森の掟

J-POPやメタルやフェスや音楽番組なんかの批評(という名の無益な墓掘り行為)

ビーイングのセピア色に覆われた1993年に開学した小沢大学〜LL教室の試験に出ないJ-POPイベントふりかえり

昨日このようなトークイベントをやりました。

 

「LL教室の試験に出ないJ-POPシリーズ〜1999年編〜」

www.velvetsun.jp

 

90年代のJ-POPについて1年ごとに区切って深掘りしていこうというこのイベント、これまでに1998年、1999年、1991年、1992年を扱ってきており、今回は5回目。

「試験に出ない」というタイトルの通り、一般的な語り口ではない、オルタナティブな目のつけどころで重箱の隅をつつこうという趣旨でやってます。

 

毎回ゲストをお迎えしているんだけど、今回は1993年にGOMES THE HITMANを結成し、昨年13年ぶりの新録作品をリリースした山田稔明さんにご登場いただきました。

gomesthehitman.shop-pro.jp

 

1993年の世相

さて1993年といえば自民党55年体制が終わって細川連立内閣ができた年でもあり、ヨーロッパではEUが発足した年でもある。バブル崩壊後、そして冷戦終了後の新しい世界の枠組みみたいなものが国内外で立ち上がってきた感じ。

また、この年に開幕したJリーグもそうなんだけど、「J」をつければ何か新しい平成っぽい軽やかなものに見えるっていうブランディングが通用していた。

 

そもそも「J-POP」という言葉はJ-WAVEが使い始めたもので、J-WAVEが開局した1988年頃からすでに使われていたと言われているが、言葉としてお茶の間に浸透してきたのは、「J」の時代である1993年頃だったような気がする。

 

「J-POP」という言葉、J-WAVEが生みの親って知ってた? その意味は…

 

それぞれの1993年

矢野くんは当時小学生だったにもかかわらず、すでに渋谷系的なものに惹かれる自分を認識していたっぽくて、スチャダラパーを好んでいたらしい。一方で流行りのB'zなんかも普通に聴いていたと。

 

森野さんは当時高校生。

競馬とプロレス、そして何より音楽にどっぷりハマっていて、深夜のTV番組「BEAT UK」を熱心にチェックし、今はなき神保町のJANISに毎週通ってたくさんのCDをレンタルしまくっていたとのこと。

 

ハシノも高校生で、同じく中古やレンタルでひたすらいろんな音楽を吸収していた。グランジオルタナティブなUSのロックを好み、一方でブリットポップという言葉が出てくる直前のUKのシーンも少しずつ気になっていた。

日本の音楽といえばユニコーン筋肉少女帯すかんち上々颱風ぐらいで、J-POPのメインストリームに対しては全く興味がなかった。

 

ゲストの山田さんは佐賀から上京して2年目。田舎と違って好きな音楽の話ができる相手が見つかるんじゃないかという期待を抱いて出てきた東京で、大学の先輩を誘ってGOMES THE HITMANを結成した年。

知性が感じられないJ-POPのメインストリームに対しては敵対心といってもいいほどの感情があり、日本には期待できないということで洋楽ばかり聴いていたんだって。

特に影響を受けたのがアメリカのR.E.M.とレモンヘッズで、最初は英語で歌詞を書いていたとのこと。

 

 
 

 

「小沢大学」

そんな山田さんにとって、1993年の小沢健二のソロデビューアルバムはとても大きかったそう。

犬は吠えるがキャラバンは進む

犬は吠えるがキャラバンは進む

  • アーティスト: 小沢健二
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 1993/09/29
  • メディア: CD

 

山田さんが当時大学で学んでいた英米の文学の香りも漂う、はじめて出会えた「知性」を感じる日本語の音楽。

それ以降、日本語で歌詞を書くようになるなど、山田さんの音楽観に多大な影響を受けたそうです。

山田さんはそれを「小沢大学に入学した」と表現されていた。

 

LL教室イベントでこのアルバムに言及されるのは実は2回めで、最初にやったイベントでゲストにお迎えしたTBSラジオの長谷川プロデューサーも、このアルバムを90年代のフェイバリットのひとつに挙げておられたのだった。

(打ち上げでは山田さんと長谷川さんの交流にまつわるイイ話も伺った)

 

イベント後半ではこのアルバムから「ローラースケート・パーク」の歌詞をじっくり分析したんだけど、これに関しては矢野せんせいの面目躍如といったところ。

 

矢野くんは「ローラースケート・パーク」のパンチラインである「ありとあらゆる種類の言葉を知って/何も言えなくなるなんて/そんなバカなあやまちはしないのさ」というフレーズを、太宰治の「猿面冠者」と対比させ、小沢健二太宰治がつまづいたと思われる部分を乗り越えていると主張。

太宰治 猿面冠者

(とはいえ太宰という人は「そういうグズグズした自分」をキャラ化している面もあり一筋縄ではいかないとのこと)

 

ほんとこのフレーズはいろんな人をハッとさせてきたよね。

大学生の頃、誰よりもいろんな音楽に詳しくて賢いやつは結局自分では音楽を作る側にはまわらなかったなーという印象がある。たぶんいろいろ考えすぎたんだろう。

それに比べると、自分のような深く考えずにいろいろ手を出してしまうような人間のほうが、かたちになるものを残していたり。

 

誰よりもいろんな音楽に詳しくて賢い人だった小沢健二が、そういう過去の自分を乗り越えたんだっていう表明なんだろうねっていう話でした。

 

ちなみにハシノが小沢大学に入学するのは翌年のアルバム「LIFE」からなんだけど、その話はまたいずれ。それこそこのイベントで1994年をやるときにでも。

 

1993年のJ-POPとその周辺

フリッパーズ・ギターの解散後、小沢健二コーネリアス小山田圭吾が揃ってソロデビューし、またオリジナルラブが「接吻」をヒットさせるなど、いわゆる渋谷系なシーンが活性化する一方、それとはまったく異なる状況がメインストリームにはあった。

 

1992年に登場した通信カラオケが普及し、文部省「教育白書」に「我が国でもっとも盛んな文化活動はカラオケである」と記された93年。中高生にとって、放課後に遊ぶことイコールカラオケだったといっても過言ではない。

 

また、テレビの歌番組でいうと「ポップジャム」と「COUNT DOWN TV」が始まったのがこの年。昭和の終わりとともに「ベストテン」などの古いタイプの歌番組が消え、しばらく歌番組らしい歌番組といえば「ミュージックステーション」ぐらいしかなかった時期がしばらくあって、ここからJ-POPの時代に対応した歌番組が登場してくる。翌94年には「HEY! HEY! HEY!」もスタート。

 

80年代後半からのバンドブームは90年頃にピークを迎え、大量のバンドがメジャーデビューしていたが、次第に勢いを失い、93年には完全に落ち目に。新しくデビューするバンドは極端に減っていた。

そんな中、この年にユニコーンが解散。ジュンスカも事実上の活動休止状態になり、とどめを刺す感じに。米米CLUBプリンセスプリンセスはバンドサウンドからシフトチェンジしてしばらく生き残る。

 

そして昭和末期の若者文化を牽引してきたサザンオールスターズ松任谷由実といった人たち(そして平成最後の紅白を締めくくった人たち!)もまだまだ元気だった一方、93年前後から新しい潮流が生まれてきつつあった。

 

ビーイング

1988年にデビューしたB'z、1991年にデビューしたZARDT-BOLANWANDSらが揃って大ヒット曲を連発した93年、ビーイング系アーティストだけで全CD売上の7%を占めたそうな。

 

ヒットチャート上位になったビーイング系アーティストの楽曲のCDジャケットをズラッと並べてみると、ある一定のセンスが貫かれているのがわかる。

http://image.news.livedoor.com/newsimage/b/3/b3f82_1503_17449dfeecd6ad3e27a4d059249df474.jpg

 

 

そう。

全体的にセピア色なんだよなー。 

 

ビーイングモータウン・レコードになぞらえるという、良心的な音楽ファンが眉をしかめそうな説があるんだけど、たしかに、いろんなアーティストをみんなレーベルの色に染めて大量生産するシステムを構築したっていう面は共通している。

J-POPの歴史を作った、織田哲郎とビーイングでの二人三脚 | BARKS

 

プロデューサー長戸大幸と作家織田哲郎が手がけると、みんな上記のようなセピア色のジャケットで世の中に出てくることになり、サウンド面でもしっかりビーイング色に染まっている。

そしてそれが確実に売れたのが1993年。

 

サウンド面の特徴としては、うっすらオールディーズ感(Mi-Keに顕著だけど他の曲にもフレーズ単位で散見される)がありつつも、全体としては80年代のいわゆる産業ロックを下敷きに、よりドメスティックな方向にカスタマイズされたもの。

それまでの日本のニューミュージックや歌謡曲が、その時代時代の洋楽のトレンドを敏感に取り入れていたのは対照的で、開き直ったガラパゴス感が強い。

 

あとイベントではビーイング楽曲の歌詞の分析もやったんだけど、こちらも見事に統一感のあるセンスで貫かれている。

 

矢野くんの分析によると、ビーイングの歌詞は基本的にモノローグであると。

それはつまりどういうことかというと、歌の中で物語が進行する気配がなく、自分以外の登場人物が出てくることもないということ。

恋愛の歌なんだけど、片思いであったり、過ぎ去った恋愛の追憶だったり。

歌い出しあたりで一応情景の描写があったりするけど、基本的に主人公の脳内で完結しており、社会との関わりもない。

 

この、社会との関わりについては村上春樹との類似性を指摘してたな。意外なところを繋げてくるのも矢野せんせいの面白さ。 

 

最終的に、歌詞がモノローグばかりってことと、CDジャケットが特徴的なセピア色なことって絶対これ関係あるよねっていう話に。

 

まとめ

1993年は平成5年。

冷戦終了やバブル崩壊で一つの時代が終わったあと、新しい時代の方向性がようやく定まりつつあった時期。

音楽シーンにおいても、それまでは音楽で食っていくことイコール芸能界の一員になることだった昭和の文化がほぼ終わり、バンドやシンガーソングライターとして芸能界と距離を置きながらやっていける体制が整ってきた。

それがJ-POPということかもしれない。

 

その新しい時代にまっさきに成功したのがビーイングだったという事実は、いろいろ重要なことを示唆していると思う。

 

その一方で、同時代のクラブミュージックや過去の膨大なグッドミュージックを参照する新しいアーティストが登場してきたのもこの時期。やがてその一部は「渋谷系」と呼ばれるようになるし、そのくくりに入っていなくても、スピッツサニーデイ・サービスのように日本語で良質な音楽をやるロックバンドがぼちぼち出てくるようになる。

 

そんな境目だったのが1993年ということでしょうかね。

 

おまけ:猫ジャケのコーナー

山田さんといえば愛猫家としても有名で、Instagramでは1万2千人のフォロワーがいる。

また実写であれイラストであれ猫がいるジャケットのレコードを収集されていることでも知られる。

www.instagram.com

 

 

そこで、LL教室の3人がそれぞれ持ち寄った猫ジャケのレコードを山田さんにプレゼンし、もっともお気に召したものを選んでもらうというコーナーをやった。

 

ハシノが持参したのは、下記画像の左側2列。

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猫ジャケのレコード

左上から、

本田美奈子がロック化したときのminako with wild cats名義のアルバム

「振られ気分でRock'n Roll」でおなじみTOM★CATのアルバム

一段下で

高畑勲監督「じゃりン子チエ」のサントラ

「赤頭巾ちゃん御用心」がヒットしたレイジーのライブアルバム 

7インチでは、

ムツゴロウさん監督の映画「子猫物語」の主題歌で、大貫妙子坂本龍一の楽曲

80年代に一世を風靡した「なめんなよ」のノベルティソング

児童合唱団の子が歌う1969年の大ヒット曲「黒ネコのタンゴ」

99年頃に買ったビッグビートのLOSFELDっていうアーティスト

あのねのね原田伸郎清水國明)のギャグを音源化した「ネコニャンニャンニャン」

でんぱ組.incの「でんぱーりーナイト」のジャケには相澤さんの白猫が

 

森野さんが持ってきたのは、ネオアコのオレンジジュースというバンドの、未発表曲を集めたアルバムで、ジャケットにレーベルのマスコットであるドラム猫があしらわれてるやつ。画像の右下隅。

 

矢野くんが持ってきたのは、左上から

60年代末、人気絶頂期にザ・タイガースを脱退したギタリスト加橋かつみのソロアルバム

細野晴臣が音楽を手がけたますむらひろしの「銀河鉄道の夜」のサントラ

Ellen Mcllwaineの70年代ファンキーフォークのかっこいいアルバム

など

なめ猫はハシノとかぶった

 

山田さんのために各自猫ジャケを探してこようっていう宿題になったときには、自分の家にはほとんどないんじゃないかって思ってたけど、探せば意外とあったね。

しかも内容的にもかなり気に入ってるレコードが多かった。

 

山田さん賞には矢野くん持参の加橋かつみパリII」が選ばれ、せっかくなのでということで山田さんにそのレコードをプレゼントしたのだった。

喜んでいただけたようで幸いです。

 

そんな感じでいろんな盛り上がりを見せたイベントでした。

まだ90年代は語っていない年が残っているので、引き続きLL教室をよろしくです!

 

次回イベントは未定なんだけど、twitterアカウントをフォローしていただければ幸いです。

 

twitter.com

 

 

 

#夢眠ねむ卒業公演 #推すという気持ち

でんぱ組.incから夢眠ねむさんが卒業しました。

news.nifty.com

 

自分にとっては、アイドルを推すということを理屈ではなく理解させてくれた存在。

でんぱ組とねむさんがいなければ、アイドルカルチャーを外からながめてわかったつもりになっていただけであろう。

 

 

 

 

出会いからハマるまで

思い起こせば2011年、吉田豪さん監修のアイドルコンピに収録されていた「Kiss+kissでおわらない」を聴いたのが出会い。

そして翌2012年の2月に開催された「やついフェス」ではじめて生のライブを拝見したのだった。

 

それ以来、でんぱ組の動きを気にするようになっていたんだけど、その年に小沢健二の「強い気持ち強い愛」やビースティ・ボーイズの「Savotage」をヒャダインのプロデュースでカバーするなど、完全に自分のような人間を狙い撃ちにしてきてる感があり、実際やられたのだった。

www.youtube.com

 

ただこの時点ではまだ、おもしろいことをやってるアイドルグループだなと感じているレベル。夢中になってるとかではない。

 

本格的にやられたのは、2013年1月のZEPP TOKYOでのワンマンから。

新曲「W.W.D」を中心にメンバーのバックボーンが赤裸々に語られる演出にびっくりしたのと、なんといってもでんぱオタクの人たちのノリも含めたあの空間の雰囲気にやられたんだと思う。

 

それ以来、地方も含めていろんな現場に行ったし、テレビなどメディアへの露出も欠かさずチェックするようになったよね。

 

この頃は日比谷野音灰野敬二と共演するとか渋谷WWWでかせきさいだぁと共演するとか、プロデューサーもふくちゃんの色が濃く、そういうところもたまらなかった。

そういった80〜90年代のサブカルと、00年代以降のメイドやエロゲやアニメなどの秋葉原カルチャー(最近ではこっちを「サブカル」って呼ぶのが一般的らしいけど)を力技で結びつけてる感じがたまらなくかっこよかった。

 

 

楽曲派

アイドルということでいうとそれ以前にも「ポリリズム」が出たぐらいのPerfumeとか「Z伝説」が出たぐらいのももクロのライブにはよく足を運んではいたんだけど、あくまで「楽曲派」というスタンスだった。

楽曲派というのは「おれはあくまで曲がいいからこのアイドルを追っているだけであって別にかわいいからとかそういうんじゃないからガチ恋のキモいオタクとは違うのだからそこ大事だから」っていう態度のファンのこと。

 

つまり、あくまでちょっと引いたところからながめてた。ももクロなんて当時は割と簡単に握手とかできてたんだけど、別にそういうのじゃないしなって思ってスルーしてたほど。今となってはもったいない話だけど。

 

実際、perfume中田ヤスタカの曲やアレンジがよかったわけだし、ももクロにしてもヒャダインNARASAKIの曲がおもしろいと思ったわけだし。他のアイドルグループ、たとえばAKB周辺などには、まったく興味がなかった。今もない。

それはやはり曲がピンとこないからだ。

 

で、でんぱに関しても、最初は曲からだった。

かせきさいだぁと木暮晋也という、HALCALIの「フワフワブランニュー」って名曲を生んだ名コンビとか、ももクロの一連のブレイクのきっかけになったヒャダインとか、そういう人たちが楽曲を提供しているっていう。

 

あと大きかったのが、歌パートの割り当てとかボーカルのディレクション

大人数のグループって、まずメンバーを覚えるのが大変だったり、音源を聴いて誰が歌ってるか声で聞き分けるのがまた大変だったり、初心者にはまずそこが壁になりがち。

AKBグループにいまいちハマらなかったのは、誰が歌ってるのか全然わからないってのが要素として大きい。いろんな編成で歌うから仕方がないのかもしれないけど。

その点でんぱ組の楽曲は、メンバー個々の声質が全然違って聞こえるようにディレクションされており、またサビ以外は基本的に誰か1人が歌うように割り当てられているので、メンバーの顔と声とキャラが一致しやすかった。

そういう声しか出せないっていう素材の人もいれば、ねむさんのようにいろんな声を出せる器用な人がいて、それぞれ味つけを濃くして歌ってる。

 

そんなこんなででんぱ組は、楽曲派としても十分楽しめていた。

 

夢眠ねむさん

しかし、でんぱ組の動きをチェックしてるうちに次第に夢眠ねむという人が気になってきて。

単純に背が高い女性にドキっとするというルックスの好みはまずあるとして、あとやはり筋を通すかっこよさ。

この方はもともと美大出身でアートとしてメイドとかアイドルというのを扱いたいってところからこの道に入ったそうで、なので他のメンバーや他のアイドルとは違ってプロデューサーと目線が近く、他のアイドルたちが10代のまだ右も左もわからない頃からデビューしてるのと比べて、ほぼ10歳近く大人なんです。

右も左も分かった上でアイドルをやっている。

いかにもアキバ的な舌足らずなアニメ声を自在に操る器用さもあり、アイドルのお約束を大人がやってる的なとこがあった。アイドルのあり方として正統派ではなかったかもしれないけど、そういうところがすごくおもしろかった。

 

あと、当たり前だけどアイドルの人たちって好きな音楽とかの話はぜんぜん自分とは合わなさそうじゃないですか。興味関心の範囲が違いすぎる。

まあ、そんなこと普通は気にしないけど、でもまあ、人種が違うなーってのはちょっとさみしくはある。

その点、ねむさんはバリバリこっち側の人って感じ。僭越ながら。

実際、ブレイクする前は気軽にいろんなミュージシャンとかDJに絡んでおり、その中にはわたくしの友人や知人も含まれており、出会い方が違っていれば普通に友達だったかもって、幻想かもだけど思える。

こっち側の話がわかる女子が、違う畑で活躍してる的な感覚を持ってた。

 

でもさ、美大生の卒業制作でアイドルやってみましたって話を聞くと、なんか半笑いで「萌え〜なんちゃって!」みたいな態度をイメージしがちだけど、ねむさんはそういうのではなく、何より、メイドとかアイドルのカルチャーに真剣に敬意を抱いていた。

決して上から目線とかではなく、なんなら下から目線でアキバに入ってきたぐらいのことらしい。

このあたり、「ヤンクロック」を標榜してた氣志團にとってのヤンキーカルチャーの関係性にも近いのかもしれない。

メタな視点だけどリスペクトがある的な。

 

そして、夢眠ねむというアイドルを自己プロデュースするようなスタンスは、ほとんど矢沢永吉のそれである。

「オレはいいけどヤザワはなんて言うかな」のやつである。

矢沢永吉という人格を演じきる態度。

 

夢眠ねむは、そういう、メタとマジとネタとベタとが境目なく溶け合った存在に見えてた。

 

外れていく色眼鏡

ねむさんのそういうあり方を通じて界隈を見ていくと、アイドルの現場で弾けまくっちゃってる人も、一部のほんとにヤバい人を除けば、みんな普段は定職についてる穏やかな紳士だったりして、なんならファッション業界や音楽業界のおしゃれな人も多かったりして、そういう人たちがアイドルという遊び場で意識的にネジを外してるんだなということがわかってきた。

 

そしていつしか、自分もその中の一人として、チェキを撮ったり握手したりの接触も含めてアイドルを楽しむようになっていた。

「推す」という気持ちが心からわかったのであった。

 

夢眠ねむさんとでんぱ組.incに出会わなければ、一生この気持ちを持つことはなかったに違いない。

 

 

だいたい大人ってのは、一定の条件下でバカになりたいと思ってるもの。

たとえば野球のことまったく知らない人がいきなり甲子園の阪神戦に行ってみたらどう感じるか。いい大人が選手を呼び捨てにしてヤジってたり変な応援歌を大合唱してたり、冷静に考えたらだいぶおかしいわけで。

長い年月でできあがってきた応援の型とかカルチャーのフォーマットに乗っかって、万単位の大の大人が平日から羽目を外しまくってるわけでしょう。

球場でバット型のメガホンでリズムを取って応援するのも、アイドル現場でサイリウムを振って応援するのも、縁がない人から見たら同じぐらい奇妙で同じぐらい楽しそうなはず。

もうあとは世間に認知されてるかどうかだけよね。

 

 

また、でんぱ組の楽曲の特徴である「電波ソング」についても。

電波ソングっていうのは、打ち込みのビートやハイテンションなシンセが高速のBPMで繰り出されて歌も過剰に情報量が多い楽曲のこと。どうかしちゃってる=電波系っていう。

そういう音楽ジャンルが存在するってことは知っていたけど、自分が好きな音楽と距離がありすぎてツボというか聴きどころのとっかかりを見つけることすら困難だった。

だいたいグルーヴってものが皆無で正直苦手だった。

 

だけど、アイドルのライブ現場に行ってみると、そういう曲が爆発的な威力を発揮するってことが理解できた。

この曲とか、当時はライブハウスでモッシュが発生したりしてて、メタルとかデジタルハードコアのような、自分の大好物のジャンルと近いものなんだっていうことが体感できたのだった。

どうかしちゃってるぐらいのテンションが、現場で頭のネジを外すのにはちょうどいい塩梅なんだなーって。

たとえばAKB48の「恋するフォーチュンクッキー」っていう曲、お茶の間にはとっても愛された曲だけど、現場のオタクには人気がないという。その温度差。

 

というような感覚が、理屈じゃなくて体感できたのは、自分の音楽リスナーとしての歴史としてもとても大きい。

できるだけいろんな音楽を理解して好きになりたいと思って生きているので。

 

いろんな色眼鏡を外してくれた夢眠ねむさんともふくちゃんでんぱ組.incに心から感謝したい。

 

 

2019年1月7日

2019年1月7日の日本武道館における卒業公演は、ねむさんがやりたい曲をやるというセットリストだったんだけど、それが自分の好きな曲とことごとく合致しており、さすが推しと思ったもんだった(欲を言えば「強い気持ち強い愛」をやってほしかった)。

 

自分がもっとも現場に通っていた2013年〜2015年によくやっていた曲なんかは、地方のライブハウスまで遠征した思い出も蘇ってきたりしてたまらなかったし、かせきさいだぁ&木暮晋也による「くちづけキボンヌ」で完全にもう感極まった。

 

 

この日のライブはとにかくねむさんの卒業をみんなで祝おうっていう思いが会場全体を包んでいつつ、決して湿っぽくはならずに進んでいった。なんでそこでキレ気味なのかっていういつものねむさんのノリも健在。みりんちゃんをいじる感じも見納めかと思うとまた一段と味わい深いし。

 

そんな感じでアンコールの「WWDBEST」まであっという間。

我慢できずに泣いちゃってるオタクちらほら。自分も最後のほうは鳥肌立たせながらボーッとしちゃってた。

 

感無量といった感じで最後のあいさつをしてステージを降りた後、昨日と同じようにエンドロールが流れるかと思いきや、もう一度アンコールがありそうな気配。

 

え、でもあれだけ感動的なやり取りがあってこの先なにが?と思ってたら、ファンクラブのハッピを着たねむさんがひとりでステージに登場。

 

で「どうせみんな『これでねむきゅんを見届けた』とか、『ねむきゅんがいないでんぱ組なんて怖くて見れない』とか思ってるんでしょ!」と強い調子で決めつけてきたんだけど、いやまったくその通りのことを考えていたのでめっちゃびっくり。

 

正直、これで自分にとってでんぱ組のライブは最後かな、なんて思ってた。

おそらくあの場にいたねむ推しの多くも同じ気持ちだったであろう。

 

しかし、でんぱ組における夢眠ねむの存在はめちゃめちゃデカいので、そんなことを思うオタクがたくさんいたら今度の活動にめっちゃ響いてしまう。

夢眠ねむという人は、そういうところまで見えてしまうし、またそれをほっておけない。ボロボロになるまでがんばった挙げ句、自分を守るため避難するように卒業するアイドルもいるなかで、ねむさんの意識は最後までこっちに向いていた。

 

これからは自分もでんぱ組のファンとしてライブを見に行くから!と言うと、ねむさんを除く6人(つまり明日からの新体制)がステージに現れ、「Future Diver」を披露。

ねむさんの見せ場である落ちサビは、後継者指名された根本凪さんが立派に歌い上げ、これからもでんぱ組は更新されていくんだっていうことを、全世界に示したのだった。

 

アイドルとして美しく卒業するだけであれば、このダブルアンコールは蛇足かもしれない。

けど、他界しそうなねむ推しに釘を刺し、でんぱ組の新体制をみんなに見せるってところまでが自分の仕事だと考えていたのでしょう。

こういう、めっちゃ優しくてめっちゃ粋なところ。

最後の最後まで夢眠ねむだったし、この人を推していてよかったと心から思えました。

 

夢眠ねむさんお疲れ様でした。

 

世代別・元バンドマンの見分け方(年表つき)

あなたのまわりにも昔バンドやってたって人が何人かいると思う。

 

「あの人むかしバンドやってたらしいよ」などと親戚とか同僚とかで噂されるような。

そう言われてみればそんな雰囲気あるかもって相槌を打ちつつも、自分の同世代の元バンドマンとはなんか人種が違う感じもするような。

そう。元バンドマンってひとくちに言っても、その時代のバンドマンがどんな音楽をおもにやっていたか、クラスの中のどんなタイプがバンドという自己表現を選んできたか、その時代の社会におけるバンドマンの位置づけがどんなだったかなどが影響するので、時代によって元バンドマンのタイプは実は全然違う。

 

なので、同僚や親戚にいる元バンドマンって人に接する際には、世代ごとの特徴をつかんで、適切な対応をしましょう。

日常生活の中で出会うあの人も実は元バンドマンかもよっていう、今日はそういう話。

 

戦後の「元バンドマン」の9分類

1940年生まれから1998年生まれまで、つまり1960年のハタチから2018年のハタチまで、戦後のバンドマンの系譜を大雑把に9分類してみたのが下の図。

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元バンドマン年表

 

左から、その人が生まれた年、2018年に何歳か、その人が20歳のとき何年だったかの数字が入っており、その世代ごとの代表的なバンドマンの分類と、その年にブレイクしたバンドをまとめている。

たとえば自分は1976年生まれで現在42歳。20歳のとき1996年だった。バンドマン分類でいうとヴィジュアル系の時代…という見方をしてください。

(実際に高校時代の学祭バンドはLUNA SEAコピーバンドだったし、楽器屋の目立つ場所に陳列されていたのはhideモデルのモッキンバードだった)

 

なお、この記事は日常生活で出会う確率が高い元バンドマンについての話なので、バンドマンの分類は、あくまで日本全国のマジョリティで考えています。

なので、いくら後世に多大な影響を与えたとしても、当時ごく一部の人にしか聴かれていなかったバンドや音楽は除外してる。

つまり、はっぴいえんどYMOフリッパーズギターはこの年表には入ってこない。なぜなら日本語ロックやテクノポップネオアコは、バンドに憧れるごくふつうの若者のマジョリティには直接的な影響を一切与えていないから。

 

では戦後バンドマンの分類をひとつずつ見ていこう。

 

1960年前後「マンボ」

いまでは「バンド」といえばエレキギターとベースとドラムのロックバンドを想起するけど、それってベンチャーズが来日して空前のエレキブームが起きた1965年ぐらいから後のこと。

それ以前に「バンド」といえば、金管楽器や打楽器を含めた大所帯のビッグバンドのことだった。

https://columbia.jp/artist-info/photo/tokyocubanboys01.jpg

 

演奏するジャンルは、ジャズやラテンが中心。

活動の場はキャバレーやダンスホールなどであり、基本的にバンドそのものが全面に出るのではなく、ゴージャスな夜の世界を演出する役割。

バンドマンが自作曲を演奏することもなかった。

 

つまり、この時代のバンドマンは承認欲求や自己表現とは無縁。「アーティスト」ではなく職人だった。

ミュージシャンのキャリア形成とか権利といった発想はまだなく、きわめて不安定な世界だったし、完全に昭和の夜の世界の住人なので極道界隈との距離も近い。

引退後のキャリアとしては、飲食とか風営法の領域が多そう。

 

この時代の元バンドマンは生きていたらほとんど80歳に近い。

上野とか浅草とか鶯谷あたりの、かつて栄えた歓楽街にいるおじいさんたちの中にたまにいる、カタギじゃないオーラの先輩たちはだいたい元バンドマン。

 

1960年代後半〜「エレキブーム」

1965年のベンチャーズ来日により、空前のエレキブームが起こった日本。

映画化もされた小説「青春デンデケデケデケ」みたいに、日本中の若者が何とかお金を工面してエレキギターをほしがった。

ギター、ベース、ドラムというロックバンドの基本編成が定着したのはここから。

http://www.geocities.jp/return_youth/groupsounds/_src/sc12155/83g83b83v.jpg

 

そして1966年のビートルズ来日に前後して、「グループ・サウンズ」という名前でたくさんのバンドがデビューしてくる。

 

ここから、自作の曲を演奏することや、バンド自体が全面にでてキャーキャー言われるようになる。

バンドを始める動機として、承認欲求や自己表現が入ってくる。

 

とはいえまだまだ楽器は高価なものであり、この時代にバンドをやっていたということは裕福な家庭の出である可能性が高い。

また同時に、ビートルズ来日の際にPTAから抗議の声が上がったほどなので、不良の音楽っていうイメージも根強かったわけで、実際に不良だったか、不良よばわりされることに抵抗がない人であったことは間違いない。

つまり裕福な自営業や医者などの子弟に多く、引退後のキャリアとしては家業を継いでいたりしてそう。

 

この時代の元バンドマンは現在70歳前後。

診察室の壁にジョン・レノンのイラストが額装されてる歯医者の、70歳には見えないツヤツヤした先生はだいたい元バンドマン。

 

1970年代〜「暴走族」

1950年代ごろからバイクを乗り回す不良少年たちは存在したんだけど、当時はまだバイクは高価だったので、「カミナリ族」と呼ばれた彼らはもっぱら富裕層だったらしい。

エレキギターと同じく、裕福な不良のアイテムだった。

 

そんなエレキギターやバイクがわりと一般に普及するようになってくるのが、70年代初頭。

世界的にも映画「イージーライダー」の公開、ローリング・ストーンズとヘルズエンジェルスの関係などから、ロックバンドとバイクがセットで語られる文脈ができてきた。

 

そうしてバイクとロックバンドが男の子の憧れるワルな感じの象徴になっていき、1972年には矢沢永吉のCAROL、1976年には舘ひろし岩城滉一のクールスがデビューしていく。CAROLやクールス、あと外道といったバンドは、暴走族にめっちゃ支持された。

 

日本において革ジャンとリーゼントのロックバンドのイメージはこのあたりで形成され、のちに半ばネタ化されて横浜銀蠅、さらにネタ化されて氣志團へと受け継がれていく。 

http://st.cdjapan.co.jp/pictures/l/02/18/UMCK-4048.jpg

 

要するにこの時代のバンドマンはほぼ間違いなく暴走族。

なので引退後のキャリアは必然的に自動車整備士運送業

たまにタクシーに乗ったらリーゼントがビシッとキマった60歳ぐらいの運転手にあたることあるじゃないですか、あれ、だいたい元バンドマン。

 

1980年代〜「パンクス」

1970年代後半にイギリスやアメリカではじまったパンクロックの流れは、すぐに日本にも影響を与え、アナーキーやザ・スターリンINU、THE STAR CLUBといったバンドが80年代初頭から日本のパンクシーンを形成していく。

 

日本のパンクシーンは最終的にはTHE BLUE HEARTSという大スターを生むんだけど、そこに至るまでの数年間は、客席に豚の臓物を撒き散らすなどのパフォーマンス、メタルなど他ジャンルとの抗争や暴力沙汰など、なかなかに過激でカオスだった。

 

髪型もモヒカンだったりして、とにかくどれだけ世間の価値観から遠くに行けるかっていう勝負みたいな感じだったと思う。

 

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一方で、パンクロックって楽器ができなくてもいいっていうほどの敷居の低さが売りなので、ブーム収束後も職人ミュージシャンとして生き残った確率は他のどの時代よりも低そう。

 

音楽がやりたいというよりは、自己を表現したいとかクリエイティブなことがしたかった人がたまたま選んだのがパンクバンドだったっていう感じで、そういう人は音楽以外の文化的なジャンルに転身して成功してたりする。

 

出版社や広告代理店の中間管理職の、今やなんの面影もない50代の温厚なおじさんって感じに納まっていても、だいたい元バンドマン。

グイグイくる感じの新卒女子社員に飲み会で根掘り葉掘り突っ込まれてモヒカン時代が暴かれたりしがち。

 

1980年代末「バンドブーム」

パンクロックは世間の価値観につばを吐くことが重要で、ある面で世捨て人になる覚悟が必要だったんだけど、1980年代末のいわゆるホコ天イカ天のバンドブームのころになると、バンドマンもだいぶカジュアルな存在になってくる。

 

相変わらず髪は逆立ててるし破れたジーンズを履いてるけど、別に何かに中指を立てたいわけではないし、暴力反対だしっていう。

JUN SKY WALKER(S)あたりが象徴的だけど、パンクバンドとしての反抗的な目線は保ちつつも、破壊や暴力よりも前向きなメッセージが出てきたり、より日常的な世界を歌うことが増えてくる。 

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バンドブームのピークのころってバンドでありさえすればとりあえず注目してもらえたわけで、結構いろんなジャンルのバンドが出てきた。たまとFLYING KIDSブランキー・ジェット・シティに音楽的な共通点は皆無なわけで。

あらゆるブームの宿命として、質の悪いものがどんどん出てきて飽和状態になった結果すぐに下火になってしまうんだけど、とはいえ圧倒的な量が供給されたことで日本のロックの幅はめっちゃ広がった。

 

前の時代と比べて思想的な背景がない反面、演奏技術はあるわけで、楽器が好きで勉強が苦手な気のいいあんちゃんって感じ。

なので引退後のキャリアとしては、音楽業界の裏方ってパターン。

 

町おこしイベントや学祭などの野外ライブなんかの場でテキパキ働いてる40代後半の長髪のおじさんは、だいたいバンドブーム期の元バンドマン。

 

 90年代後半「ヴィジュアル系

1993年にはバンドブームは完全に終わっており、代わって10代のバンド志向男子を惹きつけたのが、ヴィジュアル系

 

80年代パンクロックから派生したサブジャンルや、パンクロックと同時代のラウドネスなどのジャパメタ、バンドブーム期から存在したBOOWYなどのビートロック勢といった複数の流れが、1989年にメジャーデビューしたXという一点で合流して生まれたこのジャンル。

90年代前半、Xに続いて、LUNA SEAGLAY、L'Arc~en~Cielなどが続々とデビューしていく。

 

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ヴィジュアル系は基本的にファン層はほぼ女性であり、ヴィジュアル系でやっていくためには演奏技術もさることながらルックスやカリスマ性が重要だった。 

 

この時代の元バンドマン、真面目に演奏技術を磨いていればミュージシャンとして活躍しているけど、ルックスやカリスマ性だけに頼ってやってきた人は、時期的に就職氷河期にもあたるのでセカンドキャリアは難しく、バンドマン時代の延長でヒモやってるパターンも多いかも。

つまり平日の昼間に手持ち無沙汰な感じでコンビニで立ち読みしてる緑色の髪のアラフォーは、だいたい元バンドマン。

 

00年代前半「青春パンク」

90年代後半、Hi-STANDARDDragon Ashモンゴル800の大ブレイクやAIR JAMの開催など、インディーズのメロコアスカコア・ミクスチャーがものすごく盛り上がってくる。

さらに数年後にはシーンの担い手がさらに若くなり、屈託なく青いことを言う青春パンクへと裾野が広がっていく。

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このムーブメントの特徴は、ハイスタの沖縄公演のオープニングアクトをつとめたモンゴル800がその後ブレイクした事例のように、全国各地のシーンが活性化したこと。

それぞれの土地で、地元のバンドが拠点となるライブハウスを盛り上げ、そこに他の土地からのツアーバンドを招く。逆にそういったバンドがツアーに出たら各地のライブハウスで土地土地のバンドがハコをパンパンにしておいてくれる。

 

なので、バンドを結成してオリジナル曲が10曲ぐらいあれば、すぐにツアーに出たりインディーズでCDをリリースしたりといった感じ。

そうなると演奏技術の向上や音楽性の深化よりも、バンド同士の交流やツアーの手配、レーベルの運営などに長けたバンドが生き残る傾向がある。

 

もともとDo It Yourselfはパンクの基本姿勢なわけで、引退後のキャリアとしてもセルフマネジメント能力やコミュニケーション能力を活かして起業とかマネジメントにいくパターンが多い。ZOZOTOWNが典型例。

 

昭和のサラリーマン世界とは断絶した場所で、社員の一体感を武器にカジュアルにのし上がってきた30代若手経営者(愛読書はワンピース)は、だいたい元バンドマン。

 

00年代後半「メガネ」

1994年の雑誌「ROCKIN' ON JAPAN」のリニューアルおよび2000年の「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」開始により、よく取り上げられるバンドが「ロキノン系」という呼称でくくられるようになっていく。

 

この時代のバンドマンがそれ以前のバンドマンたちと決定的に違うのが、フィジカルの強さが不要になったこと。

それまでのどの時代においても、若者を熱狂させるバンドマンにはクラスの人気者だったりケンカが強かったりといったオスとしての強さが必要不可欠だった。

 

しかしロキノン系においては、クラスの中の目立たないメガネくんが抑えられてた暴力性を爆発させる的なカタルシスがもてはやされる。

むしろメガネくんの鬱屈や文学性こそがロックには必要であるとされ、旧世代の屈託のないヤンキーは揶揄される存在に。

フロントマンがメガネなことは今や何も珍しくないけど、くるりNUMBER GIRLなどが登場した90年代末にはけっこうな事件だった。

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この時代のバンドマンはガツガツしてないタイプが多く、組織の中で成り上がる感じはない。

一方で00年代にはバンドでウェブサイトを制作したりDTMで楽曲制作することが一般的になっており、バンドマンのITリテラシーは同世代と比べてもかなり高め。

なので引退後のキャリアとしてウェブデザイナーやエンジニアを選ぶパターンが多い。

 

メロコア出身の元バンドマン社長の会社でエンジニアやってるボーダーを着たメガネのアラサーは、だいたい元バンドマン。

 

ジム通いやマラソンにハマってどんどんフィジカルになっていくメロコア社長やキラキラ新卒にはさまれて、そういうのはちょっと…と力弱くつぶやいてる。

 

10年代「前髪」

最後に、90年代生まれの現在20代のバンドマンたち。

ここはまだ世の中的にカテゴライズされきっておらず適切な呼称が難しいけど、ひとまず「前髪系」としておく。

BUMP OF CHICKENRADWIMPS〜米津玄師の流れをくむ、前髪長めで猫背なバンドマンたち。

 

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ゲームやアニメやアイドルなど、かつてはモテないものとされてきた趣味が、10年代にはスクールカーストに関係なく浸透し、ルックスや社交性やファッションセンスに何の不自由もない男子たちが地下アイドルやソシャゲをたしなむのももはや普通のことになってる。

 

この時代にバンドマンを志すタイプも基本的にそういう価値観の持ち主で、異性に対するコンプレックスや負のエネルギーはもはや創作の推進力になりえない感じがする。

「もてたいだけのロックンローラー あなた動機が不純なんだわ」と山口百恵が歌ってから約40年、基本的にバンドマンは「モテたい」が動機であり続けたわけだけど、ついに流れが変わってきた。

 

今はまだ現役の彼らがこれから数年後に元バンドマンになったとき、これまでの元バンドマンとはまた違った世界に落ち着いていくんだろうか。

 

まとめ

ここまで読めば、日常生活ですれ違う人が元バンドマンかどうかかなりの確率で当たるようになってるはず。

みんないろんな姿で世間に溶け込んでるけど、一度は本気でバンドやろうって思ったタイプに悪人はあまりいない。だらしない人は山のようにいるけど。

 

なのでみんななかよくしてあげてください。

 

しかしこうやってあらためて流れを追ってみると、元バンドマンってほんと時代によってバラバラだな。

ただ何度か揺り戻しはあったりしたけど、全体の傾向として不良度は時代が下るにつれてどんどん低くなってる。

逆に演奏技術はどんどん上がってるんじゃないかと思う。

 

プロ野球の世界でも、稲尾やカネやん的な大らかな昭和の時代と比べると、不良度が低下して技術は向上してる。160キロ出るようになったけど400勝みたいな無茶はもうできない時代っていう。

どんなジャンルでもそういう傾向あるのかなって。

 

それがいいことなのか悪いことなのかはわからないけど。

Dragon Ash、あゆ、GLAYから読み解く1999年のJ-POPと時代の空気 〜LL教室の試験に出ないJ-POPイベントふりかえり

先日、このようなトークイベントをやりました。

「LL教室の試験に出ないJ-POPシリーズ〜1999年編〜」

www.velvetsun.jp


その名の通り、1999年のJ-POPについていろんな角度から語るという趣旨。「試験に出ない」というところには、一般的な語り口ではない、オルタナティブな目のつけどころで重箱の隅をつつこうという意図が込められています。

 

ゲストにはニューアルバムをリリースした直後のTWEEDEESの清浦夏実さんをお迎えしてしまいました。お忙しいところ恐縮でした。

 

それぞれの1999年

その清浦さん、1999年には小学3年生。そしてLL教室メンバーのうち、森野さんとハシノは大学生。矢野くんは高校1年生。

つまり出演者4人がそれぞれ適度に年が離れており、世代ごとに異なった切り口で語ることができた。

 

森野さんは当時すでにバンド活動を熱心にやっていて、J-POPはほとんど聴いてなかったそう。たしかに、バンドやってると友達とか身近なシーンの音楽が関心の中心になり、世間で流行っているものとは距離を感じるようになるな。

自分は2002年頃からそんなモードになる。

 

 矢野くんは東京育ちらしい早熟な感覚で、高1ですでにマーヴィン・ゲイを聴いて公民権運動に思いを馳せていたらしい。恐るべし。

 

一方その頃の清浦さんは、世間の流行りとほぼ同期して清浦家に入ってきていた音楽をそのまま吸収していたとのこと。

たとえばこの年大流行した「だんご3兄弟」はもちろんのこと、宇多田ヒカルやジャニーズはリアルタイムで聴いていたそう。

ところが同じぐらいヒットしていたはずの浜崎あゆみGLAYDragon Ashは清浦家にはまったく入ってこなかったらしい。

清浦家でフィルタリングが作用していたのか、単にアンテナにまったく引っかからなかったのか。

大人からしたらどちらも区別なく売れてるJ-POPなんだろうけど、小学生のアンテナに引っかかるかどうか、微妙なラインがあるんだろうな

たしかにあゆやGLAYDragon Ashあたりはちょっと不良ぶりたい層の心をつかむことでメガヒットになったところがある。地方の中学生がギリギリあこがれるワルさ。今も昔もそこを突くのが歌謡曲商売の勘所なんだと思う。

 

2018年でいうと、EXILE一派が身にまとっている空気のなかに、やはりワルさ成分は入ってるでしょう。「HiGH&LOW」シリーズで前面に出てる部分ね。

 

 そしてわたくしの1999年はというと、大阪郊外のロードサイドのCDショップでバイトしてました。空前のCDバブルや、インディーズからのメロコア、ミクスチャー、日本語ラップといったシーンが盛り上がっていく様、北欧ダンス・ポップやユーロビート音ゲーの融合などなど、さまざまな世相をレジの後ろから眺めていた。

 

詳しくはこちらのブログをご覧ください。 

 

1999年のJ-POP界 

 この年のJ-POP界で外せない要素としては、ヴィジュアル系バンドが競うように大規模な野外ライブをやったこと。

90年代初頭からXが切り開いたというか作り上げたシーンが、ここにきて完全に世間一般に浸透したということ。

特にGLAYは、YOSHIKIに見出されたというヴィジュアル系の出自があるものの、佐久間正英プロデュースのBOOWYフォロワーという位置づけの方が実態に近い気がするし、なんならBOOWY以上に日本人が好きなウェットな歌謡ロックを極めることができたわけで、そりゃ20万人集められるわなって(この記事の後半で詳しく話してます)。

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あとは女性R&Bブームね。UAMISIA、bird、SILVAといった、ファンキーでソウルフルな女性シンガーが続々とデビューしていた。

結果的に社会現象レベルに売れた宇多田ヒカルでさえ、最初はそのブームの中に位置づけられる一人として認識されていたわけで。m-floも最初はその文脈。

「クラブ」とか「DJ」って存在が、地方の高校生ぐらいまで浸透してきたのがこの頃。

 

一方で、この年からフジロックが苗場に会場を移したのと、ライジングサンが始まっており、フェス文化が本格的に日本に定着しはじめている(AIR JAMは98年からサマソニは2000年から)。

 

インディーズ界もこの数年でかなり盛り上がってきており、Hi-STANDARDに続くようにSNAIL RAMPBRAHMANあたりが大活躍。下北沢ではBUMP OF CHICKENGOING STEADYが活動を始めていたり。

 

そして80年代末から10年ぐらいずっと冬の時代だったアイドルの世界が、モーニング娘。LOVEマシーン」の大ヒットにより復活の狼煙を上げるのもこの年。

 

さらにいうとiモードがサービス開始したのも99年で、現在のサブスクリプション音楽配信サービスへとつながる流れの源流として「着メロ」の販売が始まっている。

それと入れ替わるように、CDの売り上げが98年にピークを迎えており、99年はここからズルズルと終わらない下り坂になっていく入り口でもある。

 

みんなが知らない曲がチャートの1位になってるって現象は21世紀では特に珍しくもないが、90年代はまだそんなことなかった。国民みんなが知ってるヒット曲がチャートで1位を獲ってた。そんな国民的ヒット曲の最後が、この年の「だんご3兄弟」なんじゃないか。

 

こうしてみると、1999年は21世紀の音楽シーンを形成するいろんな要素が出揃ってきた年だなっていう印象が強い。

 

 

歌詞分析

イベントは後半に入り、恒例(にしたい)の歌詞分析のコーナーへ。

現役の国語教師にして文芸批評家である矢野利裕くんがメンバーにいる強みをいかしたコーナーですね。

今回は作詞家でもある清浦さんもいるし。

 

Dragon Ash「Grateful Days」

まず取り上げたのは、Dragon Ash「Grateful Days」。

言わずとしれた「俺は東京生まれヒップホップ育ち」という超有名フレーズが入ってる例の曲。

あまりにも売れすぎたせいで、日本語ラップ親に感謝しすぎとかいろいろ揶揄される対象にもなってしまったけど、実は日本語ラップのマナーに則った歌詞だということが、矢野くんの解説でどんどん明かされていった。

 

当時はまだ音楽を志す若い人にとってロックバンドのほうが圧倒的に馴染みがあったわけで、日本語ラップというものに対して、なんかよくわからんけど不良ぶってたりすぐYo!とか言ったりあと自慢みたいな歌詞が多くて変だよねってイメージを持ってるやつが多かった。自分も含めて

あとストリートとかなんとか言ってるけど一億総中流の平和な日本で、生きるか死ぬかの世界で育まれたアメリカ黒人文化の猿真似をしてるのも滑稽だよねっていう意見とかね。

 

ただ2018年の現状では、たとえば自慢みたいな歌詞はボースティングっていうヒップホップ文化の一環でありそういうもんだっていう理解が広まってたり、日本社会がどんどんシャレにならないレベルで荒廃してきてるなかでどんどんラップの言葉がリアリティを獲得していったりしてる。

逆にいつまでもナイーブな自意識のことばかり歌ってるロックバンドのほうが、時代の空気を乖離してきているのかもね。

 

Dragon Ashの「Grateful Days」は、次の時代のモードをいち早くメジャーな場所で提示した曲なんだよなってあらためて思いました。

 

浜崎あゆみ「depend on you」

90年代というのは、かつての「アイドル」や「歌手」といった存在がそのままではやっていけず、「アーティスト」という形態にならざるを得ない時代だった。

たとえば坂井泉水というソロ歌手ではなく、ZARDというグループですという名乗り。

アイドル歌手としてはパッとしなかった渡瀬マキが、リンドバーグのボーカルとしてブレイクしたこと。

そんなふうにグループ化することで90年代に流通しやすい形態をとることが多かった。

 

または、みずから作詞することで、与えられた役割をこなすお人形ではありませんよ、自分の言葉を持ったアーティストですよっていうブランディングをするパターンも。

 

みずから作詞することで脱アイドルをはかるといえば、古くは森高千里がそうだったけど、浜崎あゆみも完全にその戦略が大当たりした人だった。

 

1999年の時代の空気を語る上で欠かせないのが、ケータイ小説

限りなくアマチュアな書き手たちによって徹底的に固有名詞を排して同工異曲に量産されたケータイ小説のなかで、例外的に固有名詞を与えられていたのが浜崎あゆみだったという、速水健朗さんの指摘を引用した矢野くんの分析。

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

 

それぐらい、ケータイ小説の書き手や読み手にとって特権的な地位を得ていた存在だったということ。

あゆの「自分の言葉」が、ケータイ小説の世界観とものすごく親和性が高かったんでしょう。

 

この「depend on you」という曲も、もちろんあゆ自身の作詞。

「あなたがもし旅立つ その日がいつか来たら そこからふたりで始めよう」で始まるこの曲。歌の中で時制とか仮定の話がぐちゃぐちゃになっていて、話の筋が追いづらいよねっていうところから、これはもしかしたら男に送ったメールの文面なんじゃないかっていう森野さんの指摘が生まれ、一気に解釈がはかどった。

仮定の話でメールしたら返信がなかった、返信しやすいように疑問型にして送ってみたけどそれでも返信がない、疲れてるのかなって自己解決して勝手に話を進めていく、といった感じに読んでいくと、脈のない相手に対して一方通行でメールを送り続ける痛々しい女性の姿が浮かび上がってきて、思わず会場全体がうわー!っていう空気に。

 

90年代の「アーティスト」志向の高まりにより、もっとも割りを食ったのがプロの作詞家たち。多少素人くさくても歌手本人のリアルな言葉で、っていう要請により職人たちの出番は激減した。

小室哲哉もみずから歌詞を書きたがったよなそういえば。あれも今にして思うとどうなんだろう。小室なりにレイブとかカラオケとか、若者文化にアンテナ高い自負があるようなことを当時語っていたので、古いプロの作詞家よりも自分のほうがリアルな歌詞が書けるっていう思い上がりがあったのかもしれない。

思い上がりって書いたけど、たしかに結果は出してるからまあそれが正解だったといえばそうで、それもひっくるめて90年代らしい話だな。

 

2018年はというと、秋元康など90年代に息を潜めていたプロの作詞家が見事に復活してる。J-POPに求められる要素のなかに、「自分の言葉で歌ってるかどうか」はまったくと言っていいほど入らなくなっており、隔世の感がある。

 

GLAYwinter,again

99年に「だんご3兄弟」と宇多田ヒカル「Automatic」に次ぐセールスを叩き出したのがこの曲。シングルで165万枚売り、さらにこの曲が収録されたアルバムは200万枚以上売ってる。

 

おもしろいのが、レコード大賞と有線大賞の大賞を獲っているということ。

有線大賞って基本的に演歌とかそっちが強くて、J-POPっていっても虎舞竜の「ロード」とかが賞を獲ってきたんだけど、この曲は世の中にそっち寄りのものとして受け入れられたんだよな。

 

まあそれも聴けば納得で、歌詞の世界は「あなた」への想いをウェットに歌い上げるもの。「無口な群衆 息は白く」なんて出だしは、「津軽海峡冬景色」を連想させるし。

 

ヴィジュアル系というのは世間の常識に対する異物として誕生したシーンだったはずだけど、YOSHIKIは皇居に呼ばれるしGLAYは有線大賞を獲るし、結局は日本の土着的なものに取り込まれていったんだなって思うとおもしろいよね。電気グルーヴの「しまいにゃ悪魔もバラードソング」っていうラインも思い出す。

ちょっと飛躍するけど、仏教が日本に伝来したときってさ、奈良の都会の一部のエリートがかぶれてる舶来のかなりとんがった思想だったはずなんだけど、長い年限を経て現代の葬式仏教になっていったわけで、そういうのに似て、日本社会の相変わらずのしたたかさを感じる。

 

閑話休題GLAYのバラードにおけるお茶の間っぽさ、もっというとフォークソングっぽさってなんだろうっていう話をしていると、実際にTAKURO氏と話したことがあるっていう森野さんから答え合わせになるような証言が。

TAKUROっていう人はヴィジュアル系に対して特に強い思いがある感じではなく、むしろルーツはフォークなんだって。

ヴィジュアル系という意匠があくまで手段なのであれば、もっと売れるためにって考えたときにそっちのバックボーンを活かしたほうが日本においては強いっていう戦略になったのかも。そしたらそれが大当たり。

 

その後、話が盛り上がった勢いで、みんなで「winter,again」を歌ってみようということに。清浦さんもお客さんも巻き込んでしまい、ふだんはおしゃれなベルベットサンが歌声喫茶状態に。

歌ってみてあらためて思ったけど、この曲の構造もすごく強くて、Bメロ(いつか二人で行きたいね〜のところ)がすでにサビ級の盛り上がり方をしてる。AメロからBメロへの盛り上げ方も、完全にサビ前のそれ。

なので、十分サビっぽいBメロになってるんだけど、そこからさらに本当のサビ(逢いたいから〜のところ)がくるため、気持ちよすぎてもう完全に心を掴まれてしまう。

 

ちなみに日本有線大賞は、視聴率低迷のため2017年が最後の放送になった。

最後に受賞したのは氷川きよし

 

まとめ

こんな感じで批評あり歌ありで1999年のJ-POPをふりかえるイベントは大盛り上がりで終了。

お客さんは1999年にはまだ生まれていない20代から当時すでに大人だった40代以上と幅広かったものの、あまり誰も置いてけぼりにせず進行できたかなと。

多くの方に次回も行きますといっていただけてありがたかったです。

 

この試験に出ない90年代J-POPシリーズ、過去には1991年(ゲスト:星野概念くん)、1992年(ゲスト:グレート義太夫さん)、1998年(ゲスト:ヒダカトオルさん)という感じでやってきてて、1999年(ゲスト:清浦夏実さん)で4回目。

 

まだ半分残ってるし来年以降も続けていきたいと思っており、すでに次回の予定も決まってます。

 

次回は2019年1月13日(日)。

場所は同じく荻窪ベルベットサンで、取り上げるのは1993年!

詳しいことは近日中にお知らせします。

 

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【保存版】フレディ・マーキュリー追悼コンサートの味わいどころ

映画「ボヘミアン・ラプソディ」が公開され、世界中でフレディ・マーキュリーへの関心が高まっていますね。

映画としてもすごくいい出来で、あの場面とかあの場面とか涙なしには観られなかった。

これから世界中で大ヒットすること間違いなし。

映画をきっかけに何度めかのクイーン再評価の機運が高まって、映像や楽曲はYoutubeなんかで過去最高レベルでめっちゃ検索されてるだろうし、あらためて良さを知る人が増えまくることでしょう。

 

We Will Rock You」だとか「We Are The Champions」をはじめ、クイーンの曲だと知らないままに認知されてるケースがとても多いだろうけど、はじめて曲と人が一致する的なことが起こってくれたらと思う。

 

でですね、この機会についでに知ってほしいものがあります。

それが、1992年に開催された「フレディ・マーキュリー追悼コンサート」。

 

フレディ・マーキュリーは1991年11月24日にエイズによる気管支炎のため亡くなるわけだけど(ネタバレ)、その翌年4月、ロンドンのウェンブリー・スタジアムで大規模に追悼コンサートが行われている。

 

そう、ウェンブリー・スタジアムといえば、クイーンが見事な復活を遂げた1985年のあのLIVE AIDが開催されたのと同じ場所。

その場所に、フレディ亡き後のクイーンの3人のメンバーが立ち、フレディの代わりに縁のある大物アーティストが入れ代わり立ち代わり登場してクイーンの曲を歌うという。

ちなみにコンサートの収益はエイズと戦う財団に寄付された。

 

この追悼コンサートの様子は当時日本でもWOWOWで放送された。

中2の自分にとってクイーンはほぼ知らないバンドだったんだけど、出演したメタリカとかガンズ・アンド・ローゼズ目当てでこの追悼コンサートを観たんだった。

フレディ・マーキュリーがどんな人なのかは全然わかってなかったけど、そうそうたる面々が集まって、ものすごい人数の観客と一緒に追悼するような、それだけすごい人だったんだなってことはよくわかった。

 

幸いなことに、この追悼コンサートは映像化され、またYoutubeに公式が何曲か公開している。 

今日はこのコンサートの見どころをYoutubeを貼りつつ紹介していこうと思います。

映画を観た後の余韻にひたりながらでも、映画を観る前の予習としてでも楽しめます。

 

前半 

前半はいろんなバンドが数曲ずつ自分たちの持ち曲を演奏していった。

各バンドの出番前にクイーンのメンバーが一人ずつ出てきてひとこと紹介のMCをする。

 メタリカ

まずトップバッターで登場したのが、メタリカ

1991年にリリースした通称「ブラック・アルバム」という大名盤が全米ナンバーワンになり、ハードロック/ヘヴィメタルにとどまらずロック界全体に大きなインパクトを与えたばかりのメタリカ

メタルの中でもより速くて重くて激しいスラッシュメタルというジャンルを代表する存在にして、クイーンを含む幅広い音楽的ルーツを持っているメタリカ

 

そのメタリカがまず自分たちの曲を3曲やった。

 

クイーンといえば美しいバラードのバンドだと思っている方々からすると、なんでこんなやかましいバンドが追悼コンサートに!?ってびっくりするかもしれないけど、クイーンはバラードもいいけどそれと同じぐらい、ホットなハードロック曲もいいんです。

その路線の継承者として、1991年の飛ぶ鳥を落とす勢いのメタリカはこのコンサートのトップバッターにふさわしいと思う。

 

その証拠に、観客のこの盛り上がりっぷり。

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エクストリーム

次に登場したのが、エクストリームっていうアメリカのバンド。

当時はファンク・メタルなんて表現された、若干ファンキーなハードロックがウリ。

ギターのヌーノ・ベッテンコートという人がめちゃめちゃギター上手でおまけに男前ってことで、日本でも結構人気あった。

ハードロックのバンドにしては上品で学歴高そうなところがクイーンに通じるよね。冒頭、クイーンのブライアン・メイが地球上のどのバンドよりもクイーンっぽいって紹介してた(たぶん)のもうなずける。

 

そのエクストリームは自分たちの曲ではなく、クイーンの曲をメドレー形式でたくさんカバーした。コーラスも達者だし完成度かなり高いし、選曲もほんとにクイーン大好きなんだろうなってわかる。

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デフ・レパード

ここまでアメリカ勢が続いたけど、ここでやっと地元イギリスのバンドが登場。

80年代に全世界で1千万枚単位でアルバムを売ったモンスターバンド、デフ・レパード

ハードロックをベースにした、分厚いコーラスのキラキラした曲っていう点で、クイーンのある部分の正統な後継者って感じがするよね。 

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ボブ・ゲルドフ

くだんのLIVE AIDを企画したアイルランドの人。LIVE AIDの成功によりナイトの称号を授かったそうな。

その後もさまざまなチャリティー関係の活動に関わっていくけど、ミュージシャンとしての活動は正直あまりよく知らない。

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スパイナル・タップ

架空のバンドを描いたフェイク・ドキュメンタリーの映画「スパイナル・タップ」というのがあって、その主人公たち。

60年代に結成されその後の時代の流れにもまれながらもサヴァイブしていくバンドの様子を描いた映画は、今もカルト的な人気がある。ハードロックあるあるが満載の楽しい映画。

バンドとしてのスパイナル・タップは、フェイク・ドキュメンタリーの映画の中の存在だったけど映画から飛び出して普通にアルバムをリリースしたりライブをやったりしてるという、なんか説明が難しい存在だな。日本でいう「くず」みたいなことか。

しかし追悼コンサートにこの人らが出てくるってところがいかにもイギリス人のセンスって感じがする。変な王様みたいな衣装で出てくるし。 

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U2

直近だとiTunesに勝手にアルバムがプリインストールされてて悪評だったことで有名だけど、アイルランドが生んだ偉大なロックバンドなんです。

 1991年には壁が崩れて冷戦が終結したばかりの動乱のベルリンにわざわざ乗り込んでレコーディングしたアルバム「アクトン・ベイビー」をリリースし、音楽性がガラッと変わったばかりの時期。

この日のコンサートでは自分たちだけ別会場からの中継で参加するという、紅白の長渕剛みたいな立ち位置だった。何様って思うけどU2様だもんなーという。

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ガンズ・アンド・ローゼズ

このブログでも何度か言及してきた、アメリカの不良ハードロックバンド。

突然ですがガンズのドラマーの話 - 森の掟

 

B'zやTOKIOをはじめ、90年代J-POPの男性アーティストに音楽性でもファッションでも多大なる影響を与えた。

ドラッグ中毒だし素行不良だし攻撃的な曲が多いしでフレディ・マーキュリーとの接点なんてまるでなさそうに一見みえるけど、1991年にリリースした「ユーズ・ユア・イリュージョンⅠ&Ⅱ」というアルバムには、「ボヘミアン・ラプソディ」あたりの影響をすごく感じる壮大な曲がいくつも収録されており、意外と繊細かつ壮大な曲を作れるんだってことが判明している。

 

1991年以降は低迷したりメンバーチェンジしたり活動休止したり復活したりしてて、数年前からほぼオリジナルメンバーでまた活動し始めた。

つい最近、トランプ大統領が自分たちの曲をイベントで使うのをやめてくれと抗議したことでニュースになってた。

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このあと、南アフリカエイズのチャリティーコンサートと中継をつないだりエリザベス・テイラーのスピーチがあって、前半終了。

 

後半

ジョー・エリオット&スラッシュ&クイーン

先ほど登場したデフ・レパードのボーカリストと、ガンズのギタリストが、クイーンの3人とともに「タイ・ユア・マザー・ダウン」を演奏。

後半のスタートにふさわしい派手なハードロック曲。

スラッシュはもじゃもじゃ頭に上半身裸でギターはレスポールっていう、ものすごいキャラ立ちですが、四半世紀たった今でも同じスタイルを貫いてるからすごい。

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ロジャー・ダルトリー&トニー・アイオミ&クイーン

60年代から70年代にかけてイギリスを代表するバンドだったザ・フーのボーカリストであるロジャー・ダルトリー。あのウッドストックにも出演してたよね。

そしてブラック・サバスのギタリストであるトニー・アイオミ。つまりオジー・オズボーンの元同僚。サバスはいわゆるヘヴィメタルという音楽の原型をほとんど最初に作り上げた、めちゃめちゃ偉大なバンドですよ。

ブラック・サバスの曲の一部とザ・フーの曲の一部をチラッと弾いてから、みんなで「アイ・ウォント・イット・オール」へ。1989年つまりかなり晩年にリリースされた曲。

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ゲイリー・シェローン&トニー・アイオミ&クイーン

ゲイリーは先ほど登場したエクストリームのボーカリスト。エクストリームの解散後はヴァン・ヘイレンに加入することになる。あんまりロックスター然とした感じではないけど、たぶん性格のいいがんばりやさんなんだと思う。

当時エクストリームはデビュー3年目ぐらいの若手。この日の出演者の中ではかなりの若輩者なわけで、いかに彼らがブライアンたちに気に入られて抜擢されたかってことだよな。

トニー・アイオミもこの次まで計3曲に参加。この時点でもだいぶベテランだけど、でも今から四半世紀前はまだまだ若いよな。今や完全におじいちゃんだもんな。

演奏したのは、LIVE AIDでもやった「ハンマー・トゥー・フォール」。

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ジェームズ・ヘットフィールド&トニー・アイオミ&クイーン

メタリカのギター・ボーカルのジェームズが登場して「ストーン・コールド・クレイジー」を熱唱。

ワルそうなギターリフはトニー・アイオミの得意な感じのやつだし、歌もとってもジェームズに似合ってる。この追悼コンサートの中でもかなりハマってるカバーだと思います。

あと普段はギターを弾きながら歌ってるジェームズがハンドマイクっていう姿もめっちゃ貴重。

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ロバート・プラント&クイーン

続いて登場したのが、レッド・ツェッペリンロバート・プラント

ツェッペリンといえば、クイーンと並ぶ70年代の英国ハードロックを代表するバンドで、ドラマーの死などがあり解散していたが、例のLIVE AIDのときに一回限りで再結成していた。

この日はまずクイーンの中でもエキゾチックで神秘的な「イニュエンドウ」を選んで歌った。のはいんだけど、なぜか声が出てなくて残念な出来。

そこからツェッペリンの曲を2曲やって、クイーンの「愛という名の欲望(Crazy Little Thing Called Love)」を。

しかし最初の「イニュエンドウ」はこの人のキャラというかツェッペリンのイメージにぴったりだなと思うけど、「愛という名の欲望」はどうだろうか。ちょっと軽快でお茶目すぎないか。決めのところで腰を振ったりしてるけど大丈夫か。

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ブライアン・メイ

天文学者になりたかったクイーンのギタリスト、ブライアン・メイが、クイーンの最後のアルバムに収録されている自作の「トゥー・マッチ・ラブ・ウィル・キルユー」をエレピの弾き語りで歌った。

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ポール・ヤング

80年代にイギリスで人気があったシンガーってことぐらいしか正直知らないけど、いい声してますね。

歌ったのは「レディオ・ガガ」。レディー・ガガの芸名の元ネタ。

LIVE AIDでも演奏された曲で、つくったのはドラムのロジャー・テイラー

歌詞がまたすごくいいんだこれが。思春期にラジオめっちゃ聴いてた人間にはたまらないラジオ賛歌。

サビで手を2発叩くやつを観客全員が揃ってやってるところも注目。

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デヴィッド・ボウイアニー・レノックス

フレディ・マーキュリーとボウイのデュエット曲「アンダー・プレッシャー」を歌ったのは、メイクがめっちゃインパクトあるユーリズミックスアニー・レノックス

この時期のデヴィッド・ボウイは、ティン・マシーンというバンドを結成し、過去の曲はやらないと宣言してた。時代の変わり目でいろいろ試行錯誤してたんだと思う。

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ボウイはこの日「アンダー・プレッシャー」に続き、モット・ザ・フープルに提供した「すべての若き野郎ども(オール・ザ・ヤング・デューズ)」と、ボウイの「チェンジズ」をクイーンやモット・ザ・フープルのメンバーと一緒に演奏。

過去の曲やらないって言ってたけどチャリティーは別枠なのか。

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ジョージ・マイケル

ワム!からソロになったジョージ・マイケルは、「'39」「輝ける日々」「愛にすべてを(Somebody To Love)」を歌った。

 

複雑なバックボーンだったりゲイだったり、フレディと相通じる部分が多いこの人。実際クイーンの大ファンだったというし、この日の「愛にすべてを」では歌声もめっちゃ似てる。

 

後にブライアン・メイが語ったところによると、フレディ亡き後のクイーンにジョージ・マイケルをボーカルとして迎え入れてはどうかとまわりから勧められたそうな。

確かにこの「愛にすべてを」はすばらしい。

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エルトン・ジョンアクセル・ローズ

生前フレディ・マーキュリーと仲が良かったという、サー・エルトン・ジョン

同性婚をしたことでも有名。

この日は大ネタ中の大ネタ「ボヘミアン・ラプソディ」を歌う。

途中のオペラ部分はレコードの音源をそのまま使用し、後半のギターソロに入るところでパイロが爆発し、短めのマイクスタンドを手に回転しながらガンズのアクセル・ローズが登場。そのままギターソロ明けのパートを歌う。

で最後は2人で仲良く歌い上げて終了。

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エルトン・ジョンは「ショー・マスト・ゴー・オン」を。

しかしさっきも言ったけど四半世紀前だからみんな若いわー。当時すでにベテランだったけど、それでも若い。最近のエルトン・ジョンは映画「キングスマン:ゴールデン・サークル」に本人役で出演して大活躍してるところを観られるけど、もうだいぶおじいちゃんだもんな。

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アクセル・ローズは「ウィー・ウィル・ロック・ユー」を。

声質とかキャラには合ってる選曲だと思ったけど、あらためて観たらあんまりちゃんと歌いこなせてないな。てゆうか曲としてこれかなり変だし、フレディ以外が歌うのかなり難しいと思う。

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ライザ・ミネリ

そしてトリはライザ・ミネリ

フレディが生前すごく憧れていた大女優(映画の中でフレディの部屋に貼られていたポスターはこの人だった‥はず)が、「伝説のチャンピオン(We Are The Champions)」を高らかに歌い上げた。

出演者もみんな出てきて大団円って感じに。

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 何曲かはしょったけど、だいたい紹介できたと思います。

 

この日集まったメンツを見てると、クイーンの音楽がどれだけ影響を与えていたかわかる。影響の深さとともに、幅広さね。

ボヘミアン・ラプソディ」がリリースされたとき、正直ファンはみんな戸惑ったらしい。クイーンどうしちゃったんだって。

 われわれは後追い世代なので、すでに所与のものとしてクイーンに接しているけど、リアルタイムだとそうはいかないだろう。

映画の中でも何度かメンバーが言ってたけど、同じことは二度やらないのがクイーンなんでしょうね。

ハードロックを軸に、オペラだったりディスコだったりいろんなことを試してきたからこそ、追悼コンサートにこれだけの幅広いアーティストが参加することになったんだろう。

 

そしてフレディが亡くなってから四半世紀前たっても、いまだにCMやいろんなところでクイーンの曲は使われまくっている。

 やっぱりすごいわ。

 

 

きみはミサワランドを知っているか

淀川の右岸、つまり大阪府北部は北摂と呼ばれる地域。

阪急電車とJRが淀川と並行して京都と大阪を結んでおり、そこに大阪郊外を南北に貫く近畿道大阪モノレールが直角に交わっている。


阪急電車とモノレールがぶつかる点にある乗換駅が南茨木駅

近畿道とその下道である中央環状、またそこから枝のように府道がいくつも分かれており、北は千里方面、南は門真や寝屋川方面、西は高槻方面からもアクセスしやすい場所に位置している。

 

そんな地理的条件のため物流拠点とか工場が多く、またロードサイドにはお決まりのファミレスやパチンコ屋、カー用品店などが並ぶ。

 

でかいトラックが行き交う埃っぽい道沿い、南茨木駅から少し離れた美沢町の交差点に、それはあった。

 

 

きみはミサワランドを知っているか

かつて茨木市美沢町の中央環状ぞいにあった、ボウリング場にゲームセンター、レストラン、書店、CD・レコードショップが一体になった独立系のアミューズメント施設。

その名はミサワランド。

 

市バスにでかでかと広告を出していたため、地元で知ってる人は多いかも。
または、中央環状で千里方面から南下する途中、名神高速の入口を過ぎたあたりに立っていた巨大なビルボードで認識していた人もいるかもしれない。

 

わかりやすくいえば、ドンキのセンスでラウンドワンとツタヤを合体させたような場所。

ワンマン社長の独特の嗅覚と思いつきでいろんな業態がスクラップ・アンド・ビルドされてきたらしく、かつてカラオケボックスだったであろう倉庫とか、クラブにしようとしてたスペースがゲーセンになってたりしていた。
古参の社員やパートさんの話によると、もともとうどん屋から始まり、ボウリングブームに乗ってアミューズメント方面に触手を広げたのが始まりだとか。

基本的に儲かりそうな領域に手当たり次第に手を出してきたんだと思うけど、それがだいぶカルチャー寄りの領域で商売になっていたというのが90年代っぽい!

 

 

実はわたくし、そのミサワランドのCD・レコード部門で90年代末にアルバイトをしてまして、その数年間はかなり強烈な体験だったので、いまでも時折思い出すんですよ。

 

で地域住民にも結構なインパクトを与えていたんじゃないかと思ってググったりもするんだけど、mixiのコミュぐらいしかヒットせず。

20年以上前のことだし、まあそんなもんかなとも思うんだけど、このままだと世の中から忘れ去られそうな気がするのでそれはちょっと寂しいなと。

 

ということで今回の記事の目的は、インターネット上にミサワランドの記憶を留めるための永代供養みたいなことだと思ってください。

もしくは、「ミサワランド」のキーワードで検索1位を目指す。なくなった店のSEO対策という、よくわからない取り組みです。

みなさまにとっては何の利益ももたらすつもりはないけど、諦めて最後までお読みください。

 

1999年頃の店内の様子 

当時のミサワランドの客層といえば、ゴリゴリのヤンキーからマイルドヤンキー、ギャル、仕事帰りの職人、チャリで来た中高生など、いかにも郊外っぽく、素人時代の鈴木紗理奈がよく来ていたという噂があるんだけど、たしかに鈴木紗理奈がいても何の違和感もない。

 

駐車場は立体駐車場になっており、ナンバープレートが光ってたり車高が低かったりダッシュボードの上に食玩が並んでるような車がたくさん止まっていた。

 

店に入るとまずゲーセン。UFOキャッチャーが充実。あとは当時流行のきざしを見せていた音ゲーの筐体が並ぶ。
UFOキャッチャーコーナーで左に曲がるとレストラン。真っすぐ行って階段をのぼるとボウリング場。右に曲がると書店とCD・レコード売り場。

当時はDVDはまだなくて映像ソフトはVHSのみ。販促の映像を流す用のテレビデオではパラパラの教則ビデオを流してたんだけど、店の通路でそれ観ながら練習するギャルがいたりした。

かつてカラオケボックスにも手を出していた頃の名残の小部屋がバックヤードや倉庫になっており、UFOキャッチャーのぬいぐるみや当時はやったファービーのパチもんなどが在庫としてストックされていた。

 

クラブなみの爆音が鳴らせるスピーカーからはユーロビートや北欧のダンス・ポップが店中に大音量で響き渡っており、またそれに負けじとゲーセンの筐体からもそれぞれ賑やかな電子音が鳴っており、毎日毎日夜更けまでちょっとした祝祭感があった。

深夜2時すぎに閉店するとその爆音が一斉に止み、いきなり静寂がやってくる。

 

耳鳴りを感じながら静かすぎる店内でレジ締め作業をするのがちょっと好きだった。

 

個性的なメンバー

当時のミサワランドは、社長と5人ぐらいの社員、あとはバイトやパートでまわっていた。

ブラックでもホワイトでもない生暖かい空気の職場だった。

 

昼から夕方までは地元のおばちゃんパートがおもにシフトを埋めており、夜から朝方にかけてのシフトは大学生やフリーター。

夜勤メンバーは気づいたら30歳すぎちゃったよははは、社員にならないかって言われてるよ、みたいな古株フリーターがいたり、中卒ですけど肉体労働はしんどいんでここに来ました的なマイルドヤンキーがいたり、かと思うと早々と一流企業に就職が決まって暇になった国公立大の学生がいたりと個性的な面々だった。

 

社員もみんな変わったおっさんたちで、パワハラとかそういうんじゃなく単に薄給で休みなく淡々と働いてる感じだったな。

店員は胸に「MISAWA LAND」と書かれたまっ黄色のトレーナーを着る。くたびれたおっさん社員もそんなファンシーな制服を着て働いてた。

 

CDまわりを担当していた当時おそらく40歳ぐらいの社員の人は、実はガチのブルースマンで、年に一回だけシカゴで行われるブルースのフェスに行くために休暇を取る。

その人が仕入れて売りさばいていた店での売れ筋の音楽はユーロビートとかチャラ箱のダンス・ポップとかなわけで、ブルースとの間に乖離がありすぎて非常に味わい深かった。その状況そのものがブルースってやつなのかなって。

 

強烈だったのは、ワンマン社長。

普段は店に来ないんだけど、たまに真っ白のリムジンに乗って様子を見に来る。

1999年にはもうおじいちゃんといった風貌だったけど、一代で財を成した叩き上げの凄みと、いつも何か思いついては社員にやらせようとするフットワークの軽さは健在って感じ。

 

そしてその社長が「カズヒコちゃん」と呼んで溺愛していた息子。

たぶん当時20代後半?ぐらいのいい大人なんだけど、「カズヒコちゃん」呼ばわり。

 

カズヒコちゃんは当時まだ珍しかったDTM(コンピュータでの音楽制作)をやっていて、なんと坂本龍一のレーベルからCDをリリースしていた。

CDの帯には教授の推薦コメントまで載っており、確かにYMOの影響を感じつつも当時のリアルタイムなクラブサウンドになっていた。

正直かっこいい。

epitone

epitone

 

これがそのCD。ジャケットもおしゃれですね。

 

社長はカズヒコちゃんの活躍がよっぽど嬉しかったのか、中央環状と名神高速が交わるあたりに建てていたミサワランドを宣伝するための巨大ビルボードを、息子のCDの宣伝に転用したのだった。

サイズとしては東京ドームの外野席の上に出てる長嶋茂雄のセコムぐらい。

その看板に、「KAZUHIKO NOW ON SALE」って。

 

すごく正しく親バカでいいなって、自分も親になったいま、素直にそう思う。

 

1999年の音楽エンゲル係数

さてそんなミサワランド、CDショップとしての品揃えもなかなかにカオスだった。

 

当時はCDバブルと言われた時代で、98年なんてアルバムチャートの上位20位まですべてミリオン超えしていた。上位なんて500万枚とかよ。


B'zとかサザンとかユーミンとかGLAYが軒並みベストアルバムをリリースし、あの宇多田ヒカルの『ファースト・ラブ』が年末に出たり。このあたりはほんと夢に出てきそうなほど売った。

 

当時ミサワランドでは万引き防止と補充の効率化のため、売れ筋の商品は店頭に出さず、ジャケをカラーコピーして下敷きみたいなクリアファイルに入れたものを並べていた。お客さんはそれを持ってレジに来る。
売れたらすぐ店頭に戻すようにすればクリアファイルは最低1枚ずつあれば事足りるはずだけど、多いものだと何十枚と用意していた。クリアファイルをレジから店頭に戻す暇もないほど売れる勢いが激しかったということ。

 

カーFMや遊びにいったチャラ箱でチラ聴きしてちょっといいなと思った程度の曲を、アルバムで買いに来る。

たとえばB'zのベストとダンスマニアシリーズとマキシシングル3枚ぐらいで客単価10,000円弱みたいなのが、一般的なラインだった。

 

ちょっと今からは考えられない音楽エンゲル係数の高さ。

今の時代に音楽ソフトやデータに毎月10,000円使う人ってどれだけいる?正直わたくしもそんなに使ってないぞ。

 

980円出せば世界中の古今東西の曲が聴き放題になる現代と比べ、1999年には同じ値段で2曲入りのマキシシングルしか買えなかったわけだ。

ちなみに当時はシングルCDの過渡期で、従来の短冊形のシングルと、マキシシングルの両方をリリースするパターンが多かった。
短冊形はカップリングにカラオケバージョンが入っていて、マキシの方にはリミックスバージョンが入ってるような、それぞれの形態ごとに顧客のニーズに応える感じ。

 

北摂の90年代末カルチャー

当時、お茶の間レベルのCDバブルど真ん中のラインナップを大量に売りさばく一方で、それとは違う流れが出てきたことも感じていた。

 

98年頃からのインディーズ界隈の盛り上がりが、北摂地域にもしっかり波及していたのである。
Hi-STANDARDに連なるいわゆるメロコア勢、そこから派生したスカコア勢、海外の流行とリンクしたミクスチャー勢、全国各地に根を下ろした日本語ラップ勢が、それぞれに活発に交流しながら盛り上がってきていた。

 

小さいレーベルからリリースされていて大手の流通経路には乗ってなかったりするものも多かったんだけど、前述のブルースマンの社員がいろんなルートで仕入れていた。
CDだけでなく、アナログや果てはカセットテープ(ミックステープ)なんかも仕入れてたし、いま思えばなかなかイケてる。

 

当時の北摂のキッズたちがもうひとつ夢中になったのは、クラブカルチャー。

文化系のモテたい男子はバンドをやるものって昔から相場が決まっていたけど、この時期、バンドをしのぐ勢いでDJがモテ活動になってきていた。
TechnicsやVestaxは高価で手が出ないというキッズむけに、バイト代で手が届く無名メーカーのDJ入門セットが雑誌の広告なんかにたくさん載っていた。

 

当時はまだCDJはほとんど出回ってなくて、ましてやPCでDJができるなんて誰も思ってない時代。DJといえば当然アナログレコードでやるものだった。
自分なんかは当時から中古レコード屋で安く掘ることをミッションにしてたタイプですが、みんな基本的にダンスクラシックとかブレイクビーツとかレア・グルーヴの再発されたレコードを買ってたよねDJ志望者たちは。
ブルースマン社員はそういうニーズを目ざとく把握して、ちゃんと仕入れてたと思う。

 

そんな感じで草の根からDJ文化が勃興していくのを肌で感じてて、そしたら半年後くらいからJ-POP側がそれに呼応するように、新譜をCDだけじゃなくアナログでもリリースするようになってきた。

 

USで安くプレスするインディーズとは違って、J-POPのメジャーどころは東洋化成でしっかりした盤をリリースする。でも確か同じタイトルでもCDは売れ残ったら返品できるけどアナログは返品できなかったはず。
なので売れ残ったやつは半額セールとかに出してたな。

 

そうそう思いだしたけど、ミサワランドではCDをUFOキャッチャーとかクレーンゲームの景品にしてた。鈴木亜美のマキシシングルとか補充した記憶すごく鮮明。キッチュな色使いの筐体によく映えてたわ。返品できなかった不良在庫CDも景品に転用してた。

 

閑話休題
ヒップホップ、DJ(サンプリング)、メロコア、ミクスチャーという当代のモテ要素をものすごくクレバーにすくいあげたのが、Dragon Ash

 

あいつらはニセモノだみたいな批判は当然あったけど、それ以上に北摂のキッズには売れた。

 発売してすぐに回収騒ぎになった「I love hip hop」のシングルもめっちゃ売った。
往年の大ネタを大胆に引用する手つきがイマっぽいでしょっていうドヤ顔が見えたもんだった。

 

そして、クラブカルチャー方面から吹いてくる風はもうひとつのムーブメントを生んでて、それが女性R&Bシンガー、いわゆるディーヴァ系のブーム。

 

たぶんUAが先駆けで、1998年頃からbird、MISIA、sugarsoul、double、SILVA、あと3人時代のm-floなんかがどんどん出てきた。

 

そういった人たちが作り出した上昇気流にうまく乗ったのが、宇多田ヒカル

北摂のロードサイドのCD売り場からは、その空気力学の作用がものすごくクリアに見えた。

とにかくあのアルバムはめちゃめちゃ売れた。北摂のキッズ&ギャルたちのど真ん中を突き刺した感じ。事件だった。

 

あとディーヴァ系の時代って実はかっちょいいプロデューサーの時代でもあって、朝本浩文大沢伸一やDJ HASEBEといった人たちを追っかけるという感じで自分は認識していた記憶。

個人的にもちょうどハウスとかブレイクビーツの良さがわかってきた年頃で、好みの音だなって感じていた。


チャラいダンス・ポップで荒稼ぎ

当時のミサワランドでは、J-POP全般が当たり前に売れまくっていたのと同じぐらいのボリュームで、ダンス・ポップ系やユーロビートなんかが充実していた。

 

クラブの中でもいわゆるチャラ箱っていわれるような、ナンパ目的の男女が集まるハコでかかってるような楽曲。

具体的には、エイス・オブ・ベイス、ダイアナ・キング、スキャットマン・ジョン、ミー・アンド・マイ、アクア、チャンバワンバあたり。3年後にはブックオフの100円棚に並ぶような一発屋たちでもある。

 

そのあたりの曲をさらにダンスフロア対応でリミックスしたやつをいっぱいに詰め込んだオムニバスが、めっちゃ売れた。

「X-MIX」シリーズっていう海外のMIX CDのシリーズがヒットしたときには、社長が「X-MIX」っていう響きにピンときたらしく、レストランで「X-MIXカレー」なる新メニューを出したりした。何がXで何がMIXなのかは不明だが、それぐらいこの商売に可能性を感じていたんだと思う。

 

 ジャケも中身もこんな感じのがウーハー効かせて爆音で鳴ってる店で深夜4時まで働いてた

 

そのあたりのCDは海外から直輸入していてミサワランドでしか手に入らないようなのも多かったので、めっちゃ強気の価格設定だった。

1,400円で仕入れて3,800円で売る、みたいな。

 

あと、日本版が2,500円で発売されているCDの、輸入盤を2,500円で売るということもよくやっていた。普通タワレコとかだったら輸入盤は1,800円とかで買えたりするじゃないですか。つまり仕入れ値は1,200円ぐらいなんだけど、それを2,500円で売っちゃう。

 

それでもめっちゃ売れてた。 

情弱を騙すのに躊躇がないのはミサワランドの特徴。

 

ガバの聖地 

独自の仕入れルートでアガるダンス・ポップをめっちゃ売っていき、どんどん深いところまでいった結果、ガバというジャンルの品揃えが充実していく。

 

ガバとは、オランダのロッテルダム発祥の、超高速BPMのハードコア・テクノのジャンル。石野卓球が一時期ハマって、電気グルーヴの曲のリミックスにむこうのアーティストを起用したりしていた。 

 

その影響もあって日本では一部のサブカル界隈で話題になり、やがて雑誌「クイック・ジャパン」で特集が組まれることに。

でその特集ページで、なぜかガバのCDが充実しまくっている聖地としてミサワランドが紹介されたのだった。

 

たぶんクイック・ジャパンを読んで遠くからミサワランドに来てくれた人もいただろうけど、前述の通りの強気の値付けのため、CDを5枚買うと2万円ぐらいになったと思う。本当に気の毒である。

 

ミサワランドの最期

あれはたしか2000年のこと、近くにラウンドワンができたという話がスタッフの間に駆け巡った。
何かを悟ったような社員の苦い表情を思い出す。

 

自分はその年に上京してしまったので、その後のことはわからない。

ミサワランドのことは気にかかったけど、東京でバンドやってく期待と不安でそれどころじゃなかった。

 

そして数年、東京で目まぐるしい日々を送って久しぶりにあのあたりを通ったら、ミサワランドは跡形もなく更地になっていた。

 

さらに数年後にはマンションが建っていた。

 

最初からミサワランドなんてものはなかったかのように、そのマンションはロードサイドに溶け込んでおり、いつもそこを通るたびに山道で狐にばかされたような不思議な感覚になる。

 

でもたしかにそこにはかつてミサワランドがあった。

アンダーグラウンド」という映画はユーゴスラビアという国の崩壊を描いた名作ですが、今日はそのラストシーンのセリフで締めたい。

苦痛と悲しみと喜びなしでは、子供たちにこう伝えられない。『むかし、あるところに国があった』

 

みんな元気にしてるだろうか。

 

三国志ゲームが重宝される理由またはifを喰らわば皿まで

電車の中でスマホでゲームしてる人、増えましたよね。

テレビ観てるとよく知らないゲームのCM、増えましたよね。

 

10年ぐらい前から課金しすぎ問題がニュースになったりしてたけど、その頃は一部の人が加熱するものだったのが、いよいよ世間の中でふつうに存在するものになってきた感じ。

 

最近のスマホゲームの商売のやり方

その昔、ゲームといえば本体を買ってソフトを買って、あとはずっと遊べるという形態がふつうだったけど、最近のスマホのゲームは基本的に無料で始められるものが多く、そのまま無料でずっと遊ぼうと思えば遊べるけど課金したほうがより有利になるっていう仕組みのものが圧倒的に多い。

で、ゲーム会社としてはいかに間口を広げてたくさんのユーザーを集め、無料でそこそこ楽しい思いをさせ、ハマってきたタイミングで、さらに強くなりたければ課金!って流れを巧妙に設計していく。そこが商売のキモだって聞いたことある。

 

逆に言うと、会社にとって儲かるパターンの研究が行われすぎたせいで、ゲームの中身は驚くほど似通ってきている気がする。かつてファミコンの玉石混交すぎる環境を知っている身からすると、質も幅も多様性がなさすぎるように感じるわけ。

 

要するに、核になる簡単なゲーム(パズルとかRPGとか育てゲーとか)があり、それを有利に進めるためにユーザーは課金するっていうパターン。課金したらどれぐらい有利になるかのバランス調整が、会社のノウハウの部分っていう。ある程度の規模で商売やってるゲーム会社ってほとんど全部そういう感じでしょ今。

でバランス調整の要素としていわゆる「ガチャ」っていうのがあって、運が良ければものすごく強いカードが手に入ると。そしてそのカードってのをキャラクターにして、有名なイラストレーターを起用したり声優の声があたってたりするという差別化も志向されている。

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きれいなグラフィックと声優さんの声で所有欲をくすぐってくる

 

そっちの差別化にあたって、ゲームオリジナルのストーリーやキャラクターをゼロからつくりあげることもあるけど、もっと手っ取り早く安全にお金を儲けるためには、すでに存在している作品のストーリーやキャラクターを使うこともできる。

たとえばあの「Pokemon GO」は、もともとは「Ingress」っていうオリジナル世界観の位置情報ゲームがあったんだけど、同じ会社がポケモンっていうすでに世界的な知名度のあるキャラクターを使ったことで何倍もの規模で商売になったという話。

あと「ドラクエ」や「ファイナルファンタジー」なんかはもう何種類ものそういうスマホ向けのゲームに使われているし、「サカつく」とか「ダビスタ」みたいな、かつての名作ゲームをスマホ向けに移植するパターンもよくある(かつての売り切りと違って課金の要素が入ったために良さが失われたというファンの嘆きも聞くけど)。

 

いずれにしても、大金を注ぎ込んでオリジナルの世界観をつくりあげたところで、どの世代にどれぐらい刺さるかなんてなかなか見通しづらいけれど、すでにファン層がしっかり存在している原作モノや移植モノは、素人目にもはるかに商売がしやすそうに思える。

 

ドラゴンボールとかワンピースとかガンダムが束になってもかなわない最強の原作モノ

原作モノといっても別にアニメやマンガ、ゲーム作品とは限らない。

ガンダムスターウォーズが親子2世代でファン層を築いてるとかいってもたかだか約40年の歴史のところ、なんと1800年にわたってファンが存在する作品があります。

 

http://chirok.jp/product/content1/img/ct01_sangoku.jpg

はい。「三国志」ですね。

 

一応説明しておくと「三国志」っていうのは、西暦200年前後の中国で実際にあった乱世からの再統一の歴史を、後世の人がエピソードをかなり盛ってつくりあげた物語。

何十年にも渡って中国全土を舞台に繰り広げられる物語で、登場人物はざっと1000人は超えるでしょう。名前を把握してないと話がわからなくなるレベルの重要人物だけでも100人では収まらない。

 

そんな長大な物語が、1800年間にわたって東北アジアの民衆に愛され続けてきたわけ。日本でも「三顧の礼」とか「苦肉の策」とか、三国志のエピソード由来のことわざが定着する程度には浸透してる。

ドラゴンボールとかワンピースとかガンダムが束になっても足元にも及ばない知名度、そして大河なストーリーと多彩なキャラクター。

商売人としては、この知名度を活かさないという選択肢はないわな。

 

それに何より三国志が最強なのは、著作権がないということ!

なんといっても実在の人物だからね。しかも1800年前にみんな死んでるから許可をもらう必要とかもないし、めちゃめちゃ使いやすい。

 

その上ありがたいことに、主要キャラクターたちには何となくみんなが共通でイメージする見た目の特徴がある。

青龍刀を手に持つ長いひげの関羽、羽根の扇をもった諸葛孔明、ブクブク太った董卓など。つまり、よっぽどヘタクソな人が描かない限り、誰がデザインしても「あ、これは誰誰だな」って伝わる。

キャラ設定も能力値も、ファンたちが1800年間ずっと保ってきた共通見解に乗っかればいい。

 

そこまで出来上がってるので、運営側としては商売のキモである「課金したくなるバランス調整」に専念できるってもんですよね。

 

https://i2.gamebiz.jp/images/original_logo/76047096558cb64a2c88380027-1489724581.png

三国志の武将が美少女キャラになってるという行くとこまで行っちゃってる感のあるゲームも実在する 

 

お金を払ってガチャをまわす心理

くりかえしになるけど、昨今のスマホのゲームは基本無料でプレイできて、課金すると有利にゲームを進めることができるようになっている。

9割の人は無料でチマチマやってくれててOKで、残りの1割が課金すれば商売として成立するようになっている。

なぜなら、ひとりで何十万円も突っ込んでくれる人が残りの1割の中にたくさんいるから。

なんで何十万円も突っ込むかというと、ゲーム内のガチャをまわすことで、低確率でレアなアイテムが手に入る仕組みになっているから。

ハマってる人は当たるまで何回も回し続けるという。

 

「レアなアイテム」にもいろいろあるけど、たとえば三国志のゲームであれば、「すごく強い武将のカード」がそれにあたる。

他のプレイヤーと対戦するにあたり、そういうカードを持ってると圧勝できるわけ。

あ、カードっていっても手に取れる実物があるわけではなく、ゲーム内の存在として。

 

なるほど、そりゃ勝ちたい人は大金を払ってでも強いカードが欲しくなるだろう。

だけど、強いカードだからっていうだけでは課金するモチベーションとしてまだ足りない気がする。

極端な例を出しますが、三国志のゲームに「そのへんのおっさん」っていう名前のカードがあったら、もし能力値としては最強だったとしても、お金出して買わないと思う。

やっぱそのカードに「呂布」とか「張飛」って名前と絵がついてるからほしいんだよな。

呂布張飛の、三国志ファンにはおなじみの人間離れした猛将のエピソードがそのカードに乗っかってるからこそ、手元に持ちたい欲がかきたてられるはずで。

 

どんな美男美女でもブサイクでも皮を剥いだら同じ肉と骨の集まりじゃないですか。それと同じで、どんなレアなカードであってもひと皮むいたらただのパラメータの集合体。物理的には何もない電子データ。そんなものに大金を注ぎ込ませるわけだから、よく考えたら相当なテクニックである。

「レアなカード」が何万円も課金しまくって手に入れるに値すると信じさせるなんて、ただの紙とインクなのに1万円札に1万円の価値があると日本国がみんなに思わせてるのと同じレベルの共同幻想の構築。もしくは、ビックリマンチョコの「ブラックゼウス」のシールを1万円で流通させていた昭和の小学生みたい。

 

それはそうとしてこの「if」はどうにも気持ち悪かった

三国志」ファンのひとりとして、課金しない9割のひとりとして、細々といくつかのゲームを遊んでみたりしてるんだけど、実はどうにも気持ち悪いところがあります。

 

三国志のゲームというものは、ファミコンの頃からあった。

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その頃の三国志のゲームといえば、自分は劉備曹操孫権といった実際にいた英雄のひとりを操って、中国を統一するのが目的。当然ながら劉備の配下には関羽張飛といった武将がいて、曹操の配下には曹操の武将たちがいる状態でスタートする。

でまあゲームなんで、そこからの展開はプレイヤー次第で、実際の三国志の物語とは違った感じになる。赤壁の戦いが起こらず、曹操がそのまま天下統一することだってできる。

そういうのが、歴史の「if」を遊ぶことの醍醐味だった。 

 

だけど、昨今のスマホ三国志ゲームは違ってて。

武将たちがガチャで手に入るカードになってるため、どの武将が誰の配下になるかは完全にランダムになる。曹操があれほど配下にしたかった関羽も、ガチャをまわしまくれば手に入ってしまう。劉備三顧の礼でやっと迎え入れた諸葛孔明も、ガチャをまわしまくれば手に入ってしまう。

「あなたの生き方には賛同できないので味方できません。さあ殺せ」とかいう骨のある武将はスマホの中には存在しなくて、みんな課金すれば手の中に落ちてくる。

 

この「if」には最初どうにも馴染めず、気持ち悪かった。

この三国志は、史実の三国志とは違うし、またかつて遊んだゲームの三国志とは「if」の置きどころが違うんだってことを受け入れるためには、心の持ちようを多少なりとも自分でコントロールする必要があった。そういうもんなんだって。

 

でも、慣れればそんなもんかなって思えたし、他のゲームでも似たような構造のものが受け入れられるようになってきた。

たとえばプロ野球ゲームでは、チームの壁どころか時空も超えてくるので、ゲーム開始当初は一軍半みたいな選手しかいない弱小チームに、ガチャで東尾とか古田とか掛布といった昭和のレジェンド選手が手に入って大活躍してくれたりする。その先もさらに課金次第でドリームチームをつくることが可能だったり。

 

だったらこういうゲームやりたい

こんな具合でつくられている昨今のゲームの世界。

スキマ時間でできるゲームにガチャやレアアイテムの概念を乗っけることで大きな商売になる。

そして既存のストーリーやキャラクターを使えば安全に商売をすることができる。

レアなカードは課金次第で手に入るので、ありえない組み合わせも可能。

 

往年のゲームに親しんだ身からすると、ちょっとさびしいような状況ではあるけど、これが現実ということで受け入れよう。

受け入れた上で、だったらこういうゲームやりたい。

 

プレイヤーは事務所の社長。

新人発掘や引き抜きでミュージシャンを集めてバンドを組み、音源をリリースしたりライブをやったりしてお金を稼ぐ。

ミュージシャンはほっといたらモチベーションがどんどん下がっていくので、機材を買ってあげたりハイエース移動を新幹線にしてあげたり大物プロデューサーをつけたり海外レコーディングにしたりと、細かいケアをして機嫌を取る。

地道にツアーやメディア露出でファンを増やし、フェスに呼ばれたりタイアップ曲をやったりしてビッグになっていくというゲーム。

要するに、音楽業界がここ50年ぐらいやってきた仕組みのゲーム化ですね。

 

 このゲームに、実在のミュージシャンを時空を超えて登場させたい。

ガチャをひいて入手できるレアカードとして。

で、ボーカル、ギター、ベース、ドラム、キーボードまたはサイドギターのカードを揃えて、3〜5人のバンドをつくって、売り出す。

 

新人発掘は無料ガチャで、ほとんどN(ノーマル)ランクのミュージシャンしか出ない。ごくまれにR(レア)以上が出るっていう。

引き抜きは有料ガチャで、R以上しか出ない。運が良ければSR(スーパーレア)とかSSRスペシャルスーパーレア)が出る。

ただし初心者向けボーナスとして一番最初にSRがもらえるとか。

 

くりかえしになるけど、これは実在のミュージシャンが時空を超えて登場するゲームなので、ガチャの結果次第ではたとえばこういう、バンドマンっていう以外に共通項が皆無なバンドが結成されることがあり得るわけ。

 

ボーカル:SRルー・リード

ギター:N木根尚登

ベース:Rシド・ヴィシャス

キーボード:Rリチャード・クレイダーマン

ドラム:SSRリンゴ・スター

 

うむ、違和感とかそういうレベルを超えてむしろ見てみたいわこのバンド。

(でも昨今の三国志ゲームで感じた気持ち悪さってこういうこと)

 

オリジナル時代の限界と古典としてのロック

先日、マキタスポーツさんと対談を行い、その内容が有料メルマガで連載されている。

マキタスポーツの週刊自分自身 - 有料メールマガジン|BOOKSTAND(ブックスタンド)

 

マキタさんとの対談はかなりスウィングしまくっていろんな方向に議題が飛びまくり、われながらとても興味深い内容になっているんだけど、その中で「古典ロック」という概念を提唱した。

 

このご時世、テクノロジーの発達やその他の要因により、オリジナル楽曲を作って発表することが本当に誰にでもできるようになった。

かつてはそれなりの財力や運やコネや努力がないとできなかったわけで、そう考えると世の中に出回っているオリジナル曲の数は、半世紀前と比べて何万倍にもなっていると思う。

ある時代にリリースされたすべての楽曲って、かつてはお金と時間に余裕のあるマニアが一生をかければ収集できた範囲だった。でも今では、たぶん今年リリースされたすべての楽曲を把握できている人間すらどこにも存在しないと思う。

 

増え続けるオリジナル曲。当然一曲あたりの影響力は下がってくわけで、よく言われるように無数の局地的ヒットが存在する時代になっている。

それ自体は別に悪いことでもないとは思うんだけど、正直もうしんどさを感じてしまっていることも事実。

そしてこの流れはいつまでも続かないんじゃないかって。

いつかどこかの時点で破局を迎えるんじゃなかろうかという予感がしてる。

 

むしろ、落語とか歌舞伎みたいに、古典の作品をそれぞれの解釈でプレイしていく時代になるんじゃないかとか。そんなことも語っています。

落語における「芝浜」みたいな感じで、それなりの実力と格になったら「天国への階段」に挑戦する、みたいな。

 

ロックとかポピュラー音楽のビジネスモデルって、もうそういう古典芸能としての段階に入ってきてるんじゃないかって。半分ふざけて半分本気で思ってます。

 

ロックの業界がスマホゲームになるんじゃないかって言ってるのも、そういう文脈で。

 

若い人が寄席に行ったりすると珍しがられたりチヤホヤされるのと同じぐらい、ロックの歴史に興味を持つこともレアな趣味になってきてる。

 

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話題になった「文豪ストレイドッグス」っていうマンガでは、明治の文豪がそのままの名前でキャラ化されてる。

これって、文豪という存在が一度完全に枯れてしまって、若者の興味関心の分野から消えてたからこそ、逆にそういうのを持ってくるおもしろさで成り立ったものって感じがする。

 

60年代のロックレジェンドたちも、今や明治の文豪とそんなに変わらない距離感でしょう。

なのでもういっそ、グラフィックは萌えな感じのテイストにして、人気声優に声をあててもらってもいい。

さっきの三国志のヤバいやつみたいに、美少女キャラにしてしまってもいい。病みかわなカート・コバーンや妹キャラのリアム・ギャラガーツンデレアクセル・ローズや優等生キャラのデヴィッド・ボウイを見てみたい。