を覆すほどの革命を起こせる勢力といえば誰になるか。

そもそも革命は単なる政権交代ではないので、たとえばかつて自民党から民主党政権になったことがあったけど、あれは革命ではない。

もっと根本的に、政治体制そのものが覆される必要がある。

 

ここまでのことを前提として、「新宿革命記念公園」が成立するストーリーを妄想してみた。

 

 

1945年の敗戦により、大日本帝国が解体されるところまではこの世界と同じ。

その際、アメリカなどの戦勝国側は、昭和天皇を戦犯として起訴したり、天皇制そのものを廃止することを検討していたらしい。

それはそうで、普通に考えると、大日本帝国を解体するにあたっては、最高権力者だった天皇に責任を取らせたいし、ましてやそのまま残すという選択肢はない。

 

しかし、実際には昭和天皇は退位もせず、新しい日本国の象徴として残されることになった。

戦勝国側が日本を統治するにあたって、現実的にそのほうがやりやすいと判断したから。

日本占領の責任者だったマッカーサーは、「天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍増員が必要となるだろう」と本国に報告している。

 

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この戦略がうまくハマったのか、戦後の日本はアメリカの思惑通りにあっさりと民主主義国家として歩み始めた。

 

もしもここで、昭和天皇東京裁判で裁かれることになって、別の皇族が新しい天皇として即位していたら、日本国民はこうもすんなりと連合国の占領体制を受け入れたかどうか。

象徴天皇制日本国憲法財閥解体といった、戦後日本のかたちは同じだったとしても、相当なわだかまりが残ったんじゃないだろうか。

 

この世界線の戦後日本では、日本社会党日本共産党は戦後すぐに合法的な政党として国会にたくさんの議席を持つことができたけれど、昭和天皇が裁かれた世界線の日本では、占領軍はもっと高圧的な統治を強いられていたはずで、日本社会党日本共産党は存在できなかったかもしれない。

戦後日本を支えた官僚組織についても、実は大日本帝国の体制が温存されていたんだけど、そのあたりもどうなっていたか。

 

となると、戦後日本の占領軍や保守政党に対する民衆の不満は、議会制民主主義の内部で健全に反映されることなく、水面下で蓄積されていくことになるんじゃないか。

 

そして、どこかのタイミングで、革命として爆発する。

そのタイミングはおそらく、1960年前後、労働争議が多発しているさなかの日米安保条約改定あたり。

 

当時、この世界においても、日米安保に対する反対運動は日本を席巻していた。

反対運動のあまりの激しさに、鎮圧するための人手が足りず、岸信介首相はヤクザの手も借りたほど。自衛隊の治安出動も検討された。

 

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占領軍の統治が成功したこの世界線においてもこの規模の騒乱になったほどなので、天皇が代わった世界のほうでは、もっと激しくなるに違いない。

 

正当性のない傀儡天皇を拒否する右翼、非合法政党としての社会党共産党アメリカの属国扱いに不満をもつ政治家、劣悪な労働環境に怒る労働者、ソ連のスパイ、憂国の学生たちが一斉に蜂起して、ついに革命になるみたいな感じ。

 

 

こう考えてみると、この「昭和革命」は、ほんとにちょっとしたボタンの掛け違いであり得たんじゃないかなと思う。

新宿革命記念公園という言葉に宿る、確かな手触りは、それがこの世界のすぐとなりに存在するっていう実感からきている気がする。

 

 

そんな新宿革命記念公園には、どんなモニュメントが建てられるだろうか。

 

この人か。

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それともこの人か。

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それとも、こういう感じか。

 

 

 

 

2023年紅白歌合戦の裏テーマと、欠けていた最後のピース

2023年の紅白歌合戦は、ジャニーズの不在によって紅白らしさがクリアに見えた回だった。

 

第74回NHK紅白歌合戦」キービジュアル - ヒゲダン「紅白歌合戦」で全国の中学生とコラボ、「Chessboard」歌唱動画を募集 [画像ギャラリー  2/4] - 音楽ナタリー

 

紅白歌合戦って、単にその年のヒット曲を並べればいいというわけではなく、今年はこんな年だったよねと国民的ふりかえりをする場になっているじゃないですか。

活躍したスポーツ選手や文化人を審査員に招いたり、流行したワードや商品を企画に取り入れたりもして。

 

今回で言えば、スラムダンクの映画よかったよね〜とか、この人が趣里のお母さん!?とか、これが首振りダンスか〜とか、そういった会話をお茶の間に喚起するような機能が紅白にはある。

 

ただ、国民的ふりかえりの場といっても、個々のトピックをそこまでちゃんと扱える時間があるわけではなく、すべてをちょっとずつなぞるだけにならざるを得ないし、それぞれに独自の世界観を持っていて演出にこだわる歌手たちがだいたい3分ぐらいの尺で次々に現れるので、見てる側の理解が追いつかずにどんどんカオスになっていく。

 

今年の紅白は小中学生と一緒に見てたんだけど、この子たちにはどんなふうに見えてるんだろうって。

さっきまで「すとぷり」とかいう謎のアニメキャラクターが放っていた強烈な違和感を消化できていないうちに画面上には大阪新世界からの中継で天童よしみとかいうド演歌の歌手が暑苦しく大阪愛を歌い上げたりとか、郷ひろみとかいう昭和のスターみたいな人がブレイクダンスに挑戦したなーと思ってたら直後にオオカミの着ぐるみのバンドがアニメの映像をバックに演奏したりとか。

そんなことが4時間にわたって延々と続いていく祭典。

 

今年の「ボーダレス」とかのように一応毎年テーマが掲げられてるんだけど、正直どうでもよくて、必然性も脈絡もなにもあったもんじゃない、この目眩(めまい)こそが紅白の醍醐味なんだと思ってるし、そんな紅白が大好き。

 

 

てゆうか、「ボーダレス」よりももっと明確な裏テーマが全体を貫いていたことに気づいてしまった。

それは、「40代の子育て世代を全力で甘やかす」というもの。

 

たとえば1983年生まれで現在40歳だと、1996年に中学生になり、1999年に高校入学していたわけで、その世代からすると、猿岩石やポケットビスケッツブラックビスケッツヴィジュアル系全盛期が中学生時代と完全に重なるし、高校生時代に椎名林檎MISIAやゆずがデビューしている。

 

猿岩石日記〈Part1〉極限のアジア編―ユーラシア大陸横断ヒッチハイク 歌舞伎町の女王

 

そして20代の頃にロッキン系のフェスに行っていれば10-FEETPerfume星野源を生で見ている確率が高い。

 

まさに今年の紅白は音楽遍歴ど真ん中のラインナップだったということ。

 

(『テレビが届けた名曲たち』って企画、別にポケビ・ブラビである必然性はなくて、別にやまだかつてないWinkでもイモ欽トリオでも金八先生でも北の国からでもよかったわけで、そこに明確な意図を感じるんだよね、HYDE清春に松岡までダメ押しで並べるとことかも)

 

 

さらにいうと、その親世代は70年代後半〜80年あたりが若者時代だったので、キャンディーズ寺尾聰やラッツアンドスターやクイーンがど真ん中ということになる。

 

もっというと、いろんな世代の歌手が幅広く出ているように見えて、実は10年代前半がぽっかり空いているんだけど、これは、今の40代にとってその当時が子育てに忙しすぎて音楽を全然聴けていなかった時期にあたるので思い入れのある曲がないからではないか。

で、子育ても一段落ついて、親子でアニメを見ることが増えてきた20年代から、再びヒゲダンやadoやYOASOBIを知って思い入れができてきた的な。

 

で、さらにここが重要なんだけど、自分のまわりの40代子育て世代の多くが、ここ数年で軒並みK-POPにハマってるという事実。

そういう人たちにとっては、今年の紅白のラインナップって息をつく暇もない完璧な布陣だった。

40代の子育て世代(とその親とその子どもたち)を全力で甘やかすという裏テーマは大成功だったと思います。

 

あとはここにSMAPがいれば完璧だったんだけどなー!!

 

 

映画『首』を見て、生首に執着するヤバい部族だった武士が美化されていった理由を考えた

北野武監督の映画『首』を見た。

 

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アドリブでやってるシーンの脱力的な笑いの印象に引っ張られたからか、あまりよくない意味で期待を裏切られたという感想もちらほら見かけたんだけど、個人的には大大大絶賛です。

 

戦国版『アウトレイジ』と評する人も多いが、たしかにその通り。

おなじみの戦国武将たちが、大河ドラマなどで描かれるキャラクターとは真逆の、ほとんどヤクザみたいな奴らとして描かれている。

だけどこれ、監督ならではの独特で斬新な解釈っていうよりは、むしろ徹底してリアルをやろうとしたんじゃないか。

 

たとえば今年の大河ドラマ『どうする家康』でもそうだけど、「民が平和に暮らすことができる戦なき世をつくるのじゃ!」みたいなことを松潤が言うじゃないですか。

これがどうにもリアリティがないように感じていて。

 

ただ戦国時代ものって、甲冑とか城とか合戦シーンとかでどうしてもお金がかかるジャンルなので、一定以上の予算規模でしか映画やドラマを制作することができないわけで、なのでリアリティよりも一般受けする描写に寄せられるのは渋々だけど受け入れてきたんですよ。

 

そんな中、『首』は、お茶の間向けのコーティングを剥いだむき出しの戦国時代を、R15というレイティングで思う存分描いてくれてる。

そうそう。これを待ってたんだよ!

 

ヤクザであり異民族としての武士

戦国時代の少し前の室町時代には、一応は全国を治める幕府が存在して、それぞれの地域に守護大名が任命されてはいたんだけど、幕府の統治能力はものすごく低かった。

たとえると、警察と裁判所はあてにならず、税務署の仕事っぷりにものすごくバラつきがあるような社会なわけで。

 

さらに戦国時代になると幕府のトップである将軍ですら家来に暗殺されるほどに下剋上が当たり前になってきて、権威とか正当性よりも実力がものをいう世の中になっていき、武士はますます仁義なき存在になる。

 

織田信長っていう人も、分家の出身だけど織田本家を倒したり、立場的にその織田家の上位にいた斯波家も追放したり、権力争いで実の弟を殺したりと、手段を選ばずにのし上がってきた。

なので、実際の信長が『首』の加瀬亮みたいに、パワハラって言葉が生ぬるく感じるレベルの人間だったとしてもおかしくない。

 

そして下剋上でのし上がってきただけに、自分自身がいつやられる側になってもおかしくないっていう緊張感がずっとある。

この緊張感はまさに『アウトレイジ』にあったのと同質のものに感じられた。

 

 

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歴史上の人物と和菓子 荒木村重と饅頭 ーとらや

 

さらに『首』のおもしろさとしては、そんなヤクザな武士たちを、敵の首を切るという行為や首そのものに対して異様なまでに執着する存在として描いているところ。

 

まるで、いけにえだとか干し首だとか纏足だとか贈与みたいな、現代日本人には理解しがたい風習をもつ異民族の一種みたいな感じ。ほとんど文化人類学の領域。

 

で、百姓出身の秀吉・秀長の兄弟はそんな異民族の価値観に全然染まっていなくて、俯瞰して見てるっていうね。同性愛にも興味なさそうだったし。清水宗治のスタイリッシュな切腹にも心動かされないし。

 

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武士を美化したのは誰なのか

侍ジャパン」とか「武士道」とかの言葉でみんながイメージする武士の姿と『首』に出てくる武士は全然違う。

それは、江戸時代に武士のイメージがかなり美化されたから。

 

徳川家康小林薫)が幕府を作って戦国時代は終わるんだけど、黒田官兵衛浅野忠信)の子孫が福岡藩の大名として幕末まで続くみたいな感じで、首を切りまくって大暴れしていた野蛮な戦国時代の武士たちが、そのまま江戸時代の大名にスライドしていった。

 

つまり、おじいちゃんは主君を裏切ったり敵を皆殺しにしたりして生き残ってきたのに、その地位を受け継いだ孫は刀を抜くこともなく幕府に忠誠を誓って真面目に殿様をやるみたいな状態。

 

自分たちの一族が殿様になった経緯をストレートに説明しちゃうと血生臭すぎてとてもじゃないけど正当化するのが難しくなるので、そこはいろいろ美化してしまうってもんで。

 

その美化された武士の姿が、「侍ジャパン」とか「武士道」とかの言葉で現代人が思い描くイメージだとか、大河ドラマなどの戦国時代モノにかなり影響を与えているんじゃないか。

 

 

『首』は、美化されてないリアル武士がどんなものだったか、映画的な誇張はしつつも飛躍しすぎず追求した作品って感じで大満足でした。

 

これまでの北野武監督作品に一貫していた、情緒を排除した暴力とか底抜けの虚無感とかを描くのに、人の命が軽すぎる戦国時代って舞台がものすごく似合っていたと思う。

 

なので続編も全然あり。

清州会議の信長の跡目争いの場で暗躍する秀吉とか、家康とつるんで怪しい動きを見せる千利休を追い詰めて切腹させる秀吉とか、見たいでしょ。

 

 

ビートルズ最後の新曲を可能にした「デミックス」はもっと可能性がありそう

ビートルズが最後の新曲としてリリースした「ナウ・アンド・ゼン」。

 


ジョン・レノンが遺したデモ音源から歌声だけを抜き出し、ポールとリンゴがベースやドラムを演奏し、そこにジョージが生前録音していたギターを重ねることで完成したという、時空を超えてメンバーが最後の共同作業をおこなった新曲。

 

実はジョンのデモ音源は、1994年にはオノ・ヨーコからポールらに託されていたんだけど、その時代のテクノロジーでは、デモ音源から声だけを抜き出すことができず、ずっとお蔵入りになっていたという。

今回、AI技術の進化により、デモ音源からピアノと声を分離することに成功したため、「ナウ・アンド・ゼン」のプロジェクトが一気に進んだ。

 

この技術は「デミックス」といって、ビートルズのアルバム『リボルバー』を2022年に生まれ変わらせたのと同じ手法。

今回「ナウ・アンド・ゼン」と同じタイミングでリリースされたいわゆる赤盤・青盤の2023年エディションも、同じ手法。

 

特に赤盤は60年代前半の録音であり、現代と比べると録音技術に大きな制約があったわけで、やはり2023年エディションは、われわれがずっと聴いてきたものとは全然違う仕上がりになっていて衝撃だった。

 

デミックスとは

ではこの「デミックス」というのはどういう技術なのか。

その話をするにあたり、まずは基本的なレコーディングの仕組みについて見ていきたい。

 

楽曲をレコーディングする際には、いろんな楽器をバラバラに録音する。

ロックバンドの場合、まず最初にドラマーがスタジオに入り、メトロノーム的なものに合わせてドラムを叩き、それを録音する。

次にベーシストがスタジオに入り、さっき録音されたドラムに合わせてベースを弾き、それを録音する。

次にギタリストがスタジオに入り、さっき録音されたドラムとベースに合わせてリズムギターを弾き、、、といった具合にどんどん楽器を重ねていく。

 

それぞれの楽器は、独立したトラックに録音していくので、後で録音したパートだけの音量を上げ下げしたり加工したりすることができる。

この、バラバラに録音された状態の音源はレコード会社なりが所持しており、公式のリミックスが制作される際には、各トラックを抜き出したり加工したりすることができる。

 

90年代以降はデジタルレコーディングになっているので、トラック数はほぼ無限。好きなだけ楽器を重ねていくことができる。

ドラムはマイク1本ごとに1トラック使えたり、ギターはアンプに立てたマイクとライン録音と部屋の鳴りにそれぞれ1トラックずつ使えたりする。

なので、90年代以降に録音された楽曲については、基本的にはデミックスをする必要がない。

 

一方、アナログ時代のレコーディング、特に60年代前半などにおいては、物理的なテープに録音していくため、使えるトラック数に限りがあった。

赤盤の頃のビートルズは4トラックしか使えなかったため、必然的に複数の楽器をひとつのトラックにまとめて録音せざるを得なかったわけ。

なので、後からドラムのキックだけを上げたいとか、ギターをキラキラさせたいとか思っても、同じトラックに入っている他の楽器の音まで一緒に上がってしまったりするので、うまくいじれなかった。

 

ところが、デミックスという技術により、同じトラックにまとめて入ってしまっている楽器を分離できるようになった。いままで絶対に不可能とされてきたことがいきなり可能になったわけで本当にすごい。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ef/Tascam-16Track.jpg

16トラックのアナログテープレコーダー

 

デミックス希望その1

せっかくこのようなすばらしい技術が登場したんだから、ビートルズ以外にもデミックスしてクリアな音で再構築してもらいたい。

 

まずは、朝ドラ『ブギウギ』で再評価まっただなかの笠置シヅ子

マルチトラックでのレコーディングは1950年代終盤に登場した技術なので、戦前〜戦後すぐに活躍した笠置シヅ子の音源は、楽団も歌も一緒に一発録りしたもの。

すべての楽器が混ざって録音されているし、他にも当時の技術にはいろいろと限界があったので、現代のリッチな音に慣れた我々の耳にはどうしても物足りなく聴こえる。

 

耳の肥えた人はそこも想像力で補って脳内リプレイが可能なんだけど、現代人の多くに魅力が伝わるようなサウンドで聴いてみたいというのは多くの人の願いだろう。

 

実はそれに近い発想の取り組みはすでにあって、「東京ブギウギ」の原曲にウッドベースとパーカッションを重ね、音像も全体的にパキッとさせたバージョン「東京ブギウギ Boogie Woogie Age Re-Edit (Re-Edit by DJ Yoshizawa dynamite.jp)」がつい最近リリースされた。

 

これもかなりいい感じなんだけど、やはりオリジナル音源のビッグバンドの各楽器を最新のAI技術でクリアにデミックスして、職人技で磨きをかけたら雰囲気が一変するのではないか。

 

戦前戦後に録音されたビッグバンドのデミックスとなると、ビートルズよりも大変な仕事になるだろうけど、クールジャパンとかいって億単位の税金を無駄にするぐらいなら、こういうのを国家プロジェクトとしてやってほしい。

 

それが無理なら、音源から笠置シヅ子の歌声だけを抜き出して、服部隆之アレンジの現代のビッグバンドの演奏にのせるとかでもいい。

アカペラ音源を公式が配布して、リミックスコンテストをやるのもいいと思います。

 

デミックス希望その2

そんな笠置シヅ子のものまねで人気を博したのが、少女時代の美空ひばり

 

デビュー曲「河童ブギウギ」は1949年リリースなので当然マルチトラックレコーディングではない。

 

 

この音源だとせっかくのご機嫌なバックバンドが歌声に埋もれてしまっているので、デミックスによって打楽器も含めていい感じに生まれ変わったものを聴いてみたいよね。

 

AI美空ひばりは、生前の歌声を学習させて晩年の歌声を生成させたものだったが、むしろ10代のキレキレのリズム歌謡をデミックスするためにこそAI技術を使ってもらいたい。

 

デミックス希望その3

時代的にはマルチトラックレコーディングが一般的になっていたとしても、ライブ録音はマルチじゃないことが多い。

 

最初からライブアルバムにするぞっていう体制で録音されたものは、スタジオと同じくマイク1本ごとにトラックを分割されてるんだけど、そうじゃない場合、PA卓でまとめた後の音源しかないってことになる。

 

たとえば70年代の伝説的なロックバンド、村八分

いまだにいろんなライブ音源が発掘されてリリースされ続けているけど、このあたりをデミックスで仕上げてみたらどうなるんだろうか。

 

 

いや、村八分が好きな人は音質とかどうでもいいというか、むしろ音質の悪さも含めて愛してるような気がするので、これは完全に余計なお世話かもしれない。

 

ユニコーン『ええ愛のメモリ』はAI使用の模範解答なのでは!?

ユニコーンが2023年10月11日にリリースした配信限定EP『ええ愛のメモリ』。

 

発表された情報によると、収録された5曲はいずれも、メンバー5人がそれぞれに「あの頃、作っていたような楽曲」というテーマで作詞作曲した楽曲を、若い頃のメンバーの歌声を学習したAIに歌わせたものらしい。

ユニコーンが「自らの手」で「自らの声」を蘇らせる、といった趣のプロジェクト』とのこと。

 

進化し続けるAIというテクノロジーに対して、全人類がおっかなびっくりになっているこのご時世に、戯れつつも芯を食った作品を生み出すこのバンドはやっぱりすごい。

 

 

ユニコーンは昔からおかしかった

バンドブームのど真ん中に登場したユニコーンは、デビュー当初こそ時代の影響を受けたポップハードロックって感じの音楽性でアイドル視される存在だったものの、次第に高い音楽性に裏打ちされつつ全力でふざけるという、唯一無二の存在になっていった。

 

ユニコーンのおかしいところはいろいろあるけど、まず歌詞。

バンドブーム期の曲にありがちな悪ガキ目線ではなく、むしろ悪ガキの仮想敵だったサラリーマンの目線で歌った「大迷惑」「働く男」「ヒゲとボイン」が代表曲になっているし、他にも、おじいさん、犬、幕末の庶民、親に虐待されてる子供、野球部の補欠などなど、おおよそロックバンドの歌詞にならなさそうなテーマの曲がたくさんある。

 

そして音楽性のバラけ具合。

幅広い音楽性を売りにするバンドは多いけど、普通は何かしら核になる部分はあるものだし、特に代表曲にはそのバンドなりの勝ちパターンが見えてるもんだけど、ユニコーンの場合、先ほど挙げた代表曲「大迷惑」「働く男」「ヒゲとボイン」は、見事にバラバラで音楽性に統一感がない。

シングル曲もアルバム曲もバラバラで、的を絞らせない。

フュージョンもボサノバもハードコアパンクもケチャもロシア民謡もある。

 

今回の『ええ愛のメモリ』は、そんなユニコーンだからこその作品と言える。

 

ユニコーンの異常さについては詳しくはこの記事で書いてますのでこの記事を最後まで読んだら次こっちどうぞ。

 

星野源 ユニコーン『おかしな2人』を語る | miyearnZZ Labo

ユニコーン好きなアーティストはたくさんいるけど、こちらは星野源によるユニコーン語り

 

セルフパロディとしての『ええ愛のメモリ』

『ええ愛のメモリ』のおもしろさは、まず、AIに歌わせたという話の前に、「あの頃、作っていたような楽曲」というテーマで曲を作ったというところ。

 

インタビュー動画の中ではABEDONはこう語っている。

今ある曲に似たような曲を発注されたと思って作ってくれっていう風にみんなに言った

でないと書かないんですよ

音楽やってる人はみんなそうだと思うんですけど

前に一度書いたことがあるような曲を書くっていうことを避ける傾向がある

 

特にユニコーンは作品ごとにいろんな音楽性や手法をやるバンドなので、その傾向が顕著。

そこがかっこいいところではあるんだけど、常に新鮮なことをやりたいメンバーと、往年のあの感じが好きっていうファンの気持ちの折り合いをどうつけるかっていうのは、キャリアが長いアーティストに共通する悩みだろう。

 

今回のように企画モノっていうテイにするのは、ユニコーンらしい答えの出し方だと思った。

メンバーが堂々と伸び伸びとセルフパロディをやれる環境を作れて、往年のファンはニヤニヤしながらもあの頃の感じを味わうことができた。

 

 

たとえば1stアルバム収録の「Maybe Blue」って曲があって、甘酸っぱい名曲なんだけど若気の至りすぎてその後の音楽性と乖離しすぎて封印されたような感じになってて。

今回の『ええ愛のメモリ』の1曲目の「ネイビーオレンジ」って曲は、その「Maybe Blue」を元ネタにして奥田民生本人が作曲し、メンバーも音色やフレーズで遊びまくってるんですよ。

原曲を知らない人もぜひ聴き比べてみてほしい。

 

 

 

AIに歌わせることの問題と、ユニコーンらしい答え

AIに歌わせるといえば、2019年の紅白歌合戦に登場したAI美空ひばり

 

美空ひばりの生前の歌声を学習させて生成した声に、さらに微妙なピッチの揺れといった癖を反映させ、高い再現性が生まれたことで話題になった。

 

一方で、そもそも亡くなった人の歌を勝手に再現することの是非については、批判の声が多かったことも事実。

 

たしかに、「あなたのことをずっと見ていましたよ」というセリフにはちょっと一線を超えた怖さを感じたものだった。

遺族なり正当な権利者なりが許可を出したからといって、やっていいことなのかどうか、そして何を歌わせ、何を語らせるところまではアリなのか、法的にも倫理的にも経済的にも未解決な部分が残っている。

 

本人のデータに基づいてAIでつくられた部分にギャラは発生するのかどうかについては、先日のハリウッドのストライキでも争点になっていた。

 

俳優が制作会社から、「その人物をスキャンして1日分のギャラを支払い、そのスキャン画像や肖像に対する権利はスタジオ側が保有して、以後は同意もギャラもなしにスタジオ側が望むプロジェクトで恒久的に使用できる」という条件を持ちかけられたとか。

 

その点ユニコーンの今回のは、別に本人が歌ってもいいのにわざわざAIを使ったというパターンなので、揉める余地がない。

 

新奇なテクノロジーとの付き合い方

人類はこの数千年、新しいテクノロジーの登場による産業構造の変動を何度も味わってきた。

音楽の世界でも、カラオケの登場で多くの流しやバンドマンが失業したという。

 

人間というのは、それまでの習慣や馴染みのある世界が変わってしまうことを基本的に怖がるようにできている。

新しく出てきたものに対しては、だいたい最初は批判されるし、批判する言葉もジャンルを問わず驚くほど似通っている。

だいたい「心がない」「風情がない」「冷たい感じがする」的なこと。

 

シーケンサーによる打ち込みのリズムが登場した80年代にも、ボーカロイドが登場したゼロ年代にも、同じ言い回しによる批判があった。

2020年代のAI批判も、結局はそれらとすごくよく似てると思う。

 

 

でも新しいテクノロジーに対して反射的に身構えてしまうのは本能だとして、その本能には自覚的でいたいし、できるだけバイアスをとっぱらって見るようにしたいじゃないですか。

 

それでいうと、AIという新奇なテクノロジーに対して、とりあえず遊んでみるという接し方を選んだユニコーンは、やっぱりおもしろいしかっこいい。

 

それに、AIにまつわる法的な課題、倫理的な課題、経済的な課題に対して、「存命の本人が自分たちに権利がある楽曲で使用する」っていう、ひとつの模範解答を出したとも言えるのではないか。

 

というか、さっきのハリウッドの例なども考えると、いろんな課題を整理していった結果、他人とか死人とかをAI化するのはダメっていう結論に落ち着いてくる可能性も全然あると思う。

 

そうなると、『ええ愛のメモリ』はOKな使用例の先駆けとして、時代を超えて評価されるべき作品なのかもしれない。

 

「みんなちがって、みんないい」の時代にも『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす』のか

ここ最近「Y2Kリバイバル」として、2000年前後のファッションやカルチャーが若い世代に注目されている。

数年前には90年代っぽい厚底スニーカーが「ダッドスニーカー」なんて呼ばれて流行ったりもした。

 

ポピュラー音楽の世界でも、2000年前後に盛り上がっていたドラムンベースやポップパンクといったスタイルが、現役バリバリのアーティストの新曲で使われていたりする。

 

ドラムンベースを耳にしたのはH jungle with T以来という声も聞かれた

 

これが2020年代にリリースされた新曲で1.2億回再生されてるっていう事実

 

当時を知っている我々からすると、葬り去ったはずの過去に再び向き合わされているような、それでいて馴染みのある肌触りに安心感を抱くような、なんともいえない微妙な気持ちにさせられる。

 

この「リバイバル」っていう不思議な動きを真正面から取り上げて、400ページ超にわたって徹底的に掘り下げたのが、『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす』という本。

 

 

あの『シティポップとは何か』を著した柴崎祐二氏の新しいやつってことでかなり楽しみにしていたんだけど、期待を超える充実した内容でした。

 

1950年代から2020年代までの間にポピュラー音楽の世界で興ったいろんなリバイバルの動きを丁寧に紹介しつつ、それぞれの動きの時代背景や鍵となる人物やテクノロジーの話、さらには歴史的な意義にまで踏み込んで縦横無尽に書かれている。

 

たとえば、90年代の渋谷系を準備していたのは、個人経営のレコード店やDJによる埋もれたソフトロック名盤の再評価の動きであり、その背景には、カウンターカルチャー的なロック語りが陳腐化してきていたことがあり、その傾向は世界同時多発で共有された面もあり、、といった具合。

 

同時代で体験していてよく知っているリバイバルも、後追いだけど知識として入っている話も、自分がまったく通ってこなかった世界の話もあり、いずれも興味深くて一気に読み終えた。

 

カバーしている範囲の広さでも、リバイバルにまつわるいろんな要素の網羅性でも、批評の深さについても、本当にすごい一冊でした。

 

実体験してきたリバイバル

個人的にも、リバイバルについてはずっと興味を持って考えてきたし、LL教室としての活動の中でもことあるごとに議論したり紹介してきたりもした。

 

『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす』は、これまで自分なりに積み重ねてきた音楽体験や思考に対して、土台が強化されたような思いと、一方で思いもよらなかった方向で揺さぶられたような思いの両方を味わわせてくれたので、今回は自分なりにリバイバルという現象について考えてきたことをいくつか話してみたい。

 

 

リバイバルというものを初めて意識したのは、80年代にあったいわゆる「オールディーズ」のリバイバル

 

横浜銀蝿みたいなツッパリの人たちのリーゼントとか革ジャンとかポニーテールといったスタイル、さらにはロックンロールっていう音楽が、実は大昔のものだっていうことに薄々気づいたという原体験があった。

新進気鋭のグループであるはずのチェッカーズを「懐かしい」っていう大人がいたこととか。

 

そして自分がリバイバルの担い手になっている実感を持ったのは、90年代。

70年代の空気感を身にまとったイエローモンキーやラブサイケデリコといった人たちがJ-POPのど真ん中でブレイクした時代、襟のでかいハデな柄のシャツやブーツカットジーンズやミニワンピースといったファッションは自分たちの世代が中心だった。

リーボックのスニーカーがおしゃれになった2020年以降、「ラッパズボン」を履く息子を奇異な目で見ていた当時の親たちの気持ちを、今の自分ならすごくよく理解できる)

 

50年代リバイバルがあった80年代、60〜70年代リバイバルがあった90年代と、2度のリバイバルを体験してきた当時、「このままいくといずれ80年代ブームがやってきたりして」などと冗談を言い合っていたものだけど、これはあくまで冗談であって、そんなことはありえないという強い前提があった。

 

なぜなら、90年代には80年代らしいものは完全にダサいものになっていたから。

加工されたドラムの音やシンセサイザー、手数の多いスラップベース、都会っぽさを気取った歌、袖をまくった大きめのジャケットなどは、嘲笑する対象でしかなかった。

 

 

 

まさか後年それらの要素がシティポップを象徴するものとして「アリ」になっていくだなんて、誰も想像できなかった。

 

自分自身、いかにも80年代な音楽は、90年代と今とで全然違って聴こえている。

手のひら返しと言われればその通りなんだけど。

 

なので、この先なにかとんでもないものがリバイバルしたとしても驚かない。

すべての音楽はリバイバルの可能性を秘めていると思っている。

 

「みんなちがって、みんないい」のか

度忘れ去られた音楽が後の時代にリバイバルするという現象が何度も繰り返されてきたポピュラー音楽の半世紀。

 

『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす』の中で指摘されている通り、多くの者から「時代遅れ」とみなされている意匠こそ、新たな意味付けをされて再浮上する、つまりリバイバルしやすい傾向があると思う。

 

 

70年代〜80年代〜90年代にかけては、新しいジャンルやサウンドが流行していく過程で、直前のトレンドをダサいものとして否定するのが常だった。

「◯◯はもう古い!これからは▢▢だ!」みたいな言い回しが当時の音楽雑誌にはよく出てくる。

 

前述した個人的な音楽体験の中でも、80年代はとにかく深刻ぶって大げさな70年代っぽさを否定して、ポップで軽薄であることがカッコいいとされたし、90年代になるとそんな80年代の軽さがものすごくダサく見えていた。

そして、そうやって一度時代遅れになったからこそ、次の時代にリバイバルした。

 

言ってみれば、親殺しによって自己を確立するにあたり、親世代への逆張りとして、親世代が否定した祖父母の世代の価値観を引っ張り出してきたようなもの。

20世紀後半はその繰り返しでやってきたようなところがある。

 

ただ、21世紀になると、相変わらず新しい音楽ジャンルやサウンドは生まれ続けているものの、ことさら前の時代を否定しなくなった。

 

近頃の若者は反抗期がないまま大人になるらしいっていう話とよく似ているし、他人の好みや意見を批判するのはよくないことだという価値観が定着したことにも通じているのかもしれない。

 

ひと昔前なら、キャリアが20年ぐらいあるアーティストは、そのキャリアの中で何度も音楽性が変わっているのが当たり前だった。

たとえばジェファーソン・エアプレイン→スターシップ、シカゴ、ドゥービー・ブラザーズなどの、70年代から80年代にかけてのキャラ変は有名。

日本でも、フォークデュオとしてデビューしたCHAGE and ASKAが、80年代にアーバン化した末に90年代J-POPの代表格になった、みたいな事例はいくらでも転がっている。

 

それと比べると、90年代にデビューして2020年代も活動しているアーティストって、音楽性があまり変わっていない。

たとえ変わっていたとしても、それはシーンのトレンドに押し流された結果というよりは行き詰まったとか飽きたといった感じで、あくまで本人の意志でやったパターンが多そう。

少なくとも、80年代や90年代に起こったような、現役アーティスト全員が巻き込まれるような激変は、久しく発生していない。

 

20年前と同じ音楽性で活動しているアーティストがいても、ブレなさを評価されることはあっても、変わらなさをもってダサい言われることはない。

 

言わば「みんなちがって、みんないい」の時代になったわけで、変なトレンド圧力がなくていい時代だとも思うけど、一方であらゆるジャンルなり意匠が時代遅れにならずにそれぞれのシーンで生き延びていくということは、リバイバルされるきっかけも生まれにくいということも言えるのではないか。

ジャンルなり意匠を支える人たちが細々ながらもずっと存在し続ける限り、部外者による文脈の読み替えは起こりづらそう。

 

20年前からブックオフで短冊型CDシングルを買い集めて、時代が一周するのを待ち構えていたような自分からすると、なにごとも一旦は完全に時代遅れになってからリバイバルしてくれたほうがおもしろいので、「みんなちがって、みんないい」は物足りない。

今さら「◯◯はもう古い!これからは▢▢だ!」もしんどいけど。

 

↑同じバンドの1970年と1981年の代表曲…

 

1周目と2周目の区別がつかない

リバイバルはおもしろい。

しかし完全に文脈に依存した動きなので、後追い世代には掴みづらいことも多い。

 

先日も20代の音楽好きと話していて、60年代のモッズと70年代のネオモッズを混同している事例を観測した。

そりゃ90年代生まれにとってはどちらも自分が生まれる前のイギリスのマイナーなシーンの話だしね…。

1周目と2周目の区別がつかなくっても無理はない。

 

『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす』を読んでいて、このガイドはそんな世代にすごく役立つだろうなと思った。

 

LL教室として美学校のポピュラー音楽批評講座を次年度も担当させていただくことになりましたが、「リバイバル」はトピックとして立ててもよいかも。